その日の夕食後、スレイとミクリオはユトの部屋を訪ねた。
扉を叩くと、すぐに返事があった。
「どうぞ」
部屋へ入ると、ユトは机に向かっていた。卓上には何冊もの帳面と、地域ごとに色分けされた地図が広げられている。椅子の横には、既に整理を終えたらしい紙束が、紐でまとめて積まれていた。
スレイは室内を見回してから、ユトへ向き直った。
「ユト。昔の記録を見せてもらえないか?」
ユトの筆が止まった。
「どの記録でしょうか」
「ユトが未来のことを思い出してから、何を調べて、どうやって今の形にしたのか知りたいんだ」
「私へ質問していただければ、回答可能な範囲で説明します」
「それだけでは不充分だ」
ミクリオが横から口を挟んだ。
「君自身が言ったんだろう。本人の現在の証言だけではなく、当時の記録や第三者の証言も確認するべきだと」
ユトは何も答えなかった。
自分の言葉を返されたことに反論できないらしい。
「ユトから話を聞くだけじゃなくて、当時の記録も読んでみたいんだ」
「目的を確認してもよいですか」
「ユトを知るためだよ」
「私個人を知ることが、現在の旅へ必要でしょうか」
「必要かどうかを判断するためにも、先に知らなければならない」
ミクリオが即座に答えた。
ユトは数秒間、二人の顔を見比べた。それから響筆を置き、机の横にある鍵付きの棚を開いた。
中には、背表紙へ細かな文字が書かれた冊子が何十冊も並んでいる。
「『未来事故記録』の原本を貸し出すことはできません」
「どうしてだ?」
「現在では罪を犯していない方の氏名、未発生の犯罪、死亡、憑魔化及び本人が開示を望んでいない可能性のある情報が含まれているためです」
未来で起きたからといって、今の本人が責任を負うわけではない。
それはユトが、何度も繰り返してきた原則だった。
「ですが、閲覧用の写しがあります」
ユトは棚の中から、一冊の帳面を取り出した。
原本ほどではないらしいが、それでも充分に厚い。
「既に回避され、現在の関係者への説明が完了した事象のうち、閲覧について同意を得た項目を収録しています」
「そんなものまで作ってあったのか」
「私が死亡、行方不明または長期間意思疎通不能となった場合にも、介入理由を検証できる必要があります」
「君は、何を作る時にも自分がいなくなった場合を考えているな」
「作成者が不在となっただけで使用不能になる記録には問題があります」
ユトは当然のように答え、帳面をスレイへ差し出した。
スレイは両手で受け取る。
表紙には、簡潔に『未来事故記録・閲覧用抄本』と書かれていた。
「借りてもいいのか?」
「はい。ただし、いくつか条件があります」
「やっぱりあるんだな」
ユトは机の上から一枚の紙を取った。
「記録された未来を、現在の人物の罪または義務として扱わないこと。未来において本人が選んだ行動を、現在の本人へ要求しないこと。既に介入が行われているため、記載された因果関係が現在も成立するとは限らないこと」
「分かっている」
「疑問が生じた場合も、推測だけで記録を書き換えないでください」
「書き込むつもりはないよ」
「付箋の貼付は可能です。ただし、原文を覆わない位置へお願いします」
「そこまで決まっているのか……」
「返却期限は三日後です」
「期限まであるのか」
「紛失及び閲覧状況の不明化を防ぐためです」
ミクリオはスレイが抱えた帳面の背表紙を確かめた。
「これだけか?」
「何について調べたいのでしょうか」
「まだ決めていない。だから、君の研究方針や判断の根拠が分かる資料も確認したい」
ユトは少し考えた。
「ライラさんが、『従士契約等に起因する局所的視界不良への対応手順書』を保管しています」
「視界不良?」
「従士契約によってスレイさんの右側視野へ異常が発生する可能性を想定し、作成したものです」
スレイは無意識に右目へ触れた。
現在、その視野は術式によって補助されている。失われた視界そのものが戻ったわけではない。それでも、何も対策がなかった場合に比べれば、遥かに安全に行動できていた。
「あの術が書いてある手順書か」
「はい。研究の経緯も一部収録されています」
「では、それもライラから借りよう」
ミクリオが言うと、ユトは一度頷いた。
「不可視性豪雨に関する調査記録が含まれています」
「不可視性豪雨?」
スレイとミクリオの声が重なった。
「はい」
「何だ、それは」
「特定個人にのみ発生する観測不能型視界阻害現象の仮称です」
「説明を聞いても分からないんだが」
「現時点でも原因は判明していません」
「誰に起きたんだ?」
「ザビーダさんです」
ミクリオは眉を寄せた。
「ザビーダが、本人にしか見えない雨で視界を悪くしたのか?」
「ザビーダさんは、降雨による視界不良を申告しました。ただし、周囲の者による降雨の観測及び物理的水分の付着は確認されていません」
「それは雨なのか?」
「未確認です」
「未確認なのに、不可視性豪雨と名づけたのか?」
「仮称が必要だったためです」
ユトは、それ以上説明する必要を感じていないようだった。
スレイは帳面を抱え直す。
「分かった。まずは読んでみるよ」
「お願いします」
「読み終えた後で、質問してもいいか?」
「回答可能な範囲であれば」
部屋を出ると、ミクリオは閉じた扉を振り返った。
「今の説明で、不可視性豪雨について何か分かったか?」
「ザビーダだけに見えた雨らしい」
「それは説明を繰り返しただけだ」
「分からないから、記録を読むんだろ?」
「それはそうだが……」
翌日、二人はライラから手順書を借りた。
まだスレイが導師になる前に、ユトから預けられたものだった。
ライラは冊子を差し出しながら、少し複雑そうに微笑んだ。
「大切に保管していたものです。不可視性豪雨については、私もいずれユトさんへ確認しようと思っておりました」
「ライラも知らないのか?」
「記録は読みました。研究方針にも納得しています。ですが、不可視性豪雨が何であるのかは、今も分かりませんわ」
スレイとミクリオは顔を見合わせた。
未来に起きなかった事故を記した帳面。
存在したかどうかも分からない雨を調べた手順書。
二冊を宿へ持ち帰り、同じ卓上へ並べる。
その時はまだ、別々の記録に書かれた二つの出来事が、同じ日のものであるとは気づいていなかった。
***
宿の卓上には、二冊の記録が開かれていた。
一冊は、ライラが保管していた『従士契約等に起因する局所的視界不良への対応手順書』。
もう一冊は、ユトが十六年前に作成した『未来事故記録』の写しだった。
スレイは未来事故記録の頁をめくっていた。
ミクリオはその向かいで、不可視性豪雨の調査記録へ目を通している。
「デゼル……」
スレイの指が、一つの項目で止まった。
『サイモンとの戦闘によりデゼル死亡。
直後、ザビーダが導師一行へ合流。
以後、風属性の陪神として行動。』
現在のデゼルは生きている。原因は風の傭兵団の壊滅とそれに伴う復讐。
だからこれは、もう起きなかった未来の記録だ。
「ミクリオ。こっちには、デゼルが死んだ場所と時期が書いてある」
「待ってくれ、スレイ」
返事には、いつもと違う硬さがあった。
ミクリオは調査記録を卓上へ置き、指で一節を示した。
「不可視性豪雨の発生時期は、『一連の戦闘終了後』。ただし、ザビーダが導師一行へ合流した直後とある」
「それって……」
「こちらの記録と一致する」
二人は冊子を並べた。
発生地点。
戦闘終了後という時期。
ザビーダが合流した直後という順序。
一方には、デゼルの死。
もう一方には、たった一人だけが訴えた雨。
別々に書かれていた二つの記録が、卓上で初めて一つの出来事になった。
「これ」
スレイは、不可視性豪雨の記録を読み上げた。
「デゼルが死んだ直後に、ザビーダが『雨で視界が悪いな』って言ってる」
「……ああ」
ミクリオは否定しなかった。
「それで、周りには雨が見えなかった。ザビーダも濡れてない。地面にも水はなかった」
「そう記録されている」
「じゃあ、雨じゃなくて」
言いかけて、スレイは口を閉じた。
ザビーダの顔が浮かんだ。
いつも軽い調子で笑い、誰かが失ったものについて、自分から多くを語ろうとはしない風の天族。
デゼルが死んだ直後。
皆の前で、視界が悪いと言った。
「……雨じゃなかったのかもしれないな」
スレイは、断定を避けるように言った。
「断定はできない」
ミクリオはいつもの調子で訂正した。
「記録上確認できるのは、ザビーダが雨だと申告したことだけだ。それ以上でも、それ以下でもない」
「うん」
「だが、少なくとも、デゼルの死が無関係だったと考える理由もない」
ミクリオの指が、『未来事故記録』の一文へ触れた。
「ユトは、因果関係が確認できていないから別々の記録へ分けたんだろう」
「分けたせいで、誰にも分からなくなってるけどな」
「発生状況は記録すべきだった」
ミクリオの声には、若干の苛立ちが混ざっていた。
「『デゼルの死亡直後に発生』と書いても、因果関係を断定したことにはならない」
「サイモンも同じこと言ったんじゃないかな」
「言っていると思う」
二人はしばらく、並べられた資料を見つめた。
存在しないかもしれない雨。
その雨を追うために作られた術が、今ではスレイの失われた視界を補っている。
「ユト、これを十一年も研究してたんだよな」
「そうなるな」
「雨じゃなかったかもしれないのに」
「研究成果が有用であることは認める」
ミクリオは冊子を閉じた。
「それはそれとして、不可視性豪雨の研究はなんなんだ」
スレイは思わず笑った。
「ザビーダには聞く?」
「聞いて、どうするんだ」
「本当に雨だったのかって」
「本人が雨だと申告したなら、記録には『雨だと申告した』と残すべきだ」
それはユトと同じ結論に聞こえた。
けれど、ミクリオは少しだけ声を柔らかくした。
「僕たちが別の可能性へ気づいたことまで、本人へ伝える必要はないだろう」
「うん」
スレイは二冊を閉じた。
自分たちの推測を、記録へ書き加えることもしなかった。
雨ではなかったと証明する必要はない。
ただ、あの未来でザビーダがデゼルを失い、それを雨と呼んだことだけは、二人とも忘れなかった。