ゴドジンへ近づくにつれて、スレイは何度も首を傾げた。
聞いていた話と、まるで違う。
村には乾いた風が吹き、石造りの家々のあいだからは、織機の音や木槌の響きが聞こえてくる。荷車には赤い薬瓶ではなく、染め布や乾燥させた薬草が積まれていた。
何より、村へ入って最初に耳へ届いたのは、子どもたちの声だった。
「三かける七は、二十一!」
揃った声が、開け放たれた窓から飛び出してくる。
スレイは道の真ん中で足を止めた。
窓の向こうには、大小の机が並んでいた。壁には文字の表と、この地方の地図。教壇に立った女教師が問題を出すたび、子どもたちが競うように手を挙げる。
「学校だ……」
「見れば分かるだろう」
追いついたミクリオが、呆れたように言った。
「いや、そうなんだけどさ」
スレイは窓から目を離さなかった。
一番後ろに、誰も座っていない机が一つある。使われていないわけではないらしい。天板には教本と短くなった鉛筆が置かれ、椅子には小さな上着が掛かっていた。
きっと、今日は休んだ子の席なのだ。
明日になれば、当たり前のように持ち主が戻ってくる。
「学校って、いいな」
その声音に、ミクリオが少しだけ目を細めた。
「勉強ならイズチでも散々したじゃないか。ジイジたちに教わって、僕とも一緒に本を読んだだろう」
「うん。勉強できなかったわけじゃないよ。でも――」
スレイは窓辺に並ぶ机を眺めた。
「毎日ここへ来れば、自分の席があるんだなって。誰か一人のためじゃなくて、どの子にも最初から用意されてる場所が」
導師でもない。
唯一の人間でもない。
何かを背負うと決める前の、ただ一人の子どもとして座れる席。
「そういうの、ちょっといいなって思ったんだ」
「では、旅を終えたあとに通ってみてはいかがですか?」
ライラが柔らかく笑った。
「スレイさんなら、きっと楽しい学校生活になりますわ」
「授業中に遺跡の話を始めて、先生から廊下に立たされるところまで見えるけど」
エドナが言う。
「えっ、まだ入学もしてないのに!?」
「入学前から問題児認定とは、さすが」
ロゼが肩をすくめた。
「案外、算術でつまずくかもしれんぞ」
「デゼルまで!?」
「遺跡の年代を計算するときだけ正答率が上がりそうだな」
ミクリオが追い打ちをかける。
「皆、ひどくないか!?」
「学校の前では静かにしてもらおう」
低い声に振り返ると、老人が立っていた。
飾り気のない服に、土埃のついた靴。杖こそ手にしていたが、その姿はどこから見ても、よく働く田舎の老人だった。
「今は授業中だ。騒ぐなら村の外で頼む」
「あっ……ごめんなさい」
スレイが慌てて声を落とす。
老人は窓際の子どもたちを一度見やり、それから一行へ向き直った。
「ようこそ、ゴドジンへ。私は村長のスランジだ」
スランジの案内で村を歩くうち、最初に感じた違和感は確信へ変わっていった。
この村は、貧しくない。
裕福とも言えないが、明日を売って今日を凌いでいる村の顔ではなかった。
共同工房では布が織られ、斜面には薬草畑が広がり、広場の掲示板には学校の献立や工房の求人が貼り出されている。旅人が歩いても、村人たちは会話をやめなかった。
「以前、この村は一つの薬に頼っていた」
スランジが淡々と語る。
「偽エリクシール、と呼ばれていたものだ」
アリーシャの表情が引き締まった。
「製造も販売も禁じられている薬品です。では、この村は既に製造を停止したのですか?」
「いや」
即答だった。
アリーシャが息を呑み、デゼルの風がわずかに鋭くなる。
「まだ作っているのか?」
「必要最低限だけな」
スランジは村の外れへ向かって歩きだした。
辿り着いたのは、廃坑にしか見えない岩壁だった。だが岩をくり抜いた通路の奥には、厚い扉が二枚並び、その手前には洗浄槽と着替えのための小部屋が設けられている。
扉には、大きな赤字で注意書きが貼られていた。
《赤精鉱由来滋養薬〈命継ぎ〉》
《第一種指定管理薬品》
《認定医の処方を伴わない投与を禁ずる》
《製造者、運搬者、販売者に患者選定権を与えない》
《入退室者、原料、製造量、搬出先、廃棄量を全件記録すること》
ロゼが、すうっと目を細めた。
「……ねえ。この妙に細かくて、逃げ道を一つずつ潰してくる書き方、どっかで見たことない?」
「奇遇だな。僕もだ」
ミクリオが注意書きを上から下まで読み直す。
「特に『製造者に患者選定権を与えない』あたりが、嫌になるほど見覚えがある」
「管理する側も信用していない規則ね」
エドナが扉を指先で叩いた。
「自分を善人だと思っている者ほど、最初に縛る。いつもの犯人の筆跡だわ」
「いや、まさか」
スレイは笑いかけたが、その笑みは途中で固まった。
スランジが怪訝そうに振り返る。
「何か気になるか?」
「この仕組みを考えた人って……」
「ユトという導師だ」
一瞬、廃坑の中から音が消えた。
「これもユト!?」
ロゼの叫びが、坑道の奥まで何度も反響した。
「やっぱりユトなのか!?」
スレイも思わず声を上げる。
「またか!」
「またですわねえ……」
ライラが頬へ手を添えた。
アリーシャは注意書きとスランジの顔を交互に見比べている。
「まさか、王都で整備が進んでいる薬品管理制度と文言が似ているのも……」
「同じ原案なのだろうな」
ミクリオが額を押さえた。
デゼルは深く息を吐き、低く唸る。
「あの野郎、どこまで先回りしてやがる」
「世界のどこを掘ってもユトが出てくるわね」
エドナが無表情に結論づけた。
「名物にすれば? 遺跡、憑魔、ユトの置き土産」
「土産にしては重すぎるだろ!」
困惑する一行を前に、スランジだけが話についていけずにいた。
「……お前たちは、ユトを知っているのか?」
「知ってる!」
スレイとロゼの声が綺麗に重なった。
スランジはしばらく二人を見つめ、それから小さく鼻を鳴らした。
「ならば、この薬の最初の名称も聞けば分かるかもしれんな」
「最初の名前?」
「《赤精鉱由来第一種指定管理滋養強壮薬液》」
全員が黙った。
「……ユトだ」
ミクリオが断言する。
「紛れもなくユトね」
エドナも頷く。
「本人は『識別に必要な情報を過不足なく含んでいる』と言っていた。私は、あれは名称ではなく分類だと言った」
「それで〈命継ぎ〉に?」
スレイが尋ねると、スランジは扉を見上げた。
「これは病を治す薬ではない。万能薬でもない。ただ、治療が届くまで、倒れかけた命を次の日へつなぐ。その役目以上の期待を持たせぬための名だ」
「いい名前だな」
スレイの言葉に、スランジは一度だけ頷いた。
「ユトも『効能を過大に示さず、恒常的使用に適さないことが伝わる。妥当だ』と評した」
「褒め方までユトだ……」
ロゼの声には、もはや驚く力も残っていなかった。
そのとき内側の扉が開き、白い作業着を着た若い女性が顔を出した。
「村長、そこから先は駄目です」
「案内だけでも入れんか」
「今月の健康診断でも、過去の累積曝露量が基準を超えています。規則どおり、製造区画への入室は禁止です」
「その規則を承認したのは私だぞ」
「だから守ってください」
扉は無情にも閉じられた。
ロゼが恐る恐る尋ねる。
「……その入室制限を考えたのも?」
「原案はユトだ」
「まだあるの!?」
今度はスレイまで一緒になって叫んでいた。
坑道を出たあと、スランジは学校を見下ろせる丘へ一行を案内した。
「ユトが作ったのは、薬の管理制度と、村が薬に頼らず暮らすための移行案だ。工房も、畑も、学校も、その案から始まった」
スレイは校庭を駆け回る子どもたちを見た。
「じゃあ、学校もユトが?」
「最初の資金と設計案はな。だが石を運び、壁を組み、教師を選び、毎朝扉を開けているのは村の者たちだ」
スランジは杖を地面へ突いた。
「仕組みを残したのはユトだ。これを続けると決めたのは、我々だ」
その声から、わずかに村長としての響きが消えた。
「そして私は、かつてマシドラと呼ばれていた」
アリーシャが目を見開く。
「マシドラ教皇……」
「国から逃げ、この村へ身を隠し、違法な薬を売ることで村を成り立たせた。その事実は変わらん」
スランジ――マシドラは、学校から聞こえる子どもたちの声に目を向けた。
「学校を建てたからといって、罪が消えるわけではない。薬で救われた者がいたからといって、害を受けた者がいなくなるわけでもない」
「うん」
スレイは静かに答えた。
「なら、どっちも聞かせてほしい」
「どっちも?」
「スランジ村長が、この村で何を変えたのか。それから、マシドラ教皇が何をしてきたのか」
スレイは真っ直ぐに老人を見る。
「片方だけを聞いたら、たぶん分からなくなるから」
アリーシャは何も言わなかった。
ただ、スレイの隣へ立った。裁くためではなく、聞くために。
やがて、学校の鐘が鳴った。
扉から子どもたちが一斉に飛び出してくる。笑い声と足音が、乾いた村の道いっぱいに広がった。
そのうちの一人がスレイを見つけ、物珍しそうに駆け寄ってくる。
「お兄ちゃん、学校の見学?」
「え? ああ、うん」
「じゃあ、明日は一緒に授業を受ける?」
スレイの顔が、ぱっと輝いた。
「受けてもいいのか!?」
「駄目だ」
即座にスランジが言う。
「ええっ!?」
「今日はもう授業が終わった。見学なら明日の朝からだ」
一転して笑顔になったスレイの肩を、ミクリオが掴んだ。
「先に言っておくが、遺跡の話で授業を乗っ取るなよ」
「まだ何もしてないだろ!」
「既に顔が企んでいるもの」
エドナが言い、ロゼが声を上げて笑う。
ライラは嬉しそうに目を細め、アリーシャも口元をほころばせた。
「旅の途中で道草とは、いい身分だな」
そう言いながらも、デゼルの声はどこか穏やかだった。
スレイは、開け放たれた教室の窓を見る。
一番後ろには、空いた机が一つ。
旅を終えたあとの自分を、今までスレイはうまく思い描けなかった。
けれど、そこへ座る自分なら、ほんの少しだけ想像できた。
「旅が終わったらさ」
「うん?」
ミクリオが振り返る。
「オレ、本当に学校へ通ってみたいな」
「教師としてか?」
スレイは少し考え、それから笑った。
「ううん。まずは、生徒として」
その背後でロゼが、村に掲げられた細かな規則を見上げる。
「で、この学校の安全規則もユトが書いたんじゃないでしょうね?」
スランジは答えなかった。
ただ、あまりにも分かりやすく視線を逸らした。
「……嘘だろ?」
ゴドジンの空へ、スレイたちの声がもう一度響き渡った。