火の試練神殿イグレインは、噂どおり暑かった。
火を灯し、襲いかかる憑魔を浄化しながら進む。道中の仕掛けは複雑だったが、古代遺跡を前にしたスレイが妙に元気だったため、さほど時間はかからなかった。
問題は、最奥の祭壇だった。
火の護法天族エクセオの前に、炎をまとった剣が突き立っている。
それを引き抜いたスレイは、こう告げられた。
『簡単なこと。その炎で自分か、火の契約天族の顔を焼けばよい』
スレイはその切っ先を自分へ向けた。
だが、刃が届く前に、白い手が剣身を掴んだ。
「ライラ!」
「離しません」
ライラは炎をものともせず、両手で剣を押し返した。
「でも、ライラを焼くわけにはいかないだろ!」
「だからといって、あなたを焼いてよい理由にはなりません!」
普段の柔らかな声音ではなかった。
「オレなら、オレが決められるから」
「それは、ご自分だけなら傷つけてよいという意味ではありません!」
ライラの声が、炎の音を押しのける。
「主神契約緊急時対応手順、第三項。契約者が自己犠牲を唯一の選択肢として即断した場合、契約を一時停止します」
次の瞬間、剣を覆っていた炎が消えた。
スレイが目を瞬かせる。
「……そんな条項、あったっけ」
「読んだだろう!」
ミクリオの怒声が飛んだ。
「僕と一緒に最後まで読んだだろう! 負荷の隠蔽禁止も、自分だけで決めないことも!」
「いや、覚えてはいたんだけど……」
「覚えていて、なぜ焼こうとする!」
「時間をかけて決めればよいという話ではないぞ」
アリーシャも険しい顔をしていた。
「スレイ。守るべき者の中に、自分自身も数えてくれ」
「選ぶのも早すぎ」
ロゼが呆れたように腰へ手を当てる。
「こういうときは、まず二択を出した奴から疑えって」
「天然って、自分を薪にするのね」
「笑えねえぞ」
エドナとデゼルにまで言われ、スレイは小さくなった。
その横で、ミクリオが祭壇の下にある金属板を見つけた。
《生命または身体への重大な侵害を含む二択について、代替案の検討を認めない場合、当該二択は無効とする》
「……ユトだ」
ミクリオが言った。
「ユトだね」
ロゼも頷いた。
エクセオはしばらく黙っていたが、やがて炎を揺らして笑った。
『前に来た者にも、同じことを言われた。試練とは選ばせることではなく、誤った問いを見抜かせるものだとな』
スレイは消えた剣を見下ろし、それからライラを見る。
「……ごめん」
「はい。あとで、もう一度お話ししましょう」
笑顔だった。
笑顔ではあるが、逃げられそうにはなかった。
スレイは剣を握り直し、今度は自分でもライラでもなく、二人へ選択を強いていた祭壇へ向けた。
「ライラ。一緒にやろう」
「ええ。焼くなら、こちらですわ」
二人の炎が重なり、偽りの二択だけを焼き尽くした。
こうして、火の試練は終わった。
***
地の試練神殿モルゴースでは、石床を動かし、転がる岩を避け、何度かスレイが穴を覗き込もうとしてエドナに傘で引き戻された。
だが、最奥の広間へ到着しても、試練を担うはずのミノタウロスは現れなかった。
代わりにあったのは、小さな慰霊碑だった。
幾つもの名前と、避難路を示す地図。周囲には憑魔の動きを記録する観測術式が張られている。
地の護法天族パワントが、静かに告げた。
『何事も事象の前には原因がある』
一行は慰霊碑を見た。
『目の前で起きたことだけを追うな。起きなかったことにも、そうならなかった原因がある』
慰霊碑の横には、また金属板があった。
《確認対象は複数の犠牲者を起源とする複合憑魔》
《追跡及び包囲は禁止》
《当該憑魔を“試練対象”と呼称しないこと》
《被害者の氏名、遺骨及び発生記録を回収し、再発防止を優先すること》
アリーシャが、刻まれた名前を一つずつ目で追う。
「倒すべき怪物としてではなく、被害を受けた人々として記録したのか」
『以前ここを訪れた者がな』
パワントは答えた。
『追い立てれば穢れが増すと見抜き、避難経路を整え、最後の一人が浄化されるまで見守った。ゆえに、今ここで暴れる者はいない』
スレイは、誰もいない広間を見回した。
「今までもあったな……」
「何がだ?」
ミクリオが尋ねる。
「何も起きなかった場所にも、起きなくした原因があった」
ゴドジンの学校。
毒の臭いが消えた工房。
誰も売られなくなった薬。
目の前にないものほど、それを消すために誰かが動いた痕跡は見えにくい。
ロゼが嫌そうに目を細める。
「つまり、原因を辿るとまたユト?」
「たぶん」
「それは原因というより犯人ね」
エドナが言った。
『目に映る敵だけを答えとしなかった。それでよい』
パワントの力が大地から立ち上り、スレイたちを包む。
戦いのないまま、地の試練も終わった。
***
水の試練神殿ルーフェイは、あちこちから見られていた。
壁に刻まれた目。
柱に埋め込まれた目。
振り返った先にも目。
「これ考えた奴、性格悪くない?」
ロゼが壁へ背をつけながら言う。
「視線の動きには規則がある。文句を言う前に観察しろ」
ミクリオはそう答えたが、三度目に入口へ戻された頃には、彼も無言になっていた。
仕掛けを抜け、アシュラを浄化し、その記憶を水面に見届けたあと。
最奥には一本の剣と、壁一面を埋める文章が残されていた。
《危険性が確認されている剣について、その使用を一律に禁止すること、または使用を義務づけることはいずれも適切ではない。使用者の判断能力、使用目的、脅威の切迫性、代替手段の有無、非使用時に予見される被害、使用時に生じる影響、使用中止及び意思撤回の可能性、使用後の回収、封印、治療並びに第三者へ転嫁される負担を――》
文章は、まだ下へ続いていた。
ミクリオはしばらく無言で読み進めた。
そして、最後まで辿り着く前に水の護法天族アウトルを振り返った。
「で、剣を使用するかどうかの異様に長い文章は何なんだ」
『以前ここへ来た者の補足だ』
「ユトか」
『名乗りはそうだった』
「やっぱりか……」
アウトルによれば、ユトは元の教えである《危険な剣を用いるな》という一文に異議を唱えたらしい。
使わずに誰かが死んだ場合、その責任を誰が負うのか。
使えと命じて害が生じた場合、それを使用者一人の罪にするのか。
危険性も代替手段も告げず、後から正解だけを示すのは試練と呼べるのか。
一通り聞いたミクリオは額を押さえた。
「要するに、自分で考えろ。ただし、考えるための情報を隠すな、ということか」
「ミクリオ、短くできるじゃん」
「僕が書いたんじゃない!」
「その表現では、誰が情報を提示する責任を負うのか不明確ですわね」
ライラが困ったように微笑む。
全員が壁を見た。
「……ユトならそう言うな」
スレイは祭壇の剣へ手を伸ばし、しかし抜かずに鞘ごと持ち上げた。
「今は使わない。もう戦いは終わったし、ここで封印できるから」
『今は、か』
「うん。今日使わないと決めたことを、明日どんな状況でも使わないって誓いにはしたくない」
アウトルは満足そうに水面を揺らした。
『ならば、その答えを持って進むがよい』
水の力がスレイへ宿る。
その間も、ミクリオは壁の文章を睨んでいた。
***
風の試練神殿ギネヴィアは、登る以前に入れなかった。
塔の入口には巨大な石扉が立ちはだかっている。取っ手も鍵穴もなく、スレイとロゼが押しても、ミクリオが術式を調べても、わずかにも動かなかった。
「本当にここが入口なんだよな?」
スレイが見上げる横で、デゼルが扉脇の壁を指した。
「何かあるぞ」
掌ほどの丸い石板が埋め込まれていた。
その下には、小さな文字が刻まれている。
《来訪者は、石板を一度押して応答を待つこと》
《本装置は、風の護法天族ワーデルへ来訪者の存在を通知する》
《用件の判定、通訳、入場許可の代行及び扉の自動開放は行わない》
《繰り返し押しても応答は早まらない》
二度目を押しかけていたロゼの指が止まった。
「……要するに、呼び鈴?」
「試練神殿に?」
スレイが首を傾げる。
「天族用の、だな」
デゼルが答えた。
ミクリオは文章を最後まで読み、深く息を吐いた。
「水の神殿より短いだけ、まだましか」
「比較するものなの?」
「僕に聞くな」
スレイが石板を一度押した。
音は鳴らなかった。
代わりに一筋の風が石板から生まれ、扉の隙間へ吸い込まれていく。そのまま塔の内部を駆け上がっていった。
しばらく待つ。
何も起きない。
ロゼがもう一度石板へ手を伸ばしたところで、扉の向こうから風が降りてくる気配がした。
『来訪者よ。名と用件は?』
声が、石扉越しに響いた。
スレイが扉へ向き直る。
「導師スレイです。風の試練を受けに来ました」
『一人か』
「仲間も一緒です」
『ならば、全員が答えよ。代理応答は認められない』
一行は顔を見合わせた。
「全員?」
ロゼが尋ねる。
『直接言葉を交わしていない者を、領域へ入れることはできない』
「徹底してるわね」
エドナが言った。
一人ずつ名乗り、試練へ同行する意思を告げていく。
最後にアリーシャが答えると、扉の向こうで何かが外れる音がした。
石扉が、ゆっくりと内側へ開く。
その先には、風の護法天族ワーデルが立っていた。
『全員との会話成立を確認した。入場を許可する』
「今の、扉が判断してたわけじゃないんだな」
スレイが尋ねる。
『扉に意思はない。通知を受けたからここへ来て、自分の判断で開けた』
「本当に、ただの呼び鈴だった」
ロゼが丸い石板を見る。
『以前ここを訪れた者も、そう呼んでいた』
「ユトか」
ミクリオが即座に言った。
『名乗りはそうだった』
やはり、と全員の顔に書いてあった。
ワーデルは一人ずつに小さな風の印を与えた。印を受けると、何もなかった塔の内壁に、上へ続く階段が姿を現す。
『この風印を持たぬ者に、階段は道を示さない』
「どうしてこんな仕様にしたんだ?」
スレイの問いに、ワーデルはしばらく黙った。
『かつて、風の試練には生贄が必要だという話が広まった』
塔を巡る風が、低く唸る。
『確認することなく、仲間を塔へ残そうとする者もいた。天族が命を求めているのだと、誰かから聞いたという理由でな』
「生贄を必要としているのか?」
『必要としていない』
返答に迷いはなかった。
『ユトも、最初に同じことを尋ねた。必要としていないと答えると、彼は入口まで戻り、この連絡設備と扉を作った』
「わざわざ塔を下りて?」
『本人へ確認できない者が、本人のためだと言って他者の命を差し出すことを防ぐには、入口で止めるのが最も確実だと言っていた』
「ユトらしいな……」
スレイは呟いた。
最上階では、激しい風が石台までの道を覆っていた。
ここまで登れれば合格らしい。
身投げを禁止するために柵が建てられている。
どうせこれもユトだ。
『これからの道程に何が訪れるか』
『いかなる可能性も想像しておくことだ』
ワーデルの言葉だ。
何故か一同はやたら長い条文を持ってくる男を思い出した。
***
四つの試練を終えた夜。
焚き火を囲みながら、ロゼが指を折った。
「火で二択無効。地で追跡禁止。水で異様に長い剣の注意書き。風で生贄禁止」
「最後は必要性の確認と安全設備だ」
アリーシャが訂正する。
「細かいなあ」
「正確性は重要だ」
「アリーシャまでユトみたいになってるぞ」
ミクリオが深く息を吐いた。
「試練神殿は、ユトの注意書きを集めて回る場所じゃないんだが」
「四つ揃ったわね」
エドナが言う。
「何か景品でも出るのかしら」
「既に四属性の力を授かっている」
「景品まで出やがったな」
デゼルが低く笑った。
スレイは自分の中に宿った四つの力を感じながら、焚き火を見つめた。
「ユトは、試練の答えを先に決めたんじゃないんだな」
皆がスレイを見る。
「誰かが死なないと選べない二択とか、原因を無視して敵だけを追うこととか、何も知らないまま剣を選ばせることとか、生贄が必要だって勝手に決めることとか」
スレイは炎の向こうにいる仲間たちを順に見た。
「オレたちが、自分で考えて選べるところまで戻すために」
「ええ」
ライラが微笑む。
「ですから次は、考える前にご自分を焼こうとなさらないでくださいね」
スレイの笑顔が固まった。
「まだ怒ってる?」
「もちろんですわ」
「反省文だな」
ミクリオが即答する。
「ユト式で書けば?」
ロゼが笑う。
「異様に長いやつ!?」
焚き火の向こうで、皆の笑い声が重なった。