アルトリウスの玉座へ向かおうとしていた前夜。
「ヘルダルフを鎮めた後、彼と結びついているあの方を切り離します」
ライラが地図の中央を指す。
「けれど、あの方に蓄積された穢れは、すぐに浄化できる量ではありません」
「何か方法はないのか?」
「ひとつ方法があるとしたら……スレイさんにはあの方と接続したまま、長い時間をかけて浄化を続けていただくことになります」
ロゼが眉をひそめた。
「長いって、どのくらい?」
「分かりません。数十年かもしれませんし……百年以上になる可能性もあります」
火が爆ぜる音だけが響いた。
ミクリオの手が、杖を強く握る。
スレイは少し俯いた後、顔を上げた。
「うん。それでも、やるよ」
その返答を予測していたように、ユトが手を挙げた。
「一点、訂正があります」
全員の視線が集まる。
「スレイさん一人が眠ることは、まだ確定事項ではありません」
「ユト?」
ユトは足元の鞄を開いた。
分厚い書類の束が三つ。その下から筒状に丸めた図面と、綴じられた冊子が次々に出てくる。
ロゼが露骨に嫌な顔をした。
「最終決戦の前日に、その量の資料を読ませる気?」
「口頭では簡潔に説明します」
「前回のこと、覚えてたんだ」
「改善可能な問題でしたので」
ユトは響筆を手に取った。
宙へ四つの円を描く。淡い光を帯びた円は、中央に描かれた大きな円へ、それぞれ一本ずつの線で結ばれた。
「浄化経路を四本に分岐させます」
四つの円を、順番に示す。
「スレイさん、私、ロゼさん、アリーシャさんの四人です」
誰も反応しなかった。
聞き間違いではないと分かるまで、少し時間が必要だった。
最初に口を開いたのはロゼだった。
「……人数で割っただけじゃん」
「概算の出発点としては、そうです」
「概算で人を何十年も寝かせるな!」
「実際には均等分担ではありません。スレイさんを主経路とし、残りの三人が補助経路として浄化負荷を引き受けます」
ユトは、スレイの円から伸びる線だけを太くした。
「私とユイの経路は独立した術式として接続します。ロゼさんとアリーシャさんには、従士契約の経路を浄化力が循環する形へ再構成していただきます。エドナさん達には外部から四本の経路を安定させていただきます」
ライラが光の図を見つめる。
「理論上、不可能とは言い切れません。ですが、従士の負担がスレイさんへ還流すれば、かえって浄化が遅れるおそれがありますわ」
「その場合は実行しません。ヘルダルフとマオテラスを分離した直後に、各経路の負荷を測定します。独立循環が成立しなければ、接続前に中止します」
「成功した場合は?」
ミクリオが尋ねた。
「現時点の推定では、二十年から三十年です。負荷の偏りやマオテラスの抵抗を保守的に計算した場合、三十五年程度まで延長する可能性があります」
エドナが傘を肩へ預ける。
「四人に増やしても、きっちり四分の一にはならないのね」
「浄化速度は人数に比例しません。主経路の処理量、接続の安定性、四人の霊応力の差が律速要因になります」
「簡潔にって言ったわよ」
「四人でも、四倍の速さにはならないということです」
「最初からそう言いなさい」
スレイは光の図を見つめていた。
やがて、首を横に振る。
「駄目だ」
ユトがスレイを見る。
「理由を確認します」
「これはオレの役目だ。ロゼにもアリーシャにも、それぞれの生活がある。ユトだってそうだ。オレ一人でできるなら、みんなの時間まで使う必要はない」
「では、貴方の時間だけなら使ってよい理由を説明してください」
スレイが言葉を止めた。
「それは……オレが導師だからだ」
「導師であることは、貴方の人生を無制限に消費してよいという許可ではありません」
ユトの声は静かだった。
責める調子ではない。ただ、見落とされた条件を指摘するような声音だった。
「マオテラスを穢したのは貴方ではありません。災厄を生んだ責任も、世界を救う責任も、貴方一人の所有物ではありません」
「でも、みんなを巻き込むことになる」
「選択肢を提示することと、巻き込むことは異なります」
「何十年も眠るんだぞ」
「はい。ですから、貴方一人に決めさせるべきではありません」
スレイが言い返せずに黙る。
ユトは光の図を消さなかった。
四つの円は、どれも中央へ繋がったままだった。
「ユト」
ミクリオが呼ぶ。
「君は、ユイに確認したのか?」
ユトの指が、胸元に触れた。
「はい」
返答までに、ほんの少し間があった。
「私の身体は、私だけのものではありません。この計画に参加すれば、ユイも同じ期間、マオテラスの穢れへ晒されます。ユイの意思を確認せず、私の名前を参加者欄へ記載することはできません」
「ユイは何て?」
スレイが尋ねる。
「『ひとりに押しつけないで』と」
ユトは続ける。
「その後、『資料八十七頁は長すぎ』とも言っています」
ロゼが目を細めた。
「それ、怒られてない?」
「資料作成と計画への仮同意は、別の問題です」
「怒られてるんだね」
「現在も協議中です」
アリーシャが膝の上で手を組む。
「ユト様。仮に技術上は可能だとしても、私は長期間、国を離れることになる。今後のハイランドを考えれば、簡単に選べることではない」
「承知しています」
ユトは別の資料を取り出し、アリーシャの前へ置いた。
表紙には《長期不在時における政務及び権限の段階的移管案》と書かれている。
アリーシャが固まった。
ロゼが横から表紙を覗き込む。
「もう作ってある……」
「参加を強制するためではありません」
ユトはロゼの前にも別の冊子を置いた。
《セキレイの羽及び風の傭兵団 指揮権移管・資産管理・構成員保護案》
ロゼの笑顔が引きつる。
「うちの帳簿、どこまで見た?」
「閲覧を許可された範囲です。不足箇所は推定と明記しています」
「事務上の事情によって、選択肢そのものを失わせないためです」
ユトは二人を等しく見た。
「責任があるから参加できない、という結論と、責任を引き継ぐ方法が存在しないため参加できない、という結論は異なります。後者であれば、事前準備によって解消できる可能性があります」
アリーシャが資料の厚みを確かめる。
「この短期間で、いつ作ったのだ?」
「移動中です」
「いつ寝てたの……」
「必要量は確保しています」
エドナが小さく呟く。
「これから二十年寝るつもりだからって、先に睡眠を削るのは違うでしょ」
サイモンが、楽しそうに光の円を眺めていた。
「でも、一番大切な説明がまだだろう?」
ユトがサイモンを見る。
「何を指していますか?」
「二十年後、三十年後。目を覚ました時には、今ここにいない人たちの多くが年老いている。死んでいる人もいるかもしれない」
礼拝所の中が静かになった。
アリーシャは、自分へ付き従ってきた騎士たちを思い浮かべた。
ロゼは、セキレイの羽と風の傭兵団の仲間たちを。
スレイは、旅の中で出会った人々を。
ユトは否定しなかった。
「はい」
光の円が、わずかに揺れる。
「二十年から三十年は、短い時間ではありません。子供が親になり、国の制度が変わり、知人が亡くなるには十分な長さです。この計画で損失を減らすことはできますが、失われる時間をなくすことはできません」
ロゼが息を吐く。
「本当に、計画を売り込むのが下手だね」
「同意に必要な情報を省略すべきではありません」
「それで、あたしたちに今ここで決めろって?」
「いいえ」
ユトは即答した。
「本日の意思表示は、すべて仮回答として扱います」
「仮?」
「最終決戦前の緊張及び高揚状態で行われた判断には、継続性がない可能性があります。決戦後、全員の生存、負傷、霊応力、精神状態及び接続経路を確認した上で、改めて個別に説明し、意思を確認します」
ユトは四人の円を、一つずつ響筆で示した。
「確認は別々に行います。他の参加候補者が同席した状態では、同調圧力が生じる可能性があるためです。撤回に理由は必要ありません。実行直前でも撤回できます。誰かが撤回した場合、残る者が説得してはいけません」
スレイが瞬きをする。
「断る場合まで、先に決めてるのか?」
「決めておくべきです。全員が同意することを前提にした手続きは、同意の確認とは呼べません」
デゼルが壁際で腕を組む。
「一人抜けたらどうなる」
「三人用に再計算します。安全基準を満たさなければ実行しません」
「二人なら?」
「同様です」
「全員が断ったら?」
「四人での計画は中止します。その場合、スレイさん一人の案を自動的に採用することもありません。スレイさん本人へ、改めて単独実行の意思を確認します」
「そこまで必要か?」
「必要です。三人が断った事実によって、スレイさんが断りにくくなるためです」
スレイが困ったように笑う。
「そこまで考えられるのに、どうして相談する前に資料を八十七頁も作るんだ?」
ユトは少し考えた。
「選択肢として成立するか確認する前に相談しても、皆さんの不安を増やすだけだと判断しました」
「成立した後なら、資料の量で不安にさせてもいいんだ」
「今後の検討事項とします」
ザビーダが、宙に浮かぶ四本の線を見た。
「で、坊主。肝心の成功率は?」
「算出できません。前例がないためです」
「四人とも、確実に目覚めるのか?」
「保証できません」
ユトは一切ぼかさなかった。
「想定される失敗には、浄化期間の延長、経路の切断、負荷の偏在、途中覚醒、肉体の損傷、穢れによる侵食があります。最悪の場合、死亡、または永続的に覚醒しない可能性も否定できません」
「一人でやった場合は?」
ミクリオが問う。
「同じく保証できません」
スレイを示す円。その横に並ぶ三つの円。
ミクリオは光の円へ歩み寄った。
「なら、僕が四人とも起こす」
「推定でも二十年から三十年かかります」
「それくらいなら短い」
ミクリオはすぐに言い直した。
「僕たち天族にとっては、だ。君たち四人が失う時間を、短いなんて言うつもりはない」
スレイを見る。
「でも、僕は何百年でも待つつもりだった。待つ相手が四人に増えたくらいで、やることは変わらない」
「管理対象は四倍になります」
ユトが指摘する。
「だったら四倍、準備する」
ライラが微笑む。
「ミクリオさん一人に任せるつもりはありませんわ。私も、必ず皆さんの経路を守ります」
「仕方ないわね」
エドナが傘を回す。
「三十年もあれば、起きた時に見せる遺跡くらい、いくつか見つけておいてあげる」
「俺は周囲の穢れを監視する」
デゼルが言う。
ザビーダは肩をすくめた。
「眠りすぎたら、耳元で銃を撃ってやるよ」
「覚醒方法としては推奨できません」
「たとえ話だ、坊主」
アリーシャは資料を閉じ、ユトへ返さず膝の上に置いた。
「今、正式な返答はできない。だが、候補から私を外さないでほしい」
「仮回答として記録します」
ロゼも自分の資料を持ち上げた。
「あたしも。正直、三十年後とか、想像しただけで怖いけどね」
「こちらも仮回答として記録します」
最後に、全員がスレイを見る。
スレイはしばらく黙っていた。
「オレは、みんなに時間を失ってほしくない」
「私たちも同じです」
ユトが答えた。
「貴方に時間を失ってほしくありません」
スレイは目を閉じた。
それから、諦めたような、少しだけ安心したような息を吐く。
「分かった。オレ一人で決めない。決戦が終わったら、もう一度みんなで話そう」
「承知しました」
ユトは響筆を動かした。
宙に記録の文字が並ぶ。
《マオテラス浄化における四経路並列接続案。参加候補者、スレイ、ユト及びユイ、ロゼ、アリーシャ。事前協議を実施。全員、仮回答。正式な同意は未取得》
エドナが文字を読み上げる。
「要するに、四人で仲良くお昼寝するかもしれないってことね」
「同じ寝台を使用する必要はありません」
「そこは誰も心配してないわよ」
「同一空間で眠る必要もありません。術式上の距離については――」
「ユト、簡潔に」
ロゼが遮った。
ユトは口を閉じた。
「承知しました」
スレイが堪えきれずに笑う。
その笑いにつられるように、張り詰めていた空気が少しだけ緩んだ。
ユトは最後に、計画書の一頁目を開いた。
「なお、実行条件の第一項は決定済みです」
「何だ?」
スレイが尋ねる。
「スレイさん、ロゼさん、アリーシャさん、私の四人が、最終決戦を生存することです」
ユトは皆を見回した。
「まずは全員で帰還してください。選ぶのは、その後です」
スレイは頷いた。
「ああ。それが最初の作戦だな」
最終決戦の計画書に、初めて《帰還後、再協議》という項目が加えられた。
誰か一人が消えることを、当然の結末にしないための項目だった。