個別の意思確認が一巡した後、双方の同意を得て、スレイとミクリオの協議の場が設けられた。
机の上へ、ミクリオが数枚の紙を置く。
表紙には《誓約案・改訂稿》とあった。
スレイが警戒するように紙を見る。
「前の案は反対だからな」
「ああ。だから直した」
ユトが一頁目を開いた。
「前案の『スレイさんが死ぬ時、ミクリオさんも死ぬ』は、撤回するという認識でよろしいですか?」
「文言は撤回する。僕が望んでいることまで撤回したわけじゃない」
ミクリオは、スレイから目を逸らさなかった。
「新しい案は――『僕は、スレイと共に老い、スレイと共に死ぬ』だ」
スレイの表情が強張った。
「駄目だ」
ユトが何かを確認するより早かった。
「そんな誓約、認められない」
「理由を聞こう」
「聞かなくても分かるだろ。ミクリオは天族なんだ。オレよりずっと長く生きられる。それを、オレと同じところで終わらせるなんて」
「だから誓約になる」
「そういうことを言ってるんじゃない!」
スレイは机へ両手をついた。
「ミクリオは、この浄化のために一緒に眠るんだぞ。オレたち人間に合わせて二十年も時間を失って、その上、目を覚ました後の寿命までオレに合わせるのか?」
「僕も浄化担当者だ。君に付き合わされるわけじゃない」
「でも、オレがいなければ必要なかった!」
「君がいなければという話をするなら、そもそも僕がここにいる理由の多くがなくなる」
スレイが言葉に詰まる。
ユトは二人の間へ口を挟まず、改訂稿を読み進めていた。
「確認します」
やがて、文中の一箇所を響筆で示す。
「この案は、スレイさんの死亡をミクリオさんの死亡条件として設定するのではなく、ミクリオさんが天族として有する寿命を、スレイさんの時間へ同期させるものですか?」
「ああ。スレイが死んだ瞬間に、僕も後を追う、というだけの誓約じゃない」
ミクリオは答えた。
「スレイが年を重ねるなら、僕も重ねる。スレイが一日を失うなら、僕も同じ一日を失う。最初から最後まで、同じ時間を生きる」
「事故、他殺、憑魔化、永続的な覚醒不能については?」
「まだ決めていない。少なくとも、前の案のように、スレイが先に死んだ場合に残る三人への救助義務まで放棄する内容にはしない」
「改善されています」
「改善されてても駄目だ!」
スレイの声が重なる。
ミクリオが眉を寄せた。
「君はさっきから、駄目だとしか言っていない」
「当たり前だろ。ミクリオには、オレが死んだ後も生きる時間がある。まだ見ていない遺跡だって、この先に生まれる国だって、人間と天族がどうなっていくかだって――」
「それを見たいと、僕が言ったか?」
スレイが止まった。
「君は、僕が長く生きられるから、長く生きるべきだと言っている」
ミクリオの声は静かだった。
「僕の時間を奪いたくないと言いながら、その何千年をどう生きるかは、君が決めようとしている」
「そんなつもりじゃ――」
「分かっている。君は僕を自由にしたいんだろう」
ミクリオの指が、誓約案の上へ置かれる。
「だから、僕が自由に選んだ答えを聞いてくれ」
スレイは何も言わなかった。
「君のいない世界に何千年も取り残されたくない」
ミクリオは、はっきりと言った。
「僕の望みでもある」
スレイの唇が開く。
だが、反対の言葉は出てこなかった。
ミクリオはスレイのために死のうとしている。
そう決めつけてしまえば、止めるのは簡単だった。
けれど今、ミクリオが語っているのは死に方ではない。
どれだけ生きたいか。
誰と、どの時間を、自分の一生として選びたいかという話だった。
「僕は死に急いでいるんじゃない」
ミクリオが続ける。
「君と生きたいんだ。君が若い間だけでも、元気で旅ができる間だけでもない。老いて、できないことが増えて、それでも今日あったことを君と話して。その先にある終わりまで、自分の人生として選びたい」
「でも……」
ようやく出たスレイの声は、先ほどより弱かった。
「オレが、それを選ばせるわけにはいかない」
「君に選ばせるつもりはない。僕が選ぶ」
「オレの死に関わる誓約だぞ」
「ああ。だから君の同意なしには結ばない」
ミクリオは一歩も譲らなかった。
「けれど、君も僕の人生を勝手に選ぶな。僕の望みを、君への自己犠牲という一言で片づけないでくれ」
長い沈黙が落ちた。
スレイは俯き、机の上の改訂稿を見る。
「……ずるいな、ミクリオ」
「何がだ」
「そんなふうに言われたら、反対できないだろ」
「反対はしてもいい。僕は君に従わせたいわけじゃない」
「でも、もう最初と同じ理由では反対できない」
スレイは椅子へ座り直した。
それから、改訂稿へ手を伸ばす。
「読ませてくれ」
ミクリオの肩から、わずかに力が抜けた。
「そのために持ってきた」
「賛成したわけじゃないからな」
「分かっている」
「事故で片方が死んだ時まで、もう片方も死ぬ内容には反対だ」
「そこは僕も検討中だ」
二人は同じ紙を覗き込みながら、今度は一つずつ文言を確かめ始めた。
ユトが記録欄へ響筆を走らせる。
《ミクリオ案――スレイと共に老い、スレイと共に死ぬ》
《目的――スレイの死亡に追随する殉死ではなく、天族としての残余寿命を放棄し、双方が一つの時間を生き切ること》
《スレイ、当初反対。説明後、検討に同意》
《誓約内容、発動条件及び例外規定は協議中。正式な誓約は未発効》
スレイは最後まで読んでから、響筆を借りた。
《同意はまだしていない》
記録の末尾へ、そう書き加える。
ミクリオも響筆を受け取った。
その下へ、もう一行を足す。
《提案も撤回していない》
二つの文字が並んだ。
誓約は、まだ結ばれていない。
けれどスレイは初めて、《共に》という言葉を線で消さなかった。
けれど、《共に》を消さなかったことと、それを選んだことは違う。
「本日の協議は、ここで終了します」
ユトが計画書を閉じた。
スレイが顔を上げる。
「まだ読んでる途中だけど」
「途中だからです。結論は、最低七日間保留してください」
「七日も?」
「ミクリオさんの告白を聞いた直後に決めれば、その願いを叶えなければならないという心理的圧力が、貴方の判断へ混入します」
ミクリオが眉を寄せる。
「僕はスレイを脅したつもりはない」
「意図の有無ではなく、作用を確認しています」
ユトは同じ改訂稿を二部作り、二人へ一部ずつ渡した。
「最初の三日間、この件について二人だけで話し合うことを禁止します。四日目に個別確認を行い、その後、双方が希望した場合のみ協議を再開します」
「そこまで離す必要があるのか?」
スレイが尋ねる。
「あります。ミクリオさんは、何千年も取り残されたくないと伝えました。スレイさんがその苦痛を解消するために同意すれば、誓約の形を借りた救助になります」
「僕の望みでもあると言った」
「はい。だからこそ、スレイさん自身の望みと分離して確認します」
ミクリオはしばらく黙っていたが、やがて頷いた。
「分かった」
「ミクリオ?」
「君が僕の言葉に押されて決めるのは、僕も望んでいない」
スレイは手元の改訂稿を見る。
表紙には、ミクリオの筆跡で書かれていた。
《スレイと共に老い、スレイと共に死ぬ》
「……七日後なら、決めていいんだな」
「七日後に、決められる状態か確認します」
「決めさせる気ある?」
「あります。急がせる気がないだけです」
その日の会議は、それで終わった。
***
最初の三日間、スレイは何度も改訂稿を開いた。
初めは、失われるものばかりを数えた。
ミクリオが本来生きられたはずの何百年、何千年。
まだ生まれてもいない国。
まだ発見されていない遺跡。
人間と天族が、本当に共に暮らせるようになった後の世界。
それらを、ミクリオは見届けられなくなる。
だが、そこでスレイは気づいた。
その未来を見たいと、ミクリオ自身は一度も言っていない。
長く生きられる者は、長く生きなければならない。
そう決めていたのは、自分だった。
ミクリオの寿命は、スレイが守って返すべき借り物ではない。
けれど、それだけでは同意する理由にならなかった。
ミクリオの人生をミクリオが決めることと、スレイがその決定を受け入れられることは別の問題だった。
スレイは今度、自分が失うものを考えた。
ミクリオが自分と同じように老いる。
自分が死ぬ頃、ミクリオも死ぬ。
その事実を知ったまま、生きる。
嬉しい日にも、喧嘩した日にも、自分の残り時間がミクリオの残り時間でもあると知っている。
それはきっと、軽くない。
けれど、ミクリオだけが変わらない未来も、スレイにはうまく想像できなかった。
二十年の眠りから目覚めた後、二人で遺跡を巡る。
まだ見ていない壁画を探す。
地図を増やす。
歳を取って長い階段がつらくなれば、どちらが先に息を切らしたかで言い合う。
歩けなくなったら、集めた記録を整理する。
若い研究者が読み違えた碑文へ、二人で同時に口を挟む。
そこまで考えて初めて、スレイは気づいた。
どの未来にも、ミクリオがいた。
若い姿のまま、自分の死を見送るミクリオではない。
隣で同じように時間を重ねるミクリオがいた。
***
四日目、ユトはスレイ一人だけを呼んだ。
「確認します。ミクリオさんの孤独を防ぐために、同意しようとしていますか?」
「まだ決めてない」
「では、現時点の回答を」
スレイは少し考えた。
「それだけを理由に、同意しちゃ駄目だとは思ってる」
「はい」
「でも、理由から完全に外すこともできない。ミクリオが嫌だって言ったことを、聞かなかったことにはしたくない」
「聞くことと、引き受けることは違います」
「分かってる」
ユトは記録用紙へ何かを書き込んだ。
「誓約案が存在しなかったと仮定してください。貴方は、浄化後にどのような未来を想像していましたか?」
「遺跡を巡る」
「誰と?」
「ミクリオと」
即答だった。
「いつまでですか?」
スレイが止まる。
今までなら、世界中の遺跡を見終わるまで、と答えていただろう。
けれど、世界中の遺跡を見終える日など来ない。
新しいものは発見され続ける。
失われた文字を読める者も、過去を知ろうとする者も、途切れない。
「……歩けなくなるまで」
スレイは答えた。
それから、言い直す。
「歩けなくなっても、一緒に調べると思う」
「つまり、ミクリオさんは旅の同行者であるだけでなく、貴方が老いた後の将来にも存在していた」
「うん」
「伴侶や子を持つ未来については?」
「それとは別だろ。誰かと出会うかもしれないし、出会わないかもしれない。でも、どっちでもミクリオがいなくなる理由にはならない」
ユトが顔を上げた。
「重要な回答です。この誓約は、同居、同行、交友、家族関係、その他の契約を強制してはなりません」
「一緒に生きる誓約なのに?」
「同じ時間を生きることと、常に同じ場所へいることは違います。将来、別々の土地へ住むことも、旅を中断することも、別の誰かを大切にすることもできます」
「そんなことまで書くのか」
「何十年も有効な誓約です。書いていない自由は、解釈によって失われる可能性があります」
ユトは条文を追加した。
《本誓約は、双方の居住、移動、交友、家族形成、契約及び別離の自由を制限しない》
スレイは、その一文を二度読んだ。
「……これなら、《共に》は命令じゃないな」
「はい。継続して選べる関係である必要があります」
ユトは響筆を置いた。
「まだ、同意しますかとは尋ねません」
「どうして?」
「ミクリオさん側で、解消すべき問題が残っているためです」
***
七日目。
スレイが協議室へ入ると、ミクリオは既に席についていた。
机の上には、さらに厚くなった改訂稿がある。
スレイが向かいへ座る前に、ミクリオが口を開いた。
「先に言っておくことがある」
「何だ?」
「僕は、君のいない世界に何千年も取り残されたくないと言った」
「ああ」
「撤回はしない。本心だ」
ミクリオはそこで一度、息を継いだ。
「でも、それを君に僕の提案を受け入れさせる理由にはしない」
スレイは黙って聞いていた。
「君がこの誓約を望まないなら、僕はやめる」
「オレが断ってもいい、じゃなくて?」
「ああ。君が嫌なら、僕がこの案を取り下げる」
ミクリオの声は静かだった。
「僕がその後どう生きるかは、僕が考える。君に、自分の死後まで僕を救う責任を負わせるつもりはない」
「平気だって言えるのか?」
「言えない」
ミクリオは正直に答えた。
「君を失えば、僕は悲しむ。長く引きずるかもしれない。それでも、その悲しみを君の最後の仕事にはしない」
スレイの手から、ゆっくりと力が抜けた。
ミクリオが自分の命を差し出して、同意を求めているのではない。
断れば何千年も苦しむのだと、スレイへ選ばせているのでもない。
望みを伝えた上で、断られた時の人生まで自分で引き受けようとしている。
ユトが改訂稿を二人の間へ置いた。
「最終確認用の文案です」
一頁目には、題名が残されていた。
《スレイと共に老い、スレイと共に死ぬ》
その下に、細かな定義が並んでいる。
誓約の発効時点で、ミクリオの自然寿命をスレイの残余寿命へ同期させる。
双方が生存する限り、対応する速度で年を重ねる。
傷病、呪い、憑魔化、事故、他殺、自死その他の外的要因は共有しない。
一方の予定外の死は、他方の即時死亡を引き起こさない。
自然寿命の終端のみを同じくする。
生活、関係、役割及び居場所を拘束しない。
正式発効の直前まで、双方は理由を告げず撤回できる。
撤回した者を、責めてはならない。
スレイは最後まで読んだ。
「《共に死ぬ》って書いてあるけど、片方が事故に遭っても、もう片方は死なないんだな」
「はい」
ユトが答える。
「死を発動条件にするのではありません。自然に与えられる時間の長さを合わせます」
「病気も?」
「共有しません」
「穢れも?」
「共有しません」
「どっちかが無茶をしたら?」
「無茶をした本人だけが負傷します」
「そこは共有してもよくないか?」
ミクリオが言う。
「駄目です」
ミクリオが不満そうに二人を見る。
「冗談だ」
「記録しますか?」
「するな」
スレイは小さく笑った。
それから、改めて一頁目へ目を落とす。
ユトが尋ねた。
「スレイさん。ミクリオさんへの恩返しとして同意しますか?」
「違う」
「拒否すれば、ミクリオさんを孤独にすると考えていますか?」
「考えてない。そうなったとしても、ミクリオが選ぶことだ」
「世界を救うため、必要だから受け入れますか?」
スレイは首を横に振った。
「浄化に必要なのは、決めるきっかけだ。決める理由じゃない」
ユトが響筆を止める。
「では、貴方自身の理由を述べてください」
スレイはミクリオを見た。
幼い頃から、当たり前のように隣にいた。
喧嘩をして、競い合って、同じ夢を見た。
未来を考えろと言われるたび、そこにいた。
「オレは、ミクリオと世界中の遺跡を巡りたい」
「知っている」
「若いうちだけじゃない。走れるうちだけでもない。歳を取って、階段を上れなくなっても、見つけたものを二人で調べたい」
ミクリオは何も言わなかった。
「オレが変わっていく隣で、ミクリオだけが変わらない未来を、ずっと当たり前だと思ってた。でも、ミクリオが同じ時間を選びたいなら」
スレイは改訂稿へ手を置いた。
「オレも、その時間を一緒に生きたい」
ミクリオの目が、わずかに見開かれる。
「それは、僕が頼んだからか?」
「違う」
スレイははっきり答えた。
「頼まれなくても、オレが未来を考えたら、お前がいたからだ」
しばらくして、ミクリオが息を吐いた。
「……本当に、七日かけたんだな」
「十二項も読まされたからな」
「今は十七項だ」
「増やしたのはユトだろ」
「必要事項です」
ユトが筆を差し出す。
「最終回答を記入してください。これは誓約ではなく、誓約案への同意記録です」
スレイは響筆を受け取った。
以前、自分で書いた一文が残っている。
《同意はまだしていない》
スレイはそれを消さなかった。
その下へ、新しい一文を書き加える。
《七日間の保留及び個別確認を経て、同意する》
さらに少し考えて、続けた。
《オレは、ミクリオと同じ時間を生きたい。共に老い、自然に与えられた最後まで共に生きることを、自分の未来として選ぶ》
筆をミクリオへ渡す。
ミクリオはその文章を読み、隣へ自分の名を書いた。
ユトが最後に、赤く表示されていた《協議中》へ線を引く。
代わりに浮かび上がったのは、
《両者同意。発効前最終確認待ち》
という文字だった。
誓約は、まだ発効していない。
どちらも、最後の瞬間まで撤回できる。
それでも、スレイは決めていた。
ミクリオの長い命を奪うためではない。
ミクリオを孤独から救うためでもない。
自分がずっと思い描いていた未来を、初めて自分の言葉で選ぶために。
今度は、《共に》という言葉の隣へ、スレイ自身の意思が記されていた。