地図の北部には、カムランの名が記されていた。
「カムランは、先代導師ミケルさんが治めていた村です」
ユトが地図の一点を示す。
「人間と天族が共に暮らしていた場所であり、スレイさんとミクリオさんが生まれた場所でもあります」
「オレたちの故郷、か」
スレイが地図を見つめた。
故郷と呼べる記憶はない。スレイもミクリオも、生まれて間もなくカムランを離れている。
「村は、ハイランドとローランスの争いに巻き込まれて滅びた」
ミクリオが静かに続ける。
「スレイの母親は、その時に亡くなった。僕も人間としては命を失って、その後、天族として生まれ変わった」
エドナが地図へ視線を落とす。
「それだけじゃないのよね」
「はい。カムランは、ヘルダルフへかけられた呪いと、マオテラスの憑魔化が始まった場所でもあります」
ユトは別の紙を地図の横へ置いた。
「現在も大量の穢れが残っています。ミクリオさんの母親であるミューズさんが、誓約によって力を高め、封印を維持しています」
「母さんは、今もあそこにいる」
ミクリオの指が、カムランの名へ触れた。
生きている。
だが、会うことはできない。
ミューズが結んだ誓約には、息子との再会を禁じる条件が含まれている。
「封印が破れた場合、穢れが大規模に広がる恐れがあります」
ユトは現在の観測結果を広げた。
「そのため、今回はミューズさんとの面会だけでなく、封印状態の確認と、周辺の穢れの観測を行います」
カムランへ向かう道を確認し終え、ユトは地図を畳んだ。
「封印の負荷は、前回の観測時より増加しています。到着後は、まずミューズさん本人の状態を確認します」
「分かった」
スレイが頷く。
「ヘルダルフが近くにいる可能性も考えた方がいいな」
ミクリオが地図を覗き込む。
ユトはもう一枚の紙を取り出した。
「その前に、ミクリオさんへお願いがあります」
「僕に?」
「はい」
ユトはミクリオを見た。
「ミクリオさん、一時的に性転換してもらってもいいですか?」
誰も答えなかった。
風が吹いた。
「……何だって?」
最初に聞き返したのはミクリオだった。
「術式の適用中、ミクリオさんの性別を女性へ変更します。解除後は元の状態へ戻ります」
「聞き取れなかったんじゃない! どうして今、それを頼まれているのか聞いているんだ!」
「ミクリオ、女の子になるのか?」
「スレイは黙っていろ!」
「いや、だって急に」
「僕が一番驚いている!」
エドナはユトとミクリオを交互に見た。
「これからカムランに行くのよね?」
「はい」
「カムランに行くためにミボを女にするの?」
「正確には、カムラン到着後にミューズさんと面会するためです」
「さらに分からなくなったわ」
ライラが、はっと息を呑んだ。
「ミューズさんの誓約……」
ユトが頷く。
「ミューズさんが課した誓約の正式な文面は、『息子と二度と会わない』です」
ミクリオの表情が変わった。
「……息子」
「文面上、対象は『息子』と記されています」
「だから、僕が一時的に女性になれば」
「誓約上の対象から外れる可能性があります」
再び、沈黙が落ちた。
スレイが何度か瞬きをする。
「それで性転換術式を作ったのか?」
「はい」
「いつ作ったの?」
「4年前です」
「4年」
「安全性及び可逆性の確認が必要だったためです」
「そこまでして……?」
「ミューズさんとミクリオさんを会わせたかったためです」
あまりにも真っ直ぐに答えられ、スレイはそれ以上何も言えなくなった。
ミクリオは紙へ目を落とす。
術式の適用時間。
予想される身体的変化。
解除方法。
途中で異常が発生した場合の停止手順。
本人がいつでも撤回できること。
誓約が文言ではなく実質的関係を基準に判定した場合、接触を中止すること。
「……ずいぶん細かいな」
「本人の身体へ作用する術式ですから」
「僕が断ったら?」
「使用しません。別の方法を探します」
「母さんには?」
「事前に説明し、同意を得ます。ミューズさんが誓約違反の危険を受け入れない場合も実施しません」
「成功する保証は?」
「ありません」
ユトは即答した。
「誓約が『息子』という語の現在状態を参照するのか、誓約締結時の関係性を参照するのかは確認できていません。術式を適用しても、ミクリオさんを息子と判定する可能性があります」
「じゃあ、危険なんじゃないのか?」
スレイが口を挟む。
「はい。そのため、最初は離れた位置から封印の変化を観測します。異常があれば、面会前に中止します」
「そこまで準備してたのか……」
「はい。ミューズさんと出会った9年前から発想はありました」
「本気で開発したの?」
「必要だったためです」
ユトはエドナの言葉にも臆せず答えた。
ミクリオは、もう一度書類を見た。
母親。
生きていることは知っていた。
カムランで穢れを押しとどめ続けていることも。
だが、自分には会えない。
自分が息子である限り。
「女性になっている間、僕は母さんの娘ということになるのか?」
「ミューズさんがそう認識するかは、本人へ確認する必要があります」
「君はどう思う?」
「ミクリオさんはミクリオさんです」
「性別が変わっても?」
「はい」
ミクリオは小さく息を吐いた。
「……考える時間をくれ」
「もちろんです」
ユトは書類を差し出した。
「説明書です」
「やっぱりあるのか」
「署名は決定後で構いません」
「決定しても署名がいるのか……」
スレイが紙束の厚さを覗き込んだ。
「導師の契約書よりは薄いな」
「比較対象がおかしいだろ」
***
数日後。
ミューズ本人への説明と同意確認を終え、封印の外側には複数の観測術式が配置された。
誓約反応に変化があれば、面会を始める前に中止する。その条件をもう一度確認してから、ユトは術式を起動した。
淡い光がミクリオの身体を包む。
骨格と声、身体の輪郭がゆっくりと変化し、やがて光が消えた。
ミクリオは自分の手を開き、声を確かめる。
「……これで、女性になっているのか」
「術式上及び身体上は、はい。体調に異常はありますか?」
「ない。少し感覚が違うだけだ」
スレイが隣から顔を覗き込んだ。
「やっぱり、ミクリオはミクリオだな」
「最初からそう言っているだろう!」
「声は少し違う」
「観察するな!」
普段と変わらない言い合いを確認してから、ユトは最初の観測点を起動した。
「封印負荷、変化なし。誓約反応も基準値の範囲内です。次の位置まで進めます」
一度に近づかない。
距離を縮めるたびに足を止め、ミューズとミクリオ双方の状態を確認する。
三つ目の観測点を越えたところで、ようやく互いの声が届く距離になった。
ミューズは、長いあいだ会えなかった我が子を見つめていた。
「ミクリオ……なのですね」
「うん。母さん」
その呼びかけにも、封印は揺れなかった。
少なくとも現在の条件では、「息子と会った」ことによる誓約反応は発生していない。
ユトは観測値を確認し、二人へ告げた。
「接触可能域です。ただし、異常を感じた場合はすぐに離れてください」
ミクリオが一歩進む。
ミューズも、同じだけ近づいた。
「姿が変わっても、私には分かります」
「僕も、母さんだと分かる」
「ええ」
ミューズは手を伸ばしかけ、一度止めた。
ミクリオの方からその手を取る。
封印は、それでも変化しなかった。
「あなたがどのような姿でも、私の子です」
「うん」
二人はようやく、互いが生きていることを、同じ場所で確かめた。
面会を終え、封印から充分に離れた場所で術式は解除された。
元の姿へ戻ったミクリオは、しばらくカムランの方角を見ていた。
ユトは結果を記録する。
《一時的性転換中、ミューズさんの誓約はミクリオさんとの接触に対して発動せず》
《本結果は、当該誓約の文言及び今回の条件に限る。他の誓約へ一般化しない》
「次は」
ミクリオが言った。
「姿を変えなくても会える方法を探す」
「検討課題へ追加します」
「君だけに任せるとは言っていない。僕も探す」
「承知しました」
九年前から準備していた面会は、ようやく実施された。
完全な解決ではない。
それでも、母と子は今度こそ、互いの名を知ったまま別れることができた。