最終決戦の日。
アルトリウスの玉座へ踏み込む直前、イズチ外縁に設置されていた監視術式が一斉に警報へ転じた。
一つずつ突破されたのではない。すべての観測点がほぼ同時に黒く染まり、退避経路が起動を完了するより先に、ゼンライの反応が消失した。
最初の警報から反応消失まで、三秒にも満たない。
接近も、戦闘も記録されていなかった。
「警報が遅れたのではありません」
ユトは途切れた経路を確認しながら告げた。
「警報が発生した時点で、捕獲はほぼ完了していました」
退避手順は用意していた。
だが、退避という行動が成立するだけの時間を与えられなかった。
一行が玉座の間へ駆け込むと、
ヘルダルフの巨体が、ゆっくりと腕を持ち上げた。
黒く歪んだ手のひらに、光が浮かぶ。
最初は、穢れが凝集しただけに見えた。
だが、その光は次第に人の輪郭を取った。
白い髪。
長い髭。
苦痛に歪んだ顔。
「ジイジ……?」
スレイの声が掠れた。
ヘルダルフの手のひらに、ゼンライの姿が映っている。
外側から映像を投影しているのではない。
輪郭の端から黒い穢れが伸び、ヘルダルフの腕へ溶け込んでいた。
ゼンライは、既に取り込まれている。
「そんな……」
ミクリオが息を呑む。
スレイは反射的に剣を構えた。
だが、振り下ろす直前で止まった。
ヘルダルフを斬れば、ゼンライまで傷つける。
その可能性を理解した瞬間、腕が動かなくなった。
「どうした、導師」
ヘルダルフが嗤う。
「我を討つのではなかったか」
掌の中で、ゼンライの表情が苦痛に歪んだ。
「やめろ!」
スレイが叫ぶ。
踏み込めない。
攻撃できない。
ヘルダルフは、それを確認するように指を閉じた。
掌のゼンライが、黒い穢れの内側へ沈んでいく。
「ジイジを放せ!」
「ならば奪ってみせよ」
ヘルダルフが一歩進む。
圧縮された穢れが押し寄せ、地面が軋んだ。
スレイたちは後退を余儀なくされる。
ユトは響筆を構えたまま、ヘルダルフの手を見ていた。
ゼンライが穢れを引き受け続け、ドラゴン化する可能性は想定していた。
封印の負荷を外部から観測する術式も設置した。定期的な浄化も行った。異常が発生した場合に備え、退避経路も定めた。
だが、ヘルダルフがゼンライを取り込み、人質として利用する可能性までは予測できなかった。
未来が変化した結果なのか。
過去にも起こり得たが、自分が知らなかっただけなのか。
今は判断できない。
そして、判断している時間もない。
「通常浄化は使用できません」
ユトは短く告げた。
「ゼンライさんとヘルダルフの霊的構造が接続されています。対象を分離せずに浄化を実施した場合、ゼンライさんにも影響が及ぶ可能性があります」
「じゃあ、どうするんだ!」
「検討しています」
「急いでくれ!」
「はい」
ユトはヘルダルフの輪郭を観察した。
完全に一体化しているわけではない。
手のひらに映るゼンライの輪郭は、ヘルダルフの動きにわずかに遅れて揺れている。
異なる存在が、強引に接続されている。
ならば、接続そのものへ干渉できれば。
ユトは一度、ザビーダの腰へ視線を向けた。
異海の銃。
天族を憑魔から引き剥がす性質を持つ、限られた弾丸。
「ザビーダさん」
「なんだ」
「ジークフリートで、ゼンライさんをヘルダルフから引きはがすことはできますか」
ザビーダは掌のゼンライを見た。
いつもの軽い笑みは消えている。
「やったことはねえ」
「成功可能性はありますか」
「試す価値はあるな」
「失敗した場合は」
「そいつまで消し飛ばすかもしれねえ」
スレイが振り返った。
「待ってくれ!」
叫んだ直後、言葉を失う。
他に方法があるのかと問われても、答えられない。
攻撃しなければ、ゼンライはヘルダルフへ完全に取り込まれる。
攻撃すれば、ゼンライを傷つけるかもしれない。
ユトはスレイを見た。
「安全な手段ではありません」
「……分かってる」
「ですが、時間の経過によって状況が悪化します」
掌の中で、ゼンライの輪郭がさらに薄くなる。
スレイは歯を食いしばった。
「助けたい」
「はい」
「ジイジを助けてくれ」
「承知しました」
そもそも、ジークフリートの弾丸には限りがあった。
本来の未来では、導師となったスレイの実力を確認するために一発。
デゼルの力をジークフリートに乗せ、サイモンの領域を破るために一発。
そこで使い切るはずだった。
だが、最初の一発は使わせなかった。
再現可能な実力確認へ、再取得不能な資源を使用することに反対したからだ。
もう一発が必要となる未来も、既に消えている。
デゼルはここにいる。
撃ち抜かれる理由もない。
その結果として、今ここに弾丸は二発残っていた。
ゼンライが人質に取られることを予測して、温存したわけではない。
その弾丸でなければ解決できない事態が、今後発生する可能性がある。
そう考えて、残しただけだった。
「ザビーダさん。二発とも使用してください」
「いいのか?」
「一発で分離が完了する保証はありません」
「前にあれだけ使うなって言ってたくせによ」
「現在は、他の手段で代替できません」
ユトは響筆を持ち直した。
「使用条件を満たしています」
ザビーダが笑った。
「そうかよ」
銃口がヘルダルフへ向けられる。
だが、すぐには撃たない。
ヘルダルフの周囲を濃密な穢れが覆っている。
そのまま撃てば、弾丸が到達する前に軌道を逸らされる可能性がある。
「動きを止めます」
ユトの響筆が宙を走った。
一つ。
二つ。
三つ。
何もない空間へ、淡い文字が刻まれる。
術は発動しない。
ヘルダルフが嘲るように腕を振るった。
黒い衝撃が地面を削る。
スレイとミクリオが左右へ跳んだ。
ユトは動かない。
ヘルダルフがユトへ向き直る。
「小賢しい」
一歩、踏み込んだ。
その足が、先ほど刻まれた文字の上へ入る。
術式が発動した。
地面から光の線が立ち上がり、ヘルダルフの足首へ絡みつく。
続いて左右の術式が起動し、両腕を引いた。
完全には止まらない。
ヘルダルフの力に耐えきれず、光の線が次々と軋む。
「今です」
銃声が響いた。
一発目。
弾丸が穢れを貫き、ヘルダルフの掌へ命中する。
黒い光が弾けた。
ヘルダルフの身体から、別の輪郭が僅かに浮かび上がる。
ゼンライ。
完全には分離していない。
だが、ヘルダルフとの間に細い綻びが生じた。
「ミクリオ!」
「分かってる!」
スレイとミクリオが神依し、弓を引く。
二人の霊力が重なり、一本の巨大な水の矢となった。
狙うのはヘルダルフではない。
ヘルダルフとゼンライの間に生じた、ほんの僅かな隙間。
「行け!」
矢が放たれる。
水の光が綻びを貫き、接続を押し広げた。
ゼンライの上半身が、ヘルダルフの掌から浮かび上がる。
だが、まだ下半身が黒い穢れにつながれている。
ヘルダルフが腕を引く。
光の拘束が一本、砕けた。
「もう一発行っとくか!」
「お願いします」
二発目の銃声。
弾丸が、スレイとミクリオの作った亀裂へ撃ち込まれる。
今度こそ、接続が断ち切られた。
ゼンライの身体がヘルダルフから剥がれ、宙へ放り出される。
「ジイジ!」
スレイが駆け出した。
だが、ヘルダルフも同時に腕を伸ばす。
取り戻そうとしている。
ユトの響筆が、最後の文字を書き終えた。
「……任せましたよ」
誰へ向けた言葉なのか、スレイには分からなかった。
スレイたちが矢を放った瞬間。
ザビーダが二発目を撃つ直前。
ユトは、その攻撃によって生じるはずの空間へ術式を置いていた。
今はまだ何もない場所へ。
ゼンライが引きはがされた場合にのみ、発動するように。
遅れて、爆ぜる。
ヘルダルフとゼンライの間に光の壁が噴き上がった。
伸ばされた腕が弾かれる。
同時に、別の術式がゼンライの身体を受け止め、地面へ落下する速度を緩めた。
スレイが滑り込み、その身体を抱き留める。
「ジイジ!」
腕の中に、確かな重みがある。
掌に映った幻ではない。
ヘルダルフの一部でもない。
ゼンライだった。
「スレイ……」
掠れた声が、名を呼ぶ。
「ジイジ、よかった……!」
スレイが顔を近づける。
「下がっていてください」
ユトの声が飛んだ。
スレイは振り返った。
「でも、ジイジが!」
「次の救出手段が確保されていません」
ジークフリートの弾丸は、もうない。
再び取り込まれれば、同じ方法は使えない。
ユトはヘルダルフへ響筆を向けたまま、一歩も退かなかった。
「ゼンライさんを連れて、射程外へ移動してください。状態確認はその後です」
「……分かった」
スレイはゼンライを抱き上げる。
ミクリオがその隣へつき、退路を確保する。
ザビーダは空になった銃を下ろし、ユトの横へ並んだ。
「二発とも使っちまったな」
「はい」
「後悔してるか?」
「いいえ」
ユトは即答した。
「現在確認されている手段の中で、最も適切な使用でした」
「相変わらず固いねえ」
「はい」
スレイがゼンライを安全な場所へ運び終える。
ユトはそれを視界の端で確認した。
ドラゴン化への対策はしていた。
人質に取られることは予想できなかった。
最初の対応は遅れた。
計画どおりではない。
未来で知っていた展開とも違う。
それでも、過去に残した二発があった。
スレイとミクリオが綻びを広げた。
ザビーダが撃った。
遅延術式が、必要な時刻に発動した。
想定とは大幅に違ったものの。
ゼンライ救出作戦、完了。