目覚めてから七日目。
七人は、それぞれの場所へ戻り始めた。
二十年前へ戻るためではない。
二十年後の世界で、もう一度、自分の行き先を選ぶために。
***
アリーシャは、ライラと共にレディレイクの城門をくぐった。
城壁には新しい補強が加えられ、街へ入る橋も架け替えられている。
兵士たちの制服も、二十年前とは違っていた。
それでも、水路を流れる音は同じだった。
「知らない街のように見えますか?」
ライラが尋ねる。
アリーシャは、通りを行き交う人々を見た。
自分が眠りについた時には、まだ生まれていなかった者たち。
二十年前のアリーシャを知っていても、歴史書の中でしか知らない者たち。
「いや」
アリーシャは答えた。
「知っている街が、私の知らない時間を生きてきたのだと思う」
王城の会議室には、二十年分の記録が用意されていた。
東部河川の氾濫。
二年続いた凶作。
国境付近での疫病。
大臣の急死に伴う、権限の移行。
問題は、何度も起きていた。
そのたびに、最初の報告があり、担当者が定められ、対応が実施されている。
対応後には検証が行われ、次に同じことが起きた時のために、規定が書き直されていた。
アリーシャは一冊ずつ、時間をかけて読んだ。
「この中に、導師の帰還を待った記録はあるか?」
現在の王が答える。
「ありません」
「では、私の帰還を待って判断を保留した記録は?」
「それも、ありません」
「そうか」
アリーシャは報告書を閉じた。
「よかった」
王が、わずかに目を見開いた。
「待たれていなかったことを、喜ばれるのですか?」
「待たせないために、仕組みを残した」
アリーシャは机の上へ手を置いた。
「責任者が不在なら、定められた者へ権限を移す。定時報告が途絶えた地域は、異常なしと扱わず、確認する。誰か一人の判断が遅れても、国全体が止まらないようにする」
「はい。現在も、その規定が運用されています」
「私がいなくても、正し続けられたのだな」
「何度も誤りました」
王は答えた。
「対応が遅れたこともあります。判断を誤り、被害を広げたこともありました。そのたびに記録し、責任を確認し、手順を改めました」
「それでいい」
アリーシャの声から、わずかに力が抜けた。
「人も、国も誤る。だが、一度の過ちを永遠の結論にはしなかった。それで十分だ」
かつて、先代導師が去った後の二十年。
人々は災厄の時代を終わらせる、次の導師を待った。
今度の二十年も、導師はいなかった。
だが、誰もそれを動かない理由にはしなかった。
「アリーシャ殿下」
王が慎重に切り出す。
「御帰還に伴う、王位継承権の扱いについてですが」
「帰還のみを理由として、現在の統治権を移してはならない」
アリーシャは即座に答えた。
「その規定も、残したはずだ」
「はい」
「ならば、規定どおりに」
「本当に、よろしいのですか?」
アリーシャは、現在の王を見た。
二十年前には、この席にいなかった者。
アリーシャの不在を埋めるためではなく、自分の責任として国を背負ってきた者。
「私が戻ったからといって、この二十年を退ける理由にはならない」
アリーシャは立ち上がった。
そして、王へ向かって頭を下げる。
「今のハイランドに、私ができる仕事を教えてほしい」
しばらく、誰も声を発しなかった。
やがて王も席を立ち、アリーシャへ深く頭を下げた。
「お願いしたいことは、いくつもあります」
「では、聞かせてくれ」
会議室を出た後、ライラが微笑んだ。
「二十年前のお席へ戻らなくても、よろしいのですか?」
「ああ」
アリーシャは、二十年後の城内を見渡した。
「国は、私を待たずにここまで歩いた」
知らない者たちが、知らない手順で働いている。
だが、そのどれもが、二十年前に残した道の先にあった。
「今度は、私がこの国へ追いつく番だ」
***
セキレイの羽の本部は、二十年前と同じ街に残っていた。
ただし、建物は隣の区画まで広がり、見覚えのない倉庫が三棟も増えている。
扉の上には、何度も修繕された看板が掲げられていた。
ロゼはそれを見上げた。
「ずいぶん大きくなったね」
「お前がいなくても、商売は続いてたみてえだな」
隣でデゼルが答える。
「そりゃそうでしょ。あたしがいないと潰れるようじゃ困るって」
ロゼが扉を開ける。
中では、若い団員が荷札を整理していた。
顔を上げる。
ロゼを見る。
壁に飾られている肖像を見る。
もう一度、ロゼを見る。
荷札が床へ落ちた。
「せ、聖女様!?」
「誰が聖女だ」
若い団員は震える指で壁を示した。
そこには、二十年前の姿のまま描かれたロゼがいた。
隣には、風をまとったデゼルもいる。
若い団員の視線は、ロゼの隣に立つデゼルの姿も、正確に追っていた。
肖像の下には、立派な文字で《聖女ロゼと風の守護者》と書かれていた。
ロゼの眉間に皺が寄る。
「あたしの肖像なんか飾ってんの?」
「各支部にあります!」
「今すぐ外して」
「各支部の分もですか!?」
「全部」
デゼルが鼻で笑った。
「お前がいねえ間に、ずいぶん話を盛られたみてえだな」
「あんたも隣に描かれてるからね」
「俺は守護者だとよ」
「似合わないね」
「聖女よりはましだ」
奥から、現在の団長が姿を現した。
二十年前にはまだ若い団員だった者が、今では白いものの混じる髪で、セキレイの羽を率いている。
「本当に……ロゼ様なのですね」
「今の団長は、あんたでしょ」
「ですが」
「二十年も留守にした人間が、戻った途端に椅子を返せって言えるわけないじゃん」
ロゼは室内を見回した。
知らない顔が増えている。
壁に貼られた街道図も、取引先の一覧も、二十年前とは違っていた。
それでも、荷物を運び、人を繋ぎ、困っている者を見捨てないという仕事は続いている。
「あたしがいない間のやり方を教えて」
「何から確認されますか?」
「帳簿。支部一覧。新しい街道。あと、今の団員が何をできて、何をできないのか」
ロゼは床に落ちた荷札を拾い、若い団員へ渡した。
「団長はあっち。あたしは二十年分の新人」
「新人……」
若い団員が、困ったように現在の団長を見る。
「聖女様を新人として扱うのですか?」
「だから、聖女じゃないって」
ロゼはデゼルを振り返った。
「で、あんたはどうする?」
「聞く必要あんのか」
「一応ね」
デゼルは、二十年前と変わらない顔で答えた。
「お前と行く」
「そっか」
ロゼは笑った。
「じゃあ二名、今日から合流。まずは荷運びからでいい?」
「俺まで新人扱いかよ」
「二十年も休んだんだから当然でしょ」
若い団員が、慌てて新しい名札を二枚取り出す。
「新人二名、入ります!」
その声に、本部中の視線が集まった。
そして、二十年前にはいなかった団員たちが、一斉に笑った。
***
エドナは、マオテラスの前に座っていた。
二十年間続けてきた監視は、もうほとんど必要ない。
霊力も穢れも安定している。
それでも、しばらくは経過を見るつもりだった。
「調子は?」
「大丈夫。昨日と変わらないよ」
「そう。なら結構」
そこへ、二つの足音が近づいてきた。
「あ、お兄ちゃん。ザビーダはどうでもいいけど」
「エドナちゃん厳しくない?」
海から戻ってきたらしいアイゼンが、エドナの隣を見た。
「エドナとマオテラスか。珍しい組み合わせだな」
「そうかしら。二十年見守ってた」
「……二十年?」
「マオ坊の浄化」
アイゼンの表情が変わった。
「待て。マオテラスが穢れただと? 俺は聞いていない」
「話してないもの」
「何故だ」
「お兄ちゃん、海に行ったでしょ。せっかく戻ったのに、また世界の後始末まで背負わせる必要ないもの」
「ちなみに俺様は二十年付き合ったけどな」
「ザビーダはどうでもいいから」
「またそれ?」
マオテラスが小さく笑った。
「久しぶり、アイゼン」
アイゼンはしばらくマオテラスを見ていた。
「……ああ。随分、久しぶりだな」
一度はドラゴンになった天族と。
一度は穢れに呑まれた五大神が。
今は、ただ久しぶりに会った者同士として話している。
エドナは、それでいいと思った。
「お兄ちゃんは、また海?」
「ああ。お前はどうする」
問われて、エドナは少し考えた。
二十年間、帰ってくる者を待った。
マオテラスを見守った。
その役目は、もう終わった。
「しばらくは坊やの経過観察。その後は――どこかへ行くわ」
「どこへだ?」
「まだ決めてない」
それも悪くない。
行くべき場所が決まっていなくても、歩き出していいのだ。
エドナは傘を肩へ乗せた。
「二十年も見守ったんだもの。今度は、ワタシが見に行く番でしょ」
その行き先は、これから決めればよかった。
***
スレイとミクリオがレディレイクを出たのは、その三日後だった。
二人の手には、二十年間に新しく発見された遺跡の一覧と、書き直された大陸地図がある。
スレイは歩きながら、地図に記された印を数えた。
「こんなに増えたんだな」
「遺跡そのものが増えたわけじゃない。発見されたんだ」
「分かってるよ。でも、行きたい場所は増えただろ?」
ミクリオは否定しなかった。
地図には、二十年前には存在しなかった街道がある。
洪水で地形が変わり、入口が発見された地下遺跡。
新しい水路の工事中に見つかった石室。
天族の証言によって、初めて位置が記録された古代の祭祀場。
どれも、二人がまだ見たことのない場所だった。
「最初はどこへ行く?」
スレイが尋ねる。
「ここだ」
ミクリオは、地図の北東を指した。
他の印よりも、そこだけ丸が濃い。
「一番気になってたところ?」
「年代が不明で、使われている文字も既知のものと一致しない。資料として優先度が高い」
「つまり、一番気になってたんだな」
「そう言っている」
二人は顔を見合わせた。
それから、同時に笑った。
「相変わらずだな、オレたち」
「二十年眠ったくらいで、遺跡の価値が変わるものか」
「全部巡るのに、どれくらいかかるかな」
「調査中にも、新しい遺跡が発見される。二十年では足りないだろうな」
スレイは、もう一度地図を見た。
失われた二十年は戻らない。
だが、その間にも世界は動き、新しい道が作られ、知らなかった過去が見つけられていた。
「じゃあ、今度は起きたまま、二十年じゃ足りないくらい歩こう」
ミクリオが、スレイの隣へ並ぶ。
「言われなくても、そのつもりだ」
二人は歩き出した。
世界を救った導師と、その旅を支えた天族としてではない。
遺跡を見つけるたびに足を止め、碑文を見つければ時間を忘れる、二人の遺跡好きとして。
二十年前に約束した旅は、二十年後の地図から始まった。
***
その夜。
ユトは、目覚めた部屋に残されていた二十年分の記録を整理していた。
机の向かいでは、サイモンが新しい報告書を分類している。
ユトは響筆を取り、帰還後の行動記録へ新しい項目を加えた。
《アリーシャさん、ライラさん、ハイランド王国へ帰還。現政権への協力を開始》
《ロゼさん、デゼルさん、セキレイの羽へ合流》
《スレイさん、ミクリオさん、遺跡調査へ出発》
そこで筆を止める。
――みんな、別々になったね。
ユイの声がする。
「行動地域が分かれただけです」
ユトは答えた。
「同行関係は継続しています。合流予定も設定されています」
――同じ場所にいなくても?
「はい」
ユトは、帰還時に書いた記録を見た。
《全員、引き続き同行》
訂正する必要はなかった。
同じ場所を歩き続けることだけが、同行ではない。
別の道へ向かった後も、互いの行き先を知り、また会う予定を残している。
それもまた、同行だった。
「共同研究を再開する」
サイモンが言った。
ユトに断る理由はなかった。
ユトは頷き、新しい項目を作成した。
《サイモンさんとの共同研究を再開》
《長期浄化後に確認された未分類事象を記録》
《ユイとの意思疎通記録を継続》
――ユトは、これからどうするの?
ユトは、机の上を見た。
二十年間に追加された制度。
改訂された手順。
新しく分類された天族。
まだ名前さえ与えられていない現象。
自分が眠っている間にも、世界は未知を増やし続けていた。
ユトは響筆を走らせた。
《まだ、未知の研究が残っています》
――うれしい?
筆先が止まる。
以前なら、研究を続ける必要性を説明していただろう。
再発防止のため。
被害を減らすため。
申告を、記録されないまま消さないため。
どれも正しい。
だが、ユイが尋ねたのは、必要かどうかではなかった。
ユトは、問いへの回答を一行だけ書き加えた。
《はい》