大市を出て、二日目。
ユトたちは北へ向かっていた。
季節市で得た情報によれば、この先にはいくつかの集落があり、そのさらに北には古い街道跡が残っているらしい。
ただし。
「こっちへ行くなら、谷には入るなよ」
道を尋ねた男は、地図の一点を指してそう言った。
ユトが地図を見る。
目的地まで最も短い経路上にある。
「こちらでしょうか」
「ああ」
「理由を伺ってもよろしいでしょうか」
「怒ってる神様がいる」
ロゼが瞬いた。
「神様?」
「昔からそう言われてる。入ると家畜が暴れるし、人間も気分が悪くなる。運が悪いと黒い化け物を見る」
ユトは顔を上げた。
横にいたデゼルを見る。
「どう思われますか」
「穢れ臭えな」
エドナも地図を覗き込む。
「でしょうね」
男には二人の声も聞こえている。
「……やっぱり、そっちの二人は天族なんだな」
「はい」
「じゃあ神様のことも分かるのか?」
「現地を確認しなければ分かりません」
ユトは再び地図を見る。
「谷には、どの程度近づかないようにしていますか」
「家畜を連れてる時は、あの岩より西へ行くなって決めてる」
「岩?」
「でかいのが一本立ってる。見りゃ分かる」
「人間のみの場合は?」
「入る奴はいないよ」
「危険区域の境界を共有しているのですね」
「まあ……そういう言い方もできるな」
「被害は現在も発生していますか」
「今はほとんどない」
「以前は?」
男の表情が少し変わった。
「爺さんの爺さんくらいの頃には、人も家畜も死んだらしい。それで、近づかなきゃいいってことになった」
「なるほど」
ユトは紙へ書き込んだ。
『谷周辺。長期間の立入回避措置あり。現行の被害件数は少数。危険区域境界は地域住民間で共有』
ロゼが横から読む。
「ちゃんと機能してるんだね」
「はい」
「じゃあ、行かなくてもいいんじゃない?」
「その選択肢もあります」
ロゼが少し驚いた。
「行くって即答するかと思った」
「既に被害回避が成立していますので、緊急性は高くありません」
「へえ」
「ただし、原因が憑魔であれば、浄化できる可能性があります」
「やっぱり行くんだ」
「確認します」
エドナがため息をついた。
「結局そうなるのね」
***
谷へ向かう前に、ユトはさらに数人から話を聞いた。
内容には多少の違いがあった。
ある者は、谷には「怒れる神」がいると言った。
ある者は、「黒い獣」が住んでいると言った。
また別の者は、「昔、水を守っていた神が人間を嫌いになった」と聞いていた。
「なぜ、人間を嫌うようになったのでしょうか」
「さあ」
「何か原因となる事件が?」
「知らん」
「神様を怒らせた奴がいたって話も聞いたことあるけど」
「誰でしょうか」
「知らん」
「いつ頃ですか」
「それも知らん」
ユトの筆が止まる。
大市で書いた記録を思い出した。
『情報伝達過程における簡略化・意味変化に注意』
「……早速、該当例かもしれませんね」
「何が?」
ロゼが聞く。
「伝承です」
「この前書いてたやつ?」
「はい。『危険だから近づくな』という実用情報は維持されていますが、その理由については複数の説が存在します」
「でも近づかなきゃ助かるんだから、そこは困らなかったんだ」
「そうですね」
ユトは少し考えて、さらに一行追加した。
『伝承の正確性と、防災情報としての有効性は別に評価する必要あり』
「ユト、こういう土地好きでしょ」
「何故でしょうか」
「調べることいっぱいあるから」
「否定はしません」
「ついに認めた」
***
谷の入口には、男が言っていた通り、大きな岩が立っていた。
人の背丈の三倍ほど。
その根元には、何本もの木の杭が打たれている。
布が結ばれたものもあった。
「ここから先か」
ロゼが谷を見る。
特に変わった景色には見えない。
細い川。
岩。
低い木々。
しかし、デゼルの表情は既に険しかった。
「いるな」
「憑魔ですか」
「ああ。かなり濃い」
エドナが地面へ手を触れる。
「土地そのものが穢れてるわけじゃないわ。中に何かいる」
「範囲は?」
「谷の奥。ここまではほとんど来てない」
ユトは岩を振り返った。
「住民が設定した境界は概ね適切ですね」
「感心してる場合?」
ロゼが短剣へ手をかける。
「感心することと対応することは両立します」
「はいはい」
ユトは谷へ入る前に紙を取り出した。
「まだ書くの?」
「帰還不能となった場合に備え、現在地と進入時刻を残します」
「縁起悪いなあ」
「事故対策です」
デゼルが鼻を鳴らす。
「誰に残すんだ」
「先ほど話を伺った集落の方へ、戻らなければ確認していただくよう依頼しています」
ロゼが振り返った。
「いつの間に?」
「聞き取りの際に」
「用意いいなあ」
「危険区域へ入りますので」
「じゃ、行くか」
短剣を抜いた。
「はい」
四人は、長く人が通らなくなった谷へ入った。
***
進むほど空気が重くなった。
鳥の声が消える。
川の水は澄んでいるように見えるが、近づくと胸の奥がざわつく。
「人間が具合悪くなるってのは、これか」
ロゼが眉をひそめる。
「霊応力が低い人間でも、長時間滞在すれば影響を受ける可能性があります」
「ユトは平気?」
「現時点では」
「無理なら言いなよ」
「はい」
少し前を歩いていたデゼルが止まった。
「来るぞ」
直後。
岩陰から何かが飛び出した。
巨大な獣だった。
猪に似ている。
ただし、大きさは普通ではない。
黒い穢れが全身を覆い、牙だけでもロゼの腕ほどある。
「これが黒い獣!」
ロゼが横へ跳ぶ。
牙が地面を抉った。
「おそらく!」
「おそらく!?」
「住民の証言と一致します!」
「今はいいから!」
デゼルの風が獣の横腹を打つ。
体勢が崩れたところへ、エドナが地面を隆起させた。
進路を塞ぐ。
「正面から受けないで!」
「分かってる!」
ロゼが横へ回り込む。
ユトは一歩下がり、獣の動きを見る。
突進。
方向転換。
右側へ攻撃を受けると、左後方へ逃げようとする。
「ロゼさん、右側から攻撃してください!」
「了解!」
「デゼルさん、左への退路をお願いします!」
「分かった!」
風が吹く。
獣が反射的に向きを変える。
そこへロゼが踏み込んだ。
刃が黒い穢れを裂く。
「効いてる!」
「はい。ただし致命傷は避けてください!」
「分かってるって!」
獣が吠えた。
周囲へ穢れが膨れ上がる。
ユトは響筆を構えた。
「エドナさん!」
「はいはい!」
地面から石柱が立つ。
獣の脚が止まる。
「今よ!」
ユトが踏み込んだ。
浄化の力が広がる。
黒い穢れが抵抗する。
一瞬、獣の姿がさらに大きく膨らんだ。
「ユト!」
「継続できます!」
押し返す。
穢れが剥がれる。
黒い塊が、光の中へ溶けていく。
やがて。
そこにいたのは、一頭の猪だった。
普通より少し大きい程度。
猪はしばらく呆然としていた。
そして突然走り出し、谷の奥へ消えていった。
ロゼが短剣を下ろした。
「……猪だったんだ」
「はい」
「神様じゃなかった」
「少なくとも、今の憑魔は違います」
その時。
「だから違うと言っているだろう」
別の声がした。
四人が振り返る。
川の向こう。
一人の天族が立っていた。
年若い男の姿をしている。
エドナが目を細める。
「いたのね」
「ああ」
「ずっと?」
「ずっとだ」
ユトは天族を見る。
「あなたが、この谷の守護天族でしょうか」
「人間がそう呼んでいたことはある」
「怒っていますか」
「何に?」
「人間へ」
「別に」
ユトは黙った。
ロゼも黙った。
デゼルが少し顔を逸らした。
「……また伝言事故?」
ロゼが言った。
「可能性が高いですね」
天族が眉をひそめる。
「何の話だ」
***
詳しく話を聞いた。
天族は昔から、この谷の水を見守っていた。
何百年も前には、人間も頻繁に谷へ来ていたらしい。
家畜へ水を飲ませる者。
旅の途中で休む者。
祭りの際に供物を置く者。
しかし、ある頃から一頭の憑魔が谷へ住み着いた。
「最初は、あそこまで強くなかった」
天族が言う。
「追い出そうとはした」
「成功しなかったのですね」
「ああ。俺だけじゃ無理だった」
「人間へ危険を伝えようと?」
「伝えた」
「どのように?」
「来るな、と」
ロゼが嫌な予感のする顔をした。
「聞こえてなかった?」
「聞こえなかったらしいな」
「ですよね」
「だが、何度も近づけば具合を悪くする奴が出た。獣を見た奴もいた。それで人間は来なくなった」
「結果として危険回避には成功した」
ユトが言う。
「そういうことだ」
「怒っている神がいる、という伝承については」
「知らん」
「人間を嫌いになったという話もあります」
「知らん」
「人間が神を怒らせたという説も」
「知らん」
天族の表情が段々険しくなる。
「俺はそんなこと一度も言ってないぞ」
「直接伝達できなかった情報を、人間側が観測可能な事象から補完した結果だと思われます」
「なんだそれは」
「『谷へ来ると体調が悪くなる』『黒い獣がいる』『守護天族がいると伝えられている』という三点から、『守護天族が怒って人間を追い払っている』という物語が形成された可能性があります」
「勝手に怒らせるな」
「申し訳ありません。私が形成した説ではありません」
「分かってる」
ロゼが笑いを堪えていた。
***
谷の外へ戻り、先ほど話を聞いた住民へ事情を説明した。
「神様、怒ってなかったのか?」
「はい」
「本当に?」
「本人へ確認しました」
「本人?」
「現在、そこにいらっしゃいます」
ユトが守護天族のいる方を示す。
男の視線が、その先へ移った。
そして、一点で止まる。
「……いる」
「いるな」
天族が答える。
男が口を開けたまま固まった。
「本当に……?」
「ああ」
「昔から?」
「お前の祖父の祖父が生まれるより前からいる」
「……」
「それと」
天族は腕を組んだ。
「俺は怒ってない」
「……すまん」
「なんでお前が謝るんだ」
「ずっと怒ってる神様だと思ってたから」
「勝手だな」
「悪かったって」
少し間が空く。
男が笑った。
天族も、ほんの少しだけ笑った。
「昔は、水を守ってくれてたって聞いたこともある」
「昔だけじゃない」
「今も?」
「水はずっと見てた」
「じゃあ、あの獣がいたから人が来られなかっただけなのか」
「ああ」
男は谷を見る。
「ずいぶん長く、勘違いしてたんだな」
「人間には、天族が見えない場合があります」
ユトが言う。
「情報を直接確認できない以上、誤解が長期間維持される可能性はあります」
「お前は難しく言うなあ」
「すみません」
「いや。なんとなく分かった」
***
ユトは少し考えてから、男へ尋ねた。
「今後、この谷を再び利用しますか」
「そのうちはな」
「すぐには?」
「しない」
「理由を伺っても?」
「本当に安全になったか、しばらく見ないと分からんだろ」
ユトの筆が動いた。
「もう書いてる」
ロゼが覗く。
『浄化実施後も一定期間、旧危険区域として経過観察を継続』
「適切ですね」
男が笑った。
「今日一日何もなかったからって、明日から家畜全部連れてくる馬鹿はいないよ」
「非常に合理的だと思います」
「また言ってる」
ロゼが笑う。
「ユト、スラガ来てから『合理的』って言う回数増えてない?」
「適切な対応が多いためではないでしょうか」
「やっぱり好きなんじゃん」
「好悪と評価は別です」
エドナが横から言う。
「その割には楽しそうだけど」
「そうでしょうか」
「そうよ」
ユトには自覚がなかった。
***
谷を離れる前。
ユトは守護天族へもう一つ確認した。
「今後、人間が再び谷を利用することについて、問題はありますか」
「ない」
「以前のように祀られることを望みますか」
「別に」
「必要ありませんか」
「俺は水を見てる。人間が勝手に礼を置いていくなら止めない。それだけだ」
近くにいた男も聞いていた。
「じゃあ、昔みたいに祭りとかやった方がいいのか?」
「好きにしろ」
「やらなくても?」
「好きにしろ」
「怒らない?」
「だから怒ってない!」
ロゼが吹き出した。
男も笑う。
「じゃあ、たまに礼くらい持ってくるよ」
「好きにしろ」
「水使わせてもらうんだし」
「それも好きにしろ」
ユトは二人を見る。
人間が天族を祀らなければならないわけではない。
天族が人間を守らなければならないわけでもない。
昔と同じ関係へ戻らなくてもいい。
ただ、同じ谷にいることはできる。
今は、ユトが近くにいる間だけでも、互いの言葉を直接確認できる。
ユトは紙へ何かを書きかけた。
少し考えて、やめた。
「書かないの?」
ロゼが珍しそうに言う。
「まだ、整理できていません」
「へえ」
「観測事項としては残します」
「結局書くんじゃん」
「はい」
紙の下部へ、短く記した。
『守護天族と地域住民の関係は、過去の形態へ復元する必要があるとは限らない』
ロゼが読んだ。
「難しい」
「簡潔にしたつもりですが」
「ユト基準ではね」
***
翌日。
ユトたちは北へ向かうため、再び谷の近くを通った。
住民はまだ、誰も谷へ家畜を入れていなかった。
大きな岩も。
危険を示す杭も。
そのままだった。
「撤去しないのですね」
ユトが言う。
「経過観察中だからでしょ」
ロゼが答えた。
「はい」
「聞かなくても分かるようになってきた?」
「昨日確認しましたので」
「そういうことにしとこ」
谷の向こうから、守護天族がこちらを見ていた。
ユトの近くにいた住民が気づく。
「あ」
天族が手を上げる。
男も手を上げた。
それだけだった。
祈りもない。
供物もない。
特別な言葉もない。
ただ、互いに存在を確認して、挨拶をした。
ユトは少しだけ立ち止まった。
「どうした?」
デゼルが聞く。
「いえ」
ユトは歩き出す。
「次の集落へ向かいましょう」
危険だった谷は、一日で安全な谷にはならなかった。
怒れる神も、実際には存在していなかった。
浄化したからといって、失われた何百年が元に戻るわけでもない。
それでも。
昨日まで互いの声を聞けなかった人間と天族が、今日は手を振ることができた。
ユトはそれを、スラガ公国調査記録の一頁へ残した。