谷を離れてから、さらに二日。
ユトたちは北東にある集落へ辿り着いた。
ここも地図には載っていなかった。
「もう言わなくていいからね」
ユトが地図を開いたところで、ロゼが先に言った。
「まだ何も言っていません」
「顔に書いてある」
「地図に記載がありません」
「ほら言った」
集落はこれまで見てきた場所より大きかった。
石造りの建物もいくつかある。
家畜を囲う柵。
共同の井戸。
その奥には、小さな祠のようなものがあった。
屋根から細長い布が何本も垂れている。
祠の前には浅い水盤。
その周囲で、数人の人間が何かを話していた。
ユトたちは少し離れた場所から、その様子を見ていた。
「何してるんだろ」
ロゼが言う。
ユトもそちらを見る。
風が吹いた。
布が揺れる。
水盤の表面に、小さな波紋が広がった。
一人の女性が、それをじっと見ている。
「……もう一度」
女性が呟いた。
誰かが水盤へ水を足す。
再び風が吹く。
布が揺れた。
「やはり東だと思う」
女性が言った。
すると、集まっていた人々の一人が首を振った。
「昨日は逆だっただろ」
「昨日とは風が違う」
「じゃあ神様は、一晩で言うことを変えたのか?」
「そうは言っていない」
「だったらどういう意味なんだ」
声が少し大きくなる。
エドナが祠の横を見た。
「いるわね」
「天族の方ですか」
「ええ」
デゼルも頷く。
「さっきから水盤の横にいる」
そこには、一人の天族がいた。
壮年ほどの男の姿をしている。
人間たちの話を聞きながら、困ったような顔をしていた。
「……何か伝えようとしているのでしょうか」
「みたいだな」
ユトはしばらく様子を見た。
天族が水盤へ指を向ける。
水面が僅かに揺れる。
女性がそれを見る。
「東……」
「違う」
天族が言った。
当然、人間には聞こえていない。
「水だ」
女性は布の動きを見る。
「東へ移れ、という意味かもしれない」
「だから違う」
天族の眉間に皺が寄った。
ロゼが小声で言う。
「また伝言事故の匂いがする」
「はい」
「即答」
ユトたちは祠の方へ近づいた。
***
事情を尋ねると、女性はこの集落で「聞き役」と呼ばれているらしかった。
代々、土地を守る天族からの知らせを読み取る役目だという。
「天族の方を直接知覚できるのですか」
ユトが尋ねる。
「いいえ」
女性は首を振った。
「少なくとも、これまで私は見たことがありません」
「では、どのように?」
「風、水、布。あとは井戸の水量や、祠の周りの草の状態」
女性は水盤を指した。
「神様が何かを知らせたい時、こういうものに変化が出ると言われています」
ユトは祠を見る。
「代々、同じ方法を?」
「細かい読み方は少しずつ変わっています。祖母から母へ。母から私へ」
「記録はありますか」
「あります」
ユトの顔が少し明るくなった。
ロゼが横を見る。
「今、嬉しそうだった」
「そうでしょうか」
「記録あるって言われた瞬間ね」
「比較可能な資料が存在するためです」
「ほら」
女性は少し笑った。
「変わった導師ですね」
「よく言われます」
エドナが言った。
「本人はあまり分かってないけどね」
「エドナさん」
「何よ。本当でしょ」
女性はエドナを見る。
そして、少し遅れて目を見開いた。
「……あなたは」
「天族よ」
「やはり……」
女性は今度はデゼルを見る。
それから、何かに気づいたように祠へ視線を戻した。
水盤の横。
先ほどまで、何もないと思っていた場所に男が立っている。
女性の顔から、表情が消えた。
「……神様?」
「やっと見えたか」
天族が言った。
女性はしばらく答えなかった。
「本当に……いた」
「いたぞ」
ロゼが小さくユトを見る。
「これは、話早そうだね」
「はい」
***
問題になっているのは、次の季節に使う牧草地だった。
今年は雪解けが遅い。
北側へ移動する時期をずらすのか。
東側の土地を先に使うのか。
複数の集団が判断を待っている。
「神様から、東について知らせが出てるのは確かだと思います」
聞き役の女性が言った。
「ただ、それが『東へ行け』なのか、『東へ行くな』なのかが分からない」
ロゼが首を傾げた。
「そこ真逆じゃない?」
「だから困ってるんです」
女性は苦笑した。
「水盤の動きは、以前なら『水が変わる』時に出ていたものに近いんです。でも布は『移動』を示す時の動きに見える」
「各現象に、過去事例との対応関係が存在する?」
「はい」
「一致しない場合は?」
「他の情報も合わせます」
「それでも判断できなければ?」
「……今みたいになります」
ユトは記録した。
そして、祠の横にいる天族を見る。
「では、ご本人へ直接確認してもよろしいでしょうか」
女性は少し迷ってから、頷いた。
「……はい」
ユトは祠の横にいる天族を見る。
「今年、東へ移動するべきかどうかを確認したいとのことですが」
「知らん」
一同が黙った。
「……知らない?」
ユトが確認する。
「知らん」
「神様が?」
男が言った。
天族が男を見る。
「俺が伝えたのは、今年は雪解けが遅いから、東の川の水が少ないってことだけだ」
「じゃあ、東へ行くなって意味だろ?」
「なんで俺がそこまで決めるんだ」
「え?」
「水が少ない。それだけだ」
男が困った顔をする。
「でも、水が少ないなら行かない方がいいんじゃないのか?」
「家畜の数も、お前らがどれだけ水を運べるかも、俺は知らん」
「……」
「別の群れと分けて使うなら足りるかもしれん。早く移動するなら駄目かもしれん。そこまで俺に聞くな」
ロゼが小声で言った。
「神様に決めてもらえなかった」
「そうですね」
ユトは天族へ尋ねる。
「確認します。あなたが伝えようとしていた情報は、『今年は雪解けが遅れており、東側河川の水量が例年より少ない』という事実のみ?」
「ああ」
「『東へ移動せよ』あるいは『東へ移動するな』という指示は?」
「してない」
「なるほど」
ユトの筆が動いた。
聞き役の女性は、その文字を黙って見ていた。
***
「これまでの神託について伺ってもよろしいでしょうか」
ユトが尋ねた。
女性が頷く。
「はい」
「天族の方から得られた情報と、その情報を元に人間側で行った判断は、区別されていますか」
女性は少し考えた。
「記録の中では、ある程度」
「ある程度?」
「たとえば、『水盤に三度波が立った』『井戸の水位が下がった』までは、そのまま残します」
「その後は?」
「『神は東を避けるよう告げた』と」
ユトの筆が止まる。
「その文章は、天族の方が直接発言した内容ではない?」
「もちろん」
「もちろん?」
「だって、声は聞こえませんから」
「……そうですね」
ロゼが苦笑する。
「ユト、そこ引っかかるんだ」
「文章上、発言のように記録されていますので」
「昔からそういう書き方なんです」
女性が言う。
「『神が告げた』とした方が、皆にも伝わりやすかったから」
「では、神託には人間側の解釈が含まれていることを認識していた?」
「はい」
「全てが天族本人の意思ではない可能性も?」
「あります」
女性は素直に認めた。
「私たちも、何も考えずに言葉を作っているわけではありません。過去の記録、水の量、天候、家畜の状態。いろいろ見て決めます」
「では、聞き役は天族の言葉をそのまま受信する役職ではなく――」
「見えない神様が何を知らせようとしているのか、できるだけ間違えないように考える役です」
ユトは女性を見る。
「なるほど」
「外すこともあります」
横から天族が言った。
女性がそちらを見る。
「……どの程度でしょうか」
「お前は今まで一回」
「一回」
「母親は三回」
「母が?」
「祖母は二回」
「数えていたのですか?」
「暇だからな」
ロゼが笑った。
「神様、採点してたんだ」
「採点じゃない。覚えてただけだ」
「ちなみに今回は?」
「まだ外してない」
「まだ?」
「東へ行けとも行くなとも決めてないだろ」
「……確かに」
女性は少しだけ安堵したように笑った。
***
話を聞いていた住民の一人が言った。
「でもさ」
皆がそちらを見る。
「これからは直接聞けるんだろ?」
「私が近くにいる間であれば」
ユトが答える。
「だったら、聞き役はいらなくなるんじゃないか?」
空気が止まった。
女性は何も言わない。
天族も黙った。
ユトは男を見る。
「いいえ」
女性が顔を上げる。
「なぜ?」
「私はこの集落へ恒常的に滞在する予定がありません」
「でもまた来れば」
「必要な情報が発生するたびに、私を呼ぶのでしょうか」
「……」
「また、私が常に対応可能である保証もありません」
ユトは祠を見る。
「既存の方法によって、これまで長期間にわたり天族の方から情報を受け取ることに成功しています」
「間違えてもいるぞ」
天族が言う。
「はい」
「そこは否定しないのね」
エドナが言った。
「事実ですので」
「本当に容赦ないわね」
「ですが、全く機能していないわけでもありません」
ユトは続けた。
「むしろ、直接会話が成立しない条件下で、相当程度の情報伝達に成功していると考えます」
女性が驚いたようにユトを見る。
「成功……ですか」
「はい」
「でも、神様の意味を間違えたこともあります」
「それでも、何世代も継続して情報を受け取っていた」
ユトは天族を見る。
「この方々がいなければ、人間へ情報を伝える方法はありましたか」
天族は少し考えた。
「……ほとんどないな」
「では、少なくとも従来環境においては必要な役割だったと判断できます」
「そうだな」
天族は女性を見る。
「こいつらがいなきゃ、水が減るって教えるだけでも大変だった」
女性が黙る。
「母親も外した時はあったが、だいたいは合ってたぞ」
「三回も?」
「何十年で三回だ」
「……そう言われると、少ない気もします」
「少ないだろ」
ロゼが笑った。
「神様本人から合格もらったじゃん」
「そういう話でしょうか」
「いいんじゃない?」
***
ユトは紙へ新しい項目を書いた。
『天族から提供された情報と、人間側で行った解釈・判断を分離して記録する必要あり』
ロゼが覗く。
「また分けた」
「異なるものですので」
「ユト、スラガに来てからずっと何か分けてない?」
「そうでしょうか」
「住所と今いる場所とか」
「はい」
「共同体と居住地とか」
「はい」
「伝承が正しいかと、役に立つかとか」
「はい」
「今度は神様の情報と人間の判断」
「はい」
「やっぱり分けてるじゃん」
「異なるものを同一に扱う理由がありません」
「そういうとこだね」
聞き役の女性が、その記録を見る。
「それ、どういう形にすればいいでしょうか」
「私が決定することではありません」
「え?」
「こちらの制度ですので」
女性が瞬く。
「提案は可能です」
「じゃあ、提案してください」
「承知しました」
ユトは紙を一枚追加した。
「増えた」
ロゼが言う。
「提案を求められましたので」
「そうだけどさ」
ユトは簡単な形式を示した。
『観測事項』
『過去事例との比較』
『天族本人の意図を確認できた場合、その内容』
『人間側で行った解釈』
『最終的な意思決定』
「五つに分けます」
女性が読む。
「今までは、これが全部一つだったんですね」
「完全に一つではありませんが、記録上混同される部分があります」
「……確かに」
「ただし、今後この方式を使用するかどうかは、皆さんで決定してください」
「導師が決めるんじゃないのか?」
先ほどの男が言う。
「なぜ私が決めるのでしょうか」
「いや……なんとなく?」
「私は調査に来ています」
ロゼが小さく笑った。
「忘れそうになるけどね」
「何がでしょうか」
「こっちの話」
***
結局、その日の午後は、移動先についての話し合いになった。
今度は天族も参加している。
ただし、決める側ではなかった。
「東の川は、どのくらい少ない?」
一人が尋ねる。
「例年の七割くらいだ」
「北は?」
「雪が残ってる。あと十日くらいは厳しい」
「西は?」
「普通」
「東の上流なら?」
「少し多い」
「家畜が二百頭なら足りる?」
「知らん」
「神様なのに?」
「水量は分かる。お前らの家畜が一日にどれだけ飲むかまで覚えてない」
「じゃあセラに聞け」
別の男が言った。
家畜に詳しい女性が呼ばれる。
前にも似た光景を見た。
一人で全てを決める者はいない。
水については天族が知っている。
家畜については人間が知っている。
移動速度については、道をよく知る者。
子供や老人の負担については、それぞれの家族。
交易隊の予定については商人。
情報が集まっていく。
「北へ行く組は十日待つ」
「東へ行くなら頭数を減らすしかない」
「西へ回る家を増やそう」
「でも西は別の集団と重なるぞ」
「市で聞いた。あっちは今年遅れるらしい」
「じゃあ使える」
天族が黙って聞いている。
しばらくして結論が出た。
「今年は三つに分かれる」
一人が言った。
「北へ行く組は遅らせる。東は小さい群れだけ。残りは西」
「そうか」
天族が答えた。
「……それでいい?」
「俺に聞くな」
ロゼが吹き出した。
「最後に聞いちゃうんだ」
「今まで神託をもとに決めてきたからな……」
「俺は今までも水のことしか言ってないぞ」
「でも『神はこう告げた』って」
「人間が言ってただけだろ」
聞き役の女性が咳払いした。
「そこは今後、記録を分けます」
「そうしてくれ」
ユトはその会話を聞きながら、新しい一行を記録した。
『天族が人間社会へ情報を提供することと、人間社会の意思決定権を天族へ委譲することは同義ではない』
「長い」
ロゼが言った。
「必要な区別です」
「もっと短くならない?」
ユトは少し考えた。
「『知らせと命令は異なる』」
「そっちでいいじゃん」
「厳密性が低下します」
「もう元の書いときなよ」
「はい」
***
翌朝。
集落を出る前に、ユトは祠の前へ立ち寄った。
聞き役の女性が、新しい帳面を持っている。
「もう使用されるのですか」
「試してみます」
「制度変更について、合意は?」
「昨夜、皆で話しました」
「早いですね」
「嫌なら戻せばいいでしょう」
「それと、項目は少し変えました」
「確認してもよろしいでしょうか」
「はい」
女性は帳面を開いた。
ユトは変更された項目を順に確認する。
『天族本人から得た情報』
『人間側で確認した観測事項』
『過去事例との比較』
『人間側で行った解釈』
『天族からの要求・指示の有無』
『最終的な意思決定』
「六項目になったのですね」
「昨日の話をしていて、分けた方がいいと思ったので」
「合理的ですね」
「また言った」
ロゼが後ろで笑う。
「神様」
女性が祠の横を見る。
「今日は何かありますか」
「井戸の水、昨日より少し減ってる」
女性は書く。
『天族本人から得た情報:共同井戸の水量が昨日より減少』
「確認してきます」
近くにいた者が井戸へ向かった。
しばらくして戻ってくる。
「昨日の印より下がってる」
女性はもう一行書いた。
『人間側で確認した観測事項:共同井戸の水位低下を確認』
「それは、何かしろという意味ですか?」
「いや」
『天族からの要求・指示の有無:なし』
天族がそれを覗く。
「……なんか変な感じだな」
「何がです?」
「俺が言ってないことを、言ってないって記録されるのが」
「必要だそうです」
二人がユトを見る。
「誤解防止には有用です」
「やっぱりあんたのせいか」
「提案したのは私ですが、採用を決めたのは皆さんです」
「そこは分けるんだな」
「異なりますので」
ロゼが笑う。
聞き役の女性も笑った。
天族は呆れたように息を吐く。
それでも、帳面を覗き込んだままだった。
祠は残った。
水盤も残った。
布も取り外されなかった。
聞き役という役目もなくならなかった。
ただ、少しだけ書き方が変わった。
天族が何を知らせたのか。
人間がそれをどう受け取ったのか。
そして、最後に何を決めたのか。
それぞれを、別のものとして残すようになった。
同じ場所に人間と天族がいるからといって、同じことを考える必要はない。
天族が知っているからといって、天族が決める必要もない。
人間が決めるからといって、天族の言葉を無視する必要もない。
ユトはまだ、それを何か特別な思想とは考えていなかった。
ただ。
異なるものは、分けて記録した方が正確だった。
それだけだった。