聞き役のいる集落を出てから、三日。
ユトたちは、これまでより少し大きな定住集落へ到着した。
石造りの建物が増えている。
家畜を囲う柵だけでなく、荷物を保管するための倉もある。
人の出入りも多い。
ユトは地図を開いた。
「載ってる?」
ロゼが聞いた。
「はい」
「おお」
「ただし、位置が少しずれています」
「そこはもういいんじゃない?」
「よくありません」
「だろうね」
集落へ入って最初に、ユトが尋ねたのは役所の場所だった。
「公国政府の役人へ話を伺いたいのですが、行政機関はどちらでしょうか」
尋ねられた男は、少し考えた。
「明日来るぞ」
「……来る?」
「ああ」
ユトが黙った。
ロゼが笑いを堪えている。
「役所の所在地を伺っています」
「だから、明日来るって」
「建物ではなく?」
「役人が」
「……なるほど」
「ユト、今すごい顔してる」
「そうでしょうか」
「また知らない仕組み見つけた顔」
***
翌朝。
本当に役所が来た。
荷車が二台。
公国の紋章が入った旗。
帳簿を積んだ箱。
折り畳み式の机。
簡易天幕。
役人は五人。
護衛が三人。
広場の一角へ天幕を張ると、机を並べ、帳簿を置く。
一時間もしないうちに人が集まり始めた。
「……役所ができた」
ロゼが言った。
「行政窓口が設置されました」
「役所でいいじゃん」
「恒常的な施設ではありません」
「五日で消える街の時もそれ言ってたよね」
「分類上は異なります」
「はいはい」
ユトは少し離れたところから様子を観察した。
税として納める物資を持ってくる者。
帳簿を確認する者。
赤子を連れてきた夫婦。
亡くなった家族について報告する者。
今季の移動先を伝える遊牧民。
他の集団との揉め事について相談する者。
それぞれの用件が、次々に処理されていく。
「出生と死亡もここで登録しているのですね」
「みたいだね」
ロゼが答える。
「でも、毎回来られない人もいるんじゃない?」
「確認します」
「早い」
ユトは受付が落ち着くのを待ってから、一人の役人へ声をかけた。
「お時間よろしいでしょうか」
「何だ?」
「南方から来た導師ユトと申します。スラガ公国の行政制度について調査しています」
役人がユトを見る。
次に、ロゼ。
そしてエドナとデゼル。
「……ああ」
「何でしょうか」
「お前か」
「私でしょうか」
「天族を見せて回ってる導師」
「その表現は正確ではありません」
役人が笑った。
「そこまで聞いた通りか」
ロゼが肩を震わせる。
「そこも噂になってるんだ」
「どういう意味でしょうか」
「『天族を見せる導師って言うと必ず訂正する』まで広まってる」
「……情報が付加されていますね」
「そこ分析する?」
役人は椅子を一つ勧めた。
「何が聞きたい」
「ありがとうございます」
ユトは座った。
「まず、固定住所を持たない方を、行政上どのように識別しているのでしょうか」
「固定住所?」
「常時居住する場所です」
「ああ。そんなものがある奴は、それも書く」
「ない場合は?」
「所属を見る」
「所属?」
「どの群れか。どの家か。誰の親族か」
ユトの筆が動く。
「現在地は?」
「別だ」
ユトの筆が止まった。
「別?」
「そりゃ別だろ。今季どこにいるかなんて、毎年変わる」
「……帳簿を拝見してもよろしいでしょうか」
「個人の細かい記録は駄目だ」
「もちろんです。様式のみで構いません」
「それなら」
役人が未記入の帳票を一枚取り出した。
ユトが見る。
『氏名』
『所属集団』
『家族』
『主な季節移動地域』
『今季確認地』
『最終確認時期』
いくつか細かい項目もある。
ユトはしばらく黙っていた。
「どうした?」
「既に制度化されていたのですね」
「何がだ」
「所属と現在地の分離です」
ロゼが覗き込む。
「あ、本当だ」
「当然だろ」
役人が言った。
「一緒にしたら毎年全員の所属を書き直すことになる」
「合理的です」
「出た」
ロゼが言う。
「何がでしょうか」
「最近の口癖」
役人がユトの手元を見る。
「お前も似たようなこと書いてたのか?」
「はい」
ユトは自分の調査記録を開いた。
『共同体所属と現在居住地は一致しない場合がある』
『固定住所を個人識別の前提とする方式は、当該生活形態に適合しない』
役人が読む。
「……いつ書いた?」
「数日前です」
「スラガへ来てどのくらいだ」
「二週間には達していません」
「それで、こんなもの作ったのか?」
「調査していますので」
「ほんとに調査好きだな」
ロゼが言った。
「必要な確認です」
役人はさらに数枚めくった。
道。
季節移動。
大市。
危険区域。
聞き役。
途中から眉間に皺が寄り始める。
「これ、全部お前が?」
「はい」
「何のために?」
「スラガについて知るためです」
「その先は?」
「現時点では決まっていません」
役人がユトを見る。
しばらく沈黙した。
「……それが一番不安だな」
「何故でしょうか」
「分からん」
ロゼが横で小さく頷いていた。
***
昼過ぎ。
役人の仕事が一段落したところで、ユトはさらに質問を続けた。
「地域共同体では、多くの事項を住民間の合議で決定していました」
「ああ」
「公国政府が介入する基準は、どのように設定されていますか」
「基準?」
「例えば、家畜の移動時期について政府が決定することは?」
「ない」
「水場の利用は?」
「一つの群れだけなら、そいつらで決める」
「複数の集団が同じ水場を利用する場合は?」
「まず当人同士で話す。それで決まらなければ俺たちのところへ来る」
「街道整備は?」
「複数地域を通るなら公国側だ」
「大市の開催地点は?」
「地元の代表と商人、それから周辺の集団で決める。揉めれば俺たちも入る」
「外国との交渉は?」
「それは上だ。公爵家の仕事になる」
ユトは書き続ける。
「つまり、公国政府は地域共同体の日常的意思決定を代行するのではなく、複数共同体間で調整が必要になった事項、あるいは広域的な事項を扱う?」
「だいたいそんなもんだ」
「なるほど」
「近所の羊をどこへ連れてくかまで、公爵様に決めてもらってたら国なんて回らんだろ」
「非常に合理的です」
ロゼが指を一本立てた。
「今日二回目」
「数えているのですか」
「ちょっと楽しくなってきた」
役人が笑う。
「南じゃ違うのか?」
「中央政府、地方行政、居住地がより固定的に結びつく傾向があります」
「それで動くなら、それでいいんじゃないか」
「はい」
ユトは頷いた。
「こちらの方式も、当地の生活形態に適していると考えます」
「珍しいな」
「何がでしょうか」
「南から来る奴は、だいたい『分かりにくい』とか『面倒だ』とか言う」
「私にとって不慣れであることと、制度として不適切であることは異なります」
役人が一瞬黙った。
「……そうか」
「はい」
ロゼが笑った。
「そういうところはユトだよね」
「どういうところでしょうか」
「今はいいや」
***
しばらくして。
役人はユトの記録をもう一度手に取った。
「これ、写しを取っていいか?」
「構いません」
「いいのか?」
「はい。ただし」
役人の手が止まる。
「何だ」
「観測地域が限定されています」
「分かってる」
「スラガ公国全域の傾向として一般化できない項目を含みます」
「ああ」
「住民から得た証言については、複数人から一致した回答を得たものと、単独証言を区別しています」
「……ああ」
「推測部分は欄外に分離しています」
「分かった」
「また、現在確認できていない――」
「分かったって!」
役人が声を上げた。
ロゼが笑い始める。
「役人さん、頑張って」
「お前、いつもこれに付き合ってるのか?」
「慣れるよ」
「慣れるのか?」
「たぶん」
「不正確な引用を避けていただければ、それで構いません」
「最初からそれだけ言え!」
「今の説明に含まれています」
「長いんだよ!」
エドナが本から顔を上げる。
「珍しく相手の方が正論ね」
「私は必要事項を――」
「はいはい」
***
その後。
役人が急に表情を変えた。
「そういや、お前」
「はい」
「谷の憑魔を浄化したっていうのも、お前だな?」
「はい」
「聞き役の記録方法を変えたのも?」
「提案したのは私ですが、採用を決定したのは当該共同体です」
「……そこ重要か?」
「重要です」
「何でだ」
「私が他国の制度を一方的に変更したわけではありませんので」
役人の目が少し細くなった。
「分かってるならいい」
ロゼが二人を見る。
先ほどまでとは、少し空気が違う。
「何か問題がありますか」
ユトが尋ねる。
「外国から来た導師が、入って二週間もしないうちに何か所も回って、谷を浄化して、神託の書き方まで変わった」
「はい」
「公国側としては、一応何をするつもりなのか確認する」
「当然だと思います」
役人が少し意外そうな顔をした。
「そうか?」
「はい。行政機関による状況把握として妥当です」
「……本当に調査しに来ただけなんだな?」
「はい」
「政治に口を出す気は?」
「現時点ではありません」
役人が眉を寄せる。
「現時点では?」
ロゼが横を向いた。
「ユト、それ怖い言い方」
「将来の全行動を保証することはできませんので」
「ほら怖い」
「現時点で、スラガ公国の政体変更を目的とした活動は行っていません」
「もっと怖くなった」
「何故でしょうか」
役人が額を押さえた。
「まあ……勝手に制度を変えて回るつもりがないならいい」
「はい」
「何か提案する時は?」
「関係する方へ説明し、採用の可否は当事者側で決定していただきます」
「ならいい」
「必要であれば、公国政府への報告も行います」
「そこまでしてくれるなら助かる」
ユトはその言葉も記録した。
「それも書くのか?」
「連絡先と報告基準を確認しておきたいので」
「もう好きにしろ」
***
夕方。
ユトが古い街道について尋ねると、役人は地図の北側を指した。
「この先を調べるなら、セルディア原の方まで行くのか?」
ユトが顔を上げる。
「セルディア原?」
「知らないか」
「初めて聞きました」
「この辺りじゃ、それなりに知られた名前だ」
役人が、ユトの地図には何も書かれていない場所を指す。
「ここだ」
ユトは印をつける。
「どのような土地でしょうか」
「広い原っぱだな」
「居住者は?」
「今はほとんどいない」
「今は?」
「昔はもう少しいたらしい」
「なぜ減ったのでしょうか」
「知らん」
「水源に問題が?」
「いや。水はある」
「土地が痩せている?」
「特別悪いとも聞かない」
「危険な憑魔?」
「少なくとも、そういう話は聞かん」
ユトの筆が止まる。
「では、なぜ?」
「だから知らんって」
「……そうですか」
「ただ」
役人が少し考えた。
「天族の話は多いな」
「天族?」
「古い祠の跡だとか、天族を見たって昔話だとか。何かとそういう話が残ってる」
エドナが少し顔を上げた。
デゼルも地図を見る。
「現在も天族がいるかどうかは?」
「俺には見えん」
「そうですね」
「調べるのか?」
「はい」
即答だった。
ロゼが笑う。
「行く顔してたもんね」
「調査対象として興味があります」
「また増えた」
ユトは地図の余白へ書いた。
『セルディア原。現居住人口少数との情報あり。水源・土地条件について、現時点で明確な問題情報なし。天族関連伝承多数。要調査』
「要調査」
ロゼが読む。
「はい」
「絶対行くやつだ」
「その予定です」
***
翌朝。
役所はなくなった。
正確には、撤収していた。
帳簿を箱へ戻す。
机を畳む。
天幕を外す。
荷車へ積む。
公国の旗も片付けられる。
昨日まで行政窓口だった広場が、少しずつただの広場へ戻っていく。
ユトはそれを見ていた。
「役所なくなったね」
ロゼが言う。
「移動しました」
「お」
「何でしょうか」
「最初だったら『役所がありません』って言ってそう」
ユトは少し考えた。
「現在地に行政機関が存在しないことと、行政機能自体が存在しないことは異なりますので」
「また分けた」
「異なります」
「はいはい」
最後の荷車が動き出す。
役人が御者台から手を上げた。
「セルディア原まで行くなら気をつけろよ!」
「ありがとうございます」
「あと、その記録の続きも今度見せろ!」
「確認済み事項と推測を区別していただけるのであれば」
「もう分かったって!」
荷車が遠ざかっていく。
ロゼが笑っていた。
ユトは紙を開いた。
『スラガ公国政府は、地域共同体の日常的意思決定を原則として代行しない』
『同政府は、住民記録・徴税・複数共同体間の調整・広域交通・対外関係等を担う』
少し考えて、もう一行。
『行政窓口は、固定所在地を必要条件としない』
ロゼが覗き込む。
「街も動く。家も動く。役所も動く」
「はい」
「ユトもずっと動いてるね」
「現在は調査中ですので」
「そのうち、どっかで動かなくなったりして」
「調査終了後は帰還する予定です」
「そういう意味じゃないんだけどなあ」
「?」
ロゼは説明しなかった。
ユトは地図を閉じる。
次の目的地。
セルディア原。
地図には名前すら載っていない場所だった。
この時のユトにとっては、それもまた、調査項目が一つ増えただけだった。