役人たちと別れてから、さらに北へ向かった。
セルディア原。
地図には名前さえ載っていない土地。
聞いた限りでは、水はある。
土地も特別痩せてはいない。
危険な憑魔が出るという話もない。
それでも、現在はほとんど人が住んでいないという。
「見えてきた」
デゼルが言った。
丘を越える。
その先に広がっていたのは、草原だった。
風に揺れる長い草。
緩やかな起伏。
少し離れたところを流れる川。
遠くには小さな林も見える。
そして。
「……何もないね」
ロゼが言った。
「はい」
「嬉しそう」
「そうでしょうか」
「その返事もう何回目?」
ユトは周囲を見る。
何もない。
正確には、人がいない。
草の中には石があった。
自然に転がっているものとは少し違う。
近づいてみると、何本かが直線状に並んでいる。
「これ」
ロゼがしゃがんだ。
「建物の跡?」
「可能性があります」
ユトも屈む。
土に埋もれた石列。
さらに先には、崩れた石積み。
少し離れたところには、井戸らしき穴もあった。
蓋はなく、縁の石が半分ほど崩れている。
「昔は本当に人が住んでたんだ」
「そのようですね」
ユトは紙を開く。
『セルディア原。旧居住痕跡複数』
川を見る。
『水源あり』
草原を見る。
『牧草利用可能と思われる』
周囲の穢れを確認する。
『現時点で、大型憑魔その他の顕著な危険要因を確認できず』
最後に、
『聞き取り上、現居住人口ほぼなし。現時点の調査範囲でも人間居住者を確認できず。人口減少理由不明』
と書いた。
「もう調査始まってる」
「到着しましたので」
「そうだね」
ロゼは慣れたように頷いた。
***
しばらく歩いたところで、デゼルが足を止めた。
「妙だな」
「何がでしょうか」
「天族だ」
ユトが顔を上げる。
「天族?」
「ああ。さっきから何人もいる」
言われて周囲を確認する。
川の近くに一人。
崩れた石積みの上に一人。
少し離れた丘にも、二人。
皆、こちらを特別気にする様子もなく、それぞれに過ごしている。
「確かに多いわね」
エドナも言った。
「人間より多いんじゃない?」
「人間がほぼいませんので、比較としては――」
「そういう話じゃないわ」
「そうですか」
ユトは一番近くにいた天族へ声をかけた。
「すみません」
「ん?」
川辺に座っていた青年の姿の天族が振り向く。
「この地域にお住まいでしょうか」
「俺はそうだな」
「他の方々も?」
「あいつは住んでる。向こうの二人は知らん」
「この地域には、天族が多いのでしょうか」
「多い?」
「これまで訪れた地域と比較して、遭遇頻度が高いように見えます」
天族は周囲を見た。
「そうなのか?」
「少なくとも、私たちの観測範囲では」
「知らんなあ。昔からこんなもんだぞ」
ユトの筆が動く。
「なぜ、この場所に留まっているのでしょうか」
「なんで?」
「水、気候、土地、霊的環境など、何か理由がありますか」
「別に」
「別に?」
「居心地いいから」
ユトの筆が止まった。
「具体的には?」
「だから、居心地がいい」
「どの要素によって?」
「知らん」
「……」
エドナが笑った。
「諦めなさい」
「比較可能な情報が不足しています」
「天族が全員、自分の感覚を数値化して生きてると思わないことね」
「数値化までは求めていません」
「似たようなものよ」
青年の天族が面白そうにユトを見る。
「変な導師だな」
「よく言われます」
「自覚ないくせに」
エドナが付け加えた。
***
さらに奥へ進む。
人間の痕跡は続いていた。
小さな祠の跡。
道だったらしい浅い窪み。
崩れた壁。
何かを載せていたと思われる台座。
古い。
どれもかなり長い間使われていない。
「こっちにもいるぞ」
デゼルが言った。
祠の跡に、一人の天族が座っていた。
見た目は三十代ほどの男。
先ほどまでの天族たちとは違い、こちらを見た瞬間に少し驚いた顔をした。
「導師か?」
「はい」
ユトが答える。
「ユトと申します」
「へえ」
天族はユトを見て、それからロゼへ視線を移した。
「今でも来るんだな」
「今でも?」
ユトの反応が早かった。
ロゼが小さく笑う。
「食いついた」
「以前も導師が訪れていたのでしょうか」
「ああ」
「いつ頃ですか」
「いつ頃……」
天族が空を見る。
「昔だな」
「具体的には」
「知らん」
「百年前でしょうか。二百年前?それ以上?」
「俺に年数を聞くな」
「では、あなたがここへ来た時点では?」
「もういたぞ」
「導師が?」
「ああ」
ユトは紙を取り出した。
「頻度はどの程度でしたか」
「頻度?」
「一年に一人程度でしょうか」
「もっといた時もあったな」
「一年に複数人?」
「いたんじゃないか?」
「同時に複数の導師が滞在していたことも?」
「あったぞ」
ユトの筆が止まる。
「……そうなのですか」
「ユト」
ロゼが横から見る。
「今、すごい嬉しそう」
「歴史的に重要な情報です」
「否定しないんだ」
「はい」
ユトは記録した。
『年代不明。過去、セルディア原に複数の導師が出入りし、同時に複数名が滞在した時期があったとの証言あり。時期及び人数について要追加確認』
「昔は人間ももっといたしな」
天族が言った。
ユトが顔を上げる。
「この地域に?」
「ああ」
「人口が減少した理由をご存じですか」
「知らん」
「戦争は?」
「大きいのは覚えてない」
「災害?」
「それも特には」
「憑魔被害?」
「今より多かった時期はあったが、それで全部逃げたわけじゃない」
「水源の枯渇は?」
「見ての通りだ」
川は今も流れている。
「では、なぜ」
「だから知らん」
天族は笑った。
「気づいたら減ってたんだよ」
「徐々に?」
「たぶんな」
ユトはその言葉も記録する。
ロゼが辺りを見回した。
「一気に何かあったわけじゃないのかもね」
「その可能性があります」
「昔は賑やかだった?」
「ああ」
天族が答える。
「導師もいた。人間もいた。天族も今より出入りしてたな」
「なぜ導師が集まっていたのでしょうか」
「知らん」
「何をしていましたか」
「色々」
「具体的には?」
「お前みたいなことしてる奴もいたぞ」
ユトが止まる。
「私のような?」
「あの辺に天幕張って、一日中石見てたり」
天族が少し先を指した。
「水を何度も汲んで何か測ってたり」
「何を測っていたのでしょうか」
「知らん」
「記録は?」
「知らん」
「研究内容は?」
「知らんって」
ロゼが笑い始めた。
「ユトみたいなの、昔もいたんだ」
「類似した行動を取る人物が存在したことは確認できますが、私との共通性は――」
「そういう意味じゃないよ」
「?」
エドナが呆れた。
「昔の研究者にも同類認定されてるのよ」
「研究者かどうかも未確認です」
「そこ?」
天族も笑っていた。
***
午後。
ユトたちはセルディア原の中央付近まで来ていた。
少し高くなった場所から、川と草原の両方が見える。
「野営するなら、この辺でいいんじゃない?」
ロゼが言った。
「水も近いし」
「そうですね」
ユトは周辺を確認する。
平坦。
増水時にも川からある程度距離がある。
古い石積みも近い。
調査対象への移動もしやすい。
「今日はここにします」
「了解」
その時だった。
少し離れた場所を、一人の男が歩いていた。
数頭の家畜を連れている。
男はこちらへ視線を向ける。
立ち止まった。
「……?」
そして、エドナを見た。
「見えてるわね」
「はい」
ユトは特に驚かなかった。
大市でも、他の集落でもあったことだ。
「ユイの加護によるものだと思われます」
「お前が、天族を見せる導師か?」
「その表現は正確では――」
「ユト」
ロゼが遮った。
「何でしょうか」
「あの人、遠くない?」
ユトが男を見る。
距離を確認する。
確かに遠い。
これまで確認してきた通常時の加護範囲を超えているように見える。
「……少し、お待ちいただけますか」
「何だ?」
男が困惑する。
「確認したいことがあります」
「俺に?」
「はい」
「普段から天族を知覚できますか」
「いや」
「エドナさん、デゼルさんはそのままでお願いします」
「はいはい」
ユトは男からさらに離れた。
十歩。
二十歩。
「エドナさんは見えますか」
「見える」
さらに離れる。
「現在は?」
「見えるぞ」
「デゼルさんは?」
「そっちの男か?」
デゼルが眉を寄せる。
「見えてるな」
さらに離れる。
男が目を細めた。
「まだ見える」
ユトが止まった。
「……」
「その顔」
ロゼが言う。
「何でしょうか」
「研究始まる顔」
「既に始めています」
「認めた」
ユトは男の近くへ戻る。
「ご協力ありがとうございます」
「何だったんだ?」
「通常より、天族を知覚可能な範囲が広い可能性があります」
「よく分からんが、俺は帰っていいか?」
「はい。ありがとうございました」
「変な導師だな」
「よく言われます」
男は家畜を連れて去っていった。
ユトはすぐ紙を開いた。
これまでの加護範囲に関する記録を探す。
『地脈上において、ユーゼクスの加護範囲が通常時より拡大する可能性あり。要追加観測』
その後、大市で記録した項目。
『大市において、前記地点と同程度の加護範囲拡大は認められない』
そして、新しく書く。
『セルディア原において、通常時の知覚可能距離を超えた範囲で天族の知覚を確認。過去の地脈上観測と類似』
「比較してる」
ロゼが言う。
「比較可能な記録がありますので」
「こういう時のために全部残してるんだね」
「はい」
ユトはエドナを見る。
「何か土地側の要因に心当たりはありますか」
「あるわよ」
エドナは少し前から地面を見ていた。
「地脈」
「地脈?」
「この下、かなり強いわ」
確かに、霊力が広がっている。
ユトの筆が止まる。
デゼルも少し目を閉じる。
「一本じゃねえな」
「ええ」
エドナが足元を軽く踏む。
「いくつかの流れが近い。交わってるところもあるんじゃない?」
「地脈の強度によって、ユイの加護が増幅されている可能性は?」
「あるでしょうね」
「断定は?」
「まだ無理」
「承知しました」
ユトは書く。
『地脈条件との関連性が疑われる。相関未確認。追加観測を要する』
ロゼが覗き込む。
「『地脈が原因』とは書かないんだ」
「現時点では仮説ですので」
「こういうところ細かいよね」
「必要です」
エドナが周囲を見る。
「天族が多い理由も、それかもしれないわね」
ユトの顔が上がる。
「先ほどの『居心地がいい』という証言と関連する?」
「そうかもね」
「過去に導師が複数訪れていたこととも?」
「あり得るわ」
ユトは少し黙った。
古い建物。
天族の多さ。
昔は今より多かった人間。
何人もの導師。
研究らしきことをしていた者。
そして、強い地脈。
「……仮説ですが」
ロゼが笑う。
「その前置きから入るんだ」
「セルディア原の過去の発展と、地脈条件には関連があった可能性があります」
「人が多かった理由?」
「はい」
「導師が来てたのも?」
「可能性があります」
「じゃあ、人が減ったのは地脈が弱くなったから?」
ユトはエドナを見る。
「弱くなっていますか」
「少なくとも、今はかなり強いわよ」
「過去との比較は?」
「できないわ」
「では、その可能性も現時点では不明ですね」
ユトは紙へ記した。
『旧セルディア居住圏の発展と、地脈条件・導師活動・人間と天族の意思疎通環境との関連性について要検証』
ロゼが読む。
「長い」
「仮説ですので」
「仮説だと長くなるの?」
「誤解の余地を減らす必要があります」
「そっかあ」
***
夕方。
ユトたちは野営の準備を始めた。
天幕を広げる。
支柱を組む。
紐を張る。
ユトの動きは、スラガへ入った頃より明らかに早くなっていた。
「あれ」
ロゼが言う。
「何でしょうか」
「テント張るの上手くなってない?」
「何度か行っていますので」
「遊牧民の人たちに習ったやつ?」
「はい」
ユトは紐を結ぶ。
「次回撤収時に作業しやすいよう、向きも統一しています」
「そこは相変わらずなんだ」
「問題がありますか」
「ないよ」
しばらくして、一つの天幕が完成した。
何もない草原。
古い石積み。
崩れた祠。
その間に、新しい天幕が一つ増えた。
「できた」
ロゼが言う。
「はい」
「昔の導師も、この辺にテント張ってたんだっけ」
「証言上は、その可能性があります」
「同じようなことしてたりしてね」
「研究内容が不明ですので、比較できません」
「夢がないなあ」
***
夕食後。
ユトは灯りのそばで記録を整理していた。
ロゼは毛布に座り、荷物を整理している。
デゼルは外。
エドナは天幕の入口付近で本を読んでいた。
「で」
ロゼが言う。
「明日もここ調べるんだよね」
「はい」
「明後日は?」
「セルディア原の調査状況によります」
「何日くらいいる?」
ユトの筆が止まる。
「現時点では不明です」
「出た」
「ユイの加護範囲について、時間帯、天候、知覚者の霊応力、天族側の状態、位置による差を確認したいと考えています」
「うん」
「地脈についても、エドナさんの協力を得て複数地点を比較します」
「うん」
「古い居住跡についても――」
「何日?」
「最低でも数日は」
エドナが本から顔を上げた。
「一週間はいるわね」
「可能性があります」
「じゃあさ」
ロゼが天幕の天井を見る。
「これ、毎日畳む?」
「いいえ」
即答だった。
「設置したままにします」
ロゼが少しだけ黙った。
「へえ」
「毎日同一地点へ戻るのであれば、撤収と再設置を繰り返す合理性がありません」
「じゃあ、しばらくここがユトの家だ」
「研究拠点です」
「家じゃないの?」
「主用途が調査及び研究ですので」
「寝るよね?」
「はい」
「ご飯も食べる」
「はい」
「荷物も置く」
「はい」
「家じゃん」
「研究拠点です」
「頑固」
エドナが呆れたように言った。
「前に街でも同じこと言ってなかった?」
「何のことでしょうか」
「もういいわ」
ユトは新しい紙を一枚取り出した。
上部へ書く。
『セルディア原第一調査拠点』
「名前ついた」
「記録上、他の野営地と区別する必要がありますので」
「第一?」
ロゼがそこに気づいた。
「第二も作る気?」
「必要であれば」
「この一枚目が後で怖いやつになりそう」
「何故でしょうか」
「なんとなく」
***
翌朝。
ユトが起きて外へ出ると、人がいた。
「……おはようございます」
「お、おう」
昨日、加護範囲の確認に協力してくれた男だった。
ただし、一人ではない。
隣に別の男がいる。
「昨日はご協力ありがとうございました」
「いや、それはいいんだが」
「何かありましたか」
「こいつが」
連れてこられた男が一歩前へ出る。
「ここなら、天族が見えるって聞いた」
「正確には――」
「始まった」
後ろからロゼの声がした。
ユトが振り返る。
「おはようございます」
「おはよ」
ロゼは欠伸をしながら外へ出てくる。
「で?」
「説明しようとしていました」
「分かるよ」
男が言う。
「近くにいる天族と、話してみたいんだ」
「現在近くにその方がいらっしゃるのであれば、可能性はあります」
「いると思う」
「どのような方でしょうか」
話を始めようとしたところで、別の声がした。
「導師って、あんたか?」
ユトが振り返る。
今度は女性が一人歩いてくる。
その後ろには子供。
さらに遠くには荷車まで見えた。
ロゼが目を細める。
「……なんか増えてない?」
「昨日の方から情報が伝達されたのでしょうか」
「ここ、大市じゃないよ?」
「そうですね」
ユトは周囲を見る。
昨日までは、人間より天族の方が多かった土地。
そこへ今朝は、人間が四人。
遠くの荷車にも、少なくとも二人いる。
「確認します」
「何を?」
「情報伝達経路です」
「そっち?」
ロゼが笑った。
ユトはまだ知らなかった。
その日の午後には、さらに三組がやって来ることを。
翌日には、食料を売りに来る商人が現れることを。
その数日後には、
「どうせ人が来るなら、ここで商売した方が早い」
と言い出す者がいることを。
セルディア原には、古い建物の跡がいくつも残っていた。
かつて、多くの人間が暮らし、天族と何人もの導師が行き交ったという土地。
そこへ、その日。
新しいものが一つ増えた。
導師ユトの、研究用の天幕だった。