スレイとミクリオは、天への階梯と呼ばれる遺跡にたどり着いた。
ブウサギ型の天族ズイフウはふわりと浮かびながら、少しの間、スレイとミクリオを見つめていた。
人間と天族。
ズイフウにとって、それ自体は見たことのない組み合わせではない。
だが、二人の間には契約による主従も、使命による緊張もなかった。
さっきからずっとそうだ。
「スレイ、それには触るな。崩れかけている」
「触ってないって」
「手を伸ばしただろ」
「見るためだよ」
「お前は見る時に近すぎるんだ」
「ミクリオだって遺跡見る時、すぐ近づくだろ」
「僕は状態を確認しているんだ」
「オレもだよ」
「違う」
そんな会話をしている。
何万年も、人間と天族が共に生きる方法を探してきたズイフウからすれば、不思議なほど普通だった。
「……あなたたちは、本当に昔から一緒なのですね」
ズイフウが言った。
スレイが振り返る。
「うん。オレが物心つく前から」
「そうですか……」
ズイフウは視線を伏せた。
「かつて、あなたたちのような未来を望んだ者たちがいました」
「天族が?」
ミクリオが聞く。
「ええ」
遠い、あまりにも遠い昔。
「天界から地上へ降り、人間と共に生きることを選んだ天族たちです」
スレイが少し身を乗り出す。
「その人たちは、うまくいったのか?」
ズイフウは答えなかった。
代わりに、ゆっくりと古い石壁へ目を向けた。
「彼らは信じていました」
そして。
「彼らの夢が実現した時、天界の門は開かれ、人間と天族、天界と地上はひとつになる……」
静かな声だった。
祈りにも、遠い昔の物語にも聞こえた。
ミクリオが眉を寄せる。
「夢というのは、人間と天族が共に生きることか?」
「はい」
「それを実現するために、何か仕組みがあった?」
ズイフウは頷いた。
「誓約です」
その言葉に、スレイの表情が変わる。
「誓約?」
「天界と地上の間にかけられた、大きな誓約です」
「どんな?」
ズイフウは、一度だけ目を閉じた。
そして告げる。
「地上で人間と天族が共存しつづけること」
一瞬。
何も聞こえなくなった。
スレイが目を見開く。
ミクリオも動かなかった。
「……嘘だろ?」
「嘘ではありません!」
思わず声が強くなる。
「私はこの誓約を――」
「誓約の内容を疑ってるわけじゃない」
スレイが言った。
「……え?」
ズイフウが止まる。
スレイはミクリオを見る。
「ミクリオ」
「分かってる」
「『共存しつづける』って」
「言うな」
「あの箱」
「分かってる!」
ズイフウが二人を見比べた。
「……箱?」
スレイが説明する。
「知り合いに、ユトって導師がいるんだ」
「導師?」
「うん。それで少し前に、あいつが木箱を作った」
ズイフウは待った。
何故この話の流れで木箱が出てくるのか、理解できなかった。
スレイは続ける。
「『スレイさんとミクリオさんが共存しつづける間だけ開く箱です』って」
「…………」
「得られる力は、箱が軽くなること」
「…………何故?」
ズイフウの問いはもっともだった。
ミクリオが額へ手を当てる。髪越しのサークレットは冷たい。
「僕たちも今、それを理解したところだ」
「その時は、誓約術式が『共存しつづける』という言葉をどう解釈するか調べる実験だと言っていた」
スレイが言う。
「定義もしてなかったんだ。普段は一つの誓約で何枚も注意書きするやつが」
ミクリオが続ける。
「距離は指定していない。同じ場所にいる必要もない。会話している必要もない。仲が良いことも条件にしていない」
「では、何を条件に?」
「だから、それを術式自身に判断させたんだ」
沈黙。
ズイフウは、しばらく何も言わなかった。
「……その箱は?」
「今もセルディアにある」
「開いている」
ミクリオが補足する。
「僕とスレイが離れていても。眠っていても。会話していなくても」
少し間を置く。
「意見が対立していても」
「喧嘩してても開いたよな」
「あれは喧嘩じゃない」
「まだ言うのか?」
「お前が――」
「待ってください」
ズイフウが止めた。
「つまり、その導師は……」
そこでスレイが、はっとした。
「待って」
ミクリオが嫌そうな顔をする。
「今度は何だ」
スレイはズイフウを見る。
「最初から、もう一回言ってくれる?」
「……誓約をですか?」
「うん」
ズイフウは戸惑いながらも繰り返す。
「地上で人間と天族が共存しつづける」
「地上」
スレイが言った。
ミクリオの顔が固まった。
「……」
「ミクリオ」
「言うな」
「ユト、作ってた」
「分かってる」
「『地上でしか開かない箱』」
「分かってる!」
ズイフウはとうとう聞いた。
「また箱なのですか?」
「また箱なんだ」
スレイも少し困った顔で答える。
「セルディアでは開いた。屋内でも地下でも開いた」
ミクリオが続ける。
「その後、アイゼンという天族へ送って、海上で開くか試した」
「海上で?」
「十分に陸から離れると開かなかったらしい」
ズイフウの目が少しずつ見開かれていく。
「……何をしているのですか、その導師は」
スレイとミクリオが顔を見合わせる。
「たぶん」
スレイが言った。
「今聞いた誓約を調べてる」
「……」
「一語ずつ」
ミクリオが付け加える。
ズイフウは何も言わなかった。
何万年も、人間と天族が共に生きられるかを問い続けてきた。
数え切れない失敗を見た。
希望を託した者もいた。
聖主と契約を交わせるほどの強い霊応力と、まっすぐな意志を持った人間を待った。
それでも。何度も、何度も悲劇は繰り返された。
その誓約を。
見知らぬ導師が一語ずつ調べている。
木箱で。
「……嘘だろ?」
スレイがもう一度呟いた。
「だから本当だ!」
ミクリオが怒鳴った。
「今度は何を疑っているんですか!」
ズイフウまで声を上げる。
「ユトがどこまで先に調べてるのかを」
「その導師への疑問なのですか!?」
「そうだよ!」
「最初からそう言っているだろう!」
二人に同時に返され、ズイフウは言葉を失った。
少ししてスレイが真顔になる。
「……でも」
笑いが消える。
「その誓約、どうして今も続いてるんだ?」
ズイフウも表情を戻した。
「聖主たちは、誓約をこう理解していました」
ゆっくりと言う。
「人間と天族の共存が実現した時、誓約が完成する。その時初めて力が発動し、天界と地上がつながるのだと」
「違った?」
「はい」
ズイフウの声が低くなる。
「誓約は、結ばれた時点で既に発動していました」
ミクリオが息を呑む。
「……『共存しつづける』」
「そうです」
ズイフウは頷いた。
「人間と天族の共存がまだ成立していない。その状態そのものが、『共存しつづける』という条件を満たしていない――つまり、誓約を破っている状態として扱われたのです」
「反動って?」
「人間の業魔化です」
「業魔って、憑魔の昔の言い方だよな」
スレイの顔から表情が消えた。
「そして」
ミクリオが、次の言葉を予想したように目を細める。
「天族の、ドラゴン化です」
沈黙。
今度の沈黙は長かった。
「……じゃあ」
スレイが、ゆっくりと言う。
「穢れがあるから、自然にそうなるんじゃない?」
「地上では、本来、穢れはそのような作用を持つものではありません」
「……」
「穢れは、地上の人間が生み出すエネルギーです。天界の天族にとっては毒ですが、地上において、本来それ自体が人や天族を変質させるものではありませんでした」
ミクリオが拳を握る。
「誓約が」
声が低くなる。
「誓約が、そうなるようにしたのか」
「はい」
ズイフウは目を伏せた。
「しかも、偶然ではありません」
スレイが顔を上げる。
「……どういう意味?」
「この反動は、人間と天族の共存を阻むように組まれていた」
ズイフウの声が震える。
「共存できなければ、反動が起きる。その反動によって人は業魔となり、天族はドラゴンとなる。それを恐れれば、人と天族はさらに遠ざかる」
「そんな……」
「罠だったのです」
ズイフウは唇を噛んだ。
「地上を滅ぼそうと考えていた、天界の天族たちが仕組んだ」
スレイは何も言えなかった。
ミクリオも。
目の前にある話は、あまりにも大きかった。
だが。
スレイの頭の隅には、それでも一つだけ残っていた。
セルディアの机。
何の変哲もない木箱。
開いた蓋。
軽くなった重量。
『条件成立継続』
ユトが、淡々と書いていた文字。
スレイは小さく息を吐く。
「……帰ったら」
ミクリオが横を見る。
「何だ」
「ユトに聞こう」
「当然だ」
「どこまで知ってたのか」
「全部聞く」
スレイは頷いた。
そして。
「……『人間』も箱にしてたりして」
ミクリオの足が止まった。
「スレイ」
「ん?」
「縁起でもないことを言うな」
「『天族』も」
「言うな!」
二人の声が、古い場所に響いた。
ズイフウは、その背中を見つめていた。
人間と天族。
何万年も、共に生きられるのかと問い続けてきた二つの種族が。
当たり前のように言い合いながら、同じ方向へ歩いていく。
「……ゼンライ」
誰にも聞こえないほど小さく。
ズイフウは呟いた。
「まだ希望は残っているのかもしれないわね」