アイゼンとライラがセルディアへ来た。
ザビーダも来ているらしい。
正確には、三人でセルディアまで来たあと、ザビーダだけ別行動を始めた。
「ザビーダさんはいらっしゃらないのですか」
研究所へ入ってきた二人を見て、ユトが尋ねる。
アイゼンは少しだけ窓の外を見た。
「いるぞ」
「では、どちらに?」
「知らん」
「先ほど、通りで女性の方に声をかけていらっしゃいましたわ」
ライラが困ったように笑う。
「今日は仕事ではないので、セルディアの女性と話すので忙しい。放っておいてくれ、だそうです」
「そうですか」
ユトは少し考えた。
「不可視性豪雨について、追加で確認することは難しいでしょうか」
アイゼンは首を振った。
「放っておいてやれ」
「今日はやめておきます」
ユトは机の上に置いていた紙をまとめた。
「本題はこちらです」
アイゼンが紙を見る。
表題には、
『セルディアにおける恒常的加護領域の維持について』
とあった。
「セルディアでは、そろそろ地の主を置く必要があると考えています」
ライラが目を瞬いた。
「地の主を?」
「はい。恒常居住者が増えています。長期滞在者や商隊、巡礼目的の来訪者まで含めれば、一日にこの地域へ滞在する人数はさらに多くなります」
ユトは別の紙を出した。
人間の人口。
確認済みの天族。
建物の数。
一日に使用される水量。
最近増えた宿泊施設。
アイゼンは最初の二行を見たところで紙を置いた。
「相変わらず数えてるな」
「必要ですので」
「それで、地の主か」
「現在、セルディア周辺の加護領域については、ユイが事実上中心になっています」
――中心?
ユイの声がする。
「少なくとも、私のこれまでの認識ではそうです」
――わたし、地の主だったの?
「正式な地の主ではありません。セルディアにおける加護領域の主要な形成者である可能性が高い、という意味です」
――そっか。
ユイは納得したらしい。
ユトは続ける。
「私はセルディアを生活拠点として継続する予定です。この街を気に入っています」
ライラが少し微笑んだ。
「ですが、今後一度もセルディアを離れる必要が生じないとは限りません」
災害救助。
各国からの要請。
天界の誓約に関する追加調査。
現在分かっているだけでも、ユトが自分で動かなければならない可能性はいくつもある。
「ユイは私から離れられません。私が移動すれば、ユイも移動します」
「それで、セルディアの加護が弱まると考えているんですのね」
ライラが言う。
「はい。加えて、天族を人間に知覚させる加護についても、セルディアから離れるほど効果が低下すると考えられます」
「だから、自分がいなくても街を守れる地の主を置きたいと」
アイゼンが言った。
「正確には、私及びユイの所在がセルディア全体の安全性を大きく左右する構造を避けたいと考えています」
「ユトさんらしいですわね」
ライラが言った。
「そのため、地の主となる意思があり、セルディアとの相性に問題がない天族を探したいと考えています。お二人にも候補について相談したく――」
「待て」
アイゼンが止めた。
「はい」
「その前に聞くが」
アイゼンは研究所の外へ視線を向けた。
「お前、本当にこの街をユイ一人が守ってると思ってるのか?」
ユトは少し止まった。
「違うのでしょうか」
「少なくとも、俺にはそうは見えん」
ユトも窓の外を見る。
研究所の前を、人間の男と天族が並んで歩いていた。
何か話している。
それだけだった。
「根拠を教えてください」
「祈りは調べたか?」
「信仰人口でしょうか」
「違う」
即答だった。
ユトがアイゼンを見る。
「信仰が天族の状態に影響することは認識しています。急激な信仰の減少が天族に悪影響を与える可能性があることも」
「そこまでは知ってるんだな」
「はい」
「なら、祈りが何かは?」
「天族に対する信仰行為ではないのですか」
アイゼンは少し考えた。
「間違いとは言わん。だが、それだけじゃない」
ライラもアイゼンを見る。
アイゼンは腕を組んだ。
「祈りってのは、俺達天族の存在へ向けられる、純粋な願いや思いだ。別に祭壇の前で頭を下げる必要はない」
ユトの表情は変わらなかった。
ただ。
数秒、返事がなかった。
「確認します」
「ああ」
「宗教的な崇拝は、必須要件ではない?」
「ない」
「感謝は?」
「なる」
「親愛は?」
「それもだ」
「相手の無事を願うことは?」
「なるだろうな」
「また会いたい、という感情は?」
「それも相手に向いてるなら祈りだ」
ユトは黙った。
――ユト?
「……少し、外へ出てもよろしいでしょうか」
「構わん」
三人は研究所を出た。
***
セルディアの通りは、昼を過ぎても人が多かった。
研究所が天幕だった頃にはなかった店が並んでいる。
荷車が通る。
少し離れた場所では、人間の子供たちが遊んでいた。
その中に、天族が一人混ざっている。
「先生!」
子供の一人が天族を呼んだ。
「明日も来る?」
「明日は午前からいるよ」
「じゃあ、昨日の続き教えて」
「その前に、今日教えた文字を覚えろ」
「えー」
「えー、じゃない」
子供たちが笑う。
天族も笑っていた。
ユトが足を止める。
「……あれも?」
アイゼンは子供たちを見る。
「少なくとも、あの子供たちからあいつに向いている感情はあるな」
「祈りですか」
「そう考えていいだろう」
歩く。
次は店だった。
一人の天族が、積まれた箱の上に座っている。
店主が荷物を運びながら声をかけた。
「今日は手伝わないのか?」
「昨日やっただろ」
「昨日は昨日だ」
「今日は休み」
「天族にも休みがあるのかよ」
「今できた」
店主が笑う。
「まあいい。昨日は助かったよ」
ユトが止まる。
店主はもう荷物を運び始めている。
天族も箱から降りて、結局、一つ持ち上げた。
「これも」
「そうだな」
アイゼンが答えた。
今度は井戸。
人間の女性が水を汲んでいる。
その横に、古くからこの辺りにいるという天族がいた。
「昨日、少し水が濁ってたけど大丈夫?」
「上流で土が崩れただけだ。今日は問題ない」
「よかった。いつも見てくれてありがとう」
「別に。俺もここの水使うし」
先ほども聞いた。
ユトはしばらく二人を見ていた。
特別な儀式はない。
祈りの場でもない。
供物もない。
誰も膝をつかない。
ただ相手がそこにいると知っている。
名前を呼ぶ。
話をする。
助けてもらえば礼を言う。
来なければ心配する。
明日も会うつもりで別れる。
「……祈りが、多いですね」
ユトが言った。
ライラが微笑む。
「そうですわね」
「私はこれまで、祈りを宗教的信仰と近いものとして扱っていました」
「それも祈りの一つです」
「ですが、それだけではない」
「はい」
ユトは周囲を見る。
セルディアへ来たばかりの頃にも、似た光景はあった。
初めて天族を見た人間が驚き、本当にいたのだと確認し、言葉を交わしたその時。
ユトは記録した。
人間と天族が互いの存在を確認した、と。
ただ、それだけだと思っていた。
「ユイ」
――なに?
「ユイの加護によって、人間が天族を認識する」
――うん。
「その結果、人間から、その天族個人に対する感情が発生する」
――うん。
「それが祈りになる」
――そうみたい。
「祈りを受けた天族は、加護を強める」
アイゼンが言う。
「程度は相手によるがな」
ユトは少し考えた。
「……計算が合わない理由になる可能性があります」
「計算?」
ライラが尋ねる。
「以前から、セルディアにおける穢れの蓄積量が想定より少ない状態が続いています」
「気づいていたのか」
「はい。ただし、地脈とユイの加護による影響の範囲内だと考えていました」
ユトは研究所へ戻った。
三人も続く。
机の上から、セルディア周辺の地図を取る。
「再測定します」
「今からか?」
「はい」
アイゼンは少し笑った。
「そうなると思った」
***
調査には三日かかった。
ユト一人では測定しきれないため、ライラとアイゼンにも協力を頼んだ。
ユイの加護範囲。
地脈。
既知の天族の居住位置。
穢れの濃度。
人間との交流頻度。
それらを地図へ重ねる。
最初に見つかったのは、学校として使われ始めている建物の周辺だった。
まだ正式な学校ではない。
読み書きを教えられる者が、子供たちへ教えているだけの場所。
そこにいる天族の周辺で、ごく小さな加護領域が確認された。
次は井戸。
その次は宿。
次は店。
一つ一つは小さい。
ユイがセルディア周辺へ及ぼしている加護と比較すれば、取るに足らないほど弱いものも多かった。
しかし。
「……多いです」
ユトは地図を見る。
印が増えていた。
一つ。
二つ。
十。
二十。
アイゼンが覗き込む。
「まだ増えるだろうな」
「はい」
小さな領域は、互いに重なっていた。
同じ場所に二つ。
場所によっては三つ。
それでも、顕著な相互阻害は確認できない。
「領域が競合する場合、通常は強い側が優先されると認識していました」
ユトが言った。
「対立していればな」
アイゼンが答える。
「全部が同じなら重なる、という意味ですか」
「まったく同じじゃないだろう。あの井戸の天族は井戸を気にしてる。学校にいる奴は子供たちを気にしてる。店にいる奴は、あの店の連中を気に入ってる」
ライラが地図を見る。
「ですが、互いに排除したいわけではありませんものね」
「方向が近い?」
「そういうことだろうな」
ユトは紙へ書く。
『局所的な加護反応間に部分的重複を確認。現時点で顕著な相互阻害なし』
その下に。
『領域目的の類似性が競合発生率へ影響する可能性。要追加検証』
書く。
――みんな、この街が好きなのかな。
ユイが言った。
ユトは少し考えた。
「街全体を好んでいるとは限りません」
――うん。
「特定の人。特定の場所。店。井戸。学校。それぞれ対象が異なります」
――うん。
「ですが」
ユトは地図を見る。
小さな円が重なっている。
一つの巨大な円ではない。
いくつもの小さな範囲。
「結果として、セルディアの広い範囲が覆われています」
――みんなで、ちょっとずつ守ってるね。
「はい。ユイが、皆で少しずつ守っていると言っています」
アイゼンが笑った。
「それが一番分かりやすいな」
ユトは否定しなかった。
***
四日目。
ユトは最初に作った資料を机へ広げた。
『セルディアにおける恒常的加護領域の維持について』
地の主候補。
必要な加護強度。
想定される負担。
ユイ不在時の危険性。
その横へ、新しい記録を置く。
『セルディア市街地内、局所的な加護反応観測結果』
ライラが二つを見る。
「どうされますか?」
ユトは少し考えた。
「地の主を急いで新たに置く必要性について、再評価します」
「探さないのか」
アイゼンが聞く。
「探すこと自体を否定するものではありません。ですが、セルディアの安全が一柱の強い天族を必要条件としている、という私の前提が誤っていました」
紙へ書く。
『従来仮説を修正』
続ける。
『セルディア市街地の穢れ抑制は、ユーゼクス単独の加護領域によるものではない』
『複数天族による局所的な加護反応が分散して存在し、都市全体の環境維持へ寄与している可能性が高い』
「断定しないんですのね」
ライラが言った。
「因果関係について、まだ十分な検証がありません」
「そこは変わらないな」
アイゼンが言う。
「はい」
ユトは筆を置いた。
少しだけ。
考える。
「非常に望ましいです」
「何が?」
「私及びユイの一時的不在によって、セルディア全域の加護が失われる構造ではありませんでした」
――よかったね。
「はい」
ユトは素直に頷いた。
「特定の一人に依存しない方が安全です」
「自分がいらなくなるのにか?」
アイゼンが少し意地悪く聞いた。
「私はセルディアからいなくなる予定はありません」
「そういう話じゃない」
「また、私がいなくても街が維持できることと、私がここにいてはいけないことは同義ではありません」
アイゼンは少し黙った。
それから。
「そうだな」
とだけ言った。
ユトは紙をまとめる。
筆が止まった。
「……ですが」
ライラが見る。
「ユトさん、何か?」
「加護領域については、想定より問題が小さいことが分かりました」
「はい」
「しかし、ユイが私と共にセルディアを離れた場合、人間側の天族知覚能力は低下します」
――そこは、わたしだね。
「はい」
セルディアを守る力は、既に分散している。
だが、人間が天族を見ること。
声を聞くこと。
そこにはまだユイの影響が大きい。
「短期間であれば、穢れによる安全上の危険は小さいと考えます。しかし、その間、人間と天族の意思疎通が困難になる可能性があります」
ライラが頷く。
「そうですわね」
ユトは少し考えた。
「……双方が読み書きできるのであれば、筆談でよいかと思います」
沈黙。
アイゼンがユトを見る。
ライラもユトを見る。
「何でしょうか」
「いや」
アイゼンが先に視線を逸らした。
ライラは少し困ったように笑った。
「とても単純な方法ですわね」
「はい。紙と筆があれば可能です」
「ええ」
「天族は物理的な物品へ干渉できます。人間側が天族を知覚できなくても、文字そのものは残ります」
「はい」
「……何故、この方法が一般的な人間と天族の意思疎通手段として普及していないのでしょうか」
ライラの笑顔が少しだけ遠くなった。
「失敗したのです」