「失敗したのです」
ライラはそう言った。
ユトは少し考える。
「筆談そのものに、何らかの問題があったのでしょうか」
「いいえ。文字は書けましたし、人間の方にも読むことはできました」
「では、何故?」
ライラは困ったように笑った。
「信じていただけなかったんです」
「何をですか」
「その文字を、天族が書いたことを」
ユトが止まる。
アイゼンは椅子へ座り直した。
「考えてみろ。見えもしない、声も聞こえない相手が、いきなり紙に文字を書いてくるんだぞ」
「はい」
「普通は誰かのいたずらだと思う」
「……なるほど」
ライラが続ける。
「昔、ある天族が、人間と話してみたいと思ったことがありました。その方は、毎日同じ家を訪れていたそうです」
「その家の方には、天族が見えなかった?」
「はい。ですが、人間の方の声は天族には聞こえますから、お話を聞くことはできました」
ユトは頷く。
天族には人間の声が届く。
逆は必ずしも成立しない。
人間側に十分な霊応力がなければ、天族が何を話しても、その声は届かない。
「その天族は、人間の話への返答を紙へ書いた?」
「はい。最初は簡単な挨拶からだったそうです」
ライラは少し考える。
「『こんにちは』と」
「結果は?」
「誰かのいたずらだと思われました」
「もう一度書きましたか」
「はい」
「結果は?」
「また、いたずらだと思われました」
「……」
「人間の方が『今日は寒いですね』と言えば、『そうですね』と書く。『明日は雨でしょうか』と言えば、天気について返事を書く。それでも、その返事を書いている相手が天族だとは分かりません」
ユトはしばらく黙った。
「会話としての整合性があっても?」
「誰かが近くで聞いて、隠れて書いていると思われることもあったそうですわ」
「そうですか」
「中には、天族が書いているのではないかと考えた方もいました。でも、それを確かめる方法がありませんでした」
アイゼンが腕を組む。
「天族の側は、相手が何を言ってるか全部聞こえてる。だから余計にもどかしいだろうな。返事だけが届かん」
「返事そのものは、文字として届いています」
ユトが言った。
アイゼンが見る。
「何?」
「人間側は文章を読めています。意味も理解できる。天族側は人間の音声を聞くことができる」
「まあな」
「であれば、意思伝達そのものには、部分的に成功しています」
ユトは机の上の紙へ、
『こんにちは』
と書く。
その下へ。
『私は天族です』
と続けた。
「問題は、この文章を誰が記載したのか確認できないことです」
ライラが目を瞬く。
「つまり?」
「発信者の本人確認です」
ユトは紙を指す。
「『私は天族です』という文章は、人間でも記載できます。文章の内容だけでは、記載者が天族本人であることを証明できません」
「そうだな」
アイゼンが答える。
「過去の筆談では、人間側が受け取った文章と、特定の天族個人を結びつけることができなかった」
少し考えて、ユトは発言した。
「……セルディアではできますね」
ライラがユトを見る。
「はい?」
「本人確認です」
ユトは顔を上げた。
「ユイの加護がある間に、最初の一度だけ確認すればよいのではないでしょうか」
――わたし?
「はい」
ユトは続ける。
「人間側が対象の天族を知覚できる状態で、天族本人が文章を書く。それを人間側が直接確認します」
ライラの表情が変わる。
「なるほど」
「筆跡も確認できます。以後、この冊子を両者の意思疎通へ使用すると事前に決めておけば、ユイの加護が一時的に失われた場合でも、誰からの返答なのか判断できます」
アイゼンが頷いた。
「最初に一回、相手が本当にいるって分かってりゃいいのか」
「少なくとも、従来の失敗原因の一つは除去できます」
「相変わらず断言しないな」
「実験していませんので」
ユトは新しい紙を出した。
『天族知覚不能時における既知天族との文字意思疎通試験』
書く。
ライラが覗き込む。
「もう試すんですの?」
「可能であれば」
「相手は?」
「普段からセルディアで人間と交流している方が適切だと思います」
少し考えて。
「ロゼさんにも協力をお願いしましょう」
***
協力してくれたのは、街の中央近くで雑貨を扱う男と、その店に頻繁に出入りしている天族だった。
以前、ユトが小規模な加護領域を確認した組み合わせでもある。
「で、俺は何すればいいんだ?」
店主が聞く。
「普段どおりで構いません。ただ、一時的にこちらの天族の方が見えなくなる状態を作ります」
「今は見えるけどな」
「はい。まず、その状態で本人確認を行います」
ユトは机へ白紙の冊子を置いた。
どこにでもあるものだった。
装飾もない。
術式もない。
紙を束ねただけの冊子。
「こちらへ、何か書いていただけますか」
天族が筆を取る。
『今日は働かない』
書いた。
店主が顔をしかめる。
「お前、さっきもそう言って結局荷物運んでただろ」
「今日は本当に働かない」
「はい」
ユトが二人を見る。
「今、こちらの文章を記載したのが、この天族の方であると確認できますか」
「できる」
店主が答える。
「目の前で書いてたからな」
「ありがとうございます」
ユトはロゼへ説明する。
「私はユイと共に、この店が加護範囲から外れる位置まで移動します」
「分かった」
「現在のセルディアの市街地規模を考えると、その地点からはこちらの会話も聞こえないと思います」
「じゃあ、こっちの様子はどうやって確認するの?」
「天族の方に中継をお願いします」
既にライラのほか、二人の天族に協力を頼んでいた。
店からユトが移動する方向へ、間隔を空けて待機してもらう。
人間の声は天族に聞こえる。
天族同士なら、互いの声を認識できる。
店側の状況をロゼが口頭で確認し、近くの天族がそれを聞く。そこから天族同士で伝言し、最終的にユトへ伝える。
「ずいぶん大掛かりになったね」
ロゼが言う。
「街が大きくなったためです」
「そこはちょっと嬉しそうだね」
「そうでしょうか」
「ちょっとだけ」
ユトは否定しなかった。
「では、お願いします」
――行こう。
「はい」
ユトとユイは店を出た。
アイゼンも同行する。
ライラは中継地点へ向かった。
***
ユトたちは、セルディアの通りを進んだ。
昔なら、研究所から少し歩けば何もなかった場所にも建物がある。
宿。
倉庫。
店。
家。
さらに進む。
人が減る。
建物もまばらになる。
ユトは以前の観測記録と現在位置を照合した。
「この辺りです」
「まだ見えてるかどうか、お前には分からんだろ」
アイゼンが言う。
「はい。連絡を待ちます」
少しして。
近くにいた天族が声をかけてきた。
「ライラからだ。店主から、天族が見えなくなったとロゼが確認したそうだ」
「ありがとうございます」
ユトは現在位置を記録する。
「店主から天族への音声伝達は?」
「問題なし。普通に聞こえてるって」
「天族から店主への音声は?」
「届いてない」
「予想どおりです」
ユトは書く。
『対象天族の知覚不能を確認』
『人間から天族への音声伝達:成立』
『天族から人間への音声伝達:不成立』
「では、筆談を開始していただいてください」
伝言が戻っていく。
少し待つ。
ユトには当然、店で何が起きているか直接は分からない。
街が大きくなった。
以前なら、少し離れた場所の騒ぎくらいは聞こえただろう。
今は、もう届かない。
そのこと自体が少し不思議だった。
数分後。
また、天族が戻ってくる。
「成功したそうだ」
「詳細をお願いします」
「最初に店主が『いるか?』って聞いた」
「音声で?」
「ああ。天族には普通に聞こえた」
「返答は?」
「冊子に『いる』と書いた」
ユトが記録する。
「店主は?」
「『いた』って」
アイゼンが少し笑った。
「それだけか」
「そのあと普通に話してる。店主は口で。天族は書いて返してるそうだ」
ユトの筆が止まる。
「人間側は筆記する必要がありませんね」
「そうなるな」
アイゼンが答える。
「人間から天族への音声は元から成立しています」
「だから返事だけ書きゃいい」
「はい」
ユトは、最初に書いていた実験方法へ線を引いた。
『同一冊子への交互記載』
その横へ。
『訂正。人間側は音声利用可能。天族側から人間側への返答のみ筆記でも成立』
と書き加える。
「より簡単ですね」
「いいことじゃないか」
「はい」
***
店側ではロゼが冊子を覗き込んでいた。
店主は目の前にいるはずの天族へ向かって話す。
「じゃあ、本当に俺の声は聞こえてんだな?」
天族が書く。
『聞こえてる』
「こっちからは全然聞こえないんだけどな」
『知ってる』
「なんか腹立つな」
『なんでだ』
ロゼが笑う。
「普通に会話できてるじゃん」
「できてるな」
店主は少し考えた。
「明日の朝も来る?」
天族が書く。
『来る』
「荷物届くんだけど」
『それは知らない』
「手伝えよ」
『嫌だ』
「茶出すから」
天族の筆が止まる。
少しして。
『二箱まで』
「よし」
ロゼが笑う。
「交渉まで成立してるね」
店主は冊子を見る。
「ああ」
それから。
少しだけ声の調子を変えた。
「昨日は助かったよ。ありがとう」
天族の手が止まった。
何も書かない。
店主には相手がどんな顔をしているのか分からない。
でも。
少しして。
文字が増える。
『どういたしまして』
店主はそれを読んで、少し笑った。
***
報告は、天族たちを経由してユトへ届いた。
「最後に、店主の方が昨日の手伝いについて礼を言ったそうですわ」
ライラが戻ってきて言う。
「対象天族は?」
「『どういたしまして』と返答を」
ユトは記録する。
そこで前日の話を思い出した。
祈り。
天族へ向けられる純粋な感情。
「……相手が見えなくても、成立するのですね」
ライラが微笑んだ。
「何がですの?」
「祈りです」
アイゼンが見る。
ユトは続ける。
「店主は、誰に対して感謝を伝えたのか理解しています」
「そうだな」
「対象天族の姿は見えていない。しかし、そこにいることを知っている」
「一度会ってるからな」
「はい」
ユトは少し考える。
「つまり、ユイの加護が一時的に失われても、既に成立している人間と天族の関係が直ちに失われるわけではない」
――よかったね。
「はい」
ユトは素直に頷いた。
「非常に望ましいです」
アイゼンが笑う。
「お前、そればっかりだな」
「望ましい結果ですので」
***
ユトたちは店へ戻った。
ユイの加護範囲へ入る。
店主が天族を見る。
「あ、戻った」
「ずっといたよ」
今度は、その声も聞こえる。
「知ってる。さっきまで話してたから」
店主は冊子を持ち上げた。
「これ、普通に使えるぞ」
「ありがとうございます」
ユトは冊子を確認する。
最初の一行。
『今日は働かない』
そこから。
『いる』
『聞こえてる』
『来る』
『嫌だ』
『二箱まで』
最後に。
『どういたしまして』
ユトは一つずつ確認した。
「同一筆跡です」
「そこ確認するんだ」
ロゼが言う。
「本人認証が今回の主要な問題でしたので」
「まあ、そうだけど」
ユトは店主へ聞く。
「知覚できなかった間、この文章を書いている相手が、現在こちらにいる天族の方であると認識できていましたか」
「できてたよ」
「理由は?」
「最初に目の前で書いたの見てるし」
冊子を見る。
「あと、こいつじゃなきゃこんな返事しない」
「会話内容による本人性の確認も可能」
ユトは書く。
「ただし、筆跡模倣等による成りすましについては――」
ロゼが見る。
「普通の友達同士の会話だよ?」
「はい」
少し考える。
「では、現時点では保留します」
「保留するんだ」
「国家機密を扱うわけではありませんので」
「ちゃんと分かってるじゃん」
「はい」
***
研究所へ戻る。
ユトは実験結果をまとめた。
『ユーゼクス加護領域外における既知天族との文字意思疎通試験』
『結果:成功』
『開始条件:人間側が対象天族を本人として認識可能な状態で、筆跡及び通信方法を事前確認すること』
『人間→天族:通常の音声による意思伝達が可能』
『天族→人間:筆記による返答が可能』
『必要物品:紙、筆記具』
そこまで書いたところで。
ロゼが紙を覗き込んだ。
「じゃあ、このノート売ろう」
「一般的な白紙冊子です」
「知ってる」
「特殊な術式もありません」
「それも知ってる」
「セルディア以外でも同等品を購入できます」
「だから?」
ユトは少し考えた。
「商品としての差別化要素がありません」
「あるよ」
ロゼは実験に使った冊子を持ち上げた。
「セルディアで天族と知り合った人が、その天族と一緒に街を出たあとも話すための帳面」
「使用目的の差異ですか」
「そう」
「冊子自体には差異がありません」
「だから表紙だけ作る」
「……」
「旅の記念にもなるしさ。ここで天族と知り合った人なら、使い方も分かる」
ユトは少し考える。
「実用品として問題はありません」
「でしょ?」
「ただし」
「特殊な効果があると思われないようにする」
ロゼが先に言った。
ユトが止まる。
「はい」
「分かってきたよ」
ロゼは少し得意そうだった。
「注意書きはユトが書いて」
「私が?」
「そこは絶対ユトの方がいい」
「分かりました」
ユトは紙を取る。
少し考えて。
『本冊子には、天族知覚能力の向上、霊応力の増強、遠隔通信その他の霊術的効果はありません』
書く。
ロゼが読む。
「いいじゃん。名前はどうする?」
「白紙冊子」
「却下」
「天族返答用冊子」
「もっと却下」
「人天間文字意思疎通補助帳」
「売る気ある?」
「正確です」
「正確すぎる」
ユトは少し考えた。
「では、ロゼさんにお任せします」
数日後。
セルディアの店頭に、新しい商品が並んだ。
《セルディア交流帳》
表紙には、人間と天族が一冊の帳面を挟んで向かい合っている絵。
中身は。
白紙。
何の術式もない。
ただの帳面だった。
そして表紙の裏には。
小さく。
《本冊子には、天族知覚能力の向上、霊応力の増強、遠隔通信その他の霊術的効果はありません》
と書かれている。
ライラが一冊を手に取った。
「本当に、普通の帳面ですわね」
「はい」
「これがセルディア土産になるんですの?」
「分かりません」
少し離れたところでは。
翌日セルディアを発つ予定の人間が、一冊を買っていた。
その隣には天族がいる。
人間が帳面を開いた。
「旅の途中で、君の声が聞こえなくなっても、これで返事してくれる?」
天族が筆を取る。
『するよ』
人間が笑う。
「よかった」
天族も笑った。
ユトは少しだけ、その様子を見る。
特別な術式はない。
新しい加護もない。
人間は普通に話せばいい。
天族は返事を書けばいい。
それだけ。
一度、相手が本当にそこにいると知っていれば。
見えなくなっても関係まで消えるわけではない。
ユトは研究記録へ、一行追加した。
『知覚不能と、意思疎通不能は同義ではない』
その下へ。
少し考えて。
『知覚不能と、関係の消失も同義ではない』
と書き加えた。