学校の入口に置かれた二枚の板には、日に日に文字が増えていた。
《学びたいこと》には、読み書き、算術、帳簿、歴史、薬草、地理。
《教えられること》には、羊の世話、冬の移動路、古い街道、保存食の作り方、昔の言葉。
ユトは時々それを確認していたが、何を追加するかについて口を出すことはなかった。
その日も、研究所へ戻る途中で板の前を通っただけだった。
新しい項目が一つ増えている。
《誓約術式》
ユトは足を止めた。
想定外だった。
ユトは、授業を計画した。
翌日。
誓約術式について知りたいという者を集めると、十人ほどが教室へやってきた。
人間だけではない。
天族も数人混じっている。
七色灯を見て興味を持った者。
《共存の箱》の実験を手伝った者。
単純に、箱へ誓約をかけるという言葉の意味が以前から気になっていた者。
ユトは板の前に立ち、最初に二つの言葉を書いた。
《誓約》
《誓約術式》
「まず、この二つを区別します」
一人の青年が手を上げた。
「違うんですか?」
「はい。少なくとも、私が使用している分類では異なります」
ユトは《誓約》の下へ書き足した。
《本人が自らへ条件を課し、その制約によって力を得る》
「通常の誓約は、本人自身を対象とします。制約を負う者と、そこから力を得る者も基本的には本人です」
「じゃあ、七色灯は?」
別の者が尋ねる。
ユトは《誓約術式》の下へ新しい文を書く。
《誓約の原理を外部化し、指定対象に条件判定及び効果発動を行わせる》
「私が誓約術式と呼んでいるものは、誓約の原理の一部を外部へ移したものです」
「外へ?」
「物品、場所、複数人の関係などです」
青年が首を傾げた。
「じゃあ、箱が誓ってるんですか?」
「いいえ」
「でも、箱に誓約をかけるって」
「箱に意思はありません。箱自体が誓約者となるわけではありません」
ユトは《共存の木箱》の簡略図を描いた。
「たとえば、この箱では特定の条件が満たされているかを術式側が判定し、その結果に応じて開閉状態が決まります」
「勝手に?」
「条件設定後は、人間が都度判断する必要はありません」
「それ、どうしてできるって思ったんです?」
教室の後ろから声が上がった。
ユトがそちらを見る。
「箱に誓約をかけようって発想です。普通、誓約って自分でするものなんでしょう?」
「はい」
「じゃあ、なんで箱にもできると思ったんですか?」
ユトは少し考えた。
説明する必要がないと思っていたわけではない。
単に、これまで聞かれなかった。
「世界全体を対象とする誓約が存在するためです」
教室が静かになった。
「……世界全体?」
「はい」
ユトは続ける。
「個人ではなく、非常に広い領域と、その内部に存在する多数の対象へ継続的に作用する誓約の実例があります」
「そんなのあるんですか?」
「あります」
「どういう誓約?」
「今回の授業には必要ありません」
即答した。まだ、伝える時期ではないと思ったからだ。
質問した青年が目を瞬く。
「必要なのは、個人の身体より広い範囲へ条件判定を外部化した前例が存在する、という点です」
ユトは箱の図を指した。
「世界規模の対象指定が可能であるなら、箱一個を対象として指定することも理論上可能と判断しました」
「それで?」
「試行しました」
「できた?」
「できました」
少し間があった。
「……思ったより単純ですね」
「実施時には複数の問題がありましたが、発想自体はそうです」
「世界にかけられるなら箱にもかかるだろ、ってこと?」
「概ねそうです」
「言い方がすごいな」
ユトは気にせず続ける。
「ただし、対象範囲を縮小するだけでなく、効果も限定しています。初期実験で世界規模の誓約を再現する必要はありません」
「そりゃそうだ」
「実施しようと思っても私一人では不可能ですしね」
ユトは七色灯を机へ置いた。
「最初の実習では、この程度のものを想定しています」
「作れるんですか?」
「条件を単純化すれば可能だと思います」
「やりたい」
何人かが身を乗り出した。
ユトは頷いた。
「では、次に必要条件を説明します」
新しい項目を書く。
《人間が誓約術式を作成する場合、原則として契約天族を必要とする》
「現在、安定して再現できる方法では、人間単独で外部化した誓約構造を定着させることはできません。作成時には、天族との契約を霊的基盤として使用します」
「ユトさんも?」
「はい。私の場合はユイです」
――わたし?
「はい」
――ずっと手伝ってた?
「誓約術式については、少なくとも作成時の霊的基盤を担っています」
――知らなかった。
「私も、明示的に説明していなかったかもしれません」
「ただし、誓約術式の作成へ出力のみを供給する者には、契約は必要ありません。術式構造を書くことと、その構造を定着させる力を出すことは別です」
教室から笑いが漏れた。
その中で、一人の青年が隣の天族を見る。
「じゃあ、俺たちでもできます?」
天族も頷いた。
「こいつとなら契約してもいいと思ってる」
ユトは二人を見る。
「双方が契約を希望していますか」
「はい」
「俺も」
「分かりました。では、契約条件を確認します」
ユトは新しい紙を取った。
「まず、天族側の真名を教えてください」
天族が止まった。
「真名?」
「はい」
「……知らない」
今度はユトが止まった。
「ご自身の真名を?」
「知らない」
「一度も?」
「たぶん」
青年が天族を見る。
「知らないものなの?」
「知らねえものは知らねえよ」
ユトはしばらく二人を見た。
「……確認します」
「教える側が止まった」
「未知の条件が確認されました」
「そういう言い方する?」
ユトは板へ戻り、《契約天族の真名》の横へ小さく追記した。
《未認識の場合の手順――要確認》
授業は、予定より早く理論部分だけで終了した。
***
その日の夜。
ユトは研究所で、誓約術式の作成手順を最初から書き直していた。
材料。
対象。
条件。
効果。
停止条件。
異常時の解除手順。
そこまでは書ける。
最後に、
《契約天族》
と書いて手が止まった。
ロゼが机の向かいから覗き込む。
「まだ考えてる?」
「はい」
「ユトはユイとどうやって契約したの?」
「私がユーゼクスという真名を新たに見出したわけではありません」
「え?」
「ユーゼクスは、以前のスレイさんが付けた名前です」
ロゼが少し黙った。
「以前って」
「『未来知識』です」
――スレイがつけてくれたんだね。
「はい」
ユトは紙を見る。
「私は契約時点で既にユイの真名を知っていました」
「じゃあ、自分で誰かの真名を付けて契約したことは?」
「ありません」
「一回も?」
「ありません」
ユトはしばらく無言で紙を見ていた。
「……」
「どうしたの?」
「誓約術式の作成方法は説明できます」
「うん」
「しかし、現在安定して再現できる作成手順の前提となる、天族との新規契約成立方法について、私は充分な実務経験を持っていません」
「今気づいた?」
「私にとって、ユイとの契約は常に存在していた条件でしたので」
ロゼが笑う。
「初期条件に入れ忘れたんだ」
「はい」
ユトは新しい紙を取り出した。
今度は、手紙だった。