HELLO WORLD『レイヤー・ゼロ』   作:坂本太郎

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あの映画のラストシーン。
月面という冷たく無機質な場所で、直実と瑠璃が再会する瞬間に流した涙の意味を、私はどうしても自分なりに解釈しなければ気が済まなかった。

本編で描かれたあの「時間差の命のバトンリレー」というパズルは、あまりにも美しく、そしてあまりにも残酷だ。見る側にその全貌を理解させるには、短い本編の描写だけではあまりに情報が足りない。あそこに辿り着くまでに、堅書直実はどれほどの絶望と激痛を乗り越え、一行瑠璃はどのような真実と向き合い、自ら「世界の創造主」になる道を選んだのか。

この物語は、映画のラストシーンへと繋がる「空白のピース」を埋めるために、私自身の想像力で紡いだ前日譚(エピソード・ゼロ)である。

二人が流したあの涙の重みを、そして彼らが互いのためにどれほどのものを賭したのかを、どうしても誰かと共有したかった。これは、私が彼らの物語の真実を理解するために書いた、一つの「聖典」であり、彼らの執念に対する私なりの手向けである。

どうか、この物語を読んだあなたが、あの月面での再会をより深く、より切なく感じてくださることを願っている。


第一話:優しい嘘と、開かれたパンドラの箱

月面量子記憶実験施設『アルタラ・コア』の最深部。

堅書直実は、施設のメインフレームから密かに独立させた自身の端末に向かい、血を吐くような思いで最後のコードを打ち込んでいた。

 

これは、明らかな反逆だった。

プロジェクトの責任者でありながら、彼は周囲のスタッフをすべて欺き、倫理規定も安全基準も無視した非正規のプログラムを走らせていた。すべては、過去の記録データ内に閉じ込められた一行瑠璃の記憶と意識を、この現実世界へと引き上げるためだ。

 

「あと、少しなんだ、瑠璃……」

 

直実の呟きは、掠れてカサカサに乾いていた。

十六歳のあの日、宇治の三の鳥居で起きた落雷事故。二人は同時に直撃を受けた。世界は二人の精神を同時に引き裂き、暗黒の底へと突き落とした。

だが、直実の脳だけが、奇跡的に、そして残酷に、ほんの一部だけ先に目を覚ましてしまったのだ。

 

そこからの十年間、直実が歩んだ道は、地獄という言葉すら生ぬるいものだった。

彼は寝る間も惜しみ、食事の味も忘れ、量子脳科学とプログラミングのすべてを脳内に叩き込んだ。周囲の人間が「一生かかっても理解できない」という高等数式を、わずか一晩で処理し、次々と具現化していった。「瑠璃を、俺のこの手で絶対に連れ戻す」という、狂気にも似た執念だけで。

 

カタカタと動く指が激しく震える。

椅子の背もたれに触れる背中には、過去のアルタラの内部に侵入するプログラムを失敗したときにできた、生々しい大火傷の痕が今も引きつっている。そして、デスクの下にある左足も、度重なるダイブの失敗により脊椎が損傷し、完全に麻痺して動かない。身体中の神経が悲鳴を上げていたが、直実は意に介さなかった。

 

彼が今から実行しようとしているのは、自身の脳神経とアルタラを直接リンクさせ、瑠璃の意識を強制的に引き上げる禁断のプログラムだった。成功の保証はない。強大なデータ負荷により、彼自身の脳が完全に焼き切れ、意識が戻ってこれなくなる可能性が極めて高い危険な賭けだ。

 

だが、迷いはなかった。

 

「システム、構築完了(フル・ドライブ)。……これ、で……」

 

エンターキーが押される。システムが臨界点を超え、直実の視界が急激に白く染まっていく。

 

「やっと……迎えに行ける……。待ってて、瑠璃……」

 

その呟きを最後に、ドサリ、と重い音が静かな研究室に響く。

人類の歴史を変えるシステムを作り上げた堅書直実は、深い昏睡の闇へと転落していった。心電図の音が、虚しく部屋に響く。彼の実績を、執念を讃える者は、まだ誰もいない。

 

だが同時に、部屋の奥に鎮座していたカプセルのハッチが静かに開き、十年間眠り続けていた一行瑠璃が、ゆっくりと目を開けた。

 

気がつくと、視界は一面の無機質な白だった。

「……ここ、は……」

 

微かに動く唇からこぼれた声は、ひどく掠れていた。瑠璃が目を覚ました時、ひんやりとした液体の感触と共に、顔を覗き込む見知らぬ白衣のスタッフたちの姿があった。彼らは瑠璃の覚醒に息を呑み、彼女が「十年間、昏睡状態にあったこと」を慎重に告げた。

 

「あの……一緒にいた、直実くんは……?」

 

不安げに尋ねる瑠璃に、チーフらしきスタッフは少しだけ目を伏せ、穏やかな声で答えた。

「堅書さんはご無事ですよ。この十年間、本当に毎日のようにあなたのお見舞いに来ていました。……ただ、今は彼自身が過労で倒れてしまい、別のフロアのカプセルで、眠って休まれています」

 

それを聞き、瑠璃は強張っていた肩の力を抜き、深く胸を撫で下ろした。

(直実くん……私のために、ずっと通ってくれていたんだ。相変わらず、無理して本ばかり読んで、体を壊しちゃったのかな)

スタッフたちが彼女についた「優しい嘘」の裏にある、想像を絶する地獄など知る由もなく。

 

同じ頃。直実が倒れて助け出された、プライベートな自室に、同僚の徐依依(シュー・イーイー)が足を踏み入れていた。

掃除の途中、徐依依は床下収納の奥に、不自然な配線で繋がれた独立サーバーを発見する。直実のパスワードの癖を知っていた彼女がアクセスを試みると、画面に滝のようにログが流れ出した。

 

「……嘘でしょ、チーフ。あなた、まさか……」

 

徐依依の瞳孔が開く。彼女が開いてしまったのは、決して触れてはならない、一人の天才の壮絶な自己犠牲が記された「パンドラの箱」だった。

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