矛盾点があるのはご了承ください。
絶望に押し潰されそうになっていたその時、病室のドアが乱暴に開かれた。
肩で息をしながら飛び込んできた一人の女性は、カプセルの中で眠る直実と、そのカプセルの横で泣いている瑠璃の顔を交互に見比べ、息を呑んだ。
「……ルリ……リン……?」
その声は、震えていた。
瑠璃もまた、涙で滲む視界の先にいる女性を見て、信じられない思いでその名をつぶやく。
「三鈴……ちゃん……?」
勘解由小路三鈴。
高校時代、同じ図書委員として静かな放課後を共に過ごした親友。引っ込み思案だった瑠璃を休日にデパートへ連れ出し、「ルリリンには絶対にこういうのが似合うから!」と、少し大胆なへそ出しの服を笑ってプレゼントしてくれた、あの明るくて優しい彼女だった。
だが今、三鈴の顔からかつての笑顔は消え失せている。
彼女の手には、古びたペット用のケージが握られていた。中には、年老いた一匹の黒猫『ヤタ』が、見知らぬ場所に怯えたように小さく身を丸めている。
「どうして……ルリリンが目を覚ましたのに、どうして堅書くんがこんな目に……!」
三鈴はケージを抱きしめたまま、その場に崩れ落ちた。
「私ね、大学で堅書くんと再会したの……。でも、彼はもう高校の時の堅書くんじゃなかった。狂ったように機械とデータにしか向かっていなかった。ヤタを拾った雨の日も、彼はどこか遠くを見ていて……目の前にいる誰のことも、私のことすら見ようとしなかった」
瑠璃は俯き、血が滲むほど唇を噛み締める。
「ルリリンが目を覚ましてくれて、本当に嬉しいよ……! でも、でもね……堅書くんの青春も、未来も、誰かを愛するはずだった時間も……全部、ルリリンを助けるためだけに使い潰されちゃったんだよ……!」
ケージの中のヤタが、三鈴の嗚咽に合わせるように悲しげに鳴いた。
三鈴の涙ながらの叫びが、瑠璃の胸を鋭く抉る。
痛いほど伝わってきた。三鈴が、大学時代にどれほど直実の不器用な優しさに惹かれ、そしてどれほど彼の孤独な背中を見て傷ついてきたのか。
私の親友も、私を助けてくれた彼も、私が全員不幸にしてしまったのだ。
「……ごめんなさい、三鈴ちゃん……ごめんなさい……」
瑠璃は、三鈴に向けて深く頭を下げ、絞り出すように呟いた。
だが、直実を見つめる彼女の目の奥には、すでに絶望とは違う、別の感情が宿り始めていた。
(直実くん。君は、自分のすべてを投げ打って私を助けてくれた。三鈴ちゃんの優しさも振り切って、世界を欺き、自分の体を壊してまで、私をこの現実に連れ戻してくれた)
瑠璃はゆっくりと立ち上がった。
泣き崩れる親友の姿を瞳に焼き付け、そして、直実の寝顔を真っ直ぐに見下ろす。とめどなく流れる涙の奥で、彼女の心に、静かで、しかし狂気にも似た途方もない決意の炎が灯っていた。
(直実くんが私のために世界を壊したのなら、今度は私が、世界を書き換える)
彼が残したアルタラ。彼が残したプログラム。
彼が私を救うために見せたその「狂気」を、今度は私が引き継ぐ。
「絶対に……今度は私が、直実くんを連れ戻すから。やってやりましょう」
誰に聞かせるでもなく、瑠璃は静かに、しかし絶対の確信を持って言い放った。
愛する人を救うためなら、私も喜んで悪魔になろう。かつて堅書直実が背負った十字架を、今度は一行瑠璃が背負う番だった。
この日、月面の静かな病室で、一人の少女は「世界の創造主」へと生まれ変わった。
ここから始まるのは、彼女が紡ぐ、最愛の彼を救うための、史上最も壮大で狂おしい「仮想世界(ハロー・ワールド)」の構築劇である。
(完結)
本編『レイヤー・ゼロ』を最後までお読みいただき、誠にありがとうございます。
本作は、映画『HELLO WORLD』という巨大な世界の裏側で、誰にも知られず、しかし誰よりも激しく命を燃やした二人の創造主の物語です。十六歳の落雷事故から十年という空白の時、堅書直実が背負った孤独と、一行瑠璃が真実を知った瞬間の絶望と決意。その「境界線」に横たわる、痛々しいまでの愛の軌跡を書き留めたいと考え、筆を執りました。
本作を構築するにあたって、勘解由小路三鈴という、直実にとって特別な存在を登場させました。
実を申しますと、執筆現在、私はまだ『HELLO WORLD if -勘解由小路三鈴は世界で最初の失恋をする-』を読んでおりません。彼女が直実に対して抱いていた想いや、あの大学時代の日々の真実を、今の私はまだ完全には咀嚼できていない状態です。
ゆえに、この物語は今の私が見える限りの情景で構成されています。
今後、原作である『if』を読了した暁には、三鈴という人物の魂の深淵に触れ、彼女の視点や心情をより繊細に投影した「三鈴の物語」として、この第三話を再構築するかもしれません。彼女の失恋の痛みをより深く理解したとき、瑠璃との対峙は、さらなる冷酷さと美しい悲劇を纏うことになるでしょう。
物語とは生き物であり、読者がその真実を知るたびに、過去の記録さえも書き換える力を持つ。まさに『アルタラ』のように。
直実と瑠璃、そして三鈴。彼らの魂が、あなたの胸の中で今も静かに鳴り響いていることを願って。
二〇二六年六月 筆者