敗戦国家の英雄騎士 ~王を見つける旅に出る~   作:Core4777

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第1話 英雄の旅立ち

鐘が鳴るたびに数を数えてしまうのは、たぶん、騎士の悪い癖だ。

 

一、二、三。間を置いて、四。

 

兵の頭数を数えるように、残った矢を数えるように、俺は王が殺される音を数えていた。三短、一長。あの人の処刑が、たった今、終わったという合図だ。

 

弔いの鐘ではない。終了の鐘だ。誰かが死んだことを悼む音ではなく、片付いたことを知らせる音。

 

数え終えて、俺はようやく自分の手を見た。

 

震えていなかった。

 

それが、何より、こたえた。

 

陛下が死んだというのに、騎士の体は数を数えるだけで、指の一本も乱れない。長く戦場にいすぎると、人はこうなる。悲しみより先に、訓練が動く。

 

「……少し、肩を上げてくださいませ」

 

侍従が震える手で、俺の襟を直した。王の身の回りを長く整えてきた老人だ。昨夜まで国王の外套を撫でていた指が、今朝は俺の礼装を撫でている。

 

俺が着せられているのは、喪服の黒ではない。救国の英雄にだけ許された、青銀の礼装だ。王が死んだ朝に、英雄を喪服ではなく晴れ着で飾る。その悪趣味の意味くらい、馬鹿でも分かる。

 

鏡の前に立つと、胸の飾り紐より先に、腰の剣へ目が行った。柄と鍔は見慣れたまま。だが鞘に収まる刃は、かつての半ばしかない。王国最古の聖鋼で鍛えた俺の剣は、最後の会戦で中央から先を失った。帝国はその折れ口だけを研ぎ直し、見栄えを整え、わざわざ「儀礼用」として返してきた。

 

折れたまま、英雄の腰に吊るしておくために。

 

「民の前では、お崩れになりませぬよう」

 

王が死んだ朝に言う言葉ではない。けれど、この老人にはもう、その言葉しか残っていない。俺はそれを分かっていた。

 

「分かっている」

 

喉はからからに渇いていたが、声だけは平らに出た。我ながら、便利な体だと思う。

 

老人は一度だけ深く頭を下げ、そこから先は何も言わなかった。賢明だ。彼が泣けば、俺も泣く。俺が泣けば、控えの間にいる兵も、侍女も、文官も、自分にも泣く許可が下りたと思うだろう。

 

そして今日は、その許可がもっとも下りてはいけない朝だった。

 

窓の外、広場へ集まる群衆のざわめきが、雨を孕んだ曇天の下で低くうねっている。

 

王は死んだ。だが国は、まだ崩れ切っていない。だから帝国は、王の首ではなく、俺の立ち姿を民に見せる。──この国はまだ形を保っている、王は裁かれたが誇りまでは殺していない、英雄騎士は生きている。そう民に錯覚させるために。

 

ふいに、昨夜の声が耳の奥で鳴った。

 

『民を泣かせるな』

 

あの人は昔、違うことを言っていた。「民を泣かせない国を作る」と。それが最後には、「民を泣かせるな」に変わった。

 

理想が壊れたのか、磨かれたのか、俺には今も分からない。分からないまま、王は死んだ。死人は、催促しても答えてくれない。

 

扉が開き、帝国の礼典武官が一礼した。

 

「時刻です、グラディウス卿」

 

その「卿」にも、丁寧な毒が混じっている。爵位は剥奪された。騎士団も解体された。軍権も領兵権も、昨夜のうちに条文一行で切り落とされた。

 

それでも彼らは俺を罪人とは呼ばない。呼べないのだ。罪人にした瞬間、俺は殉教者になる。生かして、英雄のまま使う──それが帝国の答えだった。

 

長い廊下を抜けるあいだ、窓という窓に帝国兵の影があった。儀礼の槍、城門の弩兵、大階段の脇に六人、屋根に四人。今ここで逃げる気なら、二十歩と進めない。

 

それでも俺の頭は、勝手に配置の甘さを拾ってしまう。礼装の裾を裂けば走れる。右の柱陰を使えば最初の二人までは詰められる。弩の射線が通る前に階段を転げ落ちれば、広場の人波に紛れられる──。

 

そこまで考えて、やめた。

 

王の死んだ朝に立てる算段じゃない。それに、逃げ切れた先にあるのは俺ひとりの延命ではなく、広場を埋めた民への踏み込みだ。

 

帝国は、俺を殺しても勝てる。だが俺を生かして使う方が、もっと綺麗に勝てる。

 

階段の上へ出ると、空気が変わった。

 

王宮前広場は、黒い人波で埋まっていた。喪章を巻いた者、包帯のまま立つ復員兵、空の籠を抱えた女、父に肩車された子供、戦争で片足を失った老人。泣く者も、歯を食いしばる者もいた。

 

だが、罵声は一つも上がらない。

 

上がらないことが、かえって重かった。怒鳴ってくれた方が、まだ楽だった。

 

布告官が巻物を開く。王国は講和を受け入れたこと。旧王と主戦派の幾人か──軍務卿、補給院長、将軍たちが戦争責任を問われたこと。王都は占領下に置かれるが、住民への集団懲罰は行わないこと。そして、

 

「英雄騎士グラディウス・バッセンブルグは、戦没者慰霊ならびに諸侯への通達のため、巡礼使として諸邦を巡る」

 

巡礼使。

 

うまい言い換えだ。「追放」と書くより、ずっと字面がいい。軍を失い、主を失い、それでも民心だけは持ちすぎた男を、王都から遠ざけるための、よく出来た巡礼芝居。

 

そのとき、最前列の少年が顔を上げた。十にも満たない。胸に木剣を抱いている。鍔もない、安い木切れだ。だが持ち手には、稚拙な刻みで俺の家紋が彫ってあった。誰かが──たぶん父親が、彫ってやったのだろう。その父親が今ここにいるのかどうかは、聞かないでおく。

 

「英雄さま」

 

掠れた声だった。

 

「……国は、まだ、ありますか」

 

ほんの一瞬、息が詰まった。

 

ない、と言えば楽だった。ある、と言う方が、ずっと重い。

 

俺は頷いた。

 

それだけで、少年は泣いた。隣の女が口元を押さえ、老兵がうつむき、誰かが祈りの文句を唱えはじめる。

 

違う。俺は何も救っていない。ただ、彼らが絶望する順番を、今日一日ぶん、先延ばしにしただけだ。

 

それでも民は、先延ばしを、今日を生きる理由にしてしまう。

 

広場の端で、帽子を深く被った男が、胸に左拳を当て、指を折り込んだ。

 

旧騎士団の、隠し礼。

 

ひとり。遅れて別の角から、ふたり。屋台の裏、片腕のない元槍兵。

 

残党は死に絶えていない。こちらを見ている。俺が何をするか──何をしないかを、見ている。

 

帝国だけじゃない。この国もまた、俺を自由にはしてくれない。

 

布告が終わると、帝国旗の下から一人の男が進み出た。

 

帝国中部方面軍総司令官、ガイゼル元帥。最後の会戦で俺たちを敗北に追い込んだ男。そして俺が、戦場で一度も刃を合わせなかった男だ。

 

長身。痩せて見えるほど無駄がなく、灰色の軍服には土埃ひとつない。戦場ではなく、戦争そのものに似た男だった。

 

元帥は布告台の下で立ち止まり、俺だけに聞こえる声で言った。

 

「見事に立っているな、バッセンブルグ」

 

「立たされているだけだ」

 

「敗戦国に要るのは殉教ではない。敗北を受け取る顔だ」

 

飾りのない言い方だった。だからよく刺さる。

 

「その顔に、俺を選んだか」

 

「王を吊るせば、責任の決着になる。貴公まで吊るせば、物語が始まる」

 

広場の向こうで、誰かが嗚咽を漏らした。元帥はそちらを見もしない。

 

「人は剣で暴れるのではない。物語で暴れる。英雄が死ねば、敗者はそこから先を、自分で書きはじめる」

 

俺は黙っていた。反論がないわけじゃない。喉まで出かかった言葉もある。だがこの男は、それを百通り聞いて、百一通り目まで用意している顔をしていた。

 

「貴様は、俺を怖れているのか」

 

「もちろんだ」

 

即答だった。

 

「最後の会戦でも、私は貴公そのものを崩せなかった。崩れたのは、貴公の後ろにあった補給と、命令系統と、王国の政治だ。剣だけなら、今でも貴公の方が強い」

 

それは賞賛ではなく、確認だった。英雄は本当に強い、と敵将自身に一度だけ認めさせる、冷たい確認。

 

白手袋の中で、拳が軋んだ。

 

「なら、なぜこんな真似を」

 

「政治は勝者の贅沢ではない。後始末だ。帝国はこの都を飢えさせたくないし、山に火も放ちたくない。貴公を吊るせば、そうなる」

 

そのとき──広場の後方で、馬がいなないた。

 

荷車に驚いた騎乗馬が横へ跳ね、手綱が兵の手から抜ける。馬体の向かう先に、さっきの少年と、その母親が立っていた。

 

考えるより先に、体が動いた。悲しみより訓練が先に動く、いつものあれが、今度ばかりは役に立った。

 

階段を二段飛びに降り、礼装の裾を蹴り上げる。帝国兵が槍を構えるより早く、俺は暴れ馬の頬革を掴んでいた。

 

片手で引き寄せ、肩を首筋にぶつけ、体重をずらす。馬が前足を上げた。折れた剣の鞘が脇腹に食い込み、鈍い痛みが走る。構わず、もう一歩踏み込む。蹄が石畳を叩き、白い息が頬を灼いた。

 

それでも、五拍で収めた。

 

広場が、静まり返る。

 

少年は目を見開いたまま母親に抱き寄せられ、帝国兵が遅れて駆け寄るころには、馬はただ肩を震わせているだけになっていた。

 

俺は手綱を兵に返し、再び階段へ戻る。脇腹がじくじくと痛んだが、顔には出さなかった。便利な体だ。

 

元帥が、ほんのわずか口角を上げた。

 

「そういうところだ、バッセンブルグ」

 

民の息づかいが変わったのが、分かる。泣き声が、祈りに変わっていく。それがどれほど危険か、この男はよく知っている。

 

だから生かす。だから遠ざける。

 

──殺すより、ずっと冷たい。

 

式が終わると、俺は王宮東門脇の小さな石廊へ通された。

 

そこに馬車が一台、兵站用にしては上等すぎる馬が二頭、そして黒い外套の女が立っていた。

 

年は俺より十ほど下か。淡い灰金の髪を首の後ろでまとめ、装飾の少ない帝国式の制服。佩剣はない。だが左腰に革の記録筒、右手に黒革の手帳。インクの染みた細い指が、俺を見た瞬間だけ、ほんの一拍止まった。

 

「随行記録官、リアーネ・フェルツです」

 

名乗りと同時に、一礼。無駄のない動きだった。

 

「本日以降、巡礼使グラディウス・バッセンブルグ卿の行動記録、接触人物、各地の反応、ならびに帝国当局への日次報告を担当いたします」

 

「監視役、と言えば早い」

 

俺が言うと、女はまばたき一つせず答えた。

 

「記録は、監視より長く残ります」

 

面白くもない言葉だ。だが、うまい。いかにも紙と命令の側に立つ人間の返答だった。

 

手帳の表紙には帝国の双頭鷲。その下に小さな番号。新品ではない。縁が擦れている。前にも誰かを記録した手帳だ。

 

「俺が逃げると思うか」

 

「逃げない方だと、伺っています」

 

「なら、なぜ付く」

 

「逃げない人間ほど、戻るべき場所を見つけたときに厄介だからです」

 

そこで初めて、少しだけ目が合った。冷たい目ではない。温かくもない。──測っている目だ。

 

後ろから、元帥が口を挟んだ。

 

「フェルツ記録官は有能だ。余計な情を差し挟まん。旅の相手として不足はあるまい」

 

「お気遣い、どうも」

 

俺は吐き捨てた。元帥は気にもしない。

 

「巡礼先は北の聖廟都市、東の関門伯領、西港の共同墓域、最後に南方諸侯会議。順路は記録官が持っている。旧騎士団との接触、兵の勧誘、政治声明の発表、王都への無断帰還──いずれも禁ずる」

 

「破れば」

 

「同行護衛により、即時処分の対象となります」

 

答えたのは元帥ではなく、リアーネだった。声は淡々としている。だが左手は、手帳ではなく外套の内側に触れていた。笛か、短筒か、命令書か。何であれ、この女自身が剣を抜く必要はないのだろう。

 

石廊の外、馬車の影に、小さな布の包みが落ちていた。端から覗くのは、古い青紐。旧騎士団が伝令に使っていた識別色だ。

 

俺は拾おうとしかけて、やめた。

 

先にリアーネがしゃがみ、布ごと摘み上げる。中は空だった。ただの印だ。

 

「あなたに接触を試みる者は、もう動いています」

 

「記録するのか」

 

「もちろんです」

 

そう言いながら、彼女は包みを脇の焼却箱へ放った。青い紐が、一瞬だけ強く燃えた。

 

「ただし」彼女は続ける。「現時点で識別できた個人はいません。報告書には『王都民の不穏』とだけ記します」

 

意外だった。

 

「見逃すのか」

 

「証拠能力のない名前は、紙の上では名前ではありません」

 

優しさではない。手続きだ。

 

だが、その手続きひとつで、今日死なずに済む者がいるのも事実だった。

 

「ここで十人捕らえても、明日には百人に増えます。火種を数えるのと、火を広げるのは、別の仕事ですので」

 

そこで俺は知った。この女は、ただの紙人形ではない。帝国側だが、帝国の命令文そのものではない。自分の頭で、手順を選ぶ。

 

それは旅の相手として、最悪でもあり、最善でもあった。

 

馬車は、使わないことにした。

 

歩くと言うと帝国兵は渋い顔をしたが、元帥が頷いたので、誰も逆らえなかった。英雄が自分の足で都を去る姿にも、きっと何か意味があるのだろう。意味のないことを、この連中はしない。

 

東門を出るころ、空がようやく白み始めた。城壁の上に、王国旗はもうない。帝国旗と講和旗が、代わりに風を受けている。

 

見送りは禁じられていたはずだ。だが石畳の両脇には、朝市にも早い時刻だというのに、人が立っていた。

 

帽子を取る老人。無言で頭を下げる女。片膝をつきかけ、隣に止められる元兵士。パンを抱えた娘。包帯の隙間からこちらを見る、少年兵。

 

誰も、声を張らない。ただ、見ている。

 

その視線の重さで、青銀の礼装は、鎧より重くなった。

 

この目が、希望なのか、依存なのか、別れの確認なのか、俺には分からない。たぶん、全部だ。

 

門をくぐる直前、城壁の影から、低い口笛が聞こえた。

 

三短、一長。

 

今度は、集合の合図ではない。

 

──解散の、合図だった。

 

門外へ出ると、湿った朝風が頬に触れた。石と煤、血と油と香料の混じった王都の匂いが、草と土の匂いへと混じり直していく。

 

隣で、リアーネが最後にもう一度、手帳を開いた。さらさらと走るペン先の音が、妙に耳につく。

 

「何を書いた」

 

「講和布告式において、対象は終始沈着。暴発なし。民衆反応は鎮静傾向──ひとまず、そう」

 

「ひとまず」

 

「本音を書く欄は、後ろにあります」

 

言って、彼女は手帳を閉じた。

 

その黒革の帳面には、いつか俺のことだけでなく、この国のことも書かれるのだろうか。そしてそれは、帝国の記録になるのか──それとも、別の何かに。

 

「グラディウス卿」

 

リアーネが、初めて役職ではなく名で呼んだ。すぐに言い直すつもりだったのか、唇がわずかに止まる。

 

「……進みましょう。最初の宿場へ、日が高くなる前に着きたいので」

 

その言い淀みすら、今の俺には、奇妙に人間らしく聞こえた。

 

「ああ」

 

歩き出す。

 

王都は背後にある。王はもういない。俺を英雄と呼ぶ国だけが、まだ後ろから、見ている。

 

腰の折れた剣が、鞘の中でわずかに鳴った。王に捧げた剣。国に捧げた剣。そのどちらも失ってなお、俺はまだ、これを手放せずにいる。

 

騎士は、剣の振り方より先に、誰のために剣を抜くかを教わる。俺は長いあいだ、その問いを考えずに済んできた。王がいたからだ。正しかろうが、誤っていようが、主君という形が前にあったから、自分の心は後回しにできた。

 

もう、それはない。

 

ならば、探すしかない。

 

この折れた剣を、それでも預けていいと思える、王を。

 

玉座の者かもしれない。王冠など持たぬ誰かかもしれない。今の俺には、まだ分からない。

 

分かるのは、ひとつだけだ。

 

朝日が雲の切れ目から差し、街道を細く照らした。俺は、その光の中へ足を踏み出す。

 

王は死んだ。国は敗れた。英雄は、生かされた。

 

──ならば次に決めるのは、俺の番だ。

 

こうして巡礼使グラディウスと帝国記録官リアーネの旅が始まった。

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