VRゲーマー、宇宙を征く ~戦場のプロたちがドン引きするムーブで、異星の怪物を殲滅したら宇宙戦争に巻き込まれた件~   作:オテテヤワラカカニ

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第10話 R.W.000.2――現実にて

 ふっ、と。

 世界を構成していた光の粒子が霧散する。

 

 数秒前まで身体を包んでいた硬質な鋼の感覚、人工筋肉の唸るような振動、そして世界をクリアに映し出していたカメラアイの視界。

 それらが急速に遠のき、代わりに重く、湿った闇が俺を包み込んだ。

 

「…………」

 

 目を開ける。

 そこにあるのは、見慣れた天井のシミと、薄暗い空間だけだった。

 

 俺は、ゆっくりとヘッドギアを外そうと手を持ち上げた。

 その瞬間、強烈な違和感が襲った。

 

「……おも、い」

 

 腕が、鉛でできているかのように重い。

 ヘッドギアを掴み、サイドテーブルに置くだけの動作が、ひどく億劫な大仕事に感じられた。

 ガコッ、と無骨な音が響き、プラスチックの筐体が机に置かれる。

 

 俺はベッドの縁に腰掛け、大きく息を吐いた。

 部屋の中には、エアコンの室外機が唸る低い駆動音と、遠くの道路を走る車の走行音だけが響いている。

 無限に広がっていた星の海を漂うコロニーから、狭苦しい四畳半への帰還。

 その落差が、脳を麻痺させる。

 

「重い……まさか、重力の感覚を感じるなんてな」

 

 俺は自分の掌を握り、そして開いた。

 反応が遅い気がする。

 『ナイトハウンド』に乗っていた時は、思考した瞬間に指先が動いていた。

 だが今は、脳から発せられた命令が神経を通り、筋肉を収縮させ、ようやく指が動くまでに、「ラグ」を感じる。

 

 これが、現実か。

 ゲームの中の、あの最適化されたコロニーの重力とレスポンスに脳が慣れきってしまったせいで、生身の肉体がひどく不便な乗り物に思えてくる。

 

 立ち上がろうとして、足元がおぼつかずによろけた。

 膝に力が入らない。

 平衡感覚がずれている。

 まるで船酔いの陸酔いバージョンのようだ。

 

「おいおい、こんなレベルのVRゲームが存在したのかよ……噂にある軍用の訓練VRって言われても違和感ねえ、凄過ぎだろ」

 

 独り言が、乾いた唇から零れ落ちる。

 凄すぎる、なんて言葉じゃ足りない。

 あれはもう、別の現実だった。

 

 思考を巡らせようとした瞬間、喉の奥が張り付くような強烈な渇きを訴えた。

 そういえば、最後に水を飲んだのはいつだ?

 ゲーム内での時間は数時間程度だったはずだが、体感では数日を過ごしたような疲労感がある。

 

「……水」

 

 俺はふらつく足取りで部屋を出た。

 廊下の床板が軋む音が、やけに大きく聞こえる。

 階段の手すりにしがみつくようにして一階へ降り、台所へと向かった。

 

 冷蔵庫の扉を開ける。

 ブゥン、というモーター音と共に、冷気と庫内の明かりが漏れ出す。

 その人工的な光が、今の俺には救いの光のように見えた。

 

 ドアポケットに入っていた麦茶のポットを鷲掴みにする。

 冷たい。

 結露した水滴が手に触れる。

 

 食器棚からコップを取り出し、震える手で茶色い液体を注ぐ。

 トクトクと注がれる音すらも、高解像度の効果音のように鼓膜に響く気がした。

 

 一気に煽った。

 香ばしい香りと冷たさが、乾ききった食道を駆け下り、胃袋へと染み渡っていく。

 

「ふぅ……生き返る」

 

 コップをシンクに置き、俺は深く息を吐いた。

 少しだけ、脳の霧が晴れた気がする。

 やはり脱水症状気味だったのかもしれない。

 

 落ち着きを取り戻し、改めて現状を整理しようとした、その時だった。

 

 ブゥゥゥゥン……。

 

 耳障りな羽音が、静寂を切り裂いた。

 顔を上げる。

 台所の天井、円形の蛍光灯の周りを、一匹の小さな羽虫が不規則に飛び回っていた。

 黒い点のような羽虫。

 普段なら気にも留めない。

 せいぜい手で払いのけて終わりにするか、あるいは目障りに感じて部屋を出る程度の、日常の些細なノイズ。

 

 だが。

 

「…………」

 

 その羽音が鼓膜を震わせた瞬間。

 俺の意識が、異常なほど鮮明に「そこ」へ吸い寄せられた。

 

 世界が、泥の中に沈んだように減速する。

 瞬きすら億劫になるほどのスローモーション。

 

 俺の視線は、無意識のうちにハエの動きを捉え、離さなかった。

 ただ見ているだけではない。

 情報量が、多すぎる。

 

 羽虫が右へ旋回する。

 その羽ばたきの残像、わずかな空気の揺らぎまでもが、肌に触れるように知覚できる。

 次は左。上昇。そして急降下。

 不規則に見えるその動きが、まるでスロー再生された映像のように、手に取るように分かる。

 

 不思議と、焦りはなかった。

 次に奴がどこを通るのか、脳が勝手に答えを弾き出している。

 まるで、何度も見た映画のワンシーンを眺めているような感覚。

 「ここに指を出せば当たる」という確信が、思考よりも先に降りてくる。

 

 俺は無造作に右手を伸ばした。

 狙いを定める意識すらなかった。

 

 シュッ。

 

 静かな台所に、鋭く空気を切る音が響いた。

 

 俺の指先が、空中の「ある一点」を通過する。

 その瞬間、指の先に、微かな、本当に微かな「抵抗」を感じた。

 柔らかい何かに触れた感触。

 

 羽虫は、驚いたように軌道を大きく変え、換気扇の隙間へと逃げ込んでいった。

 

「…………」

 

 俺は自分の右手を見つめたまま、凍り付いたように立ち尽くした。

 中指と人差し指。

 その指先が、わずかに濡れているような錯覚。

 

「……今、見えたぞ」

 

 呟きは、戦慄に震えていた。

 捕まえる気はなかった。

 ただ、見えたからそこに「指を置いた」だけだ。

 

 そうすれば当たるということが、分かっていたから。

 

 捕まえようと思えば、捕まえられた。

 潰そうと思えば、潰せた。

 ハエが止まって見えたわけではない。

 流れる時間の中で、俺の感覚だけが突出して加速していた。

 

 これは、なんだ?

 ただの反射か?

 

 いや、違う。

 この、神経が焼き切れそうなほどの集中力、そして対象の動きが手に取るように分かる感覚。

 あの時と同じだ。

 ゲームの中で、『思考加速』を使った時の、あの感覚に酷似している。

 

 ドクン、と心臓が大きく跳ねた。

 同時に、強烈な目眩が俺を襲った。

 

「ぐっ……!?」

 

 キーンという耳鳴り。

 脳の奥が焼けるように熱い。

 まるで、普段使わない脳の領域を無理やりこじ開けたような感覚。

 

「VR酔いか……」

 

 視界が明滅し、足の力が抜ける。

 俺はシンクに手をついて、なんとか身体を支えた。

 

 ヤバい。

 これは、ヤバい。

 現実の肉体とVRでの世界の感覚の差から起こる吐き気。

 脳の糖分が一瞬で枯渇していくのがわかる。

 

「今は……考えるな……寝よう」

 

 這うようにして階段を上り、自室へと戻る。

 ベッドに倒れ込むと、スプリングが軋む音を聞く間もなく、俺の意識は泥のような闇へと沈んでいった。

 

 ただ、右手の指先に残る「羽虫に触れた感触」だけが、いつまでも消えずに残っていた。

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