Guns & Garlands — 銃と花輪   作:たこ焼き 龍月

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いつかやりたかった、クロスオーバー作品


Guns & Garlands 第一章 魔窟への手紙

 

 

 ロアナプラの港に、朝は似合わない。

 

 太陽は昇る。水平線は白く光る。海は油と潮と腐った魚の臭いを混ぜながら、薄汚れた岸壁を舐めている。だが、それでもこの街に朝が来たとは誰も思わない。

 

 夜が少し薄まっただけだ。

 

 酔い潰れた男が倉庫の壁にもたれて眠っている。娼婦が折れたヒールを片手に裸足で歩いている。安酒場の看板はまだ半分だけ点滅している。誰かが昨夜、腹いせに撃ったらしい街灯が、ぶら下がったまま風に揺れていた。

 

 その港へ、一隻の貨物船が入ってきた。

 

 白く塗られていたはずの船体は、長い航海で灰色にくすんでいた。船首に刻まれた文字だけが、妙にくっきりと読めた。

 

 HCLI。

 

 港湾作業員の一人が、その文字を見て眉をひそめる。

 

「……ヘクマティアルか?」

 

 隣の男が、煙草を口の端で揺らしながら笑った。

 

「知ってるのか?」

 

「名前だけな。武器を売る連中だろ。銃、弾薬、ミサイル、戦争に必要なものなら、赤ん坊の泣き声以外は何でも揃えるって話だ」

 

「赤ん坊の泣き声も、戦争の後ならいくらでも手に入る」

 

「朝から縁起でもねえこと言うなよ」

 

「ここはロアナプラだぞ。縁起なんざ、港に入る前に税関で没収される」

 

 貨物船は静かに接岸した。

 

 船員たちが慣れた手つきでロープを投げる。クレーンが唸り、コンテナが軋む。いつもの港の音に混じって、いつもの港にはない空気が降りてきた。

 

 甲板の上に、一団がいた。

 

 白い髪の若い女。

 

 その周囲に立つ、軍人のような目をした男たちと女たち。

 

 ココ・ヘクマティアルは、港を見下ろして微笑んでいた。新しい観光地を見つけた旅行者のように。あるいは、自分のために用意された戦場を見つけた指揮官のように。

 

「いい街ね」

 

 彼女の隣に立っていたレームが、くわえた煙草を少しずらす。

 

「お嬢。普通、ここを初めて見た人間は、そういう顔でそういう感想は言いませんぜ」

 

「そう?」

 

「ええ。だいたいは眉をひそめるか、財布の位置を確認するか、神様を探す。まあ、最後のやつはこの街じゃ一番無駄ですがね」

 

「神様ならいるわよ。たぶん、銃を売ってる」

 

「そりゃうちの同業者です」

 

 ココはくすくす笑った。

 

 少し後ろで、マオが呆れたように言う。

 

「社長自ら魔窟見物か。うちも随分と観光業に手を出したもんだな」

 

「観光じゃないわ、マオ。市場調査よ」

 

「市場調査ってのは、普通もう少し机と資料とコーヒーがある場所でやるんじゃないのか?」

 

「この街には全部あるじゃない。机は弾痕つき、資料は死体つき、コーヒーは鉛の味」

 

「それを市場って呼ぶなら、俺は定年後は農業でもやるよ」

 

 ワイリが明るく口を挟んだ。

 

「農業いいよね。地雷原の再利用とか」

 

「お前は黙ってろ。土を見るとすぐ爆薬の話にするな」

 

 バルメは会話に混じらず、港を見ていた。視線は倉庫、クレーン、コンテナの隙間、作業員の腰回り、監視しやすい屋上、狙撃に向いた窓を順に拾っていく。

 

「バルメ」

 

 ココが呼ぶ。

 

「はい」

 

「この街、好き?」

 

「ココが歩くなら、好きか嫌いかではなく、危険か危険でないかで判断します」

 

「で?」

 

「危険です」

 

「どのくらい?」

 

「笑いながら近づいてくる人間を、最初に撃つか最後に撃つか迷うくらいには」

 

「それ、ほとんど全員じゃない」

 

「だから危険なんです」

 

 ココはまた笑った。

 

 そのとき、港の端に一人の男が立っているのが見えた。

 

 ダッチ。

 

 背が高く、肩が広く、煙草を吸う姿にも余計な動きがない。彼の隣には、白いシャツを着た日本人の男が立っていた。ロックだった。

 

 さらに少し遅れて、コンテナの陰から女が現れる。

 

 レヴィは気怠そうに肩を回しながら、ココたちを見た。

 

「へえ」

 

 第一声はそれだけだった。

 

 ココは桟橋に降り、笑顔で言う。

 

「こんにちは」

 

「観光か?」

 

「商談よ」

 

「悪いことは言わねえ。観光なら帰れ。商談ならもっと帰れ」

 

「どうして?」

 

「この街で商談って言葉は、だいたい最後に銃声で句点が打たれる」

 

「なら話が早いわ。うちは銃声も商品に含まれてる」

 

 レヴィの口元が上がった。

 

「気に入った。あんた、口がよく回るな」

 

「ありがとう」

 

「褒めたんじゃねえ」

 

「知ってる。でも、受け取り方は私の自由でしょ?」

 

 レヴィは楽しそうに笑った。

 

「ダッチ、この女、本当に武器屋か? 詐欺師のほうが向いてるぜ」

 

 ダッチが煙草を捨て、靴底で揉み消す。

 

「どっちでもいい。金を払って、仕事の筋が通るならな」

 

 ロックが一歩前に出た。

 

「ココ・ヘクマティアルさんですね」

 

「ええ。あなたがロック?」

 

「はい」

 

「話は聞いてるわ」

 

「悪い話でしょうね」

 

「半分は」

 

「残り半分は?」

 

「もっと悪い話」

 

 ココは笑った。

 

 ロックも礼儀として笑った。だが目は笑っていなかった。

 

「それで、今回はラグーン商会に何を?」

 

「荷物を運んでほしいの」

 

 レヴィが即座に割り込む。

 

「荷物ねえ。この街で“荷物”って言う奴の荷物は、だいたい中で息してるか、タイマーが動いてるか、どこかの政府が顔色変えて探してるかのどれかだ」

 

「鋭い」

 

「三つのうちどれだ」

 

「全部少しずつ」

 

 ベニーが後ろから小さく言った。

 

「今の時点でもう嫌な予感がするんだけど」

 

「安心しろ、ベニー」

 

 レヴィが振り向く。

 

「この街でいい予感なんざ、一度でも当たったことあるか?」

 

「それ、安心材料じゃないよ」

 

 ダッチはココを見る。

 

「場所を変えよう。港で話すには、耳が多すぎる」

 

 ココは周囲を見回した。

 

 作業員、船員、酔っ払い、物売り、暇そうなチンピラ。誰もが何も見ていないふりをしながら、こちらを見ている。

 

「素敵ね。みんな職業意識が高い」

 

「この街じゃ、余計なことを知ってる奴ほど長生きできる。余計なことを喋る奴は短命だ」

 

 ロックがそう言うと、ココは彼のほうを向いた。

 

「あなたは?」

 

「俺は……まだ、どちらでもないです」

 

「いい答えね。自分がどちら側にいるか決めすぎる人は、盤面が変わったときに死ぬわ」

 

 ロックはその言葉を聞いて、少しだけ眉を動かした。

 

 盤面。

 

 この女は、最初から世界をそう見ている。

 

     *

 

 ラグーン商会の事務所は、相変わらず冷房の効きが悪かった。

 

 天井扇は回っているが、空気をかき混ぜているだけで涼しさはない。壁には古い染みがあり、床には昨日のものか先週のものかわからない酒の匂いが残っている。ベニーのコンピュータだけが、場違いなほど現代的に光っていた。

 

 ココは椅子に座るなり、部屋の中を見回して言った。

 

「いいオフィスね」

 

 レヴィが鼻で笑う。

 

「おべっかが下手だな」

 

「本気よ」

 

「どこがだよ。壁は汚え、扇風機は役立たず、椅子は座ると背骨に文句言ってくる。俺なら三日で爆破する」

 

 ワイリがぱっと顔を上げた。

 

「爆破するなら構造を見たいな。ここの柱、古いけど意外と粘りそうだし、入口を塞がずに天井だけ落とすなら――」

 

「やめろ」

 

 ベニーが即座に言った。

 

「今すぐやめろ。ここは僕の機材もあるんだ」

 

 ワイリは残念そうに肩をすくめる。

 

「冗談なのに」

 

 マオがぼそりと言う。

 

「お前の冗談は、たまに保険会社が泣く」

 

 ココはにこにこしていた。

 

「ね? 素敵でしょ。必要なものしかない。嘘を飾る余裕がない場所って、私は好きよ」

 

 ダッチが机の向こうに座る。

 

「気に入ってもらえて何よりだ。だが、ここは内見会じゃない。仕事の話をしよう」

 

「もちろん」

 

 ココは革の鞄から地図を取り出した。

 

 タイ国境近くの山岳地帯。複雑に枝分かれした川。ジャングルに覆われた古い工業区画。その一点に赤い印がつけられている。

 

「目的地はここ。旧フランス系企業が使っていた廃工場。表向きはゴム加工施設。今は誰も使っていないことになっている」

 

 ロックが地図を覗き込む。

 

「“ことになっている”」

 

「好きな言葉?」

 

「仕事では嫌いな言葉です。だいたい、その後に面倒が隠れてる」

 

「隠れてるから面倒なのよ。見えてたら値段が下がる」

 

 ココは写真を数枚、机の上に置いた。

 

 黒い軍用ケース。強化樹脂と金属でできた箱。表面には型番らしき刻印があるが、メーカー名は削られている。

 

 もう一枚の写真には、痩せた中年男が写っていた。眼鏡をかけ、顔色が悪く、研究者というより、長い間眠れていない囚人のように見える。

 

「運んでほしいものは二つ。ひとつは、この通信機材。もうひとつは、この技術者」

 

 ベニーが写真を手に取った。

 

「通信機材って言うには、やけに冷却系が大きいね。これ、単なる無線機じゃないだろ。暗号化装置? 解析装置? それともジャマー?」

 

 ココは嬉しそうに目を細める。

 

「さすが、ベニー」

 

「褒めても中身は開けないよ」

 

「開けたい?」

 

「すごく。でも開けた瞬間に面倒が三倍くらいになりそうだから、理性で我慢してる」

 

「いい判断ね。技術屋に必要なのは好奇心だけじゃないもの」

 

 レヴィが写真をつまみ上げる。

 

「で、この辛気臭い眼鏡は何者だ?」

 

「技術者」

 

「それは聞いた。名前は?」

 

「ドクター・ナタワット。通信工学の専門家。いくつかの国と企業に、都合のいい技術を売ってきた人」

 

「本人は行きたがってんのか?」

 

 ロックが聞いた。

 

 ココは少し考える仕草をした。

 

「行きたいかどうかで言えば、行きたくないでしょうね」

 

「つまり捕虜ですか」

 

「保護対象よ」

 

「本人がそう思っていれば、そう呼べますね」

 

「本人がどう思っていても、死ぬよりはいいわ」

 

 部屋が少し静かになった。

 

 レヴィだけが笑っている。

 

「いいねえ。言葉の着せ替えが上手いじゃねえか。捕虜は保護対象、密輸は輸送、戦争は市場調整ってか?」

 

 ココは悪びれずに答える。

 

「言葉は服よ。状況に合わせて着替えないと、寒い場所では凍えるし、暑い場所では倒れる」

 

「俺は裸で十分だ」

 

「でしょうね」

 

「どういう意味だ」

 

「言葉より弾丸のほうが似合うって意味」

 

 レヴィは一瞬だけ黙り、それから大きく笑った。

 

「ますます気に入った。あんた、死ぬほど胡散臭え」

 

「最高の褒め言葉ね」

 

 バルメが低く言う。

 

「ココ。必要以上に相手を刺激しないでください」

 

 レヴィがそちらを見る。

 

「おい、デカい姉ちゃん。お前、今のが刺激だと思ったのか? ずいぶん上品な戦場で育ったんだな」

 

 バルメは静かにレヴィを見た。

 

「上品な戦場なんてない。ただ、無駄な銃声が少ない場所はある」

 

「無駄かどうかは撃ってから決めりゃいい」

 

「撃つ前に決められない人間は、長くは生きない」

 

「俺はまだ生きてるぜ」

 

「それは運がいいのか、周りが不運なのか、判断に困るわ」

 

 レヴィの笑みが鋭くなった。

 

「試してみるか?」

 

 バルメの表情は変わらない。

 

「ココが命令すれば」

 

「命令待ちか。お利口だな」

 

「あなたは命令されても聞かなそう」

 

「当たり前だ。命令なんざ、聞く価値がある奴からしか聞かねえ」

 

 バルメはほんの少しだけ口元を動かした。

 

「その点は同意する」

 

 レームが横から入る。

 

「はいはい、そこまで。自己紹介代わりに撃ち合うのは二章以降にしてくだされ。まだ契約書も交わしてない」

 

 ダッチが低く笑った。

 

「二章以降って何だ」

 

「ものの例えですぜ。人生には章立てがある。序章で死ぬ奴はたいてい出番を間違えた奴だ」

 

 レヴィが舌打ちする。

 

「年寄りの説教は長え」

 

 レームは肩をすくめる。

 

「長く生きると、説教くらいしか無料で配れるものがなくなるんでね」

 

 ダッチが地図を指差した。

 

「ルートは?」

 

 ココはすぐに仕事の顔へ戻る。

 

「海路でここまで。そこから河川を遡上。中継地点で車に乗り換えて、ジャングルの奥へ入る。道は悪いけど通れる。通れない場合は、別の道を作る」

 

 ワイリがにこやかに手を上げた。

 

「作るのは得意」

 

「作るっていうか、壊してるだけだろ」

 

 マオが言う。

 

「結果として通れれば同じよ」

 

 ココが笑う。

 

 ロックは地図を見つめたまま言った。

 

「問題は、なぜうちを使うのかです」

 

 ココが彼を見る。

 

「さっき港でも聞いたわね」

 

「納得していません」

 

「いいわ。もう少し丁寧に話しましょう」

 

 ココは椅子に座り直した。

 

「私は武器商人。船も持ってる。護衛もいる。金もある。だから普通なら、自分たちだけで運べる。でも、この街では“普通”が一番目立つ。外から来た武器商人が、護衛を連れて、秘密の荷物を運ぶ。そんなもの、誰だって見るわ。見るなと言われた人間ほど、覗き穴を作る」

 

「だからロアナプラの日常に紛れるため、ラグーン商会を使う」

 

「そう。あなたたちはこの街の異物じゃない。街の消化器官の一部みたいなもの。危険なものを飲み込み、必要な場所まで運び、たまに吐き出す」

 

 ベニーが顔をしかめる。

 

「その比喩、あまり嬉しくないね」

 

「でも正確でしょ?」

 

「否定しにくいのが嫌だ」

 

 ロックはさらに問う。

 

「それだけですか?」

 

 ココはしばらく彼を見た。

 

 笑顔はそのままだが、目の奥が少しだけ冷えた。

 

「ロック。あなたは、質問の仕方が商社マンね」

 

「昔の癖です」

 

「商社マンは契約書の余白を見る。軍人は地図の空白を見る。武器商人は、その二つの空白をつないで値段をつける」

 

「つまり、まだ言っていないことがある」

 

「ええ」

 

「言う気は?」

 

「今はない」

 

 レヴィが笑う。

 

「おいおい、ずいぶん正直じゃねえか。普通は“全部話した”って嘘をつくもんだろ」

 

「下手な嘘は相手を侮辱するわ。私は、あなたたちを侮辱しに来たわけじゃない」

 

「利用しに来た?」

 

「もちろん」

 

 ココは即答した。

 

「利用できる人間を利用する。利用される側も報酬を得る。そこに怒る理由はないでしょう?」

 

 ロックが言う。

 

「怒る理由は、利用される内容によります」

 

「なら契約しましょう。あなたたちは荷物を運ぶ。道中、自衛はする。必要以上に私の目的を聞かない。私は報酬を払う。必要以上にあなたたちを巻き込まない」

 

 ダッチが腕を組む。

 

「“必要以上”って言葉が多いな」

 

「便利な言葉だから」

 

「便利すぎる言葉は信用しない」

 

「それも正しい」

 

 ダッチはしばらく黙った。

 

 報酬は破格だった。

 

 だがロアナプラでは、高い金には高い理由がある。金額は危険の温度計だ。今回の針は、すでに赤いところまで振れていた。

 

「条件がある」

 

 ダッチが言う。

 

「どうぞ」

 

「ラグーン商会は運び屋だ。戦争屋じゃない。撃たれれば撃ち返すが、あんたの戦争に最後まで付き合う契約じゃない」

 

「理解してる」

 

「もうひとつ。街を巻き込むな」

 

 ココの笑みが、ほんのわずかに止まった。

 

 ロックはそれを見逃さなかった。

 

「……もちろん」

 

 ココはすぐに笑顔へ戻る。

 

「私、街を壊す趣味はないわ」

 

 レヴィが笑った。

 

「この街が壊れるようなタマかよ。毎晩どこかが燃えて、毎朝誰かが穴埋めしてる。壊れたって気づく奴もいねえ」

 

 ロックが静かに言う。

 

「壊れたことに気づかない街ほど、壊れたときは戻らない」

 

 ココはロックを見た。

 

「あなた、やっぱり面白いわ」

 

「それは褒め言葉ですか?」

 

「半分は」

 

「残り半分は?」

 

「警戒」

 

 ロックは苦笑した。

 

「それは光栄です」

 

     *

 

 ホテル・モスクワの事務所には、港の熱とは別の冷たさがあった。

 

 部屋は整然としている。無駄なものはない。灰皿すら、所定の位置に置かれていた。壁には地図。机には報告書。窓の外には、ロアナプラの乱雑な街並み。

 

 バラライカは煙草を指に挟み、報告を聞いていた。

 

「HCLIの貨物船が入港。ココ・ヘクマティアル本人を確認。護衛部隊は少数ですが精鋭と思われます」

 

 ボリスが淡々と告げる。

 

「ラグーン商会と接触済みです。依頼の内容は不明。ただし荷物の搬入準備が進んでいるとの報告があります」

 

 バラライカは煙を吐いた。

 

「キャスパーの妹か」

 

「はい」

 

「兄のほうは知っている。計算が早く、損切りも早い。商人としては嫌いではない。だが妹のほうは、噂が少し違う」

 

「危険人物ですか」

 

「危険でない武器商人などいない。問題は、危険の質だ」

 

 ボリスは黙って待つ。

 

 バラライカは窓の外を見た。

 

「あの兄は市場を見る。金の流れ、政治の流れ、需要と供給。妹は……おそらく、それだけではない。商売をしている顔で、もっと大きな盤面を見ている」

 

「盤面、ですか」

 

「戦場を商品棚として見る者は多い。だが商品棚ごと作り変えようとする者は少ない」

 

 ボリスの表情が少し硬くなる。

 

「接触しますか」

 

「まだだ」

 

「監視のみ?」

 

「監視だけでは足りない。港、教会、三合会、警察、密輸屋、情報屋。彼女が誰と会い、誰に会わず、どこで金を落とし、どこで笑ったかまで拾え」

 

「笑った場所も、ですか」

 

「笑う場所には意味がある。人間は、欲しいものを見たときか、壊したいものを見たときに笑う」

 

 ボリスは頷いた。

 

「CIAの動きは?」

 

 バラライカが問う。

 

「今のところ目立った動きはありません。ただ、暴力教会周辺で通信量が増えています」

 

 バラライカは薄く笑った。

 

「エダか」

 

「彼女が関わっていると?」

 

「関わらない理由がない。アメリカは、自分の庭で他人が勝手に種を撒くことを嫌う。たとえその庭が、泥と血と麻薬でできていてもな」

 

「ロアナプラはアメリカの庭ではありません」

 

「だから余計に欲しがる」

 

 バラライカは灰皿に煙草を押しつけた。

 

「ロアナプラは無法の街だと言われる。だが、無法にも秩序はある。犬が犬を噛み、蛇が蛇を飲み、鼠がパン屑を盗む。その循環で街は動いている。外から来た大きすぎる獣が、その循環を乱すなら……」

 

 彼女は言葉を切った。

 

 ボリスが静かに続ける。

 

「排除しますか」

 

「まずは見極める。ココ・ヘクマティアルが客なのか、嵐なのか、それとも嵐を呼ぶ鐘なのか」

 

「鐘なら?」

 

 バラライカは冷たい目で窓の外を見た。

 

「鳴る前に割る」

 

     *

 

 暴力教会の懺悔室は、懺悔に向いていない。

 

 エダは毎回そう思う。

 

 壁は薄い。隣では銃の整備をしている音がする。神の沈黙より、金属部品のこすれる音のほうがよほどはっきり聞こえる。罪を告白するには現実的すぎるし、祈るには商売臭すぎる。

 

 もっとも、この街の神は鉛玉と現金の上に座っているのだろうから、これはこれで正しい礼拝堂なのかもしれない。

 

 エダは暗号化端末の画面を見て、顔をしかめた。

 

「うわ、最悪」

 

 そこへヨランダが入ってくる。

 

「朝から神に悪態かい、エダ」

 

「神様がこんな通信を寄越すなら、私は無神論者になるわ」

 

「お前さんは前からそうだろう」

 

「形式上はシスターよ」

 

「形式上の信仰ほど、便利なものはないね」

 

 エダは端末を閉じた。

 

 ヨランダは椅子に座り、ゆっくり煙草に火をつける。

 

「港の白いお嬢さんかい」

 

「耳が早いわね」

 

「年を取ると足は遅くなるが、耳は賢くなる」

 

「ココ・ヘクマティアル。武器商人。兄はキャスパー。本人は笑顔で地雷を踏みに行くタイプ」

 

「お前さんの古巣は、彼女をどう見ている?」

 

 エダは肩をすくめた。

 

「古巣なんて人聞きが悪いわね。私は今も敬虔な神の使いで、時々、遠い国の友人から退屈な手紙を受け取るだけ」

 

「その手紙には何と?」

 

「“白い女を見ろ。荷を見ろ。邪魔が必要なら邪魔をしろ。ただし、関与は認めるな”」

 

「いつものことだね」

 

「ええ。いつもの、責任だけ現地調達するやつ」

 

 ヨランダは煙を吐く。

 

「ラングレーは何を恐れている?」

 

「恐れてなんかいないわ。あいつらは恐怖を予算項目に変えるのが上手いだけ」

 

「では、予算をつけるほど何が問題なんだい?」

 

 エダは少し黙った。

 

「東南アジアの通信網。軍、民間、密輸ルート、国境警備、民兵組織。そういうものを横断的に覗ける技術があるらしい」

 

「覗くだけかい?」

 

「覗けるなら、塞げる。塞げるなら、誘導できる。誘導できるなら、戦争の入口と出口をいじれる」

 

 ヨランダは目を細めた。

 

「大きな鍵だね」

 

「鍵っていうより、他人の家の壁を好きなところに作る道具ね」

 

「ココはそれを欲しがっている?」

 

「たぶんね。問題は、彼女が売るために欲しがってるのか、壊すために欲しがってるのか、それとももっと面倒な夢のために欲しがってるのか」

 

「夢かい」

 

「笑わないでよ。あの手の人間が一番危ないのは、金じゃなくて夢で動いてるとき。金で動く奴は値段がつく。国で動く奴は旗を燃やせば少しは怯む。でも夢で動く奴は、燃えてる旗を見て拍手する」

 

 ヨランダは楽しそうに笑った。

 

「お前さんがそこまで言うなら、よほどだね」

 

「ええ。しかもラグーン商会を使った」

 

「ロックが気になるのかい?」

 

「ロックもね。あの子は面倒なものを見ると、逃げる前に考える。考える人間は、たまに自分の足元の穴に気づかない」

 

「レヴィは?」

 

 エダは即答する。

 

「あっちは考える前に撃つ。だから逆に読みやすい。でも、読みやすい爆弾ほど避けにくいこともある」

 

 ヨランダは頷く。

 

「ロアナプラは、よそ者に優しくない」

 

「今回は、よそ者のほうが街に優しくないかもしれない」

 

 エダは立ち上がった。

 

「ちょっと顔を出してくる」

 

「どこへ?」

 

「酒場。あの街で一番、情報と弾丸が同じグラスで出てくる場所」

 

     *

 

 イエロー・フラッグは昼間からうるさい。

 

 酔っ払い、船員、売人、用心棒、情報屋、逃げてきた男、追ってきた男。誰もが何かから逃げ、何かを探し、何かを忘れようとしていた。

 

 バオはカウンターの内側でグラスを拭きながら、店に入ってきた顔ぶれを見て絶望した。

 

「帰れ」

 

 レヴィが笑う。

 

「第一声がそれかよ。客に向かって失礼だろ」

 

「お前は客じゃない。災害だ。保険が下りない種類のな」

 

「今日は壊さねえよ」

 

「お前の“今日は”は、五分後に期限切れになる」

 

 ココが店内を見回して言う。

 

「いい店ね」

 

 バオが顔をしかめる。

 

「またそれか。この街に来る白い女は、どうしてみんな褒め言葉の使い方が壊れてるんだ」

 

「本気よ。ここにはいろんな匂いがする。酒、煙草、銃油、嘘、金欠、見栄、後悔」

 

「最後の二つは無料サービスだ」

 

 レヴィがココの前にグラスを置く。

 

「飲めよ。ロアナプラの聖水だ」

 

 ココは一口飲んだ。

 

 そして数秒、真剣な顔で黙る。

 

「……燃料?」

 

「だいたい合ってる」

 

「これを飲んで人間は動くの?」

 

「動く。たまに暴れる。まれに倒れる」

 

 バオが叫ぶ。

 

「だいたいお前のことだろうが!」

 

 別のテーブルでは、ダッチとレームが向かい合って座っていた。

 

 レームがグラスを持ち上げる。

 

「こういう店は落ち着きますな。床が汚れていて、出口が二つ以上あって、客の半分が後ろめたい。長生きするにはちょうどいい」

 

 ダッチが低く笑う。

 

「長生きした奴の言葉だな」

 

「いや、長生きしそうにない奴をたくさん見てきた言葉です」

 

「違いは大きいか?」

 

「大きい。長生きの秘訣なんてものは、たいてい運が良かった奴の後付けです。だが、早死にする理由はかなり正確に分類できる」

 

「たとえば?」

 

「自分だけは弾に当たらないと思っている奴。女に撃たれないと思っている奴。酒場で背中を壁につけない奴。あと、若い兵士に英雄の話をする上官」

 

 ダッチはグラスを見つめた。

 

「最後のは重いな」

 

「ええ。英雄譚ってやつは、聞いた側の命で支払われることが多い」

 

 二人の間に、少しだけ静かな時間が落ちた。

 

 レームは続ける。

 

「あなたも、昔は軍の匂いがする」

 

 ダッチは答えない。

 

「答えたくないなら、それでいい。俺も自分の古傷を見せびらかす趣味はありません。ただ、同じ種類の沈黙はわかる」

 

 ダッチはグラスを置いた。

 

「沈黙にも種類があるのか」

 

「あります。忘れたい沈黙。忘れたふりをしている沈黙。思い出すと今の自分が崩れるから、箱に入れて鍵をかけている沈黙」

 

「随分と詩人だな」

 

「傭兵稼業が長いと、詩人になるか、犬になるか、死体になる。俺はまだ人間のつもりでいたいんでね」

 

 ダッチは小さく笑った。

 

「なら、お互い人間として乾杯するか」

 

「喜んで」

 

 少し離れた席では、レヴィとバルメが向かい合っていた。

 

 どちらも笑っている。

 

 だが空気は笑っていない。

 

「で、バルメだったな」

 

「ええ」

 

「何であの白いのにそこまで尽くす?」

 

「ココだから」

 

「答えになってねえ」

 

「あなたにわかる答えで言うなら、私は彼女に命を預けている。彼女も私に命を預けている。それで十分」

 

「ずいぶん綺麗な言い方だな」

 

「汚く言えば、私は彼女の敵を殺す。彼女は私に生きる理由をくれた」

 

 レヴィの目が少し細くなる。

 

「生きる理由ねえ。そんなもん、弾倉に詰めて持ち歩けるのか?」

 

「持ち歩けない。だから守るの」

 

「俺は逆だな。持ち歩けねえものは信用しない。銃、弾、煙草、酒。手に持てるものだけで十分だ」

 

「それで寂しくない?」

 

「寂しい? おいおい、戦場で詩の朗読会か?」

 

「あなたは、寂しい人間に見える」

 

 レヴィの笑顔が消えた。

 

 近くでロックが動きかけるが、ダッチが視線だけで止める。

 

 レヴィは低い声で言った。

 

「次にそれを言ったら、テーブルごと吹っ飛ばす」

 

 バルメはまばたきもしない。

 

「なら言わない。ただし、見えたものは消えない」

 

「お前、嫌な女だな」

 

「よく言われる」

 

「気に入った」

 

「私も、少しだけ」

 

 その横でルツがため息をつく。

 

「これ、仲良くなってるのか?」

 

 マオが答える。

 

「猛獣園では、たぶん」

 

 ワイリはベニーの隣で、通信機材の写真を見ながら話していた。

 

「これ、開けたいよね」

 

「開けたいけど、絶対開けたくない」

 

「わかる。爆弾もそうなんだ。開けたいけど、開けたら持ち主が怒るし、たまに中身が先に怒る」

 

「爆弾とコンピュータを同列に語らないでくれるかな」

 

「どっちも配線が大事でしょ?」

 

「その理屈で言うなら、人間もだいたい配線だよ」

 

「じゃあ人間も爆弾みたいなものだ」

 

 ベニーは少し考えた。

 

「……この街に限れば、否定できないのが嫌だな」

 

 カウンターでは、ココとロックが並んでいた。

 

 ココは酒を少しずつ飲みながら、店内を眺めている。

 

「ロアナプラって、面白いわね」

 

「何度も言ってますね」

 

「だって本当に面白いんだもの。国境が薄い。法律が遠い。欲望が近い。誰もが自分の値札を知っていて、同時に誰かの値札を探している」

 

「人間を市場みたいに見ますね」

 

「市場は人間が作るものよ。なら、人間を見るなら市場を見るのが早い」

 

「あなたは、人を商品として見るんですか」

 

「商品としても見る。兵士としても、顧客としても、敵としても、友人としても見る。ひとつの見方だけで人を見たら、必ず間違えるわ」

 

「全部の見方をしても、間違えることはあります」

 

「もちろん。だから面白い」

 

 ロックはグラスの水を見つめる。

 

「俺には、あなたが楽しんでいるように見えます」

 

「楽しんでるわ」

 

「危険な仕事を?」

 

「危険じゃない仕事なんてある? 机に座って書類をめくっていても、人は誰かを殺せる。工場でボルトを締めていても、どこかの戦車が動く。銀行で数字を打っていても、飢える村が出る。危険は銃を持っているかどうかじゃない。自分の仕事の先に何があるかを、見ないふりできるかどうか」

 

 ロックは黙った。

 

 ココは続けた。

 

「私は見ないふりが苦手なの。だから見に行く。戦場にも、市場にも、こういう街にも。そこで笑っていると、みんな私を狂っていると思う。でもね、ロック。泣きながら武器を売れば許されるの? 苦しそうな顔で弾を渡せば、弾は人に当たらない?」

 

「そういう話ではありません」

 

「そういう話よ」

 

 ココはロックを見る。

 

「人は表情で罪を薄めたがる。私はそれが嫌い。だから笑う。自分が何をしているかを、笑って見ている。逃げないために」

 

「逃げていないと言い切れますか?」

 

 ココは楽しそうに笑った。

 

「いい質問」

 

「答えは?」

 

「まだ途中」

 

 ロックは、その答えに妙な重さを感じた。

 

 エダが店に入ってきたのは、その時だった。

 

「あらあら。今日はずいぶん豪華な顔ぶれね」

 

 レヴィが振り向く。

 

「なんだ、シスター。神の酒でも飲みに来たのか?」

 

「神様は水をワインに変えたけど、ここの酒は最初から罰みたいな味だから遠慮するわ」

 

 バオが叫ぶ。

 

「客に向かってなんてこと言いやがる!」

 

「安心しなさい、バオ。あなたの店は味以外で十分有名よ」

 

「もっと悪いわ!」

 

 エダはココに目を向けた。

 

「初めまして。白いお嬢さん」

 

「ココ・ヘクマティアルよ」

 

「エダ。見ての通り、清らかなシスター」

 

 レヴィが鼻で笑う。

 

「銃を売るシスターな」

 

「寄付金の形はいろいろあるのよ」

 

 ココは微笑む。

 

「暴力教会のエダ。噂は聞いてるわ」

 

「光栄ね。どんな噂?」

 

「祈りより銃声が似合うって」

 

「まあ、だいたい合ってる」

 

 エダはカウンターに肘をついた。

 

「それで、武器商人のお姫様がこの街に何の用?」

 

「仕事」

 

「この街で仕事って言葉は便利ね。密輸も、暗殺も、裏切りも、全部仕事で済む」

 

「祈りも商売になる街で、それを言う?」

 

「痛いところを突くわね」

 

 二人は笑っている。

 

 だがロックは、そこにある緊張に気づいた。ココはエダを見ている。エダもココを見ている。互いに言葉の下を探っている。

 

「あなたは誰のために祈るの?」

 

 ココが聞いた。

 

 エダは即答しない。

 

「その日、弾を買ってくれた相手かしら」

 

「正直ね」

 

「嘘は神様の前だけで十分よ」

 

「神様には嘘をつくの?」

 

「神様は許すのが仕事でしょ。なら、私が嘘をつくくらいで退屈しなくて済む」

 

 ココは楽しそうに笑った。

 

「あなたも、この街に似合ってる」

 

「褒め言葉として受け取らないでおくわ」

 

「好きにして」

 

 エダは少し声を低くした。

 

「ロアナプラはね、ココ。来る者を拒まない。でも、帰る者には土産を持たせる。傷か、借りか、死体か、その全部か」

 

「なら、いい土産を選ばないと」

 

「選べると思ってる?」

 

「選べないなら、奪うわ」

 

 エダの笑みがわずかに固まった。

 

「やっぱり噂通りね」

 

「どんな噂?」

 

「笑顔が綺麗で、考えることが汚い」

 

「最高ね」

 

「褒めてない」

 

「知ってる」

 

 その言葉に、レヴィが笑った。

 

「お前ら、全員その返し好きだな」

 

     *

 

 夕方、ロックは事務所へ戻る途中で、ココと並んで歩いた。

 

 レヴィは弾薬を買いに行った。ダッチは船の準備を見に行った。ベニーは機材の確認。ココの護衛たちは少し距離を置いているが、バルメの視線だけは常に彼女の背中にある。

 

 通りには湿った熱気がこもっていた。

 

 犬がゴミ袋を漁り、子供が裸足で走り、遠くで誰かが怒鳴っている。古びた店からは、割れたスピーカー越しに陽気な音楽が流れていた。

 

「ロック」

 

 ココが言う。

 

「はい」

 

「あなた、この街に似合わないわね」

 

「よく言われます」

 

「でも、浮いてはいない」

 

「沈みかけてるだけかもしれません」

 

「面白い言い方」

 

「自虐です」

 

「この街で自虐できる人間は、まだ大丈夫よ。本当に沈んだ人間は、自分が沈んでることにも気づかない」

 

 ロックは横目で彼女を見る。

 

「あなたは沈んでいないんですか」

 

「私は泳いでる」

 

「どこへ?」

 

「まだ言わない」

 

「秘密が多いですね」

 

「秘密が少ない武器商人なんて、弾の入ってない銃みたいなものよ」

 

「撃てない銃は、人を安心させることもあります」

 

「でも、誰も買わない」

 

 ココは古い壁の前で立ち止まった。

 

 壁には無数の弾痕が残っている。昨日のものか、十年前のものか、誰にもわからない。この街では傷跡も看板の一部になる。

 

「ロアナプラは、世界の縮図みたいね」

 

 ココは言った。

 

「欲しい人がいて、売る人がいて、奪う人がいて、見ないふりをする人がいる。法律は遠くて、銃は近い。嘘は安くて、沈黙は高い」

 

「だから好きなんですか」

 

「好きというより、わかりやすい」

 

「あなたは、わかりやすいものが好きなんですか」

 

「いいえ。わかりにくいものを壊すためには、わかりやすい場所が必要なの」

 

 ロックは足を止めた。

 

「何を壊すつもりですか」

 

 ココは答えなかった。

 

 ただ、笑った。

 

 その笑顔は、港で見たものと同じだった。明るく、軽く、人懐っこい。それなのに、ロックはその奥に巨大な空白を見た気がした。

 

 倫理も恐怖も、罪悪感さえも吸い込むような空白。

 

「ロックは、世界を変えたいと思ったことある?」

 

 ココが聞いた。

 

「昔は、世界は変えられるものじゃないと思っていました」

 

「今は?」

 

「変わることはあると思っています。でも、人が望んだ通りには変わらない」

 

「悲観的ね」

 

「この街に来て、楽観的でいるほうが難しいです」

 

「でも、あなたはまだ見てる」

 

「何を?」

 

「人間がどこまで落ちるか。落ちた先で何を拾うか。拾ったものを宝物だと思えるか、それともただの泥だと気づくか」

 

 ロックは黙った。

 

 ココは続ける。

 

「私はね、世界は巨大な武器庫だと思ってる。銃だけじゃない。金、情報、信仰、国境、食料、薬、言葉、恐怖、希望。全部が武器になる。人は武器を持っているから戦うんじゃない。戦いたい理由があるから、何でも武器に変える」

 

「武器商人らしい見方ですね」

 

「そう。だから私は武器が嫌い」

 

 ロックは彼女を見る。

 

「嫌い?」

 

「大嫌い」

 

 ココは笑顔で言った。

 

「だから、世界中の武器を私のものにしたいの」

 

 通りの騒音が、一瞬遠くなった気がした。

 

 ロックはその言葉を冗談として流せなかった。

 

「それは、商売の話ですか」

 

「半分は」

 

「残り半分は?」

 

「夢」

 

「危険な夢ですね」

 

「夢はだいたい危険よ。安全な夢なんて、目覚まし時計の延長でしかない」

 

 ロックは静かに言う。

 

「あなたは危険な人です」

 

 ココは嬉しそうに笑った。

 

「ありがとう」

 

「褒めていません」

 

「知ってる」

 

     *

 

 夜になり、ラグーン号は出港準備に入った。

 

 港のライトが黒い海に揺れている。コンテナの影は、巨大な墓標のように並んでいた。遠くで汽笛が鳴り、どこかの酒場から笑い声が聞こえた。

 

 ベニーは黒いケースの固定を確認しながら、顔をしかめていた。

 

「やっぱり変だ」

 

 ロックが近づく。

 

「何が?」

 

「この機材。見た目は通信機材だけど、電源系統が大きすぎる。冷却も過剰。普通の暗号化装置なら、ここまでしない。これ、通信を守るためのものじゃなくて、通信そのものを支配するためのものかもしれない」

 

「支配?」

 

「聞く、割る、塞ぐ、偽装する。全部できるなら、戦場の神様になれる」

 

「神様はこの街じゃ商売敵だな」

 

 レヴィが横から言った。

 

 ベニーはため息をつく。

 

「冗談じゃなくて、これはかなりまずいものだよ」

 

「まずいなら高く売れる」

 

「レヴィ、その発想は非常にロアナプラ的だけど、問題解決にはならない」

 

「解決なんざ、撃ってから考えりゃいい」

 

「それで解決した問題より、増えた問題のほうが多いと思う」

 

「人生は足し算だ」

 

「たまには引き算を覚えてくれ」

 

 ココの技術者、ナタワットは、甲板の隅で小さくなっていた。両手は縛られていない。ただし、左右にはマオとバルメが立っている。逃げられる状況ではない。

 

 ロックが彼に近づくと、男はびくりと肩を震わせた。

 

「大丈夫ですか」

 

 ナタワットは乾いた唇を動かした。

 

「……大丈夫に見えるかね」

 

「見えません」

 

「正直な人だ」

 

「この街では珍しいと言われます」

 

「なら、早く逃げなさい。正直な人間は、ここでは消耗品になる」

 

 ロックは少し黙った。

 

「あなたは何を作ったんですか」

 

 ナタワットは目を逸らした。

 

「作ったのではない。組み合わせただけだ。既にあった技術、既にあった欲望、既にあった予算。それらを、誰かが望む形に整えただけだ」

 

「それで人が死ぬとしても?」

 

「人は私が何もしなくても死ぬ」

 

「答えになっていません」

 

「答えにしたくないんだ」

 

 ナタワットは震える声で続けた。

 

「技術者はね、自分の手が直接血で汚れない。だから、まだ眠れると思ってしまう。だが、ある日気づく。自分の作ったものが、誰かの引き金より早く、誰かの命令より深く、人を殺していると」

 

 ロックは彼を見る。

 

「だから逃げた?」

 

「逃げたかった。だが、逃げるには遅すぎた」

 

 そのとき、ココが近づいてきた。

 

「博士。あまりロックを怖がらせないで」

 

 ナタワットは彼女を見ると、顔を強張らせた。

 

「君のほうが恐ろしい」

 

「よく言われるわ」

 

「君は、あれを何に使う気だ」

 

「まだ秘密」

 

「秘密は人を殺す」

 

「公開された技術も人を殺すわ」

 

 ナタワットは言葉に詰まった。

 

 ココは優しく言う。

 

「博士。あなたは自分を被害者だと思いたい。でも、あなたはただ巻き込まれた人じゃない。扉の鍵を作った人よ。今さら扉の向こうを見たくないと言っても、鍵穴は消えない」

 

「だから君が持つのか」

 

「少なくとも、今それを持とうとしている連中よりはましよ」

 

「その言葉を、私は何人もの軍人と政治家と企業家から聞いた」

 

「でしょうね」

 

「全員、自分だけは違うと思っていた」

 

「私もそう思ってる」

 

 ココは笑った。

 

「だから、私も危ないの」

 

 ナタワットは黙り込んだ。

 

 ラグーン号のエンジンが唸り始めた。

 

 ダッチが操舵室から声をかける。

 

「出るぞ。全員、持ち場につけ」

 

 レームは甲板で周囲を見回す。

 

「港の屋上に目がありますな」

 

 バルメが頷く。

 

「二人。双眼鏡。狙撃ではない」

 

 レヴィが舌打ちした。

 

「人気者だな、お嬢」

 

 ココは港の屋上に向かって手を振った。

 

「挨拶は大事よ」

 

「撃たれたらどうすんだ」

 

「その時は、あなたが撃ち返してくれるでしょ?」

 

「高いぜ、俺は」

 

「払うわ」

 

「即答かよ」

 

「値切る場面じゃないもの」

 

 レヴィは笑った。

 

「本当に気に入ったぜ、あんた。胡散臭くて、金払いがよくて、死神に好かれてそうだ」

 

「あなたもね」

 

「俺は死神に嫌われてる。何度も迎えに来たのに、そのたびに追い返してるからな」

 

 バルメが静かに言う。

 

「次に来たら?」

 

 レヴィは彼女を見る。

 

「そいつの銃を奪う」

 

「いい答え」

 

「褒めんな。気色悪い」

 

 ダッチは舵を握りながら、低く言った。

 

「ロック」

 

「はい」

 

「後悔してるか」

 

「まだ始まってもいません」

 

「なら、始まったら考えろ。始まる前の後悔は、たいてい役に立たん」

 

「始まった後の後悔は?」

 

「もっと役に立たん。だが、人間らしい」

 

 ロックは小さく笑った。

 

 ラグーン号は岸を離れた。

 

 港の灯りが少しずつ遠ざかっていく。だがロックには、ロアナプラから離れている気がしなかった。

 

 むしろ逆だ。

 

 あの街の闇が、船の後ろから水面を伝って追いかけてくるようだった。

 

     *

 

 同じころ、倉庫の屋上で双眼鏡を下ろした男が、通信機に向かって低く告げた。

 

「対象、出港。ラグーン商会と合流済み。HCLI護衛部隊も同行。技術者らしき男を確認」

 

 通信機の向こうで、短い沈黙。

 

『荷は?』

 

「大型ケース複数。詳細不明」

 

『追跡を続けろ。接触はまだするな』

 

「了解」

 

『それと、ロアナプラ側の勢力に動きがあれば報告しろ。特にホテル・モスクワ、三合会、教会だ』

 

「了解」

 

 通信が切れる。

 

 男は暗い海へ進んでいく船影を見た。

 

 ロアナプラの夜は、いつものように騒がしい。酒と怒号と銃声と笑い声が、街の血流のように巡っている。

 

 だが今夜、その下で別の音が動き始めていた。

 

 国家の机の上で引かれた線。

 

 企業の金庫に眠る契約書。

 

 傭兵の給与明細。

 

 武器商人の笑顔。

 

 運び屋の船。

 

 そして、まだ誰も正体を知らない通信システム。

 

 それらが一本の見えない糸で結ばれ、黒い海の上を進んでいく。

 

 ラグーン号の甲板で、ロックは夜風を受けながら港を振り返った。

 

 ココが隣に来る。

 

「眠らないの?」

 

「少し考えごとを」

 

「考えすぎると船酔いするわよ」

 

「それは初耳です」

 

「今作った」

 

 ロックは小さく笑う。

 

「明日から、何が起きるんですか」

 

「少し騒がしくなる」

 

「今日まで静かだったみたいに言いますね」

 

「本番前のチューニングみたいなものよ」

 

「本番では何を演奏するんですか」

 

 ココは答えなかった。

 

 ただ、海の向こうを見ていた。

 

 黒い水路の先には、ジャングルがある。

 

 廃工場がある。

 

 秘密がある。

 

 そしておそらく、誰かが待っている。

 

「ロック」

 

「はい」

 

「あなたは、いいチェス相手になりそうね」

 

「俺はチェスは強くありません」

 

「大丈夫。強い人より、盤面から目を逸らさない人のほうが面白い」

 

「盤面に乗せられるのは、ごめんです」

 

「もう乗ってるわ」

 

 ココは笑った。

 

 ロックは答えなかった。

 

 波が船体を叩く。

 

 ロアナプラの港に朝は来ない。

 

 そして今夜、彼らの行く先にもまた、長い夜が広がっていた。

 

 その夜の奥で、まだ誰も引いていないはずの引き金が、静かに指を待っていた。

 

 




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