Guns & Garlands — 銃と花輪 作:たこ焼き 龍月
朝のラブレス家は、前夜の重さを隠すように静かだった。庭には薄い光が落ち、濡れた草の上を使用人たちが足早に行き交っている。屋敷の窓は磨かれ、食堂にはいつものように朝食が並び、廊下ではファビオラが使用人たちへ短く指示を出していた。けれど、その静けさは日常ではない。日常の形をした警戒だった。門の外には見張りが増え、古い通信塔跡へ続く道は封鎖され、屋敷の電話回線と通信端末はベニーが簡易的に監視している。ロアナプラと違い、この屋敷には銃声よりも先に沈黙が来る。沈黙が長いほど、その裏にある準備は深い。
応接室の机には、まだキャスパーの契約書が置かれていた。署名欄は空白のままだ。紙は静かだった。だが、その静けさは眠っている銃に似ていた。撃たれていなくても、そこにあるだけで人の姿勢を変える。ガルシアはその契約書の前に立ち、しばらく何も言わずに見つめていた。昨夜より少し顔色は悪い。それでも目は逃げていない。ロックは扉の近くから、その横顔を見ていた。
「眠れましたか」
ロックが聞くと、ガルシアは小さく首を振った。
「少しだけです」
「俺もです」
「ロックでも眠れないことがあるんですね」
「よくある」
「ロアナプラの人は、どこでも眠れるのかと思っていました」
ロックは少し笑った。
「レヴィはそうかもしれない」
その時、廊下の向こうからレヴィの声が飛んできた。
「聞こえてんぞ!」
ガルシアは思わず笑った。笑いは短かったが、部屋の空気を少しだけ柔らかくした。レヴィは応接室に入ってくるなり、契約書を見て顔をしかめる。
「まだ置いてんのか、それ。気分が悪くなる紙だな」
「燃やすわけにはいきません」
ガルシアが答える。
「何でだよ。燃やせば気分いいぞ」
「証拠です」
「坊ちゃん、言葉が物騒になってきたな」
「あなたたちの影響かもしれません」
「俺のせいにすんな」
ロックが横から言う。
「半分くらいはレヴィのせいだな」
「お前まで言うな」
レヴィは煙草を取り出そうとして、ファビオラが廊下から睨んでいることに気づき、舌打ちしてしまった。ファビオラは腕を組み、冷たい声で言う。
「屋敷内は禁煙です」
「わかってるよ」
「わかっていて取り出したんですか」
「癖だ」
「悪癖です」
「ロアナプラじゃ礼儀だ」
「ここはラブレス家です」
「何回言うんだよ、それ」
「あなたが何回も忘れるからです」
そのやり取りの向こうで、ベニーが端末を抱えて駆け込んできた。目は完全に寝不足のものだった。髪も少し乱れている。彼は机の上に端末を置き、画面を全員に向けた。
「動いた」
ダッチがすでに背後にいた。
「何が」
「海上ノード。南米沿岸からさらに沖へ出た。しかも、別の信号が増えた」
ロックが画面を覗く。海図の上に、複数の光点が表示されている。一つは例の移動ノード。もう一つは、HCLIの船舶識別に似た信号。そして、その周囲に小さな点がいくつか。民間船、貨物船、護衛艇、あるいは偽装された何か。
「市場が開くのか」
ロックが呟く。
ベニーは頷いた。
「たぶん。キャスパーが言っていた“市場”だ。複数の船が同じ海域へ向かってる。表向きには貨物船や調査船だけど、動きが不自然すぎる。しかも、そのうち一隻がラブレス家の旧通信権限に関連する照会信号を出してる」
ガルシアの顔が硬くなる。
「僕の家の権限を、海の上で使おうとしているんですか」
「使う準備をしてる、かな。まだ完全には使えないはずだ。君の正式な承認か、その代替になるものがないと、認証は通らない」
レヴィが言う。
「だったら坊ちゃんを連れて行かなきゃいいだろ」
ロベルタがすぐに頷く。
「その通りです」
ガルシアは静かに二人を見る。
「でも、僕がいなくても、彼らは僕の名前を使おうとします」
ロベルタの表情がわずかに強張る。
「坊ちゃま」
「ロベルタ。僕が行けば危険だというのはわかっています。でも、僕がここに隠れていても、危険はなくなりません。僕の家の名前が勝手に使われるなら、僕は自分の名前でそれを止めます」
ファビオラが思わず言う。
「坊ちゃま、ですが」
「怖いよ、ファビオラ」
ガルシアは彼女を見た。
「怖い。今も怖い。でも、怖いから誰かに全部任せるのは、もっと怖い」
ファビオラは言葉を失った。ロベルタも何も言えない。レヴィはつまらなそうに鼻を鳴らすが、その目はガルシアを見ていた。以前の彼なら、守られることに疑問を持たなかったかもしれない。今は違う。誰かに守られる意味を知ったからこそ、守られるだけでいることを恐れている。
ダッチが低く言った。
「行くなら条件がある」
ガルシアは頷く。
「はい」
「勝手に動くな。署名するな。何を言われても、その場で答えを出すな。誰かが“今しかない”と言ったら、そいつはだいたい詐欺師だ」
レヴィが笑う。
「いい教訓だな」
ベニーが付け加える。
「あと、通信端末はこっちで管理する。偽のメッセージが来る可能性がある。君の声や署名を使った偽装にも注意が必要だ」
ガルシアは少し顔を強張らせた。
「僕の声まで?」
「花輪はそういうものを扱うシステムだ。声、命令、認証、信頼。人間が人間を信じるための材料を、逆に利用する」
ロックは言った。
「だから、今から決めておいたほうがいい。何があっても、君は一人で判断しない」
ガルシアはロックを見る。
「ロックも?」
「ああ」
「ロックも、一人で判断しないでください」
不意に言われ、ロックは黙った。
ガルシアは真剣だった。
「あなたも、データを持っています。あなたも狙われるかもしれません。だから、僕にだけ言うのは不公平です」
レヴィがにやりと笑う。
「言われてんぞ、ロック」
ロックは苦笑した。
「確かに、その通りだ」
ダッチが短く言う。
「決まりだ。海へ出る」
ファビオラが小さく息を呑む。ロベルタは静かに一歩前へ出た。
「私も同行します」
「当然だろうな」
レヴィが言う。
ロベルタは彼女を見る。
「あなたも来るのですか」
「坊ちゃんのお守りだ。ついでに白いのと、その兄貴の顔も見に行く」
「お守りという言葉は不適切です」
「じゃあ何だよ」
「護衛です」
「同じだろ」
「違います」
「めんどくせえな、お前」
「あなたほどではありません」
ファビオラが呆れたように二人を見た。
「本当に、この二人を同じ船に乗せるんですか」
ベニーは疲れた顔で言った。
「その船、沈まないといいね」
*
ラブレス家から海へ向かう道は、朝の光の中で静かだった。三台の車が屋敷を出て、農園地帯を抜ける。先頭車両にはロベルタとファビオラ、ガルシア。二台目にはダッチ、ロック、ベニー。三台目にはレヴィとラブレス家の護衛が乗っている。レヴィは護衛たちの緊張した顔を見て、退屈そうに窓の外を眺めていた。
「おい、肩に力入りすぎだ」
彼女が言うと、隣の若い護衛がぎこちなく振り向いた。
「す、すみません」
「俺に謝るな。肩に謝れ」
「は?」
「そのうち撃つ前に固まるぞ」
前の席の護衛が困ったように言った。
「我々は屋敷の護衛が主な任務でして」
「だから実戦慣れしてねえって顔してんだろ」
「……否定はしません」
「いいか。撃ち合いになったら、英雄になろうとすんな。坊ちゃんとメイド二人の邪魔をしないことを考えろ」
護衛は戸惑った。
「それでよいのですか」
「よくはねえけど、生き残る確率は上がる」
「あなたは?」
「俺は邪魔されたら撃つ」
車内が沈黙した。
レヴィは肩をすくめる。
「冗談だよ」
護衛たちは少しだけ息を吐いた。
レヴィは窓の外を見たまま付け加える。
「半分な」
護衛たちの顔がまた強張った。
二台目の車では、ベニーが端末を膝に置いて海上ノードの動きを追っていた。ロックは窓の外を見ている。農園の緑が後ろへ流れていく。やがて道は町へ入り、さらに港へ向かって下っていく。ロアナプラの港とは違う。ここには昼の光があり、市場には魚と果物が並び、漁師たちが網を修理している。だが、その日常の中にも、違和感が混じっていた。見慣れない車。港の端に立つ男たち。観光客にしては動きが固く、地元の人間にしては視線が冷たい。
ダッチが言う。
「見られてるな」
ベニーが顔を上げる。
「もう?」
「昨日からだろう」
ロックは港の方を見る。
「キャスパーの連中か」
「一部はな。他にもいる」
「買い手ですか」
「買い手か、売り手か、盗人か。海に出るまでに区別する必要はない。全部警戒すればいい」
ベニーがため息をついた。
「それ、技術的にも精神的にもコストが高いんだけど」
ダッチは笑わない。
「命より安い」
港には、小型のチャーター船が用意されていた。ラブレス家の名義ではない。ダッチが手配した中継船だ。目立ちすぎず、しかし沖合まで出られるだけの性能はある。船長は無口な男で、ダッチと短く言葉を交わすと、それ以上は何も聞かなかった。ロアナプラの周辺で仕事をしたことがあるらしい。余計なことを聞かない人間は、この手の仕事では貴重だ。
ガルシアが船に乗り込む時、足を止めた。海を見ている。南米の海は明るい。だが、その先にあるものを思えば、明るさは慰めにならなかった。ロベルタがそばに立つ。
「坊ちゃま、無理をなさる必要はありません」
ガルシアは首を振った。
「無理をしているのかもしれない。でも、逃げているよりはましです」
「逃げることも、生きるためには必要です」
「はい。でも、今逃げたら、僕はたぶんずっと逃げることになります」
ロベルタは沈黙した。
ファビオラが言う。
「坊ちゃま。私たちはそばにいます」
「ありがとう」
レヴィが横から口を挟む。
「泣ける場面のところ悪いが、船酔いするなら先に言えよ。戦場で吐かれると面倒だ」
ファビオラが睨む。
「あなたは本当に」
ガルシアは少し笑った。
「大丈夫です。たぶん」
「たぶんかよ」
ロックが言う。
「大丈夫と言い切るより、信用できる」
レヴィが鼻で笑った。
「お前も妙な哲学者になってきたな」
船が港を離れた。陸が少しずつ遠ざかる。風が変わる。潮の匂いが濃くなり、波の揺れが足元へ伝わってくる。ロアナプラの海とは違うが、海はどこでも海だ。国境線を知らない。法律の手が伸びるより早く、船は次の水域へ入る。商売人、密輸業者、軍、逃亡者、傭兵。海はそれらを等しく乗せる。だからこそ、キャスパーの市場にはふさわしい場所だった。
ベニーが端末を確認する。
「例の海域まで数時間。途中でHCLI側と合流する予定だけど、正確な位置はまだ送られていない」
レヴィが言う。
「白いの、遅刻か?」
「彼女は遅刻じゃなくて、タイミングを演出するタイプだと思う」
ロックが言った。
「そういうところはある」
ダッチが操舵室の近くから言う。
「ロック、ココへ連絡は」
「入れました。返信はまだです」
「来るだろう」
「根拠は?」
「来ない女なら、ここまで面倒になってない」
その言葉通り、しばらくしてベニーの端末が鳴った。HCLI経由の短い通信。座標と、たった一文。
『右舷を見るといいわ。――ココ』
ベニーが顔を上げる。
「右舷?」
全員がそちらを見た。水平線の向こうに、白い船影が現れていた。最初は霞の中の影に過ぎなかったが、ゆっくり近づいてくるにつれ、その船体の白さがはっきりしていく。HCLIの貨物船。前作でロアナプラを去った白い船。それが、まるで最初からそこにいたかのように海上へ姿を見せた。
レヴィが笑った。
「出たよ。演出過剰女」
ロックは白い船を見つめた。
船上の甲板に、人影が見える。白い髪が風に揺れている。遠くからでも、それがココだとわかった。彼女は片手を上げていた。まるで港で再会した友人に手を振るように。
ベニーがぼそりと言う。
「この距離で手を振る余裕、すごいな」
ダッチが答える。
「余裕があるんじゃない。余裕があるように見せてる」
レヴィが言う。
「どっちでもムカつく」
HCLIの船と中継船は、一定の距離を保って並走した。無線が入る。ココの声だった。
『ロック、聞こえる?』
「聞こえます」
『怒ってる?』
「かなり」
『よかった。怒ってるあなたは判断が速いもの』
「それ、前にも言いましたね」
『便利な言葉は再利用するの』
レヴィが横から叫ぶ。
「おい白いの! 今度は何を隠してんだ!」
ココの声が楽しそうに返る。
『レヴィ、久しぶり。相変わらず声が大きいわね』
「質問に答えろ!」
『半分くらい隠してる』
「撃つぞ!」
バルメの声が別回線で入った。
『レヴィ。船同士の距離を考えて』
「お前もいるのかよ」
『当然』
「相変わらず白いのの後ろに張りついてんだな」
『あなたは相変わらず前に出すぎているようですね』
「見えてねえだろ」
『声でわかる』
レヴィは舌打ちした。
「ムカつく女だ」
ファビオラが低く言う。
「あなたも似たようなものです」
「どこがだよ」
「自覚がないところです」
ガルシアは無線越しに聞こえるココの声に緊張していた。彼にとってココは、まだ遠い存在だ。ロアナプラで名を聞き、ロックたちの話の中に出てきた武器商人。今、その人物が自分の家の問題と繋がっている。
ココが言った。
『ガルシア・ラブレスはいる?』
ガルシアは少し息を整え、無線を受け取った。
「はい。ガルシアです」
『初めまして。ココ・ヘクマティアルよ』
「存じています」
『悪い噂で?』
「主に、危険な噂で」
『正しいわ』
ガルシアは一瞬言葉に詰まった。
『ごめんなさい。緊張をほぐそうと思ったの』
「ほぐれてはいません」
『素直ね。いい当主になりそう』
レヴィが小声で言う。
「みんなそれ言うな」
ココの声は少し真面目になった。
『ガルシア。あなたの家の旧通信権限が狙われている。兄さんはそれを“市場”に乗せるつもりよ』
「キャスパーさんも、それに近いことを言っていました」
『兄さんは正直な嘘つきなの。嘘をつくために本当のことを混ぜる』
「あなたは?」
ガルシアの問いに、無線の向こうでココが一瞬黙った。
『私は、嘘をつく時に笑う』
ロックが眉を寄せる。
「それ、自分で言うことですか」
『言ったほうが親切でしょう?』
「余計信用できません」
『だからいいの。信用は高い買い物だから』
ダッチが無線に入る。
「本題へ戻せ。市場の場所は」
『海上。国籍不明の貨物船が一隻。表向きは海洋資源調査用の支援船。実際には、花輪完成版のデモンストレーションと商談会の会場』
ベニーが身を乗り出す。
「デモンストレーション?」
『ええ。小規模な通信干渉、偽装認証、複数回線の横断制御。ただし完全起動にはラブレス家の鍵が必要になる』
ガルシアが聞く。
「僕の署名ですか」
『署名、音声承認、権限移譲契約、あるいは偽装された同意。彼らは方法を選ばない』
ロベルタが低く言った。
「坊ちゃまには指一本触れさせません」
ココは少しだけ声を柔らかくした。
『ロベルタね』
「はい」
『あなたの噂も聞いているわ』
「不愉快な噂でしょう」
『強い噂よ。不愉快かどうかは、聞く人による』
レヴィが割って入る。
「白いの、余計なこと言うな。こいつを刺激すんな」
『あら。レヴィが止める側?』
「うるせえ」
ココは楽しそうに笑ったが、すぐに真面目な声へ戻した。
『市場の船には、すでに複数の買い手が向かっている。情報機関の非公式派閥、民間軍事会社、軍需企業の代理人、そして何人かの武器商人。兄さんは花輪を売るだけじゃない。花輪を欲しがる連中の名前を集めるつもり』
ロックが言った。
「あなたは止めるために行くんですか」
『半分』
レヴィがうめいた。
「まただよ」
ロックは続けた。
「残り半分は?」
『見るため』
「何を」
『誰が欲しがるのか。誰が怖がるのか。誰が隠れているのか』
「あなたもキャスパーと同じことをしている」
無線の向こうで、ココの沈黙が少しだけ長くなった。
『似ているわ。でも同じじゃない』
「どこが違うんです」
『私は、見た後に壊すかもしれない』
「奪うかもしれない」
『ええ』
ガルシアは二人の会話を聞いていた。ココは危険だ。ロックがそう見ていることもわかる。だが、彼女は隠しながらも、自分の危うさを隠しきってはいない。そこがキャスパーとは違った。キャスパーは危険に値段をつける。ココは危険を抱えたまま笑う。
ダッチが言った。
「合流は?」
『このまま並走。市場の船には別々に入るわ。HCLIは正規の招待客として。あなたたちはラブレス家の護衛として』
ベニーが小さく言う。
「招待客、か」
ロックはココからのメッセージを思い出す。
あなたはたぶん、もう招待客よ。
その言葉通り、彼らはすでに市場の名簿に乗せられていた。
*
夕方近く、海の色が変わり始めた。青かった水面は少しずつ鈍くなり、空の端には赤みが差している。風は昼よりも冷たく、波は穏やかだった。だが、その穏やかさの中に船影が増えていた。遠くに一隻、さらに別方向に二隻。貨物船に見えるもの、調査船に見えるもの、漁船に偽装しているもの。すべてが同じ海域へ向かっている。
そして、中心にいたのが白い船だった。
HCLIの船ではない。もっと大きく、もっと無機質な船。船体は灰白色で、船名は塗り替えられている。旗は便宜置籍国のものだが、それを信用する者はこの海域に一人もいない。甲板には大型コンテナが並び、一部には通信アンテナや観測装置に見えるものが設置されている。表向きには海洋資源調査支援船。だが、ベニーは双眼鏡でそれを見た瞬間、嫌な顔をした。
「あれ、調査船じゃない」
レヴィが聞く。
「何だよ」
「調査船のふりをした、移動通信拠点。アンテナの配置が変だし、甲板のコンテナもただの貨物じゃない。たぶん中は機材だらけだ」
ダッチが低く言う。
「花輪完成版か」
「完成版そのものか、完成版へ繋ぐ中核。どっちにしても、近づきたくない」
レヴィが笑う。
「近づいてるけどな」
「だから嫌なんだよ」
ガルシアは船を見つめていた。
「あそこに、僕の家を狙う人たちがいるんですね」
ロックが言う。
「たぶん、狙う人たちだけじゃない。買いたい人、売りたい人、壊したい人、利用したい人、全部いる」
「市場」
「ああ」
ロベルタが静かに言った。
「市場という言葉は便利ですね。罪が薄く聞こえる」
レヴィが彼女を見る。
「お前も皮肉言うんだな」
「あなたの影響ではありません」
「そこまで否定すんな」
中継船が市場船へ近づくと、無線が入った。丁寧な英語。穏やかな声。だが、声の裏にあるものは冷たかった。
『ラブレス家ご一行ですね。確認済みです。指定された接舷位置へお進みください』
ダッチが無線を切らずに低く言う。
「確認済み、か」
ロックは言った。
「やはり招待されている」
ベニーが顔をしかめる。
「招待状を受け取ってない招待客ほど嫌なものはないね」
船は市場船の側面へ回り込んだ。そこにはすでに小型艇が何隻か停まっている。乗り込む人間たちは、服装だけ見れば商談に来たビジネスマンや技術者に見えた。だが、その周囲にいる護衛たちは隠しきれない。銃を見せていなくても、姿勢と視線が違う。
HCLIの船からも、小型艇が下ろされていた。ココ、バルメ、レーム、マオ、ルツ、ワイリ。彼らがこちらを見ている。ココは白い服を着ていた。海風の中で、いつものように笑っている。
市場船の乗船口で、ラグーン商会とラブレス家、そしてHCLIが合流した。狭い通路の上で、二つの集団が向かい合う。ガルシアは少し緊張した顔でココを見る。ココは彼に歩み寄り、軽く手を差し出した。
「改めて初めまして、ガルシア・ラブレス」
「ガルシアです」
「ココでいいわ」
ガルシアは少し迷って、その手を握った。
「よろしくお願いします」
「こちらこそ。あなたは思っていたより目が強いのね」
「怖いだけです」
「怖いのに来たなら、強いのよ」
ロベルタが静かに間に入るように立った。
「坊ちゃまへの過度な接近はお控えください」
ココは彼女を見上げるようにして笑った。
「あなたがロベルタね」
「はい」
「噂より静か」
「噂が騒がしすぎるのです」
レヴィが横から言う。
「噂より怖えけどな」
ロベルタはレヴィを見た。
「あなたも噂より騒がしい」
「だろうな」
バルメがレヴィを見て、小さく溜息をつく。
「またあなたですか」
「こっちの台詞だ、デカ女」
「名前で呼んでください」
「気が向いたらな、バルメ」
「今、呼びましたね」
「うるせえ」
ワイリがベニーへ手を振る。
「ベニー、また会えたね」
ベニーは疲れた笑顔を返した。
「僕はできれば平和な場所で会いたかったよ」
「ここ、平和そうだよ。まだ爆発してない」
「その基準をやめてくれ」
レームはダッチへ近づき、軽く頷いた。
「またご一緒ですな」
ダッチも頷く。
「今回は船が多い」
「人も多い。欲望も多い」
「最悪だな」
「ええ。仕事には向いています」
ココはロックへ視線を向けた。
「ロック」
「ココ」
「怒ってる?」
「まだ」
「まだ?」
「あなたが何を隠しているかによります」
ココは楽しそうに笑った。
「厳しい」
「あなたに鍛えられました」
「いいことね」
「良くはありません」
その時、乗船口の奥から拍手の音が聞こえた。乾いた、わざとらしい拍手だった。全員がそちらを見る。
キャスパー・ヘクマティアルが立っていた。
淡い色のジャケット。整った髪。余裕のある笑顔。まるでこの船が自分の応接室であるかのように自然にそこにいる。
「素晴らしい。役者が揃ったね」
ココの笑顔が少しだけ冷えた。
「兄さん」
「ココ。ちゃんと来たね」
「呼ばれた覚えはないわ」
「呼ばなくても来ると思った」
「性格が悪い」
「家族だからね」
レヴィが小声でロックに言う。
「この兄妹、会話だけで胃が重くなるな」
ロックは同意した。
キャスパーはガルシアへ視線を移す。
「ガルシア。来てくれて嬉しいよ」
「僕は署名しに来たわけではありません」
「知っている」
「なら、なぜ歓迎するんですか」
「署名しない当主にも価値はある」
ガルシアの顔が強張る。
ロベルタが一歩前へ出る。
キャスパーは軽く手を上げた。
「落ち着いて。ここは市場だ。市場では、刃物より言葉のほうがよく切れる」
レヴィが鼻で笑う。
「言葉で切れる奴は、だいたい撃たれると黙る」
「ここでは撃たないほうがいい」
「何でだ」
「この船には、撃たれると困る人間が多い」
キャスパーはそう言って、通路の奥を示した。
そこには、すでに数人の参加者が立っていた。老いた実業家風の男。軍服ではないが軍人の匂いを隠せない男。若い技術者風の女。無表情な護衛たち。どの顔にも共通しているものがある。彼らは商品を見に来た客ではない。商品に値段をつけることで、自分が世界を動かせると思っている人間たちだ。
ベニーが低く言う。
「本当に市場だ」
キャスパーは笑った。
「ようこそ。白い船の市場へ」
*
船内は、外見よりもさらに異様だった。廊下は清潔で、照明は明るい。壁には調査船らしい案内板や安全標識が貼られている。しかし、その奥にある空気は研究施設でも商談会場でもなかった。むしろ、どちらにも化けられる場所だった。扉の一つを開ければ会議室があり、別の扉の奥には通信機材が並び、さらに奥には護衛たちの待機室がある。船そのものが、移動する商談室であり、移動する戦場でもあった。
キャスパーは全員を大きな会議室へ案内した。そこには長いテーブルがあり、壁一面には海図と通信網の図が表示されている。東南アジア、南米沿岸、海上ルート、衛星回線。いくつもの線が結ばれ、その中心に「花輪」とは書かれていないが、明らかにそれを示す円形の図があった。
ガルシアはその図を見て息を呑んだ。
「僕の家の名前が……」
画面の一部に、ラブレス家の旧通信権限を示すコードが表示されていた。直接的な名前ではない。だが、ベニーが見ればすぐにわかる形式だ。ラブレス家が善意で維持してきた古い権限が、巨大な輪の一部として配置されている。
キャスパーが言う。
「安心していい。まだ使われていない」
ガルシアは振り返る。
「安心できません」
「だろうね」
「なら、なぜそう言ったのですか」
「人は“安心していい”と言われた時、自分が何を恐れているかを意識する」
レヴィが低く言う。
「いちいち腹立つな」
ココは画面を見つめていた。
「兄さん。これが完成版?」
「完成版に近いもの、と言うべきかな」
「言い方が商人ね」
「君も同じ立場ならそう言う」
「私はもっと可愛く言うわ」
「そこは否定しない」
ベニーが画面に近づこうとすると、護衛が一歩出た。バルメとレヴィが同時に反応する。空気が一瞬で張る。
キャスパーは手を上げた。
「落ち着いて。ここではまだ撃たない。ベニー、見てもいい。ただし触らないで」
ベニーは不満そうに言う。
「触らないで見ろって、技術者への拷問だよ」
ワイリが隣で頷く。
「壊さないで見ろって言われるよりはましだね」
「君の基準はいつも危険すぎる」
キャスパーは部屋の中央に立った。
「さて。皆さんには誤解してほしくない。僕は花輪を売るためだけにここへ来たわけじゃない」
ココが言う。
「そうでしょうね。兄さんは商品より客の名簿が好きだもの」
「よくわかっている」
キャスパーは笑った。
「花輪を欲しがる者。花輪を恐れる者。花輪を壊したい者。花輪を使って誰かを支配したい者。この船には、その全員が少しずつ集まっている」
ロックが言った。
「あなたは、それを眺めて値段をつける」
「そうだ」
「悪趣味です」
「商売はだいたい悪趣味だよ。誰かの欲望に値段をつける仕事だからね」
ガルシアが静かに言った。
「僕の家の権限には、値段をつけません」
キャスパーはガルシアを見る。
「今は、だろう?」
「いいえ」
「強い言葉だ」
「あなたに褒められるために言ったのではありません」
「ますますいい」
ロベルタの視線が鋭くなる。
「坊ちゃまを試すのはおやめください」
キャスパーは穏やかに言う。
「試しているのは僕だけじゃない。この船にいる全員が、彼を見ている。若い当主が、家の鍵を握ってここに来た。彼が恐れて売るのか、怒って壊すのか、誰かに委ねるのか。皆、興味がある」
ガルシアの手が震えた。
だが、彼はそれを隠さなかった。
ロックはその手を見ていた。震えている。だが逃げていない。ロック自身も、初めてロアナプラの闇に立った時、震えていた。震えが消えたから強くなったのではない。震えたまま立つことを覚えたのだ。
ココが口を開いた。
「兄さん。市場を始めるつもりなら、早くして。私は気が長くないの」
「知っているよ」
キャスパーは壁の画面を切り替えた。そこには、この船の周辺海域の図が表示された。複数の船影。参加者。通信範囲。そして中央に、花輪の中核らしきノード。
「第一幕は、デモンストレーションだ」
ベニーが顔を強張らせる。
「何をするつもりだ」
「小さな実演だよ。周辺船舶の通信ログを一時的に集約し、偽の緊急信号を作り、誰がどう動くかを見る」
ロックが一歩前に出る。
「実験場にする気ですか」
「今回の対象は無人の観測ブイと事前に用意したダミー船だけだ」
ベニーが画面を睨む。
「本当に?」
「信じないほうがいい」
キャスパーは笑う。
「疑う観客は優秀だ」
ココの声が低くなった。
「兄さん」
「何だい」
「ラブレス家の鍵なしで、どこまで動くの」
「ここまで」
画面に細い輪が表示された。完全な輪ではない。ところどころ途切れた、不完全な円。それでも十分に不気味だった。
「ラブレス家の権限が加われば?」
ココが問う。
キャスパーは別の図を表示した。
不完全だった輪が、南米沿岸の回線とつながり、海上ノードを経由し、さらに東南アジア側の断片へ伸びていく。巨大な花輪。海をまたぎ、国境を無視し、通信網を束ねる輪。
ガルシアはそれを見て、顔を青ざめさせた。
「これが、僕の家の鍵で動くんですか」
「正確には、君の家の鍵があれば動かしやすくなる」
キャスパーは言った。
「鍵がなくても、こじ開けようとする者はいる。だが、鍵があれば扉は静かに開く」
ロックはガルシアを見る。
彼は画面から目を逸らさなかった。
レヴィが低く言う。
「胸糞悪い花だな」
バルメが応じる。
「花ではありません」
「じゃあ何だ」
「首輪です」
レヴィは少しだけ笑った。
「そっちのほうが似合ってる」
その時、会議室の扉が開いた。船のスタッフがキャスパーに近づき、何かを耳打ちする。キャスパーの表情は変わらない。だが、ほんの少し目の奥が動いた。
ココがそれを見逃さなかった。
「何かあった?」
「招待していない客が近づいている」
レヴィが銃に手をやる。
「海賊か?」
「もっと面白い」
キャスパーは画面を切り替えた。
周辺海域の端に、小さな未確認信号が表示されている。船舶識別なし。小型。高速。進路はまっすぐ市場船へ向かっている。
ベニーが青ざめる。
「これ、さっきまでなかった」
キャスパーは楽しそうに言った。
「だから市場は面白い。呼んでいない客ほど、時に高い価値を持つ」
ロックは嫌な予感を覚えた。
「誰ですか」
答える前に、通信室から別のスタッフが入ってきた。
「不明船から短い通信。音声です」
会議室にノイズが流れた。
海の上を渡ってきたような、荒れた音。
その奥に、若い声が混じった。
『ラブレスの鍵を渡すな』
ガルシアが息を呑む。
ロックの背筋が冷えた。
声は続いた。
『花輪は、海を閉じる』
通信は途切れた。
会議室に沈黙が落ちる。
ココの表情が消えていた。
バルメが彼女を見た。
「ココ」
ココは画面の未確認信号を見つめたまま、低く言った。
「ヨナ」
その名が、初めてこの場にはっきり落ちた。
キャスパーは静かに笑った。
「どうやら、第二幕の役者も来たようだ」
レヴィが吐き捨てる。
「市場どころか、見世物小屋だな」
ロックはガルシアを見た。
ガルシアは震えていた。だが、その視線は未確認信号から離れない。
白い船の市場は、まだ始まったばかりだった。
だが、すでに誰かがその輪の外側から、刃物を投げ込もうとしていた。