Guns & Garlands — 銃と花輪   作:たこ焼き 龍月

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第五章 猟犬と二挺拳銃

 

 未確認船からの声が途切れたあと、会議室には数秒間、奇妙な沈黙が落ちた。海の上に浮かぶ巨大な船。その内部に作られた白い会議室。壁の画面には、周辺海域を示す光点が並び、中央には不完全な花輪の図が映っている。そこにいる人間たちは、銃を持った者も、契約書を持った者も、名刺と笑顔だけを武器にしている者も、全員が同じ音を聞いた。若い声。短く、硬く、海の向こうから投げ込まれた警告。ラブレスの鍵を渡すな。花輪は、海を閉じる。その言葉は、銃声よりも静かだった。だが、会議室の空気を撃ち抜くには十分だった。

 

 ココ・ヘクマティアルは笑っていなかった。彼女の顔から笑みが消えると、その場の温度が少し下がる。普段の彼女は、笑うことで自分の危険を包んでいる。だが今、その包装紙が剥がれていた。白い髪を揺らす風はここにはない。それでも、彼女の周囲だけ海風が吹き込んだように冷えている。バルメは一歩だけ彼女の横へ寄った。守るためではない。今のココが、どこへ走り出そうとしているのかを見極めるためだ。

 

「ヨナ」

 

 ココがもう一度、その名を呟いた。

 

 それは呼びかけではなかった。確認でもない。自分の中に落ちたものの形を、声にして確かめるような響きだった。

 

 キャスパーは、壁の画面に表示された未確認船の光点を眺めている。笑みは戻っていた。だが、少しだけ薄い。予想外ではある。だが、完全な想定外ではない。そういう顔だった。

 

「面白いタイミングで来る」

 

 彼が言うと、レヴィが即座に吐き捨てた。

 

「お前、本当に何でも値札にするんだな」

「値札をつけていないものほど、あとで高くつく」

「じゃあ今すぐお前に値札つけてやろうか。鉛のな」

 

 ダッチが低く言う。

 

「レヴィ」

「わかってるよ。まだ撃たねえ」

「その“まだ”が長持ちすることを祈る」

「神様に頼むな。ここにいる連中、誰も神様向きじゃねえ」

 

 ガルシアは画面を見つめていた。未確認船の光点は小さい。だが、その光は彼の視線を捕まえて離さない。ラブレスの鍵を渡すな。その声は、彼に向けられていた。自分の家の権限が、誰かにとってただの資産ではなく、海を閉じる鍵になっている。それを、知らない少年が知っている。

 

「今の声の人は、誰なんですか」

 

 ガルシアが聞いた。

 

 ロックはすぐには答えられなかった。代わりに、ココを見る。彼女は画面から目を離さない。

 

「ヨナ」

 

 ロックが言う。

 

「ココの部隊にいた少年です」

 

 ガルシアはココを見た。

 

「子供なんですか」

 

 その問いに、ココは少しだけ目を伏せた。

 

「子供よ」

 

 短い答えだった。

 それ以上言えば、何かが崩れる。そういう短さだった。

 ファビオラが小さく言った。

 

「子供が、あの海の上にいるんですか」

 

 誰もすぐには答えなかった。

 会議室の奥で、買い手たちがざわめき始めている。軍人の匂いを隠しきれていない男が、隣の技術者らしき女に何かを囁く。年配の実業家風の男は端末を取り出し、誰かへ短いメッセージを送ろうとしていた。その周囲で護衛たちが動く。まだ銃は抜かれていない。だが、いつでも抜ける位置に手がある。市場という名の場所で、商談は一瞬にして戦場へ変わる準備を始めていた。

 ベニーが画面を凝視する。

 

「未確認船、こっちに近づいてる。速度は速いけど、攻撃態勢って感じじゃない。むしろ、追われてる?」

 

 ワイリが横から覗き込む。

 

「後ろの小さい反応、追跡してるみたいだね」

「そうだね。でも、船舶識別が出てない。どっちも沈黙してる」

 

 レームが静かに言った。

 

「追われているなら、追っている者もいる」

 

 バルメの声は低かった。

 

「ヨナを追っている者が、この市場の中にいる可能性もあります」

 

 ココは振り返る。

 

「兄さん」

「何かな」

「ヨナを呼んだ?」

 

 キャスパーは首を振った。

 

「呼んでいない」

「本当に?」

「今回は本当だ。呼んで来る子ではないだろう?」

 

 ココは黙った。

 キャスパーは続ける。

 

「ただし、彼が来る理由はある。花輪の完成版に近づきすぎた者は、この市場に一つくらい石を投げたくなるだろうからね」

「石?」

「この船はガラスでできている部分が多い」

 

 レヴィが笑う。

 

「割れやすそうだな」

 

 キャスパーは彼女を見る。

 

「だから撃たないほうがいい」

「忠告どうも」

「どういたしまして」

 

 ロックはココの横に立った。

 

「ココ。追うんですか」

 

 ココは答えない。

 

「ココ」

「追いたい」

 

 彼女は正直に言った。

 

「でも、今ここで私が走れば、兄さんの市場は別の意味で開く。私がヨナを追う。市場の客は、その動きを見る。花輪の価値も、ヨナの価値も上がる。兄さんはそれを知っている」

 

 キャスパーは笑った。

 

「妹に理解されていて嬉しいよ」

 

 ココは兄を見なかった。

 

「嬉しくないわ」

 

 ロックは言った。

 

「なら、今は走らないほうがいい」

 

 ココはロックを見る。

 

「あなたが私を止めるの?」

「止めたい」

「撃つ前に?」

「言葉で」

 

 ココは少しだけ笑った。

 その笑みは弱かった。いつものように人を巻き込む笑みではない。何かを噛みしめるような笑みだった。

 

「貴重ね」

「あなたがそう言ったんです」

「そうだったわね」

 

 その時、会議室の扉が開き、船のスタッフが数人入ってきた。礼儀正しい動きだが、明らかに緊張している。その後ろには、武装した警備員がいた。彼らは全員を見回し、最後にキャスパーへ目を向ける。

 

「未確認船への対応を開始します。参加者の皆様には、指定区画でお待ちいただきます」

 

 ダッチが言う。

 

「閉じ込める気か」

 

 スタッフは笑わない。

 

「安全確保です」

 

 レヴィが鼻で笑う。

 

「便利な言葉だな。銃向ける時にも使える」

 

 警備員の一人が一歩前に出る。バルメも同じだけ動いた。ロベルタも動く。レヴィの右手はすでに腰の近くにある。空気が細く張った糸のようになる。

 キャスパーが軽く手を上げた。

 

「やめよう。ここで撃ち合うには、まだ早い」

「また“まだ”かよ」

 

 レヴィが言う。

 キャスパーは笑った。

 

「物語には順番がある」

 

 ココが冷たく言った。

 

「兄さんの物語に乗るつもりはないわ」

「もう乗っている」

「降りることもできる」

「船の上で?」

 

 ココは笑わなかった。

 スタッフが再び言う。

 

「ラブレス家ご一行は、別室でお待ちください」

 

 ロベルタの目が鋭くなる。

 

「坊ちゃまを分ける理由は」

「安全確保です」

「誰からの安全ですか」

 

 スタッフは答えない。

 その沈黙だけで十分だった。

 ロックが低く言う。

 

「ガルシアを隔離するつもりですか」

 

 キャスパーはスタッフを見る。

 

「誰の指示かな」

 

 スタッフはわずかに表情を動かした。

 

「船内規定です」

 

 キャスパーの笑みが薄くなった。

 

「僕の市場で、僕の知らない規定が増えたらしい」

 

 その一言で、スタッフの後ろにいた警備員たちの緊張が変わった。彼らはキャスパーの部下ではない。少なくとも、完全には違う。市場船の中には、すでに複数の指揮系統が入り込んでいる。花輪を買いに来た者、奪いに来た者、壊しに来た者、そして、ラブレス家の鍵を先に押さえたい者。

 ガルシアが小さく息を吸った。

 

「僕を連れて行く必要はありません」

 

 スタッフが彼を見る。

 

「ラブレス様の安全のためです」

「なら、ここで構いません」

「規定です」

「その規定に、僕は署名していません」

 

 レヴィがにやりと笑った。

 

「言うじゃねえか、坊ちゃん」

 

 スタッフの表情が固まる。

 その一瞬だった。

 会議室の照明が揺れた。

 壁の画面が一瞬乱れ、海図の上にノイズが走る。ベニーが叫ぶ。

 

「外部からじゃない。船内システムが揺れてる!」

 

 キャスパーが目を細める。

 

「始まったか」

 

 次の瞬間、船内放送が鳴った。

 

『緊急連絡。全区画、通信障害発生。参加者は指定区域へ――』

 

 放送は途中で歪み、別の声に変わった。

 

『ラブレスの鍵を渡すな』

 

 ヨナの声。

 会議室の全員が止まる。

 

『海を閉じるな』

 

 音声はそこで切れ、警報音が鳴り始めた。

 警備員たちが動いた。

 目的は明らかだった。ガルシアへ向かっている。

 ロベルタが前に出た。

 

 その動きは、あまりにも速かった。黒いメイド服が一瞬だけ揺れ、ガルシアの前に壁のように立つ。ファビオラも同時に彼の横へ入る。レヴィは舌打ちしながら、別方向から近づいていた警備員の進路を塞いだ。

 

「おいおい、坊ちゃんは非売品だぜ」

 

 警備員は答えずに手を伸ばした。

 レヴィの目が細くなる。

 

「答えねえ奴は嫌いだ」

 

 銃声が会議室に響いた。

 だが、それは誰かを倒すためのものではなかった。照明の一部が弾け、破片が床へ散る。閃光と音で、警備員たちの動きが一瞬止まる。その隙にダッチがガルシアの肩を押し、ロックがベニーを引き寄せる。バルメはココの前へ出て、レームは周囲の出口を確認していた。

 

 会議室は一瞬で市場ではなくなった。

 商談のテーブルは遮蔽物になり、上質な椅子は蹴り倒され、壁の画面には花輪の図と乱れた海図が交互に映る。護衛たちが叫び、客たちが伏せ、誰かが別の言語で命令を飛ばす。銃声は短く、断続的だった。ガラスが割れ、照明が揺れ、警報音が途切れ途切れに響く。ロックはガルシアを壁際へ誘導しながら、ここが海の上であることを嫌でも意識した。逃げ場は少ない。船そのものが密室だ。

 

 ロベルタはガルシアの前から離れなかった。

 彼女の動きは静かだった。必要な分だけ動き、必要な相手だけを止める。だが、その目の奥に、別の色が差し始めているのをロックは見た。かつてラブレス家を追い詰めた過去。守るために壊れかけた記憶。ガルシアを狙う手が伸びた瞬間、その記憶が彼女の中で目を覚ましかけている。

 レヴィもそれに気づいた。

 

「おい、猟犬!」

 

 ロベルタは返事をしない。

 彼女の視線は、会議室を出て行こうとする一人の男を追っていた。さきほどガルシアを連れ出そうとしたスタッフの一人だ。男は通信端末を握り、裏口へ逃げようとしている。おそらく、どこかへ連絡を送るつもりだ。あるいは、ガルシア確保失敗の報告。ロベルタはその背中を見た瞬間、迷わず動こうとした。

 ガルシアが言った。

 

「ロベルタ」

 

 その声は銃声に半分かき消された。

 ロベルタは止まらない。

 レヴィが彼女の前へ滑り込むように立った。

 

「行くな」

 

 ロベルタの目がレヴィを射抜く。

 

「どいてください」

「やだね」

「あの男を逃がせば、坊ちゃまがさらに危険になります」

「追えば、お前が戻ってこねえ顔してる」

 

 ロベルタは静かに言った。

 

「必要なら戻らなくても構いません」

 

 レヴィの表情が変わった。

 普段の軽薄な笑みが消える。

 

「それがダメだって言ってんだよ」

「あなたに言われる筋合いはありません」

「あるね」

「なぜです」

「お前がそういう顔でどこへ行くか、俺は知ってる」

 

 ロベルタは動かない。

 だが、その指先に力が入っている。

 レヴィは一歩も退かなかった。

 

「坊ちゃんを守りたいなら戻れ。殺しに行くんじゃねえ。帰る場所を守れ」

 

 ロベルタの目がわずかに揺れた。

 ファビオラがガルシアを支えながら、息を呑む。

 ガルシアもレヴィを見ていた。

 言った本人が一番不快そうな顔をしている。レヴィは自分がそんなことを口にしたことに苛立っているようだった。だが、言葉は戻らない。戻らないからこそ、ロベルタに届いた。

 

「あなたに……それを言われるとは思いませんでした」

 

 ロベルタが言う。

 レヴィは舌打ちした。

 

「俺もだよ。だからムカついてんだ」

 

 ロベルタは逃げていく男の方を見る。

 そして、ガルシアを見た。

 ガルシアは震えながらも、はっきり言った。

 

「ロベルタ。僕のそばにいてください」

 

 その一言で、ロベルタは止まった。

 

「……はい」

 

 短い返事だった。

 だが、その短さの中に、どれほどのものを飲み込んだのか、ロックにはわかった。

 レヴィは肩の力を抜き、低く言う。

 

「今のは貸しだぞ、猟犬」

 

 ロベルタは静かに答えた。

 

「返済方法は後ほど」

「変な言い方すんな」

 

 その間にも、会議室の混乱は続いていた。キャスパーは騒ぎの中心にいながら、なぜか大きく動かない。彼は自分の護衛を最小限だけ動かし、客たちを見ている。誰が伏せるか。誰が逃げるか。誰が銃を抜くか。誰がガルシアを見たか。彼は本当に市場を見ていた。商品だけではない。客の反応を、価値の変動を、恐怖の形を見ている。

 

 ココはそれに気づき、兄を睨んだ。

 

「兄さん、楽しんでる?」

「まさか」

「嘘」

「半分は」

「最低」

「よく言われる」

 

 バルメがココの腕を掴んだ。

 

「ココ。今は脱出を」

「わかってる」

「わかっている顔ではありません」

「バルメは厳しい」

「あなたが走ろうとするからです」

 

 レームが言う。

 

「出口は二つ。正面は混みすぎています。右舷側の整備通路が使えるかもしれません」

 

 ダッチが即座に判断した。

 

「ラブレス家を連れて出る。ベニー、データは」

「会議室の端末からは無理。でも、船内ネットワークの一部に接続できる場所があるはず。通信室か、制御区画」

 

 レヴィが言う。

 

「じゃあそこへ行くのか」

 

 ベニーは嫌そうに言った。

 

「できれば行きたくない」

 

 ダッチは言う。

 

「行くしかないな」

「そう言うと思った」

 

 ロックはガルシアを見る。

 

「大丈夫か」

 

 ガルシアは頷いた。

 

「怖いです」

「それでいい」

「でも、逃げません」

 

 ロックは少しだけ笑った。

 

「それもいい」

 

 ココがこちらへ来た。

 

「ロック。二手に分かれるわ」

「どう分けるんですか」

「ガルシアを守る組と、花輪の制御区画へ行く組」

 

 ロックはすぐに言う。

 

「俺はガルシア側に」

 

 ココは首を振った。

 

「あなたは制御区画」

「なぜ」

「あなたの半分が必要になるかもしれない」

 

 ポケットの中の記憶媒体が、また重くなった。

 

 レヴィがロックを見る。

 

「行けよ」

「レヴィ」

「坊ちゃんは俺と猟犬と小さいのが見てる。過剰防衛だろ」

 

 ファビオラが顔をしかめる。

 

「小さいのではありません」

「じゃあ何だよ」

「ファビオラです」

「はいはい、ファビオラ」

 

 ロベルタがロックへ言った。

 

「坊ちゃまは、私たちが守ります」

 

 ロックはガルシアを見る。

 ガルシアは少し不安そうだったが、頷いた。

 

「ロック。あなたも、一人で判断しないでください」

 

 ロックは息を吐いた。

 

「わかった」

 

 ダッチが指示を出す。

 

「ロック、ベニー、ココ、バルメ、ワイリは制御区画へ。レーム、マオ、ルツは分散して出口を確保。俺はガルシア側につく。レヴィ、ロベルタ、ファビオラはガルシアから離れるな」

 

 レヴィが笑う。

 

「船の上で子守りかよ」

 

 ダッチは短く返す。

 

「一番危険な子守りだ」

 

「そりゃ退屈しなさそうだ」

 

 整備通路へ向かう途中、会議室の外ではすでに市場の仮面が剥がれかけていた。廊下には慌てて移動する参加者と護衛、船のスタッフ、そしてどの所属かわからない武装した男たちが入り混じっている。誰も全体を把握していない。だからこそ、花輪が狙うものが何か、ロックには嫌でもわかった。混乱した場で、誰の声を信じるか。どの命令が本物か。どの救援が罠か。人間が判断に迷う瞬間に、花輪は入り込む。

 船内放送がまた鳴った。

 

『全参加者は中央区画へ――』

 

 声が歪む。

 

『ラブレスの鍵を渡すな』

 

 そしてまた別の声。

 

『ガルシア・ラブレスを保護せよ。繰り返す、保護せよ』

 

 ロックが立ち止まる。

 

「今のは」

 

 ベニーが言う。

 

「偽命令だ。たぶん複数の系統が混ざってる」

 

 ココが低く言う。

 

「花輪が起きかけてる」

 

 バルメが周囲を警戒する。

 

「完全ではないのに、ここまで混乱させるのですか」

「完全じゃないから雑なの。でも雑な刃物でも、人は切れる」

 

 ワイリが明るさを消した声で言った。

 

「これ、放っておくと船全体が互いを敵だと思い始めるね」

 

 ベニーは青ざめた。

 

「最悪だ」

「それ、今日何回目?」

「数える余裕がない」

 

 制御区画へ向かう組と別れたあと、ガルシアたちは右舷側の通路を進んだ。ダッチが先導し、レヴィとロベルタが左右を警戒する。ファビオラはガルシアのすぐ横にいる。彼女の顔には恐怖があるが、目は逸らさない。守ると決めた者の顔だ。ガルシアもまた、逃げる足取りではなかった。震えている。それでも歩いている。

 通路の角で、二人の男が現れた。

 

「ラブレス様ですね。こちらへ」

 

 男の一人が穏やかに言った。

 ダッチが止まる。

 

「誰の指示だ」

「船内安全管理部です。緊急時の保護――」

 

 レヴィが遮る。

 

「嘘が長え」

 

 男たちの手が動くより早く、ロベルタとレヴィが同時に前へ出た。短い衝突。壁に肩がぶつかる音。床へ何かが落ちる音。銃声はなかった。二人の男はその場に倒れ込むように動きを止めた。レヴィは片方の男の通信端末を蹴り飛ばす。

 

「安全管理部ね。安全の匂いが一つもしねえ」

 

 ロベルタは男の襟元を確認した。

 

「所属表示は偽装です」

「だろうな」

 

 ファビオラが言う。

 

「殺していませんよね」

 

 レヴィが顔をしかめる。

 

「お前、俺を何だと思ってんだ」

「正直に言っていいのですか」

「やめろ。傷つくだろ」

「傷つく心があるなら、少し安心しました」

 

 レヴィは呆れたように笑った。

 

「この小さいの、口が悪くなってねえか」

 

 ガルシアが言った。

 

「レヴィさんの影響かもしれません」

「おい」

 

 その短いやり取りの中でも、ロベルタは周囲から視線を外していなかった。だが、彼女の息は少し荒い。抑えている。追いかけたい衝動を、ガルシアの言葉で押さえ込んでいる。レヴィはそれを横目で見ていた。

 

「猟犬」

「何ですか」

「無理してんな」

「あなたほどではありません」

「俺は無理してねえ。性格が悪いだけだ」

「自覚があるのですね」

「褒めていいぞ」

「半分だけ」

「お前まで言うな」

 

 ガルシアが思わず少し笑った。その笑いに、ロベルタの表情がわずかに緩む。レヴィはそれを見て、わざとらしく舌打ちした。

 

「坊ちゃん。笑ってる場合じゃねえぞ」

「すみません」

「謝るな。笑えるなら笑っとけ。笑えなくなってからじゃ遅え」

 

 ロベルタは一瞬、レヴィを見た。

 レヴィは彼女を見返さない。

 

 その言葉が誰に向けられたものなのか、ロベルタにはわかった。

 

     *

 

 一方、制御区画へ向かう通路はさらに複雑だった。船内の明るい廊下を抜けると、壁はむき出しの金属になり、足元には配管が増えた。市場の上品な顔はもうない。ここは船の腹の中だ。機械音、振動、冷却装置の低いうなり。ベニーは端末を見ながら進む。

 

「この先に通信制御室があるはず。たぶん花輪のデモに使う端末もそこ」

 

 ロックが言う。

 

「そこへ入れば止められるのか」

「止められる、かもしれない」

「また“かもしれない”か」

「この状況で断言する人間は信用しないほうがいい」

 

 ココが笑う。

 

「いいこと言うわ」

 

 ベニーは即座に言った。

 

「君に褒められると不安になる」

「正直ね」

 

 バルメが前方に手を上げた。

 

「止まって」

 

 全員が足を止める。

 通路の奥から足音が近づいてくる。二人、いや三人。バルメは壁際へ動き、ワイリは後ろへ下がる。ココは何も言わず、ロックの腕を軽く引いて陰へ入れた。ロックはその動きに少しだけ驚く。

 

「何?」

「あなた、撃たれると面倒だから」

「面倒で済むんですか」

「かなり面倒」

 

 足音の主たちは通路へ現れた。船の警備員ではない。装備も服装も違う。民間軍事会社の人間に見える。彼らは端末を持ち、何かの位置情報を確認していた。会話の断片が聞こえる。

 

「ラブレスは別班が追っている」

「ヘクマティアルの妹は?」

「制御区画へ向かっている可能性」

「兄の指示か?」

「不明。どちらでもいい。データを優先しろ」

 

 ココの目が細くなった。

 バルメが動いた。

 短い衝突のあと、男たちは通路に倒れ込むように止まった。詳細を見る暇はない。ベニーが端末を拾い、画面を確認する。

 

「彼ら、僕らの位置をある程度把握してる。船内カメラか、通信タグか、誰かが誘導してる」

 

 ココが言う。

 

「兄さんではないわ」

 

 ロックは彼女を見る。

 

「なぜ言い切れるんです」

「兄さんなら、もっと面白い場所へ誘導する」

「信用できる理由ではないですね」

「でも当たってる」

 

 ベニーが端末を操作する。

 

「この追跡情報、花輪のデモシステム経由だ。完全起動してないのに、船内の情報を食ってる」

 

 ロックは嫌な汗を感じた。

 

「つまり、花輪は市場の客も食ってる」

「そう。買い手も売り手も、船内にいる全員がデータになってる」

 

 ココは静かに言った。

 

「兄さんの市場を、花輪が逆に食べ始めた」

 

 その言葉に、全員が一瞬だけ黙った。

 

 制御室へ着くと、扉はロックされていた。ベニーが端末を確認し、ワイリが横から覗き込む。

 

「時間かかる?」

「急かさないで」

「爆発なら早いよ」

「その提案をすると思った」

「小さくなら」

「だめ」

 

 ココが笑う。

 

「仲がいいわね」

 

 ベニーは扉を見ながら言った。

 

「危険な友達ほど疲れるんだ」

 

 ワイリは楽しそうに肩をすくめる。

 

「褒め言葉だね」

「違う」

 

 扉が開いた瞬間、制御室の中から冷たい空気が流れ出した。そこには、複数の端末と大型の表示装置、海図、通信ログ、そして花輪の不完全な輪が映っていた。部屋の中央には、黒い箱型の機材がいくつも並んでいる。前作で見たものより整っている。つまり、こちらのほうが本命に近い。

 ベニーは息を呑む。

 

「これが……」

 

 ココが静かに言う。

 

「海に咲く花輪」

 

 ロックは画面を見た。

 そこには、ラブレス家の旧通信権限を示す未認証の項目が点滅していた。隣には、ロックが持つ断片データに似た識別表示。さらにその横に、HCLI由来の別の断片。三つの鍵が揃えば、輪は閉じる。そう言われなくてもわかる形だった。

 

「ロック」

 

 ココが言う。

 

「あなたの半分が必要になるかもしれない」

「止めるために?」

「今は、そう」

「今は?」

 

 ココはロックを見る。

 

「嘘はつかないわ。中身を見たい気持ちはある。でも、今ここで輪が閉じるのはまずい」

「まずい、で済むんですか」

「済まない」

 

 ロックはポケットに手をやった。

 記憶媒体はそこにある。

 軽い。

 重い。

 これを使えば止められるかもしれない。だが、使うことでココに何かを渡すことにもなる。キャスパーが言った通り、ロックはもう善良な傍観者ではない。情報を持ち、黙り、渡す相手を選ぼうとしている。それはもう選択だ。逃げ道ではない。

 ベニーが言う。

 

「決めるなら早く。船内放送がさらに混ざってる。ガルシア側へ偽命令が飛び続けてる」

 

 ロックはココを見る。

 

「一人で判断しない。そう約束しました」

 

 ココは少し驚いたような顔をした。

 

「誰と?」

「ガルシアと」

「いい約束ね」

「だから、ここで全部は渡しません」

 

 ココは微笑んだ。

 

「賢い」

「あなたに褒められると不安です」

「ベニーと同じこと言うのね」

「たぶん正しい反応です」

 

 ロックは記憶媒体を取り出した。ただし、ベニーに渡す。

 

「ベニー。必要な部分だけ使えるか」

 

 ベニーは受け取り、息を吐いた。

 

「やってみる。全部を開かずに、認証の形だけぶつける。鍵を差し込むんじゃなくて、鍵穴の形を狂わせる感じ」

 

 ワイリが感心したように言う。

 

「壊すんじゃなくて、閉まらなくするんだ」

「そう。たぶん」

「たぶんが多いね」

「君に言われたくない」

 

 ココは画面を見つめていた。

 輪が少しずつ揺れている。

 未確認船の光点も近づいている。

 ヨナがいるかもしれない船。

 その後ろに、追跡する別の光点。

 ココの手がわずかに握られる。

 バルメはその横顔を見ていた。

 

「ココ」

「わかってる」

「本当に?」

「追わない。今は」

「今は?」

「便利な言葉ね」

 

 バルメは静かに言った。

 

「便利な言葉ほど、あなたは危険に使います」

 

 ココは少しだけ笑った。

 

「厳しい」

「必要です」

 

     *

 

 ガルシア側は、右舷の避難区画へ向かっていた。だが、船内放送は何度も彼らを別方向へ誘導しようとした。

 

『ラブレス様はこちらへ』

『安全区画は左舷側です』

『保護班が到着します』

 

 そのたびにベニーからの短い通信が入り、ダッチが進路を修正した。花輪はまだ完全ではない。だが、嘘の声を作るには十分だった。人間は声に従う。特に、危険な時ほど。そこに花輪の恐ろしさがあった。

 通路の曲がり角で、ガルシアが足を止めた。

 

「僕の声が聞こえました」

 

 ファビオラが驚く。

 

「坊ちゃまの?」

「はい。今、放送で」

 

 ロベルタの顔が強張る。

 次の瞬間、船内放送からガルシア自身の声が流れた。

 

『ロベルタ。僕は大丈夫です。こちらへ来てください』

 

 ファビオラが息を呑む。

 ロベルタの目が揺れた。

 ガルシアがすぐに叫ぶ。

 

「違います!」

 

 放送は続く。

 

『ロベルタ。命令です。僕を探してください』

 

 ロベルタの手が震えた。

 レヴィが低く言う。

 

「聞くな」

 

 ロベルタは歯を食いしばる。

 

「わかっています」

『ロベルタ。お願いです』

 

 偽のガルシアの声。

 優しく、弱く、助けを求める声。

 ロベルタの中の何かを直接掴むために作られた声だった。守る者にとって、守る相手の声ほど強い鎖はない。偽物だとわかっていても、身体は反応する。ガルシアの命令。ガルシアの願い。それが偽造されるという事実は、ロベルタにとって銃弾よりも残酷だった。

 ガルシアはロベルタの前に立った。

 

「ロベルタ。ここにいます」

「坊ちゃま」

「僕はここにいます。あの声は違います」

 

 ロベルタはガルシアを見た。

 目の奥で、怒りと恐怖が混ざっている。

 

「許せません」

「はい」

「あの声を使った者を、私は許せません」

「僕もです」

 

 ガルシアは震えながら言った。

 

「でも、行かないでください」

 

 ロベルタは目を閉じた。

 長い一秒だった。

 

「……はい」

 

 レヴィが放送スピーカーを睨む。

 

「胸糞悪いな」

 

 ファビオラが低く言う。

 

「最低です」

「同感だ、小さいの」

「ファビオラです」

「悪い、ファビオラ」

 

 ファビオラは一瞬だけレヴィを見た。

 レヴィは視線を逸らした。

 照れたわけではない。たぶん違う。少なくとも本人は絶対に認めないだろう。

 その時、通路の先で扉が開いた。黒い服の男たちが現れる。人数は多くない。だが、狙いは明確だった。ガルシア。

 ダッチが言う。

 

「抜けるぞ」

 

 レヴィが笑う。

 

「ようやくわかりやすい連中だ」

 

 ロベルタも前へ出る。

 だが、今度はガルシアが言った。

 

「ロベルタ」

 

 彼女は振り返る。

 

「行ってください。でも、戻ってきてください」

 

 ロベルタの目が少しだけ見開かれる。

 ガルシアは続けた。

 

「僕を守るために、戻ってきてください」

 

 ロベルタは深く頷いた。

 

「必ず」

 

 レヴィが横で言う。

 

「聞いたな。帰る場所を守れよ」

「あなたも」

「俺は帰る場所なんざ」

 

 レヴィは言いかけて、やめた。

 ガルシアが見ていたからだ。

 

「……うるせえ。行くぞ、猟犬」

「はい」

 

 二人は並んで前へ出た。

 

 猟犬と二挺拳銃。

 似ても似つかない二人だった。静と動。誓いと諦め。守るために戦う者と、生きるために撃つ者。だが、この狭い通路で、二人の呼吸は妙に噛み合った。ロベルタが相手の動きを止め、レヴィが隙間を抜く。レヴィが注意を引き、ロベルタがガルシアへ向かう道を塞ぐ。銃声は短く、壁に火花が散り、床を走る影が揺れる。誰かが叫ぶ。誰かが後退する。だが、ガルシアには届かない。

 ファビオラはガルシアの横で、唇を噛みながら二人を見ていた。

 

「悔しいです」

 

 ガルシアが聞く。

 

「何が?」

「私も、もっと強ければ」

 

 ガルシアは首を振った。

 

「ファビオラは強いです」

「でも、あの二人のようには」

「同じ強さでなくていい」

 

 ファビオラはガルシアを見た。

 ガルシアは震えていた。

 それでも言った。

 

「僕には、ファビオラの強さも必要です」

 

 ファビオラは泣きそうな顔になり、それでも頷いた。

 

「はい」

 

     *

 

 制御室では、ベニーがロックの断片データを使い、花輪の輪を狂わせようとしていた。詳細な操作は端末の画面に流れ、ロックにはほとんど理解できない。ただ、ベニーの顔色が悪くなるたびに、事態が悪い方へ進んでいるのはわかった。

 

「ベニー」

「話しかけないで」

「悪い」

「いや、必要なら話して。でも今は、できれば世界が静かになってほしい」

 

 ワイリが言う。

 

「爆発なら一瞬静かになるよ」

「ならない。むしろうるさい」

 

 ココは画面を見つめていた。

 

「未確認船は?」

 

 バルメが答える。

 

「近づいています。追跡していた光点の一つが消えました」

「消えた?」

「沈黙しました。理由は不明」

 

 ココの表情が動く。

 ヨナが何かしたのか。

 追跡者が何かをしたのか。

 それとも花輪が飲み込んだのか。

 

 わからない。

 わからないことが、彼女を急かす。

 ロックはそれを見ていた。

 

「ココ」

「何?」

「今、あなたは何を優先していますか」

 

 ココは答えない。

 

「ヨナですか。花輪ですか。兄さんですか」

 

 ココは画面から目を離さずに言った。

 

「全部」

「全部は無理です」

「知ってる」

「なら」

「選ぶわ」

 

 ココはロックを見る。

 その目には、迷いがあった。

 迷いがあることに、ロックは少しだけ安心した。

 

「今は、花輪を止める。ヨナはその後」

 

 バルメが静かに息を吐いた。

 ワイリが小さく言う。

 

「よかった。今すぐ海に飛び込むかと思った」

 

 ココは笑った。

 

「泳ぎは得意じゃないわ」

「そういう問題じゃない」

 

 ベニーが叫んだ。

 

「入った!」

「何が」

 

 ロックが聞く。

 

「ロックの断片データで、ラブレス権限の認証経路にノイズを入れた。完全に止めてはいないけど、鍵穴の形をずらした。これで少なくとも、勝手に輪は閉じない」

 

 画面の花輪が揺れた。

 円になりかけていた線が歪む。南米沿岸へ伸びていた線の一部が途切れ、ラブレス家の権限表示が赤く点滅した。

 ココが低く言う。

 

「成功?」

 

 ベニーは息を吐く。

 

「半分」

 

 レヴィがいたら怒っただろう、とロックは思った。

 

「残り半分は?」

「誰かが手動で押し込めば、まだ通る可能性がある。つまり、ガルシア本人の承認か、それに見える偽装が必要になる」

 

 ロックは顔を強張らせた。

 

「ガルシアがまだ狙われる」

「そういうこと」

 

 その時、制御室の端末に新しい通信が入った。

 発信元不明。

 音声ではなく、短い文字列。

 

『鍵を海に沈めろ』

 

 ココが画面を見る。

 

「ヨナ?」

 

 ベニーが首を振る。

 

「わからない。でも、外部の未確認船から来てる」

 

 続けて、もう一文。

 

『ラブレスを市場から出せ。花輪は人の声を盗む』

 

 ロックは息を止めた。

 人の声を盗む。

 すでにそれは始まっている。ガルシアの偽の声。船内放送の偽命令。花輪が完成すれば、それは船一隻では済まない。偽の救援。偽の停戦。偽の避難指示。人間が最も信じたい声を使って、人間を動かす。

 ココが言った。

 

「兄さんの市場どころじゃないわ」

 

 ロックは頷いた。

 

「花輪そのものが、もう暴れ始めてる」

 

 その時、制御室の扉の向こうから足音がした。

 バルメが即座に構える。

 レームから短い通信が入る。

 

『そちらへ複数接近。所属不明。急げ』

 

 ココはベニーを見る。

 

「どれくらい必要?」

「本当に正直に言う?」

「ええ」

「あと五分ほしい」

 

 ワイリが言う。

 

「こういう時の五分は長いね」

 

 ロックは通路の方を見る。

 

「稼ぐしかない」

 

 ココが笑った。

 

「ロックがそういう顔をするようになるとはね」

「あなたのせいです」

「半分は?」

「今回は全部です」

 

 ココは一瞬驚き、それから楽しそうに笑った。

 

「いい返し」

 

 制御室の外で、最初の衝突音が響いた。

 花輪の輪は歪み、海上の未確認船はなお近づいている。

 ガルシアは偽の声に狙われ、ロベルタは踏みとどまり、レヴィは隣で笑っている。

 キャスパーの市場は、客も商品も区別できない混乱へ沈み始めていた。

 そして、その中心で、誰かの若い声がまだ海の上から叫んでいる。

 ラブレスの鍵を渡すな。

 

 海を閉じるな。

 その声が本当にヨナのものなのか、まだ誰にも確かめられない。

 だが、ココはもう知っていた。

 

 あの声を追わずに、この物語は終われない。

 

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