Guns & Garlands — 銃と花輪 作:たこ焼き 龍月
船というものは、陸の上で作られた常識を簡単に裏切る。壁の向こうに海があり、床の下に暗い水がある。そこにいる者たちは建物の中にいるつもりで歩き、会議室で商談し、廊下で命令を出し、ドアの向こうへ逃げれば別の場所に行けると思い込む。だが実際には、すべては一枚の船体の上に乗っている。沈めば全員が同じ水へ落ちる。勝者も敗者も、買い手も売り手も、契約書を持つ者も銃を持つ者も、海は区別しない。だからこそ、キャスパー・ヘクマティアルがこの場所に市場を作った理由を、ロックはようやく理解し始めていた。ここは逃げ場のある会議場ではない。逃げ場のない市場だ。
制御区画の外で、最初の銃声が響いた。金属の壁に弾が当たり、乾いた火花が散る。通路の照明が揺れ、警報の赤い光が壁を不規則に染めた。ロックは制御室の入口付近に身を寄せ、向こうから近づいてくる足音を聞いていた。隣ではバルメが無言で構え、ワイリは工具箱のようなものを抱えている。彼が何かを取り出すたびにベニーが嫌な顔をするので、ロックはなるべく見ないようにした。
「ベニー、まだか」
ロックが聞く。
「その質問、すごく嫌いになりそうだ」
ベニーは端末の前で指を止めずに答えた。画面にはいくつもの窓が開き、海図、認証ログ、通信経路、花輪の不完全な輪が重なっている。ロックには細かい意味はわからない。ただ、赤く点滅する部分が増えていることだけはわかった。
「状況は?」
「ロックの断片データで、ラブレス権限の認証経路は一度歪ませた。でも花輪側が別の経路を探してる。船内の通信、外部ノード、偽の音声承認、全部を拾おうとしてる。鍵穴を塞いだら、壁ごと削ろうとしてる感じ」
ワイリが明るく言った。
「壁ごと壊すのはわかりやすいね」
「君のわかりやすさは危険すぎる」
「褒めてる?」
「本気で違う」
ココは画面を見ていた。いつもの笑みは薄い。花輪の輪は、海図の上でゆっくり形を変えている。完全な円ではない。だが、線が伸び、途切れ、別の線と結び直されるたびに、船内放送の声が乱れ、廊下の警備員たちの動きが変わる。花輪はただの機械ではない。人間の判断の隙間に入り込む、見えない手だった。
「兄さんの市場を、花輪が食べ始めている」
ココが言った。
ロックは彼女を見る。
「想定外ですか」
「半分」
「その言い方、今は聞きたくありません」
「そうね。今は全部と言うべきかも」
ココは笑ったが、その笑みには余裕がなかった。
「兄さんは、市場を作った。花輪を欲しがる人間を集めた。でも花輪から見れば、ここにいる人間は買い手じゃない。材料よ」
「材料?」
「誰がどの命令に従うか。誰が誰を信用するか。誰がどの声に反応するか。誰が恐怖で動くか。花輪はそれを食べてる」
ベニーが青ざめたまま頷いた。
「そう。船内のカメラ、通信、端末、参加者の識別情報、全部が混ざってる。花輪は完成していないけど、学習してるみたいに動いてる」
ロックの背筋が冷えた。
「学習?」
「たとえ話だよ。実際にどうこうじゃなくて、反応を拾って次の偽命令を作ってる。ガルシアの声を使ったのも、それだと思う」
ココの表情がさらに険しくなる。
「ヨナの声も?」
ベニーは少し言葉を詰まらせた。
「わからない。本物の通信も混じってる。でも、花輪がその声を真似し始めたら、区別はもっと難しくなる」
その時、船内放送がまた鳴った。
『制御区画の異常を確認。技術班は退避してください』
声は落ち着いていた。正規の船内放送に聞こえる。だが次の瞬間、同じ声が少しだけ歪んだ。
『ココ・ヘクマティアルは、制御区画を離れてください』
バルメの目が鋭くなった。
『ヨナは、船外にいます。救助には時間がありません』
ココの肩がわずかに動いた。
ロックはその一瞬を見逃さなかった。
「ココ」
「わかってる」
彼女は低く言った。
「偽物よ」
『ヨナは、あなたを呼んでいます』
放送は続いた。
バルメがココの前に立つ。
「聞かないでください」
「聞いてない」
「あなたは、聞いています」
ココは何も言わなかった。
放送はまた歪む。
『ココ。来るな』
今度は、若い声だった。
ココの顔が止まった。
ロックにもわかった。
それは先ほどの警告と似ていた。ヨナの声かもしれない。だが、どこかが違う。少しだけ滑らかすぎる。少しだけ感情の位置がおかしい。花輪が拾った声を、真似ているのかもしれない。
ココは笑った。
とても小さく、冷たい笑みだった。
「下手ね」
放送が止まる。
ベニーが端末を叩いた。
「今のは船内生成の偽音声だ。外部からじゃない。少なくとも最後の二つは偽物」
バルメが息を吐く。
「よかった」
ココは答えなかった。
よかった、という言葉は正しくなかった。本物のヨナがどこかにいるかもしれないから偽物が作られる。つまり、花輪はもう彼の声を材料として扱い始めている。その事実は、ココの中で静かに火をつけていた。
扉の向こうで、また足音が増えた。
レームの声が通信機から聞こえる。
『そちらへ向かう連中、さらに増えた。市場の警備だけじゃない。買い手側の護衛も混じっている』
ダッチの声も割り込む。
『ガルシア側も誘導を受けている。偽の避難命令が多すぎる。制御区画を止められるか』
ベニーが叫ぶように答える。
「止めたいから今やってる!」
ダッチは短く言った。
『頼む』
ベニーは一瞬だけ黙り、それから小さく呟いた。
「そう言われると弱いんだよな」
ワイリが笑う。
「じゃあ頑張ろう」
「君は何もしないで」
「何もしないのは難しいね」
「君にとってはね」
ロックは通路を見た。バルメが外へ出る。向こうから来る影が三つ。いや、四つ。彼女は一言も発しない。動きだけで通路を塞ぐ。ココの護衛としてだけではなく、今は制御室そのものを守る壁になっていた。ロックは自分の無力さを感じた。銃を持つ者たちの間で、彼にできることは少ない。だが、今回は完全に何もできないわけではない。ポケットにあった記憶媒体は、もうベニーの手元にある。彼は選んだ。全部を渡さず、必要な部分だけ使う道を選んだ。その選択が正しかったのかは、まだわからない。
ココがロックの横に来た。
「あなた、少し変わったわね」
「今その話ですか」
「今だから」
ロックは目を細めた。
「どこが」
「前なら、私を止めるために言葉を探していた。今は、止めるために材料を選んでる」
「悪くなったという意味ですか」
「少し」
「嬉しそうですね」
「半分」
「本当にやめてください」
ココは小さく笑った。
「でも、あなたが全部を渡さなかったのは正しい。私にとっては少し残念だけど」
「正直ですね」
「嘘をつく余裕がないの」
その言葉に、ロックは彼女を見た。
ココ・ヘクマティアルが「余裕がない」と言う。冗談にも聞こえる。だが、今の彼女は本気だった。花輪、キャスパー、ヨナ、ロック、ガルシア。すべてが同時に彼女の前で動いている。普段ならそれを楽しむ。危険の向きを変えるために笑う。だが、ヨナの名だけは、彼女の計算に個人的な痛みを混ぜていた。
「ココ」
「何?」
「ヨナを追う時は、一人で行かないでください」
ココは少し驚いたように見た。
「私に命令?」
「お願いです」
「お願いの方が厄介ね」
「ガルシアにも同じことを言われました。一人で判断するなと」
「いい子ね」
「あなたにも必要な言葉です」
ココは少し黙った。
そして、短く言った。
「努力する」
「信用できません」
「じゃあ、見張って」
ロックは何も言えなかった。
それが冗談なのか、本気なのか。たぶん両方だった。
*
ガルシアたちは、船内の右舷側を移動していた。避難区画へ向かうはずだったが、花輪の偽命令が通路のあちこちを混乱させている。非常灯は不規則に点滅し、スピーカーからは正規の放送と偽の声が交互に流れる。時には同じ声で逆の命令が出る。左へ行け。右へ行け。待機せよ。移動せよ。ラブレスを保護せよ。ラブレスを隔離せよ。船内は見えない糸で引っ張られる人形劇のようになっていた。
ダッチは迷わなかった。放送ではなく、自分の目とベニーからの短い通信だけを信じて進路を選ぶ。レヴィはその隣で苛立っていた。
「うるせえ船だな。スピーカー全部撃ち抜きてえ」
ファビオラが言う。
「それで静かになるなら、少しだけ賛成したいです」
レヴィは彼女を見た。
「お前がそういうこと言うと、なんか悪い教育してる気になるな」
「自覚があるなら直してください」
「無理だな」
ガルシアは黙っていた。彼の耳には、何度も自分の声が聞こえていた。偽の自分。ロベルタを呼ぶ声。ファビオラに助けを求める声。署名すると告げる声まで流れた。そのたびに、彼は自分の声が自分のものでなくなる恐怖を味わった。銃口を向けられるよりも、ある意味で怖い。自分の名前、自分の声、自分の家の権限が、誰かの道具になる。その感覚は、体の内側から何かを奪われるようだった。
ロベルタはずっと彼のそばにいた。
だが、彼女もまた苦しんでいた。偽のガルシアの声が流れるたびに、ほんの一瞬、反応してしまう。その一瞬を、彼女自身が許せない。守る者として、偽物に揺さぶられることが耐えがたかった。
『ロベルタ。僕はこっちです』
また放送が鳴った。
今度は、幼いころのガルシアに似た声だった。
ロベルタの足が止まりかける。
レヴィが即座に言った。
「猟犬」
ロベルタは歯を食いしばる。
「わかっています」
『ロベルタ。助けて』
ガルシアがロベルタの手を握った。
「ここにいます」
ロベルタは彼を見る。
ガルシアは震えていた。それでも、彼女の目をまっすぐ見ている。
「僕はここにいます。あの声じゃありません」
ロベルタは深く息を吸った。
「はい」
ファビオラは怒りを隠さずスピーカーを睨んだ。
「最低です。本当に最低です」
レヴィが言う。
「怒っとけ。こういうのは、怒れるうちはまだ大丈夫だ」
「あなたに励まされる日が来るとは思いませんでした」
「俺もだよ。だから気味が悪い」
ダッチが前方を見た。
「止まれ」
通路の先に、人影があった。三人。スーツ姿だが、足運びが護衛のものだった。中央の男だけが手を上げ、穏やかな声で話しかけてくる。
「ガルシア・ラブレス様。こちらは危険です。安全な区画へご案内します」
ダッチは答えない。
男は続ける。
「ヘクマティアル氏の許可も得ています」
レヴィが笑った。
「どっちのヘクマティアルだよ」
男は一瞬だけ詰まった。
それで十分だった。
ダッチが低く言う。
「偽物だ」
男たちが動く。
ロベルタとレヴィも同時に動いた。通路は狭い。派手な銃撃になればガルシアたちが危ない。だから二人は距離を詰め、相手の動きを止めることを優先した。壁に背中がぶつかる音。床を滑る靴音。短い怒号。レヴィは相手の腕を弾き、ロベルタは別の男の進路を封じる。ダッチはガルシアを後ろへ下げ、ファビオラが彼を支えた。
戦いは短かった。
男たちは床に伏せ、通信端末だけが廊下を滑った。
レヴィは息を吐いた。
「こういう時、船ってのは狭すぎるな」
ロベルタは静かに言った。
「狭い方が守りやすいこともあります」
「お前は守ることしか考えてねえな」
「あなたは壊すことばかり考えている」
「生き残ることだ」
「同じではありません」
「時々同じだ」
ロベルタは返事をしなかった。
ガルシアが二人を見て言う。
「二人とも、ありがとうございます」
レヴィは顔をしかめる。
「礼言うな。調子狂う」
ロベルタは頭を下げた。
「当然のことです」
「だからそれが重いんだよ、猟犬」
その時、ベニーから通信が入った。
『ダッチ、聞こえる? ガルシアの本人認証を狙ってる。音声偽装だけじゃ足りないらしくて、本人の近くで何かを拾おうとしてる可能性がある。端末、カメラ、船内センサー、とにかく近づかせないで』
ダッチが答える。
「了解」
ガルシアが聞く。
「僕の近くで何を?」
ベニーの声が一瞬詰まる。
『君が承認したように見せる材料。声、顔、反応、何でも。詳しくは考えない方がいい』
ガルシアは顔を青くした。
「僕が何も言わなくても、使われるんですか」
ロックの声が別回線から入った。
『だから、一人で動かないで。誰かの呼びかけにも答えないで。君の声を録られる可能性がある』
ガルシアは口を閉じた。
自分の声すら、もう不用意に出せない。そんな状況で、彼はようやく理解した。花輪が閉じるということは、海が閉じるだけではない。人間の声が閉じ込められることだ。誰かの命令が誰かのものではなくなる。救いを求める声が罠になる。信頼が道具になる。
ファビオラがガルシアの手を握った。
「坊ちゃま」
ガルシアは小さく頷いた。
声は出さなかった。
ロベルタはそれを見て、表情を硬くした。
レヴィが低く言う。
「胸糞悪いにもほどがあるな」
ダッチは周囲を確認した。
「制御区画へ合流する。ここにいても狩られるだけだ」
レヴィが笑う。
「ようやく攻めるか」
「守りながらだ」
「一番面倒なやつだな」
「仕事だ」
「はいはい」
*
制御室では、ベニーが花輪の認証経路を狂わせる作業を続けていた。ロックの断片データは一部だけ使われ、ココの持つもう一つの断片はまだ完全には開かれていない。ココはそれをベニーに渡していなかった。渡せば止めやすくなるかもしれない。だが同時に、花輪の輪郭がよりはっきり見えてしまう。壊すために見るのか、見るために近づくのか。その境目は危険だった。
ロックはそれに気づいていた。
「ココ」
「何?」
「あなたのデータを使わないんですか」
「使うべきだと思う?」
「止めるためなら」
「でも、私が中身を見たがっているのを、あなたは知っている」
「知っています」
「なら、私に渡させるのは危険よ」
ロックは黙った。
ココは自分の危険を理解している。だからこそ、余計に厄介だった。彼女は自分を疑う。だが、自分を疑いながら、それでも進むことができる。ブレーキの位置を知っていて、踏むかどうかを最後まで選び続ける人間。ロックが怖いと思ったのは、そこだった。
「じゃあ、誰が決めるんです」
「あなた」
ココはあっさり言った。
ロックは目を見開く。
「俺?」
「あなたが止めると言ったでしょう」
「俺は、あなたの判断を代わりにするとは言っていません」
「似たようなものよ」
「違います」
「違う?」
「あなたを止めることと、あなたの代わりに選ぶことは違う」
ココは少し黙った。
それから、楽しそうではなく、真面目に言った。
「それ、いい言葉ね」
「今は褒めないでください」
「じゃあ、覚えておく」
ベニーが叫ぶ。
「二人とも、哲学は後! 今、ココの断片を使わずに止める方法を探してるけど、かなり厳しい。完全に閉じる直前で止めるには、ラブレス権限そのものを無効化する必要があるかもしれない」
ロックが言う。
「無効化?」
「簡単に言うと、鍵を捨てる。ラブレス家の旧通信権限を権利として使えない状態にする。そうすれば花輪はその鍵を使えない」
「それはガルシアが決めることですね」
「そう。しかも、かなり大きな損失になる。地域通信の再整備にも使えなくなるかもしれないし、ラブレス家の資産価値にも影響する」
ココが静かに言った。
「損を選べる当主は高くつく」
キャスパーの言葉だった。
ロックは顔をしかめた。
「嫌な言葉ですね」
「ええ。でも、兄さんはそういう嫌な真実を売るのが上手い」
その時、制御室の大型画面が勝手に切り替わった。
キャスパーの顔が映る。
ロックとココが同時に身構えた。
『やあ。そちらも忙しそうだね』
ココが冷たく言う。
「兄さん。今は遊んでいる場合じゃない」
『遊びではないよ。市場の管理は大変なんだ』
「管理できてないわ」
『その通り。花輪が思ったより早く市場を食べ始めた』
「予想していたの?」
『可能性はね』
ロックが言った。
「あなたは、この事態を見越していたんですか」
『見越していた、というほど綺麗な話じゃない。怪物を檻に入れて客に見せようとしたら、檻の鍵が少し緩かった。そういう話だ』
「そのせいで、ガルシアが狙われています」
『彼は最初から狙われていた。僕が呼んだからではない』
「呼んだことで早まった」
『それは認める』
ロックは拳を握った。
キャスパーは画面越しに続ける。
『ベニー。君ならもう気づいているだろう。花輪を止めるには、ラブレス家の鍵を折る必要がある』
ベニーは嫌そうに言った。
「言い方が嫌いだけど、たぶんそうだ」
『ガルシアに伝えるといい。売る、守る、壊す。選択肢は三つだ。だが時間が経つほど、売る以外の選択肢は高くなる』
ココが言う。
「兄さんは何を望むの?」
『選択だよ』
「嘘」
『半分は本当』
「残り半分は?」
『ガルシアが何を選ぶか見たい。そして、その選択を見た者たちがどう動くか見たい』
「最低」
『市場には観察が必要だ』
その時、画面の端に別の通信が割り込んだ。ノイズ。海の音。若い声。
『キャスパー・ヘクマティアル』
キャスパーの笑みがわずかに止まった。
『聞こえてるか』
ココが息を呑む。
「ヨナ」
声は荒れていた。通信状態が悪い。だが、その感情は偽物ではなかった。短く、硬く、怒りを押し殺している。
『お前の市場じゃない。花輪はもう、お前の客を見てる』
キャスパーは静かに言った。
『久しぶりだね、ヨナ』
ココの顔が固まる。
ヨナは答えない。
『ラブレスの鍵を折れ。海を閉じるな』
ロックが画面へ近づく。
「ヨナ。君はどこにいる」
しばらく沈黙。
そして、声が返った。
『ロック』
「そうだ」
『ココを止めろ』
ココの表情が変わる。
ヨナは続けた。
『花輪を見るな。見れば、欲しくなる』
通信が乱れる。
『あれは、戦争を終わらせる道具じゃない。戦争を、声にする道具だ』
ノイズが激しくなる。
ベニーが必死に位置を追おうとする。
「待って、もう少し喋って」
ヨナの声は途切れかけていた。
『ラブレスを……選ばせろ。奪うな』
通信は切れた。
制御室に沈黙が落ちる。
ココは画面を見つめていた。
バルメがそばに立つ。
「ココ」
「聞いたわ」
「追いますか」
ココは目を閉じた。
長い一秒。
そして、言った。
「追わない。今は」
ロックは彼女を見た。
ココは続ける。
「ヨナが言った。ラブレスに選ばせろって」
その声には、いつもの軽さがなかった。
キャスパーの映像はまだ画面に残っている。彼は珍しく、しばらく何も言わなかった。
ココは兄を睨む。
「兄さん。市場は終わりよ」
『君が決めることではない』
「いいえ。終わらせる」
『商品も客も残っている』
「だから終わらせるの」
キャスパーは少しだけ笑った。
『その顔、久しぶりに見たな』
「兄さんのせいよ」
『半分は?』
「全部」
キャスパーは声を出して笑った。
『怖い妹だ』
「よく言われる」
画面が切れた。
ベニーが息を吐く。
「今の通信、本物だったと思う」
ココは小さく頷いた。
「ええ」
「位置は完全には取れなかった。でも、未確認船はもうかなり近い。市場船の外周へ接近してる」
ワイリが言う。
「追ってた光点は?」
「一つは消えた。もう一つはまだいる。つまり、ヨナだけじゃない」
ロックは言った。
「ヨナを追っている者が、この船にも外にもいる」
ココは画面を見た。
「なら、早く終わらせる」
ベニーが言った。
「ガルシアに選ばせる必要がある。ラブレス権限を維持するのか、移譲するのか、無効化するのか」
「無効化すれば、花輪は止まる?」
「完全にはわからない。でも、少なくともこの船で輪は閉じない」
ロックは通信機を握った。
「ダッチ。聞こえますか」
少しノイズが入り、ダッチの声が返る。
『聞こえる』
「ガルシアに伝えてください。花輪を止めるには、ラブレス家の旧通信権限を無効化する必要があるかもしれません」
沈黙。
その向こうで、船内の警報音が聞こえる。
『損失は』
ダッチが聞く。
ベニーが答えた。
「大きいです。資産としても、地域インフラとしても、今後使えなくなる可能性が高い」
また沈黙。
今度は、ガルシアの声が聞こえた。
『ロック』
「ガルシア」
『それを決めるのは、僕ですね』
ロックは目を閉じた。
「そうだ」
『売るか、守るか、壊すか』
「そう」
『僕が選ばなければ、誰かが選ぶ』
「たぶん」
『なら、僕が選びます』
ロベルタの声が入る。
『坊ちゃま』
ガルシアは続けた。
『まだ決めたわけではありません。でも、逃げません』
ロックは小さく息を吐いた。
「わかった。制御区画へ来られるか」
ダッチが答える。
『向かっている。邪魔が多い』
レヴィの声が遠くで聞こえる。
『邪魔は減らしてる!』
ファビオラの声。
『増やさないでください!』
緊張の中で、ロックは思わず笑いそうになった。だが、すぐに表情を戻す。
「こちらも持ちこたえます」
通信が切れた。
ココはロックを見る。
「ガルシアは来るのね」
「はい」
「若い当主に、ずいぶん重い選択をさせる」
「選ばせろと言ったのはヨナです」
「ええ」
「そして、たぶん正しい」
ココは黙った。
外ではまた銃声が響いた。制御室の扉の向こうに、人影が増える。バルメが構え直す。ワイリがベニーの端末をちらりと見てから、通路へ視線を移す。
「五分、稼ぐんだよね」
ベニーが言う。
「もう五分じゃない。ガルシアが来るまで」
「それ、もっと長そうだね」
「だから頼む」
ワイリはにっこり笑った。
「任せて。できるだけ船を壊さないようにする」
ベニーは即座に顔を上げた。
「できるだけじゃなくて、壊さないで」
「努力する」
「その返事、信用できない」
通路の向こうで、バルメが最初の敵を押し戻した。レームとマオ、ルツも別方向から合流し始めている。市場船の腹の中で、複数の勢力が制御区画を目指していた。花輪を止めるため、奪うため、起動するため、証拠を消すため。理由は違う。だが目的地は同じだった。
船が大きく揺れた。
海が荒れ始めたのではない。未確認船が近づき、市場船の外周で何かが起きている。衝撃は小さかったが、全員がそれを感じた。
ベニーが画面を見る。
「未確認船、接舷距離まで来てる」
ココの顔が変わる。
「ヨナ……」
ロックが言う。
「今は花輪です」
ココは目を閉じ、頷いた。
「ええ。今は花輪」
その声は震えていなかった。
だが、震えを押し殺していることはわかった。
*
ガルシアたちは制御区画へ向かっていた。通路はさらに混乱している。誰かが偽命令で逆方向へ走り、別の護衛が味方を敵と誤認しかけ、船内放送は何度も声を変える。その中で、ダッチは短い言葉だけで進路を切り開いた。レヴィとロベルタは前方を押さえ、ファビオラはガルシアから離れない。
『ガルシア・ラブレスは承認区画へ』
放送が鳴る。
『承認区画へ』
次の瞬間、ガルシアの声に変わる。
『僕は署名します』
ガルシアは立ち止まらなかった。
ファビオラが悔しそうに言う。
「坊ちゃまの声を、勝手に」
ガルシアは唇を噛んだ。
「僕の声ではありません」
ロベルタが言う。
「はい」
「ロベルタ」
「はい」
「僕が何を選んでも、そばにいてくれますか」
ロベルタの表情が揺れた。
「もちろんです」
「たとえ、ラブレス家が損をしても」
「はい」
「僕が、家の財産を捨てることになっても」
ロベルタは一瞬だけ黙った。
それは財産のためではない。ガルシアが何かを失う選択をする、その重さを思ったからだ。
「私は、坊ちゃまの選択を守ります」
ガルシアは頷いた。
「ありがとう」
レヴィが横から言った。
「坊ちゃん、いちいち重いな」
ガルシアは少しだけ笑う。
「すみません」
「謝んな。重い方が浮かされにくい」
「どういう意味ですか」
「軽い奴ほど、こういう船じゃすぐ流されるってことだ」
ファビオラが言う。
「あなたにしては、まともなことを言いますね」
「俺はいつもまともだ」
「それは偽音声ですか」
レヴィは一瞬黙り、それから笑った。
「言うようになったな、小……ファビオラ」
ファビオラは少しだけ得意げにした。
その時、前方の角から男が飛び出した。手には端末。銃ではない。彼はガルシアに向けて端末を掲げ、叫んだ。
「ラブレス様、こちらへ! 承認のために一言だけ!」
ロベルタが動くより早く、レヴィが男の腕を弾いた。端末が床を滑り、壁にぶつかって割れる。
「一言だけ、が一番危ねえんだよ」
男が倒れ込み、ロベルタが動きを封じる。ダッチは端末の破片を見て、低く言った。
「声を録るつもりだったか」
ガルシアは青ざめた。
「僕は、話すことも危険なんですね」
レヴィが言う。
「今はな」
ガルシアは深く息を吸った。
「なら、必要な時だけ話します」
「いい判断だ」
レヴィはそう言って、少しだけ口元を歪めた。
制御区画へ向かう最後の通路に入った時、船がまた揺れた。今度は大きい。壁の非常灯が揺れ、天井から埃が落ちる。外で何かが接触したのだ。
ベニーの声が通信に入る。
『未確認船が市場船に接近。たぶん接舷した!』
ココの声も聞こえた。
『ガルシア、急いで。でも焦らないで』
レヴィが叫ぶ。
「どっちだよ!」
ココは即答した。
『両方』
「撃つぞ!」
ガルシアはそのやり取りを聞き、ほんの少しだけ笑った。
恐怖は消えない。
だが、完全に飲まれてはいなかった。
通路の先に制御室の扉が見えた。
その前では、バルメとレームが敵を押しとどめている。マオとルツが別角度を警戒し、ワイリが何かを抱えてにこにこしている。ベニーが扉から顔を出し、ガルシアを見つけて叫んだ。
「こっち!」
ガルシアは走った。
ロベルタとファビオラが左右を守る。
レヴィが後ろで足止めする。
ダッチが最後に通路を確認する。
制御室へ入った瞬間、ガルシアは壁の画面を見た。
そこには、巨大な花輪が映っていた。
不完全な輪。
だが、その一部にラブレス家の名前が光っている。
いや、名前ではない。コードだ。権限だ。だが、ガルシアにはわかった。それは自分の家だった。祖父の善意。地域を守るための通信網。災害時に人をつなぐための線。それが、今は海を閉じる輪の一部になろうとしている。
ガルシアは足を止めた。
ロックがそばに来る。
「ガルシア」
「これが」
「そうだ」
「これが、僕の家の鍵で動くものなんですね」
ベニーが静かに言う。
「完全に動かすには、君の権限が必要になる。正確には、その権限が本物だと認められることが必要になる」
ガルシアは画面から目を離さない。
「止めるには」
ベニーは苦しそうに答えた。
「ラブレス家の旧通信権限を無効化する。少なくとも、この花輪が使えない形にする」
「それは、元に戻せますか」
ベニーは黙った。
その沈黙が答えだった。
ガルシアは小さく頷いた。
「そうですか」
ロベルタが前へ出る。
「坊ちゃま、急いで決める必要は」
ベニーが言う。
「時間はあまりない。花輪が別の偽装経路を作ってる。ガルシア本人の声や映像を取られたら、強引に承認扱いされる可能性がある」
ファビオラが怒りをこらえた声で言う。
「そんなもの、承認ではありません」
ココが静かに答えた。
「でも、後から承認だったと言い張る人間はいる」
キャスパーの声が、部屋のスピーカーから響いた。
『その通り』
画面の端に、また彼の顔が映る。
『市場とは、事実を売る場所ではない。事実として扱えるものを売る場所だ』
レヴィが即座に銃を向けた。
「スピーカー撃っていいか」
ベニーが叫ぶ。
「だめ! 今そこ壊すと画面も落ちる!」
「ちっ」
ガルシアはキャスパーの映像を見た。
「あなたは、僕に何を選ばせたいんですか」
キャスパーは微笑んだ。
『それは君が決めることだ』
「嘘です」
ガルシアの声は震えていた。
だが、はっきりしていた。
「あなたは僕が何を選んでも、それに値段をつける」
キャスパーは少しだけ目を細めた。
『その通り』
「なら、僕はあなたの市場で選びません」
『ここ以外に、どこで選ぶ?』
ガルシアは画面から視線を外し、ロックを見た。ロベルタを見た。ファビオラを見た。ダッチ、レヴィ、ベニー、ココ、バルメ、そしてこの場にいる全員を見た。
「ここは、あなたの市場かもしれません」
ガルシアは言った。
「でも、これは僕の家の名前です」
キャスパーは黙った。
ココも黙っている。
ガルシアは深く息を吸った。
「僕はまだ、決めきれていません」
ロベルタが小さく息を呑む。
ガルシアは続けた。
「失うのが怖いです。祖父の残したものを、僕の代で壊すのが怖い。ラブレス家の財産が減ることも、地域の人たちに影響が出ることも怖い。ここで決めたことを、後悔するかもしれない」
誰も口を挟まなかった。
「でも」
ガルシアの声が少し強くなる。
「僕の家の名前が、誰かを傷つけるための鍵になることは、もっと怖い」
花輪の輪が画面の上で揺れた。
海上ノードが反応している。
ベニーが叫ぶ。
「時間がない。ガルシア、最終判断が必要だ。まだ完全な無効化ではないけど、その前段階に入るかどうか」
ガルシアは目を閉じた。
長い沈黙。
その沈黙を破ったのは、外からの衝撃だった。
市場船が大きく揺れた。誰かが叫ぶ。制御室の照明が一瞬落ち、非常灯だけになる。壁の画面に、外部カメラの映像が表示された。市場船の側面に、小型船が接舷している。荒れた海面。金属の接触音。白い波しぶき。
そして、その船の甲板に、一人の少年の影が見えた。
遠い。画面も乱れている。だが、ココにはわかった。
「ヨナ」
少年はこちらを見ていた。
いや、カメラを見ているのかもしれない。
その顔ははっきり映らない。
だが、声が入った。
『選べ』
短い言葉。
『奪わせるな』
通信が途切れる。
ココは画面へ一歩近づきかけた。
バルメが彼女の腕を掴む。
「ココ」
ココは止まった。
今度は、自分で止まった。
ガルシアはその声を聞いていた。
彼は画面の少年を見た。
自分より少し年上か、同じくらいかもしれない。だが、その声は自分よりずっと乾いていた。戦場を見た声。人の声が奪われる恐ろしさを知っている声。
ガルシアは顔を上げた。
「ベニーさん」
「何?」
「僕が前段階に入ると言えば、まだ引き返せますか」
ベニーは正直に答えた。
「少しだけ。でも、もう安全な選択肢はない」
ガルシアは頷いた。
「わかりました」
ロベルタが言う。
「坊ちゃま」
ガルシアは彼女を見る。
「ロベルタ。僕はまだ怖いです」
「はい」
「だから、そばにいてください」
「もちろんです」
「ファビオラ」
「はい」
「僕が間違えそうなら、言ってください」
ファビオラは泣きそうな顔で頷いた。
「言います。絶対に」
ガルシアはロックを見る。
「ロック」
「うん」
「僕が選びます」
ロックは頷いた。
「見ています」
ガルシアはベニーへ向き直った。
「ラブレス家の旧通信権限を、花輪から切り離す準備をしてください」
ベニーは一瞬だけ目を閉じ、頷いた。
「わかった」
キャスパーの映像が静かに笑った。
『損を選ぶか、ガルシア』
ガルシアは画面を見る。
「まだ選び終わっていません」
『では?』
「あなたの市場から、僕の名前を取り戻します」
その瞬間、花輪の輪が大きく歪んだ。
市場船のあちこちで警報が鳴る。
買い手たちの端末が一斉に乱れ、偽命令が途切れ、船内放送が悲鳴のようなノイズを上げた。完全に止まったわけではない。むしろ、花輪は抵抗している。ラブレス家の鍵を失うまいと、別の線を探し始めている。
ベニーが叫ぶ。
「来るぞ。ここから先は、花輪も向こうも本気でガルシアを取りに来る!」
レヴィが銃を構え直す。
「やっとわかりやすくなってきたじゃねえか」
ロベルタがガルシアの前に立つ。
「坊ちゃまには近づけさせません」
ファビオラもその横に立つ。
「私もです」
ダッチは通路を見た。
「守り切るぞ」
ココは画面のヨナの影を見つめ、それから花輪の輪へ視線を戻した。
「ええ」
彼女は静かに言った。
「ここで、海の花を折る」
外では、未確認船が市場船に食いつくように揺れていた。
中では、花輪が閉じようとしていた。
そしてその中心で、若き当主は初めて、自分の家の名前を自分の手に取り戻そうとしていた。