Guns & Garlands — 銃と花輪   作:たこ焼き 龍月

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第七章 若き当主の命令

 

 花輪が歪んだ瞬間、船そのものが怒ったように軋んだ。実際に船体が悲鳴を上げたわけではない。だが、制御室にいた誰もがそう感じた。壁のモニターに映る不完全な輪は、ラブレス家の旧通信権限を失いかけ、別の線を求めて伸び縮みしていた。赤い警告表示が重なり、海図の上では市場船を中心に複数の光点が乱れている。通信は途切れ、繋がり、また歪む。正規の船内放送、偽の避難命令、誰かの怒号、ヨナらしき少年の断片的な声。そのすべてが混ざり合い、まるで船の中で複数の戦場が同時に始まったようだった。

 

 ガルシア・ラブレスは、その中心に立っていた。少年の手は震えている。顔色は悪い。だが、彼は逃げなかった。画面に映るラブレス家のコードを見つめ、自分の家の名前が、人を守るためではなく、人の声を奪うための鍵になろうとしている現実を、真正面から見ていた。ロベルタは彼の前に立ち、ファビオラは隣に寄り添っている。レヴィは通路側で銃を構え、ダッチは扉の向こうの動きを見ていた。ロックはガルシアの少し後ろに立ち、ベニーは端末の前で必死に花輪の抵抗を抑え込んでいる。ココは画面の花輪と、外部カメラに映った未確認船の影を交互に見ていた。彼女の中では、二つの火が同時に燃えている。花輪を止める火と、ヨナを追いたい火。そのどちらも、放っておけば彼女自身を焼きかねない。

 

「ベニー」

 

 ロックが言った。

 

「今、何が起きてる」

 

「簡単に言うと、花輪がラブレス家の鍵を失う前に、別の形で承認を作ろうとしてる。本人の声、映像、通信ログ、ここにいる誰かの端末、何でも材料にしようとしてる」

 

 ベニーの声は早口だった。画面から目を離さず、指だけが動く。

 

「つまり、ガルシアがここにいること自体が危険なんだ」

 

 ロベルタが即座に反応した。

 

「坊ちゃまを外へ」

「だめ」

 

 ベニーは珍しく強く言った。

 

「外へ出ても、船内のどこにいても危険は同じ。むしろ移動中に拾われる。今はここで、こっちが監視している状態のほうがまだまし」

 

「まし、ですか」

 

 ファビオラの声が震えていた。

 

「この状況が?」

「他の選択肢がもっと悪い」

 

 レヴィが笑った。

 

「いいねえ。最悪の中から最低じゃない地獄を選ぶってわけだ」

 

 ダッチが低く言う。

 

「レヴィ、通路」

「見てるよ」

 

 通路の向こうから足音が近づいていた。二人、三人ではない。もっと多い。市場船の警備、買い手側の護衛、どこかの情報機関の私兵、花輪を押さえたい者、証拠を消したい者、ラブレス家の鍵を確保したい者。目的は違っても、今この船内で彼らが向かう場所は同じだった。制御室。そこに、花輪を閉じる鍵と、それを折ろうとしている少年がいる。

 レヴィは通路へ向けて叫んだ。

 

「ここは満員だ! 予約して出直せ!」

 

 返事はなかった。代わりに、短い銃声が通路の角から飛んだ。壁に火花が散る。レヴィは舌打ちして身を引き、ロベルタがガルシアの前へ半歩移動する。ダッチが後方へ指示を飛ばし、レームとマオ、ルツが別角度から通路を押さえる。

 ココは低く言った。

 

「兄さんの市場、人気ね」

 

 ロックが返す。

 

「笑えません」

「笑ってないわ」

 

 その声は本当に笑っていなかった。

 画面の端に、キャスパーの映像がまだ残っている。彼は市場船のどこか別の区画からこの状況を見ているらしい。混乱の中でも、彼の表情は崩れていない。ただ、目の奥だけがいつもより鋭い。市場が完全に彼の手を離れたことを、彼自身も理解しているのだろう。それでも彼は退かない。退けば、商人ではなくなるからだ。

 

『ガルシア』

 

 キャスパーの声がスピーカーから響く。

 

『まだ引き返せる』

 

 レヴィが顔をしかめた。

 

「しつこい兄貴だな」

 

 ガルシアは画面を見た。

 

「何から引き返すんですか」

『損からだ。ラブレス家の旧通信権限を折れば、君の家は大きな資産を失う。地域通信の再整備も難しくなる。君の祖父が作ったものを、君自身の手で終わらせることになる』

 

 ガルシアの顔に痛みが走った。

 その言葉は効いた。ロックにはわかった。キャスパーは人の急所を探すのがうまい。ガルシアにとって、それは金ではない。祖父の遺したもの。家の歴史。善意で作られた通信網。それを自分の代で壊すという重さだ。

 ファビオラが言う。

 

「坊ちゃま、聞かないでください」

 

 キャスパーは静かに続ける。

『聞くべきだよ。これは誘惑ではない。事実だ。君が鍵を折れば、守れるものもあるだろう。だが、失うものもある。善良な選択は、いつも誰かを救うとは限らない』

 ガルシアは目を伏せた。

 ロベルタが彼の前に立つ。

 

「坊ちゃま。私が」

「ロベルタ」

 

 ガルシアが彼女を止めた。

 その声は小さい。だが、命令だった。

 

「はい」

「僕に聞かせてください」

 

 ロベルタは言葉を飲み込んだ。

 ガルシアは画面のキャスパーを見る。

 

「キャスパーさん。あなたの言うことは、たぶん全部が嘘ではありません」

『そうだね』

「だから、怖いです」

『恐怖は悪いものじゃない。高い買い物をする時、人は慎重になる』

「僕は買い物をしているのではありません」

『では何をしている?』

 

 ガルシアは答えようとして、少し詰まった。

 ロックは口を挟まなかった。

 これはガルシアが答えるべき問いだった。

 花輪の画面がまた乱れる。ラブレス家のコードが点滅し、偽の承認経路が何度も作られてはベニーによって潰される。時間はない。だが、それでもこの問いだけは急かせなかった。

 ガルシアは、震えたまま言った。

 

「僕は、名前を取り戻そうとしています」

 

 キャスパーの笑みが薄くなった。

 

「ラブレスという名前を、誰かの戦争の言い訳にさせない。そのために、何を失うのかを見ています」

 

 ココがガルシアを見た。

 ロックも見た。

 その少年は、まだ弱い。迷っている。今にも押し潰されそうだ。だが、目は逃げていない。

 キャスパーは静かに言った。

 

『いい答えだ。だが、答えが綺麗でも世界は汚い。君が権限を折った後、ラブレス家の土地や使用人や地域の者たちに影響が出たら? その時も、自分の選択は正しかったと言えるかな』

 

 ガルシアは唇を噛んだ。

 ファビオラが叫びかける。

 だが、ガルシアが手で制した。

 

「わかりません」

 

 ガルシアは言った。

 

「たぶん、後悔します」

 

 部屋が静かになる。

 

「でも、後悔するのが怖いからといって、誰かに僕の名前を渡すことはできません」

 

 キャスパーは黙った。

 その時、通路側で大きな衝突音が響いた。レヴィが叫ぶ。

 

「ダッチ! 数が増えた!」

 

 ダッチが短く返す。

 

「押さえろ」

「簡単に言うな!」

 

 ロベルタが動こうとする。

 ガルシアが彼女の袖を掴んだ。

 

「ロベルタ」

 

 ロベルタは振り返る。

 

「坊ちゃま」

「行ってください」

 

 ロベルタの目が揺れた。

 

「ですが」

「僕はここにいます。ロックも、ファビオラも、ベニーさんもいます。だから、行ってください」

「しかし」

「命令です」

 

 その言葉に、ロベルタの表情が変わった。

 ガルシアは震えながらも、はっきりと言った。

 

「僕を守るために、戻ってきてください。そのために今は、行ってください」

 

 ロベルタは深く頭を下げた。

 

「承知しました」

 

 レヴィが通路から叫ぶ。

 

「早くしろ、猟犬!」

「あなたに命令される覚えはありません」

「いいから来い!」

 

 ロベルタは通路へ向かった。彼女の背中を見ながら、ガルシアは拳を握る。ロベルタを戦わせている。自分の命令で。守られるだけではないということは、守ってくれる者に何かを命じる責任も背負うことだった。ガルシアはその重さに一瞬息が詰まりそうになる。それでも、もう目を逸らさない。

 

     *

 

 通路は赤い光の中で、狭い戦場になっていた。レヴィは壁際を使い、相手の進路を塞ぎながら短く撃つ。ロベルタはその隙間を縫うように動き、ガルシアへ向かう線を一つずつ潰していく。二人の動きはやはりまるで違う。レヴィは荒い。笑い、挑発し、相手の視線を引きつける。ロベルタは静かだ。余計な声を出さず、必要な瞬間にだけ前へ出る。だが、二人の呼吸は合っていた。

 

「左!」

 

 レヴィが叫ぶ。

 

「見えています」

 

 ロベルタが答える。

 

「じゃあ右!」

「それも」

「可愛げがねえな!」

「必要ありません」

 

 レヴィは笑った。

 

「違いねえ」

 

 通路の奥から偽の船内放送が鳴る。

 

『ロベルタ。戻って』

 

 ガルシアの声。

 ロベルタの足が一瞬だけ止まりかける。

 レヴィが怒鳴った。

 

「聞くな!」

「わかっています!」

『ロベルタ。命令です』

 

 その声は、ガルシアによく似ていた。

 だが、違う。

 ロベルタは目を閉じなかった。耳も塞がなかった。偽の声を聞いたまま、本物の命令を思い出す。僕を守るために、戻ってきてください。そのために今は、行ってください。あの声ではない。坊ちゃまは、あの声ではない。

 ロベルタは前へ出た。

 

「あなたたちに、坊ちゃまの声を使う資格はありません」

 

 その声は静かだった。

 だが、レヴィは横で少しだけ笑った。

 

「怒ってんな、猟犬」

「当然です」

「そういう怒りは嫌いじゃねえ」

「あなたに好かれる必要はありません」

「俺もお前に好かれたくねえよ」

 

 二人は同時に動いた。

 敵の足が止まる。

 通路の奥へ押し返される。

 レヴィが一息つき、ロベルタを横目で見た。

 

「なあ」

「何ですか」

「さっきの坊ちゃんの命令、効いたか」

「当然です」

「命令だから?」

 

 ロベルタは一瞬黙った。

 

「いいえ」

 

 レヴィは少しだけ目を細める。

 

「じゃあ何だ」

「坊ちゃまが、戻ってきてほしいと言われたからです」

 

 レヴィは笑った。

 

「重てえな」

「はい」

「でも、まあ」

 

 レヴィは通路の向こうを見た。

 

「悪くねえ」

 

 ロベルタは返事をしなかった。

 だが、その表情はほんの少しだけ柔らかかった。

 

     *

 

 制御室では、ベニーが最後の準備に入っていた。ラブレス家の旧通信権限を完全に無効化するには、ガルシア本人の意思確認と、ラブレス家側に残る管理コード、そして花輪側が偽装する前にそれを切り離す処理が必要だった。ベニーは詳細を説明しようとしたが、途中で自分から首を振った。

 

「細かい話はやめる。時間がないし、危ない説明になる。要するに、君の家の鍵を、花輪が読めない形に変える」

 

 ガルシアは頷く。

 

「それは、もう使えなくなるんですね」

「かなりの部分は」

「地域の人たちへの影響は?」

「すぐに全部が止まるわけじゃない。今動いている生活回線とは別系統が多い。でも、将来的な再整備計画や権利価値には影響する」

「つまり、ラブレス家は損をします」

「そう」

 

 ベニーは嘘をつかなかった。

 ガルシアは小さく頷いた。

 

「わかりました」

 

 ファビオラが震える声で言った。

 

「坊ちゃま、本当に」

「ファビオラ」

 

 ガルシアは彼女を見る。

 

「僕が間違えていると思いますか」

 

 ファビオラは答えられなかった。

 泣きそうな顔で、必死に考えている。ガルシアのために。ラブレス家のために。ロベルタのために。使用人たちのために。彼女はただ従うのではなく、本当に考えていた。

 

「間違いだとは、思いません」

 

 やがてファビオラは言った。

 

「でも、つらいです」

 

 ガルシアは頷いた。

 

「僕もです」

「坊ちゃまがつらい選択をするのを見るのが、つらいです」

「ごめん」

「謝らないでください」

 

 ファビオラは強く言った。

 

「謝られると、もっとつらいです」

 

 ガルシアは少しだけ目を伏せた。

 

「うん」

 

 ロックは二人を見ていた。守る側と守られる側。その関係が少しずつ変わっていく。ガルシアは命じる者になり、ファビオラはただ従うのではなく、共に考える者になっている。ロベルタもまた、ガルシアの命令を受けて外へ出た。関係は変わる。変わることは怖い。だが、変わらなければ守れないものもある。

 

 ココは黙っていた。

 画面の花輪を見ている。

 その目の奥には、別の計算がある。ベニーがラブレス家の鍵を折れば、花輪は閉じられない。だが、花輪の中身を完全に見る機会も失うかもしれない。武器商人として、彼女はそれを惜しいと思っている。世界を変えようとする者として、危険な道具を知りたいとも思っている。けれど、ヨナの声が言った。花輪を見るな。見れば、欲しくなる。

 ロックはココに言った。

 

「大丈夫ですか」

 

 ココは目を細める。

 

「私に聞く?」

「聞きます」

「大丈夫じゃないわ」

 

 ロックは黙った。

 ココは続けた。

 

「でも、今はそれでいい」

「どういう意味ですか」

「大丈夫じゃないとわかっているうちは、たぶんまだ止まれる」

 

 ロックは少しだけ頷いた。

 

「バルメに言われそうなことですね」

「ええ。あの子は厳しいから」

「いい部下ですね」

「知ってる」

 

 その時、外部カメラの映像が切り替わった。

 

 未確認船から、数人が市場船へ乗り移っている。映像は乱れているが、その先頭に小柄な影が見えた。少年。手に何かを持っているが、それはこの距離では判別できない。だが、動きは迷っていない。船上の混乱を利用し、市場船の外部デッキから内部へ入ろうとしている。

 ココが一歩前へ出た。

 

「ヨナ」

 

 バルメが通信で叫ぶ。

 

『ココ、動かないでください』

 

 制御室にはいないはずのバルメの声が、まるで彼女の背中を掴むように響いた。

 ココは止まった。

 

「わかってる」

 

 ロックは彼女を見た。

 本当に止まった。

 それだけで、この状況の危うさがわかった。

 ベニーが言う。

 

「ガルシア。準備できた。ここから先は、本当に君の承認がいる。ただし、声を使うと偽装されるリスクがあるから、ロックとファビオラ、あとダッチを証人として記録する。音声だけじゃなく、複数の確認を重ねる。花輪側に拾われないよう、閉じた回線で処理する」

 

 ロックが言う。

 

「危険は?」

「ある。でも、何もしない方がもっと危険」

 

 ガルシアは深く息を吸った。

 キャスパーの映像が再び大きく表示される。

 

『本当にやるのかい』

 

 ガルシアは画面を見る。

 

「はい」

『君の祖父が残したものだ』

「はい」

『君の家の価値だ』

「はい」

『君の使用人たちの未来にも関わる』

「はい」

『それでも?』

 

 ガルシアは一瞬、目を閉じた。

 彼の脳裏に、屋敷の庭が浮かんだ。朝の光。働く人々。ロベルタの静かな背中。ファビオラの怒った顔。祖父の肖像。古い通信塔。誰かを守るために作られた設備。それが誰かを傷つける道具になろうとしている。

 

 そして、偽の自分の声。

 ロベルタを呼ぶ声。

 署名すると告げる声。

 あれは自分ではない。

 あれを自分の名前にしてはいけない。

 ガルシアは目を開けた。

 

「それでも」

 

 彼は言った。

 

「僕の家が、誰かの声を奪うための鍵になるなら、その鍵は僕が折ります」

 

 ファビオラが息を呑んだ。

 ロックは静かに頷いた。

 ココは目を伏せた。

 キャスパーは笑わなかった。

 ベニーが端末を操作する。

 

「確認する。ガルシア・ラブレス。あなたはラブレス家当主として、旧通信権限のうち、花輪システムに利用されている可能性のある権限を無効化する。損失と影響を理解した上で、これを実行する。間違いない?」

 

 ガルシアは答えた。

 

「間違いありません」

 

 ファビオラが証人として言う。

 

「ファビオラ・イグレシアス。坊ちゃまの意思を確認しました」

 

 ロックも言った。

 

「ロック。ガルシア本人の意思であることを確認しました」

 

 ダッチの声が通信で入る。

 

『ダッチ。確認した』

 

 ベニーが深く息を吸った。

 

「実行する」

 

 キーが押される。

 それは地味な動作だった。

 叫びも、閃光もない。

 

 ただ、画面の中でラブレス家のコードが白く点滅し、花輪へ伸びていた線が一本ずつ切れていく。最初は静かだった。だが、次第に船内放送が乱れ始める。偽の声が途中で途切れ、命令文が崩れ、複数の通信ログが切断される。花輪の不完全な輪は、閉じる寸前で形を崩した。

 

 市場船全体が大きく揺れた。

 警報が鳴る。

 どこかで怒号が上がる。

 買い手たちの端末から一斉に通信エラーが出る。

 

 花輪は抵抗していた。

 だが、ラブレス家の鍵はもうそこにはない。

 ガルシアは画面を見ていた。

 自分の家のコードが、花輪の輪から切り離される様子を。

 それは勝利には見えなかった。

 何かを失う光景だった。

 だが、同時に何かを取り戻す光景でもあった。

 ファビオラがそっと彼の手を握った。

 ガルシアは握り返した。

 

「終わったんですか」

 

 彼が聞く。

 ベニーは首を振った。

 

「花輪は完全には終わってない。でも、この船で輪は閉じない。少なくとも、ラブレス家の鍵では」

 

 ココが静かに言った。

 

「大きいわ」

 

 キャスパーの映像がまだ残っている。

 彼はしばらく無言だった。

 やがて、ゆっくり拍手した。

 

『見事だ、ガルシア』

 

 レヴィの声が通路から飛ぶ。

 

『拍手すんな、腹立つ!』

 

 キャスパーは気にしない。

 

『損を選んだ。しかも、自分の名前で』

 

 ガルシアは画面を見る。

 

「これは、あなたの市場で売るものではありません」

 

『そうだね』

 

 キャスパーは微笑んだ。

 

『でも、その選択を見た者たちはいる。君は今日、価値を失った。同時に、別の価値を得た』

「また値段ですか」

『僕は商人だからね』

「僕は、売り物ではありません」

 

 ガルシアの声は静かだった。

 

「ロベルタも、ファビオラも、ラブレス家の名前も、売り物ではありません」

 

 キャスパーは少しだけ目を細めた。

 

『いい当主になる』

「あなたに評価されたくありません」

『ますますいい』

 

 画面が切れた。

 その直後、制御室の扉が開き、レヴィとロベルタが戻ってきた。二人とも息が上がっている。派手な傷はないが、疲労は濃い。レヴィは部屋に入るなり言った。

 

「終わったか?」

 

 ベニーが答える。

 

「半分」

 

 レヴィは天井を睨んだ。

 

「もう怒る気力もねえ」

 

 ロベルタはガルシアの前へ進み、膝をつくように視線を合わせた。

 

「坊ちゃま」

 

 ガルシアは彼女を見た。

 

「ロベルタ。僕は、ラブレス家の鍵を折りました」

「はい」

「祖父の残したものを、僕の手で」

 

 ロベルタは静かに首を振った。

 

「坊ちゃまは、ラブレス家の名を守られました」

 

 ガルシアの目が揺れる。

 

「本当に?」

「はい」

 

 ファビオラも言った。

 

「私もそう思います」

 

 ガルシアは二人を見た。

 そして、ようやく小さく息を吐いた。

 その時、外部カメラの映像が再び乱れた。

 未確認船から乗り移った少年の影が、市場船の外部通路を走っている。追手らしき影がその後ろにいる。ココの表情が変わった。

 ベニーが叫ぶ。

 

「ヨナの位置、船内に入った!」

 

 ココは今度こそ動こうとした。

 バルメが制御室へ駆け込んできて、即座に彼女の横へ立つ。

 

「ココ」

「もう止まらないわ」

「止めません」

 

 バルメは言った。

 

「一人では行かせません」

 

 ココは一瞬だけ彼女を見た。

 そして、笑った。

 

「ありがとう」

 

 ロックが言う。

 

「俺も行きます」

 

 ココは目を丸くした。

 

「あなたが?」

「ヨナは、俺にも電話をかけてきた。俺にも関係があります」

「危険よ」

「今さらです」

 

 レヴィが笑った。

 

「言うようになったな、ロック」

 

 ダッチは短く言った。

 

「全員で動くな。ガルシアを守る班は残る。ココ、バルメ、ロック、俺が行く。レヴィ、ロベルタ、ファビオラはガルシアを守れ」

 

 レヴィが即座に文句を言う。

 

「また子守りかよ」

 

 ガルシアが言った。

 

「レヴィさん」

「何だ、坊ちゃん」

「お願いします」

 

 レヴィは一瞬黙った。

 それから、舌打ちした。

 

「その言い方はずるいだろ」

 

 ロベルタが静かに言う。

 

「私は坊ちゃまのそばに」

 

 ガルシアは頷いた。

 

「はい。いてください」

 

 ロベルタは深く頭を下げた。

 

「はい」

 

 ココは制御室の出口へ向かう前に、ガルシアを見た。

 

「ガルシア」

「はい」

「あなた、いい当主ね」

 

 ガルシアは少し困ったように笑った。

 

「キャスパーさんにも言われました」

「兄さんと同じ評価なのは不愉快だけど、今回は譲るわ」

「ありがとうございます」

 

 ココは軽く笑い、それから表情を戻した。

 その目は、もう花輪ではなく、船内のどこかを見ていた。

 ヨナがいる。

 追われている。

 

 そして、花輪はまだ完全には死んでいない。

 ガルシアが折った鍵によって、海の花は閉じ損ねた。

 だが、その花弁の奥には、まだ毒が残っている。

 

 市場船の中で、次の追跡が始まろうとしていた。

 

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