Guns & Garlands — 銃と花輪   作:たこ焼き 龍月

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第八章 兄妹の値段

 

 ラブレス家の鍵が折られた瞬間、市場船はひとつの商談会場ではなくなった。船のあちこちで通信が乱れ、照明は赤く点滅し、廊下には複数の言語の怒号が飛び交っている。だが、それは単なる混乱ではない。市場が市場でなくなった時、人間は自分が何を買いに来たのかを思い出す。花輪を買いに来た者。花輪を奪いに来た者。花輪を壊しに来た者。花輪を欲しがる人間の名前を集めに来た者。そして、その花輪に声を奪われたくない者。それらの思惑が、船という狭い箱の中で一斉にぶつかり始めていた。

 

 制御室の外へ出ると、空気はさらに悪くなっていた。焦げた電気の匂いと海風の匂いが混ざり、船体のどこかで鳴る警報が金属の壁を震わせている。通路の向こうでは、誰かが「避難経路が違う」と叫び、別の誰かが「命令は偽物だ」と怒鳴っている。どちらも正しいかもしれないし、どちらも間違っているかもしれない。花輪が完全に閉じ損ねたとはいえ、偽の声はまだ船内に残っていた。むしろ、鍵を失ったことで暴れ方が荒くなっているように見える。整った嘘ではなく、壊れた嘘。それは時に、本物よりも人を混乱させる。

 

 ココは先頭を歩いていた。バルメがその半歩後ろにいる。ロックは二人の後を追い、ダッチは最後尾で通路を確認していた。市場船の内部は、先ほどまでの上品な会議場とはまるで違って見えた。白く整えられた壁も、赤い警報灯の下では病院の廊下のように冷たい。扉の向こうから聞こえる足音は、味方か敵か判別できない。船内放送は何度も途切れ、時々、ヨナに似た声やガルシアに似た声が混ざった。そのたびにココの肩がわずかに動き、バルメが無言で彼女の横顔を確認する。

 

「ヨナの位置は?」

 

 ココが聞く。

 ロックはベニーから送られてくる簡易表示を確認した。

 

「外部デッキから船内へ入りました。今は下層へ移動しているようです。ただ、追っている反応が二つあります」

 

「二つ?」

「一つは市場船の警備。もう一つは不明です」

 

 ダッチが低く言った。

 

「不明が一番厄介だ」

 

 ココは歩く速度を上げる。

 

 バルメがすぐに言う。

 

「ココ。先行しすぎです」

「わかってる」

「わかっていません」

「わかってるわ」

 

 その声は少しだけ鋭かった。バルメはそれ以上責めなかった。ただ、歩幅を合わせる。ロックはその二人の背中を見ていた。ココは自分を抑えている。だが、抑えきれてはいない。ヨナという名前は、彼女の中で戦略の外側にある。だからこそ危険だった。ロックは前作で、ココが危険を楽しむように動く姿を見た。今回は違う。楽しんでいない。焦っている。その焦りは、彼女をいつもより人間らしく見せると同時に、いつもより危うくも見せていた。

 

「ココ」

 

 ロックは声をかけた。

 

「何?」

「ヨナを見つけたら、どうしますか」

「連れて帰る」

 

 即答だった。

 

「本人が拒んだら」

 

 ココは止まらない。

 

「話す」

「それでも拒んだら」

 

 彼女は少しだけ黙った。

 

「それでも、話す」

 

 ロックはそれ以上聞かなかった。今のココに、力ずくで連れて帰るとは言わせたくなかった。言わせれば、彼女は自分の中の何かと戦わなければならなくなる。だが、言わなくても、その可能性は消えていない。バルメもそれをわかっている。だから、彼女はずっとココの横にいる。

 

 曲がり角の先で、人影が動いた。バルメが即座に前へ出る。ダッチも構えた。だが、出てきたのはレームだった。肩に薄く煙の匂いをまとい、いつものように落ち着いている。

 

「こっちは?」

 

 ダッチが聞く。

 

「市場の客が退避を始めています。ですが、全員が出口へ向かっているわけではありませんな。花輪の制御データを持ち出そうとしている者もいる」

 

 ココが言う。

 

「兄さんは?」

「姿が見えません」

 

 ロックは眉を寄せた。

 

「逃げたんですか」

 

 レームは首を振る。

 

「逃げるなら、もっと綺麗に消えるでしょうな。今はまだ、この船にいる」

 

 ココは短く笑った。

 

「兄さんは、最後に値札を確認してから帰る人よ」

「嫌な兄妹だな」

 

 ダッチが言う。

 ココは否定しなかった。

 通路の奥で、また船内放送が鳴った。

 

『全参加者へ。花輪デモンストレーションは中断されました。係員の指示に従い――』

 

 声が歪む。

 

『ラブレス家の鍵は無効化されました。代替認証を開始します』

 

 ベニーの声が通信で割り込んだ。

 

『今の放送は偽! でも内容は一部本当。花輪が代替経路を探してる。ガルシア側は今のところ無事。レヴィとロベルタが通路を押さえてる』

 

 レヴィの声が遠くで入る。

 

『ベニー! “今のところ”って言うな! 不吉だろ!』

 

 ベニーが返す。

 

『事実なんだから仕方ないだろ!』

 

 ファビオラの声も混じった。

 

『二人とも落ち着いてください!』

 

 ロックは思わず苦笑しかけた。だが、すぐに表情を戻す。ガルシアたちはまだ狙われている。ラブレス家の鍵は折られたが、それで花輪を欲しがる人間が消えたわけではない。むしろ、鍵を失った者たちは別の材料を探す。ガルシア本人、ロックの断片データ、ココの断片、ヨナが持つ情報。それらはすべて、まだ値段をつけられる。

 ココが通信に言った。

 

「ベニー。ヨナの位置を出して」

『出したいけど、船内の反応が乱れすぎてる。未確認船から乗り移った小型タグが三つ。人間か、端末か、囮か、区別がつかない』

「三つ?」

『そう。ヨナが三人いるみたいに見える』

 

 バルメが低く言った。

 

「囮です」

 

 ダッチが頷く。

 

「賢いな」

 

 ココは唇を噛んだ。

 

「ヨナらしい」

 

 ロックは彼女を見る。

 

「わかるんですか」

 

「ヨナは戦場が嫌い。でも、戦場の中で生きる方法を知ってる」

 

 その言葉は、短いが重かった。ヨナという少年の輪郭が、ロックの中で少しだけ見えた気がした。戦場を嫌いながら、戦場の理屈を身体に叩き込まれた少年。ココにとって、彼は部下でも商品でも情報源でもない。もっと厄介で、もっと個人的な存在なのだろう。

 

 突然、右側の扉が開いた。中から男が飛び出してくる。手には小型端末。ココを見るなり、男は叫んだ。

 

「ヘクマティアル! 取引だ! 花輪の制御ログを持っている!」

 

 バルメが即座に男を止めようとしたが、男は端末を掲げた。

 

「撃てば消える! 買う気はあるか!」

 

 ココの目が冷える。

 

「今、値段の話をするの?」

「この船が沈む前なら高く売れる!」

 

 レームが静かに言った。

 

「沈むとは決まっていない」

 

 男は笑った。

 

「市場は終わりだ! なら残ったものを売るだけだろう!」

 

 ココは男を見た。

 その顔に、怒りよりも疲れが浮かんだ。

 

「兄さんの市場らしい客ね」

 

 男はさらに何かを言おうとした。だが、その前にダッチが一歩進み、短く言った。

 

「退け」

 

 男はダッチを見た。

 

「誰だ、お前は」

「運び屋だ」

「関係ないだろ」

「ある。今、通路を塞いでいる」

 

 レヴィがいれば笑っただろう。だが、男は笑わなかった。焦りと欲に顔を歪めたまま、端末を握りしめている。バルメが一瞬で距離を詰め、男の腕を押さえた。端末は床に落ちる前にレームが拾った。男は抵抗しようとしたが、次の瞬間には壁際に押さえ込まれていた。

 ココは端末を見た。

 

「ベニー、見える?」

『送って。すぐ確認する』

 

 レームが簡易接続でデータを転送する。数秒後、ベニーが言った。

 

『制御ログの一部だ。でも、ほとんどは客の反応データだね。誰がどの命令に反応したか、どの船がどう動いたか、どの護衛がどの合図で発砲寸前までいったか。これは花輪そのものより、参加者の行動ログだ』

 

 ロックは眉をひそめた。

 

「行動ログ?」

 

 ココが静かに言った。

 

「兄さんが欲しかったもの」

 

 ダッチは男を見た。

 

「花輪の制御ログだと言ったな」

 

 男は黙った。

 ココは端末を見つめる。

 

「商品は花輪じゃなかった。商品は、花輪を前にした人間の反応。誰が欲しがるか。誰が恐れるか。誰が奪おうとするか。誰が逃げるか。兄さんは、それを全部集めていた」

 

 ロックは背筋が冷たくなるのを感じた。

 キャスパーは花輪を売るだけではなかった。花輪を餌にして、花輪を欲しがる者たちの顔を見た。買い手の名簿だけではない。行動、癖、弱点、判断の速度、偽命令への反応。それらは情報として高く売れる。花輪が完成しなくても、キャスパーは損をしない。むしろ、この混乱そのものが商品になる。

 ココは低く言った。

 

「兄さん」

 

 それは怒りというより、呆れに近かった。だが、その奥には確かな怒りがある。兄が何をしたのか、妹にはわかってしまったのだ。

 

     *

 

 一方、制御室に残ったガルシアたちは、別の形で市場の終わりを見ていた。ベニーが一時的に抜けた後、簡易監視はファビオラが手伝っている。もちろん彼女に専門的な操作はできない。だが、表示される警告やガルシア周辺の監視項目を確認することはできた。レヴィは制御室の入口に座り込み、退屈そうにしながらも目だけは通路から離していない。ロベルタはガルシアの横に立ち、ダッチたちが出ていった後も姿勢を崩さなかった。

 

 ガルシアは、画面から切り離されたラブレス家のコードを見つめていた。表示は灰色になっている。無効化。たった一つの単語が、彼の胸を締めつける。自分が決めた。誰かに強制されたわけではない。だが、自分の決定が正しかったのかどうかは、まだわからない。たぶん、ずっとわからないのかもしれない。

 

「坊ちゃま」

 

 ロベルタが静かに声をかけた。

 

「はい」

「お座りください。顔色が優れません」

「大丈夫です」

「大丈夫ではありません」

 

 ガルシアは少しだけ笑った。

 

「ロベルタは、僕が何歳になってもそう言いますね」

「はい」

「はい、なんですね」

「坊ちゃまが何歳になられても、私は申し上げます」

 

 レヴィが横から言った。

 

「いいじゃねえか。過保護は筋金入りだ」

 

 ロベルタはレヴィを見た。

 

「あなたは無保護すぎます」

「何だそれ」

「自分を守る気がなさすぎるという意味です」

 

 レヴィは一瞬だけ黙った。

 

「……言うじゃねえか」

「事実です」

「お前ら、揃って人の痛いところ突きやがるな」

 

 ファビオラが画面を見ながら言った。

 

「レヴィさんにも痛いところがあるんですね」

「ファビオラ、お前まで言うのか」

「はい」

「はいって言うな」

 

 ガルシアは少し笑った。緊張の中で、その笑いは小さな火のようだった。ロベルタはその笑いを見て、ほんの少しだけ表情を緩める。

 だが、その穏やかさはすぐに破られた。

 制御室のスピーカーから、キャスパーの声が流れた。

 

『ガルシア。聞こえるかい』

 

 レヴィが即座に銃を向ける。

 

「また出たよ」

 

 ガルシアは画面を見る。キャスパーの映像はない。声だけだ。

 

「聞こえています」

『君は鍵を折った。立派な決断だ』

「あなたに褒められたくありません」

『だろうね。でも、これは本心だ。損を選べる人間は強い。特に若い当主がそれをできるのは珍しい』

「それを売るつもりですか」

 

 キャスパーは少し沈黙した。

 

『鋭いね』

 

 ガルシアは拳を握る。

 

「僕の選択も、あなたにとっては商品ですか」

『正確には、君の選択を見た者たちの反応が商品になる』

 

 レヴィが低く言う。

 

「ほんとに最低だな、あの兄貴」

 

 キャスパーは続けた。

 

『この船にいた買い手たちは、君が何をしたかを見た。ラブレス家は売れなかった。脅してもすぐには折れなかった。なら、今後彼らは君をどう見るか。障害か、交渉相手か、危険な若者か。どれにせよ、君の価値は変わった』

「僕は価値を上げるために選んだのではありません」

『知っている。だから価値がある』

 

 ガルシアは唇を噛んだ。

 ロベルタが一歩前へ出る。

 

「これ以上、坊ちゃまを」

 

 ガルシアが手で制した。

 

「大丈夫です」

 

 レヴィが顔をしかめる。

 

「その大丈夫、信用できねえな」

「半分くらいは、僕も信用していません」

 

 レヴィは一瞬黙り、それから笑った。

 

「言うようになったな」

 

 ガルシアはキャスパーへ向けて言った。

 

「あなたは、花輪を売るためにこの市場を開いたのではないんですね」

『花輪も売れるなら売ったよ』

「でも、本当に欲しかったのは、花輪を欲しがる人たちの情報」

『その通り』

「では、あなたは勝ったのですか」

 

 キャスパーは答えなかった。

 その沈黙が、初めて彼の余裕に小さな影を落とした。

 

『勝ったかどうかは、決算を見てからだね』

「僕には、負けたようにも見えます」

『なぜ?』

「花輪は閉じませんでした。ラブレス家の鍵も失いました。ココさんは怒っています。ヨナさんも来ています。あなたの市場は、あなたが思っていたより制御できていません」

 

 キャスパーは少し笑った。

 

『いいね、ガルシア。君は本当に面白くなった』

「面白くなるためにここにいるのではありません」

『ますますいい』

 

 通信はそこで切れた。

 レヴィは大きく息を吐いた。

 

「坊ちゃん。お前、あいつに気に入られたぞ」

 

 ガルシアは嫌そうな顔をした。

 

「嬉しくありません」

「だろうな」

 

 ファビオラが静かに言う。

 

「でも、坊ちゃまは負けていません」

 

 ガルシアは彼女を見る。

 

「そうかな」

「はい」

 

 ロベルタも言った。

 

「坊ちゃまは、ご自身の名前を守られました」

 

 ガルシアは画面を見た。

 灰色になったラブレス家のコード。

 それは失ったものの印だった。

 同時に、奪われなかったものの印でもあった。

 

     *

 

 ココたちは下層区画へ降りていた。ヨナの反応は三つに分かれ、そのうち二つはすぐに消えた。囮だったのだろう。残る一つは船の外部デッキへ向かっている。追手はまだいる。市場船の警備とは別の動きをしていた。彼らは花輪の制御を取りに来たわけではない。ヨナを捕まえる、あるいは消すために来ているようだった。

 

 通路の空気が変わった。

 海に近い。壁の向こうから波の音が聞こえる。船体が揺れるたびに、遠くで金属が擦れる音がした。未確認船が接舷したまま揺れているのだろう。市場船の内部は混乱しているが、外も安全ではない。

 

 バルメが前方を確認し、手で止まれと合図した。ロックとココが足を止める。通路の先で、若い影が動いた。

 

 小柄な少年だった。

 短い髪。鋭い目。濡れた服。肩で息をしている。手には何かを持っているが、構えてはいない。顔には疲労がある。だが、目は折れていない。

 ココが息を呑んだ。

 

「ヨナ」

 

 少年は顔を上げた。

 その目がココを捉える。

 ほんの一瞬、時間が止まったように見えた。

 ロックは、ココの表情を見た。笑っていない。怒ってもいない。泣きそうにも見えない。だが、そこにいつもの武器商人の顔はなかった。ココ・ヘクマティアルという人間が、戦略も市場も花輪も忘れ、一人の少年を見ている顔だった。

 ヨナは言った。

 

「来るなって言った」

 

 声は短い。

 硬い。

 だが、本物だった。

 ココは一歩近づこうとする。

 ヨナはすぐに下がった。

 

「来るな」

 

 バルメがココの横で止まる。

 ココは手を上げた。

 

「行かない。ここで止まる」

 

 ヨナは信じていない目で彼女を見る。

 

「嘘つき」

「そうね」

 

 ココは少しだけ笑った。

 

「でも、今は止まってる」

「花輪を見た?」

「見た」

「欲しくなった?」

 

 ココは黙った。

 ロックはその沈黙を聞いた。

 ヨナも聞いた。

 

「欲しくなったんだ」

 

 少年は言った。

 責めるというより、わかっていたという声だった。

 ココは小さく答えた。

 

「少し」

 

 バルメの表情がわずかに動く。

 ロックは息を詰めた。

 ココは続けた。

 

「でも、今は壊す方を選んでる」

「今は?」

「便利な言葉ね」

「嫌いだ」

「私も少し嫌いになってきた」

 

 ヨナはココから目を逸らさない。

 

「ラブレスは?」

 

 ロックが答えた。

 

「自分で選んだ。旧通信権限を無効化した」

 

 ヨナの目が少しだけ動いた。

 

「奪わなかった?」

「奪わなかった」

「ココは?」

 

 ロックはココを見る。

 ココは答えた。

 

「奪わなかった」

 

 ヨナはしばらく彼女を見ていた。

 それから、少しだけ息を吐いた。

 

「なら、まだ戻れる」

 

 ココの顔が揺れた。

 

「ヨナ。あなたは」

 

 その時、通路の奥から足音が響いた。追手だ。バルメが即座に振り向く。ダッチが後方を押さえる。レームから通信が入る。

 

『そちらへ複数接近。急いだ方がいい』

 

 ヨナはすぐに身を翻そうとした。

 ココが言う。

 

「待って」

「待たない」

「一緒に来て」

「行かない」

「ヨナ」

「ココの船には戻らない」

 

 その言葉は短く、鋭かった。

 ココは動けなかった。

 ロックは二人の間にあるものの重さを感じた。ヨナはココを嫌っているのではない。たぶん、もっと複雑だ。信じている部分がある。だからこそ、戻らない。ココが花輪を見ることを恐れている。ココが世界を変えるために危険な道具を欲しがるかもしれないことを、誰よりも恐れている。

 ヨナはロックを見た。

 

「ロック」

「何だ」

「見張れ」

「誰を」

「ココ」

 

 ココは何も言わなかった。

 ヨナは続けた。

 

「ココは、自分が危ないって知ってる。でも、知ってても進む。止める人間がいる」

 

 ロックは答えた。

 

「俺にできるかわからない」

「できるかじゃない。やるか」

 

 その言葉は、少年の口から出るにはあまりにも乾いていた。

 

 ロックは頷いた。

 

「やる」

 

 ヨナは少しだけ目を細めた。

 

「半分じゃなくて?」

 

 ロックは一瞬だけ驚き、それから苦笑した。

 

「全部だ」

 

 ココが小さく笑った。

 それは悲しそうな笑いだった。

 追手の足音が近づく。

 バルメが言う。

 

「ココ、時間がありません」

 

 ココはヨナを見る。

 

「ヨナ。せめて、何を見たのか教えて」

 

 ヨナは黙った。

 そして、短く言った。

 

「庭師」

 

 ロックが眉を寄せる。

 

「庭師?」

「花輪を育ててるやつがいる。キャスパーじゃない。キャスパーは市場を作っただけ。花輪を作ってるやつは別にいる」

 

 ココの表情が変わる。

 

「誰?」

 

 ヨナは首を振る。

 

「名前は知らない。みんな、庭師って呼んでた」

 

 その時、通路の奥で銃声が響いた。バルメがココを下がらせる。ダッチがロックの肩を押す。ヨナは外部デッキへ続く扉へ走った。

 

「ヨナ!」

 

 ココが叫ぶ。

 ヨナは振り返らなかった。

 ただ、走りながら言った。

 

「花輪はまだ根がある!」

 

 扉が開き、海風が一気に通路へ流れ込んだ。塩と油と冷たい夜の匂い。ヨナの姿は外部デッキへ消える。ココが追おうとする。バルメが止めるより早く、ロックが言った。

 

「ココ!」

 

 ココは止まった。

 振り返らない。

 ロックは続けた。

 

「今追えば、また市場にされます」

 

 ココの肩が震えた。

 ほんの少し。

 

「わかってる」

「本当に?」

「本当に」

 

 彼女はそう言って、ゆっくり振り返った。

 その顔には痛みがあった。

 だが、彼女は止まった。

 バルメがそばで静かに息を吐く。

 

「戻りましょう」

 

 ココは頷いた。

 

「ええ」

 

 追手が通路に現れる。バルメとダッチが前に出る。レームも横から合流する。短い衝突が起きる。銃声は抑えられ、火花が散り、追手たちは後退する。ココはその間、外部デッキへ続く扉を見ていた。ヨナの姿はもうない。未確認船のエンジン音が遠ざかり始める。

 ロックはココの横に立った。

 

「追わなくてよかったんですか」

「よくないわ」

 

 ココは即答した。

 

「でも、追わなかった」

「はい」

「褒めて」

 

 ロックは少しだけ困った。

 

「よく止まりました」

 

 ココは小さく笑った。

 

「変な褒め方」

「慣れていないので」

「私も、止まるのは慣れてない」

 

 その言葉は、冗談の形をしていた。

 だが、冗談ではなかった。

 

     *

 

 市場船の混乱は、徐々に終わり始めていた。花輪は閉じ損ね、ラブレス家の鍵は失われ、ヨナは姿を消した。買い手たちはそれぞれの船へ戻り、ある者は怒り、ある者は恐れ、ある者は何かのデータを持ち帰ろうとしていた。キャスパーの市場は失敗に見えた。だが、ロックはもうそれを単純な失敗とは思えなかった。

 

 船内の一室で、ココはキャスパーと向き合った。

 そこは小さなラウンジだった。豪華ではないが、静かだった。窓の外には夜の海がある。遠くで船の灯りが揺れている。市場船はまだ沈んでいない。だが、もう市場ではない。残ったのは、壊れかけた会場と、そこから何を持ち帰るかを計算する商人たちだけだった。

 ロックとダッチ、バルメ、レームも同席していた。誰も座らない。キャスパーだけが椅子に腰掛け、まるで商談の続きのように足を組んでいる。

 ココは言った。

 

「兄さん。最初から、花輪そのものは本命じゃなかったのね」

「売れたら売ったよ」

「でも、本当に欲しかったのは別」

「そうだね」

 

 キャスパーは隠さなかった。

 

「花輪を見せた時、人間がどう動くか。国家の代理人がどこまで踏み込むか。企業がどの程度の金額を出すか。情報機関が誰を切り捨てるか。武器商人がどこで手を引くか。若い当主が損を選ぶかどうか。そういうものは、花輪そのものより高く売れることがある」

 

 ココの目が冷える。

 

「ガルシアも商品だった」

「彼の選択は商品になる」

「ヨナも?」

 

 キャスパーは少しだけ黙った。

 ココは一歩近づく。

 

「ヨナも商品だったの?」

「彼は商品ではない」

「兄さんの口からその言葉が出るとは思わなかった」

「彼は危険すぎる。値段をつける前に、買い手が壊れる」

 

 ロックは眉を寄せた。

 

「ヨナは何を知っているんですか」

 

 キャスパーはロックを見た。

 

「庭師」

 

 その言葉が出た瞬間、ココの顔が変わった。

 

「知ってるのね」

「少しだけ」

「なぜ言わなかったの」

「言えば、君は最初から花輪ではなく庭師を追った」

「その方がよかったかもしれない」

「いや。君は何も見ずに走った。ヨナのために」

 

 ココは黙った。

 キャスパーは続ける。

 

「今回、君は止まった。ロックも、バルメも、それを見た。これは重要だ」

「兄さん」

 

 ココの声は低かった。

 

「私を試したの?」

「半分」

「残り半分は?」「君が止まれなかった時のために、周囲の反応を見た」

 

 バルメの空気が鋭くなる。

 

「ココを餌にしたのですか」

 

 キャスパーは彼女を見る。

 

「君なら止めると思っていた」

「答えになっていません」

「そうだね」

 

 ココは兄を見つめる。

 

「兄さんは、私を何だと思ってるの」

「妹」

「それだけ?」

「危険な妹」

「前にも聞いた」

「そして、まだ止まれる妹」

 

 ココは何も言わなかった。

 キャスパーの声は珍しく軽くなかった。

 

「ココ。僕は商人だ。君も商人だ。だが、君は時々、商人ではない顔をする。世界を変えようとする人間の顔だ。その顔は高く売れるし、危険でもある」

「だから試した?」

「だから見た」

「最低ね」

「知っている」

 

 ロックが言った。

 

「あなたは負けたんですか」

 

 キャスパーはロックを見る。

 そして笑った。

 

「いい質問だ」

「答えは?」

「商売としては、損はしていない。花輪は閉じなかったが、欲しがる人間の名前と動きは手に入った。ラブレス家は売れなかったが、ガルシア・ラブレスという若い当主の価値はわかった。ココは止まった。ヨナは姿を見せた。庭師の影も濃くなった」

「では、勝ちですか」

 

 キャスパーは少しだけ窓の外を見た。

 

「兄としては、少し負けたかもしれないね」

 

 ココが目を細める。

 

「兄さんにも、そういう感情があるの?」

「あるよ。高くは売れないがね」

 

 レヴィがいたら、確実に何か言っただろう。だが、この部屋にはいない。代わりに、ダッチが低く言った。

 

「この船はどうなる」

「市場は閉じる。参加者はそれぞれ帰る。公式には、海洋調査船で通信障害が起きただけだ」

「ずいぶん便利な公式だ」

「公式とは、便利でなければ意味がない」

 

 ロックはキャスパーを見た。

 

「ガルシアをこれ以上利用するな」

 

 キャスパーは笑った。

 

「君が言うのか」

「言います」

「君はもう、ずいぶん盤面に立っている」

「だから言います」

 

 キャスパーはロックをしばらく見ていた。

 

「ココ。君はいい友人を持ったね」

 

 ココは即座に言う。

 

「友人じゃないわ」

 

 ロックも同時に言った。

 

「友人ではありません」

 

 キャスパーは楽しそうに笑った。

 

「息が合っている」

 

 ココとロックは同時に黙った。

 バルメが少しだけ視線をそらし、レームは口元だけで笑った。

 キャスパーは立ち上がる。

 

「僕はここで降りる。後始末は任せるよ」

「勝手ね」

「商人だから」

「便利な言葉」

「君も使う」

 

 ココは兄を睨んだ。

 

「庭師について、知っていることを全部言って」

「まだ全部は言えない」

「兄さん」

「言えば、君はすぐ追う。今はヨナを探したいだろう?」

 

 ココは黙った。

 キャスパーは続ける。

 

「庭師は、花輪を商品だと思っていない。あれを育てている。兵器としてではなく、仕組みとして。声を奪い、命令を植え、戦争の形を変えるために」

 

 ロックは息を呑んだ。

 

「何者ですか」

「複数の出資者の利害を調整する者。国家でも企業でも軍でもない。全部の間に立って、花輪を育てている庭師」

「名前は?」

「まだ知らない」

 

 ココが言う。

 

「嘘」

「半分」

「残り半分は」

「知っていても、まだ言わない」

 

 ココが一歩前に出る。

 バルメが横で構える。

 キャスパーは動かない。

 

「言って、兄さん」

「今はだめだ」

「なぜ」

「君がヨナを追わずに庭師を追うから」

「それの何が悪いの」

「ヨナはまた消える」

 

 ココの動きが止まった。

 キャスパーは静かに言った。

 

「妹として動くか、武器商人として動くか、世界を変えたい人間として動くか。今の君は、三つを同時に持っている。だから危険だ」

 

 ココは兄を見た。

 

「兄さんは?」

「僕は商人だよ」

「嘘」

「半分は」

 

 ココは小さく笑った。

 

「兄妹ね」

「残念ながら」

 

 キャスパーは出口へ向かう。

 去り際に、ロックへ視線を向けた。

 

「ロック。彼女を見張ると約束したのかな」

 

 ロックは答えた。

 

「しました」

「全部?」

「全部です」

 

 キャスパーは満足そうに笑った。

 

「なら、少し安心だ」

「あなたに安心されても困ります」

「だろうね」

 

 キャスパーは部屋を出ていった。

 白い扉が閉まる。

 海の音だけが残る。

 ココはしばらく動かなかった。

 ロックは彼女に言った。

 

「追わなくていいんですか」

「兄さんを?」

「はい」

「今追えば、また兄さんの市場になる」

「ヨナと同じですね」

 

 ココは少しだけ笑った。

 

「ええ。本当に嫌な兄弟だわ」

 

 バルメが静かに言った。

 

「ココ。ヨナを追いましょう」

 

 ココは彼女を見る。

 

「いいの?」

「あなたは追わなければ、壊れます」

「追ったら?」

「私が止めます」

 

 ココは目を伏せた。

 

「厳しい」

「必要です」

 

 ロックが言った。

 

「俺も行きます」

 

 ココは彼を見る。

 

「あなたも?」

「約束しましたから」

「見張るって?」

「はい」

 

 ココは少しだけ笑った。

 

「じゃあ、行きましょう」

 

     *

 

 市場船を離れる頃には、夜明けが近づいていた。船の外では、参加者たちの小型艇が次々と離れていく。誰も大声で勝利を叫ばない。誰も完全に敗北した顔をしない。ただ、それぞれが何かを持ち帰ろうとしている。情報、恐怖、失敗、名前、行動ログ、あるいは傷ついたプライド。市場は閉じた。だが、そこで売られたものは消えない。

 

 ラブレス家の船へ戻ったガルシアは、甲板で海を見ていた。ロベルタとファビオラがそばにいる。レヴィは少し離れた場所で煙草を吸おうとして、ファビオラに睨まれ、諦めていた。

 

「坊ちゃま」

 

 ファビオラが言った。

 

「寒くありませんか」

「大丈夫」

「本当に?」

「半分くらい」

 

 ファビオラは困ったように笑った。

 

「その言い方、もうやめませんか」

「少し便利なんだ」

 

 レヴィが横から言う。

 

「だろ? 便利なんだよ」

「あなたが広めたわけではありません」

「細けえな」

 

 ガルシアは海を見つめたまま言った。

 

「僕は、何を失ったんでしょうか」

 

 ロベルタが答える。

 

「ラブレス家の古い権限を」

「それだけでしょうか」

 

 ロベルタは少し考えた。

 

「おそらく、それだけではありません」

「はい」

「ですが、坊ちゃまは、奪われる前にご自身で選ばれました」

 

 ガルシアは小さく頷いた。

 

「それは、守れたということでしょうか」

 

 レヴィが言った。

 

「全部は守れてねえだろ」

 

 ファビオラが睨む。

 

「レヴィさん」

「でも、名前は守った。少なくとも、あの花輪に勝手に使われるよりはましだ」

 

 ガルシアはレヴィを見る。

 

「ありがとうございます」

「礼言うな。調子狂う」

 

 ロベルタが少しだけ微笑んだ。

 

「レヴィさんは、時々よいことを言います」

「時々って言うな」

 

 ファビオラが即座に言う。

 

「時々です」

「お前ら本当に口悪くなったな」

 

 ガルシアは笑った。

 その笑いは弱い。

 だが、本物だった。

 

 ロックは少し離れたところからそれを見ていた。ガルシアはまだ答えを得ていない。失ったものの重さは、これから時間をかけて彼にのしかかるだろう。だが、彼は自分で選んだ。奪われるのではなく、選んだ。その違いは、たぶん大きい。

 ココの声が後ろからした。

 

「ロック」

 

 彼が振り返ると、ココが甲板に立っていた。バルメは少し後ろにいる。

 

「ヨナの船は?」

 

 ロックが聞く。

 

「見失ったわ」

「追跡は?」

「少しだけ残ってる。でも、すぐ消えると思う。ヨナは逃げるのが上手い」

「追いますか」

「追うわ」

 

 ココは海を見た。

 

「でも、その前にラブレス家を安全な場所へ戻す。花輪の残りも確認する。兄さんが残したデータも洗う」

 

 ロックは少し驚いた。

 

「順番を守るんですね」

「褒めて」

「よく我慢しています」

「また変な褒め方」

 

 ココは笑った。

 

 だが、その笑顔は前より少しだけ落ち着いていた。

 

「ロック」

「はい」

「ヨナに言われたのね。私を見張れって」

「言われました」

「あなたは何て答えたの?」

「やる、と」

「全部?」

「全部です」

 

 ココは少しだけ目を細めた。

 

「重い約束ね」

「あなたほどではありません」

「言うようになった」

「あなたたちの影響です」

 

 ココは海を見た。

 夜明け前の海は、黒から青へ変わり始めている。市場船の灯りは遠ざかり、HCLIの白い船も別方向に影を伸ばしている。ヨナの小型船はもう見えない。だが、彼が残した言葉は船上に残っていた。

 

 庭師。

 花輪はまだ根がある。

 キャスパーの市場は閉じた。

 

 だが、花輪そのものは終わっていない。

 ロックはココの横で海を見た。ポケットの中の記憶媒体は、もう一度戻ってきている。ベニーが必要な部分だけ使い、残りは封じた。だが、それでも重さは変わらない。むしろ、以前より重い。

 

 ガルシアは鍵を折った。

 ヨナは警告を残して消えた。

 キャスパーは名簿と反応を持ち去った。

 ココは追うことを選んだ。

 そしてロックは、見張ると約束した。

 

 朝日が、海の端から少しだけ顔を出した。

 海に咲いた花輪は、一度閉じ損ねた。

 だが、その根はまだ海の底に残っている。

 

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