Guns & Garlands — 銃と花輪   作:たこ焼き 龍月

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第九章 庭師の影

 

 夜明けの海は、勝者にも敗者にも同じ色を見せる。市場船の灯りは遠ざかり、水平線の低いところから薄い金色が滲み始めていた。数時間前まで、そこには値札のないものに値段をつけようとする人間たちが集まっていた。花輪を欲しがる者、花輪を恐れる者、花輪を壊したい者、花輪に乗じて誰かの弱みを買おうとする者。彼らは今、それぞれの船へ戻り、何かを持ち帰っている。手に入れた者もいる。失った者もいる。だが、誰も完全には空手では帰らない。恐怖も情報も失敗も、見る者が見れば商品になる。キャスパー・ヘクマティアルの市場は壊れた。けれど、壊れた市場から落ちた破片を拾う者たちは、まだ海の上に残っていた。

 

 ラブレス家のチャーター船は、HCLIの白い船と一定の距離を保ちながら南米沿岸へ向かっていた。甲板には、疲れ切った空気が漂っている。誰も大きな声を出さない。誰も祝杯を上げない。花輪は閉じ損ねた。ガルシアは自分の家の鍵を折った。ヨナは姿を見せ、また消えた。市場船は公式には通信障害を起こした調査船として片づけられるだろう。だが、その公式を信じる人間は、この海域には一人もいない。

 

 ロックは甲板の端で、海を見ていた。ポケットの中には戻ってきた記憶媒体がある。ベニーが必要な部分だけ使い、残りは封じた。だが、それで軽くなったわけではない。むしろ、重くなっている。前は、何が入っているかわからないから重かった。今は、その一部を使って何かを変えてしまったから重い。情報は銃より静かだ。だが、一度撃てば、弾道は残る。ロックはその弾道の先に、ガルシアの顔を見ていた。

 

 ガルシアは少し離れたところで、ロベルタとファビオラに挟まれるように座っていた。疲労で顔は青白い。だが、視線はまだ折れていない。彼は時折、海へ目を向ける。そこに祖父の通信塔が見えるわけではない。ラブレス家の古い権限が物理的に浮かんでいるわけでもない。それでも彼は、失ったものの方角を見るように、海を見ていた。

 

 レヴィは船縁にもたれていた。煙草をくわえようとして、ファビオラの視線に気づき、またしまう。

 

「お前、目だけで禁煙させる才能あるな」

 

 ファビオラは疲れた顔で答えた。

 

「才能ではありません。常識です」

 

「ロアナプラじゃ非常識だ」

 

「ここはロアナプラではありません」

 

「海の上だぞ」

 

「だから余計にやめてください」

 

「火事になったら困るってか」

 

「あなたの場合、火事だけで済まなさそうです」

 

 レヴィは少し笑った。

 

「言うようになったな、ほんと」

 

 ガルシアが小さく言う。

 

「レヴィさんの影響かもしれません」

 

「何でも俺のせいにすんな、坊ちゃん」

 

 そのやり取りに、ガルシアはほんの少しだけ笑った。ロベルタはその横顔を見ていた。笑ったことに安堵している。だが、彼女自身も疲れていた。彼女の姿勢は崩れていない。背筋はまっすぐで、表情も整っている。それでも、レヴィにはわかった。あれは張り詰めているだけだ。守る相手が無事であることを確認し続けなければ、自分が立っていられない。そういう種類の張り詰め方だった。

 

 レヴィはロベルタへ言った。

 

「おい、猟犬」

 

「何ですか」

 

「坊ちゃんは無事だ」

 

「見ればわかります」

 

「じゃあ少し座れ。立ってるだけで周りが疲れる」

 

 ロベルタは一瞬だけ眉を動かした。

 

「私は疲れていません」

 

「嘘つけ」

 

「あなたに言われる筋合いは」

 

「あるね」

 

 ロベルタはレヴィを見た。レヴィはいつものように不機嫌そうな顔をしている。だが、目だけは少し違った。敵を見る目ではない。気に食わない相手を見る目でもない。危ういものを、危ういまま見ている目だった。

 

「お前、戻ってきたんだろ。だったら少しくらい戻った顔しろ」

 

 ロベルタは黙った。

 

 ガルシアが彼女を見上げる。

 

「ロベルタ。座ってください」

 

「坊ちゃま」

 

「命令ではありません。お願いです」

 

 その言葉に、ロベルタは少しだけ目を伏せた。命令なら従える。お願いは、もっと難しい。彼女はゆっくりとガルシアのそばに腰を下ろした。ファビオラが小さく息を吐く。レヴィは横を向いて、聞こえないように呟いた。

 

「手のかかるメイドだな」

 

 ロベルタは聞こえていた。

 

「あなたほどではありません」

 

「座ってても耳はいいのかよ」

 

「はい」

 

 ガルシアはまた少し笑った。

 

 その笑いを見て、ロックは胸の奥で息を吐いた。完全に救われたわけではない。だが、壊れてはいない。ガルシアも、ロベルタも、ファビオラも。今回、何かは守れたのだろう。全部ではない。守った代わりに失ったものもある。それでも、奪われる前に選んだ。ロックはその違いを、今は信じたかった。

 

     *

 

 船内の一室では、ベニーが端末の前でほとんど倒れそうになっていた。机の上にはコーヒー、回収した端末、キャスパーの市場から抜き出した断片ログ、花輪の不完全な経路図、そしてロックの記憶媒体の封印済みコピーが置かれている。ワイリは隣で楽しそうに画面を覗き込んでいたが、ベニーはその存在だけで胃が痛くなりそうだった。

 

「ベニー、ここ見て」

 

「何」

 

「このログ、花輪の中核じゃなくて、観客の反応データだね」

 

「うん。さっきも言ったけど、キャスパーが欲しかったのはこっちだと思う」

 

「面白いね」

 

「面白くない」

 

「でも、爆発より静かで怖い」

 

「それは同意する」

 

 ワイリは画面の一部を指した。

 

「これ、“Garden”ってタグがついてる」

 

 ベニーの手が止まった。

 

「どこ?」

 

「ここ。市場参加者の分類じゃなくて、外部参照元。ほら」

 

 ベニーは目を細め、表示を拡大する。そこにあったのは、直接的な名前ではない。いくつかの識別子、断片的な通信記録、複数の出資者をつなぐ中継用のメモ。その中に、確かに「Garden」というタグが残っていた。

 

「庭」

 

 ベニーは呟いた。

 

 ワイリが言う。

 

「ヨナが言ってた“庭師”と関係ありそうだね」

 

「ありそうどころか、かなり嫌な感じで繋がる」

 

 ベニーは別のログを開いた。そこには、花輪そのものの設計情報ではなく、資金・輸送・実験ノード・協力企業・関係者の反応をまとめたような断片がある。すべてが直接つながっているわけではない。むしろ、つながりが薄く見えるように加工されている。責任が一か所に集まらないよう、わざと細かく分けてある。

 

「キャスパーの言っていたことは、やっぱり本当だった。花輪を作ったのは一つの国や一つの会社じゃない。みんなで少しずつ餌をやった。で、その餌を管理している誰かがいる」

 

「庭師?」

 

「たぶん」

 

 ワイリは楽しそうな顔をしなくなった。

 

「庭師って、花を育てる人だよね」

 

「普通はね」

 

「これは、育てちゃいけない花だ」

 

 ベニーは黙って頷いた。

 

 その時、ロックが部屋に入ってきた。

 

「何かわかったか?」

 

 ベニーは彼を見る。

 

「嫌なことなら」

 

「聞く」

 

「庭師はたぶん、個人名じゃない。少なくとも、ただの一人ではない。花輪計画を育てるための調整役、あるいは小さなグループのコードネームだと思う。資金を集める。実験場所を選ぶ。技術者を移動させる。関係者が互いを直接知らないようにする。そういう役割」

 

 ロックは机のログを見る。

 

「国家でも企業でもない?」

 

「それらの間にいる。国家の予算、企業の技術、軍の要求、情報機関の隠れた目的、武器商人の流通。それをつなぐ者。誰も全部を知らないようにして、でも花輪だけは育つようにする」

 

 ロックは言葉を失った。

 

 ワイリが静かに言う。

 

「庭師は、花そのものより土を見てるんだね」

 

 ベニーが頷く。

 

「たぶん。花輪が兵器なら、庭師は兵器を置く環境を作ってる。声を奪える場所。命令を偽れる場所。責任が薄まる場所。誰も自分だけが悪いと思わない場所」

 

 ロックはポケットの中の記憶媒体に触れた。

 

「キャスパーはどこまで知っている」

 

「かなり。でも全部じゃないと思う。少なくとも、このログではキャスパーも庭師を直接掴めていない。だから市場を開いた。花輪を餌にして、庭師に近い反応を探した」

 

「そのために、ガルシアを巻き込んだ」

 

「そう」

 

「ココも」

 

「そう」

 

「ヨナも」

 

 ベニーは答えなかった。

 

 それが答えだった。

 

 ロックは机に手をつき、深く息を吐いた。怒りはある。だが、怒りだけではどうにもならない相手だった。庭師は銃を持って立っている敵ではない。契約書の向こう、資金の流れの向こう、誰かの善意や保身の向こうにいる。そこへどう届くのか。ロックにはまだわからない。

 

 ワイリが言った。

 

「ロック、ココには?」

 

「話す」

 

「全部?」

 

 ロックは少しだけ笑った。

 

「全部と呼べるほど、まだわかっていない」

 

「じゃあ、わかっている分だけ?」

 

「それは話す」

 

 ベニーはロックを見た。

 

「ココは庭師を追うよ」

 

「わかってる」

 

「ヨナも追う」

 

「それも」

 

「止められる?」

 

 ロックは即答できなかった。

 

 ヨナは言った。ココを見張れ。できるかではない。やるかだ。ロックは「やる」と答えた。だが、やることと、できることは違う。ココ・ヘクマティアルを止めるとはどういうことか。銃を向けることではない。彼女の前に立ち、言葉で止めること。彼女が自分を正しいと思い込む前に、違うと言うこと。彼女が世界を救うために世界を傷つけようとした時、その手を止めること。

 

「止める」

 

 ロックは言った。

 

「できるかはわからない。でも、止める」

 

 ベニーは疲れた顔で笑った。

 

「ずいぶんロアナプラの人間っぽくなったね」

 

「褒めてるのか?」

 

「半分」

 

「その言い方、本当にやめたいな」

 

「もう無理だと思う」

 

     *

 

 ココはHCLIの白い船に戻っていた。甲板ではなく、船内の小さな作戦室にいる。壁には海図が広げられ、テーブルには市場船から得たデータの断片が並んでいる。バルメは扉の近くに立ち、レームは椅子に腰を下ろし、マオとルツは通信状況を確認していた。ココは一人、テーブルの前で立っている。彼女の目は、ヨナが残した言葉を追っていた。

 

 庭師。

 

 花輪はまだ根がある。

 

 ココはその言葉を頭の中で何度も繰り返していた。花輪は閉じ損ねた。ラブレス家の鍵は折れた。市場は壊れた。だが、ヨナは「終わった」とは言わなかった。根があると言った。花は折れても、根が残ればまた咲く。庭師がいる限り、花輪は別の場所で育つ。

 

「ココ」

 

 バルメが声をかける。

 

「何?」

 

「顔が怖いです」

 

「そう?」

 

「はい」

 

「いつも怖い?」

 

「今は違います」

 

 ココは少しだけ笑った。

 

「バルメは正直ね」

 

「必要です」

 

「そうね」

 

 レームが低く言った。

 

「お嬢。ロックたちから庭師に関する追加情報が来ました」

 

 ココは振り返る。

 

「読んで」

 

 レームは端末を見ながら言う。

 

「庭師は個人名ではなく、複数の出資者と実験ノードを調整するコードネームの可能性。資金、輸送、通信権限、技術者、責任回避の構造を管理。国家、企業、軍、情報機関、武器商人の間に立つ存在」

 

 ココは目を細めた。

 

「兄さんは?」

 

「庭師の全体像は掴んでいないようです。市場は、庭師に近い反応を探るための餌でもあった可能性が高い」

 

 ココは小さく息を吐いた。

 

「やっぱり」

 

 バルメが言う。

 

「追いますか」

 

「追う」

 

「ヨナは?」

 

 ココは黙った。

 

 作戦室に静寂が落ちる。

 

 その沈黙が、答えを難しくしていた。

 

 ヨナを追う。庭師を追う。花輪を止める。兄の残した市場ログを解析する。全部はできない。全部を同時に追えば、どれも失う。ココはそれをわかっている。だが、わかっていることと、選べることは違う。

 

 レームが言った。

 

「お嬢。順番を決めるべきですな」

 

「わかってる」

 

「ヨナは逃げるのが上手い」

 

「知ってる」

 

「庭師は逃げるというより、最初から姿を見せていない」

 

「それも知ってる」

 

「なら、今すぐ追って捕まえられる相手は少ない」

 

 ココはレームを見た。

 

「レーム。優しくないわね」

 

「優しさは、時々判断を遅らせます」

 

「ひどい部下たち」

 

 バルメが静かに言う。

 

「必要です」

 

 ココは笑った。

 

 少しだけ、いつもの笑みに戻る。

 

「そうね。私はいい部下を持ったわ」

 

 その時、通信が入った。

 

 発信元は不明。

 

 だが、暗号化の癖に見覚えがある。ヨナではない。ココはすぐにわかった。

 

「兄さんね」

 

 画面にキャスパーが映る。背景は船室だが、場所はわからない。彼はすでに市場船を離れているようだった。

 

『ココ。無事そうで何より』

 

「兄さんも、しぶといわね」

 

『商人はしぶといものだ』

 

「市場は壊れた」

 

『会場はね』

 

「商品も一部失った」

 

『一部は』

 

「それでも得をした顔をしてる」

 

『損だけでは終わらなかった』

 

 ココは画面を睨む。

 

「兄さん。庭師の情報を渡して」

 

『まだ早い』

 

「またそれ?」

 

『今の君に渡せば、君はヨナを置いて庭師を追う』

 

「決めるのは私よ」

 

『そうだね。だから、決める前の材料を僕が調整している』

 

「最低」

 

『知ってる』

 

 バルメの目が鋭くなる。

 

 ココは手で制した。

 

「兄さん。ヨナを商品にしたら、許さない」

 

 キャスパーは少し黙った。

 

『ヨナは商品ではない』

 

「信じろと?」

 

『信じなくていい。ただ、あの子は市場に乗せるには高すぎる』

 

「値段の話じゃない」

 

『僕にとっては、すべて値段の話だよ』

 

「嘘」

 

『半分』

 

 ココは唇を結んだ。

 

 キャスパーは続ける。

 

『庭師について一つだけ教えよう。彼らは花輪を武器として完成させたいだけじゃない。花輪を“標準”にしたがっている』

 

「標準?」

 

『通信、識別、救援、停戦、命令、承認。人間が組織として動くための声の仕組み。その裏側に花輪を根づかせる。特定の戦争で使うのではなく、次の戦争から当然のようにそこにあるものにする』

 

 ココの表情が消えた。

 

 レームも、バルメも、何も言わない。

 

 キャスパーは穏やかに続ける。

 

『だから庭師なんだ。彼らは一度咲かせることだけを考えていない。土を作り、根を張らせ、次も咲くようにする』

 

「場所は」

 

『まだ言えない』

 

「兄さん」

 

『ヨナが知っている』

 

 ココの目が動いた。

 

『だから彼は逃げている。庭師も彼を追っている。君も追う。僕も追う。ロックも、たぶん見張るために追う』

 

「兄さんは楽しそうね」

 

『半分くらいは』

 

「残り半分は?」

 

 キャスパーの笑みが少しだけ薄くなる。

 

『急がないと、あの子は本当に消える』

 

 通信は切れた。

 

 ココはしばらく画面を見つめていた。

 

 バルメが言う。

 

「ココ」

 

「わかってる」

 

「何を優先しますか」

 

 ココは目を閉じた。

 

 ヨナ。

 

 庭師。

 

 花輪。

 

 兄。

 

 ロックとの約束。

 

 すべてが彼女を別の方向へ引いている。

 

 やがて、彼女は目を開けた。

 

「ヨナを追う」

 

 レームが静かに頷く。

 

「庭師は?」

 

「ヨナが知っているなら、同じ道にいる」

 

 バルメが言う。

 

「ココ個人としての判断ですか。HCLIとしての判断ですか」

 

 ココは少しだけ笑った。

 

「厳しい質問ね」

 

「必要です」

 

「両方よ。嘘みたいだけど」

 

 バルメはしばらく彼女を見た。

 

「なら、私も行きます」

 

「当然」

 

 レームも立ち上がる。

 

「では、ロックたちと合流を」

 

「ええ」

 

 ココは海図を見る。

 

 ヨナの未確認船が消えた方角。

 

 その先に、まだ小さな反応が残っている。すぐに消えそうな、か細い線。それは罠かもしれない。囮かもしれない。だが、ココにはわかっていた。ヨナは完全には消えていない。彼は警告を残し、次の場所へ向かっている。

 

 ココは静かに言った。

 

「今度は、追うだけじゃない。聞くわ」

 

 バルメが小さく頷く。

 

「はい」

 

     *

 

 昼前、ラブレス家の船は南米沿岸の港へ戻った。港は普段通りに見えた。漁師たちは荷を下ろし、市場では果物が並び、海鳥が低く飛んでいる。だが、ラブレス家の一行にとって、その日常はどこか遠くに見えた。ガルシアが一晩で失ったものを、港の人々はまだ知らない。知らないまま笑い、働き、船を見上げている。そのことが、ガルシアには少し苦しかった。

 

 屋敷へ戻る車の中で、ガルシアはずっと黙っていた。ロベルタは隣に座り、ファビオラは前の席で何度も振り返りそうになるのをこらえている。レヴィは別の車に乗っていた。彼女が同じ車にいないだけで、車内は静かだった。静かすぎて、ガルシアは自分の考えから逃げられない。

 

「ロベルタ」

 

「はい」

 

「僕は、祖父に怒られるでしょうか」

 

 ロベルタはすぐには答えなかった。

 

「私には、先代のお心を断言することはできません」

 

「はい」

 

「ですが、先代が人を守るために通信網を作られたのなら、坊ちゃまはその意志を裏切ってはいないと思います」

 

 ガルシアは窓の外を見る。

 

「壊したのに?」

 

「悪用される道具になったものを止めることは、守ることの一つです」

 

「ロベルタは、そう思ってくれるんですね」

 

「はい」

 

 ファビオラが前から言った。

 

「私もです」

 

 ガルシアは少し笑った。

 

「ありがとう」

 

 ロベルタは静かに続ける。

 

「ただし、これで終わりではありません」

 

「わかっています」

 

「ラブレス家は、失ったものの後始末をしなければなりません。使用人たちへの説明、管理会社との調整、地域への影響確認、今後の警備」

 

 ガルシアは頷いた。

 

「はい」

 

「それも、坊ちゃまが選ばれたことの続きです」

 

 ガルシアは彼女を見る。

 

「手伝ってくれますか」

 

 ロベルタは深く頭を下げた。

 

「当然です」

 

 ファビオラも言った。

 

「私もです。坊ちゃまが逃げないなら、私も逃げません」

 

 ガルシアは二人を見た。

 

 胸の奥が熱くなる。

 

 守られている。

 

 だが、それだけではない。

 

 支えられている。

 

「ありがとう」

 

 彼はもう一度言った。

 

 その声は小さかったが、前より少しだけ強かった。

 

     *

 

 ラグーン商会の面々は、屋敷へ戻る前に港の倉庫で一度集まった。ダッチは船の手配を確認し、ベニーはまだ端末を抱えている。レヴィはようやく煙草をくわえ、ファビオラがいないことを確認して火をつけた。

 

「やっと吸える」

 

 ベニーが呆れる。

 

「君の優先順位はいつもわかりやすいね」

 

「生き残ったら煙草だろ」

 

「普通は休むとか、食べるとか」

 

「煙草も食事みたいなもんだ」

 

「違う」

 

 ダッチが言う。

 

「レヴィ、長くは休めん」

 

「今度は何だよ」

 

 ロックが答える。

 

「ヨナを追う」

 

 レヴィは煙を吐いた。

 

「白いののガキか」

 

「本人かどうかは、もうほぼ確かだと思う」

 

「で、追う理由は?」

 

「庭師の情報を持っている」

 

「それだけか?」

 

 ロックは少し黙った。

 

「ココを見張る約束をした」

 

 レヴィはにやりと笑った。

 

「お前、また面倒な約束したな」

 

「わかってる」

 

「白いのを見張る? 犬の散歩の方がまだ楽だぞ」

 

「犬って言うとロベルタさんに怒られるぞ」

 

「猟犬は別枠だ」

 

 ベニーが端末を見ながら言う。

 

「ヨナの船の痕跡は薄い。でも、完全には消えてない。南東へ向かった後、一度だけ別の港湾通信に引っかかってる」

 

 ダッチが聞く。

 

「場所は」

 

 ベニーは地図を出した。

 

「正確にはまだ。ただ、ここからさらに海路で移動した可能性が高い。HCLIの船も同じ方向へ動く準備をしてる」

 

 レヴィが言う。

 

「また白いのと一緒かよ」

 

「嫌なら降りるか」

 

 ダッチが聞く。

 

 レヴィは鼻で笑った。

 

「降りるわけねえだろ。ここまで来て、続き見ないのは気持ち悪い」

 

 ロックは少し笑った。

 

「観客席は燃えたままだな」

 

「うるせえ」

 

 その時、ロックの端末が鳴った。

 

 発信元不明。

 

 短い音声通信。

 

 ロックは全員を見る。

 

 ダッチが頷く。

 

 ロックは通信を開いた。

 

 ノイズが流れる。

 

 そして、少年の声。

 

『ロック』

 

「ヨナか」

 

『ココはいる?』

 

「今は別の船だ」

 

『じゃあ伝えて』

 

 ロックは息を詰める。

 

『庭師は、ロアナプラを知ってる』

 

 レヴィの目が細くなった。

 

 ダッチの顔も変わる。

 

「どういう意味だ」

 

 ヨナの声は短く、荒れている。

 

『花輪の次の根。ロアナプラにもある』

 

 ベニーが青ざめた。

 

「ロアナプラに?」

 

 ヨナは続けた。

 

『海だけじゃない。港、教会、ホテル、三合会、全部じゃない。でも、どこかに根がある』

 

 ロックは強く言った。

 

「ヨナ。君はどこにいる」

 

『追うな』

 

「それは無理だ」

 

『ココを止めろ』

 

「そのためにも、君と話す必要がある」

 

 短い沈黙。

 

 ヨナは言った。

 

『ロアナプラへ戻るな』

 

 ロックは眉を寄せる。

 

「なぜ」

 

『戻れば、花輪が街を見る』

 

 通信が乱れる。

 

『庭師は、あの街を実験場じゃなくて、土にする』

 

「ヨナ!」

 

『白い船を――』

 

 ノイズ。

 

 その後に、別の声が混じった。

 

 低く、年齢のわからない声。

 

『よく育った』

 

 ロックの背筋が凍った。

 

 ヨナではない。

 

 キャスパーでもない。

 

 ココでもない。

 

 声は静かだった。怒りも焦りもない。まるで温室の植物を見ているような、穏やかな声。

 

『根はまだ残っている』

 

 通信は切れた。

 

 倉庫の中に沈黙が落ちた。

 

 レヴィが煙草を床に落としかけた。

 

「……今の、誰だ」

 

 ベニーは端末を見たまま青ざめている。

 

「発信元、追えない。最後の声が割り込んだ瞬間、経路が完全に潰れた」

 

 ダッチが低く言った。

 

「庭師か」

 

 ロックは端末を握ったまま動けなかった。

 

 よく育った。

 

 根はまだ残っている。

 

 それは勝利宣言ではなかった。

 

 焦りでもなかった。

 

 ただの観察だった。

 

 花輪が閉じ損ねたことも、ラブレス家の鍵が折られたことも、ココが止まったことも、ヨナが逃げたことも、すべてを見た上で、まだ育っていると言った。

 

 ロックはようやく理解した。

 

 花輪は兵器ではない。

 

 少なくとも、庭師にとってはただの兵器ではない。

 

 それは環境だった。

 

 人間の声と命令と信頼を、戦争の土に変えるための環境。

 

 レヴィが低く言った。

 

「ロアナプラに戻るな、だとよ」

 

 ダッチは煙草を取り出し、火をつけずに指で回した。

 

「戻らないわけにはいかん」

 

「だよな」

 

 ベニーが顔を上げる。

 

「でも戻れば、花輪が街を見るって」

 

 レヴィが笑う。

 

「見られて困るほど上品な街じゃねえだろ」

 

 ダッチは首を振った。

 

「違う。ロアナプラは上品じゃないから危険なんだ。あの街には、情報屋も武器商人も軍崩れも教会もマフィアも全部いる。根を張る土には困らん」

 

 ロックは言った。

 

「庭師は、ロアナプラを次の土にするつもりだ」

 

 誰も否定しなかった。

 

 倉庫の外では、南米の港が普段通りに動いている。魚の匂い、荷を下ろす声、車の音、遠くの波。日常の音が、急に遠く感じられた。

 

 ロックの端末に、もう一つメッセージが入った。

 

 今度はHCLIから。

 

 ココの短い文章。

 

『聞いた?』

 

 ロックは返信した。

 

『聞きました』

 

 すぐに返る。

 

『ロアナプラへ戻るわ』

 

 ロックは画面を見つめた。

 

 ヨナは戻るなと言った。

 

 庭師は根があると言った。

 

 ココは戻ると言った。

 

 レヴィが横から覗き込む。

 

「白いの、何て?」

 

 ロックは答えた。

 

「ロアナプラへ戻るそうです」

 

 レヴィは笑った。

 

「だろうな」

 

 ダッチが低く言った。

 

「ラグーン商会も戻る」

 

 ベニーが頭を抱える。

 

「だよね。そうなるよね」

 

 レヴィは煙草に火をつけた。

 

「観客席どころか、今度は劇場ごと燃えそうだな」

 

 ロックは窓の外の海を見た。

 

 ガルシアが守った名前。

 

 ココが追う少年。

 

 キャスパーが拾った市場の名簿。

 

 庭師が残した声。

 

 そして、ロアナプラに伸びているという根。

 

 花輪は閉じ損ねた。

 

 だが、まだ咲くつもりでいる。

 

 海の向こう、黒い街で。

 

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