Guns & Garlands — 銃と花輪   作:たこ焼き 龍月

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終章 海の向こうの少年

 

 ラブレス家の屋敷へ戻った時、庭はいつも通り静かだった。朝の光は柔らかく、芝生には水滴が残り、使用人たちはいつもの手順で窓を開け、廊下を掃き、食堂の準備をしている。誰も大声を出さない。誰も昨夜、海の上で何が起きたのかを知らない。古い通信権限が失われたことも、ラブレス家の名前が花輪という見えない怪物に絡め取られかけたことも、若い当主がその鍵を自分で折ったことも、まだ屋敷の壁の中にしかない事実だった。世界は、重大なことが起きた翌朝にも、平気な顔で朝食を並べる。その残酷な普通さを、ガルシア・ラブレスは玄関前でしばらく見つめていた。

 

 ロベルタは彼の一歩後ろに立っている。ファビオラは斜め横にいる。二人とも、ガルシアが倒れそうになればすぐに支えられる距離だった。けれど、ガルシアは倒れなかった。車を降り、屋敷の階段を見上げ、そして小さく息を吸った。

 

「ロベルタ」

「はい」

「みんなを集めてください」

 

 ロベルタの目がわずかに動いた。

 

「使用人たちを、ですか」

「はい」

「今すぐに?」

「今すぐに」

 

 ファビオラが心配そうに言う。

 

「坊ちゃま、少し休まれてからでも」

「休むと、言うのが怖くなる気がする」

 

 ガルシアはそう言って、二人を見た。

 

「僕は、ラブレス家の当主として説明します。全部は言えないかもしれない。でも、僕が何を決めたのかは、ここにいる人たちに伝えます」

 

 ロベルタは深く頭を下げた。

 

「承知しました」

 

 ファビオラも静かに頷いた。

 

「私も手伝います」

 

 広間に使用人たちが集まるまで、長い時間はかからなかった。皆、不安そうな顔をしていた。市場船で起きたことを知らなくても、屋敷の警備が強まり、当主が深夜に出発し、朝になって戻ってきたことは知っている。沈黙の中に、問いが並んでいた。ガルシアは広間の中央に立った。ロベルタは右後ろ、ファビオラは左後ろ。ラグーン商会の面々は少し離れた廊下側にいた。ダッチは壁にもたれ、ベニーは端末を抱え、レヴィは煙草を吸おうとしてファビオラに睨まれる前にしまった。ロックはただ、ガルシアを見ていた。

 

 ガルシアは、ゆっくり話し始めた。

 

「皆さんに、伝えなければならないことがあります。ラブレス家が昔から保有していた通信権限の一部を、僕の判断で無効化しました」

 

 広間がざわめいた。ガルシアはそれが収まるのを待った。逃げるように言葉を急がない。ロックはその姿に、昨夜の制御室で震えていた少年を重ねた。震えはまだある。だが、彼はもう自分の声を誰かに預けていない。

 

「それは、祖父の代から残されたものです。本来は、人を助けるため、地域をつなぐため、災害の時に連絡を途切れさせないためのものでした。けれど、その権限が、別の目的に使われようとしていました。人を守るためではなく、人の声や命令を偽るために」

 

 使用人たちは黙った。

 

「僕は、それを止めるために、その権限を折りました。ラブレス家に損失が出ます。今後、説明しなければならないことも増えます。皆さんにも迷惑をかけます」

 

 ファビオラが唇を噛んだ。ロベルタは静かにガルシアの背中を見ている。

 

「でも、僕はラブレス家の名前を、誰かを傷つけるための鍵にしたくありませんでした。これは、僕の選択です。誰かに強制されたものではありません。責任は、僕にあります」

 

 その言葉を聞いた時、ロベルタの目がわずかに伏せられた。誇らしさか、痛みか。その両方だったのかもしれない。

 しばらく誰も声を出さなかった。やがて、年配の使用人が一歩前へ出た。

 

「坊ちゃま」

「はい」

「先代も、きっと同じことをなさったと思います」

 

 ガルシアの表情が崩れかけた。だが、彼は耐えた。小さく頷く。

 

「ありがとう」

 

 別の使用人が頭を下げる。さらに別の者も続いた。広間に深い礼が広がっていく。それは盲目的な忠誠ではなかった。若い当主が選んだ痛みを、家の者たちが受け取るための沈黙だった。

 レヴィは廊下でそれを見て、居心地悪そうに肩をすくめた。

 

「金持ちの家ってのは、こういうところが面倒だな」

 

 ベニーが小声で言う。

 

「でも、少し羨ましいだろ」

「どこがだよ」

「帰る場所があるところ」

 

 レヴィは黙った。少しの間、何も言わなかった。

 

「……お前、時々嫌なこと言うな」

「半分くらいはわざと」

「本当に感染してるな、それ」

 

 ダッチが低く笑った。

 ロックはガルシアを見ていた。守られるだけでは終われないと言った少年は、今、守る側の言葉を覚え始めている。それは強くなることだけではない。謝ること、説明すること、損失を受け入れること、誰かの未来に責任を持つこと。銃を持つより難しい戦いが、ここから続くのだろう。

 

     *

 

 昼過ぎ、ラグーン商会はラブレス家を発つ準備を始めた。屋敷の前には車が用意され、荷物は最低限にまとめられている。HCLIの白い船も港で出発準備に入っていた。ココは屋敷へは来なかった。代わりに、短い通信だけを寄越した。ラブレス家には借りができた。ガルシアにはよろしく。兄さんの契約書は燃やしてもいいけれど、証拠として残すなら写しを取ってから。そんな、ココらしい軽さと危うさの混じった文面だった。

 

 ガルシアは玄関前でロックたちを見送った。ロベルタとファビオラはその両側にいる。レヴィは車に乗り込む前、ロベルタへ顎をしゃくった。

 

「猟犬」

「何ですか」

「戻ってきたな」

 

 ロベルタは少しだけ目を細めた。

 

「はい」

「次も戻れよ」

「あなたも」

 

 レヴィは鼻で笑った。

 

「俺は帰る場所なんざねえよ」

 

 ロベルタは静かに言った。

 

「帰る場所がない人ほど、戻る理由を軽く扱います」

 

 レヴィは言葉に詰まった。

 ファビオラが横から言う。

 

「ロベルタの勝ちです」

「勝ち負けじゃねえよ」

「では、あなたの負けです」

「もっと悪い言い方すんな」

 

 ガルシアが小さく笑った。

 

「レヴィさん」

「何だ、坊ちゃん」

「また会えますか」

 

 レヴィは面倒くさそうに目をそらした。

 

「金と厄介事があればな」

「では、会えそうですね」

「嬉しそうに言うな」

 

 ガルシアは真面目な顔になった。

 

「ありがとうございました。僕を守ってくれて」

 

 レヴィはしばらく黙った。

 

「礼は猟犬と小さいのに言え。俺は仕事しただけだ」

 

 ファビオラが言う。

 

「小さいのではありません」

「ファビオラ。わかってるよ」

「今、初めて自然に呼びましたね」

「うるせえな」

 

 ロベルタはレヴィへ軽く頭を下げた。

 

「感謝します」

「やめろ。気持ち悪い」

「では、訂正します。次に坊ちゃまを危険に巻き込んだら、許しません」

「そっちの方が落ち着くな」

 

 ダッチはガルシアと握手した。

 

「いい判断だった」

「失ったものもあります」

「選んで失ったなら、次を考えられる」

「はい」

「ただし、一人で抱えるな。家には家の戦い方がある」

 

 ガルシアは頷いた。

 

「覚えておきます」

 

 ベニーは少し疲れた笑顔で言った。

 

「通信関係で困ったら、できれば平和な用件で呼んで」

 

 ガルシアは苦笑した。

 

「努力します」

「努力じゃなくて、できれば確約してほしいな」

 

 ファビオラが言う。

 

「それはラグーン商会の皆さんにも言えることです」

 

 ベニーは即座に頷いた。

 

「完全に正しい」

 

 最後に、ロックがガルシアの前に立った。

 

「ガルシア」

「ロック」

 

 二人は少しの間、何も言わなかった。前に会った時、ガルシアは守られる少年だった。今は違う。守られることを知りながら、守る側へ一歩踏み出した少年だ。ロックはその変化を前に、どんな言葉をかけるべきか迷った。

 

「君は、よく選んだ」

 

 ようやく言うと、ガルシアは首を振った。

 

「まだ、正しかったのかわかりません」

「たぶん、それでいい」

「正しいと信じ切らない方がいい、ということですか」

「うん」

 

 ガルシアは少しだけ笑った。

 

「ココさんにも言えそうな言葉ですね」

「だから、言い続けることになりそうだ」

「ロックは大変ですね」

「自分でもそう思う」

 

 ガルシアはロックへ手を差し出した。

 

「また会いましょう」

 

 ロックはその手を握った。

 

「ああ」

 

 ガルシアは少しだけ強く握り返した。

 

「次に会う時は、守られるだけではなく、もっと役に立てるようになっています」

「無理はするな」

「それも覚えておきます」

 

 ロックは笑った。

 

「半分くらい?」

 

 ガルシアも笑った。

 

「全部です」

 

 その返答に、ロックは少しだけ安心した。

 

     *

 

 港へ向かう車の中で、レヴィはずっと窓の外を見ていた。南米の道は穏やかで、木々の間から日差しが落ちている。車内には疲労と沈黙があった。ベニーは後部座席で端末を抱えたままうとうとしている。ダッチは運転席で無言。ロックは助手席で、HCLIから届いた庭師関連の断片ログを読み返していた。

 

 レヴィが突然言った。

 

「なあ、ロック」

「何だ?」

「坊ちゃんは、あれでよかったのか」

 

 ロックは少し驚いた。

 

「ガルシアのことか」

「他に誰がいる」

「正しかったかどうかは、まだわからない」

「お前、そういう答えばっかだな」

「でも、奪われるよりはよかったと思う」

 

 レヴィは窓の外を見る。

 

「自分で捨てるのと、奪われるのは違うってか」

「たぶん」

「面倒くせえな」

「そうだな」

 

 少し沈黙があった。

 レヴィは小さく言った。

 

「でも、まあ。坊ちゃんは、自分で立ってたな」

「ああ」

「猟犬も、戻ってきた」

「ああ」

「なら、今回はマシな方か」

 

 ロックはレヴィを見た。

 

「そう言えるのか?」

「言えねえよ。だから“マシ”って言ったんだ」

 

 ダッチが運転しながら低く笑った。

 

「レヴィにしては上等な評価だ」

「うるせえ」

 

 ベニーが目を閉じたまま呟く。

 

「星いくつ?」

「撃たれたから星三つだ」

「基準が相変わらず壊れてる」

 

 車は港へ入った。そこにはHCLIの白い船が見えた。船体は朝日を受けて眩しく、まるで昨夜の混乱など知らないように静かに停泊している。ココは甲板に立っていた。白い髪が風に揺れている。その隣にはバルメ、少し後ろにはレーム。船の上の彼女は、やはり似合っていた。世界中の武器と嘘と契約書を積んだ船の上で笑う白い商人。だが、今のロックには、その笑顔の奥にある疲れも見えていた。

 

 ラグーン商会の車が停まると、ココは軽く手を振った。

 

「ロック」

「ココ」

「ラブレス家は?」

「ガルシアは説明を済ませました」

「偉いわね」

「あなたが言うと少し不安です」

「どうして?」

「褒め言葉の後に盤面が来るから」

 

 ココは楽しそうに笑った。

 

「本当に学習したわね」

 

 レヴィが車から降りながら叫ぶ。

 

「おい白いの! 次はロアナプラだってな!」

「ええ」

「ヨナは戻るなって言ったらしいぞ」

「聞いたわ」

「で、戻るのかよ」

 

「戻るわ」

「だよな。お前も大概イカれてる」

 

 バルメが静かに言う。

 

「あなたに言われるとは、ココも不本意でしょう」

「うるせえ、デカ女」

「名前で呼んでください」

「バルメ」

「よろしい」

「何なんだよ、このやり取り」

 

 ベニーが小声でロックに言った。

 

「この二人、少し仲良くなってない?」

「たぶん認めない」

「だろうね」

 

 ダッチはココへ歩み寄った。

 

「庭師の件、どこまで掴んでいる」

「まだ影だけ。ヨナが見たもの、兄さんが拾ったもの、ベニーが見つけたログ。それを合わせても、輪郭には遠いわ」

「ロアナプラに根があると」

「ええ」

「根を張るには向いている街だ」

 

 ココは少しだけ笑った。

 

「ひどい言い方」

「褒めてはいない」

「でも正しい」

 

 ロックはココに言った。

 

「ヨナは、ロアナプラへ戻るなと言いました」

「そうね」

「戻れば、花輪が街を見るとも」

「ええ」

「それでも戻る?」

 

 ココはロックを見る。

 

「戻らない理由がないわ」

「危険です」

「危険だから戻るの」

「あなたはそう言うと思った」

「なら、止める?」

 

 ロックは少し黙った。

 ヨナに言われた言葉が浮かぶ。ココを止めろ。見張れ。できるかじゃない、やるか。ロックは答えた。全部だと。なら、ここで言うべきことは決まっている。

 

「今は止めません」

 

 ココは目を細めた。

 

「今は?」

「庭師の根がロアナプラにあるなら、戻る必要はあります。でも、花輪を欲しがるために戻るなら止めます」

 

 ココはしばらくロックを見ていた。

 そして、少しだけ満足そうに笑った。

 

「いい線ね」

「評価されたいわけではありません」

「ますますいい」

「キャスパーと同じことを言わないでください」

 

 ココは顔をしかめた。

 

「それは嫌ね」

 

 バルメが横で静かに言った。

 

「ロックの言葉は正しいです。ココ」

「わかってる」

「本当に?」

「本当に」

 

 バルメは少しだけ目を細める。

 

「では、私も見張ります」

「私、そんなに信用ない?」

 

 レームが後ろから言う。

 

「お嬢は信用されているから見張られるのです」

「どういう理屈?」

「危険な方角へ走る時、皆が追いつけるようにです」

 

 ココは苦笑した。

 

「ひどい部下たち」

 

 ロックは言った。

 

「いい部下たちです」

「知ってる」

 

     *

 

 ロアナプラへ戻る航路は、南米から直接ではない。いくつかの港を経由し、HCLIの白い船とラグーン商会の移動手段は途中で分かれたり合流したりしながら進むことになった。表向きには別々の移動。実際には、同じ方向へ向かう二つの影だった。キャスパーはすでに姿を消している。だが、彼が残した市場ログは、ベニーとHCLIの技術班によって少しずつ解析されていた。そこには買い手の名前だけではなく、彼らが花輪を見た時にどう動いたかが刻まれている。キャスパーはそれを持ち去った。だが、全部ではない。市場が壊れた瞬間に落とした破片を、こちらも拾っている。

 

 夜、ラグーン商会が一時的に乗り込んだ貨物船の甲板で、ロックは一人海を見ていた。空には星が出ている。ロアナプラの空よりもずっと澄んでいる。だが、どこで見ても夜の海は黒い。その黒さは、距離や国境を飲み込む。ヨナはこの海のどこかを移動している。庭師もまた、どこかで根を伸ばしている。

 背後からダッチが来た。

 

「眠れんか」

「少し」

「少し、か」

「半分と言うとレヴィに怒られそうなので」

 

 ダッチは低く笑った。

 

「もう遅い。感染してる」

 

 ロックも笑った。

 ダッチは隣に立ち、海を見た。

 

「ロアナプラへ戻れば、面倒になる」

「ええ」

「庭師が本当に根を張っているなら、街の連中も黙っていない。ホテル・モスクワ、三合会、暴力教会。どこに根があるかで、街ごと揺れる」

「エダも動きますね」

「もう動いているだろう」

「張も」

「あいつは、こちらが考える前に考えている」

 

 ロックは頷いた。

 張はロックを「ロック」と呼ぶ。静かに笑いながら、銃より静かな情報の話をする男。彼もまた、花輪の根を見逃すはずがない。

 ダッチは煙草を取り出し、火をつけずに指で回した。

 

「ロック。お前はどうする」

「何をですか」

「ココを見張る約束をしたんだろ」

 

 ロックは少し驚いた。

 

「聞いていたんですか」

「聞かなくてもわかる」

「便利ですね」

「長く生きると、面倒な顔の種類がわかる」

 

 ロックは海を見る。

 

「正直、できるかわかりません」

「できるかじゃないんだろ」

 

 ロックはダッチを見た。

 ダッチは海を見たままだった。

 

「ヨナにも同じことを言われました」

「なら、答えは出てる」

「やるかどうか」

「ああ」

 

 ロックはポケットの中の記憶媒体に触れた。

 

「やります」

 

 ダッチは頷いた。

 

「なら、やれ。ただし、一人で背負うな。ラグーン商会の仕事なら、俺たちの仕事だ」

「これは仕事ですか」

「金になればな」

「ならないかもしれません」

「その場合は、あとで誰かに請求する」

「バオみたいですね」

「請求書は文明だ」

 

 ロックは笑った。

 その笑いは、少しだけ軽かった。

 

     *

 

 ロアナプラに戻る数日前、最初の通信が入った。発信元は暴力教会の古い連絡経路だった。声はエダ。背景に酒場のざわめきが混じっている。

 

『ロック、聞こえる?』

「聞こえます」

『あんたたち、また面倒なもの連れて帰ってるでしょ』

「まだ帰っていません」

『じゃあ、面倒だけ先に届いたわ』

 

 ロックは眉を寄せた。

 

「何がありました」

『港湾関係の古い業者リストに、妙な照会が入ってる。通信設備、船舶識別、緊急連絡網、教会の古い回線、ホテルの補助回線、三合会の物流連絡網。誰かが、ロアナプラの“声の通り道”を調べてる』

 

 ロックの背筋が冷える。

 

「庭師ですか」

『たぶんね。名前は出ない。手も汚してない。でも匂いがする。あと、ラングレーの一部が急に静かになった。こういう時の沈黙は、だいたい最悪よ』

「張は?」

『もう知ってる。あの人、笑ってたわよ。笑う時ほど面倒なの、あんたも知ってるでしょ』

 

「バラライカは?」

『知ってる。あっちは笑ってない』

 

 ロックは目を閉じた。

 ロアナプラが動き始めている。まだ到着してもいないのに、黒い街はすでに火薬の匂いをかぎつけている。

 

『それと、ロック』

「何ですか」

『ココ・ヘクマティアルを連れてくるなら、街に入る前に覚悟しときなさい。今度は前みたいに“外から来た白い船”じゃ済まない。庭師の根が本当に街にあるなら、あの子は街を掘り返すわ』

 

「止めます」

 

 エダは少し黙った。

 

『あんたが?』

「はい」

『……言うようになったじゃない』

「よく言われます」

『褒めてないわよ』

「半分くらいは?」

『その言い方、誰のせいよ』

「たぶん、ココです」

『最悪ね』

 

 通信は切れた。

 ロックはしばらく端末を見つめていた。

 面倒だけ先に届いた。

 まさにその通りだった。

 

     *

 

 HCLIの白い船でも、同じ頃に別の通信が入っていた。ココは作戦室でそれを受けた。画面にはキャスパーではない。文字だけの短い通信。発信元は何度も偽装されているが、最後に残った署名はなかった。ただ、短い一文。

 

『花を摘んでも、庭は残る』

 

 ココはそれを見つめた。

 バルメが隣に立つ。

 

「庭師ですか」

「たぶん」

「挑発でしょうか」

「挨拶かもしれない」

 

 レームが言う。

 

「いずれにせよ、こちらを見ていますな」

「ええ」

 

 ココは端末を閉じた。

 

「ロアナプラへ戻るわ」

 

 バルメが頷く。

 

「はい」

「ヨナも、たぶんそこへ向かう」

「根があるなら」

「ええ」

 

 ココは窓の外の海を見る。

 ヨナの顔が浮かぶ。来るな、と言った声。ココを止めろ、とロックに言った声。花輪を見るな、と警告した声。あの少年は、ココの手から逃げた。だが、完全に離れたわけではない。警告を残し、進むべき方角を示した。まるで、追ってくるなと言いながら、追うしかない道を作っているように。

 

「ヨナは怒っているわね」

 

 ココが言う。

 バルメは静かに答えた。

 

「はい」

「私に」

「はい」

「でも、助けを求めている」

「おそらく」

「難しい子」

「ココに似ています」

 

 ココは振り返った。

 

「私に?」

「はい」

「ひどい」

「褒めてはいません」

「でしょうね」

 

 ココは笑った。

 少しだけ。

 

「バルメ」

「はい」

「私が庭師を追うためにヨナを利用しそうになったら、止めて」

「止めます」

「私がヨナを助けるために庭師を見逃しそうになったら?」

「止めます」

「私が全部欲しがったら?」

「必ず止めます」

 

 ココは目を伏せた。

 

「ありがとう」

 

 バルメは短く答えた。

 

「当然です」

 

 ココは海へ向き直った。

 

「ロックにも見張られてるの」

「よいことです」

「私、そんなに危ない?」

「はい」

「即答ね」

「必要です」

 

 ココは笑った。

 そして、静かに言った。

 

「じゃあ、危ないまま行きましょう。止める人たちを連れて」

 

     *

 

 ロアナプラが見えたのは、夕暮れだった。黒い海の向こうに、港のクレーンが影になって立ち、ネオンが少しずつ灯り始めている。ロアナプラに朝は来ない。夜が少し薄まるだけだ。だが、夕暮れのロアナプラは、薄まった夜がまた濃く戻ってくる瞬間だった。街は遠くからでも汚れて見える。煙、油、湿ったコンクリート、安酒、火薬、欲望。戻ってくるたびに、ロックは思う。この街は人を拒まない。ただし、受け入れるというより、沈める。

 

 ラグーン商会の船が港へ入ると、すでに何人かが待っていた。イエロー・フラッグのバオはもちろんいない。彼は店の修理費用をさらに積み上げることで忙しいはずだ。代わりに、港の片隅に張がいた。いつものように落ち着いた服装で、煙草を指に挟み、こちらへ軽く手を上げる。隣には数人の部下。少し離れた場所には、エダが壁にもたれていた。彼女はサングラスをかけ、まるで偶然そこにいるような顔をしている。偶然であるはずがない。

 張はロックを見て微笑んだ。

 

「戻ったね、ロック」

「はい」

「土産は?」

 

 レヴィが横から言う。

 

「面倒なら山ほどあるぜ」

 

 張は苦笑する。

 

「それは高くつきそうだ」

 

 ダッチが船を降りる。

 

「街の様子は」

 

 張は港の方を見る。

 

「静かだよ」

 

 エダが横から言った。

 

「つまり最悪ってこと」

 

 張は否定しなかった。

 

「庭師という言葉を聞いた」

 

 ロックは頷く。

 

「俺たちもです」

「根があるとも」

「はい」

 

 張は煙草を口元へ運び、火をつけずに止めた。

 

「ロアナプラは、根を張るにはいい土だ。悪い意味でね。古い回線、非公式の物流、誰にも登録されていない無線、壊れた制度、壊れた人間関係。花輪が欲しがるものは多い」

 

 エダが言う。

 

「教会にも妙な照会が来てるわ。慈善団体名義でね。笑えるでしょ?」

 

 レヴィが鼻で笑う。

 

「笑えねえよ」

 

 エダは肩をすくめた。

 

「そうね。今はまだ」

 

 その時、港の入口側で車の列が止まった。ホテル・モスクワの車両だ。バラライカは降りてこなかった。代わりに、ボリスが張へ短く目礼し、ロックたちを見た。無言の圧だけで十分だった。街はすでに知っている。花輪の根がロアナプラに伸びているかもしれないことを。誰がどこまで知っているのかはわからない。だが、誰も知らないふりをする気はない。

 レヴィが低く言う。

 

「劇場に戻ってきたって感じだな」

 

 ベニーが疲れた声で答える。

 

「燃えてない劇場がよかった」

「ここは最初から燃えてんだよ」

 

 ロックは港の海を見た。

 そこへ、HCLIの白い船がゆっくり入ってくる。白い船体は、ロアナプラの黒い水の上で妙に目立つ。前と同じ光景のはずなのに、今は違って見えた。前は、ココが花輪を追ってこの街へ来た。今度は、花輪の根がこの街にあるかもしれないから戻ってきた。順番が逆になっている。

 

 ココが甲板に立っていた。

 港の風が彼女の白い髪を揺らす。

 張がその姿を見て言った。

 

「白い船は、黒い街ではよく目立つ」

 

 ロックは答えた。

 

「目立つために来ているのかもしれません」

「だろうね」

 

 張はロックを見る。

 

「そして、ロック。君ももう目立たない場所には戻れない」

 

 ロックは少し黙った。

 

「わかっています」

「ならいい」

 

 エダが軽く手を振った。

 

「ようこそ、おかえり。最悪の続きを始めましょうか」

 

 レヴィが銃を肩に担ぐようにして笑った。

 

「やっぱロアナプラはこうでなきゃな」

 

 ベニーが小さく言う。

 

「僕はそうじゃない方がいい」

 

 ダッチは港を見渡した。

 

「まずは情報だ。撃つのは後」

 

 レヴィが不満そうにする。

 

「後ってことは撃つんだな」

「お前次第だ」

「じゃあ撃つな」

「だろうな」

 

     *

 

 その夜、ラグーン商会の事務所には、また雨音が届いていた。ロアナプラの雨は、何も洗い流さない。ただ、汚れを光らせるだけだ。窓の外でネオンが滲み、港のクレーンが黒い影になって揺れている。事務所の机には、ベニーがまとめた庭師の断片ログ、張から受け取った港湾業者リスト、エダが置いていった教会関係の照会記録、そしてココから送られてきたHCLI側の解析資料が並んでいた。

 

 すべてが断片だった。

 だが、断片は輪になり始めている。

 ロックは窓際に立っていた。前と同じ場所。雨の電話を受けた場所。あの時、ヨナは「白い船を追うな」と言った。今、白い船は街に戻ってきた。追うなと言われた先へ、自分たちは来てしまった。だが、来なければならなかった。たぶん、ヨナもそれをわかっていたのだろう。

 

 電話が鳴った。

 部屋の全員が止まる。

 レヴィが言う。

 

「またかよ」

 

 ベニーが端末へ手を伸ばす。

 

「逆探知準備」

 

 ダッチがロックを見る。

 ロックは受話器を取った。

 

「ラグーン商会です」

 

 ノイズ。

 雨音に似た、海の底から来るようなノイズ。

 そして、若い声。

 

『ロック』

「ヨナ」

 

 ココが事務所にいたわけではない。だが、ロックはすぐに別回線でHCLIへ接続した。ベニーが頷く。ココにも聞こえるようになったはずだ。

 

『戻ったんだ』

「ああ」

『戻るなって言った』

「戻らないわけにはいかなかった」

 

 短い沈黙。

 

『ココは?』

 

 ロックは答える。

 

「聞いている」

 

 別回線の向こうで、ココの息が聞こえた気がした。

 

『ココ』

 

 ヨナの声が少しだけ変わる。

 

『庭師は、花輪を一つだけ作ってない』

 

 ココが低く言う。

 

「どういう意味?」

『根がいくつもある。ロアナプラは、その一つ』

「あなたはどこにいるの」

『言わない』

「ヨナ」

『ココは来るから』

 

 ココは何も言えなかった。

 ヨナは続けた。

 

『でも、来るなら見ろ。庭師は銃を持ってない。契約書も持ってない。声を持ってる』

 

 ロックが聞く。

 

「庭師の正体は?」

 

 ノイズが強くなる。

 

『まだ言えない』

「なぜ」

『言えば、花輪が聞く』

 

 ベニーの顔が青ざめた。

 ヨナの声はさらに遠くなる。

 

『ロアナプラの根は、古い声の中にある』

「古い声?」

『昔からある命令。昔からある約束。昔からある借り。そこに根を張る』

 

 レヴィが小さく呟く。

 

「わけわかんねえ」

 

 ダッチは黙っている。

 ココが言った。

 

「ヨナ。私はあなたを追う」

『知ってる』

「逃げても追う」

『知ってる』

「でも、今度は聞くわ」

 

 沈黙。

 ノイズの向こうで、少年が少しだけ息を吐いた。

 

『遅い』

「そうね」

『でも、まだ間に合うかもしれない』

 

 ココの声がわずかに揺れた。

 

「ヨナ」

『ロック』

「何だ」

『見張れ』

「わかってる」

『全部?』

 

 ロックは受話器を握り直した。

 

「全部だ」

 

 短い沈黙。

 

『じゃあ、次はロアナプラで』

 

 通信は切れた。

 受話器の向こうには、雨音のようなノイズだけが残った。

 ロックはゆっくり受話器を置いた。

 部屋の中に沈黙が落ちる。

 レヴィが最初に口を開いた。

 

「次はロアナプラで、だとよ」

 

 ベニーが端末を見ながら言う。

 

「発信元は追えなかった。でも、一瞬だけ港湾内の古い回線を経由してる。使われてないはずの古い回線だ」

 

 ダッチが低く言った。

 

「根か」

 

 ロックは窓の外を見た。

 雨に濡れたロアナプラ。

 ホテル・モスクワの影。

 三合会の倉庫。

 暴力教会の鐘。

 イエロー・フラッグの壊れかけた看板。

 港の古い無線塔。

 

 この街には、古い声が多すぎる。命令、借り、誓い、裏切り、警告、取引、祈り。庭師がそこに根を張るなら、花輪はただの通信システムではなくなる。この街そのものの声を、誰かが触ろうとしている。

 別回線からココの声が聞こえた。

 

『ロック』

「はい」

『始めましょう』

「何を」

『庭の掃除』

 

 レヴィが吹き出した。

 

「白いの、冗談まで物騒だな」

 

 ロックは少しだけ笑った。

 

「掃除は苦手な人が多い街ですよ」

 

 ココは答えた。

 

『だから面白いの』

 

 ロックは静かに言った。

 

「ココ」

『何?』

「面白いで済ませようとしたら、止めます」

 

 短い沈黙。

 そして、ココは笑った。

 

『ええ。見張っていて』

 

 通信は切れた。

 雨はまだ降っていた。

 ロアナプラの雨は、何も洗い流さない。

 ただ、地面の下にある根を濡らす。

 海に咲いた花輪は、一度閉じ損ねた。

 だが、庭師はまだどこかで水をやっている。

 白い船は黒い街へ戻り、黒い街はそれを飲み込もうとしている。

 そして、海の向こうの少年は、もう一度だけ声を残した。

 

 次はロアナプラで。

 

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