Guns & Garlands — 銃と花輪 作:たこ焼き 龍月
海は夜の残り香を抱えていた。
ラグーン号はロアナプラの灯を背に、黒い水面を切って進んでいる。港の騒音はもう遠い。だが、船上の空気が静かになったわけではなかった。
エンジンの低い唸り。
波が船腹を叩く音。
銃器を点検する金属音。
そして、誰も口にしない警戒。
ロアナプラを出たから安全になる、などと考える者は、この船には一人もいなかった。
レヴィは甲板の縁に腰を下ろし、銃を分解していた。慣れた手つきだ。指先は雑に見えて、動きには迷いがない。
その少し離れた場所で、バルメもまた自身の装備を確認していた。
レヴィはちらりと見て、鼻で笑った。
「ずいぶん丁寧だな」
バルメは顔を上げない。
「道具を大切にしない人間は、道具に見捨てられる」
「道具に好かれて戦場で生き残れるなら、俺はとっくに銃と結婚してる」
「あなたなら式の途中で神父を撃ちそうね」
「神父が俺の銃に文句を言ったらな」
「教会に向いてない」
「この街の教会なら向いてるだろ」
バルメは少しだけ笑った。
レヴィはその表情を見逃さなかった。
「お、笑ったな」
「笑ってない」
「笑った」
「気のせい」
「無表情女が一ミリ口角を動かしたら、それは笑ったって言うんだよ」
「あなたは細かいことを見ているのね」
「戦場じゃ、細かいことを見落とす奴から順に床に転がる」
「そこは同意する」
レヴィは組み直した銃を軽く回した。
「なあ、バルメ」
「何?」
「お前、あの白いお嬢様のためなら死ねるのか?」
バルメは手を止めた。
夜風が二人の間を通る。
「死ぬことに価値はない」
「へえ。忠犬みたいな顔してる割には、冷めてんじゃねえか」
「死ぬために彼女のそばにいるんじゃない。生かすためにいる。彼女を。自分を。必要なら、他の誰かも」
「綺麗事だな」
「綺麗事を本気でやるには、汚れ仕事が必要になる」
レヴィは黙った。
そして、笑った。
「やっぱりお前、嫌な女だな」
「褒め言葉として受け取るわ」
「俺の真似すんな」
「あなたの言い方、便利だから」
そのやり取りを少し離れた場所で聞いていたルツが、マオに小声で言った。
「あの二人、仲いいのか?」
「少なくとも、すぐ撃ち合わない程度にはな」
「それを仲がいいって呼ぶの、ロアナプラ基準すぎるだろ」
マオが肩をすくめる。
「ここに乗ってる連中で、普通の基準を持ってる奴がいるか?」
ルツは船内を見回した。
レヴィ。バルメ。ココ。ロック。ダッチ。レーム。ワイリ。ベニー。怯えた技術者。
「……いないな」
「だろ」
*
操舵室では、ダッチが舵を握っていた。
レームはその横で煙草を吸っている。ただし、窓の外と計器を交互に見ている目は、雑談をしている老人のものではなかった。
「この船、いい船ですな」
レームが言った。
ダッチは前を向いたまま答える。
「褒めても何も出ねえぞ」
「いや、本気ですぜ。速いだけじゃない。扱いが荒い船長に慣れてる」
「船は持ち主に似る」
「なら、だいぶ我慢強い」
「俺が短気だと?」
「違うんですかい?」
ダッチは低く笑った。
「短気な奴は、ロアナプラで運び屋なんざ続かない」
「確かに。短気な奴は、撃つ。臆病な奴は、逃げる。欲張りな奴は、積みすぎる。運び屋に必要なのは、そのどれでもない」
「何だと思う」
「諦めの悪さ」
ダッチは少しだけ目を細めた。
「意外と詩人だな」
「年を取ると、嫌でも言葉が増える。若いころは銃で済ませていたことを、年を取ると酒と比喩で誤魔化すようになる」
「誤魔化せてるか?」
「いいえ。だから酒が必要になる」
ダッチはふっと笑った。
「おたくの社長は、何を狙ってる」
レームは煙を吐く。
「聞いてどうします?」
「聞いただけで降りるような仕事なら、もう受けてねえ」
「でしょうな」
「だが、知らずに走るのと、知っていて走るのは違う」
「お嬢は、全部は話しません」
「だろうな」
「俺たちにも話さないことがある」
「信用されてないのか」
「逆です。信用してるから、話さない。お嬢にとって秘密ってのは、相手を遠ざけるものじゃなく、相手を巻き込みすぎないための壁でもある」
ダッチは少し黙った。
「便利な解釈だ」
「俺もそう思います」
レームは静かに言った。
「だが、長くあの人のそばにいるとわかる。ココ・ヘクマティアルは嘘をつく。隠し事もする。人を利用もする。だが、部下を駒として捨てるほど雑じゃない」
「武器商人にしては、ずいぶん情があるんだな」
「情はあります。ただし、普通の人間が持ってる場所とは少し違うところにある」
「それは厄介だ」
「ええ。だから俺たちは給料をもらってる」
ダッチは前方の暗い海を見る。
「この仕事、ただの輸送じゃないな」
「最初からそう言ってませんでしたかね」
「言葉ではな」
「なら、答えはこうです。俺たちは明日の朝までに、どこかの誰かが隠したかったものを運ぶ。その途中で、どこかの誰かが取り返しに来る。あるいは、沈めに来る」
「どこの誰かだ」
レームは煙草を灰皿に押しつけた。
「国旗を背負ってない顔をした、国旗つきの連中」
ダッチはそれ以上聞かなかった。
聞かなくても、十分だった。
*
船室の一角で、ベニーは黒い通信ケースを眺めていた。
もちろん開けてはいない。
開けてはいないが、触りたくて仕方がない顔をしていた。
その横でワイリが楽しそうに覗き込んでいる。
「開けないの?」
「開けない」
「開けたい顔してるよ」
「ものすごく開けたい。でも、開けたら絶対に面倒になる」
「開けても爆発しないと思うけどな」
「君の“大丈夫”は信用できないんだよ。爆発物の専門家に“爆発しないと思う”って言われても、逆に怖い」
ワイリは不思議そうに首を傾げる。
「爆発する時は、だいたい爆発する理由があるよ」
「しない理由を探してくれ」
「しない理由か。うーん。持ち主が困るから?」
「それは人間側の事情だね」
「機械に人情を教えればいい」
「やめろ。君が機械に何かを教えると、だいたい最後は火花が出る」
そこへロックがやってきた。
「何かわかったか?」
ベニーは顎に手を当てる。
「外から見ただけだけど、通信機材というより、通信環境そのものに干渉する装置に見える。普通の暗号化通信は、会話を隠す。これはたぶん、会話の場所を変える。相手の耳を塞いだり、違う声を聞かせたり、誰が喋っているかを偽装したりできる」
ロックは黒いケースを見る。
「それができると、何が起こる?」
「戦場なら、部隊を迷子にできる。救援要請を潰せる。偽の命令を流せる。国境警備なら、穴を作れる。密輸なら、通り道を作れる。逆に言えば、これを持っている側が、東南アジア一帯の裏ルートを握ることもできる」
「武器より厄介だな」
「銃は引き金を引く人間が必要だけど、通信をいじれば、他人に引き金を引かせられる」
ワイリが明るく言う。
「すごいね。遠隔操作の戦争だ」
ベニーは顔をしかめる。
「言い方が軽い」
「軽く言わないと重すぎるよ」
その言葉には、珍しくワイリなりの真面目さがあった。
ロックは黙ってケースを見つめた。
そこへ、技術者のナタワットがふらつくように近づいてきた。
彼の顔色は悪い。船酔いだけではない。恐怖が肌の下に染み込んでいるようだった。
「……君たちは、あれをただの荷物だと思っているのか」
ロックが振り向く。
「あなたはそう思っていない」
「私は、もう何も思いたくない」
「でも、知っている」
ナタワットは笑った。
乾いた、壊れかけの笑いだった。
「知識は便利だ。金になる。地位になる。研究室をくれる。助手をくれる。だが、最後には逃げ場を奪う」
ベニーが静かに聞く。
「あれは何なんです?」
ナタワットは黒いケースを見た。
「名前はいくつもある。計画名、予算名、表向きのプロジェクト名。だが、私たちは内輪で“花輪”と呼んでいた」
「花輪?」
ロックが眉をひそめる。
「通信の輪を作る。軍、警察、民間、衛星、密輸無線、古いアナログ回線まで拾い、編み込み、必要なところだけ締める。花輪のように見えるからだ」
ワイリが呟く。
「締める花輪って、首輪みたいだね」
ナタワットは小さく頷いた。
「その通りだ」
ロックは低く聞いた。
「誰が作らせたんですか」
ナタワットは答えない。
「博士」
ロックが一歩近づく。
「ここまで来たら、黙っていても安全にはなりません」
「安全?」
ナタワットは目を見開いた。
「安全など、最初からなかった。安全というのは、危険の場所を知らない人間が使う言葉だ。私は知ってしまった。誰が欲しがり、誰が隠し、誰が消そうとしているかを」
「誰です」
ナタワットは唇を震わせた。
だが、その時だった。
操舵室から警告の声が飛んだ。
「全員、伏せろ!」
次の瞬間、夜の水面に白い線が走った。
銃声が、海を裂いた。
*
最初の一発は船体の横を叩いた。
火花が散り、金属音が響く。
ラグーン号の左舷後方から、二隻の高速艇が迫っていた。灯火は消している。船体には民間用の塗装がされているが、動きは素人ではない。
レヴィが甲板に飛び出した。
「来やがった!」
ダッチの声が操舵室から響く。
「レヴィ、勝手に前へ出るな! 数を見ろ!」
「数えるより撃ったほうが早え!」
「だから数えろと言ってる!」
レームがすでに銃を構えている。
「二隻。いや、後ろにもう一つ影がありますな。三隻。距離を詰めてきます」
バルメはココを船体の陰へ押し込む。
「ココ、下がって」
「見えない」
「見なくていい」
「見たい」
「だめです」
「バルメは過保護ね」
「職務です」
マオがナタワットを引きずるように船室へ押し込んだ。
「博士、頭を下げろ!」
「私を殺しに来たのか?」
「たぶんそうだ! だから死にたくなけりゃ黙って動け!」
ベニーはコンピュータを抱えるように伏せた。
「やっぱり嫌な予感が当たった!」
ワイリが目を輝かせる。
「すごいね。水上戦だ」
「楽しそうに言うな!」
「だって、準備してない状況って面白い」
「君の面白いは、僕の心臓に悪い!」
銃声が連続した。
高速艇の一つが距離を詰め、拡声器から声が流れる。
『こちらは沿岸警備隊だ。停船しろ。積荷検査を行う』
レヴィが笑った。
「沿岸警備隊だとよ」
ダッチが舵を切りながら言う。
「この海域の連中は、夜中に灯火を消して撃ちながら検査するのか?」
レームが乾いた声で答える。
「最近の公務員は熱心ですな」
ロックが操舵室の入口に掴まりながら叫ぶ。
「本物じゃない?」
ダッチは短く答えた。
「本物なら、もっと下手だ」
レヴィが船縁から撃ち返す。
「お役所仕事にしちゃ、弾が真っ直ぐ飛んでくる!」
ルツが甲板に姿勢を低くして移動し、冷静に敵艇を見た。
「操縦席に二人、後部に三人。全員装備が揃いすぎてる」
「地元の海賊じゃねえな」
レヴィが言う。
「海賊なら、もっと趣味の悪いシャツを着てる」
「判断基準が雑だな」
「だが当たってる」
バルメがココを守りながら、短く言った。
「動きが軍隊寄り。訓練されてる」
レヴィが笑う。
「じゃあ、お行儀よく殺されに来たってわけか」
「殺すと言うより、奪取ね」
「どっちでも、撃たれりゃ同じだ!」
ココは船体の陰から声を上げる。
「レーム、荷物を守って! バルメは博士! ルツ、後ろの艇を止めて!」
バルメが即座に反論する。
「ココ、あなたから離れられません」
「命令よ」
「嫌です」
「バルメ」
「嫌です」
その返答に、レヴィが撃ちながら吹き出した。
「おいおい、忠犬が命令拒否かよ!」
バルメはレヴィを見ずに答える。
「ココを守るための命令なら聞きます。ココを危険に晒す命令は聞きません」
ココがむっとする。
「私は雇い主よ」
「私は護衛です」
「私の勝ちじゃない?」
「今回だけは私の勝ちです」
レームが苦笑しながら射撃する。
「お嬢、ここは負けておきなされ。勝っても撃たれますぜ」
ダッチが船を大きく旋回させた。
水しぶきが上がり、敵艇の照準がずれる。
レヴィはその瞬間を逃さず、前に出た。
「よし、こっち向け、税金泥棒ども!」
バルメが叫ぶ。
「出すぎ!」
「うるせえ! 俺はこういう時、前に出るって決めてんだよ!」
「決めるな!」
「もう決めた!」
レヴィの銃声が夜の水面に跳ねた。
敵艇のライトが一つ割れる。暗闇が揺れ、艇が少し進路を乱す。
ルツが冷静に呼吸を整え、後方の艇を狙った。
「動きが速い」
マオが弾倉を渡す。
「できるか?」
「できなきゃ、俺の給料が下がる」
「下がるだけで済めばいいな」
ルツの一撃が、後方の艇のエンジン周りを捉えた。
派手な爆発ではない。
だが、十分だった。
エンジン音が乱れ、艇が速度を落とす。
ワイリが嬉しそうに言う。
「いい止め方だね。壊しすぎない」
ルツが即座に返す。
「お前に褒められると不安になる」
「壊しすぎるのも芸術だよ」
「その芸術、味方の近くで披露するな」
敵の一艇がラグーン号の右側へ回り込もうとした。
ダッチが舵を切る。
「ロック、下がってろ!」
ロックは床に伏せながらも、敵の動きを見ていた。
撃ってくる。
だが、沈めようとはしていない。
狙いは船体の中枢ではない。操舵室、機関部、甲板上の人員。そして黒いケースの位置を探っている。
「ダッチ!」
「何だ!」
「連中、船を沈める気じゃありません! 積荷を取りに来ています!」
ココが笑った。
「当たり」
ロックが振り向く。
「知ってたんですか!」
「予想はしてた」
「それを先に言ってください!」
「言ったら断った?」
「少なくとも心の準備はしました!」
レヴィが叫ぶ。
「心の準備で弾が止まるかよ!」
ロックも叫び返す。
「止まりませんけど、胃には優しい!」
ベニーが床から顔を上げる。
「僕の胃はもう手遅れだよ!」
レームがココに向かって言う。
「お嬢、次からは予想の共有をもう少し早めにお願いしますぜ」
「努力するわ」
「その返事は信用できませんな」
「正直ね」
「お嬢に鍛えられてますから」
右側の敵艇から、男がフック付きのロープを投げようとする。
バルメが素早く銃を構えた。
レヴィも同時に狙った。
二人の銃声が重なり、ロープは海へ落ちた。
レヴィが笑う。
「おい、今のは俺の獲物だ」
「早い者勝ち」
「同時だったろ」
「なら引き分け」
「気に入らねえ」
「私も」
敵艇がさらに寄る。
レヴィは船縁を蹴って位置を変え、バルメは反対側から射線を取る。
荒い。
正確。
無茶。
合理的。
二つの戦い方が、同じ甲板の上でぶつかりながら噛み合っていく。
ルツが呟いた。
「あの二人、相性悪いのに連携できてるな」
マオが答える。
「性格と戦闘能力は別なんだよ」
「俺は性格も大事だと思うけど」
「生き残ってから言え」
ワイリが船尾側に伏せながら、何かを取り出そうとした。
ベニーが青ざめる。
「ワイリ、何を出してる?」
「ちょっとした保険」
「それは爆発する?」
「状況による」
「しまって!」
「でも、便利だよ?」
「便利な爆発物という概念を僕は認めない!」
ワイリは少し考えた。
「じゃあ、不便な爆発物なら?」
「もっと嫌だ!」
その間にも敵は距離を詰めていた。
レームが低く言う。
「ダッチ、左へ振れますか」
「この速度でか?」
「できるでしょう?」
「できるが、褒められた操船じゃねえ」
「褒める相手は今いませんぜ」
「違いない」
ダッチは舵を大きく切った。
ラグーン号がうねるように動き、敵艇の一つが波を受けて大きく揺れた。
その瞬間、ワイリが何かを投げた。
「ほい」
ベニーが叫ぶ。
「軽い!」
次の瞬間、水面で白い閃光が弾けた。
派手な火柱ではない。
だが、敵艇の周囲に水しぶきと光が広がり、操縦者が一瞬だけ視界を奪われる。
レヴィが口笛を吹いた。
「やるじゃねえか、爆弾男!」
ワイリが笑顔で返す。
「爆弾じゃないよ。たぶん」
「たぶんって言ったか今!」
ベニーの悲鳴を無視して、ルツとレームが畳みかける。
敵艇は進路を失い、ラグーン号から離れた。
最後の一艇がなおも食い下がる。
拡声器が割れた声を吐く。
『停船しろ。これは警告ではない』
レヴィが大声で返した。
「こっちも警告じゃねえよ!」
銃声。
敵艇の前面装甲に火花が散る。
バルメが冷静に撃ち、レームが角度を潰す。ルツが後方を止める。ダッチが船を逃がす。マオが博士を抑え、ベニーが通信を守り、ワイリが不穏な笑顔で海面を見ている。
ココはその中心で、笑っていた。
ロックはその横顔を見た。
恐怖がないわけではない。
だが、それ以上に、彼女はこの混乱の形を見ている。誰がどう動き、どの歯車が噛み合い、どこで敵が崩れるかを。
彼女は戦場を見ているのではない。
戦場の構造を見ている。
「ロック」
ココが言った。
「何ですか!」
「よく見ておいて」
「何を!」
「この世界の会話」
ロックは一瞬、意味がわからなかった。
ココは続ける。
「銃声も、無線も、命令も、沈黙も、全部会話よ。誰が何を言い、誰が何を聞かないか。それで戦場は動く」
「今その講義をする場面ですか!」
「今だからよ」
敵艇が最後の接近を試みた。
だが、すでに勢いは失われていた。
ダッチが岩礁の影へ船を滑り込ませる。敵艇は追いきれず、無理に角度を変えようとして水面で跳ねた。
ルツが最後の一撃を入れる。
敵艇のエンジン音が途切れ、海上に流された。
銃声が止んだ。
残ったのは、エンジン音と荒い呼吸と、硝煙の匂いだけだった。
*
しばらく誰も喋らなかった。
ラグーン号はマングローブの影に入り、速度を落とした。夜の水路は細く、空気は湿り、虫の音が不気味なくらい大きい。
最初に口を開いたのはバオではなく、もちろんここにはいないバオの代わりに、ベニーだった。
「……僕、今日の分の給料、上げてもらっていいかな」
レヴィが笑う。
「お前、撃ってねえだろ」
「撃たれた」
「弾は当たってねえ」
「精神には当たった」
ワイリが頷く。
「心の被弾は深いよね」
ベニーはワイリを見る。
「君に言われると、なぜかすごく腹が立つ」
ルツが水筒を飲みながら言った。
「敵は?」
レームが答える。
「二艇は離脱。一艇はエンジン停止。追っては来ないでしょう。少なくとも今は」
バルメはココの前に立ったまま、周囲を見ている。
「ココ、怪我は?」
「ないわ」
「本当に?」
「本当」
「撃たれてない?」
「撃たれてたら言うわ」
「あなたは言わない時がある」
「バルメ、私はそこまで子供じゃない」
「ココは子供ではありません。でも、たまに自分の体を自分の持ち物だと思っていない」
ココは少しだけ黙った。
それから、柔らかく笑う。
「心配してくれてありがとう」
バルメは返事をしなかった。
ただ、ほんの少しだけ視線を逸らした。
レヴィがそれを見てニヤつく。
「おい、照れてんのか」
バルメは即座に言う。
「照れてない」
「照れてた」
「撃つわよ」
「やってみろ」
「レヴィ」
ダッチの声が飛ぶ。
「味方を煽るな」
「味方か?」
「今はな」
「便利な言葉だな」
「便利だから使ってる」
ロックは甲板に落ちていた敵の装備の一部を拾い上げた。
戦闘中、敵の一人が落としたものだった。通信機。小型だが、民間用ではない。表面にはメーカー表示がない。だが裏面の規格番号は、ロックがかつて商社で見た軍用品リストの記憶を刺激した。
「ベニー」
「何?」
「これ、見てくれ」
ベニーは受け取り、眉をひそめた。
「暗号化通信機だ。しかも新しい。一般市場には流れてないタイプだと思う」
「米軍規格に近い?」
ベニーはロックを見た。
「よくわかったね」
「昔、似た型番を見たことがある。直接扱ったわけじゃないけど、防衛関連の資料で」
レヴィが近づく。
「つまり、さっきの連中は地元の海賊じゃないってことか」
ロックは頷いた。
「装備が良すぎる。動きも揃いすぎている。でも正規軍なら、もっと堂々と来る。身分を隠す理由がある」
レームが通信機を見て、低く言った。
「非公式部隊か、民間軍事会社か。あるいはその中間ですな」
ダッチがココを見る。
「説明してもらおうか」
ココは少しだけ首を傾げた。
「どこから?」
「最初から、と言いたいところだが、どうせ全部は言わないだろう。なら、今わかった分だけでいい。あれは何者だ」
ココは通信機を見つめた。
「たぶん、私たちが運んでいるものを回収したい人たち」
「どこの?」
「いくつかの組織が絡んでる。軍、情報機関、企業、現地政府。きれいに分けられない。表の肩書きと裏の財布が違う人たち」
ロックが言う。
「CIAですか」
ココは笑った。
「ロックは本当に直球ね」
「違うんですか」
「半分は正解。半分は不正解」
レヴィが苛立ったように言う。
「その半分って言い方、流行ってんのか? はっきり言えよ。撃つ相手がどこの誰かくらい、知ってたほうが気分がいい」
「撃つ時に国籍を聞くの?」
「聞かねえよ。だから先に聞いてんだ」
ココは少しだけ真面目な顔になった。
「アメリカの中にもいろいろある。表向きの命令で動く人。命令がないことを利用して動く人。予算を消すために動く人。証拠を消すために動く人。今回の相手は、そのどれか、あるいは全部」
ダッチが言う。
「つまり、国旗はあるが、責任者はいない連中か」
「そう」
レームが肩をすくめる。
「一番厄介なタイプですな。勝てば組織の手柄、負ければ知らない人」
マオが吐き捨てる。
「最低だな」
「最低なものほど、予算がつくのよ」
ココは穏やかに言った。
ロックは通信機を見たまま問う。
「あなたの本当の目的は、あの通信システムを売ることですか」
「違う」
「壊すことですか」
「それも半分」
「また半分ですか」
「だって世界は半分でできてるもの。見えている半分と、見えない半分。言える半分と、言えない半分。正義の半分と、商売の半分」
ロックはココを見た。
「あなたは、どちら側にいるんですか」
ココは微笑んだ。
「私は、半分をつなぐ側」
レヴィが呆れたように言う。
「詩人かよ」
「武器商人よ」
「余計たちが悪い」
「ありがとう」
「褒めてねえ!」
*
夜が明ける前に、ラグーン号は海から細い河川へ入った。
水の色が変わった。
黒い海から、濁った緑の川へ。
両岸にはマングローブが密集し、その奥にジャングルが続いている。空気はさらに重くなり、湿気が肌に貼りついた。虫の音、鳥の声、どこかで水面を跳ねる魚の音。
だが、誰も自然の美しさを楽しんでいる余裕はなかった。
レヴィは船首近くで退屈そうに煙草をくわえていた。
「なあ、ココ」
「何?」
「これ、観光ツアーだったら最低だな。景色は湿っぽいし、虫はうるせえし、ガイドは秘密主義だし、客は撃ってくる」
「でも退屈しないでしょ?」
「退屈ってのは必要なんだよ。人間、退屈があるから酒がうまい」
「あなた、意外と哲学的ね」
「酒の話だ」
「酒の話はたいてい哲学よ」
ロックが割って入る。
「それは誰の哲学ですか」
「酔っ払い全般」
「説得力はありますね」
バルメが周囲を見ながら言う。
「冗談を言う余裕があるうちはいい。でも、ここから先は待ち伏せに向いている」
レヴィがにやりと笑う。
「お前、ずっと待ち伏せの話してるな」
「待ち伏せは嫌い」
「好きな奴はいねえだろ」
「あなたは楽しみそう」
「撃ち返せるならな」
「そこが問題なのよ。撃ち返せる待ち伏せは、相手にとって失敗。撃ち返せない待ち伏せが本物」
レヴィは少し黙った。
「……お前、たまに嫌なこと言うな」
「褒め言葉?」
「違う」
「知ってる」
ココは二人を見て笑う。
「仲良くなったわね」
レヴィとバルメが同時に言った。
「なってない」
ロックは小さく笑った。
その瞬間、ナタワットが船室から出てきた。
顔色は相変わらず悪い。だが、何かを決意したようでもあった。
「ミス・ヘクマティアル」
「博士。休んでいなくていいの?」
「休んでいる時間はない。さっきの襲撃でわかった。彼らは追跡している」
「でしょうね」
「違う。目で追っているだけではない。あの機材の補助ユニットに、識別信号が残っている可能性がある」
ベニーが顔を上げる。
「ビーコン?」
「似たようなものだ。ただし、普通の追跡信号ではない。通信環境のノイズに紛れる。専用の受信機がなければ見えない」
ココが目を細める。
「博士、それをなぜ今言うの?」
「言えば、私は不要になる」
「言わなければ?」
「全員死ぬかもしれない」
「なるほど。いい判断ね」
ロックが厳しい声で言う。
「ココ、これを知っていましたか」
「可能性は考えてた」
「だから“予想はしてた”ですか」
「ええ」
「あなたの予想には、毎回人の命が含まれている」
ココはロックを見た。
「含まれない予想なんて、現実にはあまりないわ」
「そういう問題じゃありません」
「そういう問題よ。ロック。あなたはまだ、人の命を別枠に置きたがる。でも戦場でも市場でも、人の命はいつも計算に入ってる。問題は、それを見ないふりするか、見た上で責任を取るか」
「責任を取る?」
「ええ」
「死んだ人間に、どうやって責任を取るんですか」
ココは黙った。
その沈黙は、彼女にしては珍しかった。
レームが静かに割って入る。
「ロックさん。その質問は正しい。だが、今は答えを聞くには場所が悪い」
ダッチの声が飛ぶ。
「全員、掴まれ。浅瀬に入る」
ラグーン号が速度を落とす。
川幅は狭くなり、両岸の木々が迫っていた。
上空は枝に覆われ、光が届きにくい。水は濁り、どこまで深いのか見えない。
バルメが低く言う。
「嫌な場所」
レヴィが煙草を吐き捨てる。
「同感だ」
「珍しく意見が合った」
「喜ぶな。縁起が悪い」
その時だった。
川岸の鳥が一斉に飛び立った。
レームが叫ぶ。
「伏せろ!」
今度の銃声は、森の中から来た。
*
川の両岸から弾が飛んだ。
密林の奥に敵の姿は見えない。見えるのは、葉が揺れる影、銃口の光、木の幹に散る破片だけだった。
ラグーン号は狭い川の中で大きく動けない。
海上より悪い。
ダッチが舌打ちした。
「ここで来るか!」
レームが即座に叫ぶ。
「左右に散るな! 見えない相手を追うな! 撃たせて位置を出させろ!」
レヴィは船縁に身を低くしながら笑う。
「見えねえ相手は嫌いだ!」
バルメが反対側で撃ち返す。
「なら黙って探して!」
「命令すんな!」
「じゃあお願い!」
「もっと嫌だ!」
ルツが冷静に木々の揺れを見る。
「右岸、三。左岸、二以上。上にもいる」
「上?」
ロックが顔を上げかけると、すぐ近くの枝が弾けた。
レヴィが襟首を掴んで引き倒す。
「馬鹿! 観察するなら首を出すな!」
「すみません!」
「謝る暇があったら伏せてろ!」
ロックは床に伏せながら、敵の動きを見る。
銃撃は激しい。
だが、やはり船を沈める気ではない。操舵室を狙い、こちらを足止めし、混乱させようとしている。
「また奪取狙いです!」
「わかってる!」
ダッチが叫ぶ。
「だが、この川じゃ逃げ切るのは難しい!」
ワイリが船の後方から声を上げる。
「じゃあ、逃げ道を作る?」
ベニーが即座に叫ぶ。
「作るってどういう意味!?」
「細かく聞かないほうが幸せなこともあるよ」
「聞かないともっと不幸になる気がする!」
ココが叫ぶ。
「ワイリ、やりすぎないで!」
「了解。ちょっとだけにする」
マオが呟く。
「その“ちょっと”が怖いんだよな」
レームは敵の射線を読みながら、ダッチに指示を出す。
「少しだけ左へ。倒木の影を使えます」
「船を擦るぞ」
「船体の塗装と命なら、命を選びましょう」
「ラグーン号を雑に扱うな」
「生き残ったら謝ります」
ダッチは低く唸りながら舵を切った。
船体が倒木の影に滑り込む。
銃撃の一部が遮られた。
その瞬間、レヴィが前へ出る。
「今だろ!」
バルメも同時に動いた。
「右!」
「左は任せろ!」
「誰があなたに任せたの!」
「今決めた!」
二人は左右に分かれ、敵の射線へ撃ち返した。
レヴィの動きは荒々しい。だが、ただ無茶をしているわけではない。相手に考える隙を与えず、視線を奪い、注意を自分へ集める。
バルメは逆だった。最小限の動きで位置を変え、相手の撃った瞬間を拾い、確実に圧力をかける。
噛み合わないはずの二つの動きが、奇妙に噛み合っていた。
レームが感心したように言う。
「大したもんですな。喧嘩しながら連携してる」
ダッチが答える。
「レヴィにはよくある」
「相手のほうも合わせられるのがすごい」
「そっちは初めてだ」
ルツが上方の敵を押さえる。
「上、下がった」
マオがナタワットを守りながら叫ぶ。
「博士、あんた本当に人気者だな!」
ナタワットは震えながら答えた。
「私は人気者ではない! 私は証拠だ!」
「どっちでもいい! 狙われるって意味じゃ同じだ!」
ココは床に伏せながら、ロックの近くにいた。
「ロック」
「今度は何ですか!」
「敵の撃ち方、どう思う?」
「こんな時に試験ですか!」
「あなたなら見てると思って」
ロックは息を整えながら答えた。
「殺すより、止める撃ち方です。船を動けなくして、博士と機材を奪うつもりです。ただし、あなたは殺しても構わないと思っている」
「どうして?」
「あなたの周辺への弾が一番多い。でも、機材のケースには当てていない」
ココは嬉しそうに笑った。
「やっぱり、あなたはよく見てる」
「褒められても嬉しくありません!」
「嬉しくなくても、事実よ」
その時、ワイリの“ちょっとだけ”が実行された。
川岸の一部で、白い煙と土煙が上がった。
大きな爆発ではない。だが、敵の射線を潰すには十分だった。木の葉が舞い、銃声が一瞬乱れる。
ベニーが叫ぶ。
「ちょっとって言った!」
ワイリが明るく返す。
「ちょっとだよ。大きくはない」
「君の基準で話すな!」
ダッチがその隙を逃さず、船を前へ押し出した。
「掴まれ!」
ラグーン号が濁った水を裂き、狭い川を強引に進む。
枝が船体を叩き、泥水が跳ねる。
敵の銃声は後方へ遠ざかっていく。
だが完全には消えない。
追ってきている。
レームが顔をしかめた。
「しつこいですな」
レヴィが笑う。
「いいじゃねえか。しつこい客は嫌いじゃねえ」
バルメが言う。
「私は嫌い」
「だろうな。お前、部屋もきれいそうだし」
「関係ある?」
「ある。しつこい奴は散らかる」
「その理屈なら、あなたは災害ね」
「よく言われる」
*
数十分後、銃声はようやく遠ざかった。
ラグーン号は予定の中継地点に近づいていた。
そこは川沿いの小さな船着場だった。古い木製の桟橋があり、奥には未舗装の道が伸びている。事前に手配された車両があるはずだった。
だが、桟橋には誰もいなかった。
車両も見えない。
ダッチが船を寄せながら言った。
「歓迎がねえな」
レームが双眼鏡を覗く。
「車もない。人もいない。だが、最近誰かがいた痕跡はあります」
レヴィが銃を手に取る。
「つまり、また面倒か」
ココは静かに桟橋を見る。
「予定より、相手の手が早い」
ロックが言う。
「ルートが漏れていたんですね」
「ええ」
「どこから?」
「こちら側か、相手側か、あるいは最初から全部見られていたか」
「ずいぶん冷静ですね」
「慌てても、消えた車は戻らないもの」
「でも、予定は崩れました」
「予定は崩れるためにあるのよ。大事なのは、崩れた後に何を残すか」
レヴィがうんざりした顔をする。
「また詩か」
「便利でしょ?」
「弾倉のほうが便利だ」
バルメが桟橋へ先行する。
レヴィも続こうとする。
バルメが振り返った。
「私が先」
「何でだよ」
「ココの安全確認」
「俺は俺の安全確認だ」
「あなたは安全じゃない」
「それは俺のせいじゃねえ」
「半分はあなたのせい」
「残り半分は?」
「性格」
「全部俺じゃねえか!」
ルツが小声で言う。
「漫才しながら索敵するなよ」
マオが答える。
「できてるならいいんじゃないか」
二人は桟橋へ降りた。
静かだった。
虫の音だけがする。
バルメが地面を見る。
「足跡が多い。ここで待っていた人間がいた」
レヴィが小屋の扉を蹴って開ける。
「こっちは空だ」
「勝手に開けないで」
「開けなきゃ中は見えねえ」
「罠だったら?」
「罠じゃなかった」
「結果論」
「結果が全部だろ」
バルメはため息をついた。
その時、レームが船から声をかける。
「こちらへ」
彼が見つけたのは、草むらに落ちていた弾倉だった。
レヴィが拾い上げる。
「また上等なもん使ってるな」
ロックも近づき、弾倉を見た。
「やっぱり現地の武装勢力じゃない」
ベニーが通信機と照らし合わせる。
「装備の系統が揃ってる。これ、同じ部隊だね」
ダッチが言う。
「車は?」
マオが周囲を調べて戻ってきた。
「タイヤ跡があります。持っていかれたか、移動させられたか。少なくとも、ここに残ってはいません」
ココは少し考え、すぐに言った。
「徒歩で行くには遠すぎる」
「どうする」
ダッチが問う。
「別の回収地点に向かう。少し遠回りになるけど、旧林道に予備の車両を隠してある」
レヴィが目を細める。
「用意がいいな」
「悪いと死ぬもの」
「さっきも聞いたぞ、それ」
「大事なことは何度でも言う主義なの」
ロックが静かに言った。
「その予備地点も漏れていたら?」
ココは笑った。
「その時は、その場でまた考える」
「あなたの計画は、ずいぶん即興が多いですね」
「計画とは即興を楽にするための準備よ。最初から最後まで予定通りに進む作戦なんて、机の上にしかない」
レームが頷く。
「名言ですな」
ダッチはため息をついた。
「名言で腹は膨れんし、弾も増えん」
「でも士気は上がる」
ココが言う。
レヴィが鼻で笑った。
「俺の士気は、撃つ相手がいれば勝手に上がる」
「燃費がいいのね」
「褒めてんのか」
「半分」
「残り半分は?」
「呆れてる」
「よし、いつもの調子だ」
*
ジャングルの林道は、道と呼ぶにはあまりにも頼りなかった。
ぬかるんだ土。張り出した根。倒れた枝。左右から迫る草木。湿気はさらに濃く、服の内側まで入り込んでくる。
ラグーン商会とココ部隊は、荷物を分けて運びながら進んでいた。
黒いケースは重い。
それ以上に、空気が重い。
いつ撃たれるかわからない場所を歩く時、人間は自然と無口になる。
ただし、レヴィだけは違った。
「なあ、あとどれくらいだ」
ココが振り向く。
「さっきも聞いた」
「さっきから景色が変わらねえんだよ。木、泥、虫、木、泥、虫。地獄の壁紙か?」
「自然は偉大ね」
「偉大すぎて腹が立つ」
バルメが言う。
「静かに歩いて」
「虫に言え」
「あなたの声のほうが大きい」
「虫と張り合ってんだよ」
「負けてるわ」
「本気出してねえだけだ」
ルツが苦笑する。
「元気だな」
レヴィが睨む。
「褒めてんのか?」
「半分」
「お前までそれか!」
ワイリが楽しそうに言う。
「流行ってるね、半分」
ベニーが息を切らしながら言った。
「僕の体力はもう半分以下だよ」
マオが荷物を担ぎ直す。
「技術屋は船に戻ったら筋トレしろ」
「僕はキーボードを叩く筋肉で生きてるんだ」
「その筋肉、銃弾からは逃げられないぞ」
「だから走ってるんじゃないか」
ロックはナタワットの横を歩いていた。
ナタワットは何度も足を取られ、そのたびに息を乱している。
「大丈夫ですか」
「大丈夫という言葉は嫌いになった」
「では、歩けますか」
「それも嫌いだ」
「でも歩くしかありません」
「君は優しいのか冷たいのか、わからないな」
「俺も自分ではよくわかりません」
ナタワットは小さく笑った。
「この街の人間にしては、珍しい」
「俺はまだ、この街の人間になりきれていないんでしょう」
「なりたいのか?」
ロックは答えに詰まった。
少し前を歩いていたココが振り返る。
「なりたくなくても、なる時はなるわ」
「聞いてたんですか」
「耳がいいの」
「便利ですね」
「武器商人には必要よ。人は本音ほど小さい声で言うから」
ロックは少し皮肉を込めて言った。
「あなたの本音は、いつ聞けるんですか」
ココは微笑む。
「聞こえてないだけで、私はずっと本音を言ってる」
「どれが?」
「全部」
「それは嘘でしょう」
「嘘も本音の一部よ。人は隠したいものを隠すために嘘をつく。つまり嘘には、その人が守りたいものが出る」
ナタワットが低く呟く。
「なら、君の嘘には何が出ている」
ココは彼を見る。
「世界」
「大きすぎる」
「ええ。だから困ってるの」
ナタワットは黙った。
ロックはその会話を聞きながら、背筋に冷たいものを感じていた。
ココの冗談は軽い。
だが、その軽さは深さを隠すためではない。
底が見えないから、軽く見えるのだ。
*
予備の車両は、旧林道の奥にあった。
古いトラックが二台。草木に隠され、迷彩シートをかけられている。燃料も積まれていた。
レヴィが呆れたように言う。
「本当に用意してやがった」
ココは得意げに胸を張る。
「言ったでしょ。悪いと死ぬって」
ダッチは車両を確認する。
「使える。だが、道が悪い。夜のうちにどこまで進めるかはわからん」
レームが空を見た。
「明るくなれば、上から見つかる可能性が上がる。進めるだけ進んだほうがいいでしょうな」
バルメがココに言う。
「車両は分けます。ココは私と同じ車に」
「当然ね」
レヴィが口を挟む。
「俺は?」
「あなたは別」
「何でだよ」
「同じ車に乗ると、うるさそうだから」
「お前の判断基準、だいぶ私情入ってるな」
「半分」
「またか!」
結局、先頭車両にはダッチ、レーム、ルツ、ベニー、ワイリ、荷物の一部。
後続車両にはココ、バルメ、レヴィ、ロック、マオ、ナタワット、残りの荷物が乗ることになった。
レヴィは後部座席に座り、窓の外を見た。
「最悪のドライブだな」
ココが隣で笑う。
「助手席に美女が二人もいるのに?」
「美女はいい。問題は、片方が武器商人で、もう片方が俺を殺したそうな目で見てることだ」
バルメが運転席から言う。
「殺したそうには見ていない」
「じゃあ何だ」
「黙らせたいとは思ってる」
「似たようなもんだろ」
「違う。かなり違う」
ロックが小さく言う。
「この車内、目的地に着く前に内部分裂しませんか」
マオが答える。
「しない。たぶん」
「たぶんですか」
「この面子で断言できる奴がいたら、そいつが一番信用できない」
ナタワットは座席の端で目を閉じていた。
ココが彼に声をかける。
「博士、眠ってもいいわよ」
「眠れると思うかね」
「思わない」
「なら、なぜ言う」
「優しさの練習」
レヴィが吹き出す。
「下手くそだな」
「練習中だから」
ナタワットは目を閉じたまま言った。
「君に優しさを練習される相手は、不運だ」
「かもしれない」
「君は、自分が善人ではないことを知っている」
「ええ」
「だが、悪人だとも思っていない」
「ええ」
「一番危険な人間だ」
ココは笑った。
「今日、それ何回目かしら」
ロックが答える。
「たぶん、まだ足りません」
ココは楽しそうにロックを見る。
「あなたまで言うの?」
「言います」
「理由は?」
「あなたがそれを褒め言葉として受け取るからです」
レヴィが笑う。
「ロックに一本取られたな、お嬢」
ココは肩をすくめた。
「いいチェス相手でしょ?」
「チェスってのは、こんな泥道を走りながらやるもんじゃねえだろ」
「盤面が揺れるほうが面白いわ」
トラックは暗い林道を進んだ。
ヘッドライトは最小限。エンジン音は低く抑えている。それでも、ジャングルの中では十分に目立つ。
ロックは窓の外を見た。
木々の影が流れていく。
その奥で、何かがこちらを見ているような気がした。
*
夜明け前。
二台のトラックは、ようやく一時停止した。
前方に古い橋があった。
だが、橋の中央部は落ちていた。
最近破壊されたものらしい。木材の切断面が新しく、周囲にはタイヤ跡が残っている。
ダッチが車を降り、橋を見た。
「先回りされたな」
レームが周囲を警戒しながら言う。
「橋を落として足止め。典型的ですが効果的です」
レヴィが後続車から降りる。
「で、また撃ってくるのか?」
バルメが森を見る。
「今は静かすぎる」
「静かなのは嫌いか?」
「嫌い」
「俺もだ」
ココは橋の前に立ち、地図を広げた。
「迂回路は?」
マオが覗き込む。
「南に古い林業道があります。ただし遠回りです」
レームが首を振る。
「遠回りすれば、明るくなる。上から見つかる」
ルツが森の奥を見た。
「ここで待ってた連中はいない。橋だけ落として移動したか」
ワイリが橋を見て、少し感心したように言う。
「きれいに落としてるね」
ベニーが嫌そうに見る。
「君が褒めるってことは、やっぱり爆破?」
「たぶん。悪くない仕事だよ。丁寧だけど、愛がない」
「爆破に愛を求めないでくれ」
ロックは橋の残骸を見ていた。
敵は殺しに来ているだけではない。
誘導している。
ルートを潰し、選択肢を狭め、こちらを特定の方向へ動かそうとしている。
「ココ」
「何?」
「これは足止めじゃないかもしれません」
全員がロックを見る。
「どういう意味だ」
ダッチが問う。
「橋を落とせば、俺たちは迂回するしかない。迂回路は限られている。つまり、敵はこっちの進路を選ばせようとしている」
レームが頷いた。
「誘導ですな」
ココは嬉しそうに笑った。
「正解」
ロックは彼女を見る。
「あなたも気づいていた」
「今、気づいた」
「本当に?」
「半分」
レヴィが叫ぶ。
「また半分かよ!」
ココは地図を指差す。
「でも、ロックの言う通り。南の林業道は罠の可能性が高い。だから、別の道を使う」
ダッチが眉をひそめる。
「別の道?」
「地図にはない道」
マオが嫌そうな顔をした。
「社長、その言い方はだいたい徒歩か、崖か、川です」
「今回は、川」
レヴィが空を仰ぐ。
「また水かよ」
ココは明るく言った。
「ジャングル・クルーズ、第二幕ね」
「観光気分で言うな!」
バルメが橋の向こうを見た。
「移動するなら早く。夜が明ける」
レームが頷く。
「敵の誘導を外すなら、今ですな」
ダッチはため息をつき、トラックを見る。
「車は捨てるのか」
「残念だけど」
ココが言う。
「また用意してるのか?」
「さすがに今回はないわ」
ダッチは苦笑した。
「少し安心した」
「どうして?」
「何でも用意してる奴は、何か大事なものを見落としてることが多い」
ココはその言葉を聞いて、少しだけ黙った。
「覚えておくわ」
ロックはその沈黙を見た。
彼女にも、刺さる言葉がある。
それが少し意外だった。
*
夜明けの空が、森の上で鈍く白み始めていた。
一行は荷物を担ぎ、川へ向かって移動を始めた。
濡れた草が足首を叩く。泥が靴を重くする。虫が顔の周りを飛ぶ。誰もが疲れていた。
だが、止まるわけにはいかない。
ロックは黒い通信機を見た。
あれを欲しがる者がいる。
あれを消したがる者がいる。
そしてココは、あれを使って何かをしようとしている。
それが商売なのか、破壊なのか、夢なのか。
まだわからない。
だが、少なくとも一つだけ確かなことがあった。
これは単なる輸送ではない。
ロックはココに並んで歩いた。
「あなたは、どこまで読んでいたんですか」
ココは前を向いたまま答える。
「襲撃されること」
「他には?」
「ルートが漏れていること」
「他には?」
「博士がまだ隠していること」
少し前を歩くナタワットの背中が、わずかに強張った。
ロックは低く言う。
「知っていて連れてきた?」
「知らないことを知るために、連れてきた」
「危険すぎる」
「ええ」
「あなたは、自分の部下も、俺たちも、危険に巻き込んでいる」
ココは足を止めた。
周囲の一行も、少しだけ振り返る。
ココはロックを見た。
「ロック。ひとつ、正直に言うわ」
「何ですか」
「私は危険を減らすために動いているんじゃない。危険の向きを変えるために動いている」
「それは詭弁です」
「そうかもね」
「危険の向きを変えた先にいる人間は、どうなるんです」
「それも考える」
「考えるだけですか」
「考え続ける。選び続ける。間違えたら、また選ぶ」
「それで許されると?」
ココは笑わなかった。
ただ、静かに言った。
「許されるとは思ってない」
ロックは返す言葉を失った。
その時、レヴィが二人の横を通り過ぎながら言った。
「おい、哲学の授業は後にしろ。虫にまで説教が聞こえてんぞ」
バルメも続く。
「歩いて。止まると狙われる」
レームが空を見上げる。
「夜明けですな」
木々の隙間から、白い光が差し始めていた。
その光は希望というより、隠れる場所を奪うものに見えた。
遠くで、ヘリのような低い音が聞こえた気がした。
ルツが立ち止まる。
「聞こえたか?」
マオが頷く。
「聞こえた」
ダッチが短く言う。
「急ぐぞ」
ココは前を向いた。
「廃工場まで、あと少し」
レヴィが笑う。
「そこで終わりか?」
ココは答えなかった。
代わりに、ロックが呟いた。
「たぶん、そこから始まるんだ」
ココはその言葉を聞いて、少しだけ笑った。
「やっぱり、いいチェス相手ね」
ロックは何も言わなかった。
ジャングルの奥で、朝が始まろうとしていた。
だが、その朝はロアナプラの朝と同じだった。
夜が終わったわけではない。
ただ、闇の色が変わっただけだった。