Guns & Garlands — 銃と花輪 作:たこ焼き 龍月
ロアナプラの夕方は、昼の終わりではなく夜の準備だった。太陽が低くなるにつれ、港の錆びたクレーンは黒い影になり、路地裏の看板には赤や青のネオンが灯り始める。昼間は眠そうに見えた街が、夜になるにつれて少しずつ目を開く。安酒場の扉が開き、倉庫街の奥でエンジンがかかり、誰かが誰かに嘘をつき、誰かがその嘘を金に換える。ロアナプラはそういう街だ。夜になると腐るのではない。夜になると、本来の匂いに戻る。
イエロー・フラッグは、いつもより少しだけ静かだった。店内には客がいる。酒を飲む男、カードを切る女、壁際で誰かを待つ者。だが、全員がどこか落ち着かない。理由は簡単だった。今夜、この店に三合会、ホテル・モスクワ、キャスパー・ヘクマティアル、そしてラグーン商会が集まる。普通の店なら、知らせを聞いた時点で閉店する。バオなら閉店したかった。だが、この街では、閉めた扉も撃たれれば開く。なら最初から開けておいた方が、修理費の見積もりがしやすい。
バオはカウンターの中でグラスを磨いていた。磨きすぎて、もう透明なはずのグラスに怒りが反射している。
「おい、ラグーン」
彼は入口近くの席に座るダッチたちへ向かって低く言った。
「今夜は本当に店を壊さないんだろうな」
レヴィは椅子を後ろに傾け、足をテーブルの端に乗せていた。
「俺に聞くなよ。壊す奴に聞け」
「お前が一番信用できねえんだよ!」
「ひでえな。俺は客だぞ」
「お前は災害だ!」
ベニーが端末から顔を上げずに言った。
「バオ、今回は災害の種類が多いから、レヴィだけ責めるのは不公平かも」
「何の慰めにもならねえよ!」
ロックは入口を見たまま、苦笑した。
「先に謝っておきます」
バオはロックを睨んだ。
「謝るな。謝るってことは壊れる前提だろうが」
ダッチが静かに言った。
「バオ、今夜は全員が話しに来る」
「話し合いで店が壊れた回数を数えてみろ!」
レヴィが笑う。
「多すぎて数えらんねえな」
「笑うな!」
ベニーが小さく言った。
「請求書の宛先は三つ、いや四つかな。三合会、ホテル・モスクワ、キャスパー、あと場合によっては犯人グループ」
バオはグラスを置いた。
「おい、ベニー。お前だけはまともだと思ってたのに、請求書の話を冷静にするな。怖いんだよ」
「冷静でいないと、現実を処理できないんだ」
「現実を持ち込むな!」
その時、店の外で車が止まる音がした。エンジンの低い響きが一つ、二つ、三つ。店内の空気が変わる。雑談が薄くなり、カードを切る手が少し止まり、酒のグラスを口に運んだ男が目だけを入口へ向ける。ロアナプラの人間は、危険な客の足音に敏感だ。
ドアが開いた。
最初に入ってきたのは、白い商人だった。キャスパー・ヘクマティアル。淡い色のジャケット、整った髪、柔らかな笑み。ロアナプラの汚れたネオンの下でも、彼は妙に清潔に見えた。それがかえって不気味だった。汚れを知らない人間ではない。汚れを値段に換える人間の清潔さだった。
その後ろに、四人が続いた。
チェキータ。華やかな空気をまとった女だった。歩き方は軽いが、視線は軽くない。店内を一度見回しただけで、出口、遮蔽物、銃を隠している客、逃げるふりをして近づける位置を全部見たような目をしている。笑っている。だが、その笑みは酒場のものではない。
エドガー。口数の少なそうな男だった。立ち方に無駄がない。周囲を見ているのに、見ていることを見せない。ダッチがその姿を見た瞬間、少しだけ目を細めた。兵隊上がりか、それに近い現場の人間。派手さはないが、現場で残るタイプだ。
アラン。端末を片手に、店内を面白そうに見回している。軽薄そうに見えるが、目は油断していない。誰がどこに座り、誰が誰を見ているかを笑顔の裏で拾っている。ベニーがその端末に視線を向け、嫌そうな顔をした。
そしてポー。大きい男だった。言葉より先に影が来る。店内のざわめきが、彼の一歩で半音低くなった。無表情。無口。だが、ただ立っているだけで、椅子一つ分の空間が余計に必要になる。
バオはキャスパーを見た瞬間、顔を引きつらせた。
「おい、ラグーン! 今度は何を連れてきた!」
レヴィが椅子を戻した。
「俺じゃねえ。白い兄貴の方だ」
キャスパーはにこやかにカウンターへ歩み寄った。
「失礼。できるだけ店は壊さないようにするよ」
バオの目が血走った。
「“できるだけ”って言ったな!? 今“できるだけ”って言ったな!?」
キャスパーは首を傾げる。
「完全に保証するのは、商人として不誠実だからね」
「不誠実でいいから保証しろ!」
チェキータがカウンターを見て笑った。
「いい店ね。壊れ慣れてる」
バオが叫ぶ。
「褒め言葉じゃねえだろ、それ!」
レヴィはチェキータを上から下まで見た。
「へえ。あんたがキャスパーの女番犬か」
店内の空気が、さらに一段冷えた。
チェキータはゆっくりレヴィを見た。笑みは崩れない。
「番犬じゃないわ。給料のいい猟犬よ」
「猟犬はもう間に合ってんだよ」
「あら。あなたは野良犬?」
レヴィの口元が歪んだ。
「撃つぞ」
チェキータは嬉しそうに笑った。
「噛む前に吠えるタイプね」
「吠える前に撃つタイプだ」
「便利ね。しつけが難しそう」
「誰が犬だ、誰が」
ロックは即座に立ち上がりかけた。だが、ダッチが片手で制した。
「まだだ」
「まだって言いましたね」
ベニーが小声で言う。
「その“まだ”が怖いんだけど」
キャスパーは楽しそうに二人を見ていた。
「いいね。相性が悪そうで安心した」
レヴィがキャスパーを睨む。
「どういう意味だ」
「最初から仲がいいと、後で裏切った時に面倒だろう?」
チェキータが肩をすくめた。
「ボス、そういう言い方すると、また嫌われるわよ」
「嫌われるのは慣れている」
アランが横から言った。
「慣れてるというより、好かれようとしていませんよね」
「商売相手に好かれすぎると、値引きしづらい」
「人間関係を値引き基準にしないでください」
ベニーが思わず呟いた。
「嫌な職場だな」
アランはその声を聞き逃さなかった。
「君がベニー?」
「そうだけど」
「端末の前にいると怖い顔になる人って聞いた」
ベニーは顔をしかめる。
「誰から聞いたの」
アランはキャスパーを指した。
「ボス」
キャスパーは微笑む。
「褒め言葉だよ」
「君たちの業界の人間に褒められても、全然嬉しくない」
アランは笑った。
「その返し、いいね。僕はアラン。端末も少し見るけど、君ほどではない」
「それは幸運だね」
「どういう意味?」
「同業者が増えると、責任のなすりつけ先も増えるから」
「なるほど。気が合いそうだ」
「今の会話で?」
「半分くらいは」
レヴィが遠くから怒鳴る。
「おい! その言い方禁止にしろ!」
チェキータが笑った。
「何? 嫌いなの?」
「嫌いだよ!」
「じゃあ使うわ」
「撃つぞ!」
バオがカウンターを叩いた。
「撃つな! 店内で撃つな! 会話だけで壁にヒビが入る!」
*
キャスパー一行は、ラグーン商会の席に合流した。もっとも、合流というより、各自が勝手に最も都合のいい場所を取っただけだった。キャスパーはロックの向かいに座り、チェキータはレヴィの視界に入る位置へ座った。エドガーはダッチの近くの壁際に立ち、アランはベニーの端末を覗ける距離へ滑り込んだ。ポーは少し離れた柱のそばに立った。誰も、彼に座るようには言わなかった。座られても椅子が気の毒だったからかもしれない。
ダッチはキャスパーを見た。
「よく来たな、白い商人」
「ロアナプラは久しぶりだ。相変わらず、空気が濃い」
「汚い、の間違いだ」
「汚れは濃度の一種だよ」
レヴィが横から言う。
「うわ、ムカつく言い方」
チェキータが楽しそうに頷く。
「ボスはいつもそうよ。言葉に香水をかけるの」
「香水ってより、値札だろ」
キャスパーは笑った。
「レヴィは僕のことをよくわかっているね」
「わかりたくねえよ」
ロックは本題へ入った。
「キャスパー。あなたの船で何が起きたのか、詳しく聞かせてください」
「もちろん」
キャスパーは指を組んだ。
「貨物船は、予定通りロアナプラ港へ入るはずだった。表向きの積荷は中古重機、発電機、医療物資、建設資材。裏の積荷については、この店で大声で話すには向かない」
レヴィが笑う。
「店の客、全員聞いてるぞ」
キャスパーは店内を見回した。
「聞いている客は、聞かなかったことにするだろう?」
バオが怒鳴る。
「うちは何も聞いてねえ!」
「ほら」
ロックは眉をひそめる。
「消えたものは?」
「積荷の一部。だが、本当に痛いのは取引関連データだ。買い手の名前、支払い保証、護衛契約、船積み記録、仲介者の名義。銃より静かで、銃より面倒なもの」
ベニーが言う。
「データは物理媒体?」
「一部はね。暗号化された記録媒体と、紙の保証書の束。紙は古いが、古いものほど法的には便利なことがある」
「紙の保証書……」
アランがベニーの端末を覗く。
「そこ、気になる?」
「気になる。デジタルだけなら追える。でも紙があると、誰がコピーしたかわからなくなる」
アランは頷いた。
「同感。紙は燃えるし、折れるし、隠せる。端末より人間っぽい」
「嫌な表現だね」
「僕も今そう思った」
ダッチがキャスパーへ聞いた。
「なぜロアナプラだった」
「港が便利だから」
「それだけか」
「それだけじゃない。三合会の港湾網は優秀だ。ホテル・モスクワの存在は抑止力になる。ラグーン商会は必要なら小回りが利く」
レヴィが舌打ちした。
「最初からうちを勘定に入れてたのか」
「直接頼むつもりはなかったよ」
「嘘くせえ」
「半分くらいは本当」
「だからそれやめろ!」
チェキータが笑いをこらえずに言った。
「あなた、本当にその言い方嫌いなのね」
「お前も今後言うな」
「考えておくわ。半分くらい」
「よし表出ろ」
ロックが二人の間に割って入るように言う。
「話を戻しましょう」
キャスパーは楽しそうに頷いた。
「ロックは相変わらず大変そうだ」
「あなたたちのせいです」
「僕たち?」
「今回は特にあなたです」
「それは心外だな。僕は盗まれた側だよ」
「盗まれた側でも、周囲を巻き込んでいます」
「商売は、一人では成立しないからね」
「迷惑な商売ですね」
「儲かる商売はだいたい迷惑だ」
ダッチが低く言った。
「犯人の見当は」
キャスパーは笑みを少し薄くした。
「ロアナプラ内部の小さな密輸グループが関わっている可能性が高い。ただし、彼らだけではない。誰かが外から絵を描いている」
「根拠は」
「嘘が綺麗すぎる」
エドガーが初めて口を開いた。
「現場の痕跡もそうだ。使われた倉庫は片づきすぎていた。足跡、車両跡、通信端末、全部が“消した後”の形をしていた」
ダッチはエドガーを見る。
「お前が見たのか」
「見た」
「どうだった」
「ロアナプラの現場じゃない」
「何が違う」
「汚れ方だ」
ダッチは少しだけ口元を動かした。
「いい目をしているな」
「そちらも」
レヴィが横から言う。
「何だ、地味な男同士で通じ合ってんのか」
チェキータが笑う。
「地味な男ほど長生きするのよ」
レヴィが即座に返す。
「派手な女は?」
「値段が高い」
「弾代も高そうだな」
「あなたよりは安く済ませるわ」
「撃ち合いのコスト自慢かよ」
アランがベニーに小声で言う。
「あの二人、仲悪いの?」
ベニーは端末を見ながら答えた。
「たぶん、仲が悪いという形で仲良くなってる」
「複雑だね」
「この街では単純な人間関係の方が珍しい」
ポーが柱のそばで言った。
「単純な奴から死ぬ」
ロックは思わずポーを見た。
「あなたは」
「ポー」
「ロックです」
「知ってる」
ポーはそれだけ言って黙った。
ロックは少し戸惑った。
「俺に何か?」
ポーはロックをしばらく見た。
「この街、全員が嘘をつく」
「そうですね」
「でも、嘘が下手な奴から死ぬ」
ロックは言葉に詰まった。
「……それは、ロアナプラらしい教訓ですね」
「お前は嘘が下手じゃない」
ポーは短く言った。
レヴィが笑う。
「褒められてんぞ、ロック」
ロックは苦い顔をする。
「褒め言葉に聞こえない」
ポーは何も言わなかった。
キャスパーが軽く手を叩いた。
「さて、自己紹介も済んだところで、仕事の話をしよう」
バオが叫ぶ。
「今まで仕事の話じゃなかったのかよ!」
キャスパーはバオへ微笑む。
「前菜かな」
「頼んでねえよ、そんな前菜!」
*
ベニーは端末を回し、三合会から渡された港湾許可証、ホテル・モスクワから渡された偽命令書、キャスパーから受け取った貨物船の航行ログを同じ画面に並べた。アランは隣で身を乗り出している。レヴィはそれを見て「近い」と文句を言ったが、アランは気にしなかった。
「ここ」
ベニーが画面を指す。
「三合会名義の許可証は、午前二時二十六分に出ていることになってる。でも実際の登録処理は、それより八分前に始まってる。つまり、許可証が出た時点では、すでに誰かが経路を開けていた」
アランが頷く。
「ホテル・モスクワの偽命令は?」
「午前二時三十九分。ただし下書きデータの生成時刻は一時台。こっちは先に準備されていた」
「ラグーン商会の登録は?」
「二時四十五分。これは最後。つまり、うちの名前は犯行後に残された可能性が高い」
レヴィが言う。
「名刺代わりかよ。ムカつくな」
ベニーは続ける。
「全部が倉庫街の外れに繋がってる。でも、そこは受け渡し場所というより、見せるための場所かもしれない。実際のデータは別ルートで動いた可能性が高い」
キャスパーが言う。
「その別ルートを探してほしい」
ダッチが聞く。
「報酬は」
「高く」
「具体的に」
キャスパーは楽しそうに笑った。
「張とバラライカが出す額を聞いてから」
レヴィが机を叩いた。
「全員それかよ!」
チェキータが笑った。
「商売人は似るのよ」
「似てほしくねえ連中ばっかだな」
ロックがキャスパーを見る。
「あなたは、消えたデータを全部回収したいんですか」
「当然」
「全部ですか」
「できれば」
「できれば?」
「全部が戻るとは限らない。だから、どこまで流れたかも知りたい」
「その情報も商品にする?」
キャスパーはロックをじっと見た。
「ロック。君はだんだん商売の質問をするようになったね」
「あなたにそう言われると、不安になります」
「褒めているんだよ」
「もっと不安です」
チェキータが横から言った。
「ボスに褒められたら、だいたい面倒な仕事が来るわ」
アランが頷く。
「経験則として正しいです」
エドガーも短く言った。
「正しい」
ポーも低く言った。
「正しい」
キャスパーは少し困ったように笑った。
「みんな、ひどいな」
レヴィが笑う。
「部下の信用ねえな、白い兄貴」
「信用されているから言われるんだよ」
ロックが静かに言った。
「キャスパー。あなたは、ロアナプラを市場として見ていますね」
「そうだね」
「でも、この街は商品だけで動いていません」
「知っている」
「本当に?」
キャスパーの笑みが少しだけ深くなる。
「三合会の面子、ホテル・モスクワの規律、ラグーン商会の信用、イエロー・フラッグの修理費。すべて値段にできるとは思っていないよ」
バオが叫ぶ。
「うちの修理費を混ぜるな!」
キャスパーは続ける。
「ただ、値段にできないものほど、商売に影響する。だから見る必要がある」
ダッチが言う。
「見物気分で来たなら、帰れ」
キャスパーは首を振った。
「僕は荷物を盗まれた。見物人ではない」
「なら、火を大きくするな」
「努力する」
レヴィが即座に言った。
「信用できねえ返事だ」
「だろうね」
*
店のドアが再び開いたのは、キャスパーが二杯目の酒を頼もうとした時だった。今度は三合会の者でも、ホテル・モスクワの者でもなかった。小柄な男が一人、息を切らして入ってくる。顔は青い。服は港湾労働者のもの。だが、視線が泳いでいる。バオが眉をひそめた。
「何だ、お前。店は貸し切りじゃねえが、面倒は満席だぞ」
男はカウンターまで来る前に、店内の面子に気づいた。ラグーン商会。キャスパー。チェキータたち。男の顔色がさらに悪くなる。
レヴィが椅子を引いた。
「おい、逃げんなよ」
男は本当に逃げようとした。だが、入口側にはポーが立っていた。いつの間に移動したのか、誰も見ていなかった。男はポーを見上げ、固まる。
ポーは低く言った。
「座れ」
男は座った。
キャスパーが楽しそうに目を細める。
「知り合いかな?」
ベニーが端末で男の顔を確認する。
「港湾業者リストにいる。名前は……ミン・カイ。三合会の下請け業者の一つに所属。例の倉庫区域に出入りしてる」
男は震えた。
「俺は何も知らない」
レヴィが笑う。
「言うの早すぎだろ」
チェキータが同意する。
「嘘をつくなら、もう少し泳がせた方がいいわね」
男は汗を拭う。
「本当に知らない。俺はただ、書類を運べと言われただけだ」
ロックが聞く。
「誰に?」
「知らない男だ。外の人間だ。金を渡されて、封筒を倉庫へ置けって」
ダッチが低く言う。
「その封筒が、偽の港湾許可証か」
「中身は見てない」
エドガーが短く言った。
「嘘だ」
男は肩を震わせる。
「少し見た! 少しだけだ!」
アランが端末を構える。
「誰に渡した?」
「渡してない。置いただけだ。倉庫の古いロッカーに」
ベニーが画面を操作する。
「倉庫街の外れ?」
「そうだ」
ロックは男を見た。
「なぜここへ来たんです」
男は唇を震わせた。
「俺の仲間が消えた」
店内の空気が変わった。
レヴィの表情から笑みが消える。
男は続ける。
「同じ仕事を受けた奴らが、朝から連絡が取れない。三人だ。俺も探されてる。誰かが後始末を始めてる」
張の言葉が、ロックの頭によみがえった。外の人間がロアナプラの小物を使う時、最後まで面倒を見るとは限らない。
キャスパーは静かに言った。
「誰に追われている?」
「わからない。けど、港の連中じゃない。三合会でもホテル・モスクワでもない。もっと……綺麗な奴らだ」
レヴィが舌打ちした。
「また洗剤の匂いかよ」
チェキータが立ち上がった。
「ボス」
「うん」
キャスパーは笑っていなかった。
「どうやら、前菜が終わったようだ」
ダッチは男を見る。
「今、そのロッカーに何か残っているか」
「わからない。でも、鍵は持ってる」
男は震える手で小さな鍵を出した。
ポーがそれを受け取る。
ロックはダッチを見た。
「行きますか」
ダッチは頷いた。
「張とバラライカが来る前に、現場を見ておく」
レヴィが立ち上がる。
「ようやく外か」
チェキータも同時に立つ。
「私も行く」
レヴィが睨む。
「誰が決めた」
「私」
「勝手に決めんな」
「じゃあ、あなたが決めて」
「来るな」
「却下」
「おい!」
キャスパーは楽しそうに戻りつつある笑みを浮かべた。
「二人とも、仲良く」
レヴィとチェキータが同時に言った。
「無理だ」
「無理ね」
アランがベニーの端末を覗き込む。
「僕も行く。ベニー、一緒にロッカーの中身を見る?」
「嫌だけど、見るしかない」
エドガーはダッチへ短く言った。
「車を出す」
「道はわかるか」
「港の地図は入れた」
「いい準備だ」
「必要だから」
ポーはロックの横で、鍵を見つめていた。
「この鍵」
「何か?」
「新しい」
ロックは鍵を見る。
確かに、古い倉庫のロッカーにしては鍵が新しすぎた。
ポーは言った。
「古い場所に、新しい鍵。嘘が合ってない」
ロックは頷いた。
「外の人間の嘘ですね」
「たぶん」
バオがカウンターから叫んだ。
「おい! 行くなら行け! ただし戻ってくるな!」
レヴィが笑う。
「無理だな。今夜、張とバラライカも来る」
バオの顔が真っ白になった。
「おい、聞いてねえぞ!」
キャスパーが扉へ向かいながら微笑む。
「できるだけ店は壊さないようにするよ」
バオが絶叫した。
「だから“できるだけ”って言うなあ!」
*
イエロー・フラッグの外へ出ると、ロアナプラの夜が完全に降りていた。ネオンが濡れた路面に反射し、遠くで港の汽笛が鳴る。車は二台。ダッチ、ロック、ベニー、アラン、エドガーが一台。レヴィ、チェキータ、ポー、そして震える港湾業者の男がもう一台。キャスパーは店に残った。張とバラライカが来る前に、店で待つという。待つという言葉がこれほど不穏に聞こえる人間も珍しい。
レヴィは車の前でチェキータと睨み合っていた。
「俺が運転する」
チェキータが即座に言う。
「嫌よ。あなたの運転で死にたくない」
「俺もお前の運転で死にたくねえ」
「ならポーに任せる?」
二人は同時にポーを見た。
ポーは短く言った。
「車が狭い」
レヴィは舌打ちした。
「じゃあ俺だ」
チェキータは助手席のドアを開けた。
「いいわ。あなたが事故を起こしたら、運転席から蹴り出す」
「やれるもんならやってみろ」
「楽しみね」
「お前、ほんとムカつくな」
「あなたもね」
ロックはその光景を見て、少しだけ疲れた顔をした。
「ダッチ、あの車、大丈夫ですか」
ダッチはエンジンをかけながら言った。
「走っているうちは大丈夫だろう」
「止まったら?」
「撃ち合うか、喧嘩するか、両方だ」
ベニーが後部座席で端末を抱えた。
「今日の夜、長くなりそうだね」
アランが隣で笑う。
「ロアナプラの夜は長いんだろ?」
「長いし、うるさいし、修理費が高い」
「いい街だ」
「そこに同意できる感性が怖い」
車が走り出した。
港へ向かう道は、夜の湿気を吸って黒く光っていた。ロアナプラのネオンが窓に流れ、路地の奥では誰かが笑い、誰かが怒鳴り、誰かが姿を消す。白い商人が上陸し、三合会とホテル・モスクワが動き、ラグーン商会はまたしても火種の真ん中にいる。
ロックは窓の外を見た。
今夜の会談まで、まだ少し時間がある。
だが、その前に、古い倉庫の新しい鍵が何を開けるのかを見なければならない。
ロアナプラでは、扉を開ける時に必要なのは鍵だけではない。
覚悟と、運と、撃たれない程度の嘘がいる。