Guns & Garlands — 銃と花輪 作:たこ焼き 龍月
ロアナプラの夜は、騒音に慣れている。銃声、クラクション、酔っぱらいの怒鳴り声、遠くの爆竹、割れる瓶、泣く女、笑う男。たいていの音は、街の皮膚に染みついている。だが、その夜、イエロー・フラッグの前に近づいてくる車の音は、いつもの騒音とは少し違っていた。焦っている。追われている。追っている。複数のエンジン音が、濡れた路面を削るように迫ってくる。店内の全員が、その音を聞いた。
バオはカウンターの奥で固まった。
「……来るなよ」
誰も答えなかった。
「おい、誰か来るなって言えよ!」
ポーは入口の方を見たまま、低く言った。
「来る」
バオは天井を仰いだ。
「神様、聞いてるか。俺は今、店を畳むべきだった」
張は席から立たない。茶器の横に置いた手だけが静かに止まっている。バラライカも動かない。煙草の煙が細く上がる。キャスパーはグラスを置き、笑みを少しだけ薄くした。ダッチは入口の方へ視線を向け、ベニーは端末を抱えたまま青ざめている。アランは横で画面を見ながら、妙に明るい声で言った。
「追手、二台。レヴィたちの車が先に来ますね」
ベニーは声を震わせた。
「それを明るく言う場面じゃないよ」
「暗く言っても来るものは来るから」
「嫌な合理性だな」
店の外でブレーキ音が鳴った。続いて、レヴィの怒鳴り声。
「どけ、バオ! 店の前、借りるぞ!」
バオが叫ぶ。
「貸さねえよ! 勝手に使うな!」
次の瞬間、ドアが開き、ロックが転がるように入ってきた。続いてエドガー、ケースを抱えたチェキータ、証人の男たち、最後にレヴィが入る。レヴィは振り向きざまに外を睨み、笑った。
「いいタイミングだな。客が増えるぜ」
チェキータが肩で息をしながら言う。
「あなたの運転、最悪」
「生きてるだろ」
「生きてることと、快適なことは違うわ」
「ロアナプラに快適さを求めんな」
ロックはダッチの方へケースを示した。
「確保しました。取引データの一部と思われます。証人も二人」
証人の一人が慌てて言う。
「俺たちは使われただけだ!」
レヴィが横から言った。
「それ、今日何回聞いたかな」
もう一人の証人が震える。
「本当だ! 俺たちはミスター・グレイ本人なんか知らない!」
その名を聞いた瞬間、張とバラライカの視線が少しだけ動いた。キャスパーは口元に微かな笑みを戻す。
「やはり、その名前か」
ロックが聞く。
「知っているんですね」
「噂だけならね」
キャスパーは言った。
「ミスター・グレイ。商売の境目を食う男だ。武器そのものを売るより、武器が動く時に必要な信用、保証、港、護衛、書類、紹介状を横取りする。自分の看板は立てない。いつも誰かの名前の影にいる」
バラライカが低く言う。
「他人の命令を偽る鼠か」
張が穏やかに続ける。
「他人の港を使う狐でもある」
レヴィが外へ視線を向けた。
「で、その鼠だか狐だかの犬が来てるぞ」
店の外に、追手の車が止まった。ライトが消える。ドアが開く音。足音。数は多くない。だが、動きは早い。店内の客たちは、ようやく本当にまずいと悟った者から順に床へ伏せたり、奥へ逃げたりし始めた。バオはカウンターの下から顔だけ出し、涙目で叫んだ。
「頼むから外でやれ!」
レヴィは笑った。
「努力する」
「努力じゃ足りねえんだよ!」
チェキータがケースをアランへ投げるように渡した。
「中身、見て。開けたら爆発とか、通知とか、そういう面倒なのは困るわ」
アランは受け取りながら顔をしかめた。
「投げないでくださいよ。高そうなんだから」
ベニーが隣で言う。
「高いだけならまだいい。面倒も高い」
アランはケースをテーブルに置き、ベニーと並んで確認を始めた。二人の指が画面とケースの縁を行き来する。張の部下とホテル・モスクワの兵が店内の左右に散り、キャスパーの私兵たちも自然に位置を取る。誰も命令しない。だが、全員が自分の場所を知っていた。
外から男の声がした。
「中の者へ。ケースを渡せば、これ以上の衝突は避けられる」
レヴィが叫び返した。
「嘘つけ! 避ける気ある奴は、追いかけてこねえよ!」
チェキータが横から言う。
「言葉は乱暴だけど正しいわ」
「お前に採点されたくねえ」
「七十点」
「低いな!」
ロックが入口近くに立った。ダッチが彼を止めようとする前に、ロックは声を上げた。
「あなたたちは、ミスター・グレイの部下ですか」
外の声が少し沈黙した。
「その名をどこで聞いた」
「使い捨てにした人たちが、よく喋ってくれました」
証人の男たちが震えた。
「おい、俺たちのことかよ!」
レヴィが振り返る。
「黙ってろ。今は役に立ってる」
ロックは続けた。
「三合会の名前、ホテル・モスクワの名前、ラグーン商会の名前。全部を使った。キャスパーの荷を盗んだ。ブルー・カイトという殻会社を置いた。ここまでやって、ただケースを返せと言われても、誰も納得しません」
外の男が答えた。
「そのケースは、お前たちのものではない」
キャスパーが店の奥から穏やかに言った。
「僕のものではあるよ。少なくとも、かなりの部分はね」
男は沈黙した。
張が続ける。
「この港で動いたものでもある」
バラライカも言った。
「私の名を使ったものでもある」
ダッチが煙草をくわえながら言う。
「うちの名前まで残した。だったら、全員の問題だな」
レヴィがにやりと笑った。
「おめでとう。返す相手が多すぎて、誰にも返せねえ」
外の気配が変わった。
チェキータが低く言う。
「来るわね」
エドガーが短く答える。
「来る」
ポーが一歩前へ出た。
「入口は俺が見る」
バオが震えた。
「その大きさで入口に立つと、店が狭く見えるんだよ」
ポーは答えない。
外の男たちが動いた。だが、真正面から飛び込むほど愚かではなかった。窓側へ一人、裏口側へ二人。正面にいるのは囮。店内の配置を見て、相手も正面から潰すのは無理だと判断したのだろう。ロアナプラに不慣れでも、完全な素人ではない。
張の部下が裏口へ向かう。ホテル・モスクワの兵が窓側を押さえる。レヴィは正面へ出ようとしたが、チェキータが腕を伸ばして止めた。
「待って」
「あ?」
「正面は囮」
「わかってるよ」
「わかってて行くの?」
「囮は噛みつくためにあるだろ」
「それ、犬の発想よ」
「うるせえ」
次の瞬間、窓の外で短い衝突が起きた。銃声ではなく、金属音と低い呻き声。ホテル・モスクワの兵が相手を押さえたのだろう。裏口側でも三合会の部下が動いた。店内はまだ大きく崩れていない。だが、正面の男がその隙を狙って動いた。
ポーが立ちはだかった。
男が何かを構えようとする前に、ポーは一歩前へ出た。その動きは速いというより、距離の感覚がおかしかった。大きな影が近づいたと思った時には、男の手首は押さえられ、身体は壁際に追い込まれていた。派手な音はない。必要な分だけ動き、必要な分だけ止める。男は息を呑み、床に膝をついた。
ポーは低く言った。
「座れ」
男は座った。
レヴィが呆れたように言う。
「ほんと便利だな、その一言」
チェキータが笑う。
「あなたも覚えたら?」
「俺が言ったら撃たれる」
「自覚あるのね」
「うるせえ」
バオはカウンターの下で呟いた。
「店がまだ壊れてない……奇跡か?」
ベニーが端末を見ながら言う。
「まだ安心しない方がいい」
「お前はそういうこと言うな!」
アランがケースを開けずに外部確認を終えた。
「ケースは通知型。でも開けなくても一部読める。中身は本物っぽい。キャスパーの取引関連データ、保証書の写し、護衛契約、あと……」
アランの声が止まる。
ベニーも画面を見る。
「これ、三合会とホテル・モスクワの名前だけじゃない」
ロックが聞く。
「何が入っている?」
ベニーは顔を上げた。
「ロアナプラ内の小規模ブローカー、港湾業者、密輸グループ、情報屋の名前がまとめられてる。しかも、どこが三合会寄りで、どこがホテル・モスクワを恐れているか、どこがキャスパーの商売に接触できそうか、分類されてる」
張の表情が初めて少し変わった。
バラライカの目が冷たく細くなる。
キャスパーは低く言った。
「なるほど。僕の荷だけではないね」
ダッチが煙草に火をつけた。
「ロアナプラの小物地図か」
アランが続ける。
「それだけじゃありません。旧冷凍倉庫の受け渡しは、このデータの一部を回収するためだったみたいです。ミスター・グレイは、キャスパーの取引データに、ロアナプラ内部の勢力関係を組み合わせようとしていた」
ロックは息を呑んだ。
「つまり、ロアナプラで商売するための地図を作っていた」
キャスパーが微笑む。
「僕が欲しいくらいだ」
バラライカが即座に言った。
「冗談でも欲しがるな」
「半分くらい本気だった」
レヴィが叫ぶ。
「この状況でそれ言うな!」
張は静かに言った。
「このデータは、誰か一人が持つには危険すぎるね」
バラライカが答える。
「同意する」
キャスパーは肩をすくめた。
「僕のデータも含まれているんだけどね」
「盗まれた時点で、あなただけの問題ではない」
バラライカが冷たく言うと、キャスパーは苦笑した。
「その理屈、二回目だ」
「必要なら三回言う」
張はポーに押さえられた男へ視線を向けた。
「君たちは、このデータを誰へ渡すつもりだった」
男は黙っている。
ポーが少しだけ近づく。
男はすぐに答えた。
「知らない。旧冷凍倉庫で受け取った後、指定された場所へ運ぶだけだった」
「指定された場所は?」
「港の古い税関保管庫だ」
ベニーが端末で地図を表示する。
「古い税関保管庫……今はほとんど使われてないけど、港湾倉庫群の中心に近い」
エドガーが言う。
「次の受け渡し場所か」
アランが画面を見ながら言った。
「時間は?」
男は震えながら答える。
「日付が変わる前。そこに、買い手が来る」
レヴィが笑った。
「買い手だあ?」
チェキータの目が鋭くなる。
「ミスター・グレイ本人?」
「わからない。だが、仲介人は来る。データを持っていけば、残りの金が出る」
キャスパーは静かに言った。
「ロアナプラの地図を売る気か」
張が薄く笑った。
「外の人間にしては、大きく出たね」
バラライカの声はさらに冷たくなった。
「なら、買い手ごと捕まえる」
ダッチが低く言った。
「全員が同じことを考えている顔だな」
レヴィが言う。
「今度こそ撃ち合いか」
ロックはすぐに言った。
「まず、誰が行くか決めましょう」
チェキータが笑う。
「また仕切るのね、交渉係」
「仕切らないと、全員が同時に動きます」
「それはそれで面白いわ」
「面白くありません」
張は穏やかに言った。
「ロックの言う通りだ。全員が動けば、買い手は逃げる」
バラライカが言う。
「だが、動かないわけにはいかん」
キャスパーが続ける。
「僕も行きたいところだけど、今行くと目立ちすぎるかな」
レヴィが鼻で笑う。
「自覚あんのか」
「僕はわりと目立つ」
「その白い服やめろ」
「似合うだろう?」
「ムカつくほどな」
ポーが低く言った。
「税関保管庫は罠だ」
全員の視線がポーに集まった。
ロックが聞く。
「なぜそう思うんですか」
ポーは押さえていた男から手を離し、男を張の部下へ引き渡した。男は逃げなかった。逃げられないことを理解していた。
ポーはテーブルに置かれたケースを見た。
「ケースは本物。でも全部じゃない」
アランが頷く。
「たしかに、一部だけです」
「一部だけをわざと取らせた」
ベニーが眉をひそめる。
「わざと?」
ポーは続けた。
「追わせるためだ。倉庫、ロッカー、冷凍倉庫、ケース。全部、次を指している。きれいすぎる」
ロックは息を呑んだ。
「税関保管庫も、見つけさせるための場所」
「たぶん」
張は静かに頷いた。
「面白いね。ロアナプラの嘘なら、もっと余計なものが混じる。酒、金、女、借金、個人的な恨み。だが、これは線がまっすぐすぎる」
バラライカが言う。
「軍の作戦でも、ここまでまっすぐなら疑う」
キャスパーはポーを見た。
「では、ポー。君ならどこを見る?」
ポーは少し沈黙した。
それから言った。
「保管庫の外」
ロックが聞く。
「中ではなく?」
「買い手を見る場所。逃げる道。見張る場所。嘘を置く場所じゃなく、嘘を見る場所」
ダッチは煙を吐いた。
「いいな」
エドガーも頷く。
「同意する」
レヴィが言う。
「で、結局どこだよ」
ポーはベニーの地図に近づき、指で一か所を示した。古い税関保管庫の裏手。今は使われていない貨物監視塔と、その下に広がる小さな駐車区画。そこからなら、保管庫の正面、裏口、海側の搬入口が見える。
「ここ」
ベニーが画面を拡大する。
「古い監視塔……たしかに視界が広い。通信設備は死んでるけど、高さがある。見張りにはいい」
アランが言う。
「しかも、古い保管庫へ向かう全員を観察できる」
キャスパーが微笑む。
「ポー、君は本当にいい目をしている」
ポーは答えない。
レヴィが横から言った。
「でかいだけじゃねえんだな」
ポーは短く返した。
「お前はうるさいだけじゃない」
レヴィは一瞬黙り、それから笑った。
「気に入ったぜ、でかいの」
チェキータが呆れたように言う。
「今ので?」
「褒め方がわかってる」
「変な人たち」
ロックはポーへ言った。
「ポー、少し話せますか」
ポーはロックを見た。
「今?」
「今です」
ポーは頷いた。
*
店の外、イエロー・フラッグの脇の路地に、二人は立った。店内ではまだ議論が続いている。張、バラライカ、キャスパー、ダッチ。あの四人が同じ場所で話しているだけで、店の壁が少し緊張しているように感じる。路地には湿った風が通り、遠くで港の音が聞こえた。
ロックはポーを見上げる形になった。近くで見ると、彼はやはり大きい。だが、威圧感だけの男ではない。目が静かだった。何かを見ている。人の動きだけではなく、場の歪みを見ているような目だ。
「あなたは、ずっと“この街の嘘じゃない”と言っていますね」
ポーは頷く。
「なぜ、そんなにわかるんですか」
「見てきた」
「どこで」
ポーは少し黙った。
「いろいろ」
ロックはそれ以上深く聞かなかった。聞かれたくない過去は、この街には多い。ロアナプラにいる者ならなおさらだ。
ポーはゆっくり話し始めた。
「ロアナプラの嘘は、汚い」
「それは前にも聞きました」
「汚い嘘は、生きている」
ロックは黙って聞いた。
「借金を隠す嘘。仲間を逃がす嘘。裏切りを隠す嘘。怖くないふりをする嘘。全部、匂いがある。余計なものが混じる」
「今回の嘘には、それがない」
「ない。まっすぐすぎる。人を動かすためだけの嘘だ」
ロックは少しだけ目を伏せた。
「街を道具にしている」
ポーは頷いた。
「外の人間は、街を地図で見る。誰がどこにいて、どこと繋がっているか。線で見る」
「ロアナプラの人間は?」
「線の下にある泥を見る」
ロックは小さく息を吐いた。
「それが見えない人間が、今回の線を引いた」
「そう」
「ミスター・グレイ」
「名前はどうでもいい」
ロックはポーを見る。
「どうでもいい?」
「名前は変えられる。匂いは変えにくい」
ロックは少しだけ笑った。
「犬みたいなことを言いますね」
ポーは真顔で答えた。
「チェキータに言うな」
ロックは思わず笑った。
「言いません」
少しだけ空気が緩んだ。
ポーは港の方を見た。
「ロック」
「はい」
「お前は、この街の嘘を覚えてきた」
「褒めていますか」
「半分」
ロックは苦笑した。
「その言い方、レヴィが嫌がります」
「知ってる」
「わざとですか」
「少し」
ポーの口元は動かなかったが、ほんの少しだけ笑っているように見えた。
ロックは路地の奥を見た。
「税関保管庫には行くことになりますね」
「行く」
「罠でも」
「罠を見るために行く」
「誰が、嘘を見ている場所を押さえるか」
「そこが本当」
ロックは頷いた。
「わかりました。みんなに伝えます」
ポーは短く言った。
「急げ」
その時、店内からバオの怒鳴り声が聞こえた。
「だから俺の店で作戦会議するなあ!」
レヴィの声も続く。
「うるせえな、もう壊れてねえんだからいいだろ!」
チェキータの声。
「まだ、ね」
バオの悲鳴。
「まだって言うなあ!」
ロックは少し笑い、それからすぐに真顔に戻った。
次の場所は、古い税関保管庫。
だが、本当に見るべきなのは中ではない。
その外で、誰がロアナプラを地図のように眺めているのか。
ポーが見たものは、証拠ではない。
嘘の形だった。
そして、その嘘はロアナプラのものではなかった。