Guns & Garlands — 銃と花輪   作:たこ焼き 龍月

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第八章 港湾倉庫の三つ巴

 

 ロアナプラの港には、使われなくなった建物が多い。古い税関保管庫も、その一つだった。かつては書類と荷物と役人のために使われていた場所だ。今では窓の半分が割れ、壁には塩気を含んだ風が染み込み、看板の文字は読めるか読めないかの境目まで薄れている。だが、完全に死んだ場所ではない。ロアナプラでは、死んだ建物ほどよく使われる。誰も使っていないことになっている場所は、誰かが使うには都合がいい。記録が古く、責任が曖昧で、夜になれば人の目も減る。そういう場所には、金と嘘と銃声が自然に集まる。

 

 イエロー・フラッグを出る前、店内ではまだ揉めていた。張、バラライカ、キャスパー、ダッチ。四人が同じ卓に残り、ベニーとアランが端末を挟んで旧税関保管庫周辺の地図を広げている。ポーが示した古い貨物監視塔は、保管庫の裏手にあった。高さは大したことがない。だが、保管庫正面、裏口、海側搬入口、そして駐車区画をすべて見渡せる位置にある。もし誰かが保管庫を罠として使うなら、そこは最適な観測点だった。

 

 バラライカは地図を見ながら言った。

 

「保管庫そのものを囮にして、監視塔から全体を見る。悪くない読みだ」

 

 張は静かに頷く。

 

「ロアナプラの人間なら、まず保管庫の中を見る。だから外から来た人間は、外で待つ」

 

 キャスパーはグラスを回していた。

 

「ミスター・グレイらしい。人を動かして、動いた人間を見る。商売人としては嫌いではないよ」

 

 バラライカの視線が冷たく飛ぶ。

 

「褒めている場合か」

 

「敵を低く見ると、値段を間違える」

 

「値段の話ではない」

 

「僕にとっては、たいてい値段の話だ」

 

 張が薄く笑った。

 

「だから、あなたは嫌われる」

 

 キャスパーは肩をすくめた。

 

「商人は好かれるより、覚えられる方が大事だ」

 

 レヴィが横から言った。

 

「覚えられ方にも限度があんだろ、白い兄貴」

 

 チェキータがその隣で笑う。

 

「あなたも似たような覚えられ方をしているわよ」

 

「あ?」

 

「騒音と弾痕で」

 

「褒めてんのか?」

 

「半分くらい」

 

「だからその言い方をやめろ!」

 

 バオがカウンターの下から顔を出した。

 

「頼むから出ていくなら早く出ていけ! ここで作戦会議するな! 俺の店は軍令部じゃねえ!」

 

 ダッチは煙草をくわえたまま言った。

 

「バオ、もう少しだけ場所を借りる」

 

「借りるって言葉はな、普通、貸す側の同意がいるんだよ!」

 

 ベニーが申し訳なさそうに手を上げた。

 

「本当にすぐ終わるから」

 

「お前らの“すぐ”で終わったことがあるか!」

 

 アランが小声でベニーに言う。

 

「店主、正しいですね」

 

「うん。完全に正しい」

 

「じゃあどうして続けるんです?」

 

「現実は正しい人に優しくないからだよ」

 

「ロアナプラらしい名言ですね」

 

「嬉しくない」

 

 ロックは地図を見た。保管庫へ全員で行けば目立ちすぎる。かといって、少人数だけでは罠にはまる可能性が高い。三合会もホテル・モスクワもキャスパーも、自分たちだけが外されることを嫌がる。つまり、最初から面倒な答えしか残っていなかった。

 

「三つに分けましょう」

 

 ロックが言うと、全員の視線が集まった。

 

 レヴィが眉を上げる。

 

「また仕切る気かよ、交渉係」

 

「仕切らないと、全員が同じ入口から入ります」

 

 チェキータが笑う。

 

「それはそれで、相手が驚くわね」

 

「その後で撃ち合いになります」

 

「それもそれで」

 

「やめてください」

 

 張が言った。

 

「聞こう、ロック」

 

 ロックは地図を指した。

 

「第一班は保管庫の正面へ。わざと相手に見えるように入ります。そこに受け渡し役がいるなら確認する。第二班は裏口と海側搬入口を押さえる。逃げ道を塞ぎます。第三班は監視塔を見る。ポーの言う通り、本命がそこにいる可能性が高い」

 

 バラライカが言う。

 

「誰をどこへ置く」

 

「正面班は俺、レヴィ、チェキータ。見える場所で動く必要があります」

 

 レヴィがにやりと笑う。

 

「派手に行けってことか」

 

「派手すぎないように」

 

「注文が多いな」

 

 チェキータが肩をすくめる。

 

「私は派手でも上品よ」

 

 レヴィが鼻で笑う。

 

「自分で言うな」

 

「あなたは派手で下品」

 

「撃つぞ」

 

「ほら、下品」

 

 ロックは二人を無視して続けた。

 

「裏口と海側は、エドガー、ホテル・モスクワの人、三合会の人。逃げ道を塞いでください。監視塔はポー、あと……」

 

 ロックは少し迷った。

 

「ダッチ、行けますか」

 

 ダッチは煙草を灰皿に置いた。

 

「俺か」

 

「監視塔が本命なら、そこで判断できる人が必要です。ポーの目と、ダッチの現場読みが欲しい」

 

 張が微笑んだ。

 

「いい配置だ」

 

 バラライカも否定しない。

 

 キャスパーはポーを見る。

 

「ポー、どう?」

 

 ポーは短く答えた。

 

「行く」

 

 ダッチも頷いた。

 

「なら、行こう」

 

 ベニーが端末を抱えたまま言う。

 

「僕とアランはここで通信とデータを見る。ケースの中身も開けずに可能な範囲で読む。開けると通知が飛ぶ可能性があるから、無理はしない」

 

 アランが片手を上げた。

 

「僕も同意。無理はしない。危ない箱を急かす人は嫌いです」

 

 レヴィが言う。

 

「俺を見て言うな」

 

「見て言いました」

 

「いい度胸だな」

 

 チェキータが笑う。

 

「アランにまで嫌われてるわよ」

 

「お前もだろ」

 

「私は好かれてるわ」

 

 アランは即座に言った。

 

「半分くらい」

 

 レヴィが天井を仰いだ。

 

「この言葉、世界から消えてくれ」

 

 張が静かに立ち上がった。

 

「では、始めよう。時間をかけすぎると、相手も動く」

 

 バラライカも立つ。

 

「保管庫には私の部下も出す。だが、指揮は現場で揉めるな」

 

 キャスパーが言う。

 

「僕の人間も同じだ。チェキータ、エドガー、ポー。必要なら撃つ。でも、できれば喋れる相手を残して」

 

 チェキータが笑う。

 

「できれば、ね」

 

 レヴィが睨む。

 

「お前も言うな」

 

 バオが最後に叫んだ。

 

「お前ら全員、帰ってくる時は店の外で泥を落とせ! 血とか火薬とか厄介事とか、全部だ!」

 

 レヴィは振り返って笑った。

 

「厄介事は落ちねえよ」

 

「落としてこい!」

 

     *

 

 古い税関保管庫へ向かう車は、三台に分かれた。正面班の車はレヴィが運転した。助手席にチェキータ、後部座席にロック。三人だけの車内は、旧冷凍倉庫へ向かう時よりさらに悪かった。なぜなら、エドガーという短い沈黙の重しがいなかったからだ。

 

「あなた、また運転するのね」

 

 チェキータが言った。

 

「文句があるなら歩け」

 

「歩いた方が長生きできそう」

 

「お前、さっきも似たようなこと言ったぞ」

 

「あなたの運転が改善されないからよ」

 

「改善ってのは、悪いもんに使う言葉だ」

 

「そうね」

 

「納得すんな」

 

 ロックは後ろから言った。

 

「二人とも、保管庫へ着く前に疲れないでください」

 

 レヴィがミラー越しにロックを見る。

 

「お前が一番疲れた顔してるぞ」

 

「疲れています」

 

 チェキータが笑う。

 

「正直ね」

 

「この車内で嘘をつく余裕がありません」

 

「かわいそうに。レヴィと同じ車に乗ると、人は正直になるのね」

 

「お前も乗ってんだろ」

 

「私は強いから平気」

 

「その自信、どっから来んだよ」

 

「給料」

 

「金かよ」

 

「給料のいい猟犬だって言ったでしょ」

 

 ロックは窓の外を見た。港の奥へ進むにつれ、建物は古くなり、人通りは減り、灯りはまばらになっていく。保管庫の周辺には、かつて港湾管理が今より真面目だった時代の名残がある。古い柵、使われなくなった検査台、読み取れない掲示板。そこに今夜、ロアナプラの裏側と外のブローカーの嘘が交差する。

 

「ロック」

 

 チェキータが急に言った。

 

「はい」

 

「あなた、本当に撃つ前に話すのね」

 

「状況によります」

 

「今夜も?」

 

「できれば」

 

「できれば、ね」

 

 レヴィが嫌そうに言う。

 

「その言葉、もう呪いだな」

 

 チェキータはロックへ続ける。

 

「でも、話して止まる相手ばかりじゃないわ」

 

「知っています」

 

「知っていても、話す?」

 

「話さないと、撃った後で何も残らないことがあります」

 

 レヴィが少し黙った。

 

 チェキータもロックを見る。

 

「あなた、変な人ね」

 

「よく言われます」

 

「ロアナプラで変って言われるの、かなりよ」

 

「それも、よく言われます」

 

 レヴィが煙草をくわえたまま言った。

 

「こいつは変だよ。昔はもっと普通だった」

 

 ロックは苦笑する。

 

「普通だったか?」

 

「ああ。普通にムカつく日本人だった」

 

「今は?」

 

「ロアナプラ産の面倒くさい奴」

 

 チェキータが笑った。

 

「それ、褒めてるの?」

 

 レヴィは少し考えた。

 

「半分くらい」

 

 自分で言った瞬間、レヴィは顔をしかめた。

 

「ああ、最悪だ。移った」

 

 チェキータは大笑いした。

 

     *

 

 裏口班は別ルートで動いていた。エドガーを中心に、ホテル・モスクワの兵と三合会の部下が一人ずつ。互いに名前もろくに呼ばない。だが、歩く距離、止まる位置、角を見る順番は自然に揃っていた。職業が違っても、危険な場所で生きる人間の動きには共通点がある。無駄に喋らない。無駄に走らない。無駄に相手を信用しない。

 

 三合会の部下が小声で言った。

 

「保管庫の裏口、開いています」

 

 ホテル・モスクワの兵が答える。

 

「罠か」

 

 エドガーが短く言う。

 

「見せるためだ」

 

「入るか」

 

「まだ」

 

 彼らは裏口を見張りながら、海側搬入口へ回った。古い扉の下に、新しいタイヤの跡がある。ロアナプラの港の汚れにしては、線がまっすぐすぎる。エドガーはそれを見て、ポーの言葉を思い出した。嘘がきれいすぎる。汚れ方が違う。

 

「ここを使った」

 

 エドガーが言う。

 

 三合会の部下が頷いた。

 

「中へ荷物を入れたか、出したか」

 

 ホテル・モスクワの兵が扉へ耳を寄せる。

 

「中に人の気配。少数」

 

 エドガーは通信を入れた。

 

「裏口班。保管庫内に人の気配。海側に車両跡。正面班、注意」

 

 レヴィの声が返る。

 

『了解。正面から入る』

 

 エドガーは短く言った。

 

「暴れるな」

 

『注文が多いな!』

 

 チェキータの声が割り込む。

 

『こちらで調整するわ』

 

『誰が調整される側だ!』

 

 エドガーは通信を切った。

 

 ホテル・モスクワの兵が低く言う。

 

「騒がしい」

 

 エドガーは答えた。

 

「だが動く」

 

 三合会の部下が少し笑った。

 

「ロアナプラらしいですね」

 

 エドガーは短く言った。

 

「たぶん」

 

     *

 

 監視塔へ向かうダッチとポーは、港の暗がりを歩いていた。監視塔は保管庫の裏手にある古い鉄骨の建物だった。階段は錆びているが、まだ使える。上まで登れば、保管庫全体と周囲の道路が見える。そこへ向かう途中、ポーは何度か立ち止まり、地面や壁を見た。ダッチは急かさなかった。ポーが何かを見ていることはわかったからだ。

 

「何が見える」

 

 ダッチが聞く。

 

 ポーは地面を指した。

 

「靴跡」

 

「新しいか」

 

「新しい。だが少ない」

 

「少ない?」

 

「見張りの人数より少ない」

 

 ダッチはしゃがみ込み、地面を見た。薄い砂と油の上に残る靴跡。たしかに、複数人が長くいた場所にしては少ない。

 

「一人か二人が、何度も動いて見せた」

 

 ポーが言う。

 

「人数を多く見せるためか」

 

「たぶん」

 

 ダッチは煙草を取り出しかけて、やめた。

 

「監視塔も囮かもしれん」

 

 ポーは頷く。

 

「でも、見る価値はある」

 

「だな」

 

 二人は階段を登った。鉄骨が小さく軋む。夜風が吹き、港の匂いが上がってくる。上に近づくほど、保管庫の全体が見えてきた。正面にはレヴィたちの車が近づいている。裏口側にはエドガーたちの影。保管庫の屋根の向こうには海側搬入口。さらに離れた場所には、使われていない駐車区画がある。

 

 監視塔の上には、誰もいなかった。

 

 ただ、床に小型の三脚、古い双眼鏡、使い捨ての通信端末、そして灰皿代わりに使われた空き缶があった。

 

 ダッチは端末を見た。

 

「置いていったか」

 

 ポーは空き缶を拾わず、覗き込んだ。

 

「吸い殻がない」

 

「灰皿なのに?」

 

「見せるため」

 

 ダッチは小さく笑った。

 

「徹底してるな」

 

 ポーは監視塔から周囲を見渡した。そして、保管庫ではなく、少し離れた古いクレーンの根元を見る。

 

「ダッチ」

 

「何だ」

 

「あそこ」

 

 ダッチはポーの視線を追った。古いクレーンの影。そこに停まっている小型車両が一台。ライトは消えている。人影は見えない。だが、保管庫、監視塔、駐車区画のすべてを斜めから見られる位置にある。

 

「さらに外か」

 

 ポーは頷いた。

 

「嘘を見る場所を、さらに見る場所」

 

 ダッチは低く言った。

 

「入れ子だな」

 

「外の人間の嘘」

 

 ダッチは通信を入れた。

 

「こちらダッチ。監視塔は空だ。だが、本命らしい車両を確認。古いクレーン根元、保管庫から北西。ライトなし。全班、警戒」

 

 ロックの声が返る。

 

『了解。正面班、もうすぐ入ります』

 

 レヴィの声も入る。

 

『見えてんなら、そっち行くか?』

 

「まだ動くな」

 

『全員そればっかだな!』

 

 ダッチは通信を切り、ポーを見る。

 

「行くぞ」

 

 ポーは頷いた。

 

     *

 

 古い税関保管庫の正面扉は、半分開いていた。中には灯りがある。わざとらしいほどに薄い灯りだ。見つけてください、と言っているような光だった。レヴィはその前で舌打ちした。

 

「罠の見本市だな」

 

 チェキータが言う。

 

「入り口が開いていて、灯りがあって、中に人の気配。親切すぎるわ」

 

 ロックは息を整える。

 

「中にいるのは、本命ではない可能性が高いです」

 

「だからって放っとくのか?」

 

「いいえ。話を聞きます」

 

 レヴィはにやりと笑う。

 

「まず話かよ」

 

「まず話です」

 

 チェキータがロックを見る。

 

「あなた、ほんと頑固ね」

 

「そうですか」

 

「ええ。レヴィとは違う方向に」

 

 レヴィが言う。

 

「俺は頑固じゃねえ」

 

「あなたは頑固というより、直進」

 

「褒めてんのか?」

 

「半分」

 

「言うと思ったよ!」

 

 ロックは扉の前に立ち、声を上げた。

 

「中の人、聞こえますか。ラグーン商会です。話をしましょう」

 

 中から男の声が返った。

 

「ケースを持ってきたか」

 

「持っています」

 

 レヴィが小声で言う。

 

「持ってねえだろ」

 

「嘘も交渉です」

 

 チェキータが楽しそうに囁く。

 

「いいじゃない」

 

 ロックは続けた。

 

「あなたたちはミスター・グレイの代理ですか」

 

 中の男は少し沈黙した。

 

「名前を出すな」

 

「では、そうなんですね」

 

「ケースを置いて出ていけ。そうすれば、今夜は終わる」

 

 レヴィが笑いを噛み殺す。

 

「雑だな」

 

 チェキータも小声で言う。

 

「雑ね」

 

 ロックは扉の隙間から中を見る。古い検査台の近くに男が二人。片方は端末、もう片方は小型の鞄。奥にも影がある。だが、配置が変だった。守っているというより、見せている。自分たちが重要人物であるように見せるための立ち位置。

 

「終わりません」

 

 ロックは言った。

 

「三合会の名前を使った。ホテル・モスクワの名前を使った。キャスパーのデータを盗んだ。ラグーン商会の名前も残した。今さら、ケースを置いて終わりにはできません」

 

 男が苛立った声を出す。

 

「お前に決める権利はない」

 

「俺にだけはありません」

 

「何?」

 

「だから、全員来ています」

 

 その瞬間、保管庫の奥の男が動いた。外から裏口班が入る音が聞こえたのだろう。エドガーたちが海側と裏口を押さえ始めた。中の男たちが慌てる。レヴィはそれを見て笑った。

 

「はい、話し合い終了か?」

 

 ロックは言う。

 

「まだです」

 

「しぶてえな!」

 

 男の一人が端末へ手を伸ばす。チェキータが前へ出た。

 

「その手、止めた方がいいわ」

 

「動くな!」

 

 男が叫ぶ。

 

 レヴィが銃を向ける。

 

「お前がな」

 

 短い沈黙。古い保管庫の中で、全員の呼吸が止まる。外から遠くの港の音が聞こえる。状況は崩れかけているが、まだ完全には崩れていない。ロックはその隙間に言葉を差し込んだ。

 

「あなたたちは使われています。旧冷凍倉庫の人たちと同じです。保管庫へ来れば本命だと思わせる役。監視塔へ目を向けさせる役。そして、その外から、誰かがあなたたちを見ている」

 

 男の顔がわずかに変わった。

 

 チェキータがそれを見た。

 

「知らされていないのね」

 

 レヴィが言う。

 

「かわいそうに。外のボスは部下に優しくねえな」

 

 男は叫んだ。

 

「黙れ!」

 

 その叫びと同時に、外でエンジン音が響いた。ダッチが見つけた古いクレーン根元の車両が動いたのだ。

 

 通信にダッチの声が入る。

 

『本命が動いた。古いクレーン側から逃げる。ポーと追う』

 

 ロックは即座に言った。

 

「保管庫内の人間を確保。レヴィ、チェキータ、本命を追います」

 

 レヴィは待ってましたと言わんばかりに笑った。

 

「ようやくか!」

 

 チェキータも動く。

 

「行くわよ、野良犬」

 

「誰がだ!」

 

 エドガーが裏口側から入ってきた。

 

「中は任せろ」

 

 ロックは頷いた。

 

「お願いします!」

 

     *

 

 古いクレーン根元から逃げた車両は、小型だが速かった。港湾道路の裏を抜け、コンテナ置き場の影へ入ろうとしている。ダッチとポーは監視塔から降り、近くに停めていた車で追い始めた。そこへ正面班の車も合流する。レヴィが運転席へ飛び込み、チェキータが助手席へ乗る。ロックは後部座席へ身体を滑り込ませた。

 

「またこの組み合わせですか!」

 

 ロックが言う。

 

 レヴィがエンジンをかける。

 

「文句言うな!」

 

 チェキータが窓の外を見ながら言う。

 

「右、港湾道路へ抜けるわ」

 

「見えてる!」

 

「見えてるならもっと綺麗に曲がって」

 

「これが綺麗なんだよ!」

 

「あなたの美的感覚、壊れてるわ」

 

「お前の香水よりマシだ!」

 

 ロックは座席につかまりながら叫んだ。

 

「二人とも、今は追跡中です!」

 

 チェキータが振り返らずに答える。

 

「ちゃんと追ってるわ」

 

 レヴィも言う。

 

「逃げられてねえだろ!」

 

「会話がうるさすぎます!」

 

 前方で逃走車両が急に左へ切った。古いコンテナの間へ入る道だ。レヴィも躊躇なくハンドルを切る。車体が大きく揺れ、ロックは肩を窓にぶつけそうになった。

 

「レヴィ!」

 

「生きてんだろ!」

 

「そればかりですね!」

 

 チェキータは前方を見ながら言った。

 

「あの車、港の外へ出る気がないわ」

 

 レヴィが目を細める。

 

「何?」

 

「逃げてるようで、誘導してる。右側、見て」

 

 ロックが窓の外を見る。コンテナの間に、人影が一瞬見えた。複数。逃走車両の援護か、それとも別の罠か。

 

 ダッチの通信が入る。

 

『レヴィ、前に出すぎるな。横に影がいる』

 

 レヴィが舌打ちする。

 

「見えてるっての!」

 

 チェキータが即座に言った。

 

「見えてるなら速度落として」

 

「落としたら逃げる」

 

「落とさないと囲まれる」

 

「だったら囲まれる前に抜ける」

 

「単純ね」

 

「今はその単純さが売りだ!」

 

 レヴィはアクセルを踏み込んだ。逃走車両との距離が詰まる。だが、その瞬間、横のコンテナ影から一台の小型車が飛び出そうとした。チェキータが先に気づく。

 

「左!」

 

 レヴィは反射的にハンドルを切る。車体が滑り、左からの車両は鼻先を掠めるように通り過ぎた。ロックは息を呑む。チェキータはその間に相手車両の動きを見ていた。

 

「今の、ぶつける気はなかった」

 

 レヴィが言う。

 

「邪魔する気だろ」

 

「いいえ。こっちの進路を狭めて、逃走車両を見失わせるため」

 

 ロックが言った。

 

「つまり、本命はまだ逃げている」

 

「そう」

 

 チェキータは前方を指した。

 

「右の古い税関桟橋へ出るわ。あそこから小型艇に乗り換えるつもりかも」

 

 レヴィが笑った。

 

「いいね。港らしくなってきた」

 

「楽しそうね」

 

「お前もな」

 

「半分くらい」

 

「もう突っ込まねえぞ!」

 

     *

 

 その頃、保管庫ではエドガーたちが中の男たちを確保していた。三合会の部下が一人の腕を押さえ、ホテル・モスクワの兵がもう一人を壁際に追い込む。エドガーは検査台の上に置かれた端末と鞄を確認した。鞄の中には現金の束と、空の記録媒体が数本。受け渡しの形だけを作るための道具だった。

 

「本命ではない」

 

 エドガーが言う。

 

 三合会の部下が頷いた。

 

「やはり囮ですか」

 

「だが喋る」

 

 ホテル・モスクワの兵が男の一人に言った。

 

「誰が監視塔を指定した」

 

 男は唇を噛む。

 

「知らない。指示は端末に来た」

 

「誰から」

 

「ミスター・グレイの仲介人だ。声だけだ」

 

 エドガーは男の端末を拾い、通信をベニーへ繋いだ。

 

「ベニー、端末を送る」

 

『了解。こっちで見る。できれば壊さずに』

 

「壊していない」

 

『助かる。レヴィとは違う』

 

 通信越しにレヴィの声が遠くで怒鳴った。

 

『聞こえてんぞ!』

 

 エドガーは気にしなかった。

 

 端末の中には、短い指示が残っていた。保管庫で待機。ケースを受け取る。旧冷凍倉庫から来る者を確認。監視塔へ視線を向けさせる。時間稼ぎをする。最後の一文だけが妙に冷たかった。

 

 **必要なら現場を捨てろ。人員も含む。**

 

 エドガーはそれを読み、表情を変えなかった。

 

「使い捨てだ」

 

 三合会の部下が低く言う。

 

「ロアナプラでも珍しくはないが、これは外のやり方ですね」

 

 ホテル・モスクワの兵が答えた。

 

「兵の捨て方を知らない者の命令だ」

 

 エドガーは頷いた。

 

「戻るぞ。ここはもう空だ」

 

     *

 

 逃走車両は、古い税関桟橋へ向かっていた。桟橋には小型艇が一隻、エンジンをかけたまま待っている。レヴィはそれを見て笑った。

 

「船かよ。港らしいな!」

 

 ロックは通信を入れる。

 

「逃走車両、小型艇へ向かっています!」

 

 ダッチの声が返る。

 

『挟む。ポーと俺が桟橋側へ回る』

 

 チェキータが言う。

 

「間に合う?」

 

 ダッチは短く答えた。

 

『間に合わせる』

 

 レヴィが言う。

 

「渋いねえ」

 

 チェキータが前方を見た。

 

「感心してる場合じゃない。車が止まる」

 

 逃走車両が桟橋前で急停車した。中から男が二人降りる。一人は小型ケースを持っている。もう一人は周囲を確認しながら桟橋へ走る。ロックはそれを見て、息を呑んだ。

 

「あれが本命のデータかもしれない」

 

 レヴィが車を横付けする。

 

「じゃあ止める!」

 

 ロックが叫ぶ。

 

「喋れる状態で!」

 

「わかってるって!」

 

 車が止まるより早く、レヴィが飛び出した。チェキータも反対側から降りる。二人は左右に分かれ、桟橋へ向かう男たちを挟むように動いた。ケースを持つ男は一瞬迷った。右にはレヴィ、左にはチェキータ。後ろにはロック。前には小型艇。選択肢はあるようで、どれも悪い。

 

 男がケースを小型艇へ投げようとした。

 

 その瞬間、ポーが桟橋の先に現れた。

 

 どうやってそこへ先回りしたのか、ロックにはわからなかった。ダッチも少し後ろにいる。ポーは小型艇の前に立ち、低く言った。

 

「置け」

 

 男は止まった。

 

 レヴィが笑う。

 

「ほんと便利だな!」

 

 チェキータが男の背後に回る。

 

「ケースを投げるなら、あなたも海に落ちるわよ」

 

 男は歯を食いしばる。

 

「お前たち、何もわかっていない」

 

 ロックが息を切らしながら近づいた。

 

「何がですか」

 

「グレイはもう見ている。ここで止めても遅い。ロアナプラの地図は、もう売れる」

 

 張、バラライカ、キャスパー。ロアナプラの勢力図。港湾網。小物たちの分類。すべてが誰かの手で外へ流れようとしている。

 

 ロックは言った。

 

「それでも、ここで止めます」

 

 男は笑った。

 

「誰に渡す? 三合会か? ホテル・モスクワか? 白い商人か? ラグーン商会か? 誰が持っても、別の奴が疑う。お前たちはもう互いを疑う」

 

 チェキータが静かに言った。

 

「よく喋るわね」

 

 男は続ける。

 

「ロアナプラは最初から割れている。少し押せば、勝手に撃ち合う」

 

 レヴィの顔から笑みが消えた。

 

「外の奴が、わかった口きいてんじゃねえよ」

 

 男はレヴィを見る。

 

「街に住んでいるだけで、街を知った気になるな」

 

 その瞬間、空気が変わった。

 

 ロックはまずいと思った。レヴィが怒っている。チェキータも表情から笑みを消している。ダッチは無言。ポーは男を見ている。港の夜風が冷たく吹いた。

 

 レヴィはゆっくり近づいた。

 

「お前らは、街を地図で見てるんだろ」

 

 男は黙る。

 

「この通りに誰がいて、この倉庫が誰のもんで、この店が誰に借りがあって、どいつがどっち寄りで、どこに穴があるか。そういう線を引いて、わかった気になってる」

 

 チェキータが横で言った。

 

「線の下にいる人間は見ない」

 

 レヴィは続けた。

 

「ロアナプラはクソみてえな街だ。誰も否定しねえ。でもな、クソにはクソの温度がある。外から来た奴が、冷たい紙の上で測れるもんじゃねえ」

 

 男は一歩下がった。

 

 ポーが低く言った。

 

「ケースを置け」

 

 男は抵抗を諦めたように見えた。

 

 だが、次の瞬間、彼は袖口から小さな端末を出そうとした。

 

 レヴィとチェキータが同時に動いた。レヴィが男の注意を正面から奪い、チェキータが横から手を止める。端末は床に落ち、桟橋の板の上で滑った。ロックが拾う。男は膝をついた。ケースはダッチが確保した。

 

 ダッチはケースを見て言った。

 

「今度こそ本命か」

 

 ロックは端末を見た。

 

「ベニー、端末とケースを確保。桟橋です」

 

 ベニーの声が震え気味に返る。

 

『了解。通知は?』

 

「まだわかりません」

 

 アランの声。

 

『端末を閉じないで。そのまま持って帰って。状態を変えると何か飛ぶかもしれない』

 

 レヴィが叫ぶ。

 

「面倒くせえ!」

 

 チェキータが言う。

 

「高い箱は面倒なのよ」

 

 ポーが男を見下ろした。

 

「グレイはどこだ」

 

 男は笑った。

 

「灰色の男は、灰色の場所にいる」

 

 レヴィが顔をしかめる。

 

「詩人気取りかよ」

 

 男は続けた。

 

「お前たちが互いに疑う場所だ」

 

 ロックはその言葉を聞き、イエロー・フラッグを思い浮かべた。張、バラライカ、キャスパーが同じ卓にいる場所。全員が互いを疑いながら、それでも同じデータを待っている場所。

 

「まさか」

 

 ダッチも同じことを考えたらしい。

 

「イエロー・フラッグか」

 

 通信の向こうで、ベニーが慌てた声を出した。

 

『待って、店の近くにまた車両反応! さっきの連中とは別!』

 

 レヴィが怒鳴る。

 

「バオの店かよ!」

 

 チェキータが言う。

 

「戻るわよ」

 

 ロックはケースと男を見た。

 

「証人とケースも」

 

 ダッチが指示を出す。

 

「ポー、証人を押さえろ。レヴィ、車を出せ。チェキータ、後方を見る。ロック、ベニーに通信を繋いだままにしろ」

 

 ポーは男の肩を押さえた。

 

「立て」

 

 男は立った。

 

 レヴィは走りながら叫んだ。

 

「バオの店、今夜こそ終わったな!」

 

 ロックは思わず言った。

 

「縁起でもないことを言わないでください!」

 

 チェキータは笑わなかった。

 

「今回は、本当に危ないわ」

 

     *

 

 イエロー・フラッグでは、張とバラライカとキャスパーが、まだ同じ卓にいた。だが、場の空気は先ほどよりさらに重い。ベニーとアランが端末の前で同時に別々の警告を確認している。店の外に近づく車両。通信反応。ミスター・グレイの名前。ロアナプラの小物地図。どれもが一つの場所に収束しつつあった。

 

 張は静かに言った。

 

「どうやら、彼はこの卓を見たがっているようだ」

 

 バラライカは煙草を消した。

 

「なら、見せてやる」

 

 キャスパーは微笑む。

 

「歓迎の準備が必要だね」

 

 ダッチから通信が入る。

 

『本命ケースを確保。だが、グレイ側がイエロー・フラッグへ向かっている可能性がある。戻る』

 

 バオが叫んだ。

 

「戻ってくるな!」

 

 レヴィの声が通信から響いた。

 

『もう向かってる!』

 

「来るなあ!」

 

 張はゆっくり立ち上がった。

 

 バラライカも立つ。

 

 キャスパーはグラスを置き、笑みを整えた。

 

 ベニーは震える声で言った。

 

「店の外、車両二台。止まりました」

 

 アランが続ける。

 

「もう一台、路地側。逃げ道を塞ぐ位置です」

 

 ポーはいない。レヴィたちもまだ戻っていない。だが、店には張とバラライカとキャスパーがいる。ロアナプラで、これ以上危険な店はそう多くない。

 

 ドアの外で、男の声がした。

 

「ミスター・グレイより、皆様へ」

 

 張の目が細くなる。

 

 バラライカの表情が消える。

 

 キャスパーは小さく笑った。

 

「本人は来ないか」

 

 外の男が続けた。

 

「ケースを渡してください。データはすでに複数に分散されています。ここで抵抗しても、利益はありません」

 

 バラライカが低く言った。

 

「利益の話をする相手を間違えたな」

 

 張が穏やかに言う。

 

「ここはロアナプラだ。利益より面子が高くつく夜もある」

 

 キャスパーは立ち上がり、ドアの方へ歩こうとした。

 

 ベニーが慌てる。

 

「キャスパー、危ないですよ!」

 

 キャスパーは振り返った。

 

「商人は、時々自分の店先に立つ必要がある」

 

 バオが叫ぶ。

 

「ここはお前の店じゃねえ!」

 

 キャスパーは微笑んだ。

 

「今夜だけ、少し借りるよ」

 

 バオは絶望した。

 

「全員それ言う!」

 

 キャスパーがドアの前に立ち、外へ向けて声をかけた。

 

「ミスター・グレイに伝えてくれるかな」

 

 外の男が黙る。

 

「ロアナプラの地図を売りたいなら、まずこの街の値段を覚えるべきだ」

 

 張が横に並んだ。

 

「港の値段もね」

 

 バラライカも立つ。

 

「そして、私の名を使う代金もだ」

 

 外の空気が震えた。

 

 その時、遠くからレヴィの車のエンジン音が近づいてきた。

 

 レヴィの怒鳴り声が通信越しに響く。

 

『どけええええ! 店の前、二度目だ!』

 

 チェキータの声。

 

『あなた、本当にうるさい!』

 

 ロックの声。

 

『バオさん、すみません!』

 

 バオはカウンターの下で叫んだ。

 

「謝るなあああ!」

 

 イエロー・フラッグの前で、三つ巴は完成した。

 

 張の三合会。

 バラライカのホテル・モスクワ。

 キャスパーの私兵。

 ラグーン商会。

 そして、ミスター・グレイの影。

 

 ロアナプラの黒い港に、外の灰色が入り込もうとしていた。

 

 だが、この街は簡単には塗り替えられない。

 

 汚れた街には、汚れた街なりの意地がある。

 

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