Guns & Garlands — 銃と花輪 作:たこ焼き 龍月
ロアナプラの港には、使われなくなった建物が多い。古い税関保管庫も、その一つだった。かつては書類と荷物と役人のために使われていた場所だ。今では窓の半分が割れ、壁には塩気を含んだ風が染み込み、看板の文字は読めるか読めないかの境目まで薄れている。だが、完全に死んだ場所ではない。ロアナプラでは、死んだ建物ほどよく使われる。誰も使っていないことになっている場所は、誰かが使うには都合がいい。記録が古く、責任が曖昧で、夜になれば人の目も減る。そういう場所には、金と嘘と銃声が自然に集まる。
イエロー・フラッグを出る前、店内ではまだ揉めていた。張、バラライカ、キャスパー、ダッチ。四人が同じ卓に残り、ベニーとアランが端末を挟んで旧税関保管庫周辺の地図を広げている。ポーが示した古い貨物監視塔は、保管庫の裏手にあった。高さは大したことがない。だが、保管庫正面、裏口、海側搬入口、そして駐車区画をすべて見渡せる位置にある。もし誰かが保管庫を罠として使うなら、そこは最適な観測点だった。
バラライカは地図を見ながら言った。
「保管庫そのものを囮にして、監視塔から全体を見る。悪くない読みだ」
張は静かに頷く。
「ロアナプラの人間なら、まず保管庫の中を見る。だから外から来た人間は、外で待つ」
キャスパーはグラスを回していた。
「ミスター・グレイらしい。人を動かして、動いた人間を見る。商売人としては嫌いではないよ」
バラライカの視線が冷たく飛ぶ。
「褒めている場合か」
「敵を低く見ると、値段を間違える」
「値段の話ではない」
「僕にとっては、たいてい値段の話だ」
張が薄く笑った。
「だから、あなたは嫌われる」
キャスパーは肩をすくめた。
「商人は好かれるより、覚えられる方が大事だ」
レヴィが横から言った。
「覚えられ方にも限度があんだろ、白い兄貴」
チェキータがその隣で笑う。
「あなたも似たような覚えられ方をしているわよ」
「あ?」
「騒音と弾痕で」
「褒めてんのか?」
「半分くらい」
「だからその言い方をやめろ!」
バオがカウンターの下から顔を出した。
「頼むから出ていくなら早く出ていけ! ここで作戦会議するな! 俺の店は軍令部じゃねえ!」
ダッチは煙草をくわえたまま言った。
「バオ、もう少しだけ場所を借りる」
「借りるって言葉はな、普通、貸す側の同意がいるんだよ!」
ベニーが申し訳なさそうに手を上げた。
「本当にすぐ終わるから」
「お前らの“すぐ”で終わったことがあるか!」
アランが小声でベニーに言う。
「店主、正しいですね」
「うん。完全に正しい」
「じゃあどうして続けるんです?」
「現実は正しい人に優しくないからだよ」
「ロアナプラらしい名言ですね」
「嬉しくない」
ロックは地図を見た。保管庫へ全員で行けば目立ちすぎる。かといって、少人数だけでは罠にはまる可能性が高い。三合会もホテル・モスクワもキャスパーも、自分たちだけが外されることを嫌がる。つまり、最初から面倒な答えしか残っていなかった。
「三つに分けましょう」
ロックが言うと、全員の視線が集まった。
レヴィが眉を上げる。
「また仕切る気かよ、交渉係」
「仕切らないと、全員が同じ入口から入ります」
チェキータが笑う。
「それはそれで、相手が驚くわね」
「その後で撃ち合いになります」
「それもそれで」
「やめてください」
張が言った。
「聞こう、ロック」
ロックは地図を指した。
「第一班は保管庫の正面へ。わざと相手に見えるように入ります。そこに受け渡し役がいるなら確認する。第二班は裏口と海側搬入口を押さえる。逃げ道を塞ぎます。第三班は監視塔を見る。ポーの言う通り、本命がそこにいる可能性が高い」
バラライカが言う。
「誰をどこへ置く」
「正面班は俺、レヴィ、チェキータ。見える場所で動く必要があります」
レヴィがにやりと笑う。
「派手に行けってことか」
「派手すぎないように」
「注文が多いな」
チェキータが肩をすくめる。
「私は派手でも上品よ」
レヴィが鼻で笑う。
「自分で言うな」
「あなたは派手で下品」
「撃つぞ」
「ほら、下品」
ロックは二人を無視して続けた。
「裏口と海側は、エドガー、ホテル・モスクワの人、三合会の人。逃げ道を塞いでください。監視塔はポー、あと……」
ロックは少し迷った。
「ダッチ、行けますか」
ダッチは煙草を灰皿に置いた。
「俺か」
「監視塔が本命なら、そこで判断できる人が必要です。ポーの目と、ダッチの現場読みが欲しい」
張が微笑んだ。
「いい配置だ」
バラライカも否定しない。
キャスパーはポーを見る。
「ポー、どう?」
ポーは短く答えた。
「行く」
ダッチも頷いた。
「なら、行こう」
ベニーが端末を抱えたまま言う。
「僕とアランはここで通信とデータを見る。ケースの中身も開けずに可能な範囲で読む。開けると通知が飛ぶ可能性があるから、無理はしない」
アランが片手を上げた。
「僕も同意。無理はしない。危ない箱を急かす人は嫌いです」
レヴィが言う。
「俺を見て言うな」
「見て言いました」
「いい度胸だな」
チェキータが笑う。
「アランにまで嫌われてるわよ」
「お前もだろ」
「私は好かれてるわ」
アランは即座に言った。
「半分くらい」
レヴィが天井を仰いだ。
「この言葉、世界から消えてくれ」
張が静かに立ち上がった。
「では、始めよう。時間をかけすぎると、相手も動く」
バラライカも立つ。
「保管庫には私の部下も出す。だが、指揮は現場で揉めるな」
キャスパーが言う。
「僕の人間も同じだ。チェキータ、エドガー、ポー。必要なら撃つ。でも、できれば喋れる相手を残して」
チェキータが笑う。
「できれば、ね」
レヴィが睨む。
「お前も言うな」
バオが最後に叫んだ。
「お前ら全員、帰ってくる時は店の外で泥を落とせ! 血とか火薬とか厄介事とか、全部だ!」
レヴィは振り返って笑った。
「厄介事は落ちねえよ」
「落としてこい!」
*
古い税関保管庫へ向かう車は、三台に分かれた。正面班の車はレヴィが運転した。助手席にチェキータ、後部座席にロック。三人だけの車内は、旧冷凍倉庫へ向かう時よりさらに悪かった。なぜなら、エドガーという短い沈黙の重しがいなかったからだ。
「あなた、また運転するのね」
チェキータが言った。
「文句があるなら歩け」
「歩いた方が長生きできそう」
「お前、さっきも似たようなこと言ったぞ」
「あなたの運転が改善されないからよ」
「改善ってのは、悪いもんに使う言葉だ」
「そうね」
「納得すんな」
ロックは後ろから言った。
「二人とも、保管庫へ着く前に疲れないでください」
レヴィがミラー越しにロックを見る。
「お前が一番疲れた顔してるぞ」
「疲れています」
チェキータが笑う。
「正直ね」
「この車内で嘘をつく余裕がありません」
「かわいそうに。レヴィと同じ車に乗ると、人は正直になるのね」
「お前も乗ってんだろ」
「私は強いから平気」
「その自信、どっから来んだよ」
「給料」
「金かよ」
「給料のいい猟犬だって言ったでしょ」
ロックは窓の外を見た。港の奥へ進むにつれ、建物は古くなり、人通りは減り、灯りはまばらになっていく。保管庫の周辺には、かつて港湾管理が今より真面目だった時代の名残がある。古い柵、使われなくなった検査台、読み取れない掲示板。そこに今夜、ロアナプラの裏側と外のブローカーの嘘が交差する。
「ロック」
チェキータが急に言った。
「はい」
「あなた、本当に撃つ前に話すのね」
「状況によります」
「今夜も?」
「できれば」
「できれば、ね」
レヴィが嫌そうに言う。
「その言葉、もう呪いだな」
チェキータはロックへ続ける。
「でも、話して止まる相手ばかりじゃないわ」
「知っています」
「知っていても、話す?」
「話さないと、撃った後で何も残らないことがあります」
レヴィが少し黙った。
チェキータもロックを見る。
「あなた、変な人ね」
「よく言われます」
「ロアナプラで変って言われるの、かなりよ」
「それも、よく言われます」
レヴィが煙草をくわえたまま言った。
「こいつは変だよ。昔はもっと普通だった」
ロックは苦笑する。
「普通だったか?」
「ああ。普通にムカつく日本人だった」
「今は?」
「ロアナプラ産の面倒くさい奴」
チェキータが笑った。
「それ、褒めてるの?」
レヴィは少し考えた。
「半分くらい」
自分で言った瞬間、レヴィは顔をしかめた。
「ああ、最悪だ。移った」
チェキータは大笑いした。
*
裏口班は別ルートで動いていた。エドガーを中心に、ホテル・モスクワの兵と三合会の部下が一人ずつ。互いに名前もろくに呼ばない。だが、歩く距離、止まる位置、角を見る順番は自然に揃っていた。職業が違っても、危険な場所で生きる人間の動きには共通点がある。無駄に喋らない。無駄に走らない。無駄に相手を信用しない。
三合会の部下が小声で言った。
「保管庫の裏口、開いています」
ホテル・モスクワの兵が答える。
「罠か」
エドガーが短く言う。
「見せるためだ」
「入るか」
「まだ」
彼らは裏口を見張りながら、海側搬入口へ回った。古い扉の下に、新しいタイヤの跡がある。ロアナプラの港の汚れにしては、線がまっすぐすぎる。エドガーはそれを見て、ポーの言葉を思い出した。嘘がきれいすぎる。汚れ方が違う。
「ここを使った」
エドガーが言う。
三合会の部下が頷いた。
「中へ荷物を入れたか、出したか」
ホテル・モスクワの兵が扉へ耳を寄せる。
「中に人の気配。少数」
エドガーは通信を入れた。
「裏口班。保管庫内に人の気配。海側に車両跡。正面班、注意」
レヴィの声が返る。
『了解。正面から入る』
エドガーは短く言った。
「暴れるな」
『注文が多いな!』
チェキータの声が割り込む。
『こちらで調整するわ』
『誰が調整される側だ!』
エドガーは通信を切った。
ホテル・モスクワの兵が低く言う。
「騒がしい」
エドガーは答えた。
「だが動く」
三合会の部下が少し笑った。
「ロアナプラらしいですね」
エドガーは短く言った。
「たぶん」
*
監視塔へ向かうダッチとポーは、港の暗がりを歩いていた。監視塔は保管庫の裏手にある古い鉄骨の建物だった。階段は錆びているが、まだ使える。上まで登れば、保管庫全体と周囲の道路が見える。そこへ向かう途中、ポーは何度か立ち止まり、地面や壁を見た。ダッチは急かさなかった。ポーが何かを見ていることはわかったからだ。
「何が見える」
ダッチが聞く。
ポーは地面を指した。
「靴跡」
「新しいか」
「新しい。だが少ない」
「少ない?」
「見張りの人数より少ない」
ダッチはしゃがみ込み、地面を見た。薄い砂と油の上に残る靴跡。たしかに、複数人が長くいた場所にしては少ない。
「一人か二人が、何度も動いて見せた」
ポーが言う。
「人数を多く見せるためか」
「たぶん」
ダッチは煙草を取り出しかけて、やめた。
「監視塔も囮かもしれん」
ポーは頷く。
「でも、見る価値はある」
「だな」
二人は階段を登った。鉄骨が小さく軋む。夜風が吹き、港の匂いが上がってくる。上に近づくほど、保管庫の全体が見えてきた。正面にはレヴィたちの車が近づいている。裏口側にはエドガーたちの影。保管庫の屋根の向こうには海側搬入口。さらに離れた場所には、使われていない駐車区画がある。
監視塔の上には、誰もいなかった。
ただ、床に小型の三脚、古い双眼鏡、使い捨ての通信端末、そして灰皿代わりに使われた空き缶があった。
ダッチは端末を見た。
「置いていったか」
ポーは空き缶を拾わず、覗き込んだ。
「吸い殻がない」
「灰皿なのに?」
「見せるため」
ダッチは小さく笑った。
「徹底してるな」
ポーは監視塔から周囲を見渡した。そして、保管庫ではなく、少し離れた古いクレーンの根元を見る。
「ダッチ」
「何だ」
「あそこ」
ダッチはポーの視線を追った。古いクレーンの影。そこに停まっている小型車両が一台。ライトは消えている。人影は見えない。だが、保管庫、監視塔、駐車区画のすべてを斜めから見られる位置にある。
「さらに外か」
ポーは頷いた。
「嘘を見る場所を、さらに見る場所」
ダッチは低く言った。
「入れ子だな」
「外の人間の嘘」
ダッチは通信を入れた。
「こちらダッチ。監視塔は空だ。だが、本命らしい車両を確認。古いクレーン根元、保管庫から北西。ライトなし。全班、警戒」
ロックの声が返る。
『了解。正面班、もうすぐ入ります』
レヴィの声も入る。
『見えてんなら、そっち行くか?』
「まだ動くな」
『全員そればっかだな!』
ダッチは通信を切り、ポーを見る。
「行くぞ」
ポーは頷いた。
*
古い税関保管庫の正面扉は、半分開いていた。中には灯りがある。わざとらしいほどに薄い灯りだ。見つけてください、と言っているような光だった。レヴィはその前で舌打ちした。
「罠の見本市だな」
チェキータが言う。
「入り口が開いていて、灯りがあって、中に人の気配。親切すぎるわ」
ロックは息を整える。
「中にいるのは、本命ではない可能性が高いです」
「だからって放っとくのか?」
「いいえ。話を聞きます」
レヴィはにやりと笑う。
「まず話かよ」
「まず話です」
チェキータがロックを見る。
「あなた、ほんと頑固ね」
「そうですか」
「ええ。レヴィとは違う方向に」
レヴィが言う。
「俺は頑固じゃねえ」
「あなたは頑固というより、直進」
「褒めてんのか?」
「半分」
「言うと思ったよ!」
ロックは扉の前に立ち、声を上げた。
「中の人、聞こえますか。ラグーン商会です。話をしましょう」
中から男の声が返った。
「ケースを持ってきたか」
「持っています」
レヴィが小声で言う。
「持ってねえだろ」
「嘘も交渉です」
チェキータが楽しそうに囁く。
「いいじゃない」
ロックは続けた。
「あなたたちはミスター・グレイの代理ですか」
中の男は少し沈黙した。
「名前を出すな」
「では、そうなんですね」
「ケースを置いて出ていけ。そうすれば、今夜は終わる」
レヴィが笑いを噛み殺す。
「雑だな」
チェキータも小声で言う。
「雑ね」
ロックは扉の隙間から中を見る。古い検査台の近くに男が二人。片方は端末、もう片方は小型の鞄。奥にも影がある。だが、配置が変だった。守っているというより、見せている。自分たちが重要人物であるように見せるための立ち位置。
「終わりません」
ロックは言った。
「三合会の名前を使った。ホテル・モスクワの名前を使った。キャスパーのデータを盗んだ。ラグーン商会の名前も残した。今さら、ケースを置いて終わりにはできません」
男が苛立った声を出す。
「お前に決める権利はない」
「俺にだけはありません」
「何?」
「だから、全員来ています」
その瞬間、保管庫の奥の男が動いた。外から裏口班が入る音が聞こえたのだろう。エドガーたちが海側と裏口を押さえ始めた。中の男たちが慌てる。レヴィはそれを見て笑った。
「はい、話し合い終了か?」
ロックは言う。
「まだです」
「しぶてえな!」
男の一人が端末へ手を伸ばす。チェキータが前へ出た。
「その手、止めた方がいいわ」
「動くな!」
男が叫ぶ。
レヴィが銃を向ける。
「お前がな」
短い沈黙。古い保管庫の中で、全員の呼吸が止まる。外から遠くの港の音が聞こえる。状況は崩れかけているが、まだ完全には崩れていない。ロックはその隙間に言葉を差し込んだ。
「あなたたちは使われています。旧冷凍倉庫の人たちと同じです。保管庫へ来れば本命だと思わせる役。監視塔へ目を向けさせる役。そして、その外から、誰かがあなたたちを見ている」
男の顔がわずかに変わった。
チェキータがそれを見た。
「知らされていないのね」
レヴィが言う。
「かわいそうに。外のボスは部下に優しくねえな」
男は叫んだ。
「黙れ!」
その叫びと同時に、外でエンジン音が響いた。ダッチが見つけた古いクレーン根元の車両が動いたのだ。
通信にダッチの声が入る。
『本命が動いた。古いクレーン側から逃げる。ポーと追う』
ロックは即座に言った。
「保管庫内の人間を確保。レヴィ、チェキータ、本命を追います」
レヴィは待ってましたと言わんばかりに笑った。
「ようやくか!」
チェキータも動く。
「行くわよ、野良犬」
「誰がだ!」
エドガーが裏口側から入ってきた。
「中は任せろ」
ロックは頷いた。
「お願いします!」
*
古いクレーン根元から逃げた車両は、小型だが速かった。港湾道路の裏を抜け、コンテナ置き場の影へ入ろうとしている。ダッチとポーは監視塔から降り、近くに停めていた車で追い始めた。そこへ正面班の車も合流する。レヴィが運転席へ飛び込み、チェキータが助手席へ乗る。ロックは後部座席へ身体を滑り込ませた。
「またこの組み合わせですか!」
ロックが言う。
レヴィがエンジンをかける。
「文句言うな!」
チェキータが窓の外を見ながら言う。
「右、港湾道路へ抜けるわ」
「見えてる!」
「見えてるならもっと綺麗に曲がって」
「これが綺麗なんだよ!」
「あなたの美的感覚、壊れてるわ」
「お前の香水よりマシだ!」
ロックは座席につかまりながら叫んだ。
「二人とも、今は追跡中です!」
チェキータが振り返らずに答える。
「ちゃんと追ってるわ」
レヴィも言う。
「逃げられてねえだろ!」
「会話がうるさすぎます!」
前方で逃走車両が急に左へ切った。古いコンテナの間へ入る道だ。レヴィも躊躇なくハンドルを切る。車体が大きく揺れ、ロックは肩を窓にぶつけそうになった。
「レヴィ!」
「生きてんだろ!」
「そればかりですね!」
チェキータは前方を見ながら言った。
「あの車、港の外へ出る気がないわ」
レヴィが目を細める。
「何?」
「逃げてるようで、誘導してる。右側、見て」
ロックが窓の外を見る。コンテナの間に、人影が一瞬見えた。複数。逃走車両の援護か、それとも別の罠か。
ダッチの通信が入る。
『レヴィ、前に出すぎるな。横に影がいる』
レヴィが舌打ちする。
「見えてるっての!」
チェキータが即座に言った。
「見えてるなら速度落として」
「落としたら逃げる」
「落とさないと囲まれる」
「だったら囲まれる前に抜ける」
「単純ね」
「今はその単純さが売りだ!」
レヴィはアクセルを踏み込んだ。逃走車両との距離が詰まる。だが、その瞬間、横のコンテナ影から一台の小型車が飛び出そうとした。チェキータが先に気づく。
「左!」
レヴィは反射的にハンドルを切る。車体が滑り、左からの車両は鼻先を掠めるように通り過ぎた。ロックは息を呑む。チェキータはその間に相手車両の動きを見ていた。
「今の、ぶつける気はなかった」
レヴィが言う。
「邪魔する気だろ」
「いいえ。こっちの進路を狭めて、逃走車両を見失わせるため」
ロックが言った。
「つまり、本命はまだ逃げている」
「そう」
チェキータは前方を指した。
「右の古い税関桟橋へ出るわ。あそこから小型艇に乗り換えるつもりかも」
レヴィが笑った。
「いいね。港らしくなってきた」
「楽しそうね」
「お前もな」
「半分くらい」
「もう突っ込まねえぞ!」
*
その頃、保管庫ではエドガーたちが中の男たちを確保していた。三合会の部下が一人の腕を押さえ、ホテル・モスクワの兵がもう一人を壁際に追い込む。エドガーは検査台の上に置かれた端末と鞄を確認した。鞄の中には現金の束と、空の記録媒体が数本。受け渡しの形だけを作るための道具だった。
「本命ではない」
エドガーが言う。
三合会の部下が頷いた。
「やはり囮ですか」
「だが喋る」
ホテル・モスクワの兵が男の一人に言った。
「誰が監視塔を指定した」
男は唇を噛む。
「知らない。指示は端末に来た」
「誰から」
「ミスター・グレイの仲介人だ。声だけだ」
エドガーは男の端末を拾い、通信をベニーへ繋いだ。
「ベニー、端末を送る」
『了解。こっちで見る。できれば壊さずに』
「壊していない」
『助かる。レヴィとは違う』
通信越しにレヴィの声が遠くで怒鳴った。
『聞こえてんぞ!』
エドガーは気にしなかった。
端末の中には、短い指示が残っていた。保管庫で待機。ケースを受け取る。旧冷凍倉庫から来る者を確認。監視塔へ視線を向けさせる。時間稼ぎをする。最後の一文だけが妙に冷たかった。
**必要なら現場を捨てろ。人員も含む。**
エドガーはそれを読み、表情を変えなかった。
「使い捨てだ」
三合会の部下が低く言う。
「ロアナプラでも珍しくはないが、これは外のやり方ですね」
ホテル・モスクワの兵が答えた。
「兵の捨て方を知らない者の命令だ」
エドガーは頷いた。
「戻るぞ。ここはもう空だ」
*
逃走車両は、古い税関桟橋へ向かっていた。桟橋には小型艇が一隻、エンジンをかけたまま待っている。レヴィはそれを見て笑った。
「船かよ。港らしいな!」
ロックは通信を入れる。
「逃走車両、小型艇へ向かっています!」
ダッチの声が返る。
『挟む。ポーと俺が桟橋側へ回る』
チェキータが言う。
「間に合う?」
ダッチは短く答えた。
『間に合わせる』
レヴィが言う。
「渋いねえ」
チェキータが前方を見た。
「感心してる場合じゃない。車が止まる」
逃走車両が桟橋前で急停車した。中から男が二人降りる。一人は小型ケースを持っている。もう一人は周囲を確認しながら桟橋へ走る。ロックはそれを見て、息を呑んだ。
「あれが本命のデータかもしれない」
レヴィが車を横付けする。
「じゃあ止める!」
ロックが叫ぶ。
「喋れる状態で!」
「わかってるって!」
車が止まるより早く、レヴィが飛び出した。チェキータも反対側から降りる。二人は左右に分かれ、桟橋へ向かう男たちを挟むように動いた。ケースを持つ男は一瞬迷った。右にはレヴィ、左にはチェキータ。後ろにはロック。前には小型艇。選択肢はあるようで、どれも悪い。
男がケースを小型艇へ投げようとした。
その瞬間、ポーが桟橋の先に現れた。
どうやってそこへ先回りしたのか、ロックにはわからなかった。ダッチも少し後ろにいる。ポーは小型艇の前に立ち、低く言った。
「置け」
男は止まった。
レヴィが笑う。
「ほんと便利だな!」
チェキータが男の背後に回る。
「ケースを投げるなら、あなたも海に落ちるわよ」
男は歯を食いしばる。
「お前たち、何もわかっていない」
ロックが息を切らしながら近づいた。
「何がですか」
「グレイはもう見ている。ここで止めても遅い。ロアナプラの地図は、もう売れる」
張、バラライカ、キャスパー。ロアナプラの勢力図。港湾網。小物たちの分類。すべてが誰かの手で外へ流れようとしている。
ロックは言った。
「それでも、ここで止めます」
男は笑った。
「誰に渡す? 三合会か? ホテル・モスクワか? 白い商人か? ラグーン商会か? 誰が持っても、別の奴が疑う。お前たちはもう互いを疑う」
チェキータが静かに言った。
「よく喋るわね」
男は続ける。
「ロアナプラは最初から割れている。少し押せば、勝手に撃ち合う」
レヴィの顔から笑みが消えた。
「外の奴が、わかった口きいてんじゃねえよ」
男はレヴィを見る。
「街に住んでいるだけで、街を知った気になるな」
その瞬間、空気が変わった。
ロックはまずいと思った。レヴィが怒っている。チェキータも表情から笑みを消している。ダッチは無言。ポーは男を見ている。港の夜風が冷たく吹いた。
レヴィはゆっくり近づいた。
「お前らは、街を地図で見てるんだろ」
男は黙る。
「この通りに誰がいて、この倉庫が誰のもんで、この店が誰に借りがあって、どいつがどっち寄りで、どこに穴があるか。そういう線を引いて、わかった気になってる」
チェキータが横で言った。
「線の下にいる人間は見ない」
レヴィは続けた。
「ロアナプラはクソみてえな街だ。誰も否定しねえ。でもな、クソにはクソの温度がある。外から来た奴が、冷たい紙の上で測れるもんじゃねえ」
男は一歩下がった。
ポーが低く言った。
「ケースを置け」
男は抵抗を諦めたように見えた。
だが、次の瞬間、彼は袖口から小さな端末を出そうとした。
レヴィとチェキータが同時に動いた。レヴィが男の注意を正面から奪い、チェキータが横から手を止める。端末は床に落ち、桟橋の板の上で滑った。ロックが拾う。男は膝をついた。ケースはダッチが確保した。
ダッチはケースを見て言った。
「今度こそ本命か」
ロックは端末を見た。
「ベニー、端末とケースを確保。桟橋です」
ベニーの声が震え気味に返る。
『了解。通知は?』
「まだわかりません」
アランの声。
『端末を閉じないで。そのまま持って帰って。状態を変えると何か飛ぶかもしれない』
レヴィが叫ぶ。
「面倒くせえ!」
チェキータが言う。
「高い箱は面倒なのよ」
ポーが男を見下ろした。
「グレイはどこだ」
男は笑った。
「灰色の男は、灰色の場所にいる」
レヴィが顔をしかめる。
「詩人気取りかよ」
男は続けた。
「お前たちが互いに疑う場所だ」
ロックはその言葉を聞き、イエロー・フラッグを思い浮かべた。張、バラライカ、キャスパーが同じ卓にいる場所。全員が互いを疑いながら、それでも同じデータを待っている場所。
「まさか」
ダッチも同じことを考えたらしい。
「イエロー・フラッグか」
通信の向こうで、ベニーが慌てた声を出した。
『待って、店の近くにまた車両反応! さっきの連中とは別!』
レヴィが怒鳴る。
「バオの店かよ!」
チェキータが言う。
「戻るわよ」
ロックはケースと男を見た。
「証人とケースも」
ダッチが指示を出す。
「ポー、証人を押さえろ。レヴィ、車を出せ。チェキータ、後方を見る。ロック、ベニーに通信を繋いだままにしろ」
ポーは男の肩を押さえた。
「立て」
男は立った。
レヴィは走りながら叫んだ。
「バオの店、今夜こそ終わったな!」
ロックは思わず言った。
「縁起でもないことを言わないでください!」
チェキータは笑わなかった。
「今回は、本当に危ないわ」
*
イエロー・フラッグでは、張とバラライカとキャスパーが、まだ同じ卓にいた。だが、場の空気は先ほどよりさらに重い。ベニーとアランが端末の前で同時に別々の警告を確認している。店の外に近づく車両。通信反応。ミスター・グレイの名前。ロアナプラの小物地図。どれもが一つの場所に収束しつつあった。
張は静かに言った。
「どうやら、彼はこの卓を見たがっているようだ」
バラライカは煙草を消した。
「なら、見せてやる」
キャスパーは微笑む。
「歓迎の準備が必要だね」
ダッチから通信が入る。
『本命ケースを確保。だが、グレイ側がイエロー・フラッグへ向かっている可能性がある。戻る』
バオが叫んだ。
「戻ってくるな!」
レヴィの声が通信から響いた。
『もう向かってる!』
「来るなあ!」
張はゆっくり立ち上がった。
バラライカも立つ。
キャスパーはグラスを置き、笑みを整えた。
ベニーは震える声で言った。
「店の外、車両二台。止まりました」
アランが続ける。
「もう一台、路地側。逃げ道を塞ぐ位置です」
ポーはいない。レヴィたちもまだ戻っていない。だが、店には張とバラライカとキャスパーがいる。ロアナプラで、これ以上危険な店はそう多くない。
ドアの外で、男の声がした。
「ミスター・グレイより、皆様へ」
張の目が細くなる。
バラライカの表情が消える。
キャスパーは小さく笑った。
「本人は来ないか」
外の男が続けた。
「ケースを渡してください。データはすでに複数に分散されています。ここで抵抗しても、利益はありません」
バラライカが低く言った。
「利益の話をする相手を間違えたな」
張が穏やかに言う。
「ここはロアナプラだ。利益より面子が高くつく夜もある」
キャスパーは立ち上がり、ドアの方へ歩こうとした。
ベニーが慌てる。
「キャスパー、危ないですよ!」
キャスパーは振り返った。
「商人は、時々自分の店先に立つ必要がある」
バオが叫ぶ。
「ここはお前の店じゃねえ!」
キャスパーは微笑んだ。
「今夜だけ、少し借りるよ」
バオは絶望した。
「全員それ言う!」
キャスパーがドアの前に立ち、外へ向けて声をかけた。
「ミスター・グレイに伝えてくれるかな」
外の男が黙る。
「ロアナプラの地図を売りたいなら、まずこの街の値段を覚えるべきだ」
張が横に並んだ。
「港の値段もね」
バラライカも立つ。
「そして、私の名を使う代金もだ」
外の空気が震えた。
その時、遠くからレヴィの車のエンジン音が近づいてきた。
レヴィの怒鳴り声が通信越しに響く。
『どけええええ! 店の前、二度目だ!』
チェキータの声。
『あなた、本当にうるさい!』
ロックの声。
『バオさん、すみません!』
バオはカウンターの下で叫んだ。
「謝るなあああ!」
イエロー・フラッグの前で、三つ巴は完成した。
張の三合会。
バラライカのホテル・モスクワ。
キャスパーの私兵。
ラグーン商会。
そして、ミスター・グレイの影。
ロアナプラの黒い港に、外の灰色が入り込もうとしていた。
だが、この街は簡単には塗り替えられない。
汚れた街には、汚れた街なりの意地がある。