Guns & Garlands — 銃と花輪   作:たこ焼き 龍月

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第九章 白い商人の値引き

 

 イエロー・フラッグの前に、夜が溜まっていた。濡れた路面にネオンが滲み、古い看板の黄色い光が、車のボンネットと男たちの顔を半端に照らしている。店の中には張がいた。バラライカがいた。キャスパーがいた。ダッチとベニーとアランがいて、ポーはいない。ポーはレヴィたちと戻ってくる車の中にいる。外にはミスター・グレイの使いらしき男たち。路地側にも、車が一台。逃げ道を塞ぐ位置だ。普通の酒場なら、この時点で客も店主も逃げている。だが、ここはロアナプラで、店はイエロー・フラッグだった。逃げるには、あまりにも遅すぎる。

 

 バオはカウンターの下から顔だけ出し、声を震わせていた。

 

「なあ、張さん。大尉。キャスパーさん。頼むから、店の中ではやめてくれよ」

 

 張は入口の方を見たまま答えた。

 

「努力しよう」

 

 バオは絶望した顔になる。

 

「努力って言うな! この街で努力って言葉ほど信用できねえもんはねえ!」

 

 キャスパーが軽く微笑む。

 

「なら、善処する」

 

「もっと信用できねえ!」

 

 バラライカはバオを見ずに言った。

 

「黙って伏せていろ。そうすれば生き残る可能性が上がる」

 

「励ましが軍隊式すぎるんですよ!」

 

 ベニーは端末を抱え、店の外の配置を確認していた。額に汗が浮かんでいる。アランは隣で同じ画面を覗き込みながら、意外と落ち着いていた。

 

「外の車、三台。正面二台、路地側一台。人数は多くないけど、配置は嫌ですね」

 

 ベニーは頷いた。

 

「正面は交渉用。路地側は逃走か、裏口封鎖。こっちの通信を見ている反応もある」

 

「通信を見ている?」

 

「たぶん。完全に読まれているわけじゃないけど、発信の有無くらいは拾われてる。あまり長く喋ると、動きを読まれる」

 

 アランは口元だけで笑った。

 

「じゃあ短く喋るしかない」

 

「この店にいる面子で、それができると思う?」

 

 アランは店内を見た。張、バラライカ、キャスパー、ダッチ。さらに外から戻ってくる予定のレヴィとチェキータ。

 

「無理ですね」

 

「だよね」

 

 外の男がもう一度声を上げた。

 

「ケースを渡してください。こちらの目的は、それだけです」

 

 店の入口に立ったキャスパーが答える。

 

「嘘は短い方がいい。君のは長すぎる」

 

「交渉の余地はあります」

 

「交渉の相手を間違えている」

 

 張がキャスパーの横へ出た。

 

「ロアナプラの港で動いたものは、港の話でもある」

 

 バラライカも一歩進む。

 

「私の名を使ったものは、私の話でもある」

 

 ダッチは店内から煙草をくわえたまま言った。

 

「そして、うちの名前まで紙に残した。こっちの話でもある」

 

 外の男は少し黙った。

 

 その沈黙が、何よりも雄弁だった。彼らは、三者が同じ場所にいることは想定していたかもしれない。だが、同じ言葉で拒絶されるとは思っていなかったのだろう。ロアナプラの勢力は互いに疑い合う。そこまでは正しい。だが、外の人間が泥を投げ込んだ時、その泥を踏んだ者たちが一瞬だけ同じ方向を見ることもある。その計算が足りていない。

 

 外の男が言った。

 

「ミスター・グレイは、この街との衝突を望んでいません」

 

 レヴィの声が遠くから飛んできた。

 

「だったら来るな、馬鹿野郎!」

 

 同時に、エンジン音が近づく。レヴィの車が、通りの角を曲がってイエロー・フラッグ前へ突っ込んできた。ライトが路面を切り裂き、追手の車両の横に斜めに止まる。後部座席からロックが転がるように降り、続いてダッチに預けるべきケースを抱えたポーが降りる。チェキータは助手席から軽やかに出て、すぐに後方を確認した。レヴィは運転席から出るなり、外の男たちへ向かって叫んだ。

 

「お届け物だ! 受け取り拒否は撃ち返しでいいな!」

 

 チェキータが隣で言う。

 

「その言い方だと、あなたが配達員みたいよ」

 

「俺は配達員じゃねえ」

 

「じゃあ何?」

 

「トラブルの着払いだ」

 

 チェキータは笑った。

 

「少し上手いわね」

 

「少しって言うな」

 

 ロックは息を整えながら、店の入口へ向かった。

 

「ケースは確保しました。桟橋で捕まえた証人もいます」

 

 ポーが男の一人を片手で押さえていた。男は抵抗する気を完全に失っている。逃げようとすればポーが「座れ」と言う。それだけで心が折れるのを、すでに何人も見ていた。

 

 外の男たちが動こうとした瞬間、ホテル・モスクワの兵と三合会の部下が左右から姿を見せた。旧冷凍倉庫、税関保管庫、桟橋と動いていた混成部隊の一部が、いつの間にかイエロー・フラッグ周辺へ戻っていたのだ。完全な包囲ではない。だが、十分だった。動けば、誰かに撃たれる。撃てば、全員が動く。

 

 張は穏やかに言った。

 

「さて。これで、荷物はここに戻った」

 

 バラライカが続ける。

 

「証人もいる」

 

 キャスパーはケースを見る。

 

「そして、僕の商売の一部も戻った」

 

 外の男は低く答えた。

 

「それは、あなた一人の手に戻るべきものではありません」

 

 キャスパーは少し笑った。

 

「おや。君がそれを言うのかい?」

 

 男は黙った。

 

 ロックはケースをテーブルへ運ぶようポーに頼んだ。ポーは無言で頷き、店内へ入る。バオはその大きな影が店に入ってくるたびに、椅子や柱の耐久性を心配するような顔をした。

 

「なあ、そのケース、床に置くなよ。変な液体とか出ねえよな?」

 

 ベニーが即座に言う。

 

「今のところ大丈夫。でも勝手に開けないで」

 

「誰が開けるか!」

 

 レヴィが言う。

 

「バオなら、酔って開けそうだな」

 

「開けねえよ! お前らの持ち込む箱は、酒より危ない!」

 

 ケースはテーブルの中央に置かれた。張、バラライカ、キャスパー、ダッチ、ロック、ベニー、アランが周囲を囲む。レヴィとチェキータは入口側で外を見張る。ポーは柱のそばに立ち、証人の男を座らせた。エドガーも戻り、店の端に立つ。店内は酒場ではなく、臨時の軍法会議か、裏社会の取締役会のようになっていた。

 

 ベニーがケースを見ながら言う。

 

「外から読み取れる範囲では、キャスパーの取引データ、保証関係、ロアナプラの港湾業者リスト、あと小規模ブローカーや密輸グループの分類が入っています。全部ではないと思う。でも、本命の一部です」

 

 アランが横から付け加える。

 

「このケースは、開けると外部に通知が飛ぶ仕組みがあるかもしれません。今はまだ開けない方がいい」

 

 レヴィが不満そうに言う。

 

「じゃあどうすんだよ。眺めて終わりか?」

 

 ベニーが答える。

 

「眺めるのも仕事なんだよ」

 

 チェキータがレヴィへ言う。

 

「ほら、端末の前では静かにしましょうね」

 

「俺は子供か」

 

「野良犬」

 

「まだ言うか」

 

 張はケースを見つめ、静かに言った。

 

「この中身を誰が持つかだね」

 

 その一言で、空気がさらに重くなった。ここからが本題だった。外の男たちをどうするか、ミスター・グレイをどう追うか、それも重要だ。だが、今ここにあるケースを誰が持つか。それ次第で、ロアナプラの均衡が変わる。キャスパーのデータだからキャスパーに返す。それは単純だが、もう単純では済まない。三合会の港湾網、ホテル・モスクワの名、ラグーン商会の登録、ロアナプラ内部の小物地図。全部が混ざっている。

 

 キャスパーは言った。

 

「僕の取引データが含まれている。返してもらいたいね」

 

 バラライカは即座に答えた。

 

「あなたの取引データだけならな」

 

 張も頷く。

 

「この街の名前が入っている以上、あなた一人に渡すわけにはいかない」

 

 キャスパーは肩をすくめた。

 

「僕が盗んだわけではない」

 

 ダッチが低く言う。

 

「盗まれた場所に持ってきた責任はある」

 

「厳しいね」

 

「この街じゃ、甘い荷主は長生きしない」

 

 キャスパーは笑った。

 

「なるほど。では、値段の話をしよう」

 

 レヴィが入口から叫ぶ。

 

「この状況で値段かよ!」

 

 チェキータが言う。

 

「ボスはこういう時ほど元気になるのよ」

 

「嫌な上司だな」

 

「給料はいいわ」

 

「金で納得してんじゃねえよ」

 

 キャスパーはレヴィたちを無視して続けた。

 

「このケースを僕一人が持つのは難しい。それはわかる。だが、僕の取引データを完全に他人に預けるのも受け入れられない。そこで、提案がある」

 

 バラライカが冷たく言った。

 

「聞くだけ聞こう」

 

 張は微笑む。

 

「提案には、値札がついているのだろう?」

 

「もちろん」

 

 キャスパーはテーブルに指を置いた。

 

「ケースの中身をこの場で三分割管理する。僕、三合会、ホテル・モスクワ。それぞれが、自分に関わる部分だけを確認する。ロアナプラ内部の小物地図は、張さんと大尉の双方が確認した上で、外部流出を止める。ラグーン商会は、第三者として作業の記録を持つ」

 

 ロックは思わず顔を上げた。

 

「うちが?」

 

「君たちは便利だからね」

 

「便利扱いをやめてください」

 

「では、信頼できる面倒な第三者」

 

 レヴィが笑う。

 

「それは合ってるな」

 

 ロックは無視した。

 

 張は考えるように目を伏せた。

 

「悪くない。ただし、キャスパー。あなたが自分に関わる部分だけを見る保証がない」

 

 キャスパーは笑う。

 

「僕も同じことを思った。三合会とホテル・モスクワが、自分たちに関わる部分だけを見る保証もない」

 

 バラライカが言う。

 

「なら、誰が分ける」

 

 全員の視線が、自然にベニーとアランへ向かった。

 

 ベニーは即座に両手を上げた。

 

「いや、僕一人は絶対嫌です」

 

 アランも言った。

 

「僕も一人は嫌です。絶対疑われる」

 

 キャスパーが言う。

 

「二人でやればいい」

 

 ベニーは顔をしかめる。

 

「キャスパー側のアランと、ラグーン商会の僕。そこに三合会とホテル・モスクワの監視をつける。つまり全員に見られながら作業しろと?」

 

 張が微笑む。

 

「公正だね」

 

 ベニーは頭を抱えた。

 

「最悪に公正です」

 

 バラライカが言う。

 

「必要な公正だ」

 

 ダッチはベニーへ言った。

 

「できるか」

 

 ベニーは深く息を吐いた。

 

「できるかどうかで言えば、たぶんできる。でも、開けた時に外部通知が飛ぶ可能性があるから、完全に安全とは言えない」

 

 アランが言う。

 

「通知が飛ぶ前提でやるしかないですね。開けた瞬間、ミスター・グレイ側にも動きが出るかもしれない」

 

 張は言った。

 

「なら、それを逆に使える」

 

 ロックは張を見る。

 

「通知を飛ばさせる?」

 

「相手が見るなら、見せたいものを見せる」

 

 バラライカが薄く笑った。

 

「偽の餌か」

 

 キャスパーの笑みが戻る。

 

「面白い。ミスター・グレイが人の名前を使ったなら、こちらも彼に見せる名前を選べばいい」

 

 ロックは嫌な予感がした。

 

「待ってください。何をするつもりですか」

 

 キャスパーは穏やかに答えた。

 

「このケースを回収し、三者が揉めたように見せる」

 

 張が続ける。

 

「そして、その隙にグレイ側が次にどこへ動くかを見る」

 

 バラライカも言う。

 

「彼らは、我々が互いに疑うことを期待している。ならば、疑っているように見せればいい」

 

 レヴィが入口から言った。

 

「演技かよ。面倒くせえな」

 

 チェキータは面白そうに笑う。

 

「あなた、演技下手そう」

 

「失礼だな。撃ちたくて我慢する演技なら得意だ」

 

「それは演技じゃなくて顔に出てるわ」

 

 ロックはテーブルに手を置いた。

 

「グレイ側が、ロアナプラの勢力を疑わせようとしているのはわかります。でも、それに乗ったふりをするなら、本当に火がつく可能性があります。誰かが誤解して動けば、止められません」

 

 張はロックを見る。

 

「だから君がいる」

 

「また俺ですか」

 

 バラライカが言う。

 

「銃声を遅らせる役だ」

 

 キャスパーが付け加える。

 

「面倒を押しつけやすい男だ」

 

 ロックは思わず頭を抱えた。

 

「それ、正式な役職にしないでください」

 

 ダッチが静かに言った。

 

「ロックの懸念は正しい。演技で火をつけるなら、消す手段も決めておくべきだ」

 

 張は頷く。

 

「では、合図を決めよう」

 

 バラライカが言った。

 

「合図など、敵に拾われる」

 

 キャスパーが微笑む。

 

「なら、誰にも合図に見えない合図がいい」

 

 全員が少し黙った。

 

 その時、バオがカウンターの下から顔を出した。

 

「……お前ら、俺の店を使って変な合図とか決めるなよ」

 

 張がバオを見る。

 

「バオ。店の照明は操作できるかな」

 

 バオの顔が固まる。

 

「できるが、嫌な予感しかしねえ」

 

 キャスパーが楽しそうに言う。

 

「照明を一度落とす。それを“演技終了”の合図にしよう」

 

 バオが叫ぶ。

 

「俺の店の照明を作戦に使うな!」

 

 レヴィが笑う。

 

「いいじゃねえか、バオ。初めて店の設備が役に立つぞ」

 

「毎日役に立ってるわ!」

 

 ベニーが申し訳なさそうに言う。

 

「バオ、照明一回だけ。たぶん一回だけ」

 

「たぶんって言ったな!」

 

 アランが小声で言った。

 

「この店主、反応がいいですね」

 

 ベニーは頷く。

 

「だから生き残ってるのかもしれない」

 

 張は話を戻した。

 

「ケースの中身を確認する。通知が飛ぶなら、飛ばさせる。こちらは、三者がケースの扱いで揉めているように見せる。外のグレイ側が動いたところを追う」

 

 バラライカが言う。

 

「同時に、この場の男たちからも情報を取る」

 

 ポーが証人たちを見る。

 

「喋る」

 

 男たちは全員、同時に頷いた。

 

 レヴィがそれを見て笑った。

 

「やっぱ便利だな、でかいの」

 

 チェキータが言う。

 

「あなたもそれくらい短く喋れば?」

 

「俺が短く喋ったら死ぬ」

 

「喋りすぎても死ぬわよ」

 

 ロックはケースを見つめた。

 

「では、始めるんですね」

 

 ベニーは肩を落とした。

 

「やるしかないみたいだね」

 

 アランが軽く指を鳴らした。

 

「最悪に公正な作業、開始ですね」

 

     *

 

 ケースを開く準備は、静かに進められた。ベニーとアランがテーブルの前に座り、左右に三合会の部下とホテル・モスクワの兵が立つ。キャスパーは少し離れた場所から見ている。張とバラライカも同じ卓に残る。ダッチは入口と店内を交互に見ていた。ロックはベニーの後ろに立つ。レヴィとチェキータは外側を警戒しながら、時々口喧嘩を続けている。ポーは証人たちの近く。エドガーは店の裏口側。

 

 バオは照明スイッチの近くで、なぜ自分の店がこんなことになったのかを考えるのをやめていた。

 

「ベニー」

 

 ロックが言う。

 

「何?」

 

「無理はしないでください」

 

「無理しないで済むなら、そもそもこの街にいないよ」

 

「それもそうですね」

 

「否定してよ」

 

 アランが笑う。

 

「いい相棒ですね」

 

 ベニーは顔をしかめる。

 

「一時的な共犯だよ」

 

「共犯。いい響きだ」

 

「君たちの業界の人は、言葉の感覚が怖い」

 

 ベニーとアランは慎重にケースへ触れた。細かい手順は誰にも説明しない。ただ、ケースを開けること自体が、ひどく面倒で危険な作業であることだけは、周囲の空気で伝わっていた。やがて、ケースの留め具が小さく鳴る。

 

 ベニーが息を止めた。

 

「開きます」

 

 ケースが開いた。

 

 同時に、ベニーの端末が短く鳴った。

 

「通知、飛びました」

 

 アランが画面を見る。

 

「外部反応あり。どこかで受信されてる」

 

 張が静かに言う。

 

「始まったね」

 

 バラライカはバオへ視線を向けた。

 

「照明はまだだ」

 

 バオは震えながら頷く。

 

「わ、わかってますよ」

 

 キャスパーはケースの中を見た。小型記録媒体、紙の保証書の束、薄い金属プレートのような認証タグ、複数の名前が入った書類。ベニーとアランが中身を確認し、画面へ分類していく。三合会関係。ホテル・モスクワ関係。キャスパー取引関係。ラグーン商会を含む搬入記録。ロアナプラ内部の小物地図。そして、ミスター・グレイ側の連絡痕跡らしきもの。

 

 ベニーが眉をひそめた。

 

「これ、グレイ側が全部持っていたわけじゃない。複数の情報源から寄せ集めてる」

 

 アランが頷く。

 

「古い情報も混じってる。正確なものと、間違ったものがある。たぶん、間違った情報で反応を見るつもりだった」

 

 ロックが聞く。

 

「反応を見る?」

 

 キャスパーが答えた。

 

「誰がどの情報を間違いだと知っているか。誰が動揺するか。誰が訂正しようとするか。それを見れば、その人間の本当の繋がりが見える」

 

 張は冷たく微笑んだ。

 

「嫌なやり方だ」

 

 バラライカが言う。

 

「だが、効果的だ」

 

 レヴィが入口から叫んだ。

 

「褒めんな! 相手が調子に乗る!」

 

 チェキータが言う。

 

「相手はここにいないわよ」

 

「じゃあ余計ムカつく!」

 

 その時、ベニーの端末に別の反応が入った。

 

「外部受信後、信号が動いた。場所は……港湾地区の外れ。いや、違う。複数に分散してる。三つ」

 

 アランが目を細めた。

 

「一つは囮ですね。もう一つもたぶん囮。本命は……」

 

 ベニーが画面を叩く。

 

「ブルー・カイトの登録オフィス跡。倉庫街の北側。今は空きビルになってる」

 

 ロックは言った。

 

「そこにグレイの仲介人が?」

 

 キャスパーは微笑んだ。

 

「少なくとも、誰かが次の反応を見るためにいる」

 

 張が言う。

 

「では、こちらも動く」

 

 バラライカが頷く。

 

「今度は迷わん」

 

 キャスパーは立ち上がった。

 

「僕も行こう」

 

 バラライカが即座に言った。

 

「目立ちすぎる」

 

「だから行くんだよ」

 

 張がキャスパーを見る。

 

「囮になる気か」

 

「たまには商人も店先に立たないとね」

 

 ダッチが言った。

 

「行くなら、条件がある」

 

「何かな」

 

「勝手に交渉するな」

 

 キャスパーは少し考えたふりをした。

 

「難しい条件だ」

 

 レヴィが言う。

 

「じゃあ来るな」

 

 チェキータも言った。

 

「ボス、今回は本当に邪魔になるかも」

 

「部下にまで言われた」

 

 エドガーが短く言う。

 

「事実だ」

 

 ポーも低く言った。

 

「目立つ」

 

 アランも笑って手を上げる。

 

「僕も同意です」

 

 キャスパーは胸に手を当てて、大げさに傷ついた顔をした。

 

「みんな、ひどい」

 

 レヴィが笑った。

 

「信用されてんな、白い兄貴」

 

「そういうことにしておこう」

 

 張は穏やかに言った。

 

「キャスパー。あなたはここに残った方がいい。グレイ側は、あなたが動けばその反応も見る」

 

 バラライカが続ける。

 

「ここで待て。必要なら、こちらが連れてくる」

 

 キャスパーは張とバラライカを見比べた。

 

「二人に同じことを言われると、さすがに聞くしかないね」

 

 ダッチが言う。

 

「珍しく賢い判断だ」

 

「僕はいつも賢いよ」

 

「賢い奴は、そう言わん」

 

 キャスパーは笑った。

 

     *

 

 次の行動はさらに速かった。ブルー・カイトの登録オフィス跡へ向かう班が組まれた。今回はレヴィ、チェキータ、ロック、エドガー、ポー。三合会とホテル・モスクワからも一人ずつ。ダッチは店に残る。ベニーとアランもケースの分類を続ける。張、バラライカ、キャスパーはそれぞれ自分の部下へ指示を出すが、部隊を大きく動かしすぎないよう抑える。ロアナプラ全体がまだ完全には燃えていない。その状態を保つことも、今は仕事だった。

 

 出発前、ロックはキャスパーに呼び止められた。

 

「ロック」

 

「何ですか」

 

「グレイの仲介人がいたら、できれば連れて帰ってきてほしい」

 

「あなたが話したいから?」

 

「もちろん」

 

「取引する気ですか」

 

「内容次第だね」

 

 ロックは目を細めた。

 

「この期に及んで?」

 

 キャスパーは穏やかに言った。

 

「敵の情報にも値段はつく」

 

「その値段をつける前に、張さんとバラライカさんに確認してください」

 

「君は本当に面倒な第三者だ」

 

「あなたたちがそうしたんです」

 

 キャスパーは楽しそうに笑った。

 

「そうだったね」

 

 バラライカが横から言った。

 

「ロック。もしキャスパーが勝手に動いたら撃て」

 

 キャスパーが振り返る。

 

「ひどいな」

 

 張が微笑む。

 

「撃つ前に、私へも連絡を」

 

「もっとひどい」

 

 レヴィが入口から叫ぶ。

 

「ロック! 行くぞ! 白い兄貴をいじってる時間はねえ!」

 

 チェキータが隣で言う。

 

「あなたがそれを言うの?」

 

「俺は必要な時は早いんだよ」

 

「早すぎるの間違いじゃない?」

 

「喧嘩売ってんのか?」

 

「半分くらい」

 

 レヴィはもう突っ込まなかった。ただ、深く息を吐いた。

 

「俺も大人になったな」

 

 ロックは言った。

 

「たぶん違うと思う」

 

     *

 

 ブルー・カイト・トレーディングの登録オフィス跡は、倉庫街の北側にある古い雑居ビルの三階だった。表向きは海運仲介会社の事務所。だが、看板はなく、郵便受けには古いチラシが詰まり、階段には埃が溜まっている。使われていない場所に見える。だが、三階のドアだけ、埃の付き方が違っていた。

 

 ポーが最初に気づいた。

 

「ここ」

 

 エドガーが頷く。

 

「人が入っている」

 

 レヴィがドアを見た。

 

「蹴るか」

 

 ロックが即座に言う。

 

「待ってください」

 

 チェキータが笑う。

 

「もう条件反射ね」

 

 レヴィが不満そうに言う。

 

「ドアは蹴るためにあるんだよ」

 

「違います」

 

「じゃあ何のためだ」

 

「開けるためです」

 

「同じだろ」

 

 エドガーが短く言った。

 

「静かに開ける」

 

 レヴィは肩をすくめた。

 

「はいはい」

 

 中へ入ると、事務所は空だった。机が二つ、古い棚、床に散った紙、壁に貼られた世界地図。だが、机の上の端末が一つだけ動いていた。画面には、イエロー・フラッグ周辺の簡易地図と、ケース開封通知のログが残っている。

 

 ロックは息を呑んだ。

 

「ここから見ていた」

 

 チェキータが周囲を確認する。

 

「でも、もういない」

 

 エドガーが窓際を見る。

 

「逃げたばかりだ」

 

 ポーが床を見た。

 

「一人」

 

 レヴィが言う。

 

「追えるか」

 

 ポーは窓の外を見た。

 

「裏階段」

 

 全員が動いた。裏階段を降りると、路地の先に人影が見えた。細身の男。グレーの上着。振り返りもせず、早足で路地を抜けようとしている。

 

「グレイか?」

 

 レヴィが言う。

 

 ロックは首を振る。

 

「本人とは限りません。仲介人かもしれない」

 

「捕まえりゃわかる」

 

 レヴィが走り出す。チェキータも続く。ロック、エドガー、ポーも後を追う。路地は狭く、曲がり角が多い。男はロアナプラの地理に不慣れではなかった。だが、慣れている者の走り方でもない。逃げる道を事前に覚えただけの走りだ。

 

 レヴィはそれを見抜いた。

 

「こいつ、道を知ってるんじゃねえ。暗記してやがる!」

 

 チェキータが横で答える。

 

「じゃあ予定外に弱い」

 

「脇道に押すぞ!」

 

「了解」

 

 二人は言葉より先に動いた。レヴィが正面から追い立て、チェキータが横の逃げ道を塞ぐ。男は予定していた路地へ入れず、狭い袋小路へ追い込まれた。そこには古いゴミ箱と錆びた非常階段しかない。

 

 男は振り返った。

 

 年齢は四十前後。顔に特徴が少ない。まさに外の世界で書類を扱う男の顔だった。だが、その目は焦っていた。

 

 ロックが息を整えながら言う。

 

「ミスター・グレイですか」

 

 男は笑った。

 

「違う。私はただの代理だ」

 

 レヴィが銃を向ける。

 

「代理、多すぎんだよ」

 

 チェキータが男を見る。

 

「ミスター・グレイはどこ?」

 

「灰色の場所に」

 

 レヴィが舌打ちした。

 

「またそれか」

 

 ロックは一歩前へ出た。

 

「あなたたちは、ロアナプラの勢力図を売ろうとした。キャスパーの取引データも使って。なぜです」

 

 男は肩をすくめた。

 

「需要があるからだ」

 

「誰に」

 

「この街と商売したい者。この街を避けたい者。この街を壊したい者。この街を利用したい者。地図を欲しがる客は多い」

 

 チェキータが冷たく言う。

 

「その地図は間違っていたわ」

 

「間違いも売れる。誰が訂正するかで、正しい線が見える」

 

 ロックは奥歯を噛んだ。

 

 キャスパーが言った通りだった。間違った情報で反応を見る。訂正した者、怒った者、動いた者の反応から、本当の繋がりを浮かび上がらせる。外の人間が、ロアナプラを実験台にしている。

 

 エドガーが短く言った。

 

「連れて帰る」

 

 男は笑った。

 

「帰っても、君たちは揉める。ケースを誰が持つかで、誰が情報を隠すかで、誰がグレイを追うかで」

 

 ポーが低く言った。

 

「揉めるのは、こっちの仕事だ」

 

 男の笑みが少し消えた。

 

 ポーは続ける。

 

「外の人間が決めることじゃない」

 

 レヴィがにやりと笑った。

 

「でかいの、いいこと言うじゃねえか」

 

 チェキータも頷く。

 

「短くていいわね」

 

「お前らも見習えよ」

 

「あなたが一番ね」

 

 ロックは男を見た。

 

「ミスター・グレイへ伝える方法はありますか」

 

「ない」

 

「嘘ですね」

 

「なぜそう思う」

 

「代理が本当に切られているなら、あなたはここまで逃げない。連絡手段があるから、まだ価値があると思っている」

 

 男はロックを見た。

 

「君は、この街の人間らしくなっている」

 

「それは褒め言葉ですか」

 

「警告だ」

 

 ロックは静かに答えた。

 

「なら、受け取っておきます」

 

 チェキータが男の腕を押さえる。

 

「行くわよ」

 

 男は抵抗しなかった。だが、最後に言った。

 

「グレイは引かない。ロアナプラは高い地図だ。高いものには、何度でも買い手がつく」

 

 レヴィは男の横を通り過ぎながら言った。

 

「なら、次はもっと高く売ってやるよ。弾付きでな」

 

 ロックは空を見上げた。

 

 狭い路地の上に、ロアナプラの夜空が細く見えた。

 

 灰色の男は、まだ遠い。

 

 だが、その代理は捕まえた。

 

 そしてケースは、イエロー・フラッグにある。

 

 次に必要なのは、撃ち合いではなく値段の決め方だった。

 

     *

 

 代理人を連れてイエロー・フラッグへ戻ると、店内はさらに奇妙な状態になっていた。ベニーとアランはケースの分類を続け、張とバラライカはそれぞれの部下から情報を受け、キャスパーはいつもの笑みで待っていた。バオはすでに諦めた顔で、グラスを磨くことに全精神を集中している。

 

 レヴィが代理人を押し込むように入ってきた。

 

「土産だ」

 

 バオが叫ぶ。

 

「人間を土産にするな!」

 

 チェキータが言う。

 

「包装はしてないわ」

 

「そういう問題じゃねえ!」

 

 ロックは代理人を張たちの前に立たせた。

 

「ブルー・カイトの事務所跡で捕まえました。ミスター・グレイ本人ではなく、代理人です」

 

 キャスパーは代理人を見て、少しだけ目を細めた。

 

「見覚えがある」

 

 代理人の顔が動いた。

 

 張がそれを見た。

 

「知り合いか」

 

 キャスパーは笑った。

 

「商売の世界は狭い。名前は知らないが、どこかの展示会か仲介席で見た顔だ」

 

 バラライカが言う。

 

「つまり、完全な下っ端ではない」

 

 代理人は黙っている。

 

 ポーが一歩前へ出た。

 

 代理人は喋った。

 

「私はグレイの代理として動いただけだ。計画全体は知らない」

 

 レヴィが笑う。

 

「便利な台詞だな。今日だけで百回聞いたぞ」

 

 チェキータが言う。

 

「百回は言いすぎ。でも多いわね」

 

 張は代理人へ言った。

 

「ミスター・グレイへ連絡できるね」

 

 代理人は黙る。

 

 バラライカが冷たく言った。

 

「沈黙は肯定だ」

 

 キャスパーが穏やかに言う。

 

「なら、交渉しよう。君がグレイへ伝える。ロアナプラの地図は売り物ではない。少なくとも、彼が勝手に売るには高すぎる」

 

 代理人は笑った。

 

「あなたも欲しがっているでしょう、ヘクマティアル」

 

「もちろん」

 

 店内の空気が凍る。

 

 キャスパーはその凍り方さえ楽しむように続けた。

 

「欲しいよ。すごく欲しい。ロアナプラの小物地図、港湾網、勢力の反応、誰が誰を恐れ、誰が誰に借りがあるか。商人なら誰でも欲しがる」

 

 バラライカが一歩前へ出る。

 

「なら、ここで撃たれるか」

 

「だから、欲しいと言った。盗むとは言っていない」

 

 張が静かに言う。

 

「買う、とも言っていないね」

 

 キャスパーは微笑む。

 

「ええ。今回は値引きの話をしようと思う」

 

 ロックは眉をひそめた。

 

「値引き?」

 

 キャスパーはケースを指した。

 

「僕は、自分の取引データの完全な単独回収を諦める。ロアナプラ内部の地図についても、持ち出しを求めない。ミスター・グレイの代理人と、グレイに繋がる連絡経路の一部を張さんと大尉へ渡す」

 

 レヴィが言う。

 

「ずいぶん急に善人ぶってんな」

 

「善人ではないよ」

 

 キャスパーは笑った。

 

「だから、代わりに値引きではなく、対価を求める」

 

 張の目が細くなる。

 

「何を?」

 

 キャスパーは言った。

 

「今後一度だけ、僕の貨物船をロアナプラ港へ入れる権利。三合会の港湾網を通し、ホテル・モスクワがその一度については妨害しない。もちろん、内容は事前に申告する。張さんと大尉が拒否できる条件もつける」

 

 バラライカの顔がさらに冷える。

 

「お前を港に入れることは、火薬庫に火を持ち込むようなものだ」

 

 キャスパーは涼しい顔で返す。

 

「火薬庫なら、火の扱いが上手い人間が必要だ」

 

 張が穏やかに言う。

 

「自分で言う言葉ではないね」

 

「では、誰かに言ってもらおうかな」

 

 レヴィが即座に言った。

 

「誰も言わねえよ」

 

 チェキータが横で笑う。

 

「部下としても遠慮するわ」

 

 エドガーが短く言う。

 

「言わない」

 

 アランも手を上げる。

 

「僕も言わないです」

 

 ポーは低く言った。

 

「言わない」

 

 キャスパーは少しだけ肩を落としたふりをした。

 

「本当にひどい部下たちだ」

 

 ロックは言った。

 

「あなたは、この騒ぎを使って港への入場券を買おうとしている」

 

「その通り」

 

「グレイに荒らされたことを、ロアナプラへの交渉材料に変える」

 

「商人だからね」

 

 バラライカは低く言った。

 

「その商人根性が気に入らん」

 

 キャスパーは笑みを崩さない。

 

「理解されたいとは思っていない」

 

 張はしばらく黙っていた。彼の沈黙は、店内の誰よりも柔らかい。だが、その中で何かが計算されているのがわかる。

 

「一度だけ」

 

 張が言った。

 

 バラライカが張を見る。

 

「乗るのか」

 

「条件付きならね」

 

 張はキャスパーを見る。

 

「一度だけ。事前申告。三合会が港湾経路を確認する。ホテル・モスクワが拒否権を持つ。ラグーン商会が搬入の立ち会いをする」

 

 ロックは思わず言った。

 

「またうちですか」

 

 張は微笑む。

 

「便利だからね」

 

 レヴィが笑った。

 

「ロック、もう諦めろ」

 

 バラライカは少し考え、やがて言った。

 

「拒否権は無条件だ。理由は説明しない」

 

 キャスパーは頷く。

 

「厳しいね」

 

「嫌なら港へ入るな」

 

「受け入れよう」

 

 ダッチが低く言う。

 

「それで、グレイの情報は」

 

 キャスパーは代理人を見た。

 

「彼が持っている連絡経路。ブルー・カイトの殻会社群。ミスター・グレイが使っている仲介業者の一部。全部は無理だが、ロアナプラから彼を遠ざけるには十分な材料になる」

 

 バラライカは代理人へ言った。

 

「喋らせる」

 

 張が穏やかに続ける。

 

「できれば丁寧にね」

 

 レヴィが呟く。

 

「丁寧の意味が怖え」

 

 チェキータが答える。

 

「ロアナプラでは普通よ」

 

「お前もう馴染んでんじゃねえか」

 

「褒めてる?」

 

「半分くらい」

 

 レヴィは自分で言って、また顔をしかめた。

 

「本当に最悪だ」

 

 店内に、少しだけ笑いが起きた。

 

 だが、完全な勝利ではなかった。ケースは戻った。代理人も捕まえた。ミスター・グレイの手は一部見えた。だが、本人はまだ遠い。データの一部はすでに分散しているかもしれない。ロアナプラの地図は、完全には燃やせない。誰かの頭の中に、すでに線が引かれている。

 

 それでも、今夜は火が街全体へ広がる前に止まった。

 

 ロックはそれだけで、少しだけ息を吐いた。

 

 張はキャスパーへ言った。

 

「白い商人。今回は、あなたの値引きを受けよう」

 

 キャスパーは微笑んだ。

 

「ありがとう」

 

 バラライカが冷たく言った。

 

「感謝するな。監視付きの首輪だ」

 

「首輪も、素材によっては高級品になる」

 

「口を減らせ」

 

 ダッチが言った。

 

「キャスパー。請求書は送る」

 

「半分なら受け取るよ」

 

 レヴィが即座に叫んだ。

 

「全部受け取れ!」

 

 バオも叫んだ。

 

「俺の修理費もな!」

 

 店内の全員がバオを見た。

 

 バオは胸を張った。

 

「今回は壊れてねえけど、精神的被害だ!」

 

 張が微笑む。

 

「それは高くつきそうだ」

 

 キャスパーは笑った。

 

「ロアナプラは本当に高い街だ」

 

 ロックは答えた。

 

「買うには向きませんよ」

 

 キャスパーはロックを見る。

 

「でも、商売するには最高だ」

 

 ロックは静かに言った。

 

「この街で商売するなら、代金は金だけじゃ済みません」

 

 キャスパーは嬉しそうに笑った。

 

「知ってる。だから面白い」

 

 ロックはその笑顔を見て、少しだけ嫌な予感を覚えた。

 

 白い商人は、一度ロアナプラの港へ入る権利を得た。

 

 一度だけ。

 

 だが、商人にとって一度とは、次の交渉の入口にすぎない。

 

 外の灰色は退いた。

 

 だが、白い商人の影は港に残った。

 

 

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