Guns & Garlands — 銃と花輪 作:たこ焼き 龍月
イエロー・フラッグの前に、夜が溜まっていた。濡れた路面にネオンが滲み、古い看板の黄色い光が、車のボンネットと男たちの顔を半端に照らしている。店の中には張がいた。バラライカがいた。キャスパーがいた。ダッチとベニーとアランがいて、ポーはいない。ポーはレヴィたちと戻ってくる車の中にいる。外にはミスター・グレイの使いらしき男たち。路地側にも、車が一台。逃げ道を塞ぐ位置だ。普通の酒場なら、この時点で客も店主も逃げている。だが、ここはロアナプラで、店はイエロー・フラッグだった。逃げるには、あまりにも遅すぎる。
バオはカウンターの下から顔だけ出し、声を震わせていた。
「なあ、張さん。大尉。キャスパーさん。頼むから、店の中ではやめてくれよ」
張は入口の方を見たまま答えた。
「努力しよう」
バオは絶望した顔になる。
「努力って言うな! この街で努力って言葉ほど信用できねえもんはねえ!」
キャスパーが軽く微笑む。
「なら、善処する」
「もっと信用できねえ!」
バラライカはバオを見ずに言った。
「黙って伏せていろ。そうすれば生き残る可能性が上がる」
「励ましが軍隊式すぎるんですよ!」
ベニーは端末を抱え、店の外の配置を確認していた。額に汗が浮かんでいる。アランは隣で同じ画面を覗き込みながら、意外と落ち着いていた。
「外の車、三台。正面二台、路地側一台。人数は多くないけど、配置は嫌ですね」
ベニーは頷いた。
「正面は交渉用。路地側は逃走か、裏口封鎖。こっちの通信を見ている反応もある」
「通信を見ている?」
「たぶん。完全に読まれているわけじゃないけど、発信の有無くらいは拾われてる。あまり長く喋ると、動きを読まれる」
アランは口元だけで笑った。
「じゃあ短く喋るしかない」
「この店にいる面子で、それができると思う?」
アランは店内を見た。張、バラライカ、キャスパー、ダッチ。さらに外から戻ってくる予定のレヴィとチェキータ。
「無理ですね」
「だよね」
外の男がもう一度声を上げた。
「ケースを渡してください。こちらの目的は、それだけです」
店の入口に立ったキャスパーが答える。
「嘘は短い方がいい。君のは長すぎる」
「交渉の余地はあります」
「交渉の相手を間違えている」
張がキャスパーの横へ出た。
「ロアナプラの港で動いたものは、港の話でもある」
バラライカも一歩進む。
「私の名を使ったものは、私の話でもある」
ダッチは店内から煙草をくわえたまま言った。
「そして、うちの名前まで紙に残した。こっちの話でもある」
外の男は少し黙った。
その沈黙が、何よりも雄弁だった。彼らは、三者が同じ場所にいることは想定していたかもしれない。だが、同じ言葉で拒絶されるとは思っていなかったのだろう。ロアナプラの勢力は互いに疑い合う。そこまでは正しい。だが、外の人間が泥を投げ込んだ時、その泥を踏んだ者たちが一瞬だけ同じ方向を見ることもある。その計算が足りていない。
外の男が言った。
「ミスター・グレイは、この街との衝突を望んでいません」
レヴィの声が遠くから飛んできた。
「だったら来るな、馬鹿野郎!」
同時に、エンジン音が近づく。レヴィの車が、通りの角を曲がってイエロー・フラッグ前へ突っ込んできた。ライトが路面を切り裂き、追手の車両の横に斜めに止まる。後部座席からロックが転がるように降り、続いてダッチに預けるべきケースを抱えたポーが降りる。チェキータは助手席から軽やかに出て、すぐに後方を確認した。レヴィは運転席から出るなり、外の男たちへ向かって叫んだ。
「お届け物だ! 受け取り拒否は撃ち返しでいいな!」
チェキータが隣で言う。
「その言い方だと、あなたが配達員みたいよ」
「俺は配達員じゃねえ」
「じゃあ何?」
「トラブルの着払いだ」
チェキータは笑った。
「少し上手いわね」
「少しって言うな」
ロックは息を整えながら、店の入口へ向かった。
「ケースは確保しました。桟橋で捕まえた証人もいます」
ポーが男の一人を片手で押さえていた。男は抵抗する気を完全に失っている。逃げようとすればポーが「座れ」と言う。それだけで心が折れるのを、すでに何人も見ていた。
外の男たちが動こうとした瞬間、ホテル・モスクワの兵と三合会の部下が左右から姿を見せた。旧冷凍倉庫、税関保管庫、桟橋と動いていた混成部隊の一部が、いつの間にかイエロー・フラッグ周辺へ戻っていたのだ。完全な包囲ではない。だが、十分だった。動けば、誰かに撃たれる。撃てば、全員が動く。
張は穏やかに言った。
「さて。これで、荷物はここに戻った」
バラライカが続ける。
「証人もいる」
キャスパーはケースを見る。
「そして、僕の商売の一部も戻った」
外の男は低く答えた。
「それは、あなた一人の手に戻るべきものではありません」
キャスパーは少し笑った。
「おや。君がそれを言うのかい?」
男は黙った。
ロックはケースをテーブルへ運ぶようポーに頼んだ。ポーは無言で頷き、店内へ入る。バオはその大きな影が店に入ってくるたびに、椅子や柱の耐久性を心配するような顔をした。
「なあ、そのケース、床に置くなよ。変な液体とか出ねえよな?」
ベニーが即座に言う。
「今のところ大丈夫。でも勝手に開けないで」
「誰が開けるか!」
レヴィが言う。
「バオなら、酔って開けそうだな」
「開けねえよ! お前らの持ち込む箱は、酒より危ない!」
ケースはテーブルの中央に置かれた。張、バラライカ、キャスパー、ダッチ、ロック、ベニー、アランが周囲を囲む。レヴィとチェキータは入口側で外を見張る。ポーは柱のそばに立ち、証人の男を座らせた。エドガーも戻り、店の端に立つ。店内は酒場ではなく、臨時の軍法会議か、裏社会の取締役会のようになっていた。
ベニーがケースを見ながら言う。
「外から読み取れる範囲では、キャスパーの取引データ、保証関係、ロアナプラの港湾業者リスト、あと小規模ブローカーや密輸グループの分類が入っています。全部ではないと思う。でも、本命の一部です」
アランが横から付け加える。
「このケースは、開けると外部に通知が飛ぶ仕組みがあるかもしれません。今はまだ開けない方がいい」
レヴィが不満そうに言う。
「じゃあどうすんだよ。眺めて終わりか?」
ベニーが答える。
「眺めるのも仕事なんだよ」
チェキータがレヴィへ言う。
「ほら、端末の前では静かにしましょうね」
「俺は子供か」
「野良犬」
「まだ言うか」
張はケースを見つめ、静かに言った。
「この中身を誰が持つかだね」
その一言で、空気がさらに重くなった。ここからが本題だった。外の男たちをどうするか、ミスター・グレイをどう追うか、それも重要だ。だが、今ここにあるケースを誰が持つか。それ次第で、ロアナプラの均衡が変わる。キャスパーのデータだからキャスパーに返す。それは単純だが、もう単純では済まない。三合会の港湾網、ホテル・モスクワの名、ラグーン商会の登録、ロアナプラ内部の小物地図。全部が混ざっている。
キャスパーは言った。
「僕の取引データが含まれている。返してもらいたいね」
バラライカは即座に答えた。
「あなたの取引データだけならな」
張も頷く。
「この街の名前が入っている以上、あなた一人に渡すわけにはいかない」
キャスパーは肩をすくめた。
「僕が盗んだわけではない」
ダッチが低く言う。
「盗まれた場所に持ってきた責任はある」
「厳しいね」
「この街じゃ、甘い荷主は長生きしない」
キャスパーは笑った。
「なるほど。では、値段の話をしよう」
レヴィが入口から叫ぶ。
「この状況で値段かよ!」
チェキータが言う。
「ボスはこういう時ほど元気になるのよ」
「嫌な上司だな」
「給料はいいわ」
「金で納得してんじゃねえよ」
キャスパーはレヴィたちを無視して続けた。
「このケースを僕一人が持つのは難しい。それはわかる。だが、僕の取引データを完全に他人に預けるのも受け入れられない。そこで、提案がある」
バラライカが冷たく言った。
「聞くだけ聞こう」
張は微笑む。
「提案には、値札がついているのだろう?」
「もちろん」
キャスパーはテーブルに指を置いた。
「ケースの中身をこの場で三分割管理する。僕、三合会、ホテル・モスクワ。それぞれが、自分に関わる部分だけを確認する。ロアナプラ内部の小物地図は、張さんと大尉の双方が確認した上で、外部流出を止める。ラグーン商会は、第三者として作業の記録を持つ」
ロックは思わず顔を上げた。
「うちが?」
「君たちは便利だからね」
「便利扱いをやめてください」
「では、信頼できる面倒な第三者」
レヴィが笑う。
「それは合ってるな」
ロックは無視した。
張は考えるように目を伏せた。
「悪くない。ただし、キャスパー。あなたが自分に関わる部分だけを見る保証がない」
キャスパーは笑う。
「僕も同じことを思った。三合会とホテル・モスクワが、自分たちに関わる部分だけを見る保証もない」
バラライカが言う。
「なら、誰が分ける」
全員の視線が、自然にベニーとアランへ向かった。
ベニーは即座に両手を上げた。
「いや、僕一人は絶対嫌です」
アランも言った。
「僕も一人は嫌です。絶対疑われる」
キャスパーが言う。
「二人でやればいい」
ベニーは顔をしかめる。
「キャスパー側のアランと、ラグーン商会の僕。そこに三合会とホテル・モスクワの監視をつける。つまり全員に見られながら作業しろと?」
張が微笑む。
「公正だね」
ベニーは頭を抱えた。
「最悪に公正です」
バラライカが言う。
「必要な公正だ」
ダッチはベニーへ言った。
「できるか」
ベニーは深く息を吐いた。
「できるかどうかで言えば、たぶんできる。でも、開けた時に外部通知が飛ぶ可能性があるから、完全に安全とは言えない」
アランが言う。
「通知が飛ぶ前提でやるしかないですね。開けた瞬間、ミスター・グレイ側にも動きが出るかもしれない」
張は言った。
「なら、それを逆に使える」
ロックは張を見る。
「通知を飛ばさせる?」
「相手が見るなら、見せたいものを見せる」
バラライカが薄く笑った。
「偽の餌か」
キャスパーの笑みが戻る。
「面白い。ミスター・グレイが人の名前を使ったなら、こちらも彼に見せる名前を選べばいい」
ロックは嫌な予感がした。
「待ってください。何をするつもりですか」
キャスパーは穏やかに答えた。
「このケースを回収し、三者が揉めたように見せる」
張が続ける。
「そして、その隙にグレイ側が次にどこへ動くかを見る」
バラライカも言う。
「彼らは、我々が互いに疑うことを期待している。ならば、疑っているように見せればいい」
レヴィが入口から言った。
「演技かよ。面倒くせえな」
チェキータは面白そうに笑う。
「あなた、演技下手そう」
「失礼だな。撃ちたくて我慢する演技なら得意だ」
「それは演技じゃなくて顔に出てるわ」
ロックはテーブルに手を置いた。
「グレイ側が、ロアナプラの勢力を疑わせようとしているのはわかります。でも、それに乗ったふりをするなら、本当に火がつく可能性があります。誰かが誤解して動けば、止められません」
張はロックを見る。
「だから君がいる」
「また俺ですか」
バラライカが言う。
「銃声を遅らせる役だ」
キャスパーが付け加える。
「面倒を押しつけやすい男だ」
ロックは思わず頭を抱えた。
「それ、正式な役職にしないでください」
ダッチが静かに言った。
「ロックの懸念は正しい。演技で火をつけるなら、消す手段も決めておくべきだ」
張は頷く。
「では、合図を決めよう」
バラライカが言った。
「合図など、敵に拾われる」
キャスパーが微笑む。
「なら、誰にも合図に見えない合図がいい」
全員が少し黙った。
その時、バオがカウンターの下から顔を出した。
「……お前ら、俺の店を使って変な合図とか決めるなよ」
張がバオを見る。
「バオ。店の照明は操作できるかな」
バオの顔が固まる。
「できるが、嫌な予感しかしねえ」
キャスパーが楽しそうに言う。
「照明を一度落とす。それを“演技終了”の合図にしよう」
バオが叫ぶ。
「俺の店の照明を作戦に使うな!」
レヴィが笑う。
「いいじゃねえか、バオ。初めて店の設備が役に立つぞ」
「毎日役に立ってるわ!」
ベニーが申し訳なさそうに言う。
「バオ、照明一回だけ。たぶん一回だけ」
「たぶんって言ったな!」
アランが小声で言った。
「この店主、反応がいいですね」
ベニーは頷く。
「だから生き残ってるのかもしれない」
張は話を戻した。
「ケースの中身を確認する。通知が飛ぶなら、飛ばさせる。こちらは、三者がケースの扱いで揉めているように見せる。外のグレイ側が動いたところを追う」
バラライカが言う。
「同時に、この場の男たちからも情報を取る」
ポーが証人たちを見る。
「喋る」
男たちは全員、同時に頷いた。
レヴィがそれを見て笑った。
「やっぱ便利だな、でかいの」
チェキータが言う。
「あなたもそれくらい短く喋れば?」
「俺が短く喋ったら死ぬ」
「喋りすぎても死ぬわよ」
ロックはケースを見つめた。
「では、始めるんですね」
ベニーは肩を落とした。
「やるしかないみたいだね」
アランが軽く指を鳴らした。
「最悪に公正な作業、開始ですね」
*
ケースを開く準備は、静かに進められた。ベニーとアランがテーブルの前に座り、左右に三合会の部下とホテル・モスクワの兵が立つ。キャスパーは少し離れた場所から見ている。張とバラライカも同じ卓に残る。ダッチは入口と店内を交互に見ていた。ロックはベニーの後ろに立つ。レヴィとチェキータは外側を警戒しながら、時々口喧嘩を続けている。ポーは証人たちの近く。エドガーは店の裏口側。
バオは照明スイッチの近くで、なぜ自分の店がこんなことになったのかを考えるのをやめていた。
「ベニー」
ロックが言う。
「何?」
「無理はしないでください」
「無理しないで済むなら、そもそもこの街にいないよ」
「それもそうですね」
「否定してよ」
アランが笑う。
「いい相棒ですね」
ベニーは顔をしかめる。
「一時的な共犯だよ」
「共犯。いい響きだ」
「君たちの業界の人は、言葉の感覚が怖い」
ベニーとアランは慎重にケースへ触れた。細かい手順は誰にも説明しない。ただ、ケースを開けること自体が、ひどく面倒で危険な作業であることだけは、周囲の空気で伝わっていた。やがて、ケースの留め具が小さく鳴る。
ベニーが息を止めた。
「開きます」
ケースが開いた。
同時に、ベニーの端末が短く鳴った。
「通知、飛びました」
アランが画面を見る。
「外部反応あり。どこかで受信されてる」
張が静かに言う。
「始まったね」
バラライカはバオへ視線を向けた。
「照明はまだだ」
バオは震えながら頷く。
「わ、わかってますよ」
キャスパーはケースの中を見た。小型記録媒体、紙の保証書の束、薄い金属プレートのような認証タグ、複数の名前が入った書類。ベニーとアランが中身を確認し、画面へ分類していく。三合会関係。ホテル・モスクワ関係。キャスパー取引関係。ラグーン商会を含む搬入記録。ロアナプラ内部の小物地図。そして、ミスター・グレイ側の連絡痕跡らしきもの。
ベニーが眉をひそめた。
「これ、グレイ側が全部持っていたわけじゃない。複数の情報源から寄せ集めてる」
アランが頷く。
「古い情報も混じってる。正確なものと、間違ったものがある。たぶん、間違った情報で反応を見るつもりだった」
ロックが聞く。
「反応を見る?」
キャスパーが答えた。
「誰がどの情報を間違いだと知っているか。誰が動揺するか。誰が訂正しようとするか。それを見れば、その人間の本当の繋がりが見える」
張は冷たく微笑んだ。
「嫌なやり方だ」
バラライカが言う。
「だが、効果的だ」
レヴィが入口から叫んだ。
「褒めんな! 相手が調子に乗る!」
チェキータが言う。
「相手はここにいないわよ」
「じゃあ余計ムカつく!」
その時、ベニーの端末に別の反応が入った。
「外部受信後、信号が動いた。場所は……港湾地区の外れ。いや、違う。複数に分散してる。三つ」
アランが目を細めた。
「一つは囮ですね。もう一つもたぶん囮。本命は……」
ベニーが画面を叩く。
「ブルー・カイトの登録オフィス跡。倉庫街の北側。今は空きビルになってる」
ロックは言った。
「そこにグレイの仲介人が?」
キャスパーは微笑んだ。
「少なくとも、誰かが次の反応を見るためにいる」
張が言う。
「では、こちらも動く」
バラライカが頷く。
「今度は迷わん」
キャスパーは立ち上がった。
「僕も行こう」
バラライカが即座に言った。
「目立ちすぎる」
「だから行くんだよ」
張がキャスパーを見る。
「囮になる気か」
「たまには商人も店先に立たないとね」
ダッチが言った。
「行くなら、条件がある」
「何かな」
「勝手に交渉するな」
キャスパーは少し考えたふりをした。
「難しい条件だ」
レヴィが言う。
「じゃあ来るな」
チェキータも言った。
「ボス、今回は本当に邪魔になるかも」
「部下にまで言われた」
エドガーが短く言う。
「事実だ」
ポーも低く言った。
「目立つ」
アランも笑って手を上げる。
「僕も同意です」
キャスパーは胸に手を当てて、大げさに傷ついた顔をした。
「みんな、ひどい」
レヴィが笑った。
「信用されてんな、白い兄貴」
「そういうことにしておこう」
張は穏やかに言った。
「キャスパー。あなたはここに残った方がいい。グレイ側は、あなたが動けばその反応も見る」
バラライカが続ける。
「ここで待て。必要なら、こちらが連れてくる」
キャスパーは張とバラライカを見比べた。
「二人に同じことを言われると、さすがに聞くしかないね」
ダッチが言う。
「珍しく賢い判断だ」
「僕はいつも賢いよ」
「賢い奴は、そう言わん」
キャスパーは笑った。
*
次の行動はさらに速かった。ブルー・カイトの登録オフィス跡へ向かう班が組まれた。今回はレヴィ、チェキータ、ロック、エドガー、ポー。三合会とホテル・モスクワからも一人ずつ。ダッチは店に残る。ベニーとアランもケースの分類を続ける。張、バラライカ、キャスパーはそれぞれ自分の部下へ指示を出すが、部隊を大きく動かしすぎないよう抑える。ロアナプラ全体がまだ完全には燃えていない。その状態を保つことも、今は仕事だった。
出発前、ロックはキャスパーに呼び止められた。
「ロック」
「何ですか」
「グレイの仲介人がいたら、できれば連れて帰ってきてほしい」
「あなたが話したいから?」
「もちろん」
「取引する気ですか」
「内容次第だね」
ロックは目を細めた。
「この期に及んで?」
キャスパーは穏やかに言った。
「敵の情報にも値段はつく」
「その値段をつける前に、張さんとバラライカさんに確認してください」
「君は本当に面倒な第三者だ」
「あなたたちがそうしたんです」
キャスパーは楽しそうに笑った。
「そうだったね」
バラライカが横から言った。
「ロック。もしキャスパーが勝手に動いたら撃て」
キャスパーが振り返る。
「ひどいな」
張が微笑む。
「撃つ前に、私へも連絡を」
「もっとひどい」
レヴィが入口から叫ぶ。
「ロック! 行くぞ! 白い兄貴をいじってる時間はねえ!」
チェキータが隣で言う。
「あなたがそれを言うの?」
「俺は必要な時は早いんだよ」
「早すぎるの間違いじゃない?」
「喧嘩売ってんのか?」
「半分くらい」
レヴィはもう突っ込まなかった。ただ、深く息を吐いた。
「俺も大人になったな」
ロックは言った。
「たぶん違うと思う」
*
ブルー・カイト・トレーディングの登録オフィス跡は、倉庫街の北側にある古い雑居ビルの三階だった。表向きは海運仲介会社の事務所。だが、看板はなく、郵便受けには古いチラシが詰まり、階段には埃が溜まっている。使われていない場所に見える。だが、三階のドアだけ、埃の付き方が違っていた。
ポーが最初に気づいた。
「ここ」
エドガーが頷く。
「人が入っている」
レヴィがドアを見た。
「蹴るか」
ロックが即座に言う。
「待ってください」
チェキータが笑う。
「もう条件反射ね」
レヴィが不満そうに言う。
「ドアは蹴るためにあるんだよ」
「違います」
「じゃあ何のためだ」
「開けるためです」
「同じだろ」
エドガーが短く言った。
「静かに開ける」
レヴィは肩をすくめた。
「はいはい」
中へ入ると、事務所は空だった。机が二つ、古い棚、床に散った紙、壁に貼られた世界地図。だが、机の上の端末が一つだけ動いていた。画面には、イエロー・フラッグ周辺の簡易地図と、ケース開封通知のログが残っている。
ロックは息を呑んだ。
「ここから見ていた」
チェキータが周囲を確認する。
「でも、もういない」
エドガーが窓際を見る。
「逃げたばかりだ」
ポーが床を見た。
「一人」
レヴィが言う。
「追えるか」
ポーは窓の外を見た。
「裏階段」
全員が動いた。裏階段を降りると、路地の先に人影が見えた。細身の男。グレーの上着。振り返りもせず、早足で路地を抜けようとしている。
「グレイか?」
レヴィが言う。
ロックは首を振る。
「本人とは限りません。仲介人かもしれない」
「捕まえりゃわかる」
レヴィが走り出す。チェキータも続く。ロック、エドガー、ポーも後を追う。路地は狭く、曲がり角が多い。男はロアナプラの地理に不慣れではなかった。だが、慣れている者の走り方でもない。逃げる道を事前に覚えただけの走りだ。
レヴィはそれを見抜いた。
「こいつ、道を知ってるんじゃねえ。暗記してやがる!」
チェキータが横で答える。
「じゃあ予定外に弱い」
「脇道に押すぞ!」
「了解」
二人は言葉より先に動いた。レヴィが正面から追い立て、チェキータが横の逃げ道を塞ぐ。男は予定していた路地へ入れず、狭い袋小路へ追い込まれた。そこには古いゴミ箱と錆びた非常階段しかない。
男は振り返った。
年齢は四十前後。顔に特徴が少ない。まさに外の世界で書類を扱う男の顔だった。だが、その目は焦っていた。
ロックが息を整えながら言う。
「ミスター・グレイですか」
男は笑った。
「違う。私はただの代理だ」
レヴィが銃を向ける。
「代理、多すぎんだよ」
チェキータが男を見る。
「ミスター・グレイはどこ?」
「灰色の場所に」
レヴィが舌打ちした。
「またそれか」
ロックは一歩前へ出た。
「あなたたちは、ロアナプラの勢力図を売ろうとした。キャスパーの取引データも使って。なぜです」
男は肩をすくめた。
「需要があるからだ」
「誰に」
「この街と商売したい者。この街を避けたい者。この街を壊したい者。この街を利用したい者。地図を欲しがる客は多い」
チェキータが冷たく言う。
「その地図は間違っていたわ」
「間違いも売れる。誰が訂正するかで、正しい線が見える」
ロックは奥歯を噛んだ。
キャスパーが言った通りだった。間違った情報で反応を見る。訂正した者、怒った者、動いた者の反応から、本当の繋がりを浮かび上がらせる。外の人間が、ロアナプラを実験台にしている。
エドガーが短く言った。
「連れて帰る」
男は笑った。
「帰っても、君たちは揉める。ケースを誰が持つかで、誰が情報を隠すかで、誰がグレイを追うかで」
ポーが低く言った。
「揉めるのは、こっちの仕事だ」
男の笑みが少し消えた。
ポーは続ける。
「外の人間が決めることじゃない」
レヴィがにやりと笑った。
「でかいの、いいこと言うじゃねえか」
チェキータも頷く。
「短くていいわね」
「お前らも見習えよ」
「あなたが一番ね」
ロックは男を見た。
「ミスター・グレイへ伝える方法はありますか」
「ない」
「嘘ですね」
「なぜそう思う」
「代理が本当に切られているなら、あなたはここまで逃げない。連絡手段があるから、まだ価値があると思っている」
男はロックを見た。
「君は、この街の人間らしくなっている」
「それは褒め言葉ですか」
「警告だ」
ロックは静かに答えた。
「なら、受け取っておきます」
チェキータが男の腕を押さえる。
「行くわよ」
男は抵抗しなかった。だが、最後に言った。
「グレイは引かない。ロアナプラは高い地図だ。高いものには、何度でも買い手がつく」
レヴィは男の横を通り過ぎながら言った。
「なら、次はもっと高く売ってやるよ。弾付きでな」
ロックは空を見上げた。
狭い路地の上に、ロアナプラの夜空が細く見えた。
灰色の男は、まだ遠い。
だが、その代理は捕まえた。
そしてケースは、イエロー・フラッグにある。
次に必要なのは、撃ち合いではなく値段の決め方だった。
*
代理人を連れてイエロー・フラッグへ戻ると、店内はさらに奇妙な状態になっていた。ベニーとアランはケースの分類を続け、張とバラライカはそれぞれの部下から情報を受け、キャスパーはいつもの笑みで待っていた。バオはすでに諦めた顔で、グラスを磨くことに全精神を集中している。
レヴィが代理人を押し込むように入ってきた。
「土産だ」
バオが叫ぶ。
「人間を土産にするな!」
チェキータが言う。
「包装はしてないわ」
「そういう問題じゃねえ!」
ロックは代理人を張たちの前に立たせた。
「ブルー・カイトの事務所跡で捕まえました。ミスター・グレイ本人ではなく、代理人です」
キャスパーは代理人を見て、少しだけ目を細めた。
「見覚えがある」
代理人の顔が動いた。
張がそれを見た。
「知り合いか」
キャスパーは笑った。
「商売の世界は狭い。名前は知らないが、どこかの展示会か仲介席で見た顔だ」
バラライカが言う。
「つまり、完全な下っ端ではない」
代理人は黙っている。
ポーが一歩前へ出た。
代理人は喋った。
「私はグレイの代理として動いただけだ。計画全体は知らない」
レヴィが笑う。
「便利な台詞だな。今日だけで百回聞いたぞ」
チェキータが言う。
「百回は言いすぎ。でも多いわね」
張は代理人へ言った。
「ミスター・グレイへ連絡できるね」
代理人は黙る。
バラライカが冷たく言った。
「沈黙は肯定だ」
キャスパーが穏やかに言う。
「なら、交渉しよう。君がグレイへ伝える。ロアナプラの地図は売り物ではない。少なくとも、彼が勝手に売るには高すぎる」
代理人は笑った。
「あなたも欲しがっているでしょう、ヘクマティアル」
「もちろん」
店内の空気が凍る。
キャスパーはその凍り方さえ楽しむように続けた。
「欲しいよ。すごく欲しい。ロアナプラの小物地図、港湾網、勢力の反応、誰が誰を恐れ、誰が誰に借りがあるか。商人なら誰でも欲しがる」
バラライカが一歩前へ出る。
「なら、ここで撃たれるか」
「だから、欲しいと言った。盗むとは言っていない」
張が静かに言う。
「買う、とも言っていないね」
キャスパーは微笑む。
「ええ。今回は値引きの話をしようと思う」
ロックは眉をひそめた。
「値引き?」
キャスパーはケースを指した。
「僕は、自分の取引データの完全な単独回収を諦める。ロアナプラ内部の地図についても、持ち出しを求めない。ミスター・グレイの代理人と、グレイに繋がる連絡経路の一部を張さんと大尉へ渡す」
レヴィが言う。
「ずいぶん急に善人ぶってんな」
「善人ではないよ」
キャスパーは笑った。
「だから、代わりに値引きではなく、対価を求める」
張の目が細くなる。
「何を?」
キャスパーは言った。
「今後一度だけ、僕の貨物船をロアナプラ港へ入れる権利。三合会の港湾網を通し、ホテル・モスクワがその一度については妨害しない。もちろん、内容は事前に申告する。張さんと大尉が拒否できる条件もつける」
バラライカの顔がさらに冷える。
「お前を港に入れることは、火薬庫に火を持ち込むようなものだ」
キャスパーは涼しい顔で返す。
「火薬庫なら、火の扱いが上手い人間が必要だ」
張が穏やかに言う。
「自分で言う言葉ではないね」
「では、誰かに言ってもらおうかな」
レヴィが即座に言った。
「誰も言わねえよ」
チェキータが横で笑う。
「部下としても遠慮するわ」
エドガーが短く言う。
「言わない」
アランも手を上げる。
「僕も言わないです」
ポーは低く言った。
「言わない」
キャスパーは少しだけ肩を落としたふりをした。
「本当にひどい部下たちだ」
ロックは言った。
「あなたは、この騒ぎを使って港への入場券を買おうとしている」
「その通り」
「グレイに荒らされたことを、ロアナプラへの交渉材料に変える」
「商人だからね」
バラライカは低く言った。
「その商人根性が気に入らん」
キャスパーは笑みを崩さない。
「理解されたいとは思っていない」
張はしばらく黙っていた。彼の沈黙は、店内の誰よりも柔らかい。だが、その中で何かが計算されているのがわかる。
「一度だけ」
張が言った。
バラライカが張を見る。
「乗るのか」
「条件付きならね」
張はキャスパーを見る。
「一度だけ。事前申告。三合会が港湾経路を確認する。ホテル・モスクワが拒否権を持つ。ラグーン商会が搬入の立ち会いをする」
ロックは思わず言った。
「またうちですか」
張は微笑む。
「便利だからね」
レヴィが笑った。
「ロック、もう諦めろ」
バラライカは少し考え、やがて言った。
「拒否権は無条件だ。理由は説明しない」
キャスパーは頷く。
「厳しいね」
「嫌なら港へ入るな」
「受け入れよう」
ダッチが低く言う。
「それで、グレイの情報は」
キャスパーは代理人を見た。
「彼が持っている連絡経路。ブルー・カイトの殻会社群。ミスター・グレイが使っている仲介業者の一部。全部は無理だが、ロアナプラから彼を遠ざけるには十分な材料になる」
バラライカは代理人へ言った。
「喋らせる」
張が穏やかに続ける。
「できれば丁寧にね」
レヴィが呟く。
「丁寧の意味が怖え」
チェキータが答える。
「ロアナプラでは普通よ」
「お前もう馴染んでんじゃねえか」
「褒めてる?」
「半分くらい」
レヴィは自分で言って、また顔をしかめた。
「本当に最悪だ」
店内に、少しだけ笑いが起きた。
だが、完全な勝利ではなかった。ケースは戻った。代理人も捕まえた。ミスター・グレイの手は一部見えた。だが、本人はまだ遠い。データの一部はすでに分散しているかもしれない。ロアナプラの地図は、完全には燃やせない。誰かの頭の中に、すでに線が引かれている。
それでも、今夜は火が街全体へ広がる前に止まった。
ロックはそれだけで、少しだけ息を吐いた。
張はキャスパーへ言った。
「白い商人。今回は、あなたの値引きを受けよう」
キャスパーは微笑んだ。
「ありがとう」
バラライカが冷たく言った。
「感謝するな。監視付きの首輪だ」
「首輪も、素材によっては高級品になる」
「口を減らせ」
ダッチが言った。
「キャスパー。請求書は送る」
「半分なら受け取るよ」
レヴィが即座に叫んだ。
「全部受け取れ!」
バオも叫んだ。
「俺の修理費もな!」
店内の全員がバオを見た。
バオは胸を張った。
「今回は壊れてねえけど、精神的被害だ!」
張が微笑む。
「それは高くつきそうだ」
キャスパーは笑った。
「ロアナプラは本当に高い街だ」
ロックは答えた。
「買うには向きませんよ」
キャスパーはロックを見る。
「でも、商売するには最高だ」
ロックは静かに言った。
「この街で商売するなら、代金は金だけじゃ済みません」
キャスパーは嬉しそうに笑った。
「知ってる。だから面白い」
ロックはその笑顔を見て、少しだけ嫌な予感を覚えた。
白い商人は、一度ロアナプラの港へ入る権利を得た。
一度だけ。
だが、商人にとって一度とは、次の交渉の入口にすぎない。
外の灰色は退いた。
だが、白い商人の影は港に残った。