Guns & Garlands — 銃と花輪 作:たこ焼き 龍月
ロアナプラの夜が終わる時、街は少しだけ白くなる。清潔になるわけではない。ただ、闇の濃さが薄まり、看板の壊れたネオンや、濡れた路面や、港に浮かぶ油膜が、朝の光に押し出されるだけだ。夜の間に起きたことは消えない。撃ち損ねた弾痕も、踏み潰された吸い殻も、誰かが落とした血の匂いも、割れたグラスの破片も、全部どこかに残っている。ただ、この街の朝はそれを見て見ぬふりをするのがうまい。ロアナプラは、昨日の厄介事を今日の商売に変えながら生きている。
イエロー・フラッグは、奇跡的に建っていた。
壁は無事だった。窓も割れていない。カウンターも残っている。椅子が二つ壊れ、テーブルに新しい傷が増え、バオの胃が少し削れた程度で済んだ。ロアナプラ基準では、ほぼ無傷と言っていい。だが、バオはその評価を受け入れなかった。
「ほぼ無傷って何だ! 俺の精神は全損だぞ!」
朝方の店内で、バオはカウンターを叩いた。店にはまだ、ラグーン商会の面々、キャスパーの私兵たち、張の部下の一部、ホテル・モスクワの兵が残っていた。張とバラライカ、キャスパー本人はすでに別室で最後の確認を終え、外へ出る準備をしている。
レヴィは壊れた椅子に座り、煙草をくわえた。
「店が残ってんだからいいだろ」
「よくねえ! お前らが店を壊さなかったってだけで、俺が感謝すると思ったら大間違いだ!」
ベニーが端末を閉じながら言った。
「でも、今回は本当に被害が少ないよ。数字だけ見れば」
「数字だけ見るな! 俺を見ろ!」
アランが横から真面目な顔で言う。
「精神的損害を請求項目に入れます?」
バオはアランを指さした。
「お前、いい奴だな!」
レヴィが呆れる。
「今のでいい奴判定かよ」
チェキータが笑った。
「バオは追い詰められてるのよ。優しくしてあげなさい」
「誰のせいで追い詰められてると思ってんだ」
「半分くらいは、あなた?」
「お前もだろ!」
バオがさらに叫ぶ。
「全員だ! 全員俺に謝れ!」
ポーが柱のそばで低く言った。
「すまない」
バオは一瞬、言葉に詰まった。
「……いや、あんたに素直に謝られると、こっちが悪いみたいじゃねえか」
ポーは何も言わない。
レヴィが笑った。
「でかいの、強えな。謝っても勝つのか」
チェキータが頷く。
「あなたも見習ったら?」
「俺が謝ったら世界が終わる」
「なら一度見てみたいわ」
「終わるぞ」
「退屈しなさそう」
ロックはカウンターの端で、冷めたコーヒーを手にしていた。昨夜からまともに寝ていない。事件は一応、収束した。ミスター・グレイ本人は捕まらなかった。だが、代理人と連絡経路、ブルー・カイトの殻会社群、ロアナプラ内の協力者リストの一部は押さえられた。張とバラライカは、それぞれのやり方でロアナプラからグレイの手足を切るだろう。キャスパーは、自分の取引データの一部を取り戻し、同時にロアナプラ港への一度限りの入場券を手に入れた。
損をした者は多い。
だが、完全に負けた者はいない。
ロアナプラでは、そういう結末が一番面倒だった。
*
ケースの処理は、夜明け前までかかった。
ベニーとアランが中身を分類し、張の部下とホテル・モスクワの兵が監視し、キャスパーが距離を置いて見守った。ラグーン商会は第三者という名の厄介な立場に置かれた。第三者とは便利な言葉だ。実際には、全員から疑われ、全員から必要とされ、全員に説明しなければならない役だ。
ベニーは最後に、椅子へ沈み込んだ。
「もう二度と、全勢力監視付きのデータ分類なんてやりたくない」
アランも隣で肩を回した。
「同感です。でも、ちょっと面白かった」
ベニーは顔をしかめる。
「君の“面白い”の基準、かなり危険だよ」
「ベニーも途中から目が輝いてましたよ」
「それは恐怖と疲労だ」
「半分くらいは興味だったでしょう?」
レヴィが遠くから怒鳴る。
「おい、アラン! それ禁止だって言ったろ!」
アランはきょとんとした顔で返す。
「え、まだ有効なんですか?」
「一生有効だ!」
チェキータが笑う。
「レヴィ、そのうち自分でも使うわよ」
「もう使ったんだよ! だからムカついてんだ!」
バオが呻く。
「お前ら、言葉一つでよくそこまで騒げるな……」
ケースの中身は、三つに分けられた。キャスパーの取引に関わる部分は、キャスパーへ戻された。ただし、張とバラライカが確認した上で、ロアナプラに直接火種を残す情報は一部封じられた。三合会の港湾網に関わる情報は張が管理する。ホテル・モスクワの名を使った偽命令や、部隊配置を探ろうとした痕跡はバラライカが回収した。ロアナプラ内部の小物地図は、張とバラライカの双方が確認し、外へ出ないようにした。ラグーン商会は、その作業がどのように行われたかの記録だけを持つことになった。
ロックはその記録を見るたびに、少し胃が重くなった。
記録を持つということは、記憶を持つということだ。
そしてロアナプラでは、記憶もまた荷物になる。
*
朝が近づいた頃、張は店の外でキャスパーと向き合っていた。バラライカも少し離れた場所に立っている。白い商人、三合会、ホテル・モスクワ。昨夜は互いに疑い合い、互いを利用し、最後には同じ外敵を見た。仲間になったわけではない。そんな甘い話ではない。だが、少なくとも今夜だけは、同じ泥を踏んだ者同士だった。
張が言った。
「一度だけだ」
キャスパーは微笑む。
「もちろん」
「事前申告。積荷目録の提示。港湾経路は三合会が確認する」
「了解」
バラライカが続ける。
「ホテル・モスクワは無条件の拒否権を持つ。理由は説明しない」
「それも了解」
張はさらに言う。
「ラグーン商会が立ち会う」
少し離れたところで聞いていたロックは、深く息を吐いた。
「やっぱり、そこは変わらないんですね」
キャスパーが振り返る。
「ロック、君たちは信用できるからね」
レヴィが横から言った。
「嘘つけ。面倒を押しつけやすいだけだろ」
キャスパーは笑った。
「半分くらいは」
レヴィが即座に銃へ手を伸ばしかける。
「この野郎」
チェキータがその手首を軽く叩いた。
「店の前よ」
「店の中じゃなけりゃいいだろ」
「バオが見てるわ」
バオが入口から叫んだ。
「外でもやめろ! 流れ弾が店に当たる!」
バラライカはキャスパーを見た。
「白い商人。次にこの街で同じ真似をすれば、交渉はない」
「同じ真似はしないよ」
「違う真似をする気か」
キャスパーは微笑んだ。
「商人は工夫するものだ」
バラライカの目が冷える。
張は苦笑した。
「キャスパー、ここで余計な値段を上乗せしない方がいい」
「忠告として受け取っておく」
「警告として受け取ってもいい」
「では、半分ずつ」
レヴィが頭を抱えた。
「もう駄目だ、この言葉」
チェキータは楽しそうに笑った。
「似合ってきたわよ」
「黙れ」
キャスパーは最後にロックへ歩み寄った。
「ロック」
「何ですか」
「今回、君はよく働いた」
「嬉しくない褒め言葉ですね」
「なぜ?」
「あなたに褒められると、次の仕事の前振りに聞こえる」
キャスパーは声を出して笑った。
「鋭い」
「否定しないんですね」
「否定しても信じないだろう?」
「ええ」
「なら、正直でいる方が安い」
ロックは眉をひそめる。
「張さんみたいなことを言いますね」
張が少し離れた場所で微笑む。
「困るね。私の言葉を安売りしないでほしい」
キャスパーは肩をすくめた。
「商売人だからね」
ロックは静かに言った。
「この街で商売するなら、代金は金だけじゃ済みません」
「昨夜も聞いた」
「何度でも言います」
「いいね。君は看板に書いておくべきだ」
「あなたが読むために?」
「僕以外にも必要な人間は多い」
キャスパーは港の方を見た。朝の光が薄く差し始め、空は灰色から白へ変わりつつある。
「ロアナプラは高い街だ」
「ええ」
「買うには向かない」
「はい」
「でも、商売するには最高だ」
ロックは答えなかった。
キャスパーはそれを肯定と取ったのか、否定と取ったのか、ただ笑った。
*
チェキータはレヴィの前に立っていた。二人は昨夜、何度も口論し、何度も同じ方向へ動いた。相性は悪い。悪いはずだった。だが、旧冷凍倉庫でも、税関保管庫でも、桟橋でも、二人の動きは噛み合った。本人たちだけが、それを認めたがらない。
「あなた、思ったより仲間を見るのね」
チェキータが言った。
レヴィは不快そうに煙草を吸った。
「見てねえよ。邪魔されたくねえだけだ」
「それを仲間を見るって言うのよ」
「言わねえ」
「言うわ」
「撃つぞ」
チェキータは笑った。
「最後までそれね」
「お前も最後までムカつく女だったな」
「褒めてる?」
「半分くらい」
レヴィは自分で言って、顔をしかめた。
「くそ、また言った」
チェキータは楽しそうに肩をすくめる。
「移ったわね」
「最悪だ」
「でも、悪くない夜だった」
「俺は最悪の夜だった」
「生きてるじゃない」
「それを基準にすんな」
「ロアナプラ基準では高得点よ」
レヴィは少し黙ってから、煙を吐いた。
「次に来る時は、事前に言え」
「歓迎してくれるの?」
「撃つ準備をする」
「優しいわね」
「耳腐ってんのか」
チェキータは笑いながら、軽く手を上げた。
「またね、野良犬」
「二度と来んな、猟犬」
「それ、来いって聞こえるわ」
「頭の医者行け」
チェキータは笑ったまま、キャスパーの車へ向かった。
エドガーはダッチと短く言葉を交わしていた。
「いい現場読みだった」
ダッチが言うと、エドガーは頷く。
「そちらも」
「酒でも飲むか」
「仕事が終われば」
「終わっただろ」
「ボスが港へ戻るまで終わらない」
ダッチは苦く笑った。
「部下は大変だな」
「そちらも」
ダッチはラグーン商会の面々を見て、煙草に火をつけた。
「否定できんな」
アランはベニーと端末を片づけていた。
「また一緒に仕事しましょう」
ベニーは即座に首を振る。
「遠慮したい」
「でも、相性は悪くなかったですよ」
「それが嫌なんだよ。相性が悪くない相手ほど、次も巻き込まれる」
「正しいですね」
「君たちに正しいと言われると、本当に怖い」
ポーはロックの横に立っていた。彼は最後まで多くを語らなかった。ただ、必要な時に必要なものを見た。
「ポー」
ロックが声をかける。
「何」
「あなたがいなかったら、もっと遅れていました。監視塔の外を見るという発想は、俺たちにはなかった」
ポーは少しだけ首を振った。
「見えただけだ」
「それが大事なんです」
ポーは港の方を見る。
「この街は、見えないものが多い」
「ええ」
「でも、見ようとしないと、もっと見えない」
ロックは黙って頷いた。
ポーは続けた。
「お前は、見ようとする」
「それがいいことかは、わかりません」
「いいか悪いかは知らない」
ポーはロックを見た。
「でも、必要な時がある」
ロックは少しだけ笑った。
「褒めていますか」
「半分」
店の入口でレヴィが叫んだ。
「おい! また言ったぞ!」
ポーは真顔で言った。
「少し、わざと」
ロックは笑った。
*
昼前には、キャスパー一行は港へ戻った。消えた積荷の一部は完全には戻らなかったが、最も危険なデータは押さえられた。ミスター・グレイの代理人は、張とバラライカの両方が納得する形で拘束された。ブルー・カイトの殻会社群は、数日のうちに使い物にならなくなるだろう。ロアナプラ内部でグレイに協力した小物たちは、それぞれのやり方で問い詰められる。誰がどこへ消えるかは、ロックは考えないことにした。考えれば眠れなくなる。
キャスパーの船が港を離れる時、白い影のような彼の姿が甲板に見えた。
レヴィは岸壁からそれを見て言った。
「あいつ、絶対また来るな」
ダッチは煙草を吸いながら答えた。
「来るだろうな」
ベニーが疲れた声で言う。
「できれば、十年くらい後にしてほしい」
ロックは苦笑した。
「たぶん、そんなに待たないでしょう」
レヴィがロックを見る。
「お前、嫌な予言すんな」
「予言じゃない。嫌な予感だ」
ダッチは短く言った。
「この街では、だいたい当たる」
船はゆっくり離れていった。ロアナプラの港には、また別の船が入ってくる。違う船名、違う荷物、違う嘘。街は止まらない。昨日の騒ぎが終われば、今日の騒ぎが始まるだけだ。
*
ラグーン商会の事務所に戻ると、机の上に花束が置かれていた。
全員が一瞬、固まった。
レヴィが最初に言った。
「爆弾か?」
ベニーが慌てて近づく。
「触らないで。確認する」
ロックは花束の横にあるカードを見た。
そこには、整った文字でこう書かれていた。
**楽しい港だった。
また来るよ。
請求書は半分だけ受け取る。
キャスパー**
沈黙。
次の瞬間、レヴィが叫んだ。
「半分だけって何だよ!」
ベニーは深く椅子に沈んだ。
「やっぱり感染してる」
ロックはカードを見つめた。
「もう世界規模ですね」
ダッチは煙草を取り出しながら言った。
「請求書は全部送れ」
「払いますかね」
ベニーが聞くと、ダッチは当然のように答えた。
「払わせる」
レヴィは花束を睨んでいる。
「この花、どうすんだ」
ロックは少し考えた。
「バオさんに持っていきますか。精神的損害の見舞いとして」
レヴィは鼻で笑った。
「あいつ、花で許すかよ」
ベニーが言う。
「花束に請求書を添えれば?」
ダッチが頷いた。
「いい案だ」
ロックは苦笑した。
「花より請求書が本体ですね」
電話が鳴った。
全員が一斉に見る。
レヴィが嫌そうに言った。
「今度は誰だよ」
ロックが受話器を取った。
「ラグーン商会です」
『ロック』
張だった。
穏やかな声。だが、昨夜より少しだけ軽い。
「張さん」
『白い商人は帰ったかい』
「はい。一応」
『一応、か。いい言葉だ』
「また来ますかね」
『来るだろうね。ロアナプラを市場として見た商人は、だいたい戻ってくる』
「歓迎しますか」
『歓迎はしない。ただ、席を用意することはある』
「怖い言い方ですね」
『ロアナプラでは、丁寧な言葉ほど怖いものだよ』
ロックは少し笑った。
「今回の件は、終わったんでしょうか」
張はすぐには答えなかった。
『ミスター・グレイの手は、この街からしばらく引くだろう。だが、彼のような者はまた来る。名前を変え、会社を変え、別の港から。外の人間にとって、ロアナプラは危険で、高くて、魅力的だ』
「迷惑な魅力ですね」
『その通りだ』
張は少しだけ声を低くした。
『ロック、記録は大事に持っておきなさい』
「うちが持っている作業記録ですか」
『そう。誰が何を見て、何を見なかったことにしたか。その記録は、いつか役に立つ』
「役に立つ日が来ない方がいいんですが」
『そういうものほど、役に立つ』
ロックは黙った。
張は最後に言った。
『請求書は、こちらにも回していい。ただし、白い商人の分まで乗せすぎないように』
「善処します」
『便利な言葉だね』
電話は切れた。
ロックは受話器を置いた。
レヴィが聞く。
「何だって?」
「請求書を回していいそうだ」
ベニーが少しだけ明るい顔になる。
「本当に?」
「ただし、キャスパーの分まで乗せすぎるな、と」
ダッチは煙草に火をつけた。
「乗せるなとは言っていないな」
レヴィが笑った。
「悪党だな、ダッチ」
「商売だ」
ベニーは端末を開いた。
「じゃあ、請求書を作るよ。宛先は三合会、ホテル・モスクワ、キャスパー、バオの精神的損害見舞い、あと……」
レヴィが言う。
「ラグーン商会の迷惑料」
ロックが言った。
「自分たちに請求するんですか」
「誰か払えよ」
「誰も払いません」
ダッチが煙を吐いた。
「書くだけなら自由だ」
ベニーは真顔で言った。
「自由って、時々むなしいね」
窓の外では、ロアナプラの昼が始まっていた。港ではまた荷物が動き、どこかで誰かが嘘をつき、別の誰かがその嘘に値段をつけている。ミスター・グレイの灰色は遠ざかった。白い商人の船も見えなくなった。だが、港にはまだ、彼の影が残っている。
ロックは机の上の花束を見た。
白い花だった。
この街には似合わないほど、白い。
だからこそ、妙に目立った。
黒い港に、白い商人の影が一度落ちた。
そして街は、その影を完全には忘れない。