Guns & Garlands — 銃と花輪   作:たこ焼き 龍月

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Guns & Garlands III 赤い合唱 序章:赤い命令

 

 ロアナプラの夜は、死んだものまで歩かせる。古い名前、古い借り、古い弾痕、古い命令。どれも、とっくに終わった顔をして街の底に沈んでいるくせに、ふとした拍子に浮かび上がってくる。酒場の壁に残った穴。港の倉庫に貼られた古い警告文。誰も使っていないはずの通信回線。名を変え、旗を変え、国を変えた者たちが流れ着くこの街では、過去でさえ密輸品の一つだった。問題は、いつ、誰が、それを箱から出すかだけだ。

 

 その命令が届いたのは、午前三時を少し回った頃だった。

 

 港湾地区の北側、冷えたコンクリートと錆びた鉄骨に囲まれた古い倉庫。表向きは廃業した輸入雑貨業者の倉庫ということになっている。実際には、ホテル・モスクワが港湾部の動きを見るために置いた末端拠点の一つだった。大きな拠点ではない。兵は少なく、置かれている装備も派手なものではない。だが、港の出入りを眺めるには都合がよかった。ロアナプラでは、派手な建物よりも、誰も気に留めない小さな窓の方が役に立つ。

 

 その夜、当直についていたのは若い兵だった。名前はイリヤ。ロアナプラへ来てまだ日が浅い。ホテル・モスクワの兵として最低限の訓練は受けている。だが、ロアナプラの夜が発する音の多さにはまだ慣れていなかった。遠くで鳴る車のブレーキ音。港のクレーンが軋む音。酔った男の笑い声。どこかで瓶が割れる音。どれもが警報に聞こえ、どれもが日常でもある。その見分け方を覚えるには、もう少し時間が必要だった。

 

 通信端末が短く鳴った。

 

 イリヤは顔を上げた。通常の連絡ではない。古い回線を経由した短い命令文。画面に表示された文字列は硬く、妙に古めかしかった。

 

 第七倉庫区画に搬入された通信機材を確認。指定品を回収し、旧水路倉庫へ移送せよ。

 

 彼は眉をひそめた。書式が違う。現在のホテル・モスクワが使う命令文の形式ではない。署名もおかしい。上位拠点からの命令なら必ず入る確認符号が一つ足りない。だが、そのかわりに、末尾に見慣れない符丁があった。

 

 いや、見慣れないのではない。

 

 訓練資料の奥で一度だけ見たことがある。

 

 古い符丁だった。現在は使用しない。使用しないはずのもの。だが、ホテル・モスクワの内部記録の中では、本物として扱われている符丁。

 

 イリヤは喉を鳴らした。

 

 動くべきか。待つべきか。命令文は偽物に見える。しかし、符丁だけは本物だ。ロアナプラで躊躇は命取りになる。だが、ホテル・モスクワで誤った命令に従うこともまた命取りだった。

 

 彼は数秒だけ迷い、上位へ報告を上げた。

 

 その判断は正しかった。もし彼が独断で動いていれば、その夜のロアナプラはもっと早く騒がしくなっていただろう。

 

     *

 

 報告は数分後、ボリスの手元へ届いた。

 

 ボリスは仮眠を取っていなかった。机の上には港湾地区の見取り図と、前夜までに集められた複数の報告書が並んでいる。ミスター・グレイの騒ぎは一応片づいた。キャスパー・ヘクマティアルは一度ロアナプラを離れた。しかし、街が完全に静かになることはない。ホテル・モスクワは、静けさの中にある小さな歪みを拾うために存在している。

 

 ボリスは命令文を一読した。

 

 顔色は変わらなかった。

 

 ただ、目だけがわずかに細くなった。

 

「偽物だ」

 

 そばにいた兵が聞き返す。

 

「確認なさいますか」

 

「必要ない」

 

 ボリスは静かに言った。

 

「この書式は古い。現在の命令系統では使わない。署名も違う。送信経路も不自然だ」

 

「では、破棄しますか」

 

「いや」

 

 ボリスは画面の末尾に視線を落とした。

 

「問題は、ここだ」

 

 符丁。

 

 兵はその文字列を見たが、意味まではわからなかった。現在のホテル・モスクワの若い者たちにとって、それは単なる古い記号にしか見えない。だが、ボリスにとっては違った。そこには、まだ雪の匂いが残っていた。泥と金属と凍った息。遠い戦場の、もう帰れない時代の匂いが。

 

「この符丁を知る者は限られています」

 

 兵が言う。

 

「その通りだ」

 

「内部の者でしょうか」

 

 ボリスはすぐには答えなかった。

 

 内部の者。過去の関係者。流出した記録。あるいは、死んだはずの声を掘り返した誰か。答えを急ぐには、選択肢が多すぎた。

 

「大尉に報告する」

 

 ボリスは命令文を保存し、端末を閉じた。

 

 ホテル・モスクワの拠点は静かだった。廊下の明かりは落とされ、壁には冷たい影が伸びている。ここはロアナプラでありながら、ホテル・モスクワの施設だけは別の空気を持っている。酒場や港の混沌とは違う、軍隊の残り香。国を失い、戦場を失い、それでも規律だけは手放さなかった者たちの匂いだ。

 

 バラライカの執務室には、まだ灯りがついていた。

 

 ノックの後、短い許可が返る。

 

「入れ」

 

 ボリスは扉を開けた。

 

 バラライカは机の向こうに座っていた。灰皿には短くなった煙草が押しつけられ、机上には港湾部の地図、いくつかの写真、そして張から回ってきたと思われる港湾業者の一覧が置かれている。先の事件の余波はまだ完全には消えていない。キャスパーが残した一度限りの入港権。その行使日程について、張とホテル・モスクワはすでに確認を始めていた。

 

 ボリスは無言で端末を差し出した。

 

 バラライカは画面に目を落とした。

 

 命令文を読む間、彼女の表情は動かなかった。最初の一行、二行目、移送先、署名。どれも、彼女にとっては偽物だとわかるものだった。だが、末尾の符丁に視線が触れた瞬間、部屋の空気がわずかに変わった。

 

 冷えた。

 

 ボリスは、それを感じた。怒りではない。少なくとも、まだ表には出ていない。だが、バラライカの中で何かが静かに向きを変えたのがわかった。

 

「誰が受けた」

 

「港湾北側拠点のイリヤです。独断では動かず、報告を上げました」

 

「よろしい」

 

 バラライカはそう言った。

 

 短い一言だった。だが、それは若い兵にとって命を救う評価になるだろう。

 

 彼女は画面をもう一度見た。

 

「死んだ書式だな」

 

「はい」

 

「署名も死んでいる」

 

「はい」

 

「だが、符丁だけは生きている」

 

 ボリスは無言で頷いた。

 

 バラライカは椅子から立ち上がった。窓の外にはロアナプラの夜が広がっている。港の明かり、遠くのネオン、黒い海。そのすべてが、彼女の目には一枚の作戦地図のように映っていた。

 

「この符丁を知る者は、当時の部隊関係者か、記録に触れた者に限られる」

 

「記録保管系統からの流出も考えられます」

 

「あるいは、流出させた者がまだ生きている」

 

「はい」

 

 バラライカは煙草を一本取り出したが、火はつけなかった。指の間で白い紙巻きを転がす。沈黙が長くなる。ボリスは待った。大尉の沈黙には意味がある。急かす必要はなかった。

 

 やがて、バラライカは低く言った。

 

「死んだ声で、私の兵を動かそうとしたか」

 

 その声は静かだった。

 

 だからこそ、部屋の中にあるものがすべて固まったように思えた。

 

「目的は、通信機材の回収でしょうか」

 

 ボリスが問う。

 

「表向きはな」

 

「裏は」

 

「反応を見ることだ」

 

 バラライカは端末を机に置いた。

 

「若い兵が動くか。報告を上げるか。ボリス、お前がどう判断するか。私がどう動くか。命令が本物か偽物かを、ホテル・モスクワがどう見分けるか。それを見ている」

 

 ボリスの眉がわずかに動いた。

 

「観測されていますか」

 

「おそらく」

 

「では、敵は我々の内側ではなく、外側から命令系統を試している」

 

「外側から、内側に手を入れようとしている」

 

 バラライカはようやく煙草に火をつけた。

 

「ミスター・グレイの件で、ロアナプラの勢力図は外へ漏れかけた。あれは街の地図だった。今度は、軍隊の地図を欲しがっている者がいる」

 

 ボリスはすぐに思い至った。

 

「庭師」

 

 バラライカは煙を吐いた。

 

「まだ断定はしない。だが、花輪の根がロアナプラにあるなら、こういう掘り方をする者がいても不思議ではない」

 

 花輪。

 

 その名が出た瞬間、ボリスの表情にもわずかな緊張が走った。ロアナプラで起きた一連の騒ぎ。通信を束ね、命令を偽り、声を奪う可能性を持つ危険なシステム。その本体はまだ完全には見えていない。庭師と呼ばれる存在が、その根を各地に伸ばしているとされる。

 

 そして今、その根の一本が、ホテル・モスクワの過去へ触れている。

 

「緘口令を」

 

 バラライカが言った。

 

「この命令について知る者を絞れ。若い兵には、よく報告したと伝えろ。だが、詳細は広げるな」

 

「了解しました」

 

「それから、キャスパーの入港予定を確認しろ」

 

 ボリスは目を細めた。

 

「関連があると?」

 

「この命令は、第七倉庫区画の通信機材を指定している。そこに搬入予定の荷を持ち込む者が誰か、偶然では済まん」

 

「キャスパー・ヘクマティアル」

 

「白い商人は、いつも半分だけ知っている」

 

 バラライカは煙草を灰皿へ置いた。

 

「そして、残り半分を商売にする」

 

     *

 

 同じ頃、ロアナプラ港の沖合には、一隻の貨物船が入港待ちをしていた。

 

 船は白かった。夜の海の上では、その白さがかえって不気味に見える。船体には表向きの運送会社名が書かれているが、その奥にいる人物を知っている者にとって、そんな文字は紙の上の飾りにすぎない。

 

 キャスパー・ヘクマティアルは、甲板の上で夜風を受けていた。

 

 白いスーツではない。船上ではさすがに少し実用的な服装をしている。だが、それでもどこか場違いに見える清潔さがあった。ロアナプラの港へ向かう男としては、白すぎる。もっとも、本人はそれをよくわかっている。

 

 背後にチェキータが立っていた。腕を組み、港の明かりを眺めている。

 

「また来ちゃったわね」

 

「一度だけの入港権だからね。使わないと損だ」

 

「使ったらもっと損するかも」

 

「商売はいつもそうだよ」

 

 チェキータは呆れたように笑った。

 

「張も大尉も、歓迎しないわよ」

 

「歓迎されに行くわけじゃない。港に入るだけだ」

 

「あなたの“だけ”は信用できないのよね」

 

「ひどいな」

 

「半分くらいは本気で言ってる」

 

 キャスパーは笑った。

 

「残り半分は?」

 

「もっと本気」

 

「それは全部じゃないか」

 

「気づいた?」

 

 少し離れた場所で、エドガーが積荷目録を確認していた。アランは端末を片手に、港湾側との通信記録を見ている。ポーは無言でコンテナの並びを見ていた。彼はいつもそうだ。目立つほど大きいのに、黙っていると妙に風景に溶ける。だが、見ていないわけではない。むしろ、誰よりも見ている。

 

 アランが声を上げた。

 

「ボス、港湾側から再確認です。中古通信機材、港湾設備部品、医療用発電機。申告内容に変更なしでいいですね」

 

「いいよ」

 

「張さん側とホテル・モスクワ側、両方が確認に入ります」

 

「当然だね」

 

 チェキータが言う。

 

「当然って顔してるけど、あなた、何か隠してる?」

 

 キャスパーは港の明かりを見たまま答えた。

 

「隠しているというより、全部を説明していない」

 

「最悪ね」

 

「商売では普通だよ」

 

「あなたの普通は、他人の胃を悪くするわ」

 

 エドガーが低く言った。

 

「積荷の中に、旧式の通信部品が混ざっている」

 

 チェキータの表情が少し変わる。

 

「それ、申告してるの?」

 

「中古通信機材の一部としては申告済みだ」

 

 アランが端末を見ながら言う。

 

「ただし、型番が古いですね。旧ソ連圏の軍用規格に近い。表向きは民生転用された廃棄部品扱いですけど」

 

 チェキータはキャスパーを見た。

 

「それをロアナプラに持ち込む理由は?」

 

「買い手がいる」

 

「誰?」

 

「まだ言えない」

 

「やっぱり最悪」

 

 ポーが初めて口を開いた。

 

「匂いが違う」

 

 キャスパーは振り返る。

 

「何の?」

 

「荷物」

 

「旧いから?」

 

 ポーは首を振った。

 

「誰かが見ている」

 

 チェキータの目が鋭くなる。

 

「港から?」

 

「たぶん」

 

 キャスパーは面白そうに目を細めた。

 

「ロアナプラは歓迎の仕方が独特だね」

 

 エドガーが短く言った。

 

「歓迎ではない」

 

「わかってる」

 

 キャスパーは笑った。

 

「だから面白い」

 

     *

 

 その白い船を、張も見ていた。

 

 三合会の事務所は、港を直接見下ろせる場所にはない。だが、張には港を見る目がいくつもある。人、帳簿、許可証、電話、噂、沈黙。港湾地区で何かが動けば、いずれ彼の耳へ届く。キャスパーの再入港は、もちろん事前に把握していた。

 

 張は夜更けの事務所で、静かに茶を飲んでいた。卓の上にはキャスパーの積荷目録がある。横にはホテル・モスクワから回ってきた短い問い合わせ。

 

 第七倉庫区画に搬入予定の通信機材について確認したい。

 

 差出人はボリス。

 

 張はその文面を見て、薄く笑った。

 

「大尉のところも、何か嗅いだか」

 

 部下が控えめに言う。

 

「キャスパーの積荷に問題が?」

 

「問題がない荷など、この港には入ってこない」

 

 張は目録の一項目を指先で叩いた。

 

「中古通信機材。便利な言葉だ。古いものを入れる時にも、新しい嘘を入れる時にも使える」

 

「港湾許可は予定通りに?」

 

「予定通りだ」

 

 部下が少し驚いた顔をする。

 

「止めないのですか」

 

「止めれば、白い商人は別の港を使う。入れれば、我々の目の前を通る」

 

 張は茶器を置いた。

 

「ロアナプラでは、見えない荷物より、見える厄介事の方がまだ扱いやすい」

 

「ホテル・モスクワにはどう返答を」

 

「確認に応じる、と。大尉には、こちらも同席すると伝えなさい」

 

「ラグーン商会は?」

 

 張は少し考えた。

 

「ロックを呼ぼう」

 

「また、ですか」

 

「彼は面倒を押しつけられることに慣れてきた」

 

 部下は何も言わなかった。

 

 張は窓の外を見た。ロアナプラの夜は濃い。だが、どこかでまた新しい火種が赤くなり始めている。

 

「白い商人が持ち込む荷に、赤い命令か」

 

 張は小さく呟いた。

 

「この街は、色が多すぎるね」

 

     *

 

 ラグーン商会の事務所では、電話が鳴る前から嫌な予感がしていた。

 

 ベニーが端末の前で、何かの通信ログを眺めている。ダッチはソファに座り、新聞を広げているが、ほとんど読んでいない。レヴィは机に足を投げ出し、退屈そうに煙草を吸っている。ロックは書類の整理をしていた。前回の事件で発生した請求書の処理が、まだ完全には終わっていない。三合会、ホテル・モスクワ、キャスパー、バオ。宛先だけで頭が痛くなる。

 

 電話が鳴った。

 

 レヴィが即座に言った。

 

「出るな」

 

 ロックは受話器を見た。

 

「仕事かもしれない」

 

「だから出るなって言ってんだよ」

 

 ダッチが新聞を下ろした。

 

「ロック」

 

「はい」

 

「出ろ」

 

 ロックは受話器を取った。

 

「ラグーン商会です」

 

『ロック』

 

 張の声だった。

 

 ロックは目を閉じた。

 

「張さん」

 

 レヴィが遠くから言う。

 

「ほら見ろ」

 

 張は穏やかに続けた。

 

『白い商人が戻ってくる』

 

「キャスパーですか」

 

『そう。外伝で約束した一度だけの入港権を、さっそく使うらしい』

 

「嫌な予感しかしません」

 

『よい勘だ』

 

「褒めないでください」

 

『積荷に中古通信機材がある。ホテル・モスクワがそれを気にしている』

 

 ロックの表情が変わった。

 

「ホテル・モスクワが?」

 

『正確には、ボリスから確認が来た。大尉も知っているだろうね』

 

 ダッチがロックの顔を見て、新聞を畳んだ。

 

 ロックは受話器を握り直す。

 

「うちに何を?」

 

『港での確認に立ち会ってほしい』

 

「また立ち会いですか」

 

『便利だからね』

 

 ロックは深く息を吐いた。

 

「その言葉、最近よく聞きます」

 

『便利な言葉だからね』

 

 レヴィが机を蹴った。

 

「断れ!」

 

 ロックは受話器を押さえながら言う。

 

「レヴィが断れと言っています」

 

『彼女らしい』

 

「俺も断りたいです」

 

『君らしくないね』

 

「俺らしさを盾にしないでください」

 

 張は少し笑ったようだった。

 

『ロック。今回は、ただの港湾トラブルではないかもしれない』

 

「花輪ですか」

 

 事務所の空気が変わった。

 

 ベニーが顔を上げる。ダッチの目が細くなる。レヴィも足を下ろした。

 

 電話の向こうで、張は少し沈黙した。

 

『まだ断定はしない。ただ、ホテル・モスクワが通信機材に反応している。庭師の根がロアナプラに残っているなら、見逃すわけにはいかない』

 

「ココには?」

 

『おそらく、すぐ来る』

 

「もう来ている可能性もありますね」

 

『そういう人だ』

 

 ロックは受話器を握ったまま、窓の外を見た。ロアナプラの夜はいつも通りだ。だが、張の声の裏にあるものが、いつもとは違った。三合会の港湾問題ではない。キャスパーの商売だけでもない。ホテル・モスクワが動いている。その理由が通信機材なら、嫌でも花輪の影がちらつく。

 

「わかりました。港へ行きます」

 

 レヴィが叫んだ。

 

「おい!」

 

 ロックは受話器を置いた。

 

 レヴィが睨む。

 

「何で受けてんだよ」

 

「受けないと、ホテル・モスクワとキャスパーと三合会が同じ港で勝手にやり合います」

 

「いいじゃねえか。見物しようぜ」

 

 ベニーが小さく言う。

 

「その中に花輪が絡んでたら、見物では済まないよ」

 

 ダッチは立ち上がった。

 

「行くぞ」

 

 レヴィは舌打ちした。

 

「結局そうなるんだよな」

 

 ロックは静かに言った。

 

「今回は、ホテル・モスクワが先に反応しています」

 

 ダッチが頷く。

 

「あの女が騒ぐなら、ただの中古部品じゃない」

 

 ベニーは端末を閉じた。

 

「僕も行く。通信機材って聞いた時点で、嫌な予感しかしない」

 

 レヴィは煙草を灰皿へ押しつけた。

 

「また白い兄貴かよ。あいつ、今度会ったら請求書で殴る」

 

 ロックは苦笑した。

 

「たぶん、それでも半分しか払わないでしょうね」

 

「全部払わせる」

 

 ダッチは扉へ向かいながら言った。

 

「その話は後だ。まずは港だ」

 

     *

 

 港には、夜の湿気が溜まっていた。

 

 キャスパーの船はまだ沖にいる。入港許可の最終確認を待っている状態だった。第七倉庫区画には、すでに三合会の港湾関係者、ホテル・モスクワの監視役、そして税関もどきの顔をした男たちが集まり始めている。ロアナプラでは、正式な手続きと非公式な圧力が同じテーブルに乗る。

 

 ラグーン商会が到着した時、先にいたのはボリスだった。

 

 大柄な身体に、いつもの落ち着いた表情。だが、その目は普段よりさらに硬い。ロックはそれを見て、今回の件が単なる確認ではないことを改めて感じた。

 

「ボリスさん」

 

「ロック」

 

 ボリスは短く頷いた。

 

「ダッチ。レヴィ。ベニー」

 

 ダッチが言う。

 

「大尉は?」

 

「来る」

 

 その言葉が終わるのとほぼ同時に、黒い車が倉庫前に止まった。

 

 バラライカが降りてくる。

 

 港の湿った空気が、彼女の周囲だけ冷たくなるようだった。レヴィが小さく舌打ちする。ベニーは端末を抱え直す。ロックは自然と背筋を伸ばした。

 

 バラライカはロックたちを見ると、短く言った。

 

「来たか」

 

 ダッチが答える。

 

「呼ばれたからな」

 

「今回は運ぶ仕事ではない」

 

「なら何だ」

 

「死んだ命令の匂いを嗅ぐ仕事だ」

 

 レヴィが顔をしかめる。

 

「詩人みてえなこと言ってんな」

 

 バラライカの視線がレヴィへ向く。

 

「お前には難しかったか」

 

「あ?」

 

 ロックが慌てて間に入る。

 

「その通信機材が問題なんですね」

 

 バラライカはロックへ視線を戻した。

 

「そうとは限らん。だが、それが呼び水になっている可能性がある」

 

「呼び水?」

 

 ボリスが端末を出し、短い命令文を表示した。

 

 ロックはそれを読んだ。古い書式。通信機材を回収せよという命令。末尾の符丁の意味はわからない。だが、ボリスとバラライカの反応で、それがただの文字列ではないことは理解できた。

 

「これは」

 

「偽命令だ」

 

 バラライカが言う。

 

「だが、符丁だけは本物だ」

 

 ベニーが画面を覗き込み、顔をしかめた。

 

「送信経路が変です。古い回線を経由してる。わざと古く見せているというより、本当に古い経路を一部使ってるかもしれない」

 

 ロックはベニーを見る。

 

「追えるか?」

 

「すぐには無理。でも、港の通信設備と繋がっているなら、何か残ってるかもしれない」

 

 バラライカは言った。

 

「この命令は、我々を動かすためだけのものではない」

 

 ロックは顔を上げた。

 

「反応を見るため」

 

「そうだ」

 

 バラライカの声は静かだった。

 

「誰が命令を信じるか。誰が疑うか。誰が報告するか。誰が動くか。それを見ている者がいる」

 

 ロックは背筋に冷たいものを感じた。

 

 花輪。庭師。ヨナの言葉。

 

 庭師は、花輪を一つだけ作っていない。

 

 そして今、庭師は通信だけではなく、命令が人間をどう動かすかを見ている。

 

 その時、港の沖で船の汽笛が鳴った。

 

 キャスパーの貨物船が、入港を開始した。

 

     *

 

 同じ時刻、別の場所で、ココ・ヘクマティアルはその汽笛を聞いていた。

 

 HCLIが確保した仮拠点の一室。窓の外にはロアナプラの港が遠く見える。レーム、バルメ、マオ、ワイリがそれぞれ装備と資料を確認している。ココは窓辺に立ち、港を見ていた。表情はいつものように明るい。だが、その目は笑っていない。

 

 卓の上には、短い通信ログがあった。

 

 庭師。花輪。ロアナプラの根。

 

 そして、新しく浮かんだ語。

 

 Red Choir

 

 ワイリが端末を見ながら言う。

 

「赤い合唱、ねえ。趣味悪い名前だな」

 

 マオが顔をしかめる。

 

「合唱って何だ。通信装置に歌でも歌わせる気か」

 

 レームが低く言う。

 

「命令を束ねる、という意味かもしれん」

 

 バルメはココを見る。

 

「ココ」

 

 ココは振り返った。

 

「わかってる」

 

「危険です」

 

「うん」

 

「ホテル・モスクワが絡むなら、なおさらです」

 

「うん」

 

 バルメの目が少し鋭くなる。

 

「ココ」

 

 ココは少しだけ笑った。

 

「欲しがってる顔をしてた?」

 

 バルメは答えなかった。

 

 その沈黙が答えだった。

 

 ココは窓の外を見た。白い船が港へ入ってくる。兄の船。キャスパーの船。彼はどこまで知っているのか。全部か。半分か。あるいは、半分を知らないふりで売るつもりなのか。

 

「赤い合唱」

 

 ココは小さく呟いた。

 

「花輪が声を束ねるなら、これは命令を束ねるもの」

 

 レームが言う。

 

「軍隊向けか」

 

「軍隊だけじゃない。人間が、どの声を本物だと思うか。その仕組みを集めている」

 

 バルメは嫌悪を隠さなかった。

 

「人の忠誠を部品のように扱う気ですか」

 

「庭師なら、やる」

 

 ココは笑っていなかった。

 

「そして、私なら価値がわかる」

 

 部屋が沈黙した。

 

 バルメが一歩近づく。

 

「ココ」

 

「大丈夫」

 

「大丈夫ではありません」

 

 ココは少し困ったように笑った。

 

「そうね」

 

 その時、通信端末が鳴った。

 

 表示された名前を見て、ココは目を細めた。

 

 ロック。

 

 彼女は通信を繋いだ。

 

『ココ』

 

「ロック。港?」

 

『はい。ホテル・モスクワが偽命令を受けています。古い符丁を使ったものです。キャスパーの積荷に旧式通信部品があります』

 

「やっぱり」

 

『やっぱり?』

 

 ココは黙った。

 

 ロックの声が少し低くなる。

 

『ココ。知っていたんですか』

 

「半分くらい」

 

 通信の向こうで、レヴィの怒鳴り声がかすかに聞こえた。

 

『その言い方をやめろって言ってんだろ!』

 

 ココは少しだけ笑った。

 

『笑い事じゃありません』

 

「うん。笑い事じゃない」

 

 ロックは言った。

 

『赤い合唱、という言葉を知っていますか』

 

 ココの笑みが消えた。

 

 短い沈黙。

 

「知ってる」

 

『なら、来てください。たぶん、これは花輪の根です』

 

「行くわ」

 

『ココ』

 

「何?」

 

『欲しがらないでください』

 

 ココは答えなかった。

 

 ロックは続けた。

 

『あなたがこれを欲しがるなら、今度こそ止めます』

 

 ココは窓の外の港を見た。

 

 死んだ国の声。ホテル・モスクワ。キャスパーの船。庭師の根。赤い合唱。

 

 危険だとわかる。

 

 壊すべきだともわかる。

 

 そして、知りたいと思っている自分もいる。

 

「ええ」

 

 ココは静かに答えた。

 

「見張っていて」

 

     *

 

 キャスパーの船が岸壁へ近づく。

 

 港湾作業灯が白い船体を照らし、黒い海に長い影を落とした。三合会の人間が係留位置を確認し、ホテル・モスクワの兵が積荷区画を見ている。ラグーン商会はその中間に立っている。ロックは、いつものように最も居心地の悪い位置にいた。

 

 バラライカは白い船を見上げていた。

 

 その横にボリスが立つ。

 

「大尉」

 

「わかっている」

 

 バラライカの声は低かった。

 

「これはまだ始まりだ」

 

 船上にキャスパーの姿が見えた。彼は岸壁にいる面々を見下ろし、まるで旧友に会ったかのように軽く手を上げた。

 

「やあ。ずいぶん厳重な歓迎だね」

 

 レヴィが下から叫んだ。

 

「歓迎じゃねえ! 検品だ、検品!」

 

 キャスパーは楽しそうに笑った。

 

「君に検品される荷物は、少し可哀想だ」

 

「なら全部開けてやるよ!」

 

 チェキータが船上から顔を出す。

 

「レヴィ、また会ったわね」

 

「帰れ、猟犬」

 

「来たばかりよ、野良犬」

 

 バラライカは二人のやり取りを無視し、キャスパーだけを見ていた。

 

「白い商人」

 

「大尉」

 

「お前の荷の中に、死んだ国の声が混ざっている」

 

 キャスパーの笑みが少しだけ静かになった。

 

「詩的だね」

 

「ふざけるな」

 

 港の空気が冷える。

 

 張の部下が息を呑み、レヴィも黙った。ロックはバラライカの横顔を見た。怒っている。だが、その怒りは炎ではない。凍った刃に近い。

 

 キャスパーはゆっくりと答えた。

 

「中古通信機材だよ。申告通りだ」

 

「その中に、旧軍用規格の部品がある」

 

「古い部品は、たいてい元軍用だ」

 

「これは違う」

 

 バラライカは一歩前へ出た。

 

「この街に、死んだ命令を持ち込むな」

 

 キャスパーは黙った。

 

 その沈黙は、知らなかった者の沈黙ではない。

 

 ロックはそう感じた。

 

 ベニーが端末を見ながら顔を上げる。

 

「通信反応があります。港湾地下の古い回線が、一瞬だけ応答しました」

 

 ボリスの目が鋭くなる。

 

「どこだ」

 

「第七倉庫区画の下。かなり古い中継設備です。生きているはずがないのに、今、反応した」

 

 その瞬間、ホテル・モスクワの別拠点から通信が入った。

 

 ボリスが受ける。

 

 若い兵の声が、緊張を帯びていた。

 

『こちら南側拠点。再び命令を受信。内容、旧水路倉庫への集結命令。符丁あり』

 

 ボリスはバラライカを見た。

 

 バラライカは静かに言った。

 

「全拠点へ通達」

 

 ボリスが姿勢を正す。

 

「はい」

 

「その命令には従うな。だが、受信した者はすべて報告しろ。命令文、時刻、送信経路、受信者の反応。すべて記録しろ」

 

「了解」

 

 ロックは思わず言った。

 

「反応を記録するんですか」

 

 バラライカはロックを見た。

 

「敵が我々を観測するなら、こちらも敵の観測を観測する」

 

 ロックは息を呑んだ。

 

 それは冷静な判断だった。だが、同時に危険でもある。庭師がホテル・モスクワの反応を見ているなら、バラライカは部下たちをその観測の中に立たせることになる。兵たちは試される。命令が本物か偽物か。従うか疑うか。恐れるか耐えるか。

 

 バラライカはそれをわかっている。

 

 わかった上で、立たせる。

 

 ロックは、この人が軍人なのだと改めて思った。

 

 その時、ベニーの端末がもう一度鳴った。

 

「別の反応。港湾地下だけじゃない。ホテル・モスクワの兵站回線と重なってる。これ、ただの通信機材じゃない」

 

 キャスパーは港の上から言った。

 

「どうやら、僕の荷物は人気者らしい」

 

 レヴィが叫ぶ。

 

「他人事みてえに言うな!」

 

 キャスパーはロックを見た。

 

「ロック。ココは?」

 

「来ます」

 

「そう」

 

 キャスパーは少しだけ笑った。

 

「なら、いよいよ面白くなる」

 

 ロックはその笑顔を見て、はっきりと言った。

 

「面白くしないでください」

 

 キャスパーは答えなかった。

 

 バラライカは白い船を見上げ、静かに命じた。

 

「積荷を開けろ」

 

 ボリスが動く。

 

 ホテル・モスクワの兵たちが配置につく。

 

 三合会の監視役が港湾記録を押さえる。

 

 ベニーが端末を構える。

 

 ラグーン商会はまた、最悪の立ち位置に置かれる。

 

 そして、ロアナプラの港の地下で、死んだはずの回線がもう一度だけ震えた。

 

 誰かが、どこかで拍手をしているような短い信号。

 

 赤い合唱は、まだ一音目を鳴らしたばかりだった。

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