Guns & Garlands — 銃と花輪   作:たこ焼き 龍月

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第三章 二人の「チェスプレイヤー」

 

 

 廃工場は、朝靄の向こうに沈んでいた。

 

 ジャングルの奥で、そこだけが異物のように見えた。

 

 錆びた鉄骨。割れた窓。蔦に覆われた外壁。崩れかけた煙突。かつては人間の都合で森を切り開き、機械の音と労働者の怒号を響かせていたはずの場所。

 

 今は、森に食われかけている。

 人間が作ったものは、放っておけば自然に戻る。

 ただし、きれいには戻らない。

 

 錆と泥と油と腐葉土が混ざり、どちらのものともつかない臭いを発していた。

 ロックはその建物を見上げながら、息を整えた。

 

「……ここですか」

 

 ココは地図を畳んで、にっこり笑った。

 

「目的地よ」

 

 レヴィが銃を肩に担ぎ、周囲を見回す。

 

「目的地っていうより、死人が住んでそうな場所だな」

 

 バルメが即座に返す。

 

「死人は撃ってこないから、まだまし」

「たまに撃ってくる奴もいるぜ。この街じゃ、死んだあとも借金取りから逃げられねえ」

「ここはロアナプラじゃない」

「今の面子を見ろよ。だいたいロアナプラが歩いてきたようなもんだろ」

 

 ルツが周囲を警戒しながら呟く。

 

「静かすぎる」

 

 マオが頷いた。

 

「虫の音はある。鳥もいる。だが、人の気配がない」

 

 ワイリが壊れた門を見て楽しそうに言う。

 

「いい建物だね。壊れかけてるけど、まだちゃんと立ってる。こういうのは崩し方に性格が出るんだ」

 

 ベニーが疲れた顔で言う。

 

「頼むから、建物を見るたびに崩す前提で語らないでくれ」

「見てるだけだよ」

「君の場合、見てるだけの次が測量で、その次が爆破計画なんだよ」

「順序は大事だからね」

「そういう問題じゃない」

 

 レームは工場の入口を見つめていた。

 彼の顔から、いつもの飄々とした雰囲気が少し薄れている。

 

「嫌な静けさですな」

 

 ダッチが頷く。

 

「待ち伏せか?」

「待ち伏せなら、もう少し匂いがする。これは……引き払った後か、最初から誰もいなかったか」

 

 ココは黙って工場を見ている。

 ロックはその横顔を見た。

 彼女は驚いていない。

 

 少なくとも、驚いているようには見えなかった。

 

「ココ」

「何?」

「ここが空だと、予想していましたか」

 

 ココはすぐには答えなかった。

 風が、割れた窓の中を通り抜ける。どこかで金属片が揺れ、かすかな音を立てた。

 

「半分」

 

 レヴィが顔をしかめた。

 

「またかよ。お前の世界は半分で割らなきゃ喋れねえのか」

 

 ココは笑う。

 

「便利なのよ、半分って。全部じゃないから嘘にならないし、ゼロじゃないから意味はある」

 

「俺はそういう言い方が嫌いだ」

「知ってる」

「知ってて言ってんのか」

「半分」

「撃つぞ」

 

 バルメが静かに言う。

 

「レヴィ。ココを撃ったら、私があなたを撃つ」

「忠告か?」

「予告」

「いいねえ。はっきりしてて」

 

 ダッチが二人を見ずに言った。

 

「じゃれ合いは後にしろ。まず中を確認する」

 

 ココは頷く。

 

「レーム、ルツ、バルメ、先行。ラグーン商会は右側から。ワイリ、罠を見て」

 

 ワイリは嬉しそうに敬礼した。

 

「罠があるといいね」

 

 ベニーが即座に言う。

 

「ないほうがいい」

「でも、罠がないと寂しいよ」

「君の寂しさは、だいたい他人の安全で埋められてる」

 

 ワイリは少し考えた。

 

「それ、名言っぽいね」

「名言にしないでくれ」

 

     *

 

 工場の中は暗かった。

 

 天井の一部が抜け、そこから差し込む朝の光が、床に白い斑点を作っている。古い機械が並び、コンベアは止まり、配管は錆び、壁には剥がれた塗料がこびりついていた。

 足元には割れたガラスと、古いゴム片と、誰かが最近落としたと思われる煙草の吸い殻。

 

 レームがそれを拾い、匂いを嗅いだ。

 

「新しいですな」

 

 レヴィが顔をしかめる。

 

「煙草の鑑定士かよ」

「戦場では、煙草一本でも兵隊の数を教えてくれることがあります」

「何人だ?」

「少なくとも、暇な奴が一人」

「役に立たねえ情報だな」

「だが確実です」

 

 バルメが床の跡を見た。

 

「機材を動かした跡がある」

 

 ロックも近づく。

 床には埃が積もっていたが、一部だけ四角く跡が残っている。大きな機材が置かれていたような跡だ。複数。ケーブルの引きずられた線もある。

 ベニーが壁際の端子を見た。

 

「電源を引いてる。しかも最近だ。仮設だけど、かなり大きな電力を使ったはず」

「何かをここで動かしていた」

 

 ロックが言う。

 ココは周囲を見回す。

 

「そして、持ち出した」

 

 ダッチが低く聞いた。

 

「お前の目的のものか」

「たぶん」

「また半分か」

「今回は、たぶん」

 

 レヴィが吐き捨てる。

 

「余計悪い」

 

 ナタワットは入口付近で立ち尽くしていた。

 顔色がさらに悪くなっている。彼は床の跡を見て、かすかに震えた。

 

「……遅かった」

 

 ロックが振り向く。

 

「博士」

「彼らはここで動かしていた。花輪の中核ではない。試験用の子機だ。だが、この規模なら十分に周辺の通信を食える」

 

 ベニーが顔を上げる。

 

「通信を食う?」

 

 ナタワットはゆっくり頷いた。

 

「拾う、解析する、繋ぎ替える。軍の通信だけではない。民間無線、警察、港湾通信、密輸業者の古い周波数、衛星電話の一部。それらを一つの輪にする」

「花輪」

 

 ロックが呟く。

 ナタワットは苦笑した。

 

「美しい名前だろう。技術者は、恐ろしいものに美しい名前をつけたがる。そうすれば、自分が怪物を作っていることを忘れられる」

 

 ココが静かに言う。

 

「忘れられた?」

 

 ナタワットは彼女を睨んだ。

 

「忘れられるわけがない」

「なら、まだましね」

「まし?」

「完全に忘れた人間は、もう戻ってこないもの」

 

 ナタワットは言葉を失った。

 レヴィが苛立ったように周囲を蹴る。

 

「で、結局ここには何もねえってことか? 俺たちは泥と虫と弾丸を浴びて、空き家見物に来たわけかよ」

 

 ルツが工場奥から戻ってきた。

 

「奥も空だ。小部屋がいくつかあるが、全部引き払われてる」

 

 マオも続く。

 

「ただ、急いで撤収した感じじゃない。きれいに片付けてある。見つかることを前提にしてたみたいだ」

 

 ダッチがココを見る。

 

「説明してもらおうか」

 

 ココは少しだけ笑った。

 

「私も少し困ってる」

 

 レヴィが声を荒げる。

 

「少し?」

「怒ってる?」

「怒ってねえように見えるなら、あんたの目は節穴だ」

「怒ってるレヴィはわかりやすいわね」

「話を逸らすな」

 

 ココは肩をすくめた。

 

「ここにあるはずだったものは、次世代電子戦システムのプロトタイプ。博士たちが“花輪”と呼んでいたものの一部。東南アジアの軍事通信、準軍事通信、民間通信を横断的に傍受し、必要ならジャミングし、場合によっては偽装命令を流せる」

 

 ベニーが小さく口笛を吹いた。

 

「本当に戦場の神様だ」

「神様というより、神様の声色を真似る悪魔ね」

「あなたはそれを奪いに来たんですか」

「奪う。もしくは壊す」

「どちらですか」

 

「状況による」

「その判断を、あなたがする」

「ええ」

「なぜあなたが?」

 

 ロックの声には、はっきりとした苛立ちがあった。

 

「なぜ国家でも、国際機関でも、軍でもなく、武器商人のあなたが判断するんですか」

 

 ココは彼を見た。

 笑っている。

 

 だが、その笑顔は少し薄くなっていた。

 

「国家なら正しく判断する?」

「そうは言っていません」

「国際機関なら間に合う?」

「間に合わないかもしれない」

「軍なら、欲しがらない?」

 

 ロックは黙った。

 ココは続ける。

 

「誰が持っても危険なものがある。なら、問題は“誰が正しいか”じゃない。“誰が一番早く動けるか”よ」

「早ければ正しい?」

「遅れた正義は、時々ただの弔辞になる」

 

 工場の中に沈黙が落ちた。

 レームは何も言わない。

 ダッチも、レヴィも、バルメも、それぞれの位置で黙っていた。

 ロックは静かに言った。

 

「あなたは、自分が間違える可能性を考えていますか」

 

 ココは即答した。

 

「毎日」

「それでもやる」

「やる」

「なぜ」

 

「私がやらなければ、別の誰かがやるから」

「それは、どんな独裁者でも使える理屈です」

 

 バルメがロックを見た。

 空気が少し張る。

 だがココは手を上げ、バルメを制した。

 

「続けて」

 

 ロックは一歩前に出た。

 

「あなたは危険なものを、危険な人間から取り上げると言う。でも、あなた自身も危険です。あなたは頭が切れる。金がある。兵隊がいる。情報もある。そして、自分の危険性を理解している。だから余計に危ない」

 

 レヴィが小さく笑う。

 

「言うねえ、ロック」

 

 ロックは構わず続けた。

 

「あなたは世界を盤面として見ている。けれど、盤面の上にいる人間は駒じゃない」

 

 ココは静かに聞いていた。

 

 そして、少しだけ首を傾げる。

 

「ロック。あなたは優しいのね」

「それは答えではありません」

「ええ。答えじゃない。でも事実」

「優しさで済ませないでください」

「済ませてないわ。優しさは危険よ。銃より危ないこともある。人は誰かを助けたいと思った時、簡単に他の誰かを犠牲にする」

 

 ロックは息を呑んだ。

 ココは続ける。

 

「あなたは、駒じゃないと言った。それは正しい。でも、盤面はある。動かす人間がいようがいまいが、盤面はそこにある。国境、資源、通信、武器、宗教、民族、金。人間が駒ではないと言っても、それらは人間を動かす」

「だから、あなたが動かすと?」

「いいえ」

 

 ココは初めて、笑わずに言った。

 

「私は、動かしている手を見たいの。そして、できるなら、その手を撃ちたい」

 

 レヴィが少しだけ目を細めた。

 

「撃つって言ったな」

「比喩よ」

「つまんねえ」

「たまには比喩もいいでしょ」

 

 ダッチが会話を切った。

 

「哲学はわかった。実務の話をしよう。ここが空なら、次はどうする」

 

 ココは再び地図を広げた。

 

「ここから北東に、古い中継施設がある。フランス企業の通信塔跡。今は使われていないはずだけど、このシステムを移すなら、そこが一番近い」

 

 ベニーが地図を覗く。

 

「高台か」

「ええ。周辺の通信を拾うなら都合がいい」

 

 レームが問う。

 

「罠の可能性は?」

「高い」

 

 レヴィが笑う。

 

「いいね。ようやく正直になった」

「ずっと正直よ」

「その返しも聞き飽きた」

 

 ナタワットが震える声で言った。

 

「行ってはいけない」

 

 全員が彼を見る。

 

「そこにあるなら、もう彼らは起動準備をしている。試験ではない。本番だ。あれが起動すれば、周辺の通信は彼らのものになる。君たちの無線も、敵の無線も、救援も、嘘も、本当も、全部同じ輪に入る」

 

 ベニーが顔をしかめる。

 

「つまり、無線が使えないどころか、使うほど危ないってことか」

「そうだ」

 

 ダッチが低く言う。

 

「便利な時代になったな」

 

 レームが苦笑する。

 

「昔は通信が切れたら、ただ孤立しただけでした。今は、繋がっているほうが危ない」

 

 ココはナタワットを見た。

 

「博士。止める方法は?」

「電源を落とす」

「現実的ね」

「中核ユニットを物理的に破壊する」

「もっと現実的」

「ただし、破壊の仕方を間違えれば、バックアップにデータが飛ぶ」

 

 ワイリが手を上げた。

 

「爆破は?」

 

 ナタワットは顔をしかめた。

 

「最後の手段だ。爆破すれば止まる可能性は高い。だが、中のデータがどこへ送られるかわからない」

 

 ワイリは真面目に頷いた。

 

「なるほど。壊す順番が大事なんだね」

 

 ベニーが驚いたように見る。

 

「ちゃんと理解してる」

「失礼だな。爆破は繊細な仕事だよ」

「普段の言動からは想像できない」

「みんなそう言う」

 

 ココは決断した。

 

「北東の通信塔跡へ行く」

 

 バルメが頷く。

 

「了解」

 

 レヴィが銃を構える。

 

「やっとわかりやすくなってきたな」

 

 ロックはココを見た。

 

「俺たちは、まだ契約の範囲内ですか」

 

 ココは少しだけ黙った。

 

「いい質問ね」

「答えは」

「半分、外れてる」

 

 レヴィが天井を仰ぐ。

 

「もう半分禁止しろ」

 

 ダッチはロックを見る。

 

「ロック。判断は俺がする」

「ダッチ」

「このまま降りるには、知りすぎた。戻る道も塞がってる。進むしかないなら、報酬分より少し多めに働くさ」

 

 レヴィが笑う。

 

「いつものことだな」

 

 ベニーがため息をつく。

 

「いつものことにしないでほしいんだけど」

 

 ココはダッチに言った。

 

「追加報酬は払うわ」

「当然だ」

「高くつく?」

「この街の運び屋を、国家規模の面倒に巻き込んだ料金だ。安くはない」

「いいわ。請求書は?」

「生きて戻ったら渡す」

 

「合理的ね」

「死んだら回収できねえからな」

 

 ココはにっこり笑った。

 

「生きて戻りましょう」

 

 レヴィが銃を回す。

 

「その前に、撃つ相手を見つけねえとな」

 

     *

 

 そのころ、ロアナプラでは昼が近づいていた。

 だが、街の空気はいつもより少し重かった。

 港に入ったHCLIの船。

 

 ラグーン商会の出港。

 その後に流れ始めた不穏な噂。

 誰かが武器を買い込んでいる。

 誰かが港湾通信を盗み聞きしている。

 誰かがホテル・モスクワの倉庫を探っている。

 

 誰かが三合会の手下に金を撒いた。

 ロアナプラでは、噂は煙草の煙より早く広がる。

 そして、煙草の火より簡単に火事になる。

 

 ホテル・モスクワの一室で、バラライカは報告を聞いていた。

 ボリスが静かに言う。

 

「ラグーン商会とHCLI部隊は、予定ルート上で襲撃を受けた模様です。詳細は不明。ただし、沈んではいません」

 

 バラライカは煙草に火をつける。

 

「ラグーン号が沈んだなら、もっと騒がしい」

「はい」

「相手は?」

 

「装備から見て、現地の武装勢力ではありません。米軍規格に近い通信装備の流出情報があります」

「流出ではないな」

 

 バラライカは煙を吐いた。

 

「流出とは、持ち主が失った時に使う言葉だ。これは違う。持ち主が、自分の手を隠している」

「CIAでしょうか」

「一枚岩ではあるまい。アメリカは巨大な国だ。巨大な国ほど、自分の影を管理できない」

 

 その時、扉が開いた。

 エダが入ってくる。

 修道服姿で、まるで場違いなようでいて、この街では不思議と馴染んでいる。

 

「ごきげんよう、バラライカ」

 

 ボリスが一歩動く。

 バラライカは手で制した。

 

「シスター。ここは懺悔室ではない」

「知ってるわ。ここで懺悔なんかしたら、罪のほうが逃げ出しそう」

「何の用だ」

「世間話」

「世間話には銃を持ってくるのか」

 

 エダは肩をすくめる。

 

「この街では礼儀でしょ」

 

 バラライカは微笑む。

 だが目は笑っていない。

 

「座れ」

「ありがと」

 

 エダは椅子に座り、脚を組んだ。

 ボリスは無言で部屋の隅へ下がる。

 

 バラライカが言う。

 

「ココ・ヘクマティアルについて話しに来たのだろう」

「話が早い女は好きよ」

「私はお前が嫌いだがな」

「知ってる。だから信用できる」

「面白い理屈だ」

 

 エダは笑った。

 

「好きな相手には嘘をつきたくなる。でも嫌いな相手には、意外と本当のことを言える。嫌われても困らないから」

「では、本当のことを言え」

 

 エダは少しだけ表情を変えた。

 

「ココが追っているものは、この街の外だけの問題じゃない」

「電子戦システムか」

 

 エダの眉がわずかに動いた。

 

「そこまで知ってるの」

「この街で大声を出せば、翌朝には三合会の下っ端まで知っている。声を出さずに動けば、翌朝にはホテル・モスクワが知っている」

「怖いわね」

「お前の古巣ほどではない」

 

 エダは笑みを消さない。

 

「私の古巣は教会よ」

「その教会は、ラングレーに支部があるのか」

「便利な世の中でしょ」

 

 バラライカは煙草を灰皿に置いた。

 

「お前たちは、ココを止めたいのか」

「“お前たち”が誰を指すかによるわ」

「CIA」

「大きすぎる」

「では、お前個人は」

 

 エダは少し黙った。

 

「私は、ロアナプラが変な形で燃えるのを避けたい」

「この街はいつも燃えている」

「だからよ。普段の火事は、誰が油を撒いて、誰が消火器を売って、誰が焼け跡を買うかがわかってる。でも今回は違う。火をつけた本人が、火事が起きたことも認めないタイプ」

「非公式作戦か」

「さあ」

「とぼけるな」

「とぼけるのも仕事のうち」

 

 バラライカは冷たく笑った。

 

「お前がここへ来た理由は二つだ。一つは、私にココを警戒させること。もう一つは、私を使って、お前の仲間ではないCIAの連中を牽制すること」

 

 エダは拍手する真似をした。

 

「さすが」

「褒めても撃たないとは限らない」

「怖い怖い」

「エダ。お前の国の内輪揉めを、この街に持ち込むな」

 

 エダの目が少し鋭くなる。

 

「私の国だけの問題じゃないわ。ココがあれを手に入れたら、ロアナプラの通信も丸裸になるかもしれない。ホテル・モスクワの無線、三合会の船、暴力教会の取引、警察の買収リスト。全部ね」

 

 バラライカは動じない。

 

「そうなれば、最初に死ぬのはココだ」

「本当に?」

「この街で、全員の秘密を持つ者は長生きしない」

「でもココは、秘密を持って逃げるだけの足がある」

「逃げる先を焼けばいい」

 

 エダは苦笑した。

 

「あなた、やっぱり怖いわ」

「お前が言うな」

 

 しばらく沈黙があった。

 エダは静かに言った。

 

「ロアナプラの均衡を守りたいなら、今回はココを完全に敵に回すべきじゃない」

「理由は?」

「彼女は、あれを売るためだけに動いていない」

「なぜそう思う」

「武器商人が本当に売りたいものを手に入れる時、もっと静かに動く。今回は派手すぎる。自分が狙われることも計算している。まるで、誰が出てくるかを見るために餌を撒いているみたい」

 

 バラライカは煙草を手に取った。

 

「同感だ」

「なら?」

「だからこそ危険だ。商売人なら金で止まる。理想家なら、時に死んでも止まらない」

「ココが理想家だと?」

「最悪の種類のな」

「どんな?」

 

 バラライカは窓の外を見る。

 

「現実をよく知っている理想家だ」

 

 エダは黙った。

 それは、彼女も感じていたことだった。

 

 ココ・ヘクマティアルは夢を見ている。

 だが、その夢は子供のものではない。

 戦場の地図と契約書と死体の数を見たうえで、それでも笑っている者の夢だ。

 バラライカは言った。

 

「シスター。お前は何を望む」

「ロアナプラが今日と同じ明日を迎えること」

「つまらんな」

「つまらない明日は貴重よ。この街では特に」

「では、私からも一つ条件がある」

「何?」

 

「お前の古巣がこの街に兵を入れるなら、私が撃つ」

「兵じゃなくて民間企業の社員なら?」

「制服の名前で弾の重さは変わらん」

 

 エダは笑った。

 

「伝えておくわ」

「伝える相手がいるのか」

「神様に」

「なら、神にこう伝えろ。ロアナプラで奇跡を起こすなら、事前に許可を取れ」

 

 エダは立ち上がった。

 

「あなた、神様にも縄張り代を請求しそうね」

「当然だ。土地代は高い」

 

     *

 

 ジャングルの廃工場では、出発準備が進んでいた。

 必要なものだけを持ち、不要な荷は捨てる。弾薬を分配し、無線の使用を最小限にする。ベニーは通信機材を確認しながら、何度も嫌そうな顔をしていた。

 

「最悪だ」

 

 ロックが聞く。

 

「何が?」

 

「敵が本当に“花輪”を起動し始めているなら、こっちの無線は信用できない。暗号化しても無駄かもしれない。暗号が破られるというより、通信の流れごと持っていかれる」

 

 ワイリが言う。

 

「じゃあ昔ながらの合図にする?」

「手旗信号とか?」

「爆発の回数とか」

「却下」

「一回なら前進、二回なら後退、三回なら――」

「却下!」

 

 ルツが淡々と言う。

 

「銃声の数も合図になる」

 

 ベニーが頭を抱える。

 

「なんでこのチーム、通信手段がどんどん暴力的になるんだ」

 

 レームが笑う。

 

「昔はそれで十分だったんですぜ」

「昔に戻りたくないです」

「誰も戻りたくはない。ただ、戻されることはある」

 

 ダッチが弾倉を確認しながら言った。

 

「無線が使えないなら、目で見える距離を保つ。単純だが確実だ」

 

 ココが頷く。

 

「二班に分ける。先行班はバルメ、レヴィ、ルツ、ロック。後続は私、レーム、ダッチ、マオ、ベニー、ワイリ、博士」

 

 レヴィが即座に反応する。

 

「何で俺がロックの子守りなんだ」

 

 ロックが言う。

 

「俺もその言い方は気になります」

「じゃあ何て言えばいい?」

「護衛」

「もっと嫌だ」

 

 バルメが言う。

 

「ロックは観察役として必要。あなたは前に出る癖がある。私とルツで補正する」

 

 レヴィが目を細める。

 

「俺が補正される側かよ」

「そう」

「気に入らねえ」

「でも必要」

「必要って言葉で俺を動かせると思うなよ」

 

 ココが割って入る。

 

「報酬を増やすわ」

 

 レヴィは一瞬で答えた。

 

「よし、行くぞロック」

 

 ロックが呆れる。

 

「早いですね」

「金は言葉より信用できる」

 

 バルメが小さく言う。

 

「わかりやすい人」

「褒めてんのか」

「半分」

「それ禁止だっつってんだろ!」

 

 少し離れた場所で、ナタワットがロックを見ていた。

 

 ロックはそれに気づき、近づく。

 

「博士」

「君は、なぜ彼女に食ってかかる」

「え?」

「ミス・ヘクマティアルに。君は彼女を恐れている。だが、同時に見ようとしている。普通なら、恐ろしい相手からは目を逸らす」

 

 ロックは少し考えた。

 

「俺は、目を逸らして後悔したことがあります」

「何から?」

「人が壊れていくところから。人が何かに取り憑かれていくところから。止められないと思って、見ているだけだったことから」

 

 ナタワットは静かに聞いていた。

 ロックは続ける。

 

「ココは、たぶん壊れていません。でも、壊れていないまま危険な場所へ進んでいる。だから余計に怖い」

「君は止めたいのか」

「わかりません」

 

「わからない?」

「止めるべきなのか、見届けるべきなのか、まだわからない」

 

 ナタワットは疲れたように笑った。

 

「それは、チェスをしている人間の顔だ」

「俺はチェスは強くありません」

「強いかどうかではない。盤面を見る人間は、いつか自分も駒を動かしたくなる」

 

 ロックは答えなかった。

 ナタワットは低く言った。

 

「気をつけなさい。彼女のような人間に惹かれるのは、彼女が光っているからではない。彼女の向こう側に、自分の知らない地獄が見えるからだ」

「博士は、彼女をどう見ていますか」

 

 ナタワットはココのほうを見た。

 彼女はレームと地図を確認しながら、何か冗談を言っている。レームが苦笑し、マオが肩をすくめ、ワイリが楽しそうに笑っていた。

 

「彼女は、怪物ではない」

 

 ナタワットは言った。

 

「怪物なら、まだ理解できる。怪物は食べるために殺す。怒りで壊す。欲で奪う。だが彼女は違う。彼女は、未来のために現在を切ることができる」

「それは怪物より悪い?」

「時々は」

 

     *

 

 出発前、ロックは一人で工場の外に出た。

 

 空は白み、森の輪郭がはっきりし始めている。遠くで鳥が鳴いた。湿った空気の中に、油と錆の臭いがまだ残っている。

 

 そこへ、ココがやってきた。

 

「一人?」

「考えごとです」

「また船酔いするわよ」

「今は船に乗っていません」

「じゃあ、森酔い」

「それも今作ったんですか」

「ええ」

 

 ロックは小さく笑った。

 ココは隣に立ち、廃工場を見上げた。

 

「ここ、嫌な場所ね」

「あなたにもそう見えますか」

「もちろん。人間が何かを作って、捨てて、でも捨てたものがまだ悪さをする場所。世界中にあるわ。廃工場、旧基地、沈んだ船、破棄された契約、忘れられた国境線」

 

「あなたは、それを全部見てきたんですか」

「全部は無理。でも、たくさん見た」

 

 

「それで、世界を変えたいと思った」

 

 ココは少し笑った。

 

「ロックは、私を裁判にかけたいの?」

「質問しているだけです」

「質問は時々、銃より痛いわ」

「あなたは撃たれ慣れていそうですけど」

「撃たれるのは嫌いよ。痛いもの」

 

「意外ですね」

「私、痛みに強い女に見える?」

「痛みを計算に入れる人に見えます」

 

 ココはしばらく黙り、それから楽しそうに笑った。

 

「本当に、あなたは面白い」

「それで誤魔化さないでください」

「誤魔化してないわ。面白いから面白いと言ってる」

 

 ロックは彼女を見る。

 

「あなたは、あのシステムをどうするつもりですか」

「手に入れば、解析する。使えるなら使う。危険すぎるなら壊す」

「誰にとって危険なら?」

「世界にとって」

 

「世界という言葉は大きすぎる」

「そうね」

「大きすぎる言葉は、個人の犠牲を隠します」

 

 ココはロックを見た。

 

「誰かを思い出してる?」

 

 ロックはすぐには答えなかった。

 ガルシア。ロベルタ。あの屋敷。あの血の匂い。救えたのか、救えなかったのか、今でもわからない選択。

 

 彼は静かに言った。

 

「この街に来てから、何度か見ました。正義や忠誠や復讐が、人をどこまで連れて行くのか」

「怖かった?」

「はい」

「止めたかった?」

「はい」

「止められた?」

「わかりません」

 

 ココは何も言わなかった。

 ロックは続ける。

 

「あなたは、復讐では動いていない。忠誠でもない。金だけでもない。だから、余計にわかりにくい」

「私は私の夢で動いてる」

「夢で人を巻き込むのは危険です」

「ええ」

「わかっていてやる」

「ええ」

「あなたは、本当に自分が怖くないんですか」

 

 ココは空を見た。

 朝の光が、彼女の白い髪を淡く照らしている。

 

「怖いわよ」

 

 その声は、驚くほど静かだった。

 

「私は、自分が怖い。自分がどこまで行けるのか。どこまで行ってしまうのか。どこで止まれなくなるのか。時々、考える」

「それでも進む」

「進む」

「なぜ」

「止まっても、世界は止まらないから」

 

 ロックは黙った。

 ココは彼に向き直る。

 

「ロック。あなたは私を危険だと言う。それは正しい。でも、何もしない人間も危険よ。見ているだけの人間も、時々とても危険。何かが壊れていくのを見ながら、“自分が壊したわけじゃない”と言えるから」

 

 ロックの胸に、その言葉は深く刺さった。

 ココは穏やかに続ける。

 

「あなたは、観客席が好きだと言ったわね」

「まだ言っていません」

「あら、そうだった?」

「少なくとも、今はまだ」

「じゃあ予言」

 

 ココは笑った。

 

「でも、観客席に座っているつもりでも、劇場が燃えたら同じよ。逃げるか、消すか、燃やした奴を探すか。どれかを選ばないといけない」

「あなたは燃やした奴を探す」

「ええ。そして、火のつけ方も覚える」

「危険ですね」

「何度でも言って」

「危険です」

 

「ありがとう」

「褒めていません」

「知ってる」

 

 その時、バルメの声がした。

 

「ココ。出発します」

 

 ココは振り返る。

 

「今行く」

 

 ロックも歩き出そうとした。

 その時、ココが小さく言った。

 

「ロック」

「はい」

「私が間違えたら、あなたはどうする?」

 

 ロックは立ち止まった。

 ココは笑っていなかった。

 ロックは少し考え、答えた。

 

「たぶん、止めようとします」

「撃つ?」

「それは、最後です」

「最後まで待つと、手遅れになるかも」

「それでも、最初に撃つ人間にはなりたくありません」

 

 ココは少しだけ微笑んだ。

 

「あなたらしい」

「あなたは?」

「私は、必要なら最初に撃つ」

「でしょうね」

「軽蔑する?」

「いいえ」

 

「どうして?」

 

 ロックは工場を見た。

 

「俺は、あなたをまだ理解していません。理解していない相手を軽蔑するのは、簡単すぎる」

 

 ココはその言葉を聞いて、少しだけ目を細めた。

 

「やっぱり、あなたはいいチェス相手ね」

「俺は駒を動かすのが得意じゃありません」

「なら、見るだけでもいいわ」

 

 ロックは静かに言った。

 

「見るだけで済むとは思えません」

 

 ココは笑った。

 

「ようこそ、盤面へ」

 

     *

 

 一行は廃工場を後にした。

 

 森は朝の光に照らされている。

 だが、明るくなったからといって安全になったわけではない。むしろ、隠れる場所は減り、空から見つかる危険は増えた。

 

 先行班は静かに進んだ。

 バルメが先頭。

 その少し後ろにレヴィ。

 ルツが高所を警戒し、ロックが足元と周囲の変化を見る。

 

 レヴィは小声で言った。

 

「なあ、ロック」

「何だ」

「あの白いのと何話してた?」

「いろいろ」

「口説かれたか?」

「違う」

 

「じゃあ、勧誘か」

「近いかもしれない」

「行くのか?」

 

 ロックは少し驚いてレヴィを見る。

 

「君がそれを気にするとは思わなかった」

 

 レヴィは舌打ちした。

 

「気にしてねえよ。ただ、あっちに行ったらお前、早死にしそうだからな」

「心配してるのか」

「違う。お前が死ぬと、書類仕事が面倒になる」

「そういうことにしておく」

「そうしろ」

 

 少し前を歩くバルメが言った。

 

「ロックは、ココの部隊には向かない」

 

 レヴィが眉を上げる。

 

「へえ。嫉妬か?」

「違う」

「じゃあ何だ」

「彼は考えすぎる。ココのそばにいると、考えすぎる人間は消耗する」

 

 ロックは苦笑した。

 

「それは否定しにくいですね」

 

 バルメは続ける。

 

「でも、ココは彼のような人間を面白がる」

「お嬢様は悪趣味だな」

「ええ」

 

 レヴィが笑った。

 

「そこは否定しねえのか」

「しない。ココは悪趣味」

「本人に言ってやれよ」

「言ってる」

「それで?」

「笑ってる」

「だろうな」

 

 ルツが後ろから言った。

 

「おしゃべりはいいが、声を落とせ」

 

 レヴィが肩をすくめる。

 

「スナイパー様は耳がいいな」

「耳が悪い狙撃手は長生きしない」

「それもそうだ」

 

 その瞬間、ルツが手を上げた。

 全員が止まる。

 

 森の奥。

 かすかな音。

 無線のノイズのようなものが、どこからか聞こえた。

 ベニーが後続から小型受信機を見て、顔をしかめた。

 

「来てる」

 

 ココが低く聞く。

 

「花輪?」

 

「まだ完全起動じゃない。でも、周辺の通信が歪んでる。誰かが大きな網を広げ始めてる」

 

 ナタワットが震えた。

 

「間に合わないかもしれない」

 

 ココは地図の北東を見た。

 

「間に合わせるわ」

 

 レームが静かに銃を構える。

 

「お嬢。ここから先は、たぶん相手の盤面ですぜ」

 

 ココは笑った。

 

「なら、ひっくり返しましょう」

 

 ダッチがため息をついた。

 

「簡単に言うな」

「難しく言っても簡単にはならないもの」

 

 レヴィが銃を抜いた。

 

「いいぜ。盤面だか花輪だか知らねえが、撃てる形で出てくるなら歓迎だ」

 

 バルメが隣で構える。

 

「撃てない形で出てくるから厄介なのよ」

「だったら、撃てる形に引きずり出す」

 

 ココは二人を見て、満足そうに言った。

 

「頼もしいわね」

 

 ロックは森の奥を見た。

 

 通信塔跡。

 そこに、答えがある。

 あるいは、さらなる罠がある。

 ロアナプラを出たはずなのに、街の闇はまだ彼らを追っている。

 

 いや、違う。

 彼ら自身が、その闇を運んでいるのだ。

 

 黒いケース。

 博士。

 ココの秘密。

 ロックの疑念。

 

 そして、まだ姿を見せない敵。

 森の向こうで、かすかな電子音が鳴った。

 それは鳥の声でも、虫の音でも、銃声でもない。

 戦場が、別の言葉で話し始める音だった。

 

 

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