Guns & Garlands — 銃と花輪 作:たこ焼き 龍月
廃工場は、朝靄の向こうに沈んでいた。
ジャングルの奥で、そこだけが異物のように見えた。
錆びた鉄骨。割れた窓。蔦に覆われた外壁。崩れかけた煙突。かつては人間の都合で森を切り開き、機械の音と労働者の怒号を響かせていたはずの場所。
今は、森に食われかけている。
人間が作ったものは、放っておけば自然に戻る。
ただし、きれいには戻らない。
錆と泥と油と腐葉土が混ざり、どちらのものともつかない臭いを発していた。
ロックはその建物を見上げながら、息を整えた。
「……ここですか」
ココは地図を畳んで、にっこり笑った。
「目的地よ」
レヴィが銃を肩に担ぎ、周囲を見回す。
「目的地っていうより、死人が住んでそうな場所だな」
バルメが即座に返す。
「死人は撃ってこないから、まだまし」
「たまに撃ってくる奴もいるぜ。この街じゃ、死んだあとも借金取りから逃げられねえ」
「ここはロアナプラじゃない」
「今の面子を見ろよ。だいたいロアナプラが歩いてきたようなもんだろ」
ルツが周囲を警戒しながら呟く。
「静かすぎる」
マオが頷いた。
「虫の音はある。鳥もいる。だが、人の気配がない」
ワイリが壊れた門を見て楽しそうに言う。
「いい建物だね。壊れかけてるけど、まだちゃんと立ってる。こういうのは崩し方に性格が出るんだ」
ベニーが疲れた顔で言う。
「頼むから、建物を見るたびに崩す前提で語らないでくれ」
「見てるだけだよ」
「君の場合、見てるだけの次が測量で、その次が爆破計画なんだよ」
「順序は大事だからね」
「そういう問題じゃない」
レームは工場の入口を見つめていた。
彼の顔から、いつもの飄々とした雰囲気が少し薄れている。
「嫌な静けさですな」
ダッチが頷く。
「待ち伏せか?」
「待ち伏せなら、もう少し匂いがする。これは……引き払った後か、最初から誰もいなかったか」
ココは黙って工場を見ている。
ロックはその横顔を見た。
彼女は驚いていない。
少なくとも、驚いているようには見えなかった。
「ココ」
「何?」
「ここが空だと、予想していましたか」
ココはすぐには答えなかった。
風が、割れた窓の中を通り抜ける。どこかで金属片が揺れ、かすかな音を立てた。
「半分」
レヴィが顔をしかめた。
「またかよ。お前の世界は半分で割らなきゃ喋れねえのか」
ココは笑う。
「便利なのよ、半分って。全部じゃないから嘘にならないし、ゼロじゃないから意味はある」
「俺はそういう言い方が嫌いだ」
「知ってる」
「知ってて言ってんのか」
「半分」
「撃つぞ」
バルメが静かに言う。
「レヴィ。ココを撃ったら、私があなたを撃つ」
「忠告か?」
「予告」
「いいねえ。はっきりしてて」
ダッチが二人を見ずに言った。
「じゃれ合いは後にしろ。まず中を確認する」
ココは頷く。
「レーム、ルツ、バルメ、先行。ラグーン商会は右側から。ワイリ、罠を見て」
ワイリは嬉しそうに敬礼した。
「罠があるといいね」
ベニーが即座に言う。
「ないほうがいい」
「でも、罠がないと寂しいよ」
「君の寂しさは、だいたい他人の安全で埋められてる」
ワイリは少し考えた。
「それ、名言っぽいね」
「名言にしないでくれ」
*
工場の中は暗かった。
天井の一部が抜け、そこから差し込む朝の光が、床に白い斑点を作っている。古い機械が並び、コンベアは止まり、配管は錆び、壁には剥がれた塗料がこびりついていた。
足元には割れたガラスと、古いゴム片と、誰かが最近落としたと思われる煙草の吸い殻。
レームがそれを拾い、匂いを嗅いだ。
「新しいですな」
レヴィが顔をしかめる。
「煙草の鑑定士かよ」
「戦場では、煙草一本でも兵隊の数を教えてくれることがあります」
「何人だ?」
「少なくとも、暇な奴が一人」
「役に立たねえ情報だな」
「だが確実です」
バルメが床の跡を見た。
「機材を動かした跡がある」
ロックも近づく。
床には埃が積もっていたが、一部だけ四角く跡が残っている。大きな機材が置かれていたような跡だ。複数。ケーブルの引きずられた線もある。
ベニーが壁際の端子を見た。
「電源を引いてる。しかも最近だ。仮設だけど、かなり大きな電力を使ったはず」
「何かをここで動かしていた」
ロックが言う。
ココは周囲を見回す。
「そして、持ち出した」
ダッチが低く聞いた。
「お前の目的のものか」
「たぶん」
「また半分か」
「今回は、たぶん」
レヴィが吐き捨てる。
「余計悪い」
ナタワットは入口付近で立ち尽くしていた。
顔色がさらに悪くなっている。彼は床の跡を見て、かすかに震えた。
「……遅かった」
ロックが振り向く。
「博士」
「彼らはここで動かしていた。花輪の中核ではない。試験用の子機だ。だが、この規模なら十分に周辺の通信を食える」
ベニーが顔を上げる。
「通信を食う?」
ナタワットはゆっくり頷いた。
「拾う、解析する、繋ぎ替える。軍の通信だけではない。民間無線、警察、港湾通信、密輸業者の古い周波数、衛星電話の一部。それらを一つの輪にする」
「花輪」
ロックが呟く。
ナタワットは苦笑した。
「美しい名前だろう。技術者は、恐ろしいものに美しい名前をつけたがる。そうすれば、自分が怪物を作っていることを忘れられる」
ココが静かに言う。
「忘れられた?」
ナタワットは彼女を睨んだ。
「忘れられるわけがない」
「なら、まだましね」
「まし?」
「完全に忘れた人間は、もう戻ってこないもの」
ナタワットは言葉を失った。
レヴィが苛立ったように周囲を蹴る。
「で、結局ここには何もねえってことか? 俺たちは泥と虫と弾丸を浴びて、空き家見物に来たわけかよ」
ルツが工場奥から戻ってきた。
「奥も空だ。小部屋がいくつかあるが、全部引き払われてる」
マオも続く。
「ただ、急いで撤収した感じじゃない。きれいに片付けてある。見つかることを前提にしてたみたいだ」
ダッチがココを見る。
「説明してもらおうか」
ココは少しだけ笑った。
「私も少し困ってる」
レヴィが声を荒げる。
「少し?」
「怒ってる?」
「怒ってねえように見えるなら、あんたの目は節穴だ」
「怒ってるレヴィはわかりやすいわね」
「話を逸らすな」
ココは肩をすくめた。
「ここにあるはずだったものは、次世代電子戦システムのプロトタイプ。博士たちが“花輪”と呼んでいたものの一部。東南アジアの軍事通信、準軍事通信、民間通信を横断的に傍受し、必要ならジャミングし、場合によっては偽装命令を流せる」
ベニーが小さく口笛を吹いた。
「本当に戦場の神様だ」
「神様というより、神様の声色を真似る悪魔ね」
「あなたはそれを奪いに来たんですか」
「奪う。もしくは壊す」
「どちらですか」
「状況による」
「その判断を、あなたがする」
「ええ」
「なぜあなたが?」
ロックの声には、はっきりとした苛立ちがあった。
「なぜ国家でも、国際機関でも、軍でもなく、武器商人のあなたが判断するんですか」
ココは彼を見た。
笑っている。
だが、その笑顔は少し薄くなっていた。
「国家なら正しく判断する?」
「そうは言っていません」
「国際機関なら間に合う?」
「間に合わないかもしれない」
「軍なら、欲しがらない?」
ロックは黙った。
ココは続ける。
「誰が持っても危険なものがある。なら、問題は“誰が正しいか”じゃない。“誰が一番早く動けるか”よ」
「早ければ正しい?」
「遅れた正義は、時々ただの弔辞になる」
工場の中に沈黙が落ちた。
レームは何も言わない。
ダッチも、レヴィも、バルメも、それぞれの位置で黙っていた。
ロックは静かに言った。
「あなたは、自分が間違える可能性を考えていますか」
ココは即答した。
「毎日」
「それでもやる」
「やる」
「なぜ」
「私がやらなければ、別の誰かがやるから」
「それは、どんな独裁者でも使える理屈です」
バルメがロックを見た。
空気が少し張る。
だがココは手を上げ、バルメを制した。
「続けて」
ロックは一歩前に出た。
「あなたは危険なものを、危険な人間から取り上げると言う。でも、あなた自身も危険です。あなたは頭が切れる。金がある。兵隊がいる。情報もある。そして、自分の危険性を理解している。だから余計に危ない」
レヴィが小さく笑う。
「言うねえ、ロック」
ロックは構わず続けた。
「あなたは世界を盤面として見ている。けれど、盤面の上にいる人間は駒じゃない」
ココは静かに聞いていた。
そして、少しだけ首を傾げる。
「ロック。あなたは優しいのね」
「それは答えではありません」
「ええ。答えじゃない。でも事実」
「優しさで済ませないでください」
「済ませてないわ。優しさは危険よ。銃より危ないこともある。人は誰かを助けたいと思った時、簡単に他の誰かを犠牲にする」
ロックは息を呑んだ。
ココは続ける。
「あなたは、駒じゃないと言った。それは正しい。でも、盤面はある。動かす人間がいようがいまいが、盤面はそこにある。国境、資源、通信、武器、宗教、民族、金。人間が駒ではないと言っても、それらは人間を動かす」
「だから、あなたが動かすと?」
「いいえ」
ココは初めて、笑わずに言った。
「私は、動かしている手を見たいの。そして、できるなら、その手を撃ちたい」
レヴィが少しだけ目を細めた。
「撃つって言ったな」
「比喩よ」
「つまんねえ」
「たまには比喩もいいでしょ」
ダッチが会話を切った。
「哲学はわかった。実務の話をしよう。ここが空なら、次はどうする」
ココは再び地図を広げた。
「ここから北東に、古い中継施設がある。フランス企業の通信塔跡。今は使われていないはずだけど、このシステムを移すなら、そこが一番近い」
ベニーが地図を覗く。
「高台か」
「ええ。周辺の通信を拾うなら都合がいい」
レームが問う。
「罠の可能性は?」
「高い」
レヴィが笑う。
「いいね。ようやく正直になった」
「ずっと正直よ」
「その返しも聞き飽きた」
ナタワットが震える声で言った。
「行ってはいけない」
全員が彼を見る。
「そこにあるなら、もう彼らは起動準備をしている。試験ではない。本番だ。あれが起動すれば、周辺の通信は彼らのものになる。君たちの無線も、敵の無線も、救援も、嘘も、本当も、全部同じ輪に入る」
ベニーが顔をしかめる。
「つまり、無線が使えないどころか、使うほど危ないってことか」
「そうだ」
ダッチが低く言う。
「便利な時代になったな」
レームが苦笑する。
「昔は通信が切れたら、ただ孤立しただけでした。今は、繋がっているほうが危ない」
ココはナタワットを見た。
「博士。止める方法は?」
「電源を落とす」
「現実的ね」
「中核ユニットを物理的に破壊する」
「もっと現実的」
「ただし、破壊の仕方を間違えれば、バックアップにデータが飛ぶ」
ワイリが手を上げた。
「爆破は?」
ナタワットは顔をしかめた。
「最後の手段だ。爆破すれば止まる可能性は高い。だが、中のデータがどこへ送られるかわからない」
ワイリは真面目に頷いた。
「なるほど。壊す順番が大事なんだね」
ベニーが驚いたように見る。
「ちゃんと理解してる」
「失礼だな。爆破は繊細な仕事だよ」
「普段の言動からは想像できない」
「みんなそう言う」
ココは決断した。
「北東の通信塔跡へ行く」
バルメが頷く。
「了解」
レヴィが銃を構える。
「やっとわかりやすくなってきたな」
ロックはココを見た。
「俺たちは、まだ契約の範囲内ですか」
ココは少しだけ黙った。
「いい質問ね」
「答えは」
「半分、外れてる」
レヴィが天井を仰ぐ。
「もう半分禁止しろ」
ダッチはロックを見る。
「ロック。判断は俺がする」
「ダッチ」
「このまま降りるには、知りすぎた。戻る道も塞がってる。進むしかないなら、報酬分より少し多めに働くさ」
レヴィが笑う。
「いつものことだな」
ベニーがため息をつく。
「いつものことにしないでほしいんだけど」
ココはダッチに言った。
「追加報酬は払うわ」
「当然だ」
「高くつく?」
「この街の運び屋を、国家規模の面倒に巻き込んだ料金だ。安くはない」
「いいわ。請求書は?」
「生きて戻ったら渡す」
「合理的ね」
「死んだら回収できねえからな」
ココはにっこり笑った。
「生きて戻りましょう」
レヴィが銃を回す。
「その前に、撃つ相手を見つけねえとな」
*
そのころ、ロアナプラでは昼が近づいていた。
だが、街の空気はいつもより少し重かった。
港に入ったHCLIの船。
ラグーン商会の出港。
その後に流れ始めた不穏な噂。
誰かが武器を買い込んでいる。
誰かが港湾通信を盗み聞きしている。
誰かがホテル・モスクワの倉庫を探っている。
誰かが三合会の手下に金を撒いた。
ロアナプラでは、噂は煙草の煙より早く広がる。
そして、煙草の火より簡単に火事になる。
ホテル・モスクワの一室で、バラライカは報告を聞いていた。
ボリスが静かに言う。
「ラグーン商会とHCLI部隊は、予定ルート上で襲撃を受けた模様です。詳細は不明。ただし、沈んではいません」
バラライカは煙草に火をつける。
「ラグーン号が沈んだなら、もっと騒がしい」
「はい」
「相手は?」
「装備から見て、現地の武装勢力ではありません。米軍規格に近い通信装備の流出情報があります」
「流出ではないな」
バラライカは煙を吐いた。
「流出とは、持ち主が失った時に使う言葉だ。これは違う。持ち主が、自分の手を隠している」
「CIAでしょうか」
「一枚岩ではあるまい。アメリカは巨大な国だ。巨大な国ほど、自分の影を管理できない」
その時、扉が開いた。
エダが入ってくる。
修道服姿で、まるで場違いなようでいて、この街では不思議と馴染んでいる。
「ごきげんよう、バラライカ」
ボリスが一歩動く。
バラライカは手で制した。
「シスター。ここは懺悔室ではない」
「知ってるわ。ここで懺悔なんかしたら、罪のほうが逃げ出しそう」
「何の用だ」
「世間話」
「世間話には銃を持ってくるのか」
エダは肩をすくめる。
「この街では礼儀でしょ」
バラライカは微笑む。
だが目は笑っていない。
「座れ」
「ありがと」
エダは椅子に座り、脚を組んだ。
ボリスは無言で部屋の隅へ下がる。
バラライカが言う。
「ココ・ヘクマティアルについて話しに来たのだろう」
「話が早い女は好きよ」
「私はお前が嫌いだがな」
「知ってる。だから信用できる」
「面白い理屈だ」
エダは笑った。
「好きな相手には嘘をつきたくなる。でも嫌いな相手には、意外と本当のことを言える。嫌われても困らないから」
「では、本当のことを言え」
エダは少しだけ表情を変えた。
「ココが追っているものは、この街の外だけの問題じゃない」
「電子戦システムか」
エダの眉がわずかに動いた。
「そこまで知ってるの」
「この街で大声を出せば、翌朝には三合会の下っ端まで知っている。声を出さずに動けば、翌朝にはホテル・モスクワが知っている」
「怖いわね」
「お前の古巣ほどではない」
エダは笑みを消さない。
「私の古巣は教会よ」
「その教会は、ラングレーに支部があるのか」
「便利な世の中でしょ」
バラライカは煙草を灰皿に置いた。
「お前たちは、ココを止めたいのか」
「“お前たち”が誰を指すかによるわ」
「CIA」
「大きすぎる」
「では、お前個人は」
エダは少し黙った。
「私は、ロアナプラが変な形で燃えるのを避けたい」
「この街はいつも燃えている」
「だからよ。普段の火事は、誰が油を撒いて、誰が消火器を売って、誰が焼け跡を買うかがわかってる。でも今回は違う。火をつけた本人が、火事が起きたことも認めないタイプ」
「非公式作戦か」
「さあ」
「とぼけるな」
「とぼけるのも仕事のうち」
バラライカは冷たく笑った。
「お前がここへ来た理由は二つだ。一つは、私にココを警戒させること。もう一つは、私を使って、お前の仲間ではないCIAの連中を牽制すること」
エダは拍手する真似をした。
「さすが」
「褒めても撃たないとは限らない」
「怖い怖い」
「エダ。お前の国の内輪揉めを、この街に持ち込むな」
エダの目が少し鋭くなる。
「私の国だけの問題じゃないわ。ココがあれを手に入れたら、ロアナプラの通信も丸裸になるかもしれない。ホテル・モスクワの無線、三合会の船、暴力教会の取引、警察の買収リスト。全部ね」
バラライカは動じない。
「そうなれば、最初に死ぬのはココだ」
「本当に?」
「この街で、全員の秘密を持つ者は長生きしない」
「でもココは、秘密を持って逃げるだけの足がある」
「逃げる先を焼けばいい」
エダは苦笑した。
「あなた、やっぱり怖いわ」
「お前が言うな」
しばらく沈黙があった。
エダは静かに言った。
「ロアナプラの均衡を守りたいなら、今回はココを完全に敵に回すべきじゃない」
「理由は?」
「彼女は、あれを売るためだけに動いていない」
「なぜそう思う」
「武器商人が本当に売りたいものを手に入れる時、もっと静かに動く。今回は派手すぎる。自分が狙われることも計算している。まるで、誰が出てくるかを見るために餌を撒いているみたい」
バラライカは煙草を手に取った。
「同感だ」
「なら?」
「だからこそ危険だ。商売人なら金で止まる。理想家なら、時に死んでも止まらない」
「ココが理想家だと?」
「最悪の種類のな」
「どんな?」
バラライカは窓の外を見る。
「現実をよく知っている理想家だ」
エダは黙った。
それは、彼女も感じていたことだった。
ココ・ヘクマティアルは夢を見ている。
だが、その夢は子供のものではない。
戦場の地図と契約書と死体の数を見たうえで、それでも笑っている者の夢だ。
バラライカは言った。
「シスター。お前は何を望む」
「ロアナプラが今日と同じ明日を迎えること」
「つまらんな」
「つまらない明日は貴重よ。この街では特に」
「では、私からも一つ条件がある」
「何?」
「お前の古巣がこの街に兵を入れるなら、私が撃つ」
「兵じゃなくて民間企業の社員なら?」
「制服の名前で弾の重さは変わらん」
エダは笑った。
「伝えておくわ」
「伝える相手がいるのか」
「神様に」
「なら、神にこう伝えろ。ロアナプラで奇跡を起こすなら、事前に許可を取れ」
エダは立ち上がった。
「あなた、神様にも縄張り代を請求しそうね」
「当然だ。土地代は高い」
*
ジャングルの廃工場では、出発準備が進んでいた。
必要なものだけを持ち、不要な荷は捨てる。弾薬を分配し、無線の使用を最小限にする。ベニーは通信機材を確認しながら、何度も嫌そうな顔をしていた。
「最悪だ」
ロックが聞く。
「何が?」
「敵が本当に“花輪”を起動し始めているなら、こっちの無線は信用できない。暗号化しても無駄かもしれない。暗号が破られるというより、通信の流れごと持っていかれる」
ワイリが言う。
「じゃあ昔ながらの合図にする?」
「手旗信号とか?」
「爆発の回数とか」
「却下」
「一回なら前進、二回なら後退、三回なら――」
「却下!」
ルツが淡々と言う。
「銃声の数も合図になる」
ベニーが頭を抱える。
「なんでこのチーム、通信手段がどんどん暴力的になるんだ」
レームが笑う。
「昔はそれで十分だったんですぜ」
「昔に戻りたくないです」
「誰も戻りたくはない。ただ、戻されることはある」
ダッチが弾倉を確認しながら言った。
「無線が使えないなら、目で見える距離を保つ。単純だが確実だ」
ココが頷く。
「二班に分ける。先行班はバルメ、レヴィ、ルツ、ロック。後続は私、レーム、ダッチ、マオ、ベニー、ワイリ、博士」
レヴィが即座に反応する。
「何で俺がロックの子守りなんだ」
ロックが言う。
「俺もその言い方は気になります」
「じゃあ何て言えばいい?」
「護衛」
「もっと嫌だ」
バルメが言う。
「ロックは観察役として必要。あなたは前に出る癖がある。私とルツで補正する」
レヴィが目を細める。
「俺が補正される側かよ」
「そう」
「気に入らねえ」
「でも必要」
「必要って言葉で俺を動かせると思うなよ」
ココが割って入る。
「報酬を増やすわ」
レヴィは一瞬で答えた。
「よし、行くぞロック」
ロックが呆れる。
「早いですね」
「金は言葉より信用できる」
バルメが小さく言う。
「わかりやすい人」
「褒めてんのか」
「半分」
「それ禁止だっつってんだろ!」
少し離れた場所で、ナタワットがロックを見ていた。
ロックはそれに気づき、近づく。
「博士」
「君は、なぜ彼女に食ってかかる」
「え?」
「ミス・ヘクマティアルに。君は彼女を恐れている。だが、同時に見ようとしている。普通なら、恐ろしい相手からは目を逸らす」
ロックは少し考えた。
「俺は、目を逸らして後悔したことがあります」
「何から?」
「人が壊れていくところから。人が何かに取り憑かれていくところから。止められないと思って、見ているだけだったことから」
ナタワットは静かに聞いていた。
ロックは続ける。
「ココは、たぶん壊れていません。でも、壊れていないまま危険な場所へ進んでいる。だから余計に怖い」
「君は止めたいのか」
「わかりません」
「わからない?」
「止めるべきなのか、見届けるべきなのか、まだわからない」
ナタワットは疲れたように笑った。
「それは、チェスをしている人間の顔だ」
「俺はチェスは強くありません」
「強いかどうかではない。盤面を見る人間は、いつか自分も駒を動かしたくなる」
ロックは答えなかった。
ナタワットは低く言った。
「気をつけなさい。彼女のような人間に惹かれるのは、彼女が光っているからではない。彼女の向こう側に、自分の知らない地獄が見えるからだ」
「博士は、彼女をどう見ていますか」
ナタワットはココのほうを見た。
彼女はレームと地図を確認しながら、何か冗談を言っている。レームが苦笑し、マオが肩をすくめ、ワイリが楽しそうに笑っていた。
「彼女は、怪物ではない」
ナタワットは言った。
「怪物なら、まだ理解できる。怪物は食べるために殺す。怒りで壊す。欲で奪う。だが彼女は違う。彼女は、未来のために現在を切ることができる」
「それは怪物より悪い?」
「時々は」
*
出発前、ロックは一人で工場の外に出た。
空は白み、森の輪郭がはっきりし始めている。遠くで鳥が鳴いた。湿った空気の中に、油と錆の臭いがまだ残っている。
そこへ、ココがやってきた。
「一人?」
「考えごとです」
「また船酔いするわよ」
「今は船に乗っていません」
「じゃあ、森酔い」
「それも今作ったんですか」
「ええ」
ロックは小さく笑った。
ココは隣に立ち、廃工場を見上げた。
「ここ、嫌な場所ね」
「あなたにもそう見えますか」
「もちろん。人間が何かを作って、捨てて、でも捨てたものがまだ悪さをする場所。世界中にあるわ。廃工場、旧基地、沈んだ船、破棄された契約、忘れられた国境線」
「あなたは、それを全部見てきたんですか」
「全部は無理。でも、たくさん見た」
「それで、世界を変えたいと思った」
ココは少し笑った。
「ロックは、私を裁判にかけたいの?」
「質問しているだけです」
「質問は時々、銃より痛いわ」
「あなたは撃たれ慣れていそうですけど」
「撃たれるのは嫌いよ。痛いもの」
「意外ですね」
「私、痛みに強い女に見える?」
「痛みを計算に入れる人に見えます」
ココはしばらく黙り、それから楽しそうに笑った。
「本当に、あなたは面白い」
「それで誤魔化さないでください」
「誤魔化してないわ。面白いから面白いと言ってる」
ロックは彼女を見る。
「あなたは、あのシステムをどうするつもりですか」
「手に入れば、解析する。使えるなら使う。危険すぎるなら壊す」
「誰にとって危険なら?」
「世界にとって」
「世界という言葉は大きすぎる」
「そうね」
「大きすぎる言葉は、個人の犠牲を隠します」
ココはロックを見た。
「誰かを思い出してる?」
ロックはすぐには答えなかった。
ガルシア。ロベルタ。あの屋敷。あの血の匂い。救えたのか、救えなかったのか、今でもわからない選択。
彼は静かに言った。
「この街に来てから、何度か見ました。正義や忠誠や復讐が、人をどこまで連れて行くのか」
「怖かった?」
「はい」
「止めたかった?」
「はい」
「止められた?」
「わかりません」
ココは何も言わなかった。
ロックは続ける。
「あなたは、復讐では動いていない。忠誠でもない。金だけでもない。だから、余計にわかりにくい」
「私は私の夢で動いてる」
「夢で人を巻き込むのは危険です」
「ええ」
「わかっていてやる」
「ええ」
「あなたは、本当に自分が怖くないんですか」
ココは空を見た。
朝の光が、彼女の白い髪を淡く照らしている。
「怖いわよ」
その声は、驚くほど静かだった。
「私は、自分が怖い。自分がどこまで行けるのか。どこまで行ってしまうのか。どこで止まれなくなるのか。時々、考える」
「それでも進む」
「進む」
「なぜ」
「止まっても、世界は止まらないから」
ロックは黙った。
ココは彼に向き直る。
「ロック。あなたは私を危険だと言う。それは正しい。でも、何もしない人間も危険よ。見ているだけの人間も、時々とても危険。何かが壊れていくのを見ながら、“自分が壊したわけじゃない”と言えるから」
ロックの胸に、その言葉は深く刺さった。
ココは穏やかに続ける。
「あなたは、観客席が好きだと言ったわね」
「まだ言っていません」
「あら、そうだった?」
「少なくとも、今はまだ」
「じゃあ予言」
ココは笑った。
「でも、観客席に座っているつもりでも、劇場が燃えたら同じよ。逃げるか、消すか、燃やした奴を探すか。どれかを選ばないといけない」
「あなたは燃やした奴を探す」
「ええ。そして、火のつけ方も覚える」
「危険ですね」
「何度でも言って」
「危険です」
「ありがとう」
「褒めていません」
「知ってる」
その時、バルメの声がした。
「ココ。出発します」
ココは振り返る。
「今行く」
ロックも歩き出そうとした。
その時、ココが小さく言った。
「ロック」
「はい」
「私が間違えたら、あなたはどうする?」
ロックは立ち止まった。
ココは笑っていなかった。
ロックは少し考え、答えた。
「たぶん、止めようとします」
「撃つ?」
「それは、最後です」
「最後まで待つと、手遅れになるかも」
「それでも、最初に撃つ人間にはなりたくありません」
ココは少しだけ微笑んだ。
「あなたらしい」
「あなたは?」
「私は、必要なら最初に撃つ」
「でしょうね」
「軽蔑する?」
「いいえ」
「どうして?」
ロックは工場を見た。
「俺は、あなたをまだ理解していません。理解していない相手を軽蔑するのは、簡単すぎる」
ココはその言葉を聞いて、少しだけ目を細めた。
「やっぱり、あなたはいいチェス相手ね」
「俺は駒を動かすのが得意じゃありません」
「なら、見るだけでもいいわ」
ロックは静かに言った。
「見るだけで済むとは思えません」
ココは笑った。
「ようこそ、盤面へ」
*
一行は廃工場を後にした。
森は朝の光に照らされている。
だが、明るくなったからといって安全になったわけではない。むしろ、隠れる場所は減り、空から見つかる危険は増えた。
先行班は静かに進んだ。
バルメが先頭。
その少し後ろにレヴィ。
ルツが高所を警戒し、ロックが足元と周囲の変化を見る。
レヴィは小声で言った。
「なあ、ロック」
「何だ」
「あの白いのと何話してた?」
「いろいろ」
「口説かれたか?」
「違う」
「じゃあ、勧誘か」
「近いかもしれない」
「行くのか?」
ロックは少し驚いてレヴィを見る。
「君がそれを気にするとは思わなかった」
レヴィは舌打ちした。
「気にしてねえよ。ただ、あっちに行ったらお前、早死にしそうだからな」
「心配してるのか」
「違う。お前が死ぬと、書類仕事が面倒になる」
「そういうことにしておく」
「そうしろ」
少し前を歩くバルメが言った。
「ロックは、ココの部隊には向かない」
レヴィが眉を上げる。
「へえ。嫉妬か?」
「違う」
「じゃあ何だ」
「彼は考えすぎる。ココのそばにいると、考えすぎる人間は消耗する」
ロックは苦笑した。
「それは否定しにくいですね」
バルメは続ける。
「でも、ココは彼のような人間を面白がる」
「お嬢様は悪趣味だな」
「ええ」
レヴィが笑った。
「そこは否定しねえのか」
「しない。ココは悪趣味」
「本人に言ってやれよ」
「言ってる」
「それで?」
「笑ってる」
「だろうな」
ルツが後ろから言った。
「おしゃべりはいいが、声を落とせ」
レヴィが肩をすくめる。
「スナイパー様は耳がいいな」
「耳が悪い狙撃手は長生きしない」
「それもそうだ」
その瞬間、ルツが手を上げた。
全員が止まる。
森の奥。
かすかな音。
無線のノイズのようなものが、どこからか聞こえた。
ベニーが後続から小型受信機を見て、顔をしかめた。
「来てる」
ココが低く聞く。
「花輪?」
「まだ完全起動じゃない。でも、周辺の通信が歪んでる。誰かが大きな網を広げ始めてる」
ナタワットが震えた。
「間に合わないかもしれない」
ココは地図の北東を見た。
「間に合わせるわ」
レームが静かに銃を構える。
「お嬢。ここから先は、たぶん相手の盤面ですぜ」
ココは笑った。
「なら、ひっくり返しましょう」
ダッチがため息をついた。
「簡単に言うな」
「難しく言っても簡単にはならないもの」
レヴィが銃を抜いた。
「いいぜ。盤面だか花輪だか知らねえが、撃てる形で出てくるなら歓迎だ」
バルメが隣で構える。
「撃てない形で出てくるから厄介なのよ」
「だったら、撃てる形に引きずり出す」
ココは二人を見て、満足そうに言った。
「頼もしいわね」
ロックは森の奥を見た。
通信塔跡。
そこに、答えがある。
あるいは、さらなる罠がある。
ロアナプラを出たはずなのに、街の闇はまだ彼らを追っている。
いや、違う。
彼ら自身が、その闇を運んでいるのだ。
黒いケース。
博士。
ココの秘密。
ロックの疑念。
そして、まだ姿を見せない敵。
森の向こうで、かすかな電子音が鳴った。
それは鳥の声でも、虫の音でも、銃声でもない。
戦場が、別の言葉で話し始める音だった。