Guns & Garlands — 銃と花輪   作:たこ焼き 龍月

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第一章 大尉の沈黙

 

 バラライカが怒鳴らない時、ホテル・モスクワの兵たちはより強く緊張する。怒鳴り声には形がある。怒りの向きも、熱も、終わりもわかる。だが沈黙には終わりがない。どこまで続くのか、いつ刃になるのか、誰にもわからない。ロアナプラの港で、白い船の積荷が開かれようとしていた時、バラライカは怒鳴らなかった。ただ、黙って見ていた。その沈黙だけで、周囲の空気は十分に冷えた。

 

 第七倉庫区画には、港湾作業灯の白い光が落ちていた。キャスパーの貨物船から降ろされたコンテナがいくつか並び、その横に三合会の港湾担当者、ホテル・モスクワの兵、ラグーン商会、そしてキャスパーの私兵たちが立っている。普通なら、これだけの面子が同じ場所にいる時点で、港は閉鎖されてもおかしくない。だがロアナプラでは、危険な連中ほど仕事を止めない。危険があるからこそ、荷は動く。金は動く。嘘も動く。

 

 キャスパーは、船側のタラップを降りてきた。白い服ではないが、相変わらず清潔すぎる。ロアナプラの港に似合わない男だった。本人もそれをよくわかっているから、余計にたちが悪い。

 

「厳重だね」

 

 キャスパーは周囲を見渡し、軽く笑った。

 

「一度限りの入港権って、もっと歓迎されるものだと思っていたよ」

 

 張の部下が表情を変えずに答える。

 

「歓迎ではありません。確認です」

 

 レヴィが煙草をくわえたまま言った。

 

「検品だって言ったろ。白い兄貴の持ち物は、箱ごと胡散臭え」

 

 船上からチェキータが笑う。

 

「あなた、再会の挨拶がいつも乱暴ね」

 

「帰れ、猟犬」

 

「来たばかりよ、野良犬」

 

「誰が野良犬だ」

 

「返事するあたり、自覚あるのね」

 

「撃つぞ」

 

 バラライカの視線が、二人の間を無言で通った。

 

 それだけでレヴィは舌打ちし、チェキータは肩をすくめた。

 

「怖い目ね」

 

「こっちは慣れてんだよ」

 

「慣れてる顔じゃなかったわよ」

 

「うるせえ」

 

 ボリスはコンテナの前に立ち、積荷目録と実物を照合していた。張側の港湾担当者が封印を確認し、キャスパー側のエドガーが無言で立ち会う。アランは少し離れた場所で端末を見ていた。ポーはコンテナ列の端に立ち、ただ倉庫全体を見ている。大柄な影がそこにあるだけで、誰も無駄な動きをしなくなる。

 

 ベニーはラグーン商会の車の横で端末を開いていた。古い通信反応を追っているが、画面に出る波形は奇妙だった。

 

「これ、やっぱり普通の港湾設備じゃない」

 

 ロックが横から覗き込む。

 

「古い回線?」

 

「うん。でも、ただ古いだけじゃない。普通なら死んでるはずの経路が、一瞬だけ起きてる。しかも、ホテル・モスクワの兵站連絡と近いところをかすってる」

 

 ダッチが低く聞く。

 

「意図的か」

 

「たぶん。偶然にしては、触り方がいやらしい」

 

 レヴィが言う。

 

「通信の触り方にいやらしいとかあんのかよ」

 

 ベニーは端末から目を離さず答えた。

 

「あるんだよ。こういうのは、真正面から叩くより、相手が気づくか気づかないかの場所を撫でてくる」

 

「気色悪いな」

 

「だから嫌なんだ」

 

 バラライカがベニーの背後から画面を見た。

 

「追えるか」

 

 ベニーは少し肩を強張らせた。

 

「すぐには無理です。ただ、反応が出た場所は絞れます。第七倉庫区画の地下。それから、港湾北側の古い中継室。あと、ホテル・モスクワの拠点に近い回線を一瞬だけ触っています」

 

「一瞬だけ?」

 

「はい。触って、反応を見て、すぐ引く。たぶん、こちらがどう動くかを見ています」

 

 ボリスが横で静かに言った。

 

「大尉の読み通りです」

 

 バラライカは答えなかった。

 

 キャスパーが近づいてくる。

 

「僕の荷物を開ける前から、ずいぶん盛り上がっているね」

 

 バラライカは彼を見た。

 

「お前の荷物だからだ」

 

「中古通信機材だよ」

 

「死んだ命令を呼ぶ機材か」

 

「言い方が詩的だ」

 

 次の瞬間、バラライカの視線が鋭くなる。キャスパーは笑みを保ったまま、ほんの少しだけ口を閉じた。レヴィですら黙る。

 

 バラライカは低く言った。

 

「二度は言わん。ふざけるな」

 

 キャスパーは少しだけ両手を上げた。

 

「失礼」

 

 ロックはそのやり取りを見て、背筋が冷たくなるのを感じた。キャスパーはいつも余裕を崩さない。張にも、バラライカにも、危険を前にしても笑う。だが今、一瞬だけ笑いの温度を下げた。つまり、彼もこの件がただの港湾トラブルではないと理解している。

 

 コンテナの一つが開かれた。

 

 中には、申告通りの中古通信機材が並んでいた。古い中継器、交換機、港湾設備の制御盤、医療用発電機の部品、民間転用された通信ラック。どれも、書類上は問題のないものに見える。ロアナプラの港に入ってくる荷としては、むしろおとなしい方だった。

 

 だが、その中の一つを見た瞬間、ボリスの表情がわずかに変わった。

 

 それは古びた金属筐体だった。塗装は剥げ、型番の一部は削られている。見た目はただの旧式通信部品。だが、ボリスはそれを知っていた。正確には、その形を見たことがある。戦場で。まだ国があった頃に。

 

「大尉」

 

 ボリスが短く言った。

 

 バラライカは彼の視線だけで理解した。

 

 彼女はゆっくりとその部品に近づく。手袋をした兵が、確認のために筐体を少し動かす。ベニーも端末を持って近づいた。

 

「これですか」

 

 ベニーが聞く。

 

 ボリスは頷く。

 

「古い軍用通信装置の一部だ。完全なものではない。だが、規格は一致している」

 

 ベニーは画面に表示された反応を見る。

 

「この部品からは通信は出ていません。でも、港の地下回線がこれに反応した可能性はあります。鍵みたいなものか、呼び水みたいなものか」

 

 レヴィが顔をしかめる。

 

「ただの鉄くずじゃねえのか」

 

 ボリスは静かに答えた。

 

「鉄くずでも、覚えている者がいれば意味を持つ」

 

「部品が覚えてるってか?」

 

「人間が覚えている」

 

 レヴィは少し黙った。

 

 ロックはその言葉に引っかかった。人間が覚えている。つまり、今回の敵は機械だけを狙っているのではない。古い装置、古い回線、古い符丁。そして、それを見た人間の反応。庭師が欲しがっているのは、やはりそこなのだ。

 

 キャスパーは筐体を眺めて言った。

 

「それは、買い手から指定された部品だ」

 

 バラライカが彼を見る。

 

「誰が買う」

 

「まだ言えない」

 

 レヴィが即座に銃へ手をかけた。

 

「なら吐かせるか」

 

 チェキータが船側から降りてきて、レヴィの前に立った。

 

「やめなさい、野良犬」

 

「邪魔すんな、猟犬」

 

「ボスを撃たれたら給料が減るの」

 

「金かよ」

 

「大事よ」

 

 キャスパーはその横で涼しい顔をしていた。

 

「買い手の名前は、この場では言えない。ただし、庭師ではない」

 

 バラライカは鋭く言った。

 

「庭師を知っているのか」

 

「噂だけなら」

 

「嘘をつくなら、もう少し上手くやれ」

 

「大尉、僕はいつも上手く嘘をつく」

 

「今は下手だ」

 

 キャスパーは少しだけ笑った。

 

「厳しいね」

 

 ロックが口を挟んだ。

 

「キャスパー。あなたはこの部品が狙われると知っていたんですか」

 

「半分くらい」

 

 その瞬間、レヴィが怒鳴った。

 

「またそれかよ!」

 

 チェキータが笑う。

 

「流行ってるわね」

 

「お前らのせいだ!」

 

 ロックはキャスパーを見続けた。

 

「半分というのは?」

 

「この部品に価値があることは知っていた。旧ソ連圏の通信規格に関わるものだということもね。ただ、それがホテル・モスクワの古い命令符丁と結びつくとは知らなかった」

 

「本当に?」

 

「本当に。そこまで知っていたら、もっと高く売っていた」

 

 バラライカの目が冷える。

 

 キャスパーはすぐに言葉を足した。

 

「冗談だよ」

 

「冗談では済まさん」

 

「だろうね」

 

 張の部下が近づき、ロックへ小さく囁いた。

 

「張より連絡です。積荷確認は続行。ただし、当該部品は三合会、ホテル・モスクワ、ラグーン商会立ち会いのもと、一時保留」

 

 ロックは頷いた。

 

「妥当ですね」

 

 バラライカも異議を唱えなかった。

 

 キャスパーは肩をすくめる。

 

「僕の荷物なんだけどね」

 

 ダッチが言った。

 

「盗まれる場所に持ち込んだ時点で、もうお前だけの話じゃない」

 

 キャスパーは笑った。

 

「前にも聞いた」

 

「何度でも聞け」

 

     *

 

 積荷確認が一段落した後、バラライカはホテル・モスクワの拠点へ戻った。

 

 彼女は移動中、一言も発しなかった。車内にはボリスが同乗している。窓の外では、ロアナプラの朝が少しずつ始まりかけていた。夜が薄まり、港の汚れが光の中に浮かび上がる。だが、バラライカの内側にあるものは、朝になっても薄まらなかった。

 

 拠点へ戻ると、すでに報告が集まり始めていた。

 

 偽命令を受けた拠点は三つ。港湾北側、南側、旧水路付近。いずれも内容は似ている。第七倉庫区画の通信機材を確認せよ。旧水路倉庫へ集結せよ。指定部品を回収せよ。符丁は少しずつ違うが、すべて古い。本来なら使われるはずのないものだ。

 

 そして、若い兵たちの反応も異なっていた。

 

 一人は即座に報告した。

 

 一人は上官へ確認した後、待機した。

 

 一人は数分だけ独断で動きかけ、途中で止められた。

 

 バラライカはそれらの報告を読んだ。

 

 怒鳴らなかった。

 

 ただ、全員を集めるよう命じた。

 

 ホテル・モスクワの小会議室に、関係した兵たちが並んだ。若い者が多い。ロアナプラでの実戦経験はあるが、彼らはかつての戦場を知らない。バラライカたちがどこから来たのか、話としては知っていても、その寒さまでは知らない。

 

 バラライカは彼らの前に立った。

 

 ボリスは少し後ろに控えている。

 

 兵たちは全員、姿勢を正していた。誰も喋らない。部屋には、軍隊の沈黙が満ちている。

 

 バラライカは最初に、イリヤを見た。

 

「お前は報告した」

 

「はい」

 

「よろしい」

 

 イリヤの喉がわずかに動いた。

 

 次に、上官へ確認した兵を見る。

 

「お前は確認した」

 

「はい」

 

「それもよい」

 

 そして、独断で動きかけた兵へ視線を移した。若い兵は青ざめている。処罰を覚悟している顔だった。

 

「お前は動きかけた」

 

「……はい」

 

「なぜだ」

 

「符丁が本物でした。命令文は古いと思いましたが、もし本物であれば、遅れれば拠点に損害が出ると判断しました」

 

「誰の判断だ」

 

「自分の判断です」

 

「違う」

 

 兵は息を呑んだ。

 

 バラライカは静かに続けた。

 

「お前は命令に判断させた。自分で判断したのではない」

 

 部屋の空気が重くなる。

 

「命令を疑え」

 

 バラライカは言った。

 

「疑った上で従え。疑わずに従う者は、敵の声でも動く。疑うだけで動けない者は、戦場では置いていかれる。命令は神ではない。だが、命令を軽んじる者も兵ではない」

 

 若い兵たちは黙って聞いていた。

 

「今回、お前たちは試された。敵は、ホテル・モスクワが何を本物と見なすかを見ている。私の名ではない。古い書式でもない。死んだ国の署名でもない。お前たちが何に反応するかを見ている」

 

 ボリスは目を伏せた。

 

 バラライカの声は低く、よく通った。

 

「今後、同様の命令を受けた者は即座に報告しろ。独断で動くな。だが、恐れるな。疑った者を罰しない」

 

 そこで一度、言葉が切れた。

 

 兵たちは顔を上げる。

 

 バラライカは続けた。

 

「疑わなかった者を鍛える」

 

 若い兵たちの背筋が伸びた。

 

 レヴィなら、ひどい言い方だと笑ったかもしれない。ロックなら、その厳しさに顔をしかめたかもしれない。だが、ここはホテル・モスクワだった。彼らには彼らの言葉がある。優しさでは兵はまとまらない。恐怖だけでも長くは持たない。その間にある、冷たい規律。それが彼らの形だった。

 

「命令は私が出す」

 

 バラライカは最後に言った。

 

「死んだ声には従うな」

 

 その一言で、会議は終わった。

 

     *

 

 兵たちが去った後、ボリスは部屋に残った。

 

 バラライカは窓辺に立ち、煙草を吸っている。外は朝になりかけているが、空の色はまだ灰色だった。

 

「大尉」

 

「何だ」

 

「独断で動きかけた兵の処分は」

 

「不要だ」

 

「よろしいのですか」

 

「敵は処分を見たいかもしれん」

 

 ボリスは黙った。

 

「動いた者を罰すれば、次から兵は報告より保身を選ぶ。何もしなければ、命令軽視になる。ならば鍛える。最も面倒で、最も時間のかかる方法だ」

 

「了解しました」

 

 バラライカは煙を吐いた。

 

「ボリス」

 

「はい」

 

「この符丁の流出源を探せ」

 

「当時の記録保管系統も含めますか」

 

「すべてだ。旧軍、亡命者、武器商人、情報屋、キャスパーの取引先、ミスター・グレイの残党。どこかで繋がる」

 

「庭師も」

 

「もちろん」

 

 ボリスは頷いた。

 

「ラグーン商会には?」

 

「ダッチを呼べ」

 

「ロックではなく?」

 

「ロックはココと話す。ベニーは通信を見る。ダッチには、兵隊の匂いを嗅がせる」

 

 ボリスは少しだけ理解したように頷く。

 

「ラグーン商会に正式依頼を」

 

「正式という言葉は、この街では笑われる」

 

 バラライカは煙草を灰皿へ押しつけた。

 

「だが、依頼にしておけ。命令ではない」

 

「ダッチが嫌がります」

 

「嫌がる程度なら受ける」

 

「レヴィは」

 

「文句を言う」

 

「ロックは」

 

「胃を痛める」

 

 ボリスはわずかに口元を動かした。

 

「ベニーは」

 

「嫌なものを見つける」

 

 バラライカは窓の外を見た。

 

「それでいい」

 

     *

 

 ラグーン商会がホテル・モスクワの拠点へ呼ばれたのは、その日の昼前だった。

 

 レヴィは最初から不機嫌だった。港の件が終わったと思ったら、今度はホテル・モスクワの拠点へ来いと言われたのだ。彼女にとって、ホテル・モスクワの施設は居心地が悪い。静かすぎる。整いすぎている。兵士たちの視線が、まるで壁の一部のように冷たい。レヴィはそういう空気が嫌いだった。

 

「なあ、ダッチ」

 

「何だ」

 

「今から帰らねえか」

 

「無理だな」

 

「何でだよ」

 

「呼ばれた」

 

「呼ばれて行く義理があんのか」

 

「あるから来てる」

 

「いつから俺らはホテル・モスクワの下請けになったんだよ」

 

 ロックが横から言う。

 

「下請けではないと思う」

 

 レヴィが睨む。

 

「じゃあ何だ」

 

「便利な外部協力者」

 

「最悪じゃねえか」

 

 ベニーが端末を抱えながら言う。

 

「実際、最悪だよ。僕はもう帰りたい」

 

「お前は来たばっかで帰りたがんな」

 

「通信機材と古い軍用回線とホテル・モスクワの偽命令だよ。帰りたくならない方がおかしい」

 

 ダッチは短く言った。

 

「黙って歩け」

 

 廊下の奥でボリスが待っていた。

 

「来たか」

 

 ダッチが頷く。

 

「ああ。大尉は?」

 

「中だ」

 

 ボリスはレヴィを見る。

 

「施設内での発砲は控えてもらう」

 

 レヴィは鼻で笑った。

 

「撃たれなきゃ撃たねえよ」

 

「なら問題ない」

 

「信用すんのかよ」

 

「半分ほど」

 

 レヴィが顔をしかめた。

 

「お前まで言うな」

 

 ベニーが小声でロックに言う。

 

「感染力が強いね」

 

「もう諦めよう」

 

 執務室に入ると、バラライカが待っていた。机の上には、偽命令の写しが複数並んでいる。港湾地図、古い通信経路図、キャスパーの積荷目録、そしてベニーが見つけた地下回線の反応ログ。資料の量は多いが、部屋は整然としていた。混乱を机の上で整列させるのが軍人のやり方なのかもしれない、とロックは思った。

 

 バラライカはダッチを見た。

 

「仕事だ」

 

 ダッチは眉を上げる。

 

「命令ではないんだろうな」

 

「依頼だ」

 

「なら聞こう」

 

 バラライカは偽命令の写しを一枚、ダッチの前へ滑らせた。

 

「死んだ命令の出所を探る。港の地下に古い中継設備がある。第七倉庫区画から旧水路倉庫へ繋がる経路だ。そこを調べてもらう」

 

 レヴィが言う。

 

「ホテル・モスクワでやりゃいいだろ」

 

「やる」

 

 バラライカは即答した。

 

「だが、我々だけが動けば、敵は我々の反応だけを見る。外部の目が要る」

 

 ロックが言う。

 

「外部の目、ですか」

 

「お前たちは命令では動かん。金と面倒で動く」

 

 レヴィが笑った。

 

「いい評価だな」

 

「褒めてはいない」

 

「知ってるよ」

 

 ベニーが資料を見ながら言った。

 

「この旧水路倉庫、港湾地下の古い中継室と繋がっている可能性があります。もしそこが起きているなら、花輪の根に近いものが残っているかもしれない」

 

 バラライカの目がベニーへ向く。

 

「赤い合唱、という語を知っているか」

 

 ベニーは顔を上げた。

 

「さっき、ココから共有されました。庭師側のコードネームらしいです。まだ詳細は不明ですが、命令系統の反応を集める仕組みかもしれない」

 

 ロックは言った。

 

「花輪が通信そのものを束ねるなら、赤い合唱は命令を信じる人間の反応を集める」

 

 バラライカは静かにロックを見た。

 

「お前はどう見る」

 

 ロックは少し考えた。

 

「これは、ホテル・モスクワを攻撃しているというより、ホテル・モスクワで実験しているように見えます」

 

 部屋の空気が冷えた。

 

 レヴィが小さく舌打ちする。

 

 ボリスの目が鋭くなる。

 

 バラライカは表情を変えなかった。

 

「続けろ」

 

「偽命令は、被害を出すためだけならもっと直接的にできたはずです。でも、今回の命令は中途半端です。古いけれど偽物とわかる書式。本物の符丁。限定された移送先。反応を見るための余白がある」

 

「つまり」

 

「敵は、ホテル・モスクワがどこで疑い、どこで従うかを見ています」

 

 バラライカはゆっくりと煙草を取り出した。

 

「お前も、そう見るか」

 

「はい」

 

「では、どうする」

 

 ロックは少し言葉に詰まった。

 

 バラライカはそれを待った。

 

「……敵の観測を止める必要があります。でも、その前に、どこから見ているのかを知らないといけない」

 

 ベニーが頷く。

 

「旧水路倉庫と地下中継室を調べれば、少なくとも入口は見えると思います」

 

 ダッチが言う。

 

「で、俺たちはそこへ行く」

 

「そうだ」

 

 バラライカはダッチを見た。

 

「ホテル・モスクワからはボリスと数名を出す。ラグーン商会は同行しろ。HCLIも来るだろう」

 

 レヴィが嫌そうな顔をする。

 

「また白いお嬢様か」

 

 ロックが言う。

 

「ココはもう動いています」

 

「だろうな。あいつ、危ねえもん見つけると目が光るからな」

 

 バラライカはロックへ言った。

 

「ロック」

 

「はい」

 

「ココ・ヘクマティアルがこれを欲しがるなら、止めろ」

 

 ロックは息を呑んだ。

 

 バラライカは続けた。

 

「私が撃つ前に」

 

 部屋が沈黙した。

 

 ロックはゆっくり頷いた。

 

「わかりました」

 

 レヴィが小声で言う。

 

「おいおい、また面倒な役だな」

 

 ロックは苦笑した。

 

「慣れてきた自分が嫌だ」

 

 ダッチはバラライカへ聞いた。

 

「報酬は」

 

 バラライカは短く答えた。

 

「払う」

 

「額は」

 

「仕事の結果次第だ」

 

 レヴィが言う。

 

「信用ならねえな」

 

 バラライカはレヴィを見た。

 

「なら、キャスパーに請求しろ」

 

 レヴィは一瞬だけ黙り、それから笑った。

 

「いい案だ」

 

 ロックは思わず言った。

 

「それはそれで揉めます」

 

 ダッチは煙草をくわえた。

 

「揉めるのも仕事のうちだ」

 

     *

 

 ホテル・モスクワの拠点を出た時、ロックは廊下の端で立ち止まった。

 

 若い兵が一人、壁際に立っていた。港湾北側拠点で最初に報告を上げた兵、イリヤだった。彼はラグーン商会の面々に気づき、緊張した顔で敬礼しかけたが、相手が軍人ではないことに気づいて中途半端に手を下ろした。

 

 レヴィがそれを見て笑う。

 

「何だ、その変な動き」

 

「すみません」

 

 ロックが声をかける。

 

「あなたが、最初に偽命令を報告した人ですか」

 

 イリヤは少し驚いた顔をした。

 

「はい」

 

「正しい判断だったと思います」

 

 イリヤは返答に困ったようだった。

 

「大尉にも、そう言われました」

 

 レヴィが言う。

 

「ならいいじゃねえか」

 

「ですが、自分は迷いました。もし本物なら、と」

 

 レヴィは少しだけ黙った。

 

 それから、いつもの乱暴な声で言った。

 

「迷って報告したなら上等だろ。迷わねえ奴の方が危ねえよ」

 

 イリヤはレヴィを見る。

 

「あなたは、迷わないように見えます」

 

「迷う前に撃ってるだけだ」

 

 ロックが横から言った。

 

「それは助言としてどうかと思う」

 

 レヴィは肩をすくめる。

 

「でも生きてる」

 

 イリヤは少しだけ笑った。

 

「ロアナプラらしいですね」

 

「若いのに嫌な学習してんな」

 

 そこへボリスが現れた。

 

「イリヤ。訓練に戻れ」

 

「はい」

 

 イリヤは姿勢を正し、去っていった。

 

 ボリスはその背中を見送る。

 

 ダッチが隣に立った。

 

「若いな」

 

「若い兵は、命令を本物だと思いたがる」

 

「なぜだ」

 

「その方が楽だからです」

 

 ボリスは淡々と言った。

 

「疑うには責任が要る。従うだけなら、責任を命令に預けられる」

 

 ダッチは少し煙を吐いた。

 

「戦争は終わったんじゃないのか」

 

 ボリスはダッチを見た。

 

「終わった戦争ほど、よく命令を出します」

 

「死んだ上官か」

 

「いいえ」

 

 ボリスは静かに答えた。

 

「死んだ国です」

 

 ダッチは何も言わなかった。

 

 レヴィも、珍しく黙っていた。

 

 ロックはその会話を胸の奥に沈めた。死んだ国。死んだ命令。死んだはずの声。庭師は、それをもう一度鳴らそうとしている。赤い合唱という名前が、急に嫌な現実味を帯びてきた。

 

     *

 

 その日の夕方、旧水路倉庫へ向かう準備が整った。

 

 ラグーン商会は、ホテル・モスクワの部隊と合流することになった。HCLIからはココ、レーム、バルメ、マオ、ワイリが来る。キャスパーは表向き、積荷確認のため港に残ることになっている。しかし、誰も彼が本当におとなしくしているとは思っていない。

 

 ロックは出発前、ココと短く話した。

 

 場所は港湾地区の外れ。夕暮れの光がコンテナの側面を赤く染めている。まるで、この章の題名を先に知っているかのような色だった。

 

「ココ」

 

「何?」

 

「赤い合唱について、知っていることを全部話してください」

 

 ココは少し笑った。

 

「全部?」

 

「少なくとも、今話せる全部を」

 

「あなた、だんだん交渉が上手くなってきたわね」

 

「あなたたちのせいです」

 

 ココはコンテナに背を預け、空を見た。

 

「赤い合唱は、庭師の根の一つ。まだ完成していない。たぶん、花輪の補助系。現代の通信じゃなくて、古い命令系統、人間が従う声、符丁、儀礼、恐怖、忠誠。そういうものを集めている」

 

「兵器ですか」

 

「兵器になる」

 

「今は?」

 

「観測装置」

 

 ロックは眉をひそめた。

 

「ホテル・モスクワを観測している」

 

「ええ。とてもいい対象だから」

 

 その言葉に、ロックは少し怒りを覚えた。

 

「いい対象?」

 

 ココはロックを見る。

 

「軍隊としての規律が残っている。過去の命令系統もある。ロアナプラの中で独立した組織として動いている。部下はバラライカを信じている。偽命令を投げれば、どう反応するかが見える」

 

「人間を実験台みたいに言わないでください」

 

 ココは黙った。

 

 ロックは続けた。

 

「あなたも、それを欲しがっていますか」

 

 ココはすぐには答えなかった。

 

 夕暮れの港で、遠くのクレーンが軋む音がする。

 

「知りたい」

 

 ココは言った。

 

「それは欲しがっているのと同じですか」

 

「半分くらい」

 

 ロックは目を細めた。

 

「その言い方はやめてください」

 

「レヴィみたい」

 

「本気です」

 

 ココはロックを見た。

 

 笑っていなかった。

 

「欲しいわ」

 

 ロックは息を止めた。

 

 ココは続ける。

 

「危険だとわかってる。壊すべきだとも思ってる。でも、知りたい。どうやって人は命令を本物だと思うのか。どうやって声は人を動かすのか。花輪がそこまで触れるなら、私は知らなきゃいけない」

 

「知らなきゃいけない、ですか」

 

「ええ」

 

「それを使わないために?」

 

「そう言えば、あなたは安心する?」

 

「しません」

 

 ココは少しだけ笑った。

 

「正直ね」

 

 ロックは静かに言った。

 

「バラライカさんは、あなたがそれを欲しがるなら撃つかもしれません」

 

「でしょうね」

 

「俺は、その前に止めます」

 

「ええ」

 

 ココは目を伏せた。

 

「見張っていて」

 

 ロックは頷いた。

 

「見張ります」

 

 その時、バルメが遠くから声をかけた。

 

「ココ、準備ができました」

 

 レヴィも別方向から叫ぶ。

 

「ロック! 行くぞ! また地下だとよ、最悪だ!」

 

 ワイリの声が混じる。

 

「地下っていいよねえ。何か眠ってる感じがして」

 

 マオがぼやく。

 

「お前はそういうこと言うな。不吉だ」

 

 ロックはココと並んで歩き出した。

 

 前方には、ホテル・モスクワの車列がある。ボリスが立ち、若い兵たちが装備を確認している。バラライカは少し離れた場所で、港の地下へ続く古い水路図を見ていた。

 

 死んだ命令が、地下から鳴っている。

 

 庭師はどこかで、それを聞いている。

 

 そして、ロアナプラの夜がまた始まろうとしていた。

 

 バラライカは水路図を閉じ、短く命じた。

 

「行くぞ」

 

 ホテル・モスクワの兵たちが動く。

 

 ラグーン商会も続く。

 

 HCLIも、その後を追う。

 

 港の古い地下へ向かう一行の背後で、キャスパーの白い船が夕暮れの光を受けていた。

 

 船上のキャスパーは、彼らの背中を見送っていた。

 

 チェキータが隣に立つ。

 

「行かなくていいの?」

 

「今回は見送るよ」

 

「珍しい」

 

「僕が行くと、大尉が本気で怒る」

 

「もう怒ってるわよ」

 

「まだ静かだ」

 

 キャスパーは笑った。

 

「本気で怒る前の静けさほど、高いものはない」

 

 チェキータは呆れた。

 

「あなた、本当に何でも値段にするのね」

 

「商人だからね」

 

 ポーが背後で低く言った。

 

「今回は、値段じゃない」

 

 キャスパーは振り返る。

 

「そうかな」

 

 ポーはロアナプラの港を見た。

 

「声だ」

 

 キャスパーは少しだけ笑みを薄めた。

 

 港の地下で、古い回線がまた震えた。

 

 赤い合唱は、まだ小さな声だった。

 

 だが、その声は確かに、ホテル・モスクワの過去へ向かって伸びていた。

 

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