Guns & Garlands — 銃と花輪 作:たこ焼き 龍月
バラライカが怒鳴らない時、ホテル・モスクワの兵たちはより強く緊張する。怒鳴り声には形がある。怒りの向きも、熱も、終わりもわかる。だが沈黙には終わりがない。どこまで続くのか、いつ刃になるのか、誰にもわからない。ロアナプラの港で、白い船の積荷が開かれようとしていた時、バラライカは怒鳴らなかった。ただ、黙って見ていた。その沈黙だけで、周囲の空気は十分に冷えた。
第七倉庫区画には、港湾作業灯の白い光が落ちていた。キャスパーの貨物船から降ろされたコンテナがいくつか並び、その横に三合会の港湾担当者、ホテル・モスクワの兵、ラグーン商会、そしてキャスパーの私兵たちが立っている。普通なら、これだけの面子が同じ場所にいる時点で、港は閉鎖されてもおかしくない。だがロアナプラでは、危険な連中ほど仕事を止めない。危険があるからこそ、荷は動く。金は動く。嘘も動く。
キャスパーは、船側のタラップを降りてきた。白い服ではないが、相変わらず清潔すぎる。ロアナプラの港に似合わない男だった。本人もそれをよくわかっているから、余計にたちが悪い。
「厳重だね」
キャスパーは周囲を見渡し、軽く笑った。
「一度限りの入港権って、もっと歓迎されるものだと思っていたよ」
張の部下が表情を変えずに答える。
「歓迎ではありません。確認です」
レヴィが煙草をくわえたまま言った。
「検品だって言ったろ。白い兄貴の持ち物は、箱ごと胡散臭え」
船上からチェキータが笑う。
「あなた、再会の挨拶がいつも乱暴ね」
「帰れ、猟犬」
「来たばかりよ、野良犬」
「誰が野良犬だ」
「返事するあたり、自覚あるのね」
「撃つぞ」
バラライカの視線が、二人の間を無言で通った。
それだけでレヴィは舌打ちし、チェキータは肩をすくめた。
「怖い目ね」
「こっちは慣れてんだよ」
「慣れてる顔じゃなかったわよ」
「うるせえ」
ボリスはコンテナの前に立ち、積荷目録と実物を照合していた。張側の港湾担当者が封印を確認し、キャスパー側のエドガーが無言で立ち会う。アランは少し離れた場所で端末を見ていた。ポーはコンテナ列の端に立ち、ただ倉庫全体を見ている。大柄な影がそこにあるだけで、誰も無駄な動きをしなくなる。
ベニーはラグーン商会の車の横で端末を開いていた。古い通信反応を追っているが、画面に出る波形は奇妙だった。
「これ、やっぱり普通の港湾設備じゃない」
ロックが横から覗き込む。
「古い回線?」
「うん。でも、ただ古いだけじゃない。普通なら死んでるはずの経路が、一瞬だけ起きてる。しかも、ホテル・モスクワの兵站連絡と近いところをかすってる」
ダッチが低く聞く。
「意図的か」
「たぶん。偶然にしては、触り方がいやらしい」
レヴィが言う。
「通信の触り方にいやらしいとかあんのかよ」
ベニーは端末から目を離さず答えた。
「あるんだよ。こういうのは、真正面から叩くより、相手が気づくか気づかないかの場所を撫でてくる」
「気色悪いな」
「だから嫌なんだ」
バラライカがベニーの背後から画面を見た。
「追えるか」
ベニーは少し肩を強張らせた。
「すぐには無理です。ただ、反応が出た場所は絞れます。第七倉庫区画の地下。それから、港湾北側の古い中継室。あと、ホテル・モスクワの拠点に近い回線を一瞬だけ触っています」
「一瞬だけ?」
「はい。触って、反応を見て、すぐ引く。たぶん、こちらがどう動くかを見ています」
ボリスが横で静かに言った。
「大尉の読み通りです」
バラライカは答えなかった。
キャスパーが近づいてくる。
「僕の荷物を開ける前から、ずいぶん盛り上がっているね」
バラライカは彼を見た。
「お前の荷物だからだ」
「中古通信機材だよ」
「死んだ命令を呼ぶ機材か」
「言い方が詩的だ」
次の瞬間、バラライカの視線が鋭くなる。キャスパーは笑みを保ったまま、ほんの少しだけ口を閉じた。レヴィですら黙る。
バラライカは低く言った。
「二度は言わん。ふざけるな」
キャスパーは少しだけ両手を上げた。
「失礼」
ロックはそのやり取りを見て、背筋が冷たくなるのを感じた。キャスパーはいつも余裕を崩さない。張にも、バラライカにも、危険を前にしても笑う。だが今、一瞬だけ笑いの温度を下げた。つまり、彼もこの件がただの港湾トラブルではないと理解している。
コンテナの一つが開かれた。
中には、申告通りの中古通信機材が並んでいた。古い中継器、交換機、港湾設備の制御盤、医療用発電機の部品、民間転用された通信ラック。どれも、書類上は問題のないものに見える。ロアナプラの港に入ってくる荷としては、むしろおとなしい方だった。
だが、その中の一つを見た瞬間、ボリスの表情がわずかに変わった。
それは古びた金属筐体だった。塗装は剥げ、型番の一部は削られている。見た目はただの旧式通信部品。だが、ボリスはそれを知っていた。正確には、その形を見たことがある。戦場で。まだ国があった頃に。
「大尉」
ボリスが短く言った。
バラライカは彼の視線だけで理解した。
彼女はゆっくりとその部品に近づく。手袋をした兵が、確認のために筐体を少し動かす。ベニーも端末を持って近づいた。
「これですか」
ベニーが聞く。
ボリスは頷く。
「古い軍用通信装置の一部だ。完全なものではない。だが、規格は一致している」
ベニーは画面に表示された反応を見る。
「この部品からは通信は出ていません。でも、港の地下回線がこれに反応した可能性はあります。鍵みたいなものか、呼び水みたいなものか」
レヴィが顔をしかめる。
「ただの鉄くずじゃねえのか」
ボリスは静かに答えた。
「鉄くずでも、覚えている者がいれば意味を持つ」
「部品が覚えてるってか?」
「人間が覚えている」
レヴィは少し黙った。
ロックはその言葉に引っかかった。人間が覚えている。つまり、今回の敵は機械だけを狙っているのではない。古い装置、古い回線、古い符丁。そして、それを見た人間の反応。庭師が欲しがっているのは、やはりそこなのだ。
キャスパーは筐体を眺めて言った。
「それは、買い手から指定された部品だ」
バラライカが彼を見る。
「誰が買う」
「まだ言えない」
レヴィが即座に銃へ手をかけた。
「なら吐かせるか」
チェキータが船側から降りてきて、レヴィの前に立った。
「やめなさい、野良犬」
「邪魔すんな、猟犬」
「ボスを撃たれたら給料が減るの」
「金かよ」
「大事よ」
キャスパーはその横で涼しい顔をしていた。
「買い手の名前は、この場では言えない。ただし、庭師ではない」
バラライカは鋭く言った。
「庭師を知っているのか」
「噂だけなら」
「嘘をつくなら、もう少し上手くやれ」
「大尉、僕はいつも上手く嘘をつく」
「今は下手だ」
キャスパーは少しだけ笑った。
「厳しいね」
ロックが口を挟んだ。
「キャスパー。あなたはこの部品が狙われると知っていたんですか」
「半分くらい」
その瞬間、レヴィが怒鳴った。
「またそれかよ!」
チェキータが笑う。
「流行ってるわね」
「お前らのせいだ!」
ロックはキャスパーを見続けた。
「半分というのは?」
「この部品に価値があることは知っていた。旧ソ連圏の通信規格に関わるものだということもね。ただ、それがホテル・モスクワの古い命令符丁と結びつくとは知らなかった」
「本当に?」
「本当に。そこまで知っていたら、もっと高く売っていた」
バラライカの目が冷える。
キャスパーはすぐに言葉を足した。
「冗談だよ」
「冗談では済まさん」
「だろうね」
張の部下が近づき、ロックへ小さく囁いた。
「張より連絡です。積荷確認は続行。ただし、当該部品は三合会、ホテル・モスクワ、ラグーン商会立ち会いのもと、一時保留」
ロックは頷いた。
「妥当ですね」
バラライカも異議を唱えなかった。
キャスパーは肩をすくめる。
「僕の荷物なんだけどね」
ダッチが言った。
「盗まれる場所に持ち込んだ時点で、もうお前だけの話じゃない」
キャスパーは笑った。
「前にも聞いた」
「何度でも聞け」
*
積荷確認が一段落した後、バラライカはホテル・モスクワの拠点へ戻った。
彼女は移動中、一言も発しなかった。車内にはボリスが同乗している。窓の外では、ロアナプラの朝が少しずつ始まりかけていた。夜が薄まり、港の汚れが光の中に浮かび上がる。だが、バラライカの内側にあるものは、朝になっても薄まらなかった。
拠点へ戻ると、すでに報告が集まり始めていた。
偽命令を受けた拠点は三つ。港湾北側、南側、旧水路付近。いずれも内容は似ている。第七倉庫区画の通信機材を確認せよ。旧水路倉庫へ集結せよ。指定部品を回収せよ。符丁は少しずつ違うが、すべて古い。本来なら使われるはずのないものだ。
そして、若い兵たちの反応も異なっていた。
一人は即座に報告した。
一人は上官へ確認した後、待機した。
一人は数分だけ独断で動きかけ、途中で止められた。
バラライカはそれらの報告を読んだ。
怒鳴らなかった。
ただ、全員を集めるよう命じた。
ホテル・モスクワの小会議室に、関係した兵たちが並んだ。若い者が多い。ロアナプラでの実戦経験はあるが、彼らはかつての戦場を知らない。バラライカたちがどこから来たのか、話としては知っていても、その寒さまでは知らない。
バラライカは彼らの前に立った。
ボリスは少し後ろに控えている。
兵たちは全員、姿勢を正していた。誰も喋らない。部屋には、軍隊の沈黙が満ちている。
バラライカは最初に、イリヤを見た。
「お前は報告した」
「はい」
「よろしい」
イリヤの喉がわずかに動いた。
次に、上官へ確認した兵を見る。
「お前は確認した」
「はい」
「それもよい」
そして、独断で動きかけた兵へ視線を移した。若い兵は青ざめている。処罰を覚悟している顔だった。
「お前は動きかけた」
「……はい」
「なぜだ」
「符丁が本物でした。命令文は古いと思いましたが、もし本物であれば、遅れれば拠点に損害が出ると判断しました」
「誰の判断だ」
「自分の判断です」
「違う」
兵は息を呑んだ。
バラライカは静かに続けた。
「お前は命令に判断させた。自分で判断したのではない」
部屋の空気が重くなる。
「命令を疑え」
バラライカは言った。
「疑った上で従え。疑わずに従う者は、敵の声でも動く。疑うだけで動けない者は、戦場では置いていかれる。命令は神ではない。だが、命令を軽んじる者も兵ではない」
若い兵たちは黙って聞いていた。
「今回、お前たちは試された。敵は、ホテル・モスクワが何を本物と見なすかを見ている。私の名ではない。古い書式でもない。死んだ国の署名でもない。お前たちが何に反応するかを見ている」
ボリスは目を伏せた。
バラライカの声は低く、よく通った。
「今後、同様の命令を受けた者は即座に報告しろ。独断で動くな。だが、恐れるな。疑った者を罰しない」
そこで一度、言葉が切れた。
兵たちは顔を上げる。
バラライカは続けた。
「疑わなかった者を鍛える」
若い兵たちの背筋が伸びた。
レヴィなら、ひどい言い方だと笑ったかもしれない。ロックなら、その厳しさに顔をしかめたかもしれない。だが、ここはホテル・モスクワだった。彼らには彼らの言葉がある。優しさでは兵はまとまらない。恐怖だけでも長くは持たない。その間にある、冷たい規律。それが彼らの形だった。
「命令は私が出す」
バラライカは最後に言った。
「死んだ声には従うな」
その一言で、会議は終わった。
*
兵たちが去った後、ボリスは部屋に残った。
バラライカは窓辺に立ち、煙草を吸っている。外は朝になりかけているが、空の色はまだ灰色だった。
「大尉」
「何だ」
「独断で動きかけた兵の処分は」
「不要だ」
「よろしいのですか」
「敵は処分を見たいかもしれん」
ボリスは黙った。
「動いた者を罰すれば、次から兵は報告より保身を選ぶ。何もしなければ、命令軽視になる。ならば鍛える。最も面倒で、最も時間のかかる方法だ」
「了解しました」
バラライカは煙を吐いた。
「ボリス」
「はい」
「この符丁の流出源を探せ」
「当時の記録保管系統も含めますか」
「すべてだ。旧軍、亡命者、武器商人、情報屋、キャスパーの取引先、ミスター・グレイの残党。どこかで繋がる」
「庭師も」
「もちろん」
ボリスは頷いた。
「ラグーン商会には?」
「ダッチを呼べ」
「ロックではなく?」
「ロックはココと話す。ベニーは通信を見る。ダッチには、兵隊の匂いを嗅がせる」
ボリスは少しだけ理解したように頷く。
「ラグーン商会に正式依頼を」
「正式という言葉は、この街では笑われる」
バラライカは煙草を灰皿へ押しつけた。
「だが、依頼にしておけ。命令ではない」
「ダッチが嫌がります」
「嫌がる程度なら受ける」
「レヴィは」
「文句を言う」
「ロックは」
「胃を痛める」
ボリスはわずかに口元を動かした。
「ベニーは」
「嫌なものを見つける」
バラライカは窓の外を見た。
「それでいい」
*
ラグーン商会がホテル・モスクワの拠点へ呼ばれたのは、その日の昼前だった。
レヴィは最初から不機嫌だった。港の件が終わったと思ったら、今度はホテル・モスクワの拠点へ来いと言われたのだ。彼女にとって、ホテル・モスクワの施設は居心地が悪い。静かすぎる。整いすぎている。兵士たちの視線が、まるで壁の一部のように冷たい。レヴィはそういう空気が嫌いだった。
「なあ、ダッチ」
「何だ」
「今から帰らねえか」
「無理だな」
「何でだよ」
「呼ばれた」
「呼ばれて行く義理があんのか」
「あるから来てる」
「いつから俺らはホテル・モスクワの下請けになったんだよ」
ロックが横から言う。
「下請けではないと思う」
レヴィが睨む。
「じゃあ何だ」
「便利な外部協力者」
「最悪じゃねえか」
ベニーが端末を抱えながら言う。
「実際、最悪だよ。僕はもう帰りたい」
「お前は来たばっかで帰りたがんな」
「通信機材と古い軍用回線とホテル・モスクワの偽命令だよ。帰りたくならない方がおかしい」
ダッチは短く言った。
「黙って歩け」
廊下の奥でボリスが待っていた。
「来たか」
ダッチが頷く。
「ああ。大尉は?」
「中だ」
ボリスはレヴィを見る。
「施設内での発砲は控えてもらう」
レヴィは鼻で笑った。
「撃たれなきゃ撃たねえよ」
「なら問題ない」
「信用すんのかよ」
「半分ほど」
レヴィが顔をしかめた。
「お前まで言うな」
ベニーが小声でロックに言う。
「感染力が強いね」
「もう諦めよう」
執務室に入ると、バラライカが待っていた。机の上には、偽命令の写しが複数並んでいる。港湾地図、古い通信経路図、キャスパーの積荷目録、そしてベニーが見つけた地下回線の反応ログ。資料の量は多いが、部屋は整然としていた。混乱を机の上で整列させるのが軍人のやり方なのかもしれない、とロックは思った。
バラライカはダッチを見た。
「仕事だ」
ダッチは眉を上げる。
「命令ではないんだろうな」
「依頼だ」
「なら聞こう」
バラライカは偽命令の写しを一枚、ダッチの前へ滑らせた。
「死んだ命令の出所を探る。港の地下に古い中継設備がある。第七倉庫区画から旧水路倉庫へ繋がる経路だ。そこを調べてもらう」
レヴィが言う。
「ホテル・モスクワでやりゃいいだろ」
「やる」
バラライカは即答した。
「だが、我々だけが動けば、敵は我々の反応だけを見る。外部の目が要る」
ロックが言う。
「外部の目、ですか」
「お前たちは命令では動かん。金と面倒で動く」
レヴィが笑った。
「いい評価だな」
「褒めてはいない」
「知ってるよ」
ベニーが資料を見ながら言った。
「この旧水路倉庫、港湾地下の古い中継室と繋がっている可能性があります。もしそこが起きているなら、花輪の根に近いものが残っているかもしれない」
バラライカの目がベニーへ向く。
「赤い合唱、という語を知っているか」
ベニーは顔を上げた。
「さっき、ココから共有されました。庭師側のコードネームらしいです。まだ詳細は不明ですが、命令系統の反応を集める仕組みかもしれない」
ロックは言った。
「花輪が通信そのものを束ねるなら、赤い合唱は命令を信じる人間の反応を集める」
バラライカは静かにロックを見た。
「お前はどう見る」
ロックは少し考えた。
「これは、ホテル・モスクワを攻撃しているというより、ホテル・モスクワで実験しているように見えます」
部屋の空気が冷えた。
レヴィが小さく舌打ちする。
ボリスの目が鋭くなる。
バラライカは表情を変えなかった。
「続けろ」
「偽命令は、被害を出すためだけならもっと直接的にできたはずです。でも、今回の命令は中途半端です。古いけれど偽物とわかる書式。本物の符丁。限定された移送先。反応を見るための余白がある」
「つまり」
「敵は、ホテル・モスクワがどこで疑い、どこで従うかを見ています」
バラライカはゆっくりと煙草を取り出した。
「お前も、そう見るか」
「はい」
「では、どうする」
ロックは少し言葉に詰まった。
バラライカはそれを待った。
「……敵の観測を止める必要があります。でも、その前に、どこから見ているのかを知らないといけない」
ベニーが頷く。
「旧水路倉庫と地下中継室を調べれば、少なくとも入口は見えると思います」
ダッチが言う。
「で、俺たちはそこへ行く」
「そうだ」
バラライカはダッチを見た。
「ホテル・モスクワからはボリスと数名を出す。ラグーン商会は同行しろ。HCLIも来るだろう」
レヴィが嫌そうな顔をする。
「また白いお嬢様か」
ロックが言う。
「ココはもう動いています」
「だろうな。あいつ、危ねえもん見つけると目が光るからな」
バラライカはロックへ言った。
「ロック」
「はい」
「ココ・ヘクマティアルがこれを欲しがるなら、止めろ」
ロックは息を呑んだ。
バラライカは続けた。
「私が撃つ前に」
部屋が沈黙した。
ロックはゆっくり頷いた。
「わかりました」
レヴィが小声で言う。
「おいおい、また面倒な役だな」
ロックは苦笑した。
「慣れてきた自分が嫌だ」
ダッチはバラライカへ聞いた。
「報酬は」
バラライカは短く答えた。
「払う」
「額は」
「仕事の結果次第だ」
レヴィが言う。
「信用ならねえな」
バラライカはレヴィを見た。
「なら、キャスパーに請求しろ」
レヴィは一瞬だけ黙り、それから笑った。
「いい案だ」
ロックは思わず言った。
「それはそれで揉めます」
ダッチは煙草をくわえた。
「揉めるのも仕事のうちだ」
*
ホテル・モスクワの拠点を出た時、ロックは廊下の端で立ち止まった。
若い兵が一人、壁際に立っていた。港湾北側拠点で最初に報告を上げた兵、イリヤだった。彼はラグーン商会の面々に気づき、緊張した顔で敬礼しかけたが、相手が軍人ではないことに気づいて中途半端に手を下ろした。
レヴィがそれを見て笑う。
「何だ、その変な動き」
「すみません」
ロックが声をかける。
「あなたが、最初に偽命令を報告した人ですか」
イリヤは少し驚いた顔をした。
「はい」
「正しい判断だったと思います」
イリヤは返答に困ったようだった。
「大尉にも、そう言われました」
レヴィが言う。
「ならいいじゃねえか」
「ですが、自分は迷いました。もし本物なら、と」
レヴィは少しだけ黙った。
それから、いつもの乱暴な声で言った。
「迷って報告したなら上等だろ。迷わねえ奴の方が危ねえよ」
イリヤはレヴィを見る。
「あなたは、迷わないように見えます」
「迷う前に撃ってるだけだ」
ロックが横から言った。
「それは助言としてどうかと思う」
レヴィは肩をすくめる。
「でも生きてる」
イリヤは少しだけ笑った。
「ロアナプラらしいですね」
「若いのに嫌な学習してんな」
そこへボリスが現れた。
「イリヤ。訓練に戻れ」
「はい」
イリヤは姿勢を正し、去っていった。
ボリスはその背中を見送る。
ダッチが隣に立った。
「若いな」
「若い兵は、命令を本物だと思いたがる」
「なぜだ」
「その方が楽だからです」
ボリスは淡々と言った。
「疑うには責任が要る。従うだけなら、責任を命令に預けられる」
ダッチは少し煙を吐いた。
「戦争は終わったんじゃないのか」
ボリスはダッチを見た。
「終わった戦争ほど、よく命令を出します」
「死んだ上官か」
「いいえ」
ボリスは静かに答えた。
「死んだ国です」
ダッチは何も言わなかった。
レヴィも、珍しく黙っていた。
ロックはその会話を胸の奥に沈めた。死んだ国。死んだ命令。死んだはずの声。庭師は、それをもう一度鳴らそうとしている。赤い合唱という名前が、急に嫌な現実味を帯びてきた。
*
その日の夕方、旧水路倉庫へ向かう準備が整った。
ラグーン商会は、ホテル・モスクワの部隊と合流することになった。HCLIからはココ、レーム、バルメ、マオ、ワイリが来る。キャスパーは表向き、積荷確認のため港に残ることになっている。しかし、誰も彼が本当におとなしくしているとは思っていない。
ロックは出発前、ココと短く話した。
場所は港湾地区の外れ。夕暮れの光がコンテナの側面を赤く染めている。まるで、この章の題名を先に知っているかのような色だった。
「ココ」
「何?」
「赤い合唱について、知っていることを全部話してください」
ココは少し笑った。
「全部?」
「少なくとも、今話せる全部を」
「あなた、だんだん交渉が上手くなってきたわね」
「あなたたちのせいです」
ココはコンテナに背を預け、空を見た。
「赤い合唱は、庭師の根の一つ。まだ完成していない。たぶん、花輪の補助系。現代の通信じゃなくて、古い命令系統、人間が従う声、符丁、儀礼、恐怖、忠誠。そういうものを集めている」
「兵器ですか」
「兵器になる」
「今は?」
「観測装置」
ロックは眉をひそめた。
「ホテル・モスクワを観測している」
「ええ。とてもいい対象だから」
その言葉に、ロックは少し怒りを覚えた。
「いい対象?」
ココはロックを見る。
「軍隊としての規律が残っている。過去の命令系統もある。ロアナプラの中で独立した組織として動いている。部下はバラライカを信じている。偽命令を投げれば、どう反応するかが見える」
「人間を実験台みたいに言わないでください」
ココは黙った。
ロックは続けた。
「あなたも、それを欲しがっていますか」
ココはすぐには答えなかった。
夕暮れの港で、遠くのクレーンが軋む音がする。
「知りたい」
ココは言った。
「それは欲しがっているのと同じですか」
「半分くらい」
ロックは目を細めた。
「その言い方はやめてください」
「レヴィみたい」
「本気です」
ココはロックを見た。
笑っていなかった。
「欲しいわ」
ロックは息を止めた。
ココは続ける。
「危険だとわかってる。壊すべきだとも思ってる。でも、知りたい。どうやって人は命令を本物だと思うのか。どうやって声は人を動かすのか。花輪がそこまで触れるなら、私は知らなきゃいけない」
「知らなきゃいけない、ですか」
「ええ」
「それを使わないために?」
「そう言えば、あなたは安心する?」
「しません」
ココは少しだけ笑った。
「正直ね」
ロックは静かに言った。
「バラライカさんは、あなたがそれを欲しがるなら撃つかもしれません」
「でしょうね」
「俺は、その前に止めます」
「ええ」
ココは目を伏せた。
「見張っていて」
ロックは頷いた。
「見張ります」
その時、バルメが遠くから声をかけた。
「ココ、準備ができました」
レヴィも別方向から叫ぶ。
「ロック! 行くぞ! また地下だとよ、最悪だ!」
ワイリの声が混じる。
「地下っていいよねえ。何か眠ってる感じがして」
マオがぼやく。
「お前はそういうこと言うな。不吉だ」
ロックはココと並んで歩き出した。
前方には、ホテル・モスクワの車列がある。ボリスが立ち、若い兵たちが装備を確認している。バラライカは少し離れた場所で、港の地下へ続く古い水路図を見ていた。
死んだ命令が、地下から鳴っている。
庭師はどこかで、それを聞いている。
そして、ロアナプラの夜がまた始まろうとしていた。
バラライカは水路図を閉じ、短く命じた。
「行くぞ」
ホテル・モスクワの兵たちが動く。
ラグーン商会も続く。
HCLIも、その後を追う。
港の古い地下へ向かう一行の背後で、キャスパーの白い船が夕暮れの光を受けていた。
船上のキャスパーは、彼らの背中を見送っていた。
チェキータが隣に立つ。
「行かなくていいの?」
「今回は見送るよ」
「珍しい」
「僕が行くと、大尉が本気で怒る」
「もう怒ってるわよ」
「まだ静かだ」
キャスパーは笑った。
「本気で怒る前の静けさほど、高いものはない」
チェキータは呆れた。
「あなた、本当に何でも値段にするのね」
「商人だからね」
ポーが背後で低く言った。
「今回は、値段じゃない」
キャスパーは振り返る。
「そうかな」
ポーはロアナプラの港を見た。
「声だ」
キャスパーは少しだけ笑みを薄めた。
港の地下で、古い回線がまた震えた。
赤い合唱は、まだ小さな声だった。
だが、その声は確かに、ホテル・モスクワの過去へ向かって伸びていた。