Guns & Garlands — 銃と花輪   作:たこ焼き 龍月

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第二章 白い商人の二度目の港

 

 ロアナプラの港には、同じ船が二度入ってくることがある。だが、一度目と二度目が同じ意味を持つとは限らない。一度目は荷を降ろすため。二度目は借りを取り立てるため。あるいは、一度目に落とした火種が、ちゃんと燃え始めているかを確かめるため。港という場所は、船だけを受け入れるわけではない。嘘も、金も、裏切りも、古い命令も、岸壁へ静かに係留される。

 

 キャスパー・ヘクマティアルの白い船は、その朝、ロアナプラの港に二度目の影を落とした。外伝の事件で得た一度限りの入港権。三合会の港湾経路確認、ホテル・モスクワの無条件拒否権、ラグーン商会の立ち会い。その面倒な条件をすべて満たした上で、彼は本当に戻ってきた。約束を守ったと言えば聞こえはいい。だが、ロアナプラでは、約束を守る人間ほど警戒される。約束の内側に、別の何かを隠していることが多いからだ。

 

 第七倉庫区画に残された旧式通信部品は、すでに三者立ち会いで封印されていた。張の部下が港湾管理用の仮保管庫を押さえ、ホテル・モスクワの兵が周囲を固め、ラグーン商会はまたしても誰の味方でもない顔で中間に立たされた。キャスパーは自分の荷物を取り上げられた形になったが、怒ってはいなかった。むしろ、少しだけ楽しそうだった。それが余計に周囲の神経を逆撫でした。

 

「白い商人」

 

 港の片隅、倉庫の影で張が言った。

 

 キャスパーは振り返る。張は護衛を連れているが、距離を取らせている。あからさまな威圧ではない。だが、港の空気そのものが彼の側についているような立ち方だった。

 

「張さん。朝から港は忙しいね」

 

「あなたが来ると、忙しくなる」

 

「それは光栄だ」

 

「褒めていないよ」

 

「知ってる」

 

 キャスパーは笑った。張も薄く笑った。二人の笑顔は似ていない。キャスパーの笑みは値札を貼るためのもの。張の笑みは、値段を聞く前に相手の懐を測るためのものだった。

 

 張は封印された仮保管庫の方へ目を向けた。

 

「積荷目録は申告通りだった。表向きはね」

 

「表向きが整っているなら、商売としては合格だろう」

 

「ロアナプラでは、表が整いすぎている荷ほど裏を疑われる」

 

「難しい港だ」

 

「だから、一度だけと言った」

 

 キャスパーは肩をすくめる。

 

「その一度を使っただけだよ」

 

「一度を入口にするつもりではないのかい?」

 

 キャスパーは少し黙った。それから、穏やかに答える。

 

「商人にとって、一度の取引は次の会話の前置きだ」

 

「正直だね」

 

「隠しても、あなたには面白くないだろう?」

 

 張は薄く笑った。

 

「面白さで港は貸さない」

 

「でも、面白くない相手とは話さない」

 

 張は否定しなかった。彼はキャスパーから視線を外し、白い船を見た。

 

「今回の積荷。あなたはどこまで知っていた?」

 

 キャスパーは即答しなかった。彼が即答しない時、だいたい答えはろくでもない。

 

「旧式の通信部品に価値があることは知っていた」

 

「誰にとっての価値だ」

 

「買い手にとって」

 

「その買い手の名は」

 

「まだ言えない」

 

「まだ、か」

 

 張の声は穏やかだったが、そこには針があった。

 

「では、質問を変えよう。庭師に関係するか」

 

 キャスパーは今度もすぐには答えなかった。

 

 港の遠くで、クレーンが金属音を立てる。岸壁では作業員たちが荷を動かしている。誰も二人の会話を聞いていないようで、誰かが必ず聞いている。それがロアナプラの港だった。

 

「直接の取引相手は庭師ではない」

 

「便利な言い方だ」

 

「便利な言葉は長生きする」

 

「ロックの胃には悪い」

 

 キャスパーは笑った。

 

「彼には悪いことをしているね」

 

「悪いと思っている顔ではない」

 

「半分くらいは」

 

 張は少しだけ眉を動かした。

 

「その言葉、街で流行らせるのはやめてほしいね」

 

「もう手遅れかも」

 

 張は茶を飲むような声で続けた。

 

「あなたの船が来た直後、ホテル・モスクワに古い命令が届いた。大尉の過去に触れる命令だ」

 

「聞いた」

 

「どこで?」

 

「港は耳が多い。あなたほどではないけれど」

 

「耳が多い者は、聞いてはいけない声まで聞く」

 

 キャスパーは港の沖を見た。白い船体が朝の光に照らされている。

 

「赤い合唱」

 

 その言葉を、彼は小さく言った。

 

 張の目が細くなる。

 

「知っているね」

 

「名前だけなら」

 

「また、半分かい」

 

「今回は四分の一くらいかな」

 

 張は笑わなかった。

 

「キャスパー。あなたが持ち込んだ部品が、ロアナプラの地下に眠っている何かを起こした。ホテル・モスクワは怒っている。HCLIは動いている。ラグーン商会はまた巻き込まれた。あなたはここで、ただの荷主の顔をしている」

 

「荷主だよ」

 

「荷主にしては、火元を眺める目をしている」

 

 キャスパーは少しだけ表情を静かにした。

 

「僕が火を持ち込んだとして、その火をつけたのが僕とは限らない」

 

「だが、火種を運んだ」

 

「それは否定しない」

 

 張はゆっくりと息を吐いた。

 

「では、火消しに協力してもらう」

 

「僕が?」

 

「あなたの荷だ。あなたの買い手だ。あなたの入港権だ。関係ないとは言わせない」

 

「僕が動くと、大尉が嫌がる」

 

「大尉はすでに嫌がっている」

 

「それは困った」

 

「困っている顔ではないね」

 

「商人の顔は便利でね」

 

 張は静かに言った。

 

「便利な顔は、撃たれる時に間に合わないことがある」

 

 キャスパーは一瞬だけ黙った。それから、いつもの笑みを戻した。

 

「覚えておくよ」

 

     *

 

 港の地下へ続く旧水路倉庫は、第七倉庫区画から少し離れた場所にあった。表の入口は錆びたシャッターで塞がれ、横の通用口には古い南京錠がかかっている。だが、南京錠は飾りのようなものだった。ここを本当に使う者は、正面から入らない。地下の水路、荷役用の古い昇降口、排水設備の点検路。ロアナプラの港には、表の地図に載らない道がいくつもある。

 

 バラライカを先頭に、ホテル・モスクワの兵、ラグーン商会、HCLIが倉庫前に集まった。朝の光は倉庫の入り口まで届いているが、その奥は暗い。古い水と油の匂いがする。港の地下特有の、湿った金属の匂いだった。

 

 レヴィは顔をしかめた。

 

「また地下かよ。前もろくなことなかっただろ」

 

 バルメが横で言う。

 

「怖いのか?」

 

 レヴィは即座に振り向く。

 

「あ?」

 

「地下が怖いのかと聞いた」

 

「お前の白いお嬢様の冗談よりは怖くねえよ」

 

 バルメの目が鋭くなる。

 

「ココを侮辱するな」

 

「だったらお前が先に喧嘩売んな」

 

 マオが小さくぼやいた。

 

「始まったよ」

 

 ワイリは楽しそうに倉庫の壁を見ている。

 

「古い倉庫、いいねえ。音が響きそうだ」

 

 ベニーが即座に言う。

 

「響かせないでください」

 

「まだ何もしてないよ」

 

「その“まだ”が一番怖いんです」

 

 ダッチはレームと並んで入口を見ていた。二人とも無駄に喋らない。戦場を知る男たちには、古い倉庫の沈黙がどういうものかよくわかっている。空っぽに見える場所ほど、何かが残っている。

 

 バラライカはボリスへ短く命じた。

 

「配置」

 

「はい」

 

 ホテル・モスクワの兵たちが動く。無駄のない動き。若い兵もいるが、朝の訓示の後だからか、表情は硬く整っている。その中にイリヤの姿もあった。彼は緊張しているが、怯えてはいない。命令を疑え。疑った上で従え。大尉の言葉が、まだ身体の中で鳴っているのだろう。

 

 ロックはそれを見ていた。

 

 ココが横に来る。

 

「いい兵ね」

 

「そういう言い方は、やめた方がいい」

 

「どうして?」

 

「あなたが言うと、観察しているように聞こえる」

 

 ココは少し黙った。

 

「そうね」

 

 ロックは彼女を見る。

 

「ココ」

 

「わかってる。欲しがらない」

 

「知ろうとはするでしょう」

 

「それは止められない」

 

「では、そこを見張ります」

 

 ココは少しだけ笑った。

 

「厳しくなったわね」

 

「あなたたちのせいです」

 

 バルメが遠くから二人を見ていた。彼女はロックに対して完全な敵意を向けているわけではない。だが、ココに近づく者への警戒は消えない。ロックはその視線を感じて、胃が重くなった。

 

 バラライカがこちらを見た。

 

「ロック」

 

「はい」

 

「中では、余計な交渉をするな」

 

「状況によります」

 

「状況を選べ」

 

「努力します」

 

「努力では足りん」

 

 レヴィが小声で言う。

 

「全員ロックに厳しいな」

 

 ダッチが答える。

 

「便利だからな」

 

「便利って言葉、そろそろ呪いだな」

 

 ボリスが通用口の錠を確認し、兵に合図する。扉が開いた。ぎい、と鈍い音がして、暗い空気が外へ流れ出る。

 

 ベニーの端末が短く鳴った。

 

「反応があります。地下のかなり奥。古い中継設備が、また一瞬だけ応答しました」

 

 バラライカが言う。

 

「進む」

 

 その一言で、全員が動いた。

 

     *

 

 旧水路倉庫の内部は、思ったより広かった。上階は古い荷置き場になっているが、床の一部が金属製の蓋になっており、その下に地下通路が続いていた。かつては港湾設備の点検や、水路を使った荷運びに使われていたのだろう。今では、まともな業者は近づかない。近づくのは、まともではない業者か、まともではない用事を持つ者だけだ。

 

 金属階段を降りると、空気が一段冷たくなった。壁には水が滲み、細い配管が何本も走っている。足元には古いレールの跡があり、小型の荷台を通していた名残が見えた。ベニーは端末を片手に、時々立ち止まって周囲の反応を見る。ワイリも興味深そうに壁や床を眺めているが、ベニーは何度も彼から距離を取っていた。

 

「そんなに離れなくてもいいじゃない」

 

 ワイリが言う。

 

「あなたが楽しそうに壁を見る時は、だいたい危ないんです」

 

「信用ないなあ」

 

「実績がありますから」

 

 マオが溜息をつく。

 

「ベニーの方が正しい」

 

 レームは周囲を見ながら言った。

 

「古いが、使われた形跡はあるな」

 

 ダッチが頷く。

 

「最近か」

 

「数日以内だろう」

 

 ボリスも床を見る。

 

「足跡は少ない。大人数ではない」

 

 レヴィが言う。

 

「庭師ってのは、いちいち少人数でこそこそする趣味か?」

 

 ココが答える。

 

「庭師は、花を踏まないように歩くのよ」

 

 レヴィは顔をしかめた。

 

「何言ってんだ、お前」

 

「たぶん、証拠を残したくないという意味だと思う」

 

 ロックが補足すると、レヴィはさらに嫌そうな顔をした。

 

「普通に言え、普通に」

 

 バラライカは黙って歩いていた。彼女の視線は、壁や配管ではなく、もっと遠いものを見ているようだった。古い水路の空気が、彼女の中の別の場所を開けているのかもしれない。ロックには、それがわかった気がした。ここはロアナプラの地下だ。だが、死んだ命令が鳴っている以上、ここには別の戦場の影も重なっている。

 

 通路の奥で、最初の異変が起きた。

 

 ホテル・モスクワの若い兵が、端末を見て足を止めた。イリヤではない。別の兵だった。彼は耳に手を当て、通信を聞いている。顔がわずかに強張る。

 

 ボリスがすぐに気づいた。

 

「報告しろ」

 

「……命令を受信しました」

 

「内容」

 

「前方の分岐を右へ。旧中継室を確保。HCLI関係者を拘束せよ、と」

 

 バルメが即座に反応した。

 

「何?」

 

 レヴィも銃へ手を伸ばす。

 

「おいおい、もう仲間割れか?」

 

 ボリスが兵へ言った。

 

「送信元は」

 

「不明。古い符丁あり」

 

 バラライカが振り返る。

 

「その命令には従うな」

 

 若い兵は姿勢を正した。

 

「了解」

 

 バラライカはさらに言う。

 

「命令文、時刻、受信時の状況を記録。自分の反応も報告しろ」

 

「自分の反応、ですか」

 

「迷ったか」

 

「……一瞬、迷いました」

 

「よろしい。記録しろ」

 

 若い兵は息を呑み、頷いた。

 

 ロックはそのやり取りを見ていた。敵は今も見ている。偽命令を投げ、ホテル・モスクワの兵がどう動くかを測っている。そしてバラライカは、それを逆手に取って記録している。冷静で、合理的で、危険なやり方だった。

 

 バルメはココを守るように一歩前へ出ていた。

 

 バラライカは彼女を見る。

 

「犬の目だな」

 

 バルメは冷たく返す。

 

「あなたの部下も同じ目をしています」

 

「違う」

 

 バラライカは言った。

 

「私の兵は命令で動く」

 

 バルメは答える。

 

「私は意思で動く」

 

「それは時に命令より厄介だ」

 

「承知しています」

 

 二人の間に、短く冷たい火花が散った。

 

 ココが軽く手を上げる。

 

「今はやめましょう。私を拘束せよという偽命令が出たばかりだし」

 

 レヴィが言う。

 

「お前、軽いな」

 

「重くした方がいい?」

 

「やめろ。余計ムカつく」

 

 ベニーが端末を見る。

 

「今の命令、送信経路が前より近いです。地下のどこかから出てる。少なくとも、ここを見ている何かが近い」

 

 ダッチが言う。

 

「なら、先に進むしかない」

 

 レームも頷く。

 

「誘われているな」

 

 バラライカは短く答えた。

 

「誘いに乗る。ただし、踊る曲はこちらで選ぶ」

 

 ワイリが嬉しそうに言う。

 

「いいねえ、大尉。詩的だ」

 

 レヴィが呟く。

 

「今日、詩人多すぎだろ」

 

     *

 

 一方その頃、地上の第七倉庫区画では、キャスパーが封印された部品を見ていた。もちろん、直接触れることは許されていない。張の部下とホテル・モスクワの兵が監視している。キャスパーの横にはチェキータ、エドガー、アラン、ポーが立っていた。彼らは地下へ行かなかった。キャスパーが残ったからだ。

 

「退屈?」

 

 チェキータが聞く。

 

「少し」

 

「地下へ行けばよかったのに」

 

「大尉に撃たれる」

 

「それはそれで見ものね」

 

「部下として止めてほしいな」

 

「給料分は止めるわ」

 

 アランは端末を見ながら言った。

 

「地下から通信反応が増えています。HCLIもホテル・モスクワもラグーン商会も動いている。ボス、これはただの貨物トラブルじゃないですよ」

 

「知ってる」

 

「どこまで?」

 

「四分の一くらい」

 

 チェキータが溜息をついた。

 

「半分より減ったわね」

 

「正直さが増した」

 

「信用は減った」

 

 エドガーが静かに言った。

 

「買い手は誰だ」

 

 キャスパーはエドガーを見る。

 

「君まで聞く?」

 

「必要だから聞く」

 

「表向きは、東欧系の中古機材仲介会社。実体は薄い。ミスター・グレイほど灰色ではないけれど、白くもない」

 

 アランが端末を操作する。

 

「会社名は?」

 

「オルフェウス・リンク」

 

 チェキータが眉をひそめた。

 

「オルフェウス? 歌の名前?」

 

「神話だね。死者の国へ行った音楽家」

 

「趣味が悪い」

 

「赤い合唱には似合う」

 

 ポーが低く言った。

 

「歌わせる気だ」

 

 全員がポーを見る。

 

 キャスパーは静かに聞いた。

 

「何を?」

 

「死んだもの」

 

 ポーは封印された部品を見た。

 

「これは部品じゃない。笛だ」

 

 チェキータの表情がわずかに変わる。

 

「ポーがそう言うなら、かなり嫌ね」

 

 キャスパーは考え込んだ。

 

 オルフェウス・リンク。死者の国へ行った音楽家。赤い合唱。旧ソ連系通信部品。ホテル・モスクワの古い符丁。

 

 商売としては、美しいほどに不吉な線だった。

 

「アラン」

 

「はい」

 

「オルフェウス・リンクの最近の取引履歴を洗って」

 

「もうやってます」

 

「早いね」

 

「嫌な予感がする時は早くなるんです」

 

 エドガーが言う。

 

「張には?」

 

「共有する。大尉にも」

 

 チェキータが驚いた顔をする。

 

「珍しい。隠さないの?」

 

「隠すには、少し高すぎる」

 

「値段の問題?」

 

「今回は、声の問題らしい」

 

 キャスパーはポーを見た。

 

「そうだろう?」

 

 ポーは答えなかった。

 

     *

 

 地下の一行は、分岐をいくつか越えていた。偽命令が示した右側の通路は、あえて避けられた。バラライカは命令に従わず、しかし完全に無視もしなかった。ボリスに別働を出させ、右側通路の様子だけを確認させる。敵がどう反応するかを見るためだ。

 

 しばらく進むと、壁の配管が増え始めた。古い通信ケーブルが天井近くを走り、ところどころで切断され、また別の線に継ぎ足されている。ベニーはそれを見て顔をしかめた。

 

「気持ち悪いな」

 

 ロックが聞く。

 

「何が?」

 

「古い線と新しい線が混ざってる。しかも、継ぎ方が雑じゃない。誰かが意図的に、古い回線を完全には殺さずに残してる」

 

 ワイリが興味深そうに言う。

 

「庭師っぽいね。枯れた根を抜かずに使う」

 

「その言い方、嫌ですね」

 

「僕も嫌いじゃない」

 

「もっと嫌です」

 

 マオが壁を見て言う。

 

「これ、いつからあるんだ?」

 

 ボリスが答える。

 

「港湾設備の一部は、ホテル・モスクワが来る以前から存在している。だが、我々の兵站網と重なった部分もある」

 

 ダッチが言う。

 

「つまり、古い港の血管に、お前たちが後から血を流した」

 

 ボリスは少し考えた。

 

「悪くない表現です」

 

 レヴィが呟く。

 

「また詩人が増えた」

 

 その時、ココが足を止めた。

 

「ベニー」

 

「何?」

 

「その先、反応が変わる」

 

 ベニーが端末を見るより早く、機械音が通路の奥から聞こえた。低く、短く、規則的な音。まるで誰かが遠くで拍手をしているような、金属的な信号。

 

 ベニーの画面に波形が出る。

 

「出た。さっき港で聞いた信号と同じ。短い応答。これ、通信というより、確認音に近い」

 

 ロックが言う。

 

「誰かがいる?」

 

「人がいるかはわからない。でも、何かが起きてる」

 

 バラライカが命じる。

 

「前進。警戒しろ」

 

 通路の先に、重い鉄扉があった。表面には古いロシア語の警告文らしきものと、港湾管理番号が重ねて貼られている。どちらも古びているが、扉の周辺だけ埃が少ない。最近、開けられた形跡がある。

 

 ボリスが扉の前に立つ。

 

「ここです」

 

 ベニーが端末を見る。

 

「旧中継室。港湾図には、もう使われていない設備として登録されています」

 

 ワイリが楽しそうに言う。

 

「使われていない場所ほど、使われる」

 

 レヴィが銃を構え直す。

 

「開けるか」

 

 ロックが言う。

 

「待って。中からまた偽命令が来る可能性があります」

 

 その言葉が終わる前に、ホテル・モスクワの兵たちの端末が一斉に短く鳴った。

 

 同時受信。

 

 空気が凍った。

 

 ボリスが叫ばずに言う。

 

「全員、報告」

 

 兵たちは端末を見る。

 

「命令文、同一」

 

「内容、旧中継室を確保。HCLIを排除。ラグーン商会を拘束。大尉の安全を最優先」

 

 バルメの目が一気に鋭くなる。

 

 レヴィが笑った。

 

「俺たちも拘束対象かよ。人気者だな」

 

 ロックはバラライカを見た。

 

 彼女は動かない。

 

 兵たちも動かなかった。

 

 朝の訓示が効いている。命令を疑え。疑った上で従え。今、彼らは偽命令に従わず、大尉の本当の命令を待っている。

 

 バラライカは静かに言った。

 

「その命令は偽物だ」

 

 兵たちが一斉に応答する。

 

「了解」

 

 その声は揃っていた。だが、完璧ではない。わずかな遅れ、息の乱れ、緊張。それを敵は見ているのかもしれない。ロックはそう思い、背筋に寒気を覚えた。

 

 ココはその光景をじっと見ていた。

 

 ロックは彼女を見た。

 

「ココ」

 

「見てるだけ」

 

「その“見てる”が怖いんです」

 

「わかってる」

 

 バラライカもココを見た。

 

「商人の目をするな」

 

 ココは表情を消した。

 

「今はしていない」

 

「今は、か」

 

 バルメが一歩前に出る。

 

 ボリスも視線だけを向ける。

 

 一瞬、別の緊張が走った。庭師の偽命令ではなく、ここにいる者同士の緊張。ロックはすぐに口を開いた。

 

「今は扉の向こうです」

 

 バラライカとココが同時にロックを見る。

 

 レヴィが小声で言う。

 

「お前、ほんと命知らずだな」

 

 ロックは言い返さなかった。

 

 バラライカは扉へ視線を戻した。

 

「開けろ」

 

 ボリスと兵が扉を開く。

 

 重い音を立てて、旧中継室の扉が開いた。

 

     *

 

 中は、古い機械の墓場だった。

 

 壁一面に通信盤が並び、床には太いケーブルが這っている。古い計器の針は止まり、ランプのほとんどは死んでいた。だが、部屋の中央だけは違った。そこには新しい仮設装置が置かれていた。古い通信盤から伸びる線が、その装置へ繋がっている。新しい端末、古い符丁表の断片らしき紙、そして小さなスピーカーのようなもの。

 

 音がした。

 

 短い、金属的な拍手のような信号。

 

 ベニーが息を呑む。

 

「これが、赤い合唱の端末?」

 

 ココが静かに言う。

 

「端末というより、耳」

 

 ロックが聞く。

 

「耳?」

 

「聞いているの。命令に対する反応を」

 

 部屋の奥に、画面が一つ点灯していた。そこに文字が表示される。

 

 SUBJECT RESPONSE: HOTEL MOSCOW / ACTIVE

 

 ベニーが顔をしかめる。

 

「ホテル・モスクワの反応が記録されてる」

 

 ボリスが一歩前へ出る。

 

 画面が切り替わる。

 

 今度は、短い文章が表示された。

 

 命令は届いた。兵は疑った。大尉は沈黙した。合唱は始まった。

 

 部屋の空気が一瞬で冷えた。

 

 バラライカの表情は変わらない。

 

 だが、ロックはわかった。

 

 彼女の怒りが、さらに深くなった。

 

 スピーカーから、歪んだ声が流れた。

 

『大尉』

 

 ボリスが端末を切ろうとする。

 

 バラライカが手で制した。

 

「聞け」

 

 声は、男とも女ともつかない。古い通信越しのようにざらつき、低く加工されている。だが、その口調だけは妙に軍隊的だった。

 

『よく統制された反応だ。命令を疑い、命令を待ち、命令に従う。美しい』

 

 レヴィが吐き捨てる。

 

「気色悪い声だな」

 

 声は続けた。

 

『ホテル・モスクワ。帰れなかった兵士たち。死んだ国の声を捨て、別の街で命令を作った者たち』

 

 ボリスの手がわずかに動く。

 

 バラライカは静かに言った。

 

「名乗れ」

 

 声は少し間を置いた。

 

『合唱長』

 

 ココが目を細める。

 

 ワイリが小さく言った。

 

「出たね」

 

 合唱長と名乗る声は、どこか楽しんでいるようだった。

 

『あなた方の声は、よく響く。恐怖ではなく、規律で揃う。過去ではなく、現在の命令に従う。だが、過去を完全には捨てていない』

 

 バラライカは一歩前へ出た。

 

「私の兵を、楽器のように語るな」

 

『兵はいつも楽器だ。命令という譜面を与えられ、行進曲を奏でる』

 

「貴様は音楽を知らん」

 

『なら、教えてほしい。大尉』

 

 声が低くなる。

 

『あなたの兵は、何の声なら死地へ行く?』

 

 その瞬間、ホテル・モスクワの兵たちの空気が変わった。怒り、恐れ、侮辱された感覚。それらが一瞬だけ部屋に満ちる。合唱長はそれも見ているのだろう。ロックは強くそう感じた。

 

 バラライカは静かに答えた。

 

「私の命令だ」

 

『なぜ信じる?』

 

「私が出すからだ」

 

『では、私があなたの声を真似たら?』

 

 部屋が沈黙した。

 

 ココが小さく息を呑む。

 

 ベニーの端末が警告を出す。

 

「音声反応が記録されています。今の会話、全部取られてる」

 

 ロックは叫んだ。

 

「切ってください!」

 

 ボリスが今度こそ装置へ向かう。

 

 だが、バラライカがまた止めた。

 

「まだだ」

 

「大尉」

 

「聞かせろ」

 

 彼女の声は低かった。

 

「死者の声を真似る者が、どこまで醜いか」

 

 合唱長は笑ったようなノイズを出した。

 

『よい反応だ』

 

 バラライカの目が細くなる。

 

「ボリス」

 

「はい」

 

「記録は十分か」

 

「十分です」

 

「なら切れ」

 

 ボリスが動く。ベニーとワイリも同時に補助する。具体的な手順を誰も口にしない。ただ、装置の光が一つずつ落ち、スピーカーの声が途切れ、最後に短いノイズだけが残った。

 

 合唱長の声が消える直前、最後の一言が響いた。

 

『赤い合唱は、まだ一音目です』

 

 音が切れた。

 

 旧中継室には、古い機械の沈黙だけが残った。

 

     *

 

 誰もすぐには動かなかった。

 

 最初に口を開いたのはレヴィだった。

 

「……胸糞悪いな」

 

 誰も否定しなかった。

 

 バラライカは装置を見ていた。怒りを表に出してはいない。だが、その沈黙は危険だった。ロックは、今朝の港で感じたものよりさらに鋭いものを感じた。

 

 ココは装置へ近づこうとした。

 

 バルメがすぐに横につく。

 

 バラライカの視線がココへ向いた。

 

「触るな」

 

 ココは止まった。

 

「解析が必要よ」

 

「破壊が先だ」

 

「壊せば、次に同じものを見つけてもわからない」

 

「残せば、私の兵の声を盗まれる」

 

 二人の声はどちらも低かった。

 

 ロックはその間に立つ。

 

「今ここで決めるのは危険です」

 

 バラライカはロックを見る。

 

「退け」

 

「退きません」

 

 レヴィが小さく言った。

 

「おい、ほんと命知らずだな」

 

 ロックはバラライカの視線を受け止める。

 

「ココは欲しがっています。でも、壊す理由もわかっています。大尉は壊したい。でも、知る必要もわかっているはずです」

 

 ココもバラライカも黙った。

 

「だから、どちらか一人に任せたら駄目です」

 

 沈黙。

 

 古い中継室の空気が重くなる。

 

 ボリスが静かに言った。

 

「大尉。最低限の記録は、すでに取れています」

 

 ベニーも続ける。

 

「僕の方でも外部へ持ち出せる形ではなく、概要だけなら保存できます。装置そのものを残す必要はありません」

 

 ワイリが少し残念そうに言う。

 

「まあ、危ない玩具だしね」

 

 マオが睨む。

 

「玩具って言うな」

 

 バラライカは長い沈黙の後、言った。

 

「最低限だ」

 

 ココが頷く。

 

「ええ。最低限」

 

「商人の判断をするな」

 

「しない」

 

「欲しがるな」

 

 ココは少しだけ目を伏せた。

 

「努力する」

 

 バラライカの目が冷える。

 

「努力では足りん」

 

 ロックはその言葉を、自分にも向けられたもののように感じた。

 

     *

 

 旧中継室を出る頃、地下の空気はさらに重くなっていた。

 

 装置は最低限の記録を取られた後、機能を失わせられた。具体的にどう壊したかは、誰も口にしなかった。ただ、部屋の中央にあった仮設装置はもう光らず、古い通信盤も再び沈黙した。だが、本当に止まったのかはわからない。合唱長は、あれが一音目だと言った。つまり、他にも耳がある。別の場所で、別の声を聞いている可能性がある。

 

 通路を戻る途中、イリヤがロックの近くに来た。

 

「ロックさん」

 

「はい」

 

「あの声は、自分たちを見ていたんですね」

 

「そうだと思います」

 

「自分は、また迷いました」

 

 ロックは彼を見る。

 

 イリヤは悔しそうに言った。

 

「偽命令だとわかっていても、符丁を見ると身体が止まりました。大尉の命令を待てばいいとわかっているのに」

 

 ロックは少し考えた。

 

「迷ったことを報告できるなら、それも判断だと思います」

 

「そうでしょうか」

 

「少なくとも、迷わない人間よりは信用できます」

 

 イリヤは少しだけ表情を緩めた。

 

 その後ろからレヴィが言う。

 

「おい若いの」

 

 イリヤは姿勢を正す。

 

「はい」

 

「命令が怖いなら、耳塞いで前見ろ」

 

 イリヤは戸惑った。

 

「耳を塞ぐのですか」

 

「比喩だよ、比喩。いちいち真面目に取んな」

 

 ロックが小さく笑う。

 

 レヴィは続けた。

 

「命令なしに動くのも怖えだろ。命令に従うのも怖え。だったら、自分で怖い方を選べ」

 

 イリヤは黙った。

 

 その言葉は乱暴だったが、不思議と届いたようだった。

 

 バラライカが少し離れた場所から、その会話を聞いていた。

 

 彼女は何も言わなかった。

 

 ただ、ほんのわずかに目を細めた。

 

     *

 

 地上へ戻ると、港の空は赤みを帯びていた。夕暮れが近い。ロアナプラの一日は、いつも汚れた光で終わる。旧水路倉庫の出口を出た一行は、それぞれの車の前で止まった。ホテル・モスクワの兵たちは静かに整列し、HCLIは装備を確認し、ラグーン商会は疲れた顔で空気を吸った。

 

「で」

 

 レヴィが言った。

 

「今日の胸糞悪い地下ツアーは終了か?」

 

 ベニーは端末を見ながら答える。

 

「終了ならいいんだけど、たぶん始まりだよ」

 

「言うなよ」

 

「言わなくてもそうだから」

 

 ダッチはバラライカを見た。

 

「次はどうする」

 

 バラライカは短く答えた。

 

「探す」

 

「何を」

 

「合唱長の喉だ」

 

 レヴィが小声で言う。

 

「また詩的だ」

 

 今回は誰も笑わなかった。

 

 ココは装置から得た最低限の記録を見ていた。ロックはその横に立つ。

 

「ココ」

 

「何?」

 

「欲しくなりましたか」

 

 ココはすぐには答えなかった。

 

 赤い夕暮れが彼女の白い顔を染めている。

 

「少し」

 

 ロックは目を閉じた。

 

「やっぱり」

 

「でも、壊す理由もわかる」

 

「それを忘れないでください」

 

「あなたが見張るんでしょう?」

 

「ええ」

 

 ココは小さく笑った。

 

「なら、大丈夫じゃないけど、大丈夫に近づける」

 

 ロックは苦笑した。

 

「その言い方も怖いです」

 

 そこへ、キャスパーから通信が入った。

 

 ロックの端末ではなく、ココの端末へ。

 

 ココは画面を見る。兄の名前が表示されている。

 

 彼女は少しだけ嫌な顔をした。

 

「兄さん」

 

『地下はどうだった?』

 

「最悪」

 

『なら、重要だったんだね』

 

「あなた、オルフェウス・リンクを知ってる?」

 

 通信の向こうで、少しだけ間が空いた。

 

『誰から聞いた?』

 

「それは答え」

 

『半分くらいはね』

 

 レヴィが遠くから叫ぶ。

 

「おい、通信越しでも禁止だぞ!」

 

 キャスパーは笑ったようだった。

 

『レヴィは元気そうだ』

 

 ココは冷たく言った。

 

「兄さん。あなたの買い手は、赤い合唱と繋がっているかもしれない」

 

『かもしれない、ではなく、繋がっているだろうね』

 

 ココの目が細くなる。

 

「知っていたの」

 

『四分の一くらい』

 

「兄さん」

 

 ココの声が低くなる。

 

 キャスパーは少し真面目な声になった。

 

『ココ。僕は餌を運んだ。でも、釣り針をつけたのは僕じゃない』

 

「でも、魚がいる場所を知っていた」

 

『商人だからね』

 

「最低」

 

『褒め言葉として受け取るよ』

 

 ココは通信を切った。

 

 ロックは彼女を見る。

 

「キャスパーは?」

 

「四分の一だけ知っていた」

 

「残りは?」

 

「今から値段をつけるつもりでしょうね」

 

 ロックは深く息を吐いた。

 

「本当に厄介な兄妹ですね」

 

「否定しないわ」

 

 バラライカがこちらへ歩いてきた。

 

「ココ・ヘクマティアル」

 

 ココは振り返る。

 

「大尉」

 

「お前の兄を港から出すな」

 

 ココは少しだけ笑った。

 

「私に命令するの?」

 

「依頼だ」

 

「ホテル・モスクワの依頼は重いわね」

 

「断れば、命令に変わる」

 

 ココは肩をすくめた。

 

「わかった。兄さんには、まだ港にいてもらう」

 

 バラライカはロックへ視線を移す。

 

「ロック。張に連絡しろ。白い商人の買い手を洗う。三合会の港湾網が必要だ」

 

「はい」

 

「ダッチ」

 

「何だ」

 

「ラグーン商会は、明日から旧水路周辺の搬入記録を追え」

 

「報酬は上乗せだな」

 

「結果次第だ」

 

 レヴィが即座に言った。

 

「またそれかよ!」

 

 バラライカはレヴィを見る。

 

「不満か」

 

「大ありだ」

 

「なら、生きて戻れ。請求書くらいは読んでやる」

 

 レヴィは一瞬だけ黙り、それから笑った。

 

「いいね。絶対高くしてやる」

 

 バラライカはそれ以上答えず、車へ向かった。

 

 ボリスが後に続く。

 

 ホテル・モスクワの車列が動き始める。

 

 ロックはその背中を見ていた。バラライカは怒っている。だが、それ以上に冷静だった。冷静に怒っている人間ほど怖いものはない。彼女は合唱長を探すだろう。庭師の根を断つために。自分の兵を楽器のように扱った者を黙らせるために。

 

 そしてココは、それを知りたがっている。

 

 キャスパーは、それに値段をつけようとしている。

 

 張は、港の均衡を守るために動く。

 

 ラグーン商会は、またその間に立つ。

 

 港の地下で鳴った一音は、もう消えない。

 

 赤い合唱は、ロアナプラのどこかで次の声を探している。

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