Guns & Garlands — 銃と花輪 作:たこ焼き 龍月
ロアナプラの港には、同じ船が二度入ってくることがある。だが、一度目と二度目が同じ意味を持つとは限らない。一度目は荷を降ろすため。二度目は借りを取り立てるため。あるいは、一度目に落とした火種が、ちゃんと燃え始めているかを確かめるため。港という場所は、船だけを受け入れるわけではない。嘘も、金も、裏切りも、古い命令も、岸壁へ静かに係留される。
キャスパー・ヘクマティアルの白い船は、その朝、ロアナプラの港に二度目の影を落とした。外伝の事件で得た一度限りの入港権。三合会の港湾経路確認、ホテル・モスクワの無条件拒否権、ラグーン商会の立ち会い。その面倒な条件をすべて満たした上で、彼は本当に戻ってきた。約束を守ったと言えば聞こえはいい。だが、ロアナプラでは、約束を守る人間ほど警戒される。約束の内側に、別の何かを隠していることが多いからだ。
第七倉庫区画に残された旧式通信部品は、すでに三者立ち会いで封印されていた。張の部下が港湾管理用の仮保管庫を押さえ、ホテル・モスクワの兵が周囲を固め、ラグーン商会はまたしても誰の味方でもない顔で中間に立たされた。キャスパーは自分の荷物を取り上げられた形になったが、怒ってはいなかった。むしろ、少しだけ楽しそうだった。それが余計に周囲の神経を逆撫でした。
「白い商人」
港の片隅、倉庫の影で張が言った。
キャスパーは振り返る。張は護衛を連れているが、距離を取らせている。あからさまな威圧ではない。だが、港の空気そのものが彼の側についているような立ち方だった。
「張さん。朝から港は忙しいね」
「あなたが来ると、忙しくなる」
「それは光栄だ」
「褒めていないよ」
「知ってる」
キャスパーは笑った。張も薄く笑った。二人の笑顔は似ていない。キャスパーの笑みは値札を貼るためのもの。張の笑みは、値段を聞く前に相手の懐を測るためのものだった。
張は封印された仮保管庫の方へ目を向けた。
「積荷目録は申告通りだった。表向きはね」
「表向きが整っているなら、商売としては合格だろう」
「ロアナプラでは、表が整いすぎている荷ほど裏を疑われる」
「難しい港だ」
「だから、一度だけと言った」
キャスパーは肩をすくめる。
「その一度を使っただけだよ」
「一度を入口にするつもりではないのかい?」
キャスパーは少し黙った。それから、穏やかに答える。
「商人にとって、一度の取引は次の会話の前置きだ」
「正直だね」
「隠しても、あなたには面白くないだろう?」
張は薄く笑った。
「面白さで港は貸さない」
「でも、面白くない相手とは話さない」
張は否定しなかった。彼はキャスパーから視線を外し、白い船を見た。
「今回の積荷。あなたはどこまで知っていた?」
キャスパーは即答しなかった。彼が即答しない時、だいたい答えはろくでもない。
「旧式の通信部品に価値があることは知っていた」
「誰にとっての価値だ」
「買い手にとって」
「その買い手の名は」
「まだ言えない」
「まだ、か」
張の声は穏やかだったが、そこには針があった。
「では、質問を変えよう。庭師に関係するか」
キャスパーは今度もすぐには答えなかった。
港の遠くで、クレーンが金属音を立てる。岸壁では作業員たちが荷を動かしている。誰も二人の会話を聞いていないようで、誰かが必ず聞いている。それがロアナプラの港だった。
「直接の取引相手は庭師ではない」
「便利な言い方だ」
「便利な言葉は長生きする」
「ロックの胃には悪い」
キャスパーは笑った。
「彼には悪いことをしているね」
「悪いと思っている顔ではない」
「半分くらいは」
張は少しだけ眉を動かした。
「その言葉、街で流行らせるのはやめてほしいね」
「もう手遅れかも」
張は茶を飲むような声で続けた。
「あなたの船が来た直後、ホテル・モスクワに古い命令が届いた。大尉の過去に触れる命令だ」
「聞いた」
「どこで?」
「港は耳が多い。あなたほどではないけれど」
「耳が多い者は、聞いてはいけない声まで聞く」
キャスパーは港の沖を見た。白い船体が朝の光に照らされている。
「赤い合唱」
その言葉を、彼は小さく言った。
張の目が細くなる。
「知っているね」
「名前だけなら」
「また、半分かい」
「今回は四分の一くらいかな」
張は笑わなかった。
「キャスパー。あなたが持ち込んだ部品が、ロアナプラの地下に眠っている何かを起こした。ホテル・モスクワは怒っている。HCLIは動いている。ラグーン商会はまた巻き込まれた。あなたはここで、ただの荷主の顔をしている」
「荷主だよ」
「荷主にしては、火元を眺める目をしている」
キャスパーは少しだけ表情を静かにした。
「僕が火を持ち込んだとして、その火をつけたのが僕とは限らない」
「だが、火種を運んだ」
「それは否定しない」
張はゆっくりと息を吐いた。
「では、火消しに協力してもらう」
「僕が?」
「あなたの荷だ。あなたの買い手だ。あなたの入港権だ。関係ないとは言わせない」
「僕が動くと、大尉が嫌がる」
「大尉はすでに嫌がっている」
「それは困った」
「困っている顔ではないね」
「商人の顔は便利でね」
張は静かに言った。
「便利な顔は、撃たれる時に間に合わないことがある」
キャスパーは一瞬だけ黙った。それから、いつもの笑みを戻した。
「覚えておくよ」
*
港の地下へ続く旧水路倉庫は、第七倉庫区画から少し離れた場所にあった。表の入口は錆びたシャッターで塞がれ、横の通用口には古い南京錠がかかっている。だが、南京錠は飾りのようなものだった。ここを本当に使う者は、正面から入らない。地下の水路、荷役用の古い昇降口、排水設備の点検路。ロアナプラの港には、表の地図に載らない道がいくつもある。
バラライカを先頭に、ホテル・モスクワの兵、ラグーン商会、HCLIが倉庫前に集まった。朝の光は倉庫の入り口まで届いているが、その奥は暗い。古い水と油の匂いがする。港の地下特有の、湿った金属の匂いだった。
レヴィは顔をしかめた。
「また地下かよ。前もろくなことなかっただろ」
バルメが横で言う。
「怖いのか?」
レヴィは即座に振り向く。
「あ?」
「地下が怖いのかと聞いた」
「お前の白いお嬢様の冗談よりは怖くねえよ」
バルメの目が鋭くなる。
「ココを侮辱するな」
「だったらお前が先に喧嘩売んな」
マオが小さくぼやいた。
「始まったよ」
ワイリは楽しそうに倉庫の壁を見ている。
「古い倉庫、いいねえ。音が響きそうだ」
ベニーが即座に言う。
「響かせないでください」
「まだ何もしてないよ」
「その“まだ”が一番怖いんです」
ダッチはレームと並んで入口を見ていた。二人とも無駄に喋らない。戦場を知る男たちには、古い倉庫の沈黙がどういうものかよくわかっている。空っぽに見える場所ほど、何かが残っている。
バラライカはボリスへ短く命じた。
「配置」
「はい」
ホテル・モスクワの兵たちが動く。無駄のない動き。若い兵もいるが、朝の訓示の後だからか、表情は硬く整っている。その中にイリヤの姿もあった。彼は緊張しているが、怯えてはいない。命令を疑え。疑った上で従え。大尉の言葉が、まだ身体の中で鳴っているのだろう。
ロックはそれを見ていた。
ココが横に来る。
「いい兵ね」
「そういう言い方は、やめた方がいい」
「どうして?」
「あなたが言うと、観察しているように聞こえる」
ココは少し黙った。
「そうね」
ロックは彼女を見る。
「ココ」
「わかってる。欲しがらない」
「知ろうとはするでしょう」
「それは止められない」
「では、そこを見張ります」
ココは少しだけ笑った。
「厳しくなったわね」
「あなたたちのせいです」
バルメが遠くから二人を見ていた。彼女はロックに対して完全な敵意を向けているわけではない。だが、ココに近づく者への警戒は消えない。ロックはその視線を感じて、胃が重くなった。
バラライカがこちらを見た。
「ロック」
「はい」
「中では、余計な交渉をするな」
「状況によります」
「状況を選べ」
「努力します」
「努力では足りん」
レヴィが小声で言う。
「全員ロックに厳しいな」
ダッチが答える。
「便利だからな」
「便利って言葉、そろそろ呪いだな」
ボリスが通用口の錠を確認し、兵に合図する。扉が開いた。ぎい、と鈍い音がして、暗い空気が外へ流れ出る。
ベニーの端末が短く鳴った。
「反応があります。地下のかなり奥。古い中継設備が、また一瞬だけ応答しました」
バラライカが言う。
「進む」
その一言で、全員が動いた。
*
旧水路倉庫の内部は、思ったより広かった。上階は古い荷置き場になっているが、床の一部が金属製の蓋になっており、その下に地下通路が続いていた。かつては港湾設備の点検や、水路を使った荷運びに使われていたのだろう。今では、まともな業者は近づかない。近づくのは、まともではない業者か、まともではない用事を持つ者だけだ。
金属階段を降りると、空気が一段冷たくなった。壁には水が滲み、細い配管が何本も走っている。足元には古いレールの跡があり、小型の荷台を通していた名残が見えた。ベニーは端末を片手に、時々立ち止まって周囲の反応を見る。ワイリも興味深そうに壁や床を眺めているが、ベニーは何度も彼から距離を取っていた。
「そんなに離れなくてもいいじゃない」
ワイリが言う。
「あなたが楽しそうに壁を見る時は、だいたい危ないんです」
「信用ないなあ」
「実績がありますから」
マオが溜息をつく。
「ベニーの方が正しい」
レームは周囲を見ながら言った。
「古いが、使われた形跡はあるな」
ダッチが頷く。
「最近か」
「数日以内だろう」
ボリスも床を見る。
「足跡は少ない。大人数ではない」
レヴィが言う。
「庭師ってのは、いちいち少人数でこそこそする趣味か?」
ココが答える。
「庭師は、花を踏まないように歩くのよ」
レヴィは顔をしかめた。
「何言ってんだ、お前」
「たぶん、証拠を残したくないという意味だと思う」
ロックが補足すると、レヴィはさらに嫌そうな顔をした。
「普通に言え、普通に」
バラライカは黙って歩いていた。彼女の視線は、壁や配管ではなく、もっと遠いものを見ているようだった。古い水路の空気が、彼女の中の別の場所を開けているのかもしれない。ロックには、それがわかった気がした。ここはロアナプラの地下だ。だが、死んだ命令が鳴っている以上、ここには別の戦場の影も重なっている。
通路の奥で、最初の異変が起きた。
ホテル・モスクワの若い兵が、端末を見て足を止めた。イリヤではない。別の兵だった。彼は耳に手を当て、通信を聞いている。顔がわずかに強張る。
ボリスがすぐに気づいた。
「報告しろ」
「……命令を受信しました」
「内容」
「前方の分岐を右へ。旧中継室を確保。HCLI関係者を拘束せよ、と」
バルメが即座に反応した。
「何?」
レヴィも銃へ手を伸ばす。
「おいおい、もう仲間割れか?」
ボリスが兵へ言った。
「送信元は」
「不明。古い符丁あり」
バラライカが振り返る。
「その命令には従うな」
若い兵は姿勢を正した。
「了解」
バラライカはさらに言う。
「命令文、時刻、受信時の状況を記録。自分の反応も報告しろ」
「自分の反応、ですか」
「迷ったか」
「……一瞬、迷いました」
「よろしい。記録しろ」
若い兵は息を呑み、頷いた。
ロックはそのやり取りを見ていた。敵は今も見ている。偽命令を投げ、ホテル・モスクワの兵がどう動くかを測っている。そしてバラライカは、それを逆手に取って記録している。冷静で、合理的で、危険なやり方だった。
バルメはココを守るように一歩前へ出ていた。
バラライカは彼女を見る。
「犬の目だな」
バルメは冷たく返す。
「あなたの部下も同じ目をしています」
「違う」
バラライカは言った。
「私の兵は命令で動く」
バルメは答える。
「私は意思で動く」
「それは時に命令より厄介だ」
「承知しています」
二人の間に、短く冷たい火花が散った。
ココが軽く手を上げる。
「今はやめましょう。私を拘束せよという偽命令が出たばかりだし」
レヴィが言う。
「お前、軽いな」
「重くした方がいい?」
「やめろ。余計ムカつく」
ベニーが端末を見る。
「今の命令、送信経路が前より近いです。地下のどこかから出てる。少なくとも、ここを見ている何かが近い」
ダッチが言う。
「なら、先に進むしかない」
レームも頷く。
「誘われているな」
バラライカは短く答えた。
「誘いに乗る。ただし、踊る曲はこちらで選ぶ」
ワイリが嬉しそうに言う。
「いいねえ、大尉。詩的だ」
レヴィが呟く。
「今日、詩人多すぎだろ」
*
一方その頃、地上の第七倉庫区画では、キャスパーが封印された部品を見ていた。もちろん、直接触れることは許されていない。張の部下とホテル・モスクワの兵が監視している。キャスパーの横にはチェキータ、エドガー、アラン、ポーが立っていた。彼らは地下へ行かなかった。キャスパーが残ったからだ。
「退屈?」
チェキータが聞く。
「少し」
「地下へ行けばよかったのに」
「大尉に撃たれる」
「それはそれで見ものね」
「部下として止めてほしいな」
「給料分は止めるわ」
アランは端末を見ながら言った。
「地下から通信反応が増えています。HCLIもホテル・モスクワもラグーン商会も動いている。ボス、これはただの貨物トラブルじゃないですよ」
「知ってる」
「どこまで?」
「四分の一くらい」
チェキータが溜息をついた。
「半分より減ったわね」
「正直さが増した」
「信用は減った」
エドガーが静かに言った。
「買い手は誰だ」
キャスパーはエドガーを見る。
「君まで聞く?」
「必要だから聞く」
「表向きは、東欧系の中古機材仲介会社。実体は薄い。ミスター・グレイほど灰色ではないけれど、白くもない」
アランが端末を操作する。
「会社名は?」
「オルフェウス・リンク」
チェキータが眉をひそめた。
「オルフェウス? 歌の名前?」
「神話だね。死者の国へ行った音楽家」
「趣味が悪い」
「赤い合唱には似合う」
ポーが低く言った。
「歌わせる気だ」
全員がポーを見る。
キャスパーは静かに聞いた。
「何を?」
「死んだもの」
ポーは封印された部品を見た。
「これは部品じゃない。笛だ」
チェキータの表情がわずかに変わる。
「ポーがそう言うなら、かなり嫌ね」
キャスパーは考え込んだ。
オルフェウス・リンク。死者の国へ行った音楽家。赤い合唱。旧ソ連系通信部品。ホテル・モスクワの古い符丁。
商売としては、美しいほどに不吉な線だった。
「アラン」
「はい」
「オルフェウス・リンクの最近の取引履歴を洗って」
「もうやってます」
「早いね」
「嫌な予感がする時は早くなるんです」
エドガーが言う。
「張には?」
「共有する。大尉にも」
チェキータが驚いた顔をする。
「珍しい。隠さないの?」
「隠すには、少し高すぎる」
「値段の問題?」
「今回は、声の問題らしい」
キャスパーはポーを見た。
「そうだろう?」
ポーは答えなかった。
*
地下の一行は、分岐をいくつか越えていた。偽命令が示した右側の通路は、あえて避けられた。バラライカは命令に従わず、しかし完全に無視もしなかった。ボリスに別働を出させ、右側通路の様子だけを確認させる。敵がどう反応するかを見るためだ。
しばらく進むと、壁の配管が増え始めた。古い通信ケーブルが天井近くを走り、ところどころで切断され、また別の線に継ぎ足されている。ベニーはそれを見て顔をしかめた。
「気持ち悪いな」
ロックが聞く。
「何が?」
「古い線と新しい線が混ざってる。しかも、継ぎ方が雑じゃない。誰かが意図的に、古い回線を完全には殺さずに残してる」
ワイリが興味深そうに言う。
「庭師っぽいね。枯れた根を抜かずに使う」
「その言い方、嫌ですね」
「僕も嫌いじゃない」
「もっと嫌です」
マオが壁を見て言う。
「これ、いつからあるんだ?」
ボリスが答える。
「港湾設備の一部は、ホテル・モスクワが来る以前から存在している。だが、我々の兵站網と重なった部分もある」
ダッチが言う。
「つまり、古い港の血管に、お前たちが後から血を流した」
ボリスは少し考えた。
「悪くない表現です」
レヴィが呟く。
「また詩人が増えた」
その時、ココが足を止めた。
「ベニー」
「何?」
「その先、反応が変わる」
ベニーが端末を見るより早く、機械音が通路の奥から聞こえた。低く、短く、規則的な音。まるで誰かが遠くで拍手をしているような、金属的な信号。
ベニーの画面に波形が出る。
「出た。さっき港で聞いた信号と同じ。短い応答。これ、通信というより、確認音に近い」
ロックが言う。
「誰かがいる?」
「人がいるかはわからない。でも、何かが起きてる」
バラライカが命じる。
「前進。警戒しろ」
通路の先に、重い鉄扉があった。表面には古いロシア語の警告文らしきものと、港湾管理番号が重ねて貼られている。どちらも古びているが、扉の周辺だけ埃が少ない。最近、開けられた形跡がある。
ボリスが扉の前に立つ。
「ここです」
ベニーが端末を見る。
「旧中継室。港湾図には、もう使われていない設備として登録されています」
ワイリが楽しそうに言う。
「使われていない場所ほど、使われる」
レヴィが銃を構え直す。
「開けるか」
ロックが言う。
「待って。中からまた偽命令が来る可能性があります」
その言葉が終わる前に、ホテル・モスクワの兵たちの端末が一斉に短く鳴った。
同時受信。
空気が凍った。
ボリスが叫ばずに言う。
「全員、報告」
兵たちは端末を見る。
「命令文、同一」
「内容、旧中継室を確保。HCLIを排除。ラグーン商会を拘束。大尉の安全を最優先」
バルメの目が一気に鋭くなる。
レヴィが笑った。
「俺たちも拘束対象かよ。人気者だな」
ロックはバラライカを見た。
彼女は動かない。
兵たちも動かなかった。
朝の訓示が効いている。命令を疑え。疑った上で従え。今、彼らは偽命令に従わず、大尉の本当の命令を待っている。
バラライカは静かに言った。
「その命令は偽物だ」
兵たちが一斉に応答する。
「了解」
その声は揃っていた。だが、完璧ではない。わずかな遅れ、息の乱れ、緊張。それを敵は見ているのかもしれない。ロックはそう思い、背筋に寒気を覚えた。
ココはその光景をじっと見ていた。
ロックは彼女を見た。
「ココ」
「見てるだけ」
「その“見てる”が怖いんです」
「わかってる」
バラライカもココを見た。
「商人の目をするな」
ココは表情を消した。
「今はしていない」
「今は、か」
バルメが一歩前に出る。
ボリスも視線だけを向ける。
一瞬、別の緊張が走った。庭師の偽命令ではなく、ここにいる者同士の緊張。ロックはすぐに口を開いた。
「今は扉の向こうです」
バラライカとココが同時にロックを見る。
レヴィが小声で言う。
「お前、ほんと命知らずだな」
ロックは言い返さなかった。
バラライカは扉へ視線を戻した。
「開けろ」
ボリスと兵が扉を開く。
重い音を立てて、旧中継室の扉が開いた。
*
中は、古い機械の墓場だった。
壁一面に通信盤が並び、床には太いケーブルが這っている。古い計器の針は止まり、ランプのほとんどは死んでいた。だが、部屋の中央だけは違った。そこには新しい仮設装置が置かれていた。古い通信盤から伸びる線が、その装置へ繋がっている。新しい端末、古い符丁表の断片らしき紙、そして小さなスピーカーのようなもの。
音がした。
短い、金属的な拍手のような信号。
ベニーが息を呑む。
「これが、赤い合唱の端末?」
ココが静かに言う。
「端末というより、耳」
ロックが聞く。
「耳?」
「聞いているの。命令に対する反応を」
部屋の奥に、画面が一つ点灯していた。そこに文字が表示される。
SUBJECT RESPONSE: HOTEL MOSCOW / ACTIVE
ベニーが顔をしかめる。
「ホテル・モスクワの反応が記録されてる」
ボリスが一歩前へ出る。
画面が切り替わる。
今度は、短い文章が表示された。
命令は届いた。兵は疑った。大尉は沈黙した。合唱は始まった。
部屋の空気が一瞬で冷えた。
バラライカの表情は変わらない。
だが、ロックはわかった。
彼女の怒りが、さらに深くなった。
スピーカーから、歪んだ声が流れた。
『大尉』
ボリスが端末を切ろうとする。
バラライカが手で制した。
「聞け」
声は、男とも女ともつかない。古い通信越しのようにざらつき、低く加工されている。だが、その口調だけは妙に軍隊的だった。
『よく統制された反応だ。命令を疑い、命令を待ち、命令に従う。美しい』
レヴィが吐き捨てる。
「気色悪い声だな」
声は続けた。
『ホテル・モスクワ。帰れなかった兵士たち。死んだ国の声を捨て、別の街で命令を作った者たち』
ボリスの手がわずかに動く。
バラライカは静かに言った。
「名乗れ」
声は少し間を置いた。
『合唱長』
ココが目を細める。
ワイリが小さく言った。
「出たね」
合唱長と名乗る声は、どこか楽しんでいるようだった。
『あなた方の声は、よく響く。恐怖ではなく、規律で揃う。過去ではなく、現在の命令に従う。だが、過去を完全には捨てていない』
バラライカは一歩前へ出た。
「私の兵を、楽器のように語るな」
『兵はいつも楽器だ。命令という譜面を与えられ、行進曲を奏でる』
「貴様は音楽を知らん」
『なら、教えてほしい。大尉』
声が低くなる。
『あなたの兵は、何の声なら死地へ行く?』
その瞬間、ホテル・モスクワの兵たちの空気が変わった。怒り、恐れ、侮辱された感覚。それらが一瞬だけ部屋に満ちる。合唱長はそれも見ているのだろう。ロックは強くそう感じた。
バラライカは静かに答えた。
「私の命令だ」
『なぜ信じる?』
「私が出すからだ」
『では、私があなたの声を真似たら?』
部屋が沈黙した。
ココが小さく息を呑む。
ベニーの端末が警告を出す。
「音声反応が記録されています。今の会話、全部取られてる」
ロックは叫んだ。
「切ってください!」
ボリスが今度こそ装置へ向かう。
だが、バラライカがまた止めた。
「まだだ」
「大尉」
「聞かせろ」
彼女の声は低かった。
「死者の声を真似る者が、どこまで醜いか」
合唱長は笑ったようなノイズを出した。
『よい反応だ』
バラライカの目が細くなる。
「ボリス」
「はい」
「記録は十分か」
「十分です」
「なら切れ」
ボリスが動く。ベニーとワイリも同時に補助する。具体的な手順を誰も口にしない。ただ、装置の光が一つずつ落ち、スピーカーの声が途切れ、最後に短いノイズだけが残った。
合唱長の声が消える直前、最後の一言が響いた。
『赤い合唱は、まだ一音目です』
音が切れた。
旧中継室には、古い機械の沈黙だけが残った。
*
誰もすぐには動かなかった。
最初に口を開いたのはレヴィだった。
「……胸糞悪いな」
誰も否定しなかった。
バラライカは装置を見ていた。怒りを表に出してはいない。だが、その沈黙は危険だった。ロックは、今朝の港で感じたものよりさらに鋭いものを感じた。
ココは装置へ近づこうとした。
バルメがすぐに横につく。
バラライカの視線がココへ向いた。
「触るな」
ココは止まった。
「解析が必要よ」
「破壊が先だ」
「壊せば、次に同じものを見つけてもわからない」
「残せば、私の兵の声を盗まれる」
二人の声はどちらも低かった。
ロックはその間に立つ。
「今ここで決めるのは危険です」
バラライカはロックを見る。
「退け」
「退きません」
レヴィが小さく言った。
「おい、ほんと命知らずだな」
ロックはバラライカの視線を受け止める。
「ココは欲しがっています。でも、壊す理由もわかっています。大尉は壊したい。でも、知る必要もわかっているはずです」
ココもバラライカも黙った。
「だから、どちらか一人に任せたら駄目です」
沈黙。
古い中継室の空気が重くなる。
ボリスが静かに言った。
「大尉。最低限の記録は、すでに取れています」
ベニーも続ける。
「僕の方でも外部へ持ち出せる形ではなく、概要だけなら保存できます。装置そのものを残す必要はありません」
ワイリが少し残念そうに言う。
「まあ、危ない玩具だしね」
マオが睨む。
「玩具って言うな」
バラライカは長い沈黙の後、言った。
「最低限だ」
ココが頷く。
「ええ。最低限」
「商人の判断をするな」
「しない」
「欲しがるな」
ココは少しだけ目を伏せた。
「努力する」
バラライカの目が冷える。
「努力では足りん」
ロックはその言葉を、自分にも向けられたもののように感じた。
*
旧中継室を出る頃、地下の空気はさらに重くなっていた。
装置は最低限の記録を取られた後、機能を失わせられた。具体的にどう壊したかは、誰も口にしなかった。ただ、部屋の中央にあった仮設装置はもう光らず、古い通信盤も再び沈黙した。だが、本当に止まったのかはわからない。合唱長は、あれが一音目だと言った。つまり、他にも耳がある。別の場所で、別の声を聞いている可能性がある。
通路を戻る途中、イリヤがロックの近くに来た。
「ロックさん」
「はい」
「あの声は、自分たちを見ていたんですね」
「そうだと思います」
「自分は、また迷いました」
ロックは彼を見る。
イリヤは悔しそうに言った。
「偽命令だとわかっていても、符丁を見ると身体が止まりました。大尉の命令を待てばいいとわかっているのに」
ロックは少し考えた。
「迷ったことを報告できるなら、それも判断だと思います」
「そうでしょうか」
「少なくとも、迷わない人間よりは信用できます」
イリヤは少しだけ表情を緩めた。
その後ろからレヴィが言う。
「おい若いの」
イリヤは姿勢を正す。
「はい」
「命令が怖いなら、耳塞いで前見ろ」
イリヤは戸惑った。
「耳を塞ぐのですか」
「比喩だよ、比喩。いちいち真面目に取んな」
ロックが小さく笑う。
レヴィは続けた。
「命令なしに動くのも怖えだろ。命令に従うのも怖え。だったら、自分で怖い方を選べ」
イリヤは黙った。
その言葉は乱暴だったが、不思議と届いたようだった。
バラライカが少し離れた場所から、その会話を聞いていた。
彼女は何も言わなかった。
ただ、ほんのわずかに目を細めた。
*
地上へ戻ると、港の空は赤みを帯びていた。夕暮れが近い。ロアナプラの一日は、いつも汚れた光で終わる。旧水路倉庫の出口を出た一行は、それぞれの車の前で止まった。ホテル・モスクワの兵たちは静かに整列し、HCLIは装備を確認し、ラグーン商会は疲れた顔で空気を吸った。
「で」
レヴィが言った。
「今日の胸糞悪い地下ツアーは終了か?」
ベニーは端末を見ながら答える。
「終了ならいいんだけど、たぶん始まりだよ」
「言うなよ」
「言わなくてもそうだから」
ダッチはバラライカを見た。
「次はどうする」
バラライカは短く答えた。
「探す」
「何を」
「合唱長の喉だ」
レヴィが小声で言う。
「また詩的だ」
今回は誰も笑わなかった。
ココは装置から得た最低限の記録を見ていた。ロックはその横に立つ。
「ココ」
「何?」
「欲しくなりましたか」
ココはすぐには答えなかった。
赤い夕暮れが彼女の白い顔を染めている。
「少し」
ロックは目を閉じた。
「やっぱり」
「でも、壊す理由もわかる」
「それを忘れないでください」
「あなたが見張るんでしょう?」
「ええ」
ココは小さく笑った。
「なら、大丈夫じゃないけど、大丈夫に近づける」
ロックは苦笑した。
「その言い方も怖いです」
そこへ、キャスパーから通信が入った。
ロックの端末ではなく、ココの端末へ。
ココは画面を見る。兄の名前が表示されている。
彼女は少しだけ嫌な顔をした。
「兄さん」
『地下はどうだった?』
「最悪」
『なら、重要だったんだね』
「あなた、オルフェウス・リンクを知ってる?」
通信の向こうで、少しだけ間が空いた。
『誰から聞いた?』
「それは答え」
『半分くらいはね』
レヴィが遠くから叫ぶ。
「おい、通信越しでも禁止だぞ!」
キャスパーは笑ったようだった。
『レヴィは元気そうだ』
ココは冷たく言った。
「兄さん。あなたの買い手は、赤い合唱と繋がっているかもしれない」
『かもしれない、ではなく、繋がっているだろうね』
ココの目が細くなる。
「知っていたの」
『四分の一くらい』
「兄さん」
ココの声が低くなる。
キャスパーは少し真面目な声になった。
『ココ。僕は餌を運んだ。でも、釣り針をつけたのは僕じゃない』
「でも、魚がいる場所を知っていた」
『商人だからね』
「最低」
『褒め言葉として受け取るよ』
ココは通信を切った。
ロックは彼女を見る。
「キャスパーは?」
「四分の一だけ知っていた」
「残りは?」
「今から値段をつけるつもりでしょうね」
ロックは深く息を吐いた。
「本当に厄介な兄妹ですね」
「否定しないわ」
バラライカがこちらへ歩いてきた。
「ココ・ヘクマティアル」
ココは振り返る。
「大尉」
「お前の兄を港から出すな」
ココは少しだけ笑った。
「私に命令するの?」
「依頼だ」
「ホテル・モスクワの依頼は重いわね」
「断れば、命令に変わる」
ココは肩をすくめた。
「わかった。兄さんには、まだ港にいてもらう」
バラライカはロックへ視線を移す。
「ロック。張に連絡しろ。白い商人の買い手を洗う。三合会の港湾網が必要だ」
「はい」
「ダッチ」
「何だ」
「ラグーン商会は、明日から旧水路周辺の搬入記録を追え」
「報酬は上乗せだな」
「結果次第だ」
レヴィが即座に言った。
「またそれかよ!」
バラライカはレヴィを見る。
「不満か」
「大ありだ」
「なら、生きて戻れ。請求書くらいは読んでやる」
レヴィは一瞬だけ黙り、それから笑った。
「いいね。絶対高くしてやる」
バラライカはそれ以上答えず、車へ向かった。
ボリスが後に続く。
ホテル・モスクワの車列が動き始める。
ロックはその背中を見ていた。バラライカは怒っている。だが、それ以上に冷静だった。冷静に怒っている人間ほど怖いものはない。彼女は合唱長を探すだろう。庭師の根を断つために。自分の兵を楽器のように扱った者を黙らせるために。
そしてココは、それを知りたがっている。
キャスパーは、それに値段をつけようとしている。
張は、港の均衡を守るために動く。
ラグーン商会は、またその間に立つ。
港の地下で鳴った一音は、もう消えない。
赤い合唱は、ロアナプラのどこかで次の声を探している。