Guns & Garlands — 銃と花輪   作:たこ焼き 龍月

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第三章 ボリスの古い符丁

 

 

 古い符丁には、匂いがある。紙に書かれた文字列でも、端末に表示された記号でも、ただの暗号では終わらない。そこには、それを使っていた者たちの息が残る。雪の中で凍えた指。泥に沈んだ靴。燃えた車両の鉄臭さ。壊れた無線機に向かって、届くはずのない応答を待つ沈黙。ボリスにとって、符丁とは記号ではなかった。命令が届くかどうか、生き残れるかどうか、誰がまだそこにいるのかを確かめるための、短い祈りのようなものだった。

 

 だからこそ、それを真似られたことが許せなかった。

 

 ホテル・モスクワの拠点は、昼間でも薄暗い。厚いカーテン、整然と並ぶ机、必要以上に磨かれた床。ロアナプラの外の喧騒が、この建物の中では一段遠く聞こえる。兵たちは声を荒げない。歩幅は揃い、扉の開閉にも余計な音がない。ここは犯罪組織の拠点である前に、帰れなかった兵士たちの兵舎だった。

 

 ボリスは地下資料室へ向かった。

 

 資料室と呼ばれているが、実際には金庫に近い。そこには、ホテル・モスクワがロアナプラで積み上げてきた帳簿や連絡記録だけではなく、彼らがこの街に流れ着く以前の断片も残されている。古い地図。符丁表。部隊名簿の写し。誰かの手帳。黒く塗りつぶされた報告書。持ち出すべきではなかったもの。だが、捨てることもできなかったもの。

 

 ボリスは鍵を開け、奥の棚から薄い金属ケースを取り出した。

 

 ケースには、番号だけが振られている。

 

 中にあるのは、古い符丁表の写しだった。完全なものではない。断片だ。いくつかは濡れてインクが滲み、いくつかは端が焼けている。だが、今回の偽命令に含まれていた符丁と照合するには十分だった。

 

 彼は一枚ずつ確認した。

 

 最初の符丁。

 

 港湾北側拠点に届いたもの。

 

 第二の符丁。

 

 南側拠点に届いたもの。

 

 第三の符丁。

 

 旧中継室で一斉送信されたもの。

 

 どれも、使われていた時期が違う。だが、すべて同じ系統に属していた。

 

 ボリスは指を止めた。

 

 それは、バラライカたちの部隊が最後期に使っていた符丁群だった。正式な記録にはほとんど残らない。部隊内でのみ共有され、作戦ごとに変化し、最後には散逸したはずのもの。これを知っている者は限られている。しかも、今ロアナプラにいる若い兵たちではない。もっと古い人間。もっと遠い場所にいた者たち。

 

 背後で扉が開いた。

 

 振り返らなくても、誰かわかった。

 

「大尉」

 

「見つかったか」

 

 バラライカは資料室へ入ってきた。煙草は吸っていない。ここでは火気を使わない。古い紙が多すぎるからだ。

 

 ボリスは符丁表を机に置いた。

 

「今回使われた符丁は、三つとも同じ系統です。時期は違いますが、部隊内で使われていたものに一致します」

 

「流出元は」

 

「候補は多くありません。当時の部隊関係者。軍の記録保管系統。あるいは、そのどちらかに接触できた第三者」

 

 バラライカは符丁表を見下ろした。

 

「死んだ者は喋らん」

 

「記録は喋ります」

 

「記録を盗んだ者もな」

 

 ボリスは別の資料を取り出した。名前の一覧。古いものだが、慎重に保管されている。

 

「当時、この符丁群に触れた可能性がある者を洗いました。ロアナプラ内にいる者は、我々を除けばいません。東欧、旧ソ連圏、中東経由で流れた者が数名。行方不明が二名。死亡確認済みが多数」

 

「行方不明」

 

「はい」

 

「名は」

 

「ヴィクトル・サフロノフ。旧軍の通信記録係です。もう一人は、アレクセイ・ボンダレンコ。補給記録に関わっていました」

 

 バラライカの目が少しだけ細くなった。

 

「サフロノフ」

 

「覚えておいでですか」

 

「顔はな」

 

 彼女は短く答えた。

 

「臆病な男だった。銃より紙を持つ方が似合っていた」

 

「その臆病さで生き残った可能性があります」

 

「臆病な者は、よく喋る」

 

「ええ」

 

 ボリスは頷いた。

 

「そして、よく売ります」

 

 バラライカはしばらく黙っていた。

 

 資料室の空気は冷たい。壁の向こうで、若い兵たちの訓練の足音が微かに聞こえる。命令を疑え。疑った上で従え。今朝の訓示は、すでに部隊内に静かに広がっている。兵たちは理由をすべて知らない。だが、大尉が何かを怒っていることは感じていた。

 

「サフロノフを探せ」

 

「すでに動かしています」

 

「グレイの残党は」

 

「張の網を借りています。ミスター・グレイ本人への直接線はありませんが、前回使われた殻会社群の一部に、オルフェウス・リンクと接触した痕跡があります」

 

「キャスパーの買い手か」

 

「はい」

 

 バラライカは低く言った。

 

「白い商人は、どこまで知っていた」

 

「彼自身は四分の一と言っています」

 

「つまり、半分は知っている」

 

「おそらく」

 

 ボリスの答えに、バラライカは小さく鼻で笑った。

 

「商人の算数は信用できんな」

 

「はい」

 

「ラグーン商会は」

 

「ダッチを呼びました。旧軍関係者の匂いを追うには、彼の目が役に立ちます」

 

「よろしい」

 

 ボリスは少しだけ間を置いた。

 

「大尉」

 

「何だ」

 

「この符丁が外へ出た時点で、敵は我々の過去の一部を持っています」

 

「わかっている」

 

「若い兵たちが動揺します」

 

「動揺させろ」

 

 ボリスは黙った。

 

 バラライカは続ける。

 

「動揺しない兵などいない。問題は、その後だ。恐れて止まるか、恐れたまま立つか。敵はそれを見ている。ならば、こちらも見る」

 

「兵を試すことになります」

 

「戦場では、いつも試される」

 

「ここはロアナプラです」

 

「戦場でないとでも?」

 

 ボリスは答えなかった。

 

 バラライカは符丁表を閉じた。

 

「死んだ国がまだ命令を出すなら、その命令を焼く。だが、焼く前に、誰が火をつけたか見る」

 

「了解しました」

 

     *

 

 ラグーン商会の事務所に、ボリスが来たのは昼過ぎだった。

 

 イエロー・フラッグではない。ホテル・モスクワの拠点でもない。ラグーン商会の事務所。つまり、今回はバラライカが呼びつけるのではなく、ボリスが足を運んだ形になる。それだけで、ダッチは事態の重さを察した。

 

 レヴィはソファに寝転がり、煙草をくわえたまま言った。

 

「何だよ。今度は命令書を手土産に来たのか」

 

 ボリスは表情を変えない。

 

「依頼です」

 

「ホテル・モスクワの依頼って、命令とどこが違うんだ?」

 

「断れるところです」

 

「断ったら?」

 

「別の方法を考えます」

 

 レヴィはダッチを見た。

 

「怖えよ。こいつらの別の方法って何だよ」

 

 ダッチは煙草を灰皿に置いた。

 

「聞こう」

 

 ロックとベニーも机の周囲に集まった。ベニーは端末を開き、すでに昨日の赤い合唱のログを表示している。ロックは疲れた顔をしていた。昨夜から、ホテル・モスクワ、HCLI、キャスパー、張の間を行き来している。胃が痛くならない方がおかしい。

 

 ボリスは小さな封筒を机に置いた。

 

「古い名前を追ってほしい」

 

 ダッチが封筒を開ける。

 

 中には二枚の写真と、簡単な経歴があった。ヴィクトル・サフロノフ。アレクセイ・ボンダレンコ。どちらも中年の男。片方は細い顔で、神経質そうな目をしている。もう片方は少し太っていて、帳簿係のような印象だった。

 

「旧軍の関係者か」

 

 ダッチが聞く。

 

「はい。今回の符丁に触れた可能性があります。特にサフロノフは通信記録係でした」

 

 ベニーが資料を見て言う。

 

「この人たちが庭師に情報を売った?」

 

「まだ断定はしません」

 

 ボリスは言った。

 

「ただ、符丁はどこかから流れた。記録か、人間か、その両方です」

 

 ロックが聞く。

 

「この二人はロアナプラに?」

 

「少なくともサフロノフは、数年前に東南アジアへ入った記録があります。その後、所在不明。ボンダレンコは、オルフェウス・リンクの関連会社に名前が出ています」

 

「オルフェウス・リンク」

 

 ベニーが反応する。

 

「キャスパーの買い手ですね」

 

「その可能性が高い」

 

 レヴィが顔をしかめる。

 

「また白い兄貴かよ。あいつ、遠くにいても面倒持ってくるな」

 

 ダッチはボリスへ視線を戻した。

 

「俺たちに何をさせたい」

 

「サフロノフの足跡を追ってください。ホテル・モスクワが直接動けば、相手は隠れる。ラグーン商会なら、港の小さな噂に入り込める」

 

「つまり、汚れた聞き込みか」

 

「得意でしょう」

 

 レヴィが笑った。

 

「褒めてんのか?」

 

「半分ほど」

 

「お前までそれ言うな!」

 

 ロックは少しだけ笑いそうになったが、状況を思い出してやめた。

 

 ダッチは資料を見つめる。

 

「サフロノフが生きているとして、なぜ今出てくる」

 

 ボリスは答える。

 

「金か、脅しか、過去か」

 

「全部あり得るな」

 

「はい」

 

 ダッチは写真を机に置いた。

 

「この男を知っている人間を探す。昔のロシア系船員、武器仲介、書類屋、亡命者の溜まり場。そういうところか」

 

「その通りです」

 

 ボリスは一枚の紙を追加で出した。

 

「候補が一つあります」

 

 紙には店の名前が書かれていた。

 

 スヴェトラーナ

 

 レヴィが読み上げる。

 

「何だ、酒場か?」

 

 ボリスは頷いた。

 

「ロアナプラの旧ロシア系住民が集まる小さな店です。ホテル・モスクワの直轄ではありません。だからこそ、古い噂が残る」

 

 ダッチは立ち上がった。

 

「俺が行く」

 

 ロックもすぐに言った。

 

「俺も」

 

 ダッチは首を振る。

 

「お前はベニーと赤い合唱のログを見ろ。ココとも話しておけ」

 

「でも」

 

「この手の聞き込みは、お前より俺の方が向いてる」

 

 レヴィが起き上がる。

 

「じゃあ俺も行く」

 

 ダッチはレヴィを見る。

 

「酒場を壊さない自信は?」

 

「相手次第だ」

 

「留守番だ」

 

「何でだよ!」

 

 ボリスが静かに言った。

 

「レヴィが来ると、相手が逃げます」

 

「てめえ、正直だな」

 

「依頼ですから」

 

 ダッチは少し笑った。

 

「ボリス、お前も来るのか」

 

「はい」

 

「なら二人で十分だ」

 

 レヴィは不満そうにソファへ戻った。

 

「つまんねえ仕事だな」

 

 ベニーが端末を見ながら言う。

 

「撃たない仕事も大事なんだよ」

 

「お前に言われると腹立つな」

 

「僕は撃てないからね」

 

「撃てねえ奴ほど面倒見つけるんだよ」

 

「否定できない」

 

     *

 

 スヴェトラーナは、ロアナプラの中心から少し外れた路地にあった。

 

 看板は古く、灯りは弱い。店内には東欧系の古い歌が低く流れている。客は少ない。酒を飲む老人、無言でカードを並べる男、煙草を吸う女。ロアナプラの喧騒から一歩だけ離れた場所に見えるが、実際には別の種類の危険が沈んでいる店だった。過去を抱えた人間が集まる場所は、未来を諦めた人間よりも扱いが難しい。

 

 ダッチとボリスが入ると、店内の視線が一斉に動いた。

 

 誰も声を上げない。

 

 だが、全員が見た。

 

 ボリスは無駄な挨拶をしなかった。カウンターの奥にいる年配の女へ近づく。彼女がこの店の主人らしい。白髪を後ろでまとめ、濃い化粧をしている。若い頃は相当な美人だったのだろう。今は、その美しさが刃物のように硬くなっている。

 

「スヴェトラーナ」

 

 ボリスが言う。

 

 女は煙草を片手に答えた。

 

「ボリス。大尉の犬が昼間から来るなんて、嫌な日ね」

 

「聞きたいことがあります」

 

「いつもそう。あなたたちは飲みに来ない。思い出か、死体か、嘘を探しに来る」

 

 ダッチは横で静かに立っていた。

 

 スヴェトラーナは彼を見る。

 

「そっちは?」

 

「ダッチだ」

 

「アメリカ人?」

 

「似たようなものだ」

 

「似たようなもの、ね。便利な答え」

 

 ボリスは写真を出した。

 

「ヴィクトル・サフロノフ。見覚えは」

 

 スヴェトラーナの表情は変わらなかった。だが、煙草を灰皿へ置く指がほんの少しだけ止まった。

 

「死んだ男ね」

 

「死体は見つかっていません」

 

「この街では、死体がなくても死んだことになる人間が多い」

 

「ここへ来たことは」

 

 女は黙った。

 

 ダッチが初めて口を開く。

 

「来たな」

 

 スヴェトラーナは彼を見る。

 

「どうしてそう思う?」

 

「写真を見た時、煙草の灰が落ちた。あんたはそれに気づいていない」

 

 女は灰皿を見た。短い灰が落ちている。

 

「嫌な男」

 

「よく言われる」

 

 ボリスは続けた。

 

「サフロノフは何を持っていた」

 

「古い紙」

 

「符丁表か」

 

 スヴェトラーナは薄く笑った。

 

「答えを知っていて聞くのは、ホテル・モスクワの悪い癖ね」

 

「誰に売った」

 

「さあ」

 

 ボリスの目が鋭くなる。

 

 ダッチがそれを制するように、静かにカウンターへ肘を置いた。

 

「酒をくれ」

 

 スヴェトラーナは眉を上げた。

 

「聞き込みの途中で?」

 

「飲みに来ないって言われたからな」

 

 女は少しだけ笑った。

 

「面白い男ね」

 

 彼女はグラスを出し、強い酒を注いだ。ダッチは一口だけ飲む。

 

「悪くない」

 

「高いわよ」

 

「ホテル・モスクワにつけろ」

 

 ボリスが短く言う。

 

「認めません」

 

 ダッチは肩をすくめた。

 

「ケチだな」

 

 空気が少しだけ緩んだ。

 

 スヴェトラーナは煙草をくわえ直す。

 

「サフロノフは二度来た。一度目は半年前。二度目は三週間前。震えていたわ。酒を飲む手も、紙を出す手も」

 

「誰かに追われていた?」

 

「過去に」

 

「現在ではなく?」

 

「過去ほどしつこい追手はいない」

 

 ダッチはグラスを置いた。

 

「誰に紙を渡した」

 

「直接は渡していない。仲介人に会うと言っていた。店の奥で、灰色の上着を着た男と話していた」

 

 ボリスが反応する。

 

「ミスター・グレイか」

 

「本人か代理かは知らない。でも、灰色だった。顔も、声も、印象も。覚えにくい男」

 

 ダッチは言った。

 

「覚えにくいようにしている男は、仕事でそうしている」

 

「そうでしょうね」

 

 スヴェトラーナは写真をボリスへ返す。

 

「サフロノフは言っていたわ。『自分は死んだ国にまだ借金がある』と」

 

 ボリスの表情がわずかに硬くなる。

 

「借金?」

 

「金ではないわ。そういう顔ではなかった。何かを隠して生きてきた男の顔。隠したものを売れば助かると思った。でも、売ったらもっと追われるとわかっていた」

 

 ダッチが静かに聞く。

 

「今どこにいる」

 

 スヴェトラーナは首を振った。

 

「三週間前を最後に来ていない。ただ、これを預けていった」

 

 彼女はカウンターの下から、小さな封筒を出した。

 

 ボリスが受け取る。

 

 中には、古い紙片が一枚。

 

 そこには、短い文字列が書かれていた。

 

 КРАСНЫЙ ХОР

 

 ボリスはそれを見た。

 

「赤い合唱」

 

 ダッチが低く言う。

 

「サフロノフは、知っていたのか」

 

 スヴェトラーナは煙を吐いた。

 

「知っていたというより、怖がっていた。あれは歌ではない、と言っていたわ」

 

「では何だと」

 

「命令が死なないようにする箱」

 

 ボリスの手が紙を強く握りかけた。

 

 ダッチがそれを見る。

 

「落ち着け」

 

 ボリスは静かに紙を封筒へ戻した。

 

「この封筒をなぜ預かった」

 

「昔、彼に借りがあった」

 

「どんな」

 

「女の借りを男が聞くものじゃないわ」

 

 ダッチは軽く手を上げた。

 

「失礼」

 

 スヴェトラーナは少しだけ笑った。

 

「彼は最後に言った。『もしホテル・モスクワが来たら、渡せ。だが、大尉には謝るな。謝ったところで、過去は許されない』」

 

 ボリスは黙った。

 

 ダッチが酒を飲み干す。

 

「十分だな」

 

 ボリスは頷いた。

 

 店を出る前、スヴェトラーナが言った。

 

「ボリス」

 

 彼は振り返る。

 

「死んだ国を掘るなら、気をつけなさい。死んだ国には、まだ生きている犬がいる」

 

 ボリスは短く答えた。

 

「知っています」

 

     *

 

 ラグーン商会の事務所では、ベニーが赤い合唱のログと格闘していた。ロックは横で、ココから共有された最低限の情報を整理している。レヴィは退屈そうにしていたが、話の内容が重いせいか、珍しく完全には茶化さなかった。

 

「これ、見れば見るほど嫌だな」

 

 ベニーが呟く。

 

「何がわかった?」

 

 ロックが聞く。

 

「赤い合唱は、命令の内容だけを見てるんじゃない。受信者の反応をセットで見てる。どれくらいで報告したか、誰に確認したか、命令文のどこで止まったか。通信の応答時間、再送要求、回線の切り方。そういう外側の動きから、人間の判断を読もうとしてる」

 

 レヴィが顔をしかめる。

 

「何だそれ。気持ち悪すぎんだろ」

 

「うん。技術としても、思想としても気持ち悪い」

 

 ロックは考え込む。

 

「花輪が声を奪うものなら、赤い合唱は声に従う理由を集める」

 

 ベニーは頷く。

 

「たぶん。花輪だけなら、通信を偽装できる。でも、受け取った人間が疑えば終わりだ。赤い合唱は、その疑い方を学ぼうとしてる」

 

「疑い方を学ぶ?」

 

「どの程度の符丁なら信じるか。誰の名前なら動くか。どんな形式なら疑うか。どんな命令なら反射的に従うか」

 

 レヴィが低く言った。

 

「人間を銃みたいに扱ってんな」

 

 ロックは彼女を見た。

 

 レヴィは嫌そうな顔で煙草を吸った。

 

「何だよ」

 

「いや。的確だと思った」

 

「うるせえ」

 

 その時、ロックの端末が鳴った。

 

 ココからだった。

 

『ロック。そっちは?』

 

「ベニーがかなり嫌なことを見つけています」

 

『でしょうね』

 

「そちらは?」

 

『キャスパーの買い手、オルフェウス・リンクを追ってる。兄さんは全部は言わない。でも、アランが少し漏らした』

 

「アランが?」

 

『ベニーに気が合うと思われたくて、喋りすぎたみたい』

 

 ロックは少しだけ苦笑した。

 

「それは……ありそうですね」

 

『オルフェウス・リンクは、グレイの殻会社群と接触している。それと、旧軍関係の記録屋を何人か探していた形跡がある』

 

「サフロノフ」

 

『名前が出たの?』

 

「ボリスさんが追っています。旧軍の通信記録係です」

 

 通信の向こうで、ココが黙った。

 

「ココ?」

 

『ロック。サフロノフが生きているなら、庭師にとっては部品より価値がある』

 

「なぜ」

 

『部品は命令を運ぶ。でも、人間は命令がどう使われたかを覚えている。赤い合唱が欲しいのは、そっち』

 

 ロックは息を呑んだ。

 

「つまり、サフロノフは符丁表だけじゃなく、使われ方を知っている」

 

『ええ。誰がどの符丁で動いたか。どの命令が信じられ、どの命令が疑われたか。その記憶は、赤い合唱にとって楽譜みたいなもの』

 

 ロックは顔をしかめた。

 

「楽譜」

 

『嫌な言い方だけど、たぶんそう』

 

「ココ」

 

『何?』

 

「やっぱり、あなたはこれを欲しがっていますね」

 

 短い沈黙。

 

『知りたいとは思ってる』

 

「同じことです」

 

『そうね』

 

 ココは否定しなかった。

 

 ロックは静かに言った。

 

「俺は見張っています」

 

『知ってる』

 

「本当に」

 

『知ってるわ、ロック』

 

 通信は切れた。

 

 レヴィが横から言う。

 

「あの白いお嬢様、また危ない顔してんのか」

 

「見えません」

 

「見えなくてもわかるだろ」

 

 ロックは少しだけ笑った。

 

「ええ。わかります」

 

 ベニーが端末を見ながら言った。

 

「ダッチたちから通信。サフロノフが赤い合唱という言葉を残していた」

 

 ロックの表情が変わる。

 

「繋がったな」

 

 レヴィが立ち上がる。

 

「で、そのサフロなんとかはどこだ」

 

 ベニーは別の画面を開く。

 

「それが、今まさに嫌な情報が来た。三週間前、サフロノフらしき男が、港の旧病院跡に入った記録がある」

 

「旧病院?」

 

「今は倉庫扱い。でも、昔は軍医や密輸業者が使っていた場所らしい」

 

 ロックは言った。

 

「ホテル・モスクワに連絡しよう」

 

 レヴィは銃を確認しながら笑った。

 

「ようやく出番か」

 

 ベニーが嫌そうに言う。

 

「まだ撃つとは決まってない」

 

「旧病院跡に、死んだ国の命令を知ってる男を探しに行くんだろ。撃たないで済むと思う方がおかしい」

 

 ロックは否定できなかった。

 

     *

 

 ボリスとダッチが事務所へ戻った時、次の目的地はほぼ決まっていた。

 

 港の旧病院跡。

 

 かつて港湾労働者や船員を診ていた小さな施設だったが、今では表向き使われていない。実際には、一時保管場所、密会場所、身を隠す場所として何度も使われてきた。ロアナプラでは、病院も倉庫も礼拝堂も、夜になれば同じような使われ方をする。

 

 ボリスはスヴェトラーナから受け取った封筒をバラライカへ届ける前に、ラグーン商会の事務所で情報を共有した。

 

「サフロノフは赤い合唱を知っていた」

 

 ロックが言う。

 

「そして今、旧病院跡にいる可能性がある」

 

 ダッチは頷いた。

 

「三週間前からそこへ入った記録があるなら、まだ隠れているか、もう誰かに移されたかだ」

 

 ベニーが端末を見る。

 

「旧病院跡周辺で、昨日の夜から短い通信反応があります。赤い合唱の信号と似てる。完全一致ではないけど、同じ系統」

 

 レヴィがにやりと笑う。

 

「決まりだな」

 

 ボリスは静かに言った。

 

「ホテル・モスクワも動く」

 

「大尉も来るのか」

 

 ダッチが聞く。

 

「来ます」

 

 レヴィが舌打ちした。

 

「また空気が冷えるな」

 

 ロックは立ち上がった。

 

「ココにも連絡します」

 

 ボリスの目がロックへ向く。

 

「HCLIも?」

 

「赤い合唱に関しては、ココも情報を持っています」

 

「大尉は嫌がるでしょう」

 

「でも、必要です」

 

 ボリスは少し沈黙した。

 

「なら、早めに伝えてください。現場で鉢合わせるよりはいい」

 

「わかりました」

 

 レヴィが言う。

 

「白いお嬢様と大尉、同じ現場に置いて大丈夫かよ」

 

 ダッチが答える。

 

「大丈夫ではない」

 

「じゃあ何で呼ぶんだ」

 

「大丈夫じゃなくても必要なことはある」

 

 レヴィは顔をしかめた。

 

「そういうの、一番嫌いだ」

 

 ロックは窓の外を見た。

 

 ロアナプラの夕暮れは、赤い。

 

 港の鉄骨も、遠くの倉庫も、空の雲も、赤く染まっていた。まるで街そのものが、どこかで鳴る合唱に照らされているようだった。

 

 ボリスは封筒を握っていた。

 

 サフロノフが残した言葉。

 

 赤い合唱。

 

 命令が死なないようにする箱。

 

 ロックはその言葉を思い返した。

 

 命令が死なないなら、戦争も死なない。

 

 そしてホテル・モスクワは、また死んだ戦争の声に呼ばれている。

 

 だが今度は、従うためではない。

 

 その声の喉を探すためだった。

 

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