Guns & Garlands — 銃と花輪   作:たこ焼き 龍月

33 / 35
第四章 赤い合唱団

 

 ロアナプラの旧病院跡は、港の外れにあった。病院と呼ぶには、あまりに小さく、あまりに古く、あまりに暗い建物だった。かつては港湾労働者や船員を診ていたらしい。壁には色褪せた案内板が残り、診察室だった部屋には錆びたベッドの骨組みが置かれている。だが、もう誰もここで人を治さない。ロアナプラでは、使われなくなった病院は治療ではなく、隠蔽に使われる。逃げ込む者、匿う者、取引する者、消える者。病院という名前だけが残った建物は、街の底で別の役目を与えられていた。

 

 夕暮れの赤い光が、割れた窓から差し込んでいた。

 

 その赤さが、建物の中に入る前から嫌な予感を強くした。

 

 ラグーン商会の車が先に止まり、続いてホテル・モスクワの車列が静かに入ってくる。少し遅れて、HCLIの車両も路地の奥へ滑り込んだ。ロアナプラでは珍しくない光景だ。珍しくないが、まともではない。ラグーン商会、ホテル・モスクワ、HCLIが同じ廃病院の前に集まっている時点で、普通の人間なら近づかない。もっとも、この街に普通の人間がどれだけ残っているかは疑わしい。

 

 レヴィは建物を見上げて、露骨に顔をしかめた。

 

「病院跡かよ。地下の次は廃病院。順番として最悪だな」

 

 ベニーは端末を抱えながら言う。

 

「文句を言っても、信号はここから出てる」

 

「信号に文句言えよ」

 

「返事が来たら怖いよ」

 

 ロックは病院跡の入り口を見た。入口の上には、古い看板の跡がある。文字はほとんど読めない。ただ、建物全体にまとわりつく気配だけはわかる。誰かが使っている。完全な廃墟ではない。窓の割れ方、扉の開き方、床の埃の乱れ。そういう細かいものが、人の出入りを示していた。

 

 ダッチは煙草をくわえず、静かに周囲を見ていた。

 

「出入りは最近だな」

 

 ボリスが頷く。

 

「裏口にも足跡があります。正面は見せるためでしょう」

 

 レームが低く言った。

 

「中で待っているか、もう逃げたか」

 

 ワイリは建物を見て楽しそうにしている。

 

「こういう場所って、音がよく反響するんだよね」

 

 ベニーが即座に距離を取った。

 

「何もしないでください」

 

「まだ何も言ってないのに」

 

「言う前から止めています」

 

 マオが呆れたように言う。

 

「お前、信用されてないな」

 

「信用って、難しいよねえ」

 

 バルメはココのすぐ横に立っていた。視線は建物とホテル・モスクワの兵たちを交互に見ている。彼女にとって、ホテル・モスクワは味方ではない。一時的に同じ方向を向いているだけだ。その警戒は、ボリスも当然のように理解していた。

 

 バラライカは病院跡の前に立った。赤い夕暮れの中で、彼女の横顔は石のように硬い。

 

「ボリス」

 

「はい」

 

「外周を押さえろ。出入り口を三つ確認。逃がすな。ただし、撃つ前に確認しろ」

 

「了解しました」

 

 レヴィが小声で言った。

 

「撃つ前に確認、か。ホテル・モスクワにしちゃ穏やかだな」

 

 ロックが答える。

 

「サフロノフを生かして確保したいんでしょう」

 

「生きてるといいな」

 

 その声には軽口の形をした現実感があった。

 

 サフロノフ。旧軍の通信記録係。赤い合唱という言葉を残した男。死んだ国の命令を知る男。彼がここにいるのか、それともここにいた痕跡だけが残っているのかは、まだわからない。だが、赤い合唱の信号はこの建物から出ている。ベニーの端末にも、HCLI側の機材にも、短い反応が断続的に現れていた。

 

 ココは建物を見ながら言った。

 

「ここは、よく選ばれている」

 

 ロックが聞く。

 

「どういう意味ですか」

 

「病院は、人が命令に従いやすい場所だから」

 

 ロックは眉をひそめた。

 

「病院で?」

 

「医者の言葉、看護師の指示、緊急時の誘導、助けてくれると信じる声。人は病院で、自分の判断を誰かに預けることがある。軍隊ほど強くはないけれど、命令に似た声がある」

 

 ロックは黙った。

 

 レヴィが嫌そうに言う。

 

「いちいち気持ち悪い見方すんなよ」

 

 ココは少しだけ目を伏せた。

 

「庭師は、たぶんもっと気持ち悪い見方をしている」

 

 バラライカが振り返る。

 

「商人の分析か」

 

「敵の分析よ」

 

「違いは」

 

「今は、同じにしない」

 

「今は、か」

 

 その一言で、また空気が硬くなる。

 

 ロックはすぐに口を挟んだ。

 

「まず中を確認しましょう。サフロノフがいるなら、話を聞く必要があります」

 

 バラライカはロックを見た。

 

「聞く前に、敵が口を塞ごうとする」

 

「だから急ぎます」

 

「急ぐ時ほど、足元を見る」

 

 バラライカは入口へ視線を戻した。

 

「入るぞ」

 

     *

 

 旧病院跡の内部は、外から見るよりもさらに荒れていた。受付だった場所には割れたガラスが散り、壁には古い掲示物が剥がれかけている。床のタイルは湿気で浮き、歩くたびに小さく音を立てた。診察室の扉は半分外れ、薬品棚は空になっている。だが、完全に放棄された場所ではなかった。廊下の奥に、新しい足跡がある。使い捨てのカップ、最近吸われた煙草の吸い殻、そして壁際に伸びた細いケーブル。

 

 ベニーはケーブルを見て足を止めた。

 

「これ、新しい」

 

 ワイリが覗き込む。

 

「古い建物に新しい線。庭仕事だねえ」

 

「その表現、もう嫌いです」

 

 ベニーは端末を操作した。

 

「この線、建物の地下へ伸びてる。でも、途中で分岐してる。たぶん、上の階にも何かある」

 

 ボリスはすぐに指示を出した。

 

「二手に分かれる。大尉は地下へ。私は上階を確認します」

 

 バラライカは短く頷いた。

 

「ロック、ベニー、ココ・ヘクマティアルは私と来い」

 

 バルメが即座に一歩前へ出る。

 

「ココの護衛は私です」

 

「好きにしろ」

 

 レヴィが笑った。

 

「俺は?」

 

 バラライカは一瞥する。

 

「好きに暴れるな」

 

「注文が雑だな」

 

 ダッチが言う。

 

「俺とレヴィはボリス側へ行く。上を押さえる」

 

 レームが頷く。

 

「俺も上へ行こう」

 

 マオも続く。

 

「じゃあ俺も上だ。地下はワイリに任せた」

 

 ワイリが嬉しそうに手を上げる。

 

「任された」

 

 ベニーが顔をしかめる。

 

「地下にワイリが来るんですか」

 

「大丈夫だよ、ベニー。今日は何もしない」

 

「今日は、って言いましたね」

 

「昨日も何もしてないじゃない」

 

「昨日の“何もしてない”が一番怖かったです」

 

 ロックは軽く息を吐いた。こんな場所でも、軽口があるだけまだ救いがある。だが、それが長く続くとは思えなかった。

 

 上階へ向かう組と、地下へ向かう組に分かれる。

 

 ロックは地下への階段を見下ろした。そこには、かすかな明かりがあった。誰かが、最近照明を仮設したのだろう。病院跡の地下。赤い合唱の信号。サフロノフの可能性。どれもが、足を進めるたびに悪い方向へ繋がっていくように思えた。

 

     *

 

 上階へ向かったボリスたちは、二階の廊下で最初の痕跡を見つけた。

 

 そこはかつて入院室だったらしい。扉の番号が残っている。中には壊れたベッドがいくつか並び、窓には板が打ち付けられている。だが、一部屋だけ扉が新しい。鍵も新しい。ロアナプラの廃墟では、新しさはいつも古さより怪しい。

 

 レヴィが扉を見た。

 

「蹴るか」

 

 ボリスが即答する。

 

「静かに開ける」

 

「全員それ言うな」

 

 ダッチが扉の周囲を見る。

 

「内側に人の気配は薄い。だが、使っていた跡はある」

 

 レームが短く言う。

 

「開けよう」

 

 ボリスが兵に合図する。扉は慎重に開かれた。

 

 中は、簡易の寝室だった。

 

 古いベッドの上に毛布がある。机の上には缶詰、空の水瓶、薬の包み、古いノート。壁には地図が貼られていた。ロアナプラ港の地図。ホテル・モスクワの拠点位置らしき印。第七倉庫区画、旧水路倉庫、旧病院跡、地下中継室。線が引かれている。誰かがここで、逃げながら、あるいは隠れながら、赤い合唱の動きを追っていた。

 

 ボリスは机の上のノートを開いた。

 

 手書きの文字。ロシア語。筆跡は震えている。

 

 彼は数ページを読み、顔を硬くした。

 

 ダッチが聞く。

 

「サフロノフか」

 

「おそらく」

 

「何と」

 

 ボリスはゆっくり読み上げた。

 

「“私は売った。だが、売ったものが何に使われるかを知らなかった。いや、知らないふりをした。符丁は古い紙だと思った。だが、彼らは紙ではなく、声を欲しがっていた”」

 

 レヴィが眉をひそめる。

 

「声?」

 

 ボリスは続ける。

 

「“命令が届いた時、人はまず誰の声かを聞く。次に、なぜ自分がそれを信じたいのかを探す。赤い合唱は、そこを聞いている”」

 

 部屋が沈黙した。

 

 ダッチは地図を見る。

 

「この男は、途中で気づいたんだな」

 

「はい」

 

 ボリスはノートを閉じず、次のページを確認する。

 

 そこには、短い名前がいくつか書かれていた。

 

 オルフェウス・リンク。

 

 ミスター・グレイ。

 

 合唱長。

 

 そして、別の言葉。

 

 合唱団員

 

 レームが低く言った。

 

「合唱長だけではない、ということか」

 

 ボリスは頷いた。

 

「赤い合唱は、単独の敵ではないようです」

 

 レヴィが吐き捨てる。

 

「また増えんのかよ」

 

 ダッチは机の上に置かれた古い録音機を見つけた。小型のものだ。最近使われた形跡がある。

 

「これは」

 

 ボリスが確認する。

 

「録音機です」

 

 ダッチはボリスを見る。

 

「サフロノフは録られたのか」

 

 ボリスの表情が硬くなる。

 

「あるいは、自分で録った」

 

 その時、廊下の奥で物音がした。

 

 全員が一斉に動く。

 

 レヴィが銃を構え、ボリスの兵が廊下へ出る。だが、そこには誰もいなかった。ただ、古い車椅子が廊下の端で揺れている。風ではない。誰かが動かした。

 

 レヴィが低く笑った。

 

「幽霊なら撃てねえな」

 

 ダッチは答えた。

 

「人間の方が厄介だ」

 

 通信にベニーの声が入った。

 

『地下で強い反応。そっちは?』

 

 ボリスが答える。

 

「サフロノフの部屋らしきものを発見。本人は不在。記録あり」

 

『こっちは地下に仮設装置があります。あと……音がする』

 

 ロックの声が続く。

 

『人の声です』

 

 ボリスは即座に言った。

 

「大尉へ繋げ」

 

     *

 

 地下は、病院の機械室だった。

 

 昔は発電機や給水設備が置かれていたのだろう。今はその大半が死んでいる。だが、部屋の中央には新しい機材が置かれていた。旧中継室で見つけたものより小型だが、配置は似ている。古い線と新しい端末が繋がれ、小型スピーカーがいくつも壁際に置かれている。まるで、本当に合唱団でも並べるための場所のようだった。

 

 その中央に、椅子が一つ置かれていた。

 

 椅子には、誰も座っていない。

 

 だが、スピーカーから声が流れていた。

 

 老人の声だった。

 

 震えた、かすれた声。

 

『私は、ヴィクトル・サフロノフ。旧通信記録係。これを聞いている者がホテル・モスクワなら、私はまだ殺されていないか、もう殺されている』

 

 ロックは息を呑んだ。

 

 バラライカは動かなかった。

 

 ココはスピーカーを見つめている。

 

 ベニーは端末で録音の状態を確認しながら言った。

 

「録音です。でも、再生タイミングは外部から制御されてるかもしれません」

 

 ワイリが周囲を見る。

 

「いやな劇場だね」

 

 サフロノフの声は続く。

 

『私は符丁を売った。紙を売っただけだと思った。いや、そう思いたかった。彼らは言った。古い軍事資料を集めているだけだと。歴史のためだと。私は信じなかった。だが、金が必要だった。逃げるために。生きるために』

 

 バラライカの目が冷たくなる。

 

 声は震えていた。

 

『だが、彼らが欲しかったのは符丁ではない。符丁を聞いた時の人間の反応だった。命令を信じる癖。疑う癖。従うまでの時間。報告する相手。声の重さ。沈黙の長さ。彼らは、それを楽譜と呼んだ』

 

 ココが小さく言った。

 

「楽譜」

 

 ロックは彼女を見る。

 

 ベニーの画面に、別の文字列が流れる。

 

 CHOIR NODE / HOSPITAL SITE / PLAYBACK ACTIVE

 

「再生だけじゃない」

 

 ベニーが言った。

 

「今この録音を聞いている僕らの反応も、取ろうとしてる」

 

 バルメが即座にココの前に出る。

 

「切るべきです」

 

 バラライカは言った。

 

「まだだ」

 

 バルメが彼女を見る。

 

「敵の観測に付き合う気ですか」

 

「敵の声を聞かずに敵の喉は切れん」

 

 ココが静かに言う。

 

「これは喉じゃない。口でもない。耳よ」

 

 バラライカはココを見た。

 

「なら、耳を潰す」

 

「その前に、何を聞いているか知る必要がある」

 

「商人の目をするなと言ったはずだ」

 

 ココは黙った。

 

 ロックは二人の間に一歩入った。

 

「今は録音を最後まで」

 

 レヴィなら、また命知らずだと言っただろう。だがここにはレヴィはいない。地下には、冷たい視線だけがあった。

 

 サフロノフの録音は続いている。

 

『合唱長は一人ではない。赤い合唱団がいる。声を集める者、古い記録を掘る者、反応を見る者、商人から部品を買う者、灰色の男から地図を買う者。私はその一部を見た。彼らは世界中の命令を集めている。軍隊だけではない。船、病院、教会、学校、会社、家族。人が従う声を、すべて』

 

 ロックは、胃の奥が冷えるのを感じた。

 

 花輪が通信を束ねるなら、赤い合唱は人間の従う理由を集めている。

 

 これは軍隊だけの話ではない。

 

 サフロノフは咳き込み、声を落とした。

 

『ホテル・モスクワへ。大尉へ。私は謝らない。謝って許されるものではない。だが、伝える。彼らはあなたの声を欲しがっている。兵があなたの声で動く理由を欲しがっている。あなたが沈黙した時、兵がなぜ待つのかを欲しがっている』

 

 バラライカの顔は動かない。

 

 だが、ボリスが地下へ降りてきた時、その空気の重さをすぐに察した。

 

 彼は入口で止まり、録音を聞いた。

 

『赤い合唱は、まだ始まっていない。これは練習だ。彼らは本番を別の場所でやる。もっと大きな声が集まる場所で』

 

 録音はそこで一度途切れた。

 

 ノイズ。

 

 そして、別の声が入った。

 

 若い声でも、老人の声でもない。合唱長の加工された声だった。

 

『よい証言だ、サフロノフ。だが、足りない』

 

 バラライカが低く言った。

 

「また貴様か」

 

 声は返事をするように続いた。

 

『大尉。あなたの沈黙は美しい。ボリスの抑制も美しい。若い兵の迷いも、レヴィの拒絶も、ロックの介入も、ココ・ヘクマティアルの欲望も、すべてよく響く』

 

 ココの目が鋭くなる。

 

 ロックは背筋に寒気を覚えた。

 

 こちらの反応を見ている。

 

 どこからか。

 

 今も。

 

 ベニーが端末を見る。

 

「外部通信、短い。すぐ切れる。追いにくい」

 

 ワイリが壁の線を見る。

 

「逃げ足が早いねえ」

 

 合唱長の声が続く。

 

『赤い合唱団へようこそ。あなた方は聞き手ではない。すでに歌っている』

 

 その瞬間、ホテル・モスクワの兵たちの端末が一斉に鳴った。

 

 ボリスが即座に命じる。

 

「全員、見るな。報告だけしろ」

 

 兵たちは端末を手に取るが、動かない。

 

 若い兵の一人が声を震わせる。

 

「命令文、表示。内容……大尉を守るため、HCLI指揮官を拘束せよ」

 

 バルメの手が動く。

 

 ホテル・モスクワの兵も、わずかに緊張する。

 

 レームが通信越しに低く言った。

 

『上階も同じ命令を受信』

 

 レヴィの声が割り込む。

 

『ふざけんな。誰が誰を拘束だって?』

 

 ボリスが静かに言う。

 

「命令には従うな。記録しろ」

 

 バラライカが続けた。

 

「私の命令だ。誰も動くな」

 

 その一言で、ホテル・モスクワの兵たちの動揺が止まった。

 

 バルメはまだ構えている。

 

 ココは動かない。

 

 ロックは、息を止めていたことに気づいた。

 

 合唱長の声が、楽しそうに歪む。

 

『よい。不信。抑制。保護。介入。すべて記録した』

 

 バラライカは静かに言った。

 

「ベニー」

 

「はい」

 

「切れるか」

 

「ワイリと一緒なら、たぶん」

 

 ワイリが笑う。

 

「やろうか」

 

 バラライカは短く命じた。

 

「やれ」

 

 ベニーとワイリが装置へ向かう。細かい手順は口にしない。ただ、二人の動きは早かった。ベニーは端末を操作し、ワイリは線の流れを見ながら、必要な箇所を切り離していく。装置の光が揺れ、スピーカーのノイズが乱れる。

 

 合唱長の声が最後に言った。

 

『本番でまた会おう、大尉。あなたの声は、よく響く』

 

 音が切れた。

 

 地下機械室に沈黙が戻った。

 

 だが、その沈黙はもう安全ではなかった。

 

     *

 

 上階では、レヴィたちが短い衝突に入っていた。

 

 合唱長の通信が切れる直前、外部から数人の男たちが裏口側へ入ってきた。灰色の作業服、港湾業者のふりをした動き。だが、足運びが違う。逃げるためではなく、回収するために来た者たちだった。

 

 レヴィは廊下の角で彼らを見つけた瞬間、にやりと笑った。

 

「やっと人間が出たか」

 

 ダッチが低く言う。

 

「殺すな。話を聞く」

 

「努力する」

 

「努力では足りん」

 

「お前まで大尉みたいなこと言うな」

 

 男たちは奥の部屋へ向かっていた。おそらくサフロノフのノートや録音機を回収するつもりだったのだろう。レームが先に動き、退路を塞ぐ。マオが横から圧をかけ、ホテル・モスクワの兵が背後を押さえる。レヴィは正面から出た。

 

「はい、終了。病院の面会時間は終わりだ」

 

 男の一人が逃げようとする。

 

 レヴィがその足元を撃つような動作を見せたが、ダッチの視線を受けて舌打ちし、代わりに壁を蹴った。男は驚いて足を止める。レームがその腕を押さえた。

 

「殺すなって言われたからな。感謝しろ」

 

 男は何も言わない。

 

 ダッチが近づく。

 

「誰に頼まれた」

 

 男は黙る。

 

 レヴィが顔を近づける。

 

「黙るのは自由だ。でもこっちは退屈してんだよ」

 

 男の喉が動いた。

 

 その時、ボリスが地下から戻ってきた。

 

 彼は男たちを見て、表情を変えずに言った。

 

「連れて行く」

 

 レヴィが肩をすくめる。

 

「そっちの方が怖そうだな」

 

 ダッチは男たちの荷物を確認した。小型端末、回収用の袋、古い鍵束、そして紙片が一枚。そこには短く、こう書かれていた。

 

 楽譜を回収。証人は不要。

 

 ダッチは紙をボリスへ渡した。

 

「サフロノフはまだどこかにいるかもしれん」

 

 ボリスは紙を見た。

 

「生かしておく必要がなくなった、ということです」

 

「急ぐか」

 

「はい」

 

 レヴィが銃をしまいながら言った。

 

「結局、撃たねえ方が面倒じゃねえか」

 

 ダッチは答えた。

 

「生きてる相手の方が喋る」

 

「喋るまでが長えんだよ」

 

「それが仕事だ」

 

     *

 

 地下から上がったココは、いつもより静かだった。

 

 ロックはそれに気づいていた。バルメも気づいている。ココは赤い合唱を知りたがっている。だが、今回聞いたものは、知識というより悪寒に近かった。人間が命令を信じる仕組み。沈黙の長さ。迷いの時間。守ろうとする反射。疑う癖。介入する言葉。それらがすべて記録され、花輪の根へ送られる。

 

 それは武器よりも、もっと嫌なものだった。

 

 廊下で、バラライカがココへ言った。

 

「欲しいか」

 

 ココは少しだけ目を伏せた。

 

「知りたい」

 

「同じだ」

 

「違うと言いたいけれど、今は言えない」

 

 バラライカは冷たく見た。

 

「正直だな」

 

「嘘をつくと、あなたは撃つでしょう」

 

「正直でも撃つ時は撃つ」

 

 バルメが前に出る。

 

 ココが手で制した。

 

「バルメ」

 

「しかし」

 

「大丈夫」

 

 バラライカはそのやり取りを見ていた。

 

「お前の犬は、よく躾けられている」

 

 バルメの目が怒りで鋭くなる。

 

 ココは静かに言った。

 

「私の大切な人よ」

 

 バラライカは一瞬だけ黙った。

 

 ロックはその沈黙を見逃さなかった。

 

 バラライカは言葉を変えた。

 

「なら、大切な者を楽器にされる気持ちはわかるな」

 

 ココは答えなかった。

 

 その沈黙は、肯定に近かった。

 

 ロックは間に立った。

 

「合唱長は、全員の反応を見ています。ここで対立すれば、それも向こうの記録になります」

 

 バラライカはロックを見る。

 

「お前はいつも、撃つ前に言葉を置く」

 

「それが仕事になりつつあります」

 

「便利な仕事だ」

 

「便利と言わないでください」

 

 ココが少しだけ笑った。

 

 その笑いは、すぐに消えた。

 

     *

 

 旧病院跡の捜索は、夜まで続いた。

 

 サフロノフ本人は見つからなかった。だが、彼がここにいた証拠は多く残っていた。震えた筆跡のノート。録音機。使いかけの薬。古い符丁表の断片。オルフェウス・リンクとの接触記録。ミスター・グレイの殻会社を経由した送金痕跡。そして、赤い合唱団という言葉。

 

 ベニーとワイリは、機械室の装置から最低限の情報を取り出した。そこには、複数の観測対象が記録されていた。

 

 HOTEL MOSCOW / COMMAND RESPONSE

 HCLI / PROTECTION RESPONSE

 LAGOON COMPANY / INTERVENTION RESPONSE

 CASPER HEKMATYAR / TRADE RESPONSE

 ROANAPUR PORT / AUTHORITY RESPONSE

 

 ベニーはそれを見て、顔色を悪くした。

 

「これ、もうホテル・モスクワだけじゃない」

 

 ロックは画面を見た。

 

「俺たちも対象になっている」

 

「うん。ココたちも、キャスパーも、張の港も。誰がどの声で動くかを見てる」

 

 ワイリが軽く言った。

 

「赤い合唱団、団員募集中って感じだね」

 

 マオが嫌そうに言う。

 

「冗談でもやめろ」

 

 レームは険しい顔で言った。

 

「これは戦場より厄介だ。敵がどこにいるかではなく、こちらがどう動くかを見られている」

 

 ダッチは頷いた。

 

「鏡を向けられているようなものだな」

 

 ボリスが言う。

 

「割るべき鏡です」

 

 バラライカは短く答えた。

 

「割る。だが、まず鏡を持つ手を探す」

 

 レヴィは退屈そうに見せながらも、画面から目を離さなかった。

 

「で、その手はサフロなんとかか?」

 

 ボリスは首を振る。

 

「サフロノフは手ではない。声を売った男だ。今は、おそらく逃げている」

 

 ロックが言う。

 

「もしくは、追われている」

 

 ココは静かに言った。

 

「合唱長はサフロノフをもう必要としていないかもしれない。でも、私たちには必要」

 

 バラライカが彼女を見る。

 

「なぜ」

 

「彼は、赤い合唱がどう始まったかを知っている。符丁を売っただけではない。どこで、誰に、何を話したか。合唱長が何を聞きたがったか」

 

「つまり、まだ歌わせる価値がある」

 

 ココはバラライカの言い方にわずかに顔をしかめた。

 

「話を聞く価値がある、という意味よ」

 

「同じだ」

 

 ロックは二人の間に入る前に、深く息を吐いた。

 

「サフロノフを探しましょう。生きているなら、保護する。ホテル・モスクワが直接動くと相手が逃げるなら、ラグーン商会が先に動きます」

 

 レヴィが即座に言った。

 

「また俺らかよ」

 

 ダッチは言う。

 

「そうなるな」

 

 ベニーが端末を見ながら言った。

 

「サフロノフが残したノートに、次の候補地があります。港の旧礼拝堂。今はほとんど使われていないけど、ロシア系や東欧系の船員が昔よく出入りしていた場所らしいです」

 

 ボリスが顔を上げる。

 

「旧礼拝堂」

 

 バラライカの目が細くなる。

 

「祈りの声か」

 

 ココも同じ言葉を呟いた。

 

「祈りの声」

 

 ロックはヨナの通信を思い出した。

 

 庭師は、次に祈りの声を探す。

 

 その言葉が、今になって意味を持ち始めていた。

 

 赤い合唱は軍隊の声だけでは終わらない。

 

 命令の次は、祈り。

 

 人が従う声。信じる声。救われると思う声。

 

 庭師は、それらを順番に集めている。

 

 ロアナプラの夜が、また深くなる。

 

 バラライカは旧病院跡の出口へ向かった。

 

「ボリス」

 

「はい」

 

「サフロノフを探せ。生きていれば連れてこい。死んでいれば、誰が殺したかを探せ」

 

「了解しました」

 

「ロック」

 

「はい」

 

「お前たちは旧礼拝堂へ行け」

 

 レヴィが叫ぶ。

 

「病院の次は礼拝堂かよ! 趣味悪すぎだろ!」

 

 ワイリが楽しそうに言う。

 

「次は学校かな」

 

 マオが本気で嫌そうにする。

 

「やめろ」

 

 ココはロックを見た。

 

「私も行く」

 

 バラライカは振り返る。

 

「来るなら、商人として来るな」

 

 ココは静かに答えた。

 

「わかってる」

 

「欲しがるな」

 

「努力する」

 

 バラライカの目が冷える。

 

 ココは言い直した。

 

「忘れないようにする」

 

 ロックはそれを聞いて、少しだけ安堵した。完全ではない。だが、少なくとも彼女は自分の危うさを知っている。

 

 旧病院跡の外へ出ると、夜風が湿っていた。

 

 遠くで、港の汽笛が鳴る。

 

 それはただの船の音だったはずなのに、ロックには何かの合図のように聞こえた。

 

 赤い合唱団は、すでに彼らを見ている。

 

 そして次の楽譜は、旧礼拝堂にある。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。