Guns & Garlands — 銃と花輪 作:たこ焼き 龍月
ロアナプラの旧病院跡は、港の外れにあった。病院と呼ぶには、あまりに小さく、あまりに古く、あまりに暗い建物だった。かつては港湾労働者や船員を診ていたらしい。壁には色褪せた案内板が残り、診察室だった部屋には錆びたベッドの骨組みが置かれている。だが、もう誰もここで人を治さない。ロアナプラでは、使われなくなった病院は治療ではなく、隠蔽に使われる。逃げ込む者、匿う者、取引する者、消える者。病院という名前だけが残った建物は、街の底で別の役目を与えられていた。
夕暮れの赤い光が、割れた窓から差し込んでいた。
その赤さが、建物の中に入る前から嫌な予感を強くした。
ラグーン商会の車が先に止まり、続いてホテル・モスクワの車列が静かに入ってくる。少し遅れて、HCLIの車両も路地の奥へ滑り込んだ。ロアナプラでは珍しくない光景だ。珍しくないが、まともではない。ラグーン商会、ホテル・モスクワ、HCLIが同じ廃病院の前に集まっている時点で、普通の人間なら近づかない。もっとも、この街に普通の人間がどれだけ残っているかは疑わしい。
レヴィは建物を見上げて、露骨に顔をしかめた。
「病院跡かよ。地下の次は廃病院。順番として最悪だな」
ベニーは端末を抱えながら言う。
「文句を言っても、信号はここから出てる」
「信号に文句言えよ」
「返事が来たら怖いよ」
ロックは病院跡の入り口を見た。入口の上には、古い看板の跡がある。文字はほとんど読めない。ただ、建物全体にまとわりつく気配だけはわかる。誰かが使っている。完全な廃墟ではない。窓の割れ方、扉の開き方、床の埃の乱れ。そういう細かいものが、人の出入りを示していた。
ダッチは煙草をくわえず、静かに周囲を見ていた。
「出入りは最近だな」
ボリスが頷く。
「裏口にも足跡があります。正面は見せるためでしょう」
レームが低く言った。
「中で待っているか、もう逃げたか」
ワイリは建物を見て楽しそうにしている。
「こういう場所って、音がよく反響するんだよね」
ベニーが即座に距離を取った。
「何もしないでください」
「まだ何も言ってないのに」
「言う前から止めています」
マオが呆れたように言う。
「お前、信用されてないな」
「信用って、難しいよねえ」
バルメはココのすぐ横に立っていた。視線は建物とホテル・モスクワの兵たちを交互に見ている。彼女にとって、ホテル・モスクワは味方ではない。一時的に同じ方向を向いているだけだ。その警戒は、ボリスも当然のように理解していた。
バラライカは病院跡の前に立った。赤い夕暮れの中で、彼女の横顔は石のように硬い。
「ボリス」
「はい」
「外周を押さえろ。出入り口を三つ確認。逃がすな。ただし、撃つ前に確認しろ」
「了解しました」
レヴィが小声で言った。
「撃つ前に確認、か。ホテル・モスクワにしちゃ穏やかだな」
ロックが答える。
「サフロノフを生かして確保したいんでしょう」
「生きてるといいな」
その声には軽口の形をした現実感があった。
サフロノフ。旧軍の通信記録係。赤い合唱という言葉を残した男。死んだ国の命令を知る男。彼がここにいるのか、それともここにいた痕跡だけが残っているのかは、まだわからない。だが、赤い合唱の信号はこの建物から出ている。ベニーの端末にも、HCLI側の機材にも、短い反応が断続的に現れていた。
ココは建物を見ながら言った。
「ここは、よく選ばれている」
ロックが聞く。
「どういう意味ですか」
「病院は、人が命令に従いやすい場所だから」
ロックは眉をひそめた。
「病院で?」
「医者の言葉、看護師の指示、緊急時の誘導、助けてくれると信じる声。人は病院で、自分の判断を誰かに預けることがある。軍隊ほど強くはないけれど、命令に似た声がある」
ロックは黙った。
レヴィが嫌そうに言う。
「いちいち気持ち悪い見方すんなよ」
ココは少しだけ目を伏せた。
「庭師は、たぶんもっと気持ち悪い見方をしている」
バラライカが振り返る。
「商人の分析か」
「敵の分析よ」
「違いは」
「今は、同じにしない」
「今は、か」
その一言で、また空気が硬くなる。
ロックはすぐに口を挟んだ。
「まず中を確認しましょう。サフロノフがいるなら、話を聞く必要があります」
バラライカはロックを見た。
「聞く前に、敵が口を塞ごうとする」
「だから急ぎます」
「急ぐ時ほど、足元を見る」
バラライカは入口へ視線を戻した。
「入るぞ」
*
旧病院跡の内部は、外から見るよりもさらに荒れていた。受付だった場所には割れたガラスが散り、壁には古い掲示物が剥がれかけている。床のタイルは湿気で浮き、歩くたびに小さく音を立てた。診察室の扉は半分外れ、薬品棚は空になっている。だが、完全に放棄された場所ではなかった。廊下の奥に、新しい足跡がある。使い捨てのカップ、最近吸われた煙草の吸い殻、そして壁際に伸びた細いケーブル。
ベニーはケーブルを見て足を止めた。
「これ、新しい」
ワイリが覗き込む。
「古い建物に新しい線。庭仕事だねえ」
「その表現、もう嫌いです」
ベニーは端末を操作した。
「この線、建物の地下へ伸びてる。でも、途中で分岐してる。たぶん、上の階にも何かある」
ボリスはすぐに指示を出した。
「二手に分かれる。大尉は地下へ。私は上階を確認します」
バラライカは短く頷いた。
「ロック、ベニー、ココ・ヘクマティアルは私と来い」
バルメが即座に一歩前へ出る。
「ココの護衛は私です」
「好きにしろ」
レヴィが笑った。
「俺は?」
バラライカは一瞥する。
「好きに暴れるな」
「注文が雑だな」
ダッチが言う。
「俺とレヴィはボリス側へ行く。上を押さえる」
レームが頷く。
「俺も上へ行こう」
マオも続く。
「じゃあ俺も上だ。地下はワイリに任せた」
ワイリが嬉しそうに手を上げる。
「任された」
ベニーが顔をしかめる。
「地下にワイリが来るんですか」
「大丈夫だよ、ベニー。今日は何もしない」
「今日は、って言いましたね」
「昨日も何もしてないじゃない」
「昨日の“何もしてない”が一番怖かったです」
ロックは軽く息を吐いた。こんな場所でも、軽口があるだけまだ救いがある。だが、それが長く続くとは思えなかった。
上階へ向かう組と、地下へ向かう組に分かれる。
ロックは地下への階段を見下ろした。そこには、かすかな明かりがあった。誰かが、最近照明を仮設したのだろう。病院跡の地下。赤い合唱の信号。サフロノフの可能性。どれもが、足を進めるたびに悪い方向へ繋がっていくように思えた。
*
上階へ向かったボリスたちは、二階の廊下で最初の痕跡を見つけた。
そこはかつて入院室だったらしい。扉の番号が残っている。中には壊れたベッドがいくつか並び、窓には板が打ち付けられている。だが、一部屋だけ扉が新しい。鍵も新しい。ロアナプラの廃墟では、新しさはいつも古さより怪しい。
レヴィが扉を見た。
「蹴るか」
ボリスが即答する。
「静かに開ける」
「全員それ言うな」
ダッチが扉の周囲を見る。
「内側に人の気配は薄い。だが、使っていた跡はある」
レームが短く言う。
「開けよう」
ボリスが兵に合図する。扉は慎重に開かれた。
中は、簡易の寝室だった。
古いベッドの上に毛布がある。机の上には缶詰、空の水瓶、薬の包み、古いノート。壁には地図が貼られていた。ロアナプラ港の地図。ホテル・モスクワの拠点位置らしき印。第七倉庫区画、旧水路倉庫、旧病院跡、地下中継室。線が引かれている。誰かがここで、逃げながら、あるいは隠れながら、赤い合唱の動きを追っていた。
ボリスは机の上のノートを開いた。
手書きの文字。ロシア語。筆跡は震えている。
彼は数ページを読み、顔を硬くした。
ダッチが聞く。
「サフロノフか」
「おそらく」
「何と」
ボリスはゆっくり読み上げた。
「“私は売った。だが、売ったものが何に使われるかを知らなかった。いや、知らないふりをした。符丁は古い紙だと思った。だが、彼らは紙ではなく、声を欲しがっていた”」
レヴィが眉をひそめる。
「声?」
ボリスは続ける。
「“命令が届いた時、人はまず誰の声かを聞く。次に、なぜ自分がそれを信じたいのかを探す。赤い合唱は、そこを聞いている”」
部屋が沈黙した。
ダッチは地図を見る。
「この男は、途中で気づいたんだな」
「はい」
ボリスはノートを閉じず、次のページを確認する。
そこには、短い名前がいくつか書かれていた。
オルフェウス・リンク。
ミスター・グレイ。
合唱長。
そして、別の言葉。
合唱団員
レームが低く言った。
「合唱長だけではない、ということか」
ボリスは頷いた。
「赤い合唱は、単独の敵ではないようです」
レヴィが吐き捨てる。
「また増えんのかよ」
ダッチは机の上に置かれた古い録音機を見つけた。小型のものだ。最近使われた形跡がある。
「これは」
ボリスが確認する。
「録音機です」
ダッチはボリスを見る。
「サフロノフは録られたのか」
ボリスの表情が硬くなる。
「あるいは、自分で録った」
その時、廊下の奥で物音がした。
全員が一斉に動く。
レヴィが銃を構え、ボリスの兵が廊下へ出る。だが、そこには誰もいなかった。ただ、古い車椅子が廊下の端で揺れている。風ではない。誰かが動かした。
レヴィが低く笑った。
「幽霊なら撃てねえな」
ダッチは答えた。
「人間の方が厄介だ」
通信にベニーの声が入った。
『地下で強い反応。そっちは?』
ボリスが答える。
「サフロノフの部屋らしきものを発見。本人は不在。記録あり」
『こっちは地下に仮設装置があります。あと……音がする』
ロックの声が続く。
『人の声です』
ボリスは即座に言った。
「大尉へ繋げ」
*
地下は、病院の機械室だった。
昔は発電機や給水設備が置かれていたのだろう。今はその大半が死んでいる。だが、部屋の中央には新しい機材が置かれていた。旧中継室で見つけたものより小型だが、配置は似ている。古い線と新しい端末が繋がれ、小型スピーカーがいくつも壁際に置かれている。まるで、本当に合唱団でも並べるための場所のようだった。
その中央に、椅子が一つ置かれていた。
椅子には、誰も座っていない。
だが、スピーカーから声が流れていた。
老人の声だった。
震えた、かすれた声。
『私は、ヴィクトル・サフロノフ。旧通信記録係。これを聞いている者がホテル・モスクワなら、私はまだ殺されていないか、もう殺されている』
ロックは息を呑んだ。
バラライカは動かなかった。
ココはスピーカーを見つめている。
ベニーは端末で録音の状態を確認しながら言った。
「録音です。でも、再生タイミングは外部から制御されてるかもしれません」
ワイリが周囲を見る。
「いやな劇場だね」
サフロノフの声は続く。
『私は符丁を売った。紙を売っただけだと思った。いや、そう思いたかった。彼らは言った。古い軍事資料を集めているだけだと。歴史のためだと。私は信じなかった。だが、金が必要だった。逃げるために。生きるために』
バラライカの目が冷たくなる。
声は震えていた。
『だが、彼らが欲しかったのは符丁ではない。符丁を聞いた時の人間の反応だった。命令を信じる癖。疑う癖。従うまでの時間。報告する相手。声の重さ。沈黙の長さ。彼らは、それを楽譜と呼んだ』
ココが小さく言った。
「楽譜」
ロックは彼女を見る。
ベニーの画面に、別の文字列が流れる。
CHOIR NODE / HOSPITAL SITE / PLAYBACK ACTIVE
「再生だけじゃない」
ベニーが言った。
「今この録音を聞いている僕らの反応も、取ろうとしてる」
バルメが即座にココの前に出る。
「切るべきです」
バラライカは言った。
「まだだ」
バルメが彼女を見る。
「敵の観測に付き合う気ですか」
「敵の声を聞かずに敵の喉は切れん」
ココが静かに言う。
「これは喉じゃない。口でもない。耳よ」
バラライカはココを見た。
「なら、耳を潰す」
「その前に、何を聞いているか知る必要がある」
「商人の目をするなと言ったはずだ」
ココは黙った。
ロックは二人の間に一歩入った。
「今は録音を最後まで」
レヴィなら、また命知らずだと言っただろう。だがここにはレヴィはいない。地下には、冷たい視線だけがあった。
サフロノフの録音は続いている。
『合唱長は一人ではない。赤い合唱団がいる。声を集める者、古い記録を掘る者、反応を見る者、商人から部品を買う者、灰色の男から地図を買う者。私はその一部を見た。彼らは世界中の命令を集めている。軍隊だけではない。船、病院、教会、学校、会社、家族。人が従う声を、すべて』
ロックは、胃の奥が冷えるのを感じた。
花輪が通信を束ねるなら、赤い合唱は人間の従う理由を集めている。
これは軍隊だけの話ではない。
サフロノフは咳き込み、声を落とした。
『ホテル・モスクワへ。大尉へ。私は謝らない。謝って許されるものではない。だが、伝える。彼らはあなたの声を欲しがっている。兵があなたの声で動く理由を欲しがっている。あなたが沈黙した時、兵がなぜ待つのかを欲しがっている』
バラライカの顔は動かない。
だが、ボリスが地下へ降りてきた時、その空気の重さをすぐに察した。
彼は入口で止まり、録音を聞いた。
『赤い合唱は、まだ始まっていない。これは練習だ。彼らは本番を別の場所でやる。もっと大きな声が集まる場所で』
録音はそこで一度途切れた。
ノイズ。
そして、別の声が入った。
若い声でも、老人の声でもない。合唱長の加工された声だった。
『よい証言だ、サフロノフ。だが、足りない』
バラライカが低く言った。
「また貴様か」
声は返事をするように続いた。
『大尉。あなたの沈黙は美しい。ボリスの抑制も美しい。若い兵の迷いも、レヴィの拒絶も、ロックの介入も、ココ・ヘクマティアルの欲望も、すべてよく響く』
ココの目が鋭くなる。
ロックは背筋に寒気を覚えた。
こちらの反応を見ている。
どこからか。
今も。
ベニーが端末を見る。
「外部通信、短い。すぐ切れる。追いにくい」
ワイリが壁の線を見る。
「逃げ足が早いねえ」
合唱長の声が続く。
『赤い合唱団へようこそ。あなた方は聞き手ではない。すでに歌っている』
その瞬間、ホテル・モスクワの兵たちの端末が一斉に鳴った。
ボリスが即座に命じる。
「全員、見るな。報告だけしろ」
兵たちは端末を手に取るが、動かない。
若い兵の一人が声を震わせる。
「命令文、表示。内容……大尉を守るため、HCLI指揮官を拘束せよ」
バルメの手が動く。
ホテル・モスクワの兵も、わずかに緊張する。
レームが通信越しに低く言った。
『上階も同じ命令を受信』
レヴィの声が割り込む。
『ふざけんな。誰が誰を拘束だって?』
ボリスが静かに言う。
「命令には従うな。記録しろ」
バラライカが続けた。
「私の命令だ。誰も動くな」
その一言で、ホテル・モスクワの兵たちの動揺が止まった。
バルメはまだ構えている。
ココは動かない。
ロックは、息を止めていたことに気づいた。
合唱長の声が、楽しそうに歪む。
『よい。不信。抑制。保護。介入。すべて記録した』
バラライカは静かに言った。
「ベニー」
「はい」
「切れるか」
「ワイリと一緒なら、たぶん」
ワイリが笑う。
「やろうか」
バラライカは短く命じた。
「やれ」
ベニーとワイリが装置へ向かう。細かい手順は口にしない。ただ、二人の動きは早かった。ベニーは端末を操作し、ワイリは線の流れを見ながら、必要な箇所を切り離していく。装置の光が揺れ、スピーカーのノイズが乱れる。
合唱長の声が最後に言った。
『本番でまた会おう、大尉。あなたの声は、よく響く』
音が切れた。
地下機械室に沈黙が戻った。
だが、その沈黙はもう安全ではなかった。
*
上階では、レヴィたちが短い衝突に入っていた。
合唱長の通信が切れる直前、外部から数人の男たちが裏口側へ入ってきた。灰色の作業服、港湾業者のふりをした動き。だが、足運びが違う。逃げるためではなく、回収するために来た者たちだった。
レヴィは廊下の角で彼らを見つけた瞬間、にやりと笑った。
「やっと人間が出たか」
ダッチが低く言う。
「殺すな。話を聞く」
「努力する」
「努力では足りん」
「お前まで大尉みたいなこと言うな」
男たちは奥の部屋へ向かっていた。おそらくサフロノフのノートや録音機を回収するつもりだったのだろう。レームが先に動き、退路を塞ぐ。マオが横から圧をかけ、ホテル・モスクワの兵が背後を押さえる。レヴィは正面から出た。
「はい、終了。病院の面会時間は終わりだ」
男の一人が逃げようとする。
レヴィがその足元を撃つような動作を見せたが、ダッチの視線を受けて舌打ちし、代わりに壁を蹴った。男は驚いて足を止める。レームがその腕を押さえた。
「殺すなって言われたからな。感謝しろ」
男は何も言わない。
ダッチが近づく。
「誰に頼まれた」
男は黙る。
レヴィが顔を近づける。
「黙るのは自由だ。でもこっちは退屈してんだよ」
男の喉が動いた。
その時、ボリスが地下から戻ってきた。
彼は男たちを見て、表情を変えずに言った。
「連れて行く」
レヴィが肩をすくめる。
「そっちの方が怖そうだな」
ダッチは男たちの荷物を確認した。小型端末、回収用の袋、古い鍵束、そして紙片が一枚。そこには短く、こう書かれていた。
楽譜を回収。証人は不要。
ダッチは紙をボリスへ渡した。
「サフロノフはまだどこかにいるかもしれん」
ボリスは紙を見た。
「生かしておく必要がなくなった、ということです」
「急ぐか」
「はい」
レヴィが銃をしまいながら言った。
「結局、撃たねえ方が面倒じゃねえか」
ダッチは答えた。
「生きてる相手の方が喋る」
「喋るまでが長えんだよ」
「それが仕事だ」
*
地下から上がったココは、いつもより静かだった。
ロックはそれに気づいていた。バルメも気づいている。ココは赤い合唱を知りたがっている。だが、今回聞いたものは、知識というより悪寒に近かった。人間が命令を信じる仕組み。沈黙の長さ。迷いの時間。守ろうとする反射。疑う癖。介入する言葉。それらがすべて記録され、花輪の根へ送られる。
それは武器よりも、もっと嫌なものだった。
廊下で、バラライカがココへ言った。
「欲しいか」
ココは少しだけ目を伏せた。
「知りたい」
「同じだ」
「違うと言いたいけれど、今は言えない」
バラライカは冷たく見た。
「正直だな」
「嘘をつくと、あなたは撃つでしょう」
「正直でも撃つ時は撃つ」
バルメが前に出る。
ココが手で制した。
「バルメ」
「しかし」
「大丈夫」
バラライカはそのやり取りを見ていた。
「お前の犬は、よく躾けられている」
バルメの目が怒りで鋭くなる。
ココは静かに言った。
「私の大切な人よ」
バラライカは一瞬だけ黙った。
ロックはその沈黙を見逃さなかった。
バラライカは言葉を変えた。
「なら、大切な者を楽器にされる気持ちはわかるな」
ココは答えなかった。
その沈黙は、肯定に近かった。
ロックは間に立った。
「合唱長は、全員の反応を見ています。ここで対立すれば、それも向こうの記録になります」
バラライカはロックを見る。
「お前はいつも、撃つ前に言葉を置く」
「それが仕事になりつつあります」
「便利な仕事だ」
「便利と言わないでください」
ココが少しだけ笑った。
その笑いは、すぐに消えた。
*
旧病院跡の捜索は、夜まで続いた。
サフロノフ本人は見つからなかった。だが、彼がここにいた証拠は多く残っていた。震えた筆跡のノート。録音機。使いかけの薬。古い符丁表の断片。オルフェウス・リンクとの接触記録。ミスター・グレイの殻会社を経由した送金痕跡。そして、赤い合唱団という言葉。
ベニーとワイリは、機械室の装置から最低限の情報を取り出した。そこには、複数の観測対象が記録されていた。
HOTEL MOSCOW / COMMAND RESPONSE
HCLI / PROTECTION RESPONSE
LAGOON COMPANY / INTERVENTION RESPONSE
CASPER HEKMATYAR / TRADE RESPONSE
ROANAPUR PORT / AUTHORITY RESPONSE
ベニーはそれを見て、顔色を悪くした。
「これ、もうホテル・モスクワだけじゃない」
ロックは画面を見た。
「俺たちも対象になっている」
「うん。ココたちも、キャスパーも、張の港も。誰がどの声で動くかを見てる」
ワイリが軽く言った。
「赤い合唱団、団員募集中って感じだね」
マオが嫌そうに言う。
「冗談でもやめろ」
レームは険しい顔で言った。
「これは戦場より厄介だ。敵がどこにいるかではなく、こちらがどう動くかを見られている」
ダッチは頷いた。
「鏡を向けられているようなものだな」
ボリスが言う。
「割るべき鏡です」
バラライカは短く答えた。
「割る。だが、まず鏡を持つ手を探す」
レヴィは退屈そうに見せながらも、画面から目を離さなかった。
「で、その手はサフロなんとかか?」
ボリスは首を振る。
「サフロノフは手ではない。声を売った男だ。今は、おそらく逃げている」
ロックが言う。
「もしくは、追われている」
ココは静かに言った。
「合唱長はサフロノフをもう必要としていないかもしれない。でも、私たちには必要」
バラライカが彼女を見る。
「なぜ」
「彼は、赤い合唱がどう始まったかを知っている。符丁を売っただけではない。どこで、誰に、何を話したか。合唱長が何を聞きたがったか」
「つまり、まだ歌わせる価値がある」
ココはバラライカの言い方にわずかに顔をしかめた。
「話を聞く価値がある、という意味よ」
「同じだ」
ロックは二人の間に入る前に、深く息を吐いた。
「サフロノフを探しましょう。生きているなら、保護する。ホテル・モスクワが直接動くと相手が逃げるなら、ラグーン商会が先に動きます」
レヴィが即座に言った。
「また俺らかよ」
ダッチは言う。
「そうなるな」
ベニーが端末を見ながら言った。
「サフロノフが残したノートに、次の候補地があります。港の旧礼拝堂。今はほとんど使われていないけど、ロシア系や東欧系の船員が昔よく出入りしていた場所らしいです」
ボリスが顔を上げる。
「旧礼拝堂」
バラライカの目が細くなる。
「祈りの声か」
ココも同じ言葉を呟いた。
「祈りの声」
ロックはヨナの通信を思い出した。
庭師は、次に祈りの声を探す。
その言葉が、今になって意味を持ち始めていた。
赤い合唱は軍隊の声だけでは終わらない。
命令の次は、祈り。
人が従う声。信じる声。救われると思う声。
庭師は、それらを順番に集めている。
ロアナプラの夜が、また深くなる。
バラライカは旧病院跡の出口へ向かった。
「ボリス」
「はい」
「サフロノフを探せ。生きていれば連れてこい。死んでいれば、誰が殺したかを探せ」
「了解しました」
「ロック」
「はい」
「お前たちは旧礼拝堂へ行け」
レヴィが叫ぶ。
「病院の次は礼拝堂かよ! 趣味悪すぎだろ!」
ワイリが楽しそうに言う。
「次は学校かな」
マオが本気で嫌そうにする。
「やめろ」
ココはロックを見た。
「私も行く」
バラライカは振り返る。
「来るなら、商人として来るな」
ココは静かに答えた。
「わかってる」
「欲しがるな」
「努力する」
バラライカの目が冷える。
ココは言い直した。
「忘れないようにする」
ロックはそれを聞いて、少しだけ安堵した。完全ではない。だが、少なくとも彼女は自分の危うさを知っている。
旧病院跡の外へ出ると、夜風が湿っていた。
遠くで、港の汽笛が鳴る。
それはただの船の音だったはずなのに、ロックには何かの合図のように聞こえた。
赤い合唱団は、すでに彼らを見ている。
そして次の楽譜は、旧礼拝堂にある。