Guns & Garlands — 銃と花輪   作:たこ焼き 龍月

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第五章 ホテル・モスクワの庭

 

 祈りの場所は、ロアナプラではたいてい商売の場所にもなる。神に祈る者もいれば、金に祈る者もいる。救いを求める者もいれば、逃げ道を求める者もいる。古い礼拝堂は、そういう声を長く聞きすぎていた。白かったはずの壁は潮と煙でくすみ、ステンドグラスの一部は割れ、祭壇の十字架は傾いている。それでも建物は残っていた。使われなくなった病院が隠蔽の場所になるように、使われなくなった礼拝堂は、告白と取引の場所になる。誰かが罪を置いていき、別の誰かがそれを拾って売る。ロアナプラでは、祈りでさえ無傷ではいられない。

 

 旧礼拝堂は港から少し離れた丘の下にあった。かつては船員たちが出航前に立ち寄ったという。無事を祈る者、帰れない予感を誤魔化す者、ただ雨宿りをする者。ロシア系や東欧系の船員も出入りしていたらしい。スヴェトラーナの店と同じように、ここにも古い言葉が沈んでいる。サフロノフが残したノートに、その場所の名があった。

 

 ラグーン商会の車が礼拝堂の前に止まると、レヴィは露骨に嫌そうな顔をした。

 

「病院の次は礼拝堂かよ。次は墓場か? 順番が縁起悪すぎんだろ」

 

 ダッチは車を降りながら言った。

 

「この街じゃ、墓場の方がまだ正直かもしれん」

 

「やめろよ。ほんとに行く羽目になるぞ」

 

 ベニーは端末を抱え、礼拝堂の周辺を見ている。

 

「信号は弱いけど、ここから出てる。旧病院跡のものより細い。たぶん、常時通信じゃない。誰かが必要な時だけ起こしてる」

 

 ロックは礼拝堂を見上げた。

 

「ここでサフロノフが隠れていた可能性は?」

 

「ある。少なくとも、ここを経由した痕跡はある。あと、古い通信線が丘の下の港湾設備と繋がってる」

 

 レヴィが呆れる。

 

「何でも繋がってんな、この街」

 

 ベニーは苦い顔で答えた。

 

「繋がってるものを切らずに放置してきた街だからね」

 

 少し遅れて、ホテル・モスクワの車が到着した。バラライカ、ボリス、数名の兵。若い兵たちもいる。その中にはイリヤの姿もあった。旧病院跡で偽命令を受け、迷いを記録した兵。彼は相変わらず緊張していたが、目は逃げていなかった。

 

 さらに、HCLIの車両も坂の下に止まる。ココ、バルメ、レーム、マオ、ワイリ。前回と同じ顔ぶれだが、空気は少し変わっている。旧病院跡で「赤い合唱団」の存在を知った後、誰もこの件を単なる通信事件とは見ていない。

 

 ココは礼拝堂を見て、小さく言った。

 

「祈りの声」

 

 ロックが横に立つ。

 

「ヨナが言っていた言葉ですね」

 

「ええ。庭師は次に祈りの声を探す」

 

「ここが、その入口ですか」

 

「入口か、観測点か、囮」

 

 ココはいつものように軽く笑おうとしたが、うまく笑えなかった。

 

「どれでも嫌ね」

 

 バラライカが近づいてきた。

 

「ココ・ヘクマティアル」

 

「大尉」

 

「ここでは商人の目をするな」

 

「何度も言うのね」

 

「何度でも言う。お前は忘れそうな顔をしている」

 

 バルメが一歩前に出るが、ココが手で制した。

 

「忘れないわ」

 

「ならよい」

 

 バラライカは礼拝堂へ視線を戻した。

 

「祈りだろうが、命令だろうが、声を盗む者は同じだ」

 

 ロックはその言葉に、少しだけ胸が重くなった。命令。祈り。忠誠。恐怖。信頼。庭師は、それらを別々のものとして扱っていない。人が誰かの声に従う瞬間を、すべて同じように見ている。軍隊も、教会も、会社も、家族も、港の取引も。声があり、それを本物と信じる者がいるなら、それは赤い合唱の楽譜になる。

 

 ボリスが礼拝堂の扉を確認した。

 

「最近、開けられています」

 

 ダッチが頷く。

 

「見せるためか」

 

「可能性はあります」

 

 ワイリが壁を見ながら言った。

 

「こういう古い建物は、音が残るんだよね」

 

 レヴィが顔をしかめる。

 

「またそれかよ」

 

「音って、物理的なものだけじゃないよ。人が何度も同じ場所で同じ言葉を言うと、建物の使われ方が決まる。祈る場所は祈るために使われ続ける。命令する場所は命令するために使われ続ける」

 

 ベニーが嫌そうに言う。

 

「ワイリがまともなこと言うと、逆に怖い」

 

「ひどいなあ」

 

 バラライカは短く命じた。

 

「入る。外周を押さえろ。逃げ道を見る。だが、撃つ前に確認しろ」

 

 レヴィがぼそりと言う。

 

「最近の大尉、確認好きだな」

 

 ダッチが低く返す。

 

「敵が反応を見ているからだ」

 

 その言葉で、レヴィは黙った。

 

     *

 

 礼拝堂の中は、外よりも暗かった。窓の割れた部分から細い光が差し込み、床に赤や青の欠けた模様を落としている。長椅子は一部が壊れ、奥の祭壇には埃が積もっていた。だが、中央の通路だけは埃が薄い。誰かが何度か通っている。祭壇の裏には細い扉があり、その周囲には新しい靴跡があった。

 

 ベニーが端末を見る。

 

「信号は祭壇の奥。地下か、壁の裏か」

 

 ボリスが兵に合図する。

 

「祭壇奥を確認」

 

 イリヤを含む二人の兵が慎重に動く。バラライカは彼らを止めない。ただ見ている。その視線は冷静だ。だが、ロックはその冷静さが、敵を誘うためのものでもあると感じていた。

 

 礼拝堂の中で、最初の偽命令が届いた。

 

 ホテル・モスクワの兵たちの端末が、短く鳴る。

 

 全員が一瞬だけ固まった。

 

 ボリスが静かに言う。

 

「報告」

 

 イリヤが端末を見た。

 

「命令文、受信。内容、礼拝堂内部にいるHCLI指揮官を監視。必要なら拘束。符丁あり」

 

 バルメの視線が鋭くなる。

 

 レヴィが小さく笑う。

 

「またココ狙いか。人気者だな」

 

 ココは軽く肩をすくめた。

 

「嬉しくない人気ね」

 

 ボリスが兵たちに言う。

 

「命令には従うな。時刻、内容、自分の反応を記録しろ」

 

「了解」

 

 イリヤは少し遅れて答えた。

 

 バラライカがその遅れを見逃すはずがなかった。

 

「イリヤ」

 

「はい」

 

「迷ったか」

 

「……はい」

 

「何に迷った」

 

「HCLIを警戒すべきだとは思いました。しかし、拘束命令は偽物だと判断しました」

 

「よろしい」

 

 イリヤは目を上げた。

 

 バラライカは続けた。

 

「警戒はしろ。拘束はするな。私の命令だ」

 

「了解」

 

 ロックはそのやり取りを見ていた。敵は今も見ている。ホテル・モスクワの兵が、偽命令を受けてどう揺れるか。バラライカがどう修正するか。部下がどの言葉で落ち着くか。それを全部、どこかで聞いている。

 

 ココもそれを見ていた。

 

 ロックは小声で言う。

 

「ココ」

 

「見てるだけ」

 

「それが問題です」

 

「わかってる」

 

「今の兵の反応も、欲しくなっていますか」

 

 ココはすぐには答えなかった。

 

 その沈黙が答えだった。

 

「知りたいとは思う」

 

「それが危ない」

 

「ええ」

 

 バラライカが二人の会話を聞いていたのか、祭壇奥へ向かったまま言った。

 

「欲しがる者は、盗む者と同じ場所に立つ」

 

 ココは返した。

 

「壊す者も、知らなければまた同じ場所に立つ」

 

 空気が硬くなる。

 

 ロックが言う。

 

「今は祭壇奥です」

 

 レヴィが呆れたように呟く。

 

「ほんと、毎回よく真ん中に立つな」

 

 ダッチは静かに答えた。

 

「それがこいつの仕事だ」

 

     *

 

 祭壇奥の扉を開けると、下へ続く狭い階段があった。

 

 古い石段だ。礼拝堂が建てられた当時からあるものかもしれない。地下納骨堂だったのか、保管庫だったのかはわからない。だが、今そこへ新しいケーブルが伸びていた。細い線が壁際を這い、地下へ消えている。

 

 レヴィが顔をしかめる。

 

「うわ、ほんとに墓場ルートじゃねえか」

 

 ベニーが端末を見ながら言う。

 

「信号は下です。旧病院跡のものと同じ系統。でも、ここは少し違う」

 

「どう違う」

 

 ロックが聞く。

 

「反応が柔らかい」

 

 レヴィが眉をひそめる。

 

「通信に柔らかいとかあんのかよ」

 

「ある。旧病院跡や中継室は命令の反応を取る感じだった。ここは……もっと長い音を聞いてる感じがする」

 

 ワイリが言った。

 

「祈りだからね。命令より長い」

 

 マオが真顔で嫌がる。

 

「やめろ。洒落になってない」

 

 バラライカが短く言う。

 

「進む」

 

 地下へ降りる組は、バラライカ、ボリス、イリヤを含むホテル・モスクワの兵二名、ロック、ベニー、レヴィ、ココ、バルメ、ワイリ。ダッチ、レーム、マオは上階と外周を押さえることになった。

 

 石段を下りるたび、空気が湿っていく。地下には古い木の匂いと、金属の匂いが混ざっていた。壁にはかつて宗教的な装飾があったらしい跡が残っているが、その上から後年の配管や線が通されている。祈りの場所の上に、港の実用が重なり、そのさらに上に庭師の線が這っている。

 

 ベニーは端末を見て、小さく息を吐いた。

 

「ここ、通信設備としてはほとんど死んでる。でも、音声の記録装置がある」

 

「録音?」

 

「たぶん。礼拝堂で昔使われていた拡声設備か、後から誰かがつけたものか。それを改造してる」

 

 地下室に入ると、その言葉の意味がわかった。

 

 そこには、古い木箱や壊れた椅子が積まれていた。壁際には、古いスピーカーと配線盤。中央には新しい小型端末。旧病院跡で見た装置よりも小さい。しかし、周囲には紙が貼られていた。古い祈祷文、船員たちの名前、出航記録、ロシア語、英語、タイ語、中国語、日本語まじりの短い願い。誰かが昔ここに残したものを、庭師が集め直したようだった。

 

 ロックは壁の紙を見た。

 

 無事に帰れますように。

 息子が港で死にませんように。

 神よ、彼を許してください。

 次の船だけは沈まないでくれ。

 

 古い祈りだった。

 

 誰かの弱さだった。

 

 ココはそれを見て、顔を歪めた。

 

「悪趣味ね」

 

 レヴィが言う。

 

「お前が言うと、まだマシに聞こえるな」

 

 バラライカは壁の紙を見て、静かに言った。

 

「命令の次は祈りか」

 

 その時、装置が起動した。

 

 スピーカーからノイズが流れ、続いて複数の声が重なった。古い録音。雑音混じりの祈り。男の声、女の声、若い声、年老いた声。言語もばらばらで、内容も断片的だ。だが、どれも何かを求めている声だった。

 

『無事に……』

『帰してくれ……』

『許してください……』

『命令じゃない、お願いだ……』

『神よ……』

 

 レヴィが舌打ちする。

 

「胸糞悪い」

 

 バルメも表情を硬くしている。

 

 ベニーの端末に文字が出る。

 

 PRAYER RESPONSE / PASSIVE OBEDIENCE FIELD

 

「嫌な単語が出ました」

 

 ベニーが言った。

 

 ロックが聞く。

 

「どういう意味ですか」

 

「直訳するなら、祈りに対する反応、受動的服従領域。たぶん、人が命令ではなく願いや祈りで動く時の反応を取ろうとしてる」

 

 ココが低く言った。

 

「命令は上から降りる声。祈りは下から差し出す声」

 

 ワイリが続ける。

 

「でも、どちらも人を動かす。命令で動く人もいれば、救われたいから動く人もいる」

 

 バラライカが冷たく言った。

 

「庭師は、それを同じ棚に並べている」

 

 スピーカーの声が変わった。

 

 今度は合唱長の加工声だった。

 

『大尉。軍隊の声は美しかった。次は祈りの声だ。兵は命令で動く。だが、祈る者は何で動く? 恐怖か。希望か。赦しか。帰還か。あなたの兵も、昔は祈っただろう』

 

 ボリスの手がわずかに強く握られる。

 

 バラライカは表情を変えない。

 

「くだらん」

 

『くだらないものほど、人は従う。大義、祖国、神、家族、金、愛、恐怖。名前が違うだけで、声は同じだ』

 

「同じではない」

 

『では、違いを教えてくれ。大尉』

 

 合唱長の声は、挑発ではなく観測だった。怒らせるためだけではない。怒った時にどう反応するかを見るための声。ロックはそれを感じた。

 

 ベニーが小声で言う。

 

「反応が取られてます。心拍とかじゃない。通信の遅れ、端末の操作、誰が誰を見たか、声のタイミング。そういう外側の動きから読んでる」

 

 ロックは低く言った。

 

「全員、反応を抑えて」

 

 レヴィが小声で返す。

 

「そんなの無理だろ」

 

「無理でも意識してください」

 

 ココは装置を見つめていた。

 

 バラライカが彼女を見る。

 

「欲しいか」

 

 ココは静かに答えた。

 

「知りたい」

 

「同じだ」

 

「でも、今は触らない」

 

「触れば撃つ」

 

「わかってる」

 

 合唱長の声が笑うように歪んだ。

 

『対立。抑制。保護。介入。よく響く』

 

 ロックは舌を噛みそうになった。

 

 こちらのやり取りすら、向こうにとっては音楽なのだ。

 

 その時、地上のダッチから通信が入った。

 

『上にも動きが出た。外周に三人。回収係だ』

 

 レームの声も続く。

 

『無力化は可能。ただし、生け捕りにする』

 

 レヴィが笑う。

 

「やっぱ来たか」

 

 バラライカは短く命じた。

 

「ボリス、上へ」

 

「はい」

 

 ボリスは兵一人を連れ、階段へ向かう。

 

 イリヤは地下に残った。バラライカのそばに立ち、端末を握っている。その手がわずかに震えているのを、ロックは見た。

 

 そして、その瞬間を狙ったように、イリヤの端末が鳴った。

 

「報告」

 

 バラライカが言う。

 

 イリヤは画面を見た。

 

「命令文、受信。内容……地下装置を保護。HCLIによる解析を阻止。必要ならラグーン商会の交渉役を排除」

 

 レヴィが低く言う。

 

「ロック、お前まで対象かよ」

 

 ロックは苦笑できなかった。

 

 イリヤは続ける。

 

「符丁あり。古いものです」

 

 バラライカは静かに問う。

 

「どう判断する」

 

 イリヤは一瞬だけ黙った。

 

 地下室の全員が、彼を見る。

 

 合唱長も見ている。

 

 イリヤは息を吸った。

 

「偽物です」

 

「理由は」

 

「大尉の命令ではない。符丁は本物でも、命令の重さが違います」

 

 バラライカの目がわずかに細くなる。

 

「命令の重さとは何だ」

 

 イリヤは緊張で声を硬くしながらも答えた。

 

「大尉の命令には、目的があります。この命令には、こちらを動かす意図しかありません」

 

 沈黙。

 

 バラライカは短く言った。

 

「よろしい」

 

 その一言で、イリヤの肩から力が抜けた。

 

 だが、スピーカーから合唱長の声が流れる。

 

『成長。判断。指揮官への信頼。よい音だ』

 

 イリヤの顔が青ざめる。

 

 自分の判断すら、敵の記録になった。

 

 ロックはすぐに言った。

 

「イリヤさん。今の判断は、敵のためじゃない。あなた自身のためです」

 

 イリヤがロックを見る。

 

「ですが、記録されました」

 

「記録されても、判断した事実は敵のものになりません」

 

 バラライカがロックを見た。

 

 ロックは続けた。

 

「声を聞かれても、選んだ理由までは渡さない。そう思うしかない」

 

 レヴィが小さく言った。

 

「お前、たまに無茶苦茶言うな」

 

「今は必要です」

 

 ココはその言葉を聞いて、少しだけ目を伏せた。

 

 合唱長の声が静かに言った。

 

『介入。保護。言語による再定義。ロック、あなたの声も興味深い』

 

 ロックは寒気を覚えた。

 

 今度は自分が見られている。

 

 バラライカが一歩前に出た。

 

「貴様はよく喋る」

 

『聞きたいからだ』

 

「なら、これを聞け」

 

 バラライカはゆっくりと言った。

 

「この街で、私の兵に命令する声は一つだ」

 

『あなたの声か』

 

「違う」

 

 一瞬、全員が彼女を見た。

 

 バラライカは続けた。

 

「私の命令を疑った上で、それでも従う兵の声だ」

 

 合唱長の声が、わずかに止まった。

 

 バラライカは言う。

 

「兵は楽器ではない。命令は譜面ではない。従う者にも声がある。それを知らんから、貴様の合唱は薄い」

 

 沈黙。

 

 ベニーの端末が急に反応する。

 

「通信が乱れた。今の言葉で、向こうの記録が揺れたみたいです」

 

 ワイリが笑った。

 

「いいね、大尉。合唱長、音程外したんじゃない?」

 

 レヴィがにやりと笑う。

 

「言葉で殴れるんだな、大尉も」

 

 バラライカはレヴィを見ない。

 

「ベニー」

 

「はい」

 

「潰せ」

 

「了解」

 

 ベニーとワイリが装置へ向かう。地下室に流れていた祈りの声が乱れ、合唱長の声も歪み始める。細かい処理は誰も口にしない。ただ、古いスピーカーのランプが一つずつ消え、中央の端末が沈黙へ近づいていく。

 

 合唱長の声が最後に流れた。

 

『祈りの声は、まだ集まる。軍隊の庭はよく育った。次は、街そのものだ』

 

 音が切れた。

 

 地下室には、古い紙の匂いと、沈黙だけが残った。

 

     *

 

 地上では、回収係の男たちが捕まっていた。

 

 ダッチとレームが退路を塞ぎ、マオとホテル・モスクワの兵が横から押さえた。レヴィが戻った時には、すでにほとんど終わっていたため、彼女は不満そうだった。

 

「俺の出番ねえじゃねえか」

 

 ダッチは言う。

 

「平和でいい」

 

「どこが平和だよ」

 

 捕まった男たちは、前回の旧病院跡に現れた回収係と似ていた。灰色の作業服。特徴の薄い顔。使い捨ての端末。だが、今回は一つ違うものを持っていた。

 

 紙の地図だ。

 

 ロックがそれを見た瞬間、息を呑んだ。

 

 そこには、ホテル・モスクワの拠点、港湾地下の古い回線、礼拝堂、病院跡、キャスパーの船、三合会の港湾管理点、ラグーン商会の事務所、HCLIの仮拠点らしき位置が線で結ばれていた。

 

 そして、地図の中央に手書きの文字。

 

 HOTEL MOSCOW GARDEN

 

 ホテル・モスクワの庭。

 

 バラライカはその地図を見た。

 

 表情は動かなかった。

 

 だが、周囲の兵たちが一斉に空気の変化を感じた。

 

 庭。

 

 それは、庭師の言葉だ。

 

 ホテル・モスクワの兵站網、拠点、命令系統、過去の符丁、部下たちの反応。それらすべてが、敵にとっては庭だった。植え、観察し、育て、刈り取る場所。ロアナプラに根を張ったホテル・モスクワそのものが、庭師にとっての栽培対象になっていた。

 

 ボリスが低く言った。

 

「我々の拠点配置だけではありません。反応の記録も書き込まれています」

 

 ベニーが地図を覗き込む。

 

「ここ、時間が書いてある。偽命令を送った時刻と、各拠点の反応時間。報告までの時間。誰が動きかけたか。全部、記録されてる」

 

 イリヤの顔が強張った。

 

 自分の名前は書かれていない。だが、自分の反応は地図の一部になっていた。

 

 バラライカは地図を見たまま言った。

 

「これが、貴様らの庭か」

 

 誰も答えなかった。

 

 捕まった男の一人が、震えた声で言った。

 

「俺たちは回収を頼まれただけだ。地図の意味なんて知らない」

 

 レヴィが冷たく笑う。

 

「便利な台詞だな。今日何回目だ?」

 

 バラライカは男を見た。

 

「誰に頼まれた」

 

「知らない。声だけだ」

 

「合唱長か」

 

「名前は聞いてない。ただ、合唱団の仕事だと」

 

 ココが目を細める。

 

「合唱団」

 

 男は続けた。

 

「俺たちは荷物を回収するだけだった。地図と装置と紙。証人がいれば処理しろと」

 

 ロックが低く聞く。

 

「サフロノフは?」

 

 男は目を逸らした。

 

 レヴィが一歩近づく。

 

「おい」

 

 男は慌てて言った。

 

「知らない! でも、旧礼拝堂にはいない。移された。たぶん、港の外れの水上倉庫だ。俺たちはそこへは行かない」

 

 ボリスが男を見据える。

 

「誰が移した」

 

「合唱団員。俺たちより上の連中だ。灰色の服じゃない。普通の人間みたいな顔をしてる」

 

 ダッチが低く言う。

 

「普通の人間みたいな顔、か。厄介だな」

 

 バラライカは地図を畳んだ。

 

「ボリス」

 

「はい」

 

「全拠点へ通達。以後、偽命令を受信した場合、命令文だけでなく、自分の迷いも記録させろ」

 

 ロックは思わずバラライカを見る。

 

「まだ続けるんですか」

 

 バラライカはロックへ視線を向けた。

 

「敵が見ているなら、見せるものを選ぶ」

 

「でも、部下たちは」

 

「兵は試される」

 

「敵だけじゃなく、あなたにもですか」

 

 その場の空気が止まった。

 

 レヴィが小さく言う。

 

「ロック」

 

 バラライカはしばらく黙っていた。

 

 そして、静かに答えた。

 

「そうだ」

 

 ロックは息を呑む。

 

「私は兵を試す。戦場でも、この街でも。試されずに済む兵などいない。だが、敵に試されるだけなら兵は壊れる。こちらが試すなら、鍛えることができる」

 

 ロックは言葉を失った。

 

 冷たい理屈だった。

 

 だが、完全に否定できない。

 

 バラライカは続けた。

 

「お前はそれを残酷だと思うか」

 

「思います」

 

「よろしい」

 

「よろしい?」

 

「そう思う者が一人くらい同行している方がいい」

 

 ロックは黙った。

 

 ココがそのやり取りを見ていた。彼女もまた、何かを考えているようだった。

 

 バラライカは地図をボリスへ渡した。

 

「ホテル・モスクワの庭、か」

 

 彼女は薄く笑った。

 

 笑みと言うより、刃が光っただけのような表情だった。

 

「庭師に伝えろ。ここに咲く花は、素手で触れば毒だ」

 

     *

 

 夜になり、旧礼拝堂の捜索は終わった。

 

 装置は無力化され、地図は回収され、回収係はホテル・モスクワに引き渡された。サフロノフ本人はまだ見つからない。だが、水上倉庫という新しい手がかりが出た。赤い合唱団という言葉も、さらに重みを増した。

 

 ラグーン商会の車へ戻る途中、ロックはイリヤに声をかけられた。

 

「ロックさん」

 

「はい」

 

「自分は、記録されるのが怖いです」

 

 ロックは立ち止まった。

 

 イリヤは続ける。

 

「迷ったことも、判断したことも、敵に見られている。そう思うと、何を考えても相手のためになる気がします」

 

 ロックはしばらく考えた。

 

「俺も、さっき同じことを思いました」

 

「ロックさんも?」

 

「はい。俺が何か言うたびに、合唱長は“介入”とか“保護”とか勝手に名前をつける。気持ち悪いですよね」

 

 イリヤは少しだけ苦笑した。

 

「はい」

 

「でも、勝手に名前をつけられることと、自分がそれになることは違うと思います」

 

「違う?」

 

「敵があなたの迷いを記録しても、あなたがなぜ迷ったかまでは決められない。あなたがなぜ従わなかったかも、敵が決めることじゃない」

 

 イリヤは黙った。

 

「だから、記録されることより、考えるのをやめる方が危ないんだと思います」

 

 イリヤは深く息を吐いた。

 

「難しいですね」

 

「ええ。俺もよくわかりません」

 

 レヴィが遠くから言った。

 

「わかんねえ説教すんな!」

 

 ロックは振り返る。

 

「すみません」

 

 イリヤが少しだけ笑った。

 

 その笑いは、戦場のものでも、命令のものでもなかった。

 

 ただの若い人間の笑いだった。

 

 ロックは少し安心した。

 

     *

 

 その夜、ロアナプラ港の白い船では、キャスパーが水上倉庫の名を聞いていた。

 

 アランが端末を見ながら言う。

 

「水上倉庫、古い港湾施設です。表向きは使われていません。けれど、オルフェウス・リンクの関連会社が、一時保管場所として書類上だけ借りた形跡があります」

 

 チェキータが腕を組む。

 

「書類上だけ?」

 

「ええ。実際に荷を置いた記録はなし。でも、誰かを隠すには使えます」

 

 エドガーが短く言う。

 

「サフロノフか」

 

 ポーは窓の外を見ていた。

 

「声が集まる」

 

 キャスパーは彼を見る。

 

「水上倉庫に?」

 

 ポーは頷かない。

 

「港に」

 

 キャスパーは少し黙った。

 

 ロアナプラの港は夜も動いている。船、荷、男たちの声、無線、怒鳴り声、祈り、命令、取引。赤い合唱がもし街そのものを聞こうとしているなら、港は最適な場所だった。

 

「アラン」

 

「はい」

 

「オルフェウス・リンクの買い手情報を、張さんと大尉に送って」

 

 チェキータが驚く。

 

「全部?」

 

「半分」

 

 チェキータが睨む。

 

 キャスパーは笑った。

 

「冗談。必要な分は全部」

 

「本当に?」

 

「今回は、値段をつける前に燃えそうだからね」

 

 エドガーが言った。

 

「燃えた後では売れない」

 

「そういうこと」

 

 ポーは低く言った。

 

「燃えるのは港じゃない」

 

 キャスパーはポーを見た。

 

「何が燃える?」

 

「声」

 

 キャスパーはしばらく黙った。

 

 そして、少しだけ笑みを消した。

 

     *

 

 ホテル・モスクワの拠点では、バラライカが回収された地図を机の上に広げていた。

 

 地図には、敵が見たホテル・モスクワの姿が描かれている。拠点。兵站線。反応時間。命令への揺れ。過去の符丁。現在の指揮系統。それは戦術地図であり、心理地図でもあった。

 

 ボリスが隣に立つ。

 

「不快な地図です」

 

「そうだな」

 

「破棄しますか」

 

「複写を取れ」

 

 ボリスは頷いた。

 

「敵が我々をどう見ているかを知るために」

 

「そうだ」

 

 バラライカは地図の中央に書かれた文字を見た。

 

 HOTEL MOSCOW GARDEN

 

 ホテル・モスクワの庭。

 

「庭だと」

 

 彼女は静かに呟いた。

 

 怒鳴らない。

 

 だが、ボリスは知っていた。

 

 大尉の怒りは、深いほど静かになる。

 

「ボリス」

 

「はい」

 

「全拠点へ訓練を通達しろ。偽命令対処。符丁検証。報告経路。判断記録。明朝からではない。今夜からだ」

 

「了解しました」

 

「若い兵ほど前に出せ」

 

 ボリスは一瞬だけ沈黙した。

 

「よろしいのですか」

 

「庭師は若い枝を見ている。ならば、こちらが剪定する」

 

「剪定、ですか」

 

「育てるのはこちらだ」

 

 ボリスは静かに頭を下げた。

 

「了解しました」

 

 バラライカは椅子に座らなかった。地図の前に立ったまま、煙草に火をつける。

 

 窓の外では、ロアナプラの夜が濃くなっていた。

 

 庭師はホテル・モスクワを庭と呼んだ。

 

 ならば、大尉はその庭に地雷を埋める。

 

 赤い合唱は、まだ終わらない。

 

 だが、その夜から、ホテル・モスクワはただ聞かれる側ではなくなった。

 

 聞かせる声を、選び始めた。

 

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