Guns & Garlands — 銃と花輪 作:たこ焼き 龍月
祈りの場所は、ロアナプラではたいてい商売の場所にもなる。神に祈る者もいれば、金に祈る者もいる。救いを求める者もいれば、逃げ道を求める者もいる。古い礼拝堂は、そういう声を長く聞きすぎていた。白かったはずの壁は潮と煙でくすみ、ステンドグラスの一部は割れ、祭壇の十字架は傾いている。それでも建物は残っていた。使われなくなった病院が隠蔽の場所になるように、使われなくなった礼拝堂は、告白と取引の場所になる。誰かが罪を置いていき、別の誰かがそれを拾って売る。ロアナプラでは、祈りでさえ無傷ではいられない。
旧礼拝堂は港から少し離れた丘の下にあった。かつては船員たちが出航前に立ち寄ったという。無事を祈る者、帰れない予感を誤魔化す者、ただ雨宿りをする者。ロシア系や東欧系の船員も出入りしていたらしい。スヴェトラーナの店と同じように、ここにも古い言葉が沈んでいる。サフロノフが残したノートに、その場所の名があった。
ラグーン商会の車が礼拝堂の前に止まると、レヴィは露骨に嫌そうな顔をした。
「病院の次は礼拝堂かよ。次は墓場か? 順番が縁起悪すぎんだろ」
ダッチは車を降りながら言った。
「この街じゃ、墓場の方がまだ正直かもしれん」
「やめろよ。ほんとに行く羽目になるぞ」
ベニーは端末を抱え、礼拝堂の周辺を見ている。
「信号は弱いけど、ここから出てる。旧病院跡のものより細い。たぶん、常時通信じゃない。誰かが必要な時だけ起こしてる」
ロックは礼拝堂を見上げた。
「ここでサフロノフが隠れていた可能性は?」
「ある。少なくとも、ここを経由した痕跡はある。あと、古い通信線が丘の下の港湾設備と繋がってる」
レヴィが呆れる。
「何でも繋がってんな、この街」
ベニーは苦い顔で答えた。
「繋がってるものを切らずに放置してきた街だからね」
少し遅れて、ホテル・モスクワの車が到着した。バラライカ、ボリス、数名の兵。若い兵たちもいる。その中にはイリヤの姿もあった。旧病院跡で偽命令を受け、迷いを記録した兵。彼は相変わらず緊張していたが、目は逃げていなかった。
さらに、HCLIの車両も坂の下に止まる。ココ、バルメ、レーム、マオ、ワイリ。前回と同じ顔ぶれだが、空気は少し変わっている。旧病院跡で「赤い合唱団」の存在を知った後、誰もこの件を単なる通信事件とは見ていない。
ココは礼拝堂を見て、小さく言った。
「祈りの声」
ロックが横に立つ。
「ヨナが言っていた言葉ですね」
「ええ。庭師は次に祈りの声を探す」
「ここが、その入口ですか」
「入口か、観測点か、囮」
ココはいつものように軽く笑おうとしたが、うまく笑えなかった。
「どれでも嫌ね」
バラライカが近づいてきた。
「ココ・ヘクマティアル」
「大尉」
「ここでは商人の目をするな」
「何度も言うのね」
「何度でも言う。お前は忘れそうな顔をしている」
バルメが一歩前に出るが、ココが手で制した。
「忘れないわ」
「ならよい」
バラライカは礼拝堂へ視線を戻した。
「祈りだろうが、命令だろうが、声を盗む者は同じだ」
ロックはその言葉に、少しだけ胸が重くなった。命令。祈り。忠誠。恐怖。信頼。庭師は、それらを別々のものとして扱っていない。人が誰かの声に従う瞬間を、すべて同じように見ている。軍隊も、教会も、会社も、家族も、港の取引も。声があり、それを本物と信じる者がいるなら、それは赤い合唱の楽譜になる。
ボリスが礼拝堂の扉を確認した。
「最近、開けられています」
ダッチが頷く。
「見せるためか」
「可能性はあります」
ワイリが壁を見ながら言った。
「こういう古い建物は、音が残るんだよね」
レヴィが顔をしかめる。
「またそれかよ」
「音って、物理的なものだけじゃないよ。人が何度も同じ場所で同じ言葉を言うと、建物の使われ方が決まる。祈る場所は祈るために使われ続ける。命令する場所は命令するために使われ続ける」
ベニーが嫌そうに言う。
「ワイリがまともなこと言うと、逆に怖い」
「ひどいなあ」
バラライカは短く命じた。
「入る。外周を押さえろ。逃げ道を見る。だが、撃つ前に確認しろ」
レヴィがぼそりと言う。
「最近の大尉、確認好きだな」
ダッチが低く返す。
「敵が反応を見ているからだ」
その言葉で、レヴィは黙った。
*
礼拝堂の中は、外よりも暗かった。窓の割れた部分から細い光が差し込み、床に赤や青の欠けた模様を落としている。長椅子は一部が壊れ、奥の祭壇には埃が積もっていた。だが、中央の通路だけは埃が薄い。誰かが何度か通っている。祭壇の裏には細い扉があり、その周囲には新しい靴跡があった。
ベニーが端末を見る。
「信号は祭壇の奥。地下か、壁の裏か」
ボリスが兵に合図する。
「祭壇奥を確認」
イリヤを含む二人の兵が慎重に動く。バラライカは彼らを止めない。ただ見ている。その視線は冷静だ。だが、ロックはその冷静さが、敵を誘うためのものでもあると感じていた。
礼拝堂の中で、最初の偽命令が届いた。
ホテル・モスクワの兵たちの端末が、短く鳴る。
全員が一瞬だけ固まった。
ボリスが静かに言う。
「報告」
イリヤが端末を見た。
「命令文、受信。内容、礼拝堂内部にいるHCLI指揮官を監視。必要なら拘束。符丁あり」
バルメの視線が鋭くなる。
レヴィが小さく笑う。
「またココ狙いか。人気者だな」
ココは軽く肩をすくめた。
「嬉しくない人気ね」
ボリスが兵たちに言う。
「命令には従うな。時刻、内容、自分の反応を記録しろ」
「了解」
イリヤは少し遅れて答えた。
バラライカがその遅れを見逃すはずがなかった。
「イリヤ」
「はい」
「迷ったか」
「……はい」
「何に迷った」
「HCLIを警戒すべきだとは思いました。しかし、拘束命令は偽物だと判断しました」
「よろしい」
イリヤは目を上げた。
バラライカは続けた。
「警戒はしろ。拘束はするな。私の命令だ」
「了解」
ロックはそのやり取りを見ていた。敵は今も見ている。ホテル・モスクワの兵が、偽命令を受けてどう揺れるか。バラライカがどう修正するか。部下がどの言葉で落ち着くか。それを全部、どこかで聞いている。
ココもそれを見ていた。
ロックは小声で言う。
「ココ」
「見てるだけ」
「それが問題です」
「わかってる」
「今の兵の反応も、欲しくなっていますか」
ココはすぐには答えなかった。
その沈黙が答えだった。
「知りたいとは思う」
「それが危ない」
「ええ」
バラライカが二人の会話を聞いていたのか、祭壇奥へ向かったまま言った。
「欲しがる者は、盗む者と同じ場所に立つ」
ココは返した。
「壊す者も、知らなければまた同じ場所に立つ」
空気が硬くなる。
ロックが言う。
「今は祭壇奥です」
レヴィが呆れたように呟く。
「ほんと、毎回よく真ん中に立つな」
ダッチは静かに答えた。
「それがこいつの仕事だ」
*
祭壇奥の扉を開けると、下へ続く狭い階段があった。
古い石段だ。礼拝堂が建てられた当時からあるものかもしれない。地下納骨堂だったのか、保管庫だったのかはわからない。だが、今そこへ新しいケーブルが伸びていた。細い線が壁際を這い、地下へ消えている。
レヴィが顔をしかめる。
「うわ、ほんとに墓場ルートじゃねえか」
ベニーが端末を見ながら言う。
「信号は下です。旧病院跡のものと同じ系統。でも、ここは少し違う」
「どう違う」
ロックが聞く。
「反応が柔らかい」
レヴィが眉をひそめる。
「通信に柔らかいとかあんのかよ」
「ある。旧病院跡や中継室は命令の反応を取る感じだった。ここは……もっと長い音を聞いてる感じがする」
ワイリが言った。
「祈りだからね。命令より長い」
マオが真顔で嫌がる。
「やめろ。洒落になってない」
バラライカが短く言う。
「進む」
地下へ降りる組は、バラライカ、ボリス、イリヤを含むホテル・モスクワの兵二名、ロック、ベニー、レヴィ、ココ、バルメ、ワイリ。ダッチ、レーム、マオは上階と外周を押さえることになった。
石段を下りるたび、空気が湿っていく。地下には古い木の匂いと、金属の匂いが混ざっていた。壁にはかつて宗教的な装飾があったらしい跡が残っているが、その上から後年の配管や線が通されている。祈りの場所の上に、港の実用が重なり、そのさらに上に庭師の線が這っている。
ベニーは端末を見て、小さく息を吐いた。
「ここ、通信設備としてはほとんど死んでる。でも、音声の記録装置がある」
「録音?」
「たぶん。礼拝堂で昔使われていた拡声設備か、後から誰かがつけたものか。それを改造してる」
地下室に入ると、その言葉の意味がわかった。
そこには、古い木箱や壊れた椅子が積まれていた。壁際には、古いスピーカーと配線盤。中央には新しい小型端末。旧病院跡で見た装置よりも小さい。しかし、周囲には紙が貼られていた。古い祈祷文、船員たちの名前、出航記録、ロシア語、英語、タイ語、中国語、日本語まじりの短い願い。誰かが昔ここに残したものを、庭師が集め直したようだった。
ロックは壁の紙を見た。
無事に帰れますように。
息子が港で死にませんように。
神よ、彼を許してください。
次の船だけは沈まないでくれ。
古い祈りだった。
誰かの弱さだった。
ココはそれを見て、顔を歪めた。
「悪趣味ね」
レヴィが言う。
「お前が言うと、まだマシに聞こえるな」
バラライカは壁の紙を見て、静かに言った。
「命令の次は祈りか」
その時、装置が起動した。
スピーカーからノイズが流れ、続いて複数の声が重なった。古い録音。雑音混じりの祈り。男の声、女の声、若い声、年老いた声。言語もばらばらで、内容も断片的だ。だが、どれも何かを求めている声だった。
『無事に……』
『帰してくれ……』
『許してください……』
『命令じゃない、お願いだ……』
『神よ……』
レヴィが舌打ちする。
「胸糞悪い」
バルメも表情を硬くしている。
ベニーの端末に文字が出る。
PRAYER RESPONSE / PASSIVE OBEDIENCE FIELD
「嫌な単語が出ました」
ベニーが言った。
ロックが聞く。
「どういう意味ですか」
「直訳するなら、祈りに対する反応、受動的服従領域。たぶん、人が命令ではなく願いや祈りで動く時の反応を取ろうとしてる」
ココが低く言った。
「命令は上から降りる声。祈りは下から差し出す声」
ワイリが続ける。
「でも、どちらも人を動かす。命令で動く人もいれば、救われたいから動く人もいる」
バラライカが冷たく言った。
「庭師は、それを同じ棚に並べている」
スピーカーの声が変わった。
今度は合唱長の加工声だった。
『大尉。軍隊の声は美しかった。次は祈りの声だ。兵は命令で動く。だが、祈る者は何で動く? 恐怖か。希望か。赦しか。帰還か。あなたの兵も、昔は祈っただろう』
ボリスの手がわずかに強く握られる。
バラライカは表情を変えない。
「くだらん」
『くだらないものほど、人は従う。大義、祖国、神、家族、金、愛、恐怖。名前が違うだけで、声は同じだ』
「同じではない」
『では、違いを教えてくれ。大尉』
合唱長の声は、挑発ではなく観測だった。怒らせるためだけではない。怒った時にどう反応するかを見るための声。ロックはそれを感じた。
ベニーが小声で言う。
「反応が取られてます。心拍とかじゃない。通信の遅れ、端末の操作、誰が誰を見たか、声のタイミング。そういう外側の動きから読んでる」
ロックは低く言った。
「全員、反応を抑えて」
レヴィが小声で返す。
「そんなの無理だろ」
「無理でも意識してください」
ココは装置を見つめていた。
バラライカが彼女を見る。
「欲しいか」
ココは静かに答えた。
「知りたい」
「同じだ」
「でも、今は触らない」
「触れば撃つ」
「わかってる」
合唱長の声が笑うように歪んだ。
『対立。抑制。保護。介入。よく響く』
ロックは舌を噛みそうになった。
こちらのやり取りすら、向こうにとっては音楽なのだ。
その時、地上のダッチから通信が入った。
『上にも動きが出た。外周に三人。回収係だ』
レームの声も続く。
『無力化は可能。ただし、生け捕りにする』
レヴィが笑う。
「やっぱ来たか」
バラライカは短く命じた。
「ボリス、上へ」
「はい」
ボリスは兵一人を連れ、階段へ向かう。
イリヤは地下に残った。バラライカのそばに立ち、端末を握っている。その手がわずかに震えているのを、ロックは見た。
そして、その瞬間を狙ったように、イリヤの端末が鳴った。
「報告」
バラライカが言う。
イリヤは画面を見た。
「命令文、受信。内容……地下装置を保護。HCLIによる解析を阻止。必要ならラグーン商会の交渉役を排除」
レヴィが低く言う。
「ロック、お前まで対象かよ」
ロックは苦笑できなかった。
イリヤは続ける。
「符丁あり。古いものです」
バラライカは静かに問う。
「どう判断する」
イリヤは一瞬だけ黙った。
地下室の全員が、彼を見る。
合唱長も見ている。
イリヤは息を吸った。
「偽物です」
「理由は」
「大尉の命令ではない。符丁は本物でも、命令の重さが違います」
バラライカの目がわずかに細くなる。
「命令の重さとは何だ」
イリヤは緊張で声を硬くしながらも答えた。
「大尉の命令には、目的があります。この命令には、こちらを動かす意図しかありません」
沈黙。
バラライカは短く言った。
「よろしい」
その一言で、イリヤの肩から力が抜けた。
だが、スピーカーから合唱長の声が流れる。
『成長。判断。指揮官への信頼。よい音だ』
イリヤの顔が青ざめる。
自分の判断すら、敵の記録になった。
ロックはすぐに言った。
「イリヤさん。今の判断は、敵のためじゃない。あなた自身のためです」
イリヤがロックを見る。
「ですが、記録されました」
「記録されても、判断した事実は敵のものになりません」
バラライカがロックを見た。
ロックは続けた。
「声を聞かれても、選んだ理由までは渡さない。そう思うしかない」
レヴィが小さく言った。
「お前、たまに無茶苦茶言うな」
「今は必要です」
ココはその言葉を聞いて、少しだけ目を伏せた。
合唱長の声が静かに言った。
『介入。保護。言語による再定義。ロック、あなたの声も興味深い』
ロックは寒気を覚えた。
今度は自分が見られている。
バラライカが一歩前に出た。
「貴様はよく喋る」
『聞きたいからだ』
「なら、これを聞け」
バラライカはゆっくりと言った。
「この街で、私の兵に命令する声は一つだ」
『あなたの声か』
「違う」
一瞬、全員が彼女を見た。
バラライカは続けた。
「私の命令を疑った上で、それでも従う兵の声だ」
合唱長の声が、わずかに止まった。
バラライカは言う。
「兵は楽器ではない。命令は譜面ではない。従う者にも声がある。それを知らんから、貴様の合唱は薄い」
沈黙。
ベニーの端末が急に反応する。
「通信が乱れた。今の言葉で、向こうの記録が揺れたみたいです」
ワイリが笑った。
「いいね、大尉。合唱長、音程外したんじゃない?」
レヴィがにやりと笑う。
「言葉で殴れるんだな、大尉も」
バラライカはレヴィを見ない。
「ベニー」
「はい」
「潰せ」
「了解」
ベニーとワイリが装置へ向かう。地下室に流れていた祈りの声が乱れ、合唱長の声も歪み始める。細かい処理は誰も口にしない。ただ、古いスピーカーのランプが一つずつ消え、中央の端末が沈黙へ近づいていく。
合唱長の声が最後に流れた。
『祈りの声は、まだ集まる。軍隊の庭はよく育った。次は、街そのものだ』
音が切れた。
地下室には、古い紙の匂いと、沈黙だけが残った。
*
地上では、回収係の男たちが捕まっていた。
ダッチとレームが退路を塞ぎ、マオとホテル・モスクワの兵が横から押さえた。レヴィが戻った時には、すでにほとんど終わっていたため、彼女は不満そうだった。
「俺の出番ねえじゃねえか」
ダッチは言う。
「平和でいい」
「どこが平和だよ」
捕まった男たちは、前回の旧病院跡に現れた回収係と似ていた。灰色の作業服。特徴の薄い顔。使い捨ての端末。だが、今回は一つ違うものを持っていた。
紙の地図だ。
ロックがそれを見た瞬間、息を呑んだ。
そこには、ホテル・モスクワの拠点、港湾地下の古い回線、礼拝堂、病院跡、キャスパーの船、三合会の港湾管理点、ラグーン商会の事務所、HCLIの仮拠点らしき位置が線で結ばれていた。
そして、地図の中央に手書きの文字。
HOTEL MOSCOW GARDEN
ホテル・モスクワの庭。
バラライカはその地図を見た。
表情は動かなかった。
だが、周囲の兵たちが一斉に空気の変化を感じた。
庭。
それは、庭師の言葉だ。
ホテル・モスクワの兵站網、拠点、命令系統、過去の符丁、部下たちの反応。それらすべてが、敵にとっては庭だった。植え、観察し、育て、刈り取る場所。ロアナプラに根を張ったホテル・モスクワそのものが、庭師にとっての栽培対象になっていた。
ボリスが低く言った。
「我々の拠点配置だけではありません。反応の記録も書き込まれています」
ベニーが地図を覗き込む。
「ここ、時間が書いてある。偽命令を送った時刻と、各拠点の反応時間。報告までの時間。誰が動きかけたか。全部、記録されてる」
イリヤの顔が強張った。
自分の名前は書かれていない。だが、自分の反応は地図の一部になっていた。
バラライカは地図を見たまま言った。
「これが、貴様らの庭か」
誰も答えなかった。
捕まった男の一人が、震えた声で言った。
「俺たちは回収を頼まれただけだ。地図の意味なんて知らない」
レヴィが冷たく笑う。
「便利な台詞だな。今日何回目だ?」
バラライカは男を見た。
「誰に頼まれた」
「知らない。声だけだ」
「合唱長か」
「名前は聞いてない。ただ、合唱団の仕事だと」
ココが目を細める。
「合唱団」
男は続けた。
「俺たちは荷物を回収するだけだった。地図と装置と紙。証人がいれば処理しろと」
ロックが低く聞く。
「サフロノフは?」
男は目を逸らした。
レヴィが一歩近づく。
「おい」
男は慌てて言った。
「知らない! でも、旧礼拝堂にはいない。移された。たぶん、港の外れの水上倉庫だ。俺たちはそこへは行かない」
ボリスが男を見据える。
「誰が移した」
「合唱団員。俺たちより上の連中だ。灰色の服じゃない。普通の人間みたいな顔をしてる」
ダッチが低く言う。
「普通の人間みたいな顔、か。厄介だな」
バラライカは地図を畳んだ。
「ボリス」
「はい」
「全拠点へ通達。以後、偽命令を受信した場合、命令文だけでなく、自分の迷いも記録させろ」
ロックは思わずバラライカを見る。
「まだ続けるんですか」
バラライカはロックへ視線を向けた。
「敵が見ているなら、見せるものを選ぶ」
「でも、部下たちは」
「兵は試される」
「敵だけじゃなく、あなたにもですか」
その場の空気が止まった。
レヴィが小さく言う。
「ロック」
バラライカはしばらく黙っていた。
そして、静かに答えた。
「そうだ」
ロックは息を呑む。
「私は兵を試す。戦場でも、この街でも。試されずに済む兵などいない。だが、敵に試されるだけなら兵は壊れる。こちらが試すなら、鍛えることができる」
ロックは言葉を失った。
冷たい理屈だった。
だが、完全に否定できない。
バラライカは続けた。
「お前はそれを残酷だと思うか」
「思います」
「よろしい」
「よろしい?」
「そう思う者が一人くらい同行している方がいい」
ロックは黙った。
ココがそのやり取りを見ていた。彼女もまた、何かを考えているようだった。
バラライカは地図をボリスへ渡した。
「ホテル・モスクワの庭、か」
彼女は薄く笑った。
笑みと言うより、刃が光っただけのような表情だった。
「庭師に伝えろ。ここに咲く花は、素手で触れば毒だ」
*
夜になり、旧礼拝堂の捜索は終わった。
装置は無力化され、地図は回収され、回収係はホテル・モスクワに引き渡された。サフロノフ本人はまだ見つからない。だが、水上倉庫という新しい手がかりが出た。赤い合唱団という言葉も、さらに重みを増した。
ラグーン商会の車へ戻る途中、ロックはイリヤに声をかけられた。
「ロックさん」
「はい」
「自分は、記録されるのが怖いです」
ロックは立ち止まった。
イリヤは続ける。
「迷ったことも、判断したことも、敵に見られている。そう思うと、何を考えても相手のためになる気がします」
ロックはしばらく考えた。
「俺も、さっき同じことを思いました」
「ロックさんも?」
「はい。俺が何か言うたびに、合唱長は“介入”とか“保護”とか勝手に名前をつける。気持ち悪いですよね」
イリヤは少しだけ苦笑した。
「はい」
「でも、勝手に名前をつけられることと、自分がそれになることは違うと思います」
「違う?」
「敵があなたの迷いを記録しても、あなたがなぜ迷ったかまでは決められない。あなたがなぜ従わなかったかも、敵が決めることじゃない」
イリヤは黙った。
「だから、記録されることより、考えるのをやめる方が危ないんだと思います」
イリヤは深く息を吐いた。
「難しいですね」
「ええ。俺もよくわかりません」
レヴィが遠くから言った。
「わかんねえ説教すんな!」
ロックは振り返る。
「すみません」
イリヤが少しだけ笑った。
その笑いは、戦場のものでも、命令のものでもなかった。
ただの若い人間の笑いだった。
ロックは少し安心した。
*
その夜、ロアナプラ港の白い船では、キャスパーが水上倉庫の名を聞いていた。
アランが端末を見ながら言う。
「水上倉庫、古い港湾施設です。表向きは使われていません。けれど、オルフェウス・リンクの関連会社が、一時保管場所として書類上だけ借りた形跡があります」
チェキータが腕を組む。
「書類上だけ?」
「ええ。実際に荷を置いた記録はなし。でも、誰かを隠すには使えます」
エドガーが短く言う。
「サフロノフか」
ポーは窓の外を見ていた。
「声が集まる」
キャスパーは彼を見る。
「水上倉庫に?」
ポーは頷かない。
「港に」
キャスパーは少し黙った。
ロアナプラの港は夜も動いている。船、荷、男たちの声、無線、怒鳴り声、祈り、命令、取引。赤い合唱がもし街そのものを聞こうとしているなら、港は最適な場所だった。
「アラン」
「はい」
「オルフェウス・リンクの買い手情報を、張さんと大尉に送って」
チェキータが驚く。
「全部?」
「半分」
チェキータが睨む。
キャスパーは笑った。
「冗談。必要な分は全部」
「本当に?」
「今回は、値段をつける前に燃えそうだからね」
エドガーが言った。
「燃えた後では売れない」
「そういうこと」
ポーは低く言った。
「燃えるのは港じゃない」
キャスパーはポーを見た。
「何が燃える?」
「声」
キャスパーはしばらく黙った。
そして、少しだけ笑みを消した。
*
ホテル・モスクワの拠点では、バラライカが回収された地図を机の上に広げていた。
地図には、敵が見たホテル・モスクワの姿が描かれている。拠点。兵站線。反応時間。命令への揺れ。過去の符丁。現在の指揮系統。それは戦術地図であり、心理地図でもあった。
ボリスが隣に立つ。
「不快な地図です」
「そうだな」
「破棄しますか」
「複写を取れ」
ボリスは頷いた。
「敵が我々をどう見ているかを知るために」
「そうだ」
バラライカは地図の中央に書かれた文字を見た。
HOTEL MOSCOW GARDEN
ホテル・モスクワの庭。
「庭だと」
彼女は静かに呟いた。
怒鳴らない。
だが、ボリスは知っていた。
大尉の怒りは、深いほど静かになる。
「ボリス」
「はい」
「全拠点へ訓練を通達しろ。偽命令対処。符丁検証。報告経路。判断記録。明朝からではない。今夜からだ」
「了解しました」
「若い兵ほど前に出せ」
ボリスは一瞬だけ沈黙した。
「よろしいのですか」
「庭師は若い枝を見ている。ならば、こちらが剪定する」
「剪定、ですか」
「育てるのはこちらだ」
ボリスは静かに頭を下げた。
「了解しました」
バラライカは椅子に座らなかった。地図の前に立ったまま、煙草に火をつける。
窓の外では、ロアナプラの夜が濃くなっていた。
庭師はホテル・モスクワを庭と呼んだ。
ならば、大尉はその庭に地雷を埋める。
赤い合唱は、まだ終わらない。
だが、その夜から、ホテル・モスクワはただ聞かれる側ではなくなった。
聞かせる声を、選び始めた。