Guns & Garlands — 銃と花輪   作:たこ焼き 龍月

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第六章 死んだ国の声

 

 ホテル・モスクワの夜は、ほかのロアナプラの夜とは違う。外では酒と怒声とエンジン音が混ざり、港では荷が動き、路地では誰かが誰かを騙している。だが、ホテル・モスクワの拠点の中に入ると、夜は規律を持つ。廊下の明かりは必要な場所だけに灯り、兵たちの足音は短く揃い、通信は無駄なく飛ぶ。そこには犯罪組織の騒がしさより、軍隊の残響があった。国を失い、戦場を失い、それでも命令の形だけは手放さなかった者たちの夜だった。

 

 その夜、ホテル・モスクワは訓練を始めていた。

 

 バラライカの命令により、全拠点で偽命令への対応訓練が行われた。命令文の確認。符丁の検証。送信経路の記録。受信した兵の反応報告。迷いの内容。判断の理由。通常なら兵にそこまで言語化させることは少ない。だが、今回の敵はそこを見ている。だからこそ、バラライカは部下たちに自分の迷いを見ろと命じた。

 

 兵たちは戸惑った。

 

 命令に従うことはできる。命令を待つこともできる。疑うことも、訓練としてなら理解できる。だが、自分が何に迷ったか、なぜ身体が動きかけたか、それを報告することは別だった。兵にとって、迷いは隠すものだ。弱さは伏せるものだ。ところが大尉は、その迷いを記録しろと言った。敵に盗まれる前に、自分で見ろと言った。

 

 イリヤは訓練室の隅で、端末に表示された偽命令を見つめていた。

 

 第十二保管庫へ移動。HCLI関係者の同行を阻止。旧符丁確認済み。

 

 偽だ。

 

 そうわかる。

 

 だが、符丁が古い記憶に触れる。自分自身の記憶ではない。彼はその戦場を知らない。それでも、ホテル・モスクワの中にいると、過去は自分のものではなくても重さを持つ。先に血を流した者たちの記号。大尉とボリスが沈黙するほどの文字。若い兵にとって、それは本物より厄介な圧力だった。

 

「報告」

 

 ボリスの声が響く。

 

 イリヤは姿勢を正した。

 

「命令文、偽と判断。理由、現在の命令書式と異なること、送信経路が不明であること、旧符丁のみで現在確認符号がないこと」

 

「反応は」

 

「一瞬、命令文の末尾に意識が引かれました」

 

「なぜ」

 

「符丁が本物に見えたためです」

 

「本物に見えたものと、本物は違う」

 

「はい」

 

「続けろ」

 

 ボリスはそれだけ言い、次の兵へ視線を移した。叱責ではない。称賛でもない。ただ、報告を受け取る。兵にとっては、それがかえって重い。感情ではなく、記録として扱われる。赤い合唱が外から盗もうとしているものを、ホテル・モスクワは内側から訓練に変えようとしていた。

 

 訓練室の奥で、バラライカはそれを見ていた。

 

 煙草は吸っていない。腕を組み、ただ黙っている。その沈黙が、全員の背筋を伸ばす。

 

 隣に立つボリスが低く言う。

 

「反応は安定してきています」

 

「安定では足りん」

 

「はい」

 

「敵は、安定した反応も記録する」

 

「では、揺らぎを残しますか」

 

 バラライカはわずかに視線を動かした。

 

「揺らぎを消すな。隠すな。扱えるようにしろ」

 

 ボリスは頷いた。

 

「了解しました」

 

 訓練は続いた。

 

 偽命令は次々と流された。ホテル・モスクワ内部で作った訓練用のものもある。実際に敵から来たものを加工したものもある。兵たちは受け取り、疑い、報告し、記録する。汗をかく者もいた。苛立つ者もいた。自分の迷いを言葉にできず黙る者もいた。そのたびにボリスは待った。怒鳴らない。急かさない。答えが出るまで、兵自身に自分の中を見させる。

 

 バラライカはそれを見ていた。

 

 庭師がホテル・モスクワを庭と呼ぶなら、ここで育つものを勝手には選ばせない。

 

 彼女がそう考えた時、訓練室の照明が一瞬だけ揺れた。

 

 ベニーなら、通信反応だと言っただろう。ワイリなら、いい音だと言ったかもしれない。ボリスはすぐに異常を察知した。

 

「全端末、確認」

 

 兵たちが一斉に動く。

 

 だが、今回は端末に命令文は出なかった。

 

 代わりに、訓練室の古いスピーカーからノイズが流れた。

 

 ザザ、と乾いた音。

 

 そして声。

 

『大尉』

 

 訓練室の空気が凍った。

 

 兵たちは動かなかった。訓練の成果か、恐怖か、あるいはその両方か。誰も声を出さない。ただ、全員がバラライカの命令を待った。

 

 ボリスがスピーカーへ視線を向ける。

 

「外部割り込みです」

 

 バラライカは短く言った。

 

「切るな」

 

「大尉」

 

「聞かせろ」

 

 ノイズの中から、声が形を持ち始めた。合唱長の声だった。旧中継室、旧病院跡、旧礼拝堂で聞いた、あの加工された声。だが、今回は少し違った。軍隊的な硬さが強く、古い無線越しの命令口調を模している。まるで、死んだ上官の口を借りて喋ろうとしているようだった。

 

『訓練とは美しい。兵が迷いを見つめ、指揮官がそれを整える。あなたはよい庭師だ、大尉』

 

 バラライカの目が細くなった。

 

「その言葉を使うな」

 

『庭は怒るのか』

 

「私は庭ではない」

 

『では、あなたは何だ』

 

「私に質問する立場ではない」

 

『命令する立場か』

 

 兵たちの視線がわずかに揺れる。

 

 合唱長はそれを聞いている。見ている。感じている。ロックがいれば、そう言っただろう。

 

『大尉。任務に戻れ』

 

 その言葉が流れた瞬間、空気が変わった。

 

 任務に戻れ。

 

 古い声。古い命令。終わったはずの戦場から呼び戻すような言葉。

 

『あなたの部隊は、まだ終わっていない』

 

 ボリスの手がわずかに動いた。

 

 バラライカは動かなかった。

 

『旗は変わり、国は消え、上官は死に、地図は燃えた。だが兵は残った。命令を待つ兵が残った。大尉、あなたは彼らに何を与えた? 祖国か。金か。恐怖か。復讐か。それとも、ただ新しい命令か』

 

 訓練室の若い兵たちは、声を聞いていた。

 

 彼らはその戦争を知らない。死んだ国も知らない。だが、大尉とボリスの沈黙が重いことはわかる。自分たちの前にいる指揮官が、過去のどこかを踏まれていることがわかる。

 

 ボリスが低く言った。

 

「大尉、切断を」

 

 バラライカは答えなかった。

 

 合唱長の声が続く。

 

『ボリス。あなたも聞いているな。よい副官だ。指揮官の沈黙を守り、兵の迷いを整える。あなたは命令に従っているのか。それとも、彼女に従っているのか』

 

 ボリスの表情は変わらない。

 

 だが、彼の後ろにいる若い兵たちは息を止めた。

 

 バラライカは静かに言った。

 

「ボリス」

 

「はい」

 

「全員、記録」

 

 ボリスは即座に命じた。

 

「受信時刻、音声内容、各自の反応を記録。命令ではない。観測対象だ」

 

 兵たちが動く。

 

 それを見て、合唱長が笑ったようなノイズを出した。

 

『美しい。観測されていることを知りながら観測する。庭は自分を剪定し始めた』

 

 バラライカは低く言った。

 

「お前は、よほど庭という言葉が好きらしい」

 

『庭師だからね』

 

「貴様は庭師ではない」

 

『では何だ』

 

「泥棒だ」

 

 合唱長の声が一瞬だけ止まる。

 

 バラライカは続けた。

 

「人の声を盗み、人の迷いを盗み、人の過去を盗む。植えているつもりか。育てているつもりか。違う。貴様は墓を暴いているだけだ」

 

『墓には声が残る』

 

「残らん」

 

『残る。あなたが証拠だ、大尉。死んだ国の声を、あなたはまだ聞いている』

 

 ボリスの目が鋭くなった。

 

 訓練室にいる兵たちの中で、イリヤが拳を握った。

 

 合唱長は続ける。

 

『あなたが怒るのは、まだ聞こえるからだ。あなたが否定するのは、まだ従いそうになるからだ。あなたの兵も同じだ。命令とは死なない。声の形を変え、記号に残り、習慣に残り、恐怖に残る。赤い合唱は、それを聞くだけだ』

 

 バラライカは少しだけ笑った。

 

 冷たい笑みだった。

 

「聞くだけなら、黙って聞け」

 

『あなたは喋る』

 

「喋らせているのは貴様だ」

 

『よい。怒り。抑制。部下への配慮。過去への拒絶。記録する』

 

 その言葉に、イリヤがわずかに動いた。

 

 ボリスが視線だけで制した。

 

 バラライカはそれを見ていた。

 

「イリヤ」

 

「はい」

 

「何を感じた」

 

 突然問われ、イリヤは一瞬だけ言葉に詰まった。だが、訓練で何度もやったように、自分の反応を言葉にする。

 

「敵が、大尉を侮辱したと感じました」

 

「それで」

 

「怒りました」

 

「動こうとしたか」

 

「はい」

 

「なぜ止まった」

 

「ボリス副官を見ました」

 

「違う」

 

 イリヤは息を呑む。

 

 バラライカは言った。

 

「お前は、動いてよいかを自分で疑った。ボリスを見たのは、その後だ」

 

 イリヤは少し沈黙した。

 

「……はい」

 

「記録しろ」

 

「了解」

 

 合唱長の声が、楽しげに歪む。

 

『素晴らしい。若い兵が自分の怒りを分類する。大尉、あなたは赤い合唱に協力している』

 

 バラライカは即座に答えた。

 

「違う」

 

『違わない。あなたは部下の反応を言語化している。私が欲しいものを、あなた自身が整えている』

 

「貴様が欲しいものは、反応ではない」

 

『ほう』

 

「服従だ」

 

 訓練室の空気が変わった。

 

 バラライカは続ける。

 

「貴様は迷いが欲しいのではない。判断が欲しいのでもない。人が自分で考えたものを、命令として回収したいだけだ。だから薄いと言った」

 

 合唱長のノイズが乱れた。

 

『薄い?』

 

「祈りの声を盗んでも、祈った者にはなれない。兵の迷いを盗んでも、兵にはなれない。命令の形を真似ても、命令する者にはなれない」

 

『では、命令する者とは何だ』

 

 バラライカは少しも迷わず言った。

 

「責任を取る者だ」

 

 沈黙。

 

 スピーカーの向こうで、わずかにノイズが揺れた。

 

 ベニーはいない。だが、もしここにいたなら、今の一言で通信波形が乱れたことに気づいただろう。

 

 合唱長は、短く笑った。

 

『責任。美しい言葉だ。死んだ国も、死んだ上官も、同じ言葉を使っただろう』

 

「だから私は国ではない」

 

『では何だ』

 

「私だ」

 

 バラライカの声は低く、静かだった。

 

「私の兵に命令する者は、私だ。死んだ国ではない。死んだ上官ではない。古い符丁ではない。貴様でもない」

 

 訓練室の兵たちは、誰も動かなかった。

 

 だが、その沈黙はさっきまでの沈黙と違った。待つ沈黙ではない。立つ沈黙だった。

 

 合唱長はそれも聞いていた。

 

『よい声だ、大尉。実に、よく響く』

 

 バラライカはボリスへ視線を向けた。

 

「十分か」

 

「十分です」

 

「切れ」

 

「了解」

 

 ボリスが通信班へ合図する。外部割り込みの経路が遮断されていく。スピーカーの声が歪み、遠ざかる。だが、切れる直前、合唱長の声が低く残った。

 

『本番は水上倉庫だ。サフロノフはまだ歌える。彼が死ぬ前に、聞きに来るといい』

 

 音が消えた。

 

 訓練室には、兵たちの呼吸だけが残った。

 

     *

 

 同じ頃、ラグーン商会の事務所にも異変が届いていた。

 

 ベニーの端末が突然反応し、旧礼拝堂で見たものと似た短い信号を拾った。だが、発信源はホテル・モスクワの訓練拠点。いや、正確にはそこに割り込んだ外部経路だった。

 

「やばい」

 

 ベニーが言った。

 

 ロックはすぐに顔を上げる。

 

「何が」

 

「合唱長がホテル・モスクワへ直接割り込んでる。音声通信っぽい。かなり短いけど、反応が大きい」

 

 レヴィがソファから起き上がる。

 

「大尉のとこか」

 

「たぶん」

 

 ダッチは立ち上がった。

 

「向かうぞ」

 

「今から?」

 

 ロックが聞くと、ダッチは短く答えた。

 

「あの女が怒ってからでは遅い」

 

 レヴィがにやりと笑う。

 

「もう怒ってるだろ」

 

「本気で怒る前だ」

 

 ベニーが端末を抱える。

 

「待って。通信の最後だけ拾えた」

 

 画面に短い文字列が表示される。

 

 WATER WAREHOUSE / FINAL REHEARSAL

 

 ロックは息を呑んだ。

 

「水上倉庫」

 

 レヴィが舌打ちする。

 

「サフロなんとかがいる場所か」

 

「たぶん」

 

 ベニーはさらに端末を見る。

 

「もう一つ。サフロノフの音声反応らしきものが出てる。生体信号じゃない。声紋に近い記録。つまり、彼の声が使われている」

 

 ロックは顔をしかめる。

 

「まだ生きている?」

 

「わからない。録音かもしれない。でも、水上倉庫で何かが再生、あるいは収集されてる」

 

 ダッチは扉へ向かう。

 

「ホテル・モスクワに連絡」

 

 ロックは端末を取った。

 

「俺が」

 

 その時、ココから通信が入った。

 

『ロック。聞こえた?』

 

「水上倉庫ですね」

 

『ええ。兄さんの買い手、オルフェウス・リンクの書類上の保管場所と一致する。合唱長は、そこで何かをやるつもり』

 

「本番、と言っていました」

 

『本番?』

 

「ベニーのログに、最終リハーサルと」

 

 通信の向こうで、ココが黙った。

 

『ロック。これはたぶん、サフロノフの処分だけじゃない』

 

「何ですか」

 

『ホテル・モスクワを水上倉庫へ誘導している。大尉本人を。ボリスを。若い兵を。私たちも。あなたたちも。全員の声を、一か所で取るつもりかもしれない』

 

「罠ですね」

 

『ええ。でも、行かないとサフロノフは消える』

 

「ココ」

 

『何?』

 

「あなたも行くつもりですね」

 

『もちろん』

 

「欲しがらないでください」

 

 ココは短く沈黙した。

 

『見張っていて』

 

「見張ります」

 

 通信が切れる。

 

 レヴィがロックを見る。

 

「また白いお嬢様も来るのか」

 

「来ます」

 

「大尉と一緒にか。最悪の合唱団だな」

 

 ベニーが小さく言う。

 

「冗談に聞こえない」

 

 ダッチは扉を開けた。

 

「行くぞ。水上倉庫だ」

 

     *

 

 ホテル・モスクワの拠点では、通信遮断後も訓練室の空気は動かなかった。

 

 バラライカは兵たちを見渡した。

 

「今の音声を聞いた者は、全員反応を記録しろ」

 

 兵たちは応答する。

 

「了解」

 

「怒り、恐怖、疑念、迷い。すべて書け」

 

「了解」

 

「ただし」

 

 彼女は一拍置いた。

 

「それを敵に渡すな。記録は我々のものだ」

 

「了解」

 

 イリヤは端末に文字を打ち込んでいた。手はもう震えていない。怒りはある。恐怖もある。だが、それを言葉にすることで、少しだけ自分のものに戻せる気がした。

 

 ボリスがバラライカへ近づく。

 

「水上倉庫へ誘導されています」

 

「わかっている」

 

「罠です」

 

「当然だ」

 

「それでも行かれますか」

 

 バラライカは煙草を取り出した。訓練室では吸わない。だが、指の間に挟むだけで少しだけ間が生まれる。

 

「サフロノフがいる」

 

「生きている保証はありません」

 

「死んでいても、声がある」

 

「敵は大尉の反応を待っています」

 

「待たせておけ」

 

 ボリスは低く言った。

 

「大尉」

 

 バラライカは彼を見る。

 

「何だ」

 

「今の通信で、兵たちは揺れました」

 

「見た」

 

「私も揺れました」

 

 その言葉に、周囲の兵たちはわずかに驚いた。

 

 ボリスが自分の迷いを口にすることは少ない。だが、彼はあえて言った。訓練で兵たちに求めたことを、自分も行うために。

 

 バラライカは静かに問う。

 

「何に」

 

「死んだ国、という言葉に」

 

 訓練室の空気が重くなる。

 

 ボリスは続けた。

 

「自分は、死んだ国から逃げたつもりはありません。捨てたつもりもありません。ただ、生き残った者として大尉に従ってきました。ですが、合唱長はそこを突いてきた」

 

「そして?」

 

「怒りました」

 

「動こうとしたか」

 

「はい」

 

「なぜ止まった」

 

「大尉が聞けと命じたからです」

 

「それだけか」

 

 ボリスは少し沈黙した。

 

「いいえ。自分も聞く必要があると思いました」

 

 バラライカは頷いた。

 

「記録しろ」

 

「はい」

 

 そのやり取りは、若い兵たちにとって大きかった。副官であるボリスも迷う。怒る。揺れる。それでも立つ。訓練は、彼らだけに課されているものではない。ホテル・モスクワ全体が、敵の観測の中で自分を見直している。

 

 バラライカは兵たちへ向き直った。

 

「水上倉庫へ向かう」

 

 全員の姿勢が変わる。

 

「これは罠だ。敵は我々の反応を取りに来る。命令を送ってくる。声を真似る。過去を掘る。お前たちの怒りも恐怖も記録しようとする」

 

 彼女の声は静かだった。

 

「だが、それは敵のものではない」

 

 イリヤは顔を上げた。

 

「怒りは自分のものだ。恐怖も自分のものだ。迷いも自分のものだ。命令に従う前に、それを見ろ。見た上で、私の命令を聞け」

 

 兵たちは応答した。

 

「了解」

 

 バラライカは続けた。

 

「今回、若い兵も連れて行く」

 

 ボリスが一瞬だけ視線を動かした。

 

 バラライカはそれを見ていた。

 

「庭師は若い枝を見ている。ならば、こちらが育てる」

 

「了解しました」

 

「イリヤ」

 

「はい」

 

「同行しろ」

 

 イリヤは息を呑んだ。

 

「了解」

 

「怖いか」

 

「はい」

 

「よろしい」

 

 バラライカは短く言った。

 

「怖くない者は、最初に死ぬ」

 

 兵たちは黙ってその言葉を受け取った。

 

     *

 

 水上倉庫へ向かう準備は、急速に進んだ。

 

 ホテル・モスクワが動く。ラグーン商会が動く。HCLIが動く。三合会にも連絡が飛ぶ。張は直接兵を出さないが、港湾経路の一部を開け、別の一部を閉じた。キャスパーの白い船にも、当然のように情報は届いた。

 

 キャスパーは甲板でそれを聞いていた。

 

 アランが端末を見ながら言う。

 

「水上倉庫、オルフェウス・リンクが書類上押さえています。サフロノフがいる可能性あり。ホテル・モスクワ、ラグーン商会、HCLIが向かいます」

 

 チェキータが腕を組む。

 

「ボス、行くの?」

 

「行きたいね」

 

「大尉に撃たれるわよ」

 

「撃たれない距離で見たい」

 

「それが一番撃たれそう」

 

 エドガーが言う。

 

「今回は残るべきだ」

 

 ポーも低く言った。

 

「声が燃える」

 

 キャスパーはポーを見る。

 

「またそれか」

 

「港の声が集まる。近くにいれば、巻き込まれる」

 

 キャスパーは白い手すりに指を置いた。

 

「商人としては、巻き込まれる場所に価値がある」

 

 チェキータが呆れる。

 

「人としては最悪ね」

 

「否定はしない」

 

 アランが顔を上げる。

 

「ボス。オルフェウス・リンクの買い手側から、新しいメッセージです」

 

「何て?」

 

「“合唱は開演する。白い商人は席を選べ”」

 

 チェキータの表情が消える。

 

「挑発ね」

 

 エドガーが低く言う。

 

「罠だ」

 

 キャスパーはしばらく黙っていた。

 

 そして、少しだけ笑った。

 

「席を選べ、か」

 

「行く気?」

 

「商人は、舞台の外にいる方がよく見えることもある」

 

 チェキータは目を細めた。

 

「珍しく賢い」

 

「ひどいな」

 

「半分くらい」

 

 キャスパーは笑った。

 

 だが、その笑みはいつもより薄かった。

 

     *

 

 ラグーン商会の車内では、レヴィが不満そうに窓の外を見ていた。

 

「水上倉庫って、また港かよ」

 

 ロックが答える。

 

「赤い合唱が港全体を見ているなら、中心に近い場所でしょう」

 

「理屈はいい。俺は嫌だ」

 

 ベニーが端末を見ながら言う。

 

「僕も嫌だよ。でも信号はそこに向かって集まってる。ホテル・モスクワの訓練反応、旧礼拝堂の祈り、旧病院跡の録音、キャスパーの部品。全部、水上倉庫へ線が出てる」

 

 ダッチが運転しながら言った。

 

「サフロノフは餌か」

 

「餌でもあり、楽譜でもあると思う」

 

 ベニーの声は重かった。

 

 レヴィが顔をしかめる。

 

「楽譜って言い方やめろ。気色悪い」

 

「僕も嫌だ。でも、向こうがそう呼んでる」

 

 ロックは窓の外を見た。夜のロアナプラが流れていく。ネオン。倉庫。港のライト。人の声。エンジン音。無線のざらつき。どれもが、合唱長にとっては音なのかもしれない。誰がどの声に反応するか。誰が誰を守るか。誰が命令するか。誰が従うか。誰が止めるか。

 

 その中に、自分も含まれている。

 

 ロックの介入。

 

 ロックの保護。

 

 ロックの言語による再定義。

 

 勝手に名前をつけられたことを思い出し、彼は唇を噛んだ。

 

 レヴィが横目で見る。

 

「また考えすぎてる顔だな」

 

「考えないと、合唱長の言葉に飲まれます」

 

「飲まれる前に撃てばいい」

 

「それで終わる相手じゃありません」

 

「知ってるよ」

 

 レヴィは煙草を取り出しかけ、車内であることを思い出してやめた。

 

「だからムカつくんだろ」

 

 ロックは少し笑った。

 

「珍しく同意します」

 

「珍しくは余計だ」

 

 ベニーが端末を見た。

 

「ココから共有。HCLIも水上倉庫へ向かってる。バラライカも別ルートから」

 

 ダッチが短く言う。

 

「全員集合か」

 

 レヴィが笑う。

 

「合唱団らしくなってきたな」

 

 ロックはその冗談に笑えなかった。

 

     *

 

 水上倉庫は、港の奥に浮かぶ古い施設だった。

 

 正確には完全な船ではない。古い艀を改造した倉庫で、岸壁から細い連絡橋で繋がっている。かつては一時保管や検査待ちの荷を置くために使われていたらしい。今ではほとんど使われていない。水に浮かぶ廃倉庫。陸からも海からも近づけるが、逃げ道は限られる。罠には向いている。見せ物にも向いている。

 

 夜の水面に、倉庫の影が揺れていた。

 

 周囲のライトは少ない。だが、倉庫の内部にはかすかな明かりがある。

 

 ホテル・モスクワの車列が到着し、別方向からラグーン商会、HCLIも合流した。全員が連絡橋の手前で止まる。

 

 バラライカは水上倉庫を見た。

 

 ココも見た。

 

 ロックは二人の間に立つ形になった。

 

 レヴィが小声で言う。

 

「またそこかよ、ロック」

 

「好きで立っているわけじゃありません」

 

 バルメはココの背後にいる。

 

 ボリスはバラライカの横で、兵たちの配置を確認している。イリヤもいる。顔は緊張しているが、逃げてはいない。

 

 ベニーの端末が警告を出した。

 

「中から複数の音声信号。サフロノフの声紋もあります。それと……合唱長の信号」

 

 ワイリが水上倉庫を見て言う。

 

「開演だね」

 

 マオが嫌そうに言う。

 

「言うと思った」

 

 ダッチは連絡橋を見た。

 

「渡るしかないな」

 

 レームが頷く。

 

「罠でも、餌が中にある」

 

 バラライカは短く命じた。

 

「進む」

 

 その瞬間、水上倉庫のスピーカーが鳴った。

 

 港全体に届くほどではない。だが、連絡橋の手前にいる全員には聞こえる声量だった。

 

『ようこそ、赤い合唱へ』

 

 合唱長の声。

 

『大尉。ココ・ヘクマティアル。ロック。ラグーン商会。HCLI。帰れなかった兵士たち。白い商人は少し遠い席にいるようだが、それもよい』

 

 レヴィが吐き捨てる。

 

「見てやがる」

 

 合唱長は続けた。

 

『今夜は本番ではない。まだ、最後の稽古だ。だが、よい声が集まった』

 

 バラライカが静かに言った。

 

「サフロノフはどこだ」

 

 スピーカーから、別の声が流れた。

 

 老人の震えた声。

 

『大尉……私は……』

 

 ボリスの表情が硬くなる。

 

 ベニーが端末を見る。

 

「生声です。録音じゃない。少なくとも、今どこかで喋らされてる」

 

 バラライカの目が鋭くなった。

 

 合唱長が言った。

 

『彼はまだ歌える。だが、長くはない。聞きたければ、中へ』

 

 ロックは水上倉庫を見た。

 

 罠だ。

 

 誰にでもわかるほどの罠。

 

 だが、行かない理由にはならない。

 

 バラライカは一歩踏み出した。

 

 その前に、ロックが言った。

 

「大尉」

 

 彼女は振り返らない。

 

「何だ」

 

「これは、あなたの反応を取るための罠です」

 

「知っている」

 

「サフロノフを助けるためだけではない。あなたがどう助けようとするか、ボリスさんがどう動くか、兵たちがどう従うか、全部見ています」

 

「知っている」

 

「それでも行くんですね」

 

 バラライカはようやくロックを見た。

 

「部下の過去を売った男がいる。私の兵の声を盗んだ者がいる。そして、その証人がまだ生きている」

 

「はい」

 

「行かない理由があるか」

 

 ロックは黙った。

 

 ココが静かに言った。

 

「私も行く」

 

 バラライカは彼女を見る。

 

「欲しがるな」

 

「忘れない」

 

「それでも欲しくなったら」

 

「ロックが止める」

 

 バラライカの視線がロックへ移る。

 

「お前の仕事が増えたな」

 

「最近、多すぎます」

 

 レヴィが銃を確認しながら笑った。

 

「じゃあ行こうぜ。合唱長様に、ロアナプラの騒音を聞かせてやる」

 

 ワイリが楽しそうに言う。

 

「いいねえ。こっちも音を返そう」

 

 ベニーが即座に言った。

 

「返し方は選んでください」

 

 ダッチは短く言った。

 

「全員、橋を渡る。無駄に撃つな。無駄に喋るな」

 

 レヴィが言う。

 

「無駄に喋るなって、誰に言ってんだ」

 

 全員が一瞬、彼女を見た。

 

「何だよ」

 

 ロックは少しだけ笑った。

 

 その笑いは、すぐに消えた。

 

 水上倉庫の中から、サフロノフのかすれた声がもう一度聞こえた。

 

『大尉……来るな……これは……』

 

 音が途切れる。

 

 合唱長の声が重なる。

 

『さあ、大尉。死んだ国の声を、もう一度聞こう』

 

 バラライカは連絡橋へ足を踏み出した。

 

 ホテル・モスクワが続く。

 

 ラグーン商会が続く。

 

 HCLIが続く。

 

 夜の水面が、足元で黒く揺れていた。

 

 赤い合唱は、ついに水上倉庫で声を揃え始めていた。

 

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