Guns & Garlands — 銃と花輪 作:たこ焼き 龍月
水上倉庫へ続く連絡橋は、夜の港に細く伸びていた。鉄板は古く、足を乗せるたびに鈍い音を返す。下では黒い水が揺れている。ロアナプラの海は、昼でも底が見えない。夜になればなおさらだ。落ちれば沈むというより、街そのものに飲まれるように見える。水面には港の灯りが千切れて浮かび、赤や黄色の光が油膜の上で歪んでいた。
先頭を歩くのはバラライカだった。ボリスが半歩後ろにつき、ホテル・モスクワの兵たちが左右に展開する。その中にイリヤもいた。若い顔は硬い。だが足は止まっていない。命令が怖い。偽命令も怖い。だが、それよりも大尉の背中を見失うことを恐れているようだった。
ラグーン商会はその後ろに続いた。ダッチは連絡橋の揺れを確かめながら、倉庫の出入口と水上の退路を見ている。レヴィは銃を下げたまま、退屈そうに見せていた。だが、その目はずっと動いている。誰がどこを見て、誰の指が硬くなり、誰が先に声を出すか。レヴィはそういうものを考えずに見る。だから速い。
ベニーは端末を抱え、橋を渡りながら顔をしかめていた。
「嫌な感じしかしない」
ロックが小声で聞く。
「信号ですか」
「信号も。配置も。こっちの端末が、わざと見える範囲の反応を拾わされてる感じがする。たぶん、本命は隠れてる」
ワイリが楽しそうに横から覗き込む。
「見える罠と見えない罠。いいねえ」
「よくないです」
「でも、見える罠って親切だよ」
「その親切を踏むのが今の僕らなんですが」
マオがぼやく。
「お前ら、橋の上でそういう話するなよ。下が海だぞ」
HCLI側では、ココが静かに倉庫を見ていた。バルメは彼女の横にぴったりとつき、レームは周囲の影を見ている。マオはいつでも動ける位置、ワイリはベニーの近く。全員が自然に役割を取っている。それを見て、ホテル・モスクワの兵たちも警戒を強めた。味方ではない。だが、少なくとも今は同じ罠の中へ入っていく相手だ。
連絡橋の中ほどで、倉庫のスピーカーから声が流れた。
『一列に並ぶ兵士たち。護衛。商人。交渉役。運び屋。よい配置だ』
合唱長の声だった。
レヴィが顔をしかめる。
「実況すんな。気持ち悪ぃ」
『レヴィ。あなたは命令では動かない。だが、仲間の危険には動く。それも一つの譜面だ』
「譜面じゃねえ。気分だ」
『気分も記録できる』
「じゃあこれも記録しとけ。くたばれ」
バラライカが振り返らずに言った。
「挑発に乗るな」
レヴィは舌打ちした。
「向こうが先に喋ってんだよ」
「なら、こちらは選んで喋れ」
ロックはその言葉を聞いて、少しだけ息を整えた。選んで喋る。合唱長はすべてを勝手に名前に変える。介入、保護、拒絶、忠誠、怒り、恐怖。ならば、こちらは言葉を選ばなければならない。自分の声を、相手の楽譜にそのまま渡さないために。
水上倉庫の扉は半分開いていた。
中から赤い非常灯のような光が漏れている。倉庫内の照明ではない。仮設の照明だ。壁や床を赤く染め、置かれたコンテナの影を長く伸ばしている。その赤さは、血の色というより信号灯の色に近かった。注意、停止、危険。そのどれにも見える。
バラライカは扉の前で止まった。
「ボリス」
「はい」
「正面は私が行く。左右を押さえろ。若い兵は中央から離すな。ラグーン商会は左、HCLIは右。ダッチ、退路を見る。ベニー、ワイリ、信号源を探せ」
ワイリが片手を上げる。
「了解、大尉」
バラライカは彼を一瞥した。
「余計なことはするな」
「みんなそれ言うね」
ベニーが強く言った。
「言わせる行動をしてるんです」
ダッチはロックへ短く言う。
「ロック、お前は真ん中にいろ」
「またですか」
「お前が真ん中にいないと、両側が撃ち始める」
レヴィが笑う。
「便利だな」
ロックは深く息を吐いた。
「その言葉、嫌いになってきました」
ココが小さく言う。
「私も真ん中?」
バラライカが答えた。
「お前は右だ。だが勝手に装置へ近づくな」
「わかってる」
「バルメ」
バルメは鋭くバラライカを見る。
「何でしょう」
「お前はココ・ヘクマティアルを止めろ。敵からではなく、本人からだ」
バルメの目が一瞬だけ揺れた。
ココは何も言わなかった。
ロックはその沈黙に、胸の奥が重くなるのを感じた。
*
倉庫内は広かった。水に浮かぶ古い艀を改造した施設だけあって、床はわずかに揺れている。両側には古いコンテナが並び、中央には広い空間があった。その奥に、仮設の機材群が見えた。旧病院跡や旧礼拝堂で見た装置よりも大きい。古い通信盤、録音機材、複数のスピーカー、端末、そして何本ものケーブル。それらが中央の台へ集められている。
台の上には、椅子があった。
その椅子に、一人の老人が座らされていた。
ヴィクトル・サフロノフ。
写真より痩せ、顔は青白い。だが、生きていた。腕と身体は拘束されているが、口は塞がれていない。彼の前には小型のマイクが置かれている。サフロノフはうつむいていたが、倉庫へ入ってきた者たちの足音に気づいたのか、ゆっくり顔を上げた。
ボリスが低く言った。
「サフロノフ」
老人の目がボリスを見た。
次にバラライカを見た。
その瞬間、彼の顔に浮かんだのは恐怖だけではなかった。恥、後悔、諦め、救いを求める弱さ。それらが一瞬で混ざり、すぐに崩れた。
「……大尉」
声はかすれていた。
バラライカは一歩も急がなかった。ゆっくり、中央へ進む。
合唱長の声が倉庫の上部スピーカーから流れた。
『感動的な再会だ。記録係と大尉。売った者と、売られた声を持つ者』
バラライカは答えない。
『サフロノフは多くを覚えている。どの符丁で誰が動いたか。どの命令で兵が死地へ向かったか。どの沈黙が恐怖で、どの沈黙が忠誠だったか。彼は紙を売ったのではない。記憶を売った』
サフロノフが震える声で言った。
「違う……私は、そこまでは……」
『知らなかった。そう言いたいのだろう。だが、知らないふりを選んだことも反応だ』
ロックは合唱長の声に歯を食いしばった。正しいように聞こえる言葉ほど危ない。相手の罪を言葉にしながら、その罪さえ自分の観測材料にしている。
バラライカがようやく口を開いた。
「サフロノフ」
「……はい」
「お前は符丁を売った」
「はい」
「誰に」
老人は唇を震わせた。
「最初は、記録収集家だと……歴史資料を集めていると。オルフェウス・リンクの男です。名前は……本名ではないと思います。エミールと名乗っていた」
ボリスが小さく反応する。
ベニーが端末に入力する。
バラライカは続けた。
「合唱長とはいつ会った」
「顔は見ていません。声だけです。灰色の男を通じて、何度か質問されました」
「ミスター・グレイか」
「たぶん……はい。私は、彼らが符丁表だけを欲しがっていると思っていた。けれど、違った。彼らは、私に聞いた。あの命令を受けた時、兵はどれくらいで動いたか。誰が疑ったか。誰が報告したか。誰が命令を待たずに走ったか」
バラライカの目が冷える。
「答えたのか」
「……答えました」
ホテル・モスクワの兵たちの空気が変わった。
ボリスがわずかに手を上げ、兵たちを制する。
合唱長の声が楽しそうに響く。
『怒り。抑制。副官の制御。若い兵の嫌悪。よい音だ』
イリヤが小さく息を吸った。
ロックは彼を見た。イリヤは拳を握っていたが、動かない。記録されているとわかっていて、それでも自分の怒りを飲み込もうとしている。
レヴィが低く言った。
「胸糞悪ぃな」
バルメも同じように顔を硬くしている。ココはサフロノフではなく、機材を見ていた。目の中に、危うい光がある。ロックはそれに気づいた。
「ココ」
ココは視線を動かさない。
「見てるだけ」
「今、その言葉は信用できません」
ココはようやくロックを見た。
バラライカが背中越しに言う。
「言ったはずだ。商人の目をするな」
ココは唇を引き結んだ。
合唱長の声が流れる。
『ココ・ヘクマティアル。あなたはよく響く。欲望と抑制が同時に鳴る。知りたい。壊したい。使いたい。止めたい。あなたの中にも合唱がある』
バルメが声を荒げかけた。
「黙れ」
ココが手を上げて止める。
「バルメ」
「ですが」
「止めて」
ココの声は静かだった。だが、その静けさは危うい。怒りよりも、欲望よりも、もっと薄く張った氷のようだった。
ロックは彼女の横へ行き、低く言った。
「ココ。今あなたが何を考えているか、合唱長に読ませないでください」
「どうやって?」
「自分で決めてください。見ている理由を」
ココは目を伏せた。
「……壊すために見る」
「本当に?」
「本当に」
ロックは頷いた。
「なら、そう覚えていてください」
合唱長の声が、少しだけ楽しげに歪む。
『言語による再定義。ロック、あなたはやはり面白い』
レヴィがスピーカーを睨む。
「おい、いい加減その分析口調やめろ。ぶっ壊すぞ」
『レヴィ。あなたは壊すことで自分の声を取り戻そうとする』
「違うね」
『何が違う』
「ムカつくから壊すだけだ」
ワイリが横で小さく笑った。
「それも強い定義だね」
ベニーが端末を見ながら言う。
「笑ってる場合じゃないです。装置、倉庫全体に繋がっています。サフロノフのマイクだけじゃない。こっちの通信、ホテル・モスクワの端末、HCLIの短距離通信、全部拾おうとしてる」
ダッチが倉庫の側面を見た。
「出口は?」
「正面の連絡橋、奥の海側扉、右奥に小型艇用の接岸口」
レームが頷く。
「逃げ道も用意されている」
ダッチは言った。
「それは向こうのためか、こっちのためか」
ボリスが短く答える。
「両方でしょう」
*
最初の偽命令が来たのは、サフロノフの拘束を外そうとした時だった。
ホテル・モスクワの兵たちの端末が一斉に鳴る。HCLI側の通信にもノイズが走る。ラグーン商会の端末にも、ベニーの画面を通じて文字列が流れ込んだ。
命令:サフロノフを保護対象から除外。証言の流出を阻止。
その下に、古い符丁。
さらに別の表示。
HCLI:装置解析を優先。証人は二次対象。
LAGOON:交渉役を後退させろ。
HOTEL MOSCOW:大尉の安全を最優先。旧記録係を排除。
レヴィが叫んだ。
「ふざけんな! 誰がロックを下げるか!」
ロックは思わず振り返る。
「そこですか」
「うるせえ!」
バルメはココの前へ出る。
「ココ、下がってください」
ココは装置を見たまま言った。
「下がらない」
「ココ」
「命令じゃないわ。偽物」
「本物でも、私はあなたを守ります」
「知ってる」
バラライカは兵たちへ静かに命じた。
「全員、命令には従うな。内容、反応を記録。サフロノフは生かして確保する。私の命令だ」
兵たちが応答する。
「了解」
イリヤも答えた。
「了解」
だが、彼の目はサフロノフに向いていた。怒りがある。裏切り者を見る目だった。サフロノフはその視線に気づき、うなだれる。
バラライカはイリヤを見た。
「何を感じた」
イリヤは少し詰まりながらも答える。
「この男を、許せないと思いました」
「動きたいか」
「はい」
「何のために」
「大尉と部隊の過去を売ったからです」
「違う」
イリヤは息を呑む。
バラライカは言った。
「お前は、自分が知らない過去を守ろうとしている」
イリヤは黙った。
「それは悪いことではない。だが、知らないものを守るために、今ある命令を間違えるな」
「……了解」
「サフロノフは生かす」
「了解」
合唱長の声が低く流れた。
『若い兵は過去を相続する。知らない戦争を守ろうとする。よい声だ』
イリヤの顔が歪む。
ロックが言った。
「イリヤさん。あなたの反応は、今あなたが決めました。相手が名前をつけても、それは相手のものじゃない」
イリヤはロックを見る。
「はい」
レヴィが呟く。
「説教係が板についてきたな」
ロックは返さない。
ダッチがサフロノフの拘束を確認し、ボリスと共に外そうとする。その時、倉庫の奥で金属音がした。右奥のコンテナの間から、灰色の服を着た男たちが出てくる。三人。銃を構えているが、撃つ気より時間を稼ぐ配置に見えた。
レヴィがにやりと笑う。
「ようやく人間のお出ましか」
ダッチが短く言う。
「殺すな」
「努力する」
「努力では足りん」
「全員それ言うな!」
レヴィとレームが同時に動いた。レヴィは正面の注意を奪い、レームは横へ抜ける。ホテル・モスクワの兵が反対側から圧をかけ、バルメはココの前から離れずに射線を潰す位置へ移る。動きは速いが、無駄な発砲は避けられた。相手は逃げようとするが、ポジションが悪い。逃げ道を塞ぐために出てきたはずの彼らが、逆に逃げ道を失っていく。
ワイリが小さく言う。
「いいね、倉庫の反響が変わった」
ベニーが叫ぶ。
「感想は後で!」
灰色の男の一人が小型端末へ手を伸ばす。ベニーの画面に警告が出た。
「リモートで装置を切り替えようとしてます!」
ワイリが動いた。
「それは困るね」
彼が何をしたかは、誰にも細かく説明されなかった。ただ、灰色の男の端末が短く火花を散らし、機能を失った。男は驚き、その隙にホテル・モスクワの兵に押さえられる。
ベニーがワイリを見る。
「今、何しました?」
「静かにしてもらった」
「説明になっていません」
「説明したら長いよ」
「しないでください」
レヴィは別の男を壁際へ追い込み、銃口を向ける。
「はい、終了。合唱団員さんよ、チケットはどこで買えんだ?」
男は黙っている。
レヴィが顔を近づける。
「黙ると高くつくぞ」
ボリスが言う。
「生かしておけ」
「わかってるって」
*
サフロノフの拘束が外されると、老人は立てなかった。
ボリスが支え、近くの箱へ座らせる。バラライカは彼の前に立った。サフロノフは顔を上げることができない。合唱長の声は、まだ倉庫内に時折ノイズとして残っている。完全には切れていない。こちらのすべてを聞いているかはわからないが、何かは拾っている。
「サフロノフ」
バラライカが言った。
「はい」
「お前が売ったものは、符丁表だけではない」
「……はい」
「お前は、我々の過去を売った」
「はい」
「なぜだ」
サフロノフはしばらく黙っていた。
その沈黙もまた、記録されているのだろう。だが、誰も急かさなかった。
「怖かったのです」
老人は言った。
「何が」
「生き残ったことが」
ボリスの表情がわずかに動く。
サフロノフは続けた。
「国が消えた時、私は兵ではありませんでした。紙を持って逃げた。記録を持って逃げた。誰がどこで命令を受け、誰が戻らず、誰が黙ったか。そういう紙を持っていた。最初は、いつか必要になると思っていました。次に、売れば生きられると思った。最後には、それが自分を殺すとわかった」
バラライカは黙って聞いている。
「合唱長は、私に言いました。命令は死なないと。記録係は墓守ではない、楽譜係だと。私は笑いました。だが、彼らは本気だった。命令が届いた時、人間がどう反応するか。誰が声に従い、誰が疑い、誰が別の誰かを見るか。それを集めている」
ココが静かに聞いた。
「赤い合唱は、花輪の一部?」
サフロノフはココを見た。
「名前は聞いた。花輪。声を束ねるもの。赤い合唱は、その中に命令を通すための喉だと」
ベニーが小声で言う。
「喉」
ワイリは装置を見た。
「耳で集めて、喉で返す」
ロックは嫌な予感を覚えた。
「つまり、赤い合唱は命令を聞くだけじゃなく、いつか命令を出す」
サフロノフは頷いた。
「本物と思わせる命令を」
倉庫内が沈黙した。
バラライカが低く言う。
「誰の声で」
サフロノフは、彼女を見た。
答えは言わなくてもわかった。
バラライカの声。
ボリスの声。
ココの声。
ロックの声。
張の声。
キャスパーの声。
祈る者の声。
命令する者の声。
人が信じる声すべて。
合唱長のノイズが、かすかに笑った。
『よく説明できた、サフロノフ』
バラライカがスピーカーを見上げる。
「出てこい」
『まだ早い』
「臆病者が」
『観測者は舞台に立たない』
「なら、こちらから舞台を壊す」
ベニーが端末を見た。
「合唱長の信号、本体じゃないです。でも、この水上倉庫の装置はかなり重要です。旧病院、旧礼拝堂、地下中継室の反応を集約してます」
ココが言う。
「壊す前に、最低限の構造を知る必要がある」
バラライカが彼女を見る。
「またそれか」
「必要よ」
「欲望だ」
「違う」
「違わん」
ココは今度、引かなかった。
「これを知らなければ、次にあなたの声で命令が出た時、誰も止められない」
バラライカの目が細くなる。
「私の声を真似るなら、その前に喉を潰す」
「喉が一つなら、それで済む。でも、庭師は一つだけ作っていない」
ロックはヨナの言葉を思い出した。
庭師は、花輪を一つだけ作ってない。
バラライカも、その言葉を知っているように黙った。
ココは続けた。
「壊す。けれど、何を壊したのか知る。知らずに壊せば、次に同じものを見ても気づけない」
バルメはココを見た。心配と理解が混ざった目だった。
バラライカはロックへ視線を向けた。
「ロック」
「はい」
「お前はどう見る」
また真ん中だ。
ロックは思った。
だが、逃げるわけにはいかなかった。
「ココは欲しがっています」
ココは黙った。
「でも、今回は壊す理由も見ています。大尉は壊したい。ですが、次を止めるには最低限の記録が必要なのもわかっているはずです」
「お前はいつも両方に嫌われる答えを出す」
「最近、慣れました」
レヴィが小さく笑った。
ロックは続けた。
「ベニーとワイリが最低限だけ見る。HCLIも同じ情報を持つ。ただし、装置そのものは残さない。記録も、誰か一人が独占しない。ホテル・モスクワ、HCLI、ラグーン商会で相互に確認する」
ベニーが悲鳴に近い声を出す。
「また僕が最悪に公正な作業をする流れですか?」
ワイリが笑う。
「いいじゃない。公正って楽しいよ」
「楽しくありません!」
バラライカはしばらく黙った。
ココも黙っている。
合唱長の声が流れる。
『合意形成。相互監視。知識の分割。よい反応だ』
レヴィが天井へ向けて言った。
「お前は黙ってろ」
バラライカは言った。
「十分だ。最低限の記録を取れ。終わったら壊す」
ココは頷いた。
「それでいい」
バラライカは彼女を睨む。
「それ以上欲しがれば、撃つ」
「わかってる」
ロックは小さく息を吐いた。
だが、安堵するには早かった。
*
作業が始まると、倉庫そのものが反応し始めた。
ベニーとワイリが中央装置へ向かい、HCLI側の簡易端末を接続する。具体的な操作は誰も口にしない。ただ、赤いランプが点滅し、古いスピーカーから断片的な声が流れ始めた。
ホテル・モスクワの偽命令。
サフロノフの証言。
旧礼拝堂の祈り。
キャスパーの取引通信。
ロックの声。
ココの声。
バラライカの声。
短い断片が、重なって流れる。
『命令には従うな』
『知りたい』
『見張っていて』
『サフロノフは生かす』
『便利だからね』
『声が燃える』
『責任を取る者だ』
『祈りの声は、まだ集まる』
イリヤが耳を押さえかけた。
レヴィがそれに気づく。
「おい、若いの」
イリヤは顔を上げる。
「はい」
「聞きたくねえなら、聞かなくていい」
「ですが、任務中です」
「耳塞いでも目は開けられる」
イリヤは戸惑った。
「前にも似たようなことを」
「何度でも言う。命令が怖いなら、耳塞いで前見ろ。耳で死ぬな」
イリヤは少しだけ笑った。
「了解」
レヴィは照れたように顔をしかめる。
「笑うな」
ボリスはそのやり取りを見ていた。
バラライカも、見ていた。
何も言わなかった。
装置の音が増える。
ベニーが叫んだ。
「これ、まずい。装置を壊される前に、自分で記録を外へ逃がそうとしてる」
ワイリが壁のケーブルを見る。
「海側の線だ。小型艇か、浮き中継か、どこかへ出ようとしてる」
ダッチが即座に言う。
「海側扉を見る」
レームとマオが動く。
ボリスも兵を送る。
倉庫の奥で、別の合唱団員たちが動いた。灰色の服ではない。普通の作業員のような顔をした二人が、コンテナの影から出て、海側の小型艇へ向かおうとしていた。
「出たぞ!」
レヴィが動く。
バルメも同時に動いた。ココから離れすぎない範囲で、射線を押さえる。ボリスとレームが奥へ回り、ダッチは退路を塞ぐ。レヴィは一人に追いつき、壁際へ追い込む。
「普通の顔して逃げてんじゃねえ!」
男は何も言わず、小型端末を投げ捨てようとした。
その前に、マオが横から押さえる。
「落とすな。証拠だ」
レヴィが笑う。
「やるじゃねえか」
「お前よりは丁寧だ」
「うるせえ」
もう一人は海側扉へ走ったが、そこにはボリスがいた。
「止まれ」
男は止まらなかった。
ボリスは一歩踏み込み、必要最低限の動きで相手を床へ押さえた。派手さはない。だが、完全だった。イリヤはその動きを見ていた。自分もいつかああ動けるのか、と一瞬考えた。その考えすら、合唱長に拾われるのかもしれない。だが、もうそれを恐れて止まることはしなかった。
ベニーが叫ぶ。
「外部流出、まだ止まりません!」
ワイリが言う。
「主線じゃない。水中かも」
「水中?」
ベニーが青ざめる。
「そんなところまで?」
ワイリは楽しそうではなかった。
「庭師は根を張るからね」
ココが装置へ近づこうとした。
バルメが止める。
「ココ」
「わかってる。でも、見ないと」
バラライカの声が飛ぶ。
「止まれ」
ココは止まった。
だが、目は装置に向いている。
ロックは彼女の横へ行く。
「何が見えますか」
「水上倉庫の下に、古い中継器がある。浮かんでるんじゃない。水面下に吊ってる。そこへ記録を逃がそうとしてる」
「止められますか」
「私ではなく、ベニーとワイリなら」
ベニーが悲鳴のように言う。
「今聞こえました!」
ワイリはすでに動いていた。
「下の根を切るなら、ここからじゃ届きにくいね」
レヴィが言う。
「じゃあどうすんだ」
ワイリは水上倉庫の床の点検口を指した。
「下へ行く」
ベニーは即座に首を振った。
「嫌です」
「でも、行かないと逃げる」
「嫌ですけど行きます!」
レヴィが笑った。
「お前も大概だな」
「笑わないで!」
ダッチが言った。
「ベニー、ワイリ、俺が行く。レヴィ、ここを押さえろ。ロック、ココと大尉を見てろ」
「俺が一番難しくないですか」
「そうだ」
「否定してください」
ダッチはしなかった。
*
点検口の下は、倉庫の浮体内部だった。
狭く、湿っていて、鉄の匂いが強い。ベニーは端末を片手に、足元に注意しながら進む。ワイリはなぜかこういう場所に慣れているように見える。ダッチは後ろから二人を守りつつ、構造を見ていた。
「こんなところに中継器を吊るすなんて、趣味が悪い」
ベニーが呟く。
ワイリは答える。
「見つかりにくいし、水上倉庫全体の音を拾える。実用的ではあるね」
「褒めないでください」
「褒めてないよ。嫌ってる」
ダッチが低く言う。
「止められるか」
ベニーは画面を見る。
「直接触れれば、たぶん。ただし、向こうも気づいてる」
その言葉の直後、上から合唱長の声が微かに響いた。
『地下ではなく、水の下へ。よい判断だ』
ベニーが顔をしかめる。
「こっちにも声が来るのか」
ワイリは狭い通路の奥を見た。
「声は配管を通るからね」
ダッチが言う。
「急げ」
彼らは奥へ進んだ。そこには、小型の防水ケースが固定されていた。古いケーブルと新しい通信線が繋がっている。水上倉庫の下にぶら下げられた、赤い合唱の逃げ道。ベニーは息を吐いた。
「これだ」
ワイリが横から覗く。
「根っこだね」
「はい。切りましょう」
「いい返事」
ベニーとワイリは作業に入る。手順は口にしない。ただ、ベニーの額に汗が浮かび、ワイリの顔から軽さが消える。ダッチは背後を見ていた。
狭い通路の奥で、金属音。
誰かが来る。
ダッチは短く言った。
「客だ」
灰色の服を着た男が二人、通路の奥から現れた。狭いため、大きな動きはできない。ダッチは前へ出た。レヴィのような派手さはない。必要な距離を潰し、相手の動きを止める。短い衝突で、二人は床に押さえられた。
ベニーは振り返らない。
「あと少し」
ワイリが言う。
「こっちも」
防水ケースのランプが赤から黄色へ、そして消えた。
上から流れていた声が乱れる。
合唱長のノイズが一瞬だけ歪んだ。
『……根を……』
声が途切れる。
ベニーは深く息を吐いた。
「切れた」
ダッチは頷いた。
「上へ戻るぞ」
*
上の倉庫では、合唱長の声が不安定になっていた。
ベニーたちが水面下の中継を切ったことで、装置は外へ記録を逃がせなくなった。残った装置は倉庫内のものだけ。だが、その分、最後の抵抗のようにスピーカーが一斉に鳴り始めた。
声が重なる。
バラライカの声を模したもの。
ココの声を模したもの。
ロックの声を模したもの。
張の声らしきもの。
キャスパーの笑い声。
サフロノフの謝罪。
祈り。
命令。
取引。
警告。
すべてが混ざり、意味を失いながら倉庫内に満ちていく。
イリヤが耳を押さえた。
ホテル・モスクワの兵たちも顔をしかめる。
バルメはココを守るように立ち、レヴィは天井を睨み、ボリスは兵たちを落ち着かせる。
バラライカは声の中を歩いた。
中央装置の前に立つ。
ココもその横へ来た。
ロックは二人の間に立つ。
「まだ近づくんですか」
ココは言った。
「見届ける」
バラライカが言う。
「壊す」
ロックは頷いた。
「なら、同じ場所に立てます」
バラライカとココは、同時にロックを見た。
レヴィが遠くから叫ぶ。
「ロック! そこ、声が一番うるせえぞ!」
「知ってます!」
合唱長の声が最後に強く響いた。
『大尉。あなたの声は取った。ココ・ヘクマティアル、あなたの欲望も。ロック、あなたの介入も。レヴィ、あなたの拒絶も。ボリス、あなたの抑制も。庭は育つ』
バラライカは装置を見た。
「育つ前に刈る」
ココが低く言った。
「次の根を探す」
ロックが続けた。
「そして、誰か一人には渡さない」
合唱長の声が歪んだ。
『合唱は止まらない』
バラライカは短く言った。
「黙れ」
装置が破壊された。
具体的な手順も、派手な描写もなかった。ただ、ワイリとベニーが切った逃げ道を失った装置は、中央で機能を失い、ランプを落とし、スピーカーの声を失った。最後に短いノイズが鳴り、水上倉庫は沈黙した。
赤い光だけが残った。
サフロノフはうつむいていた。
バラライカは彼の前に戻る。
「サフロノフ」
「……はい」
「お前は生きて証言する」
老人は顔を上げた。
「私を、殺さないのですか」
バラライカは冷たく言った。
「死ねば、合唱長の楽譜になる。生きて喋れ」
サフロノフの顔が歪んだ。
「許されるとは思っていません」
「許すとは言っていない」
「はい」
「だが、お前の声はまだ使える」
その言葉に、ロックは少しだけ顔をしかめた。
バラライカはそれを見ていた。
「不満か」
「……少し」
「よろしい。覚えておけ。使えるものを使うのは、敵だけではない」
「でも、人を道具にすると合唱長と同じ場所に近づきます」
バラライカは静かに答えた。
「だから、お前が見ていろ」
ロックは黙った。
ココが小さく言った。
「見張る相手が増えたわね」
ロックは苦笑した。
「本当に、多すぎます」
*
水上倉庫を出る頃、夜はさらに深くなっていた。
サフロノフはホテル・モスクワの兵に支えられて連絡橋を渡る。イリヤはその少し後ろを歩いていた。彼は老人を許してはいない。おそらく、これからも簡単には許せない。だが、撃ちたい怒りを命令に変えず、自分の中に置いて歩いている。それだけで、訓練の意味はあったのかもしれない。
レヴィは連絡橋の上で煙草に火をつけた。
「ひっでえ倉庫だったな」
ダッチが言う。
「生きて出た」
「基準が低いんだよ」
ベニーは疲れ切った顔で端末を抱えている。
「もう水上倉庫も礼拝堂も病院も地下も嫌だ」
ワイリが笑う。
「次は何だろうね」
マオが本気で睨む。
「言うな」
ココは水面を見ていた。
ロックはその横に立つ。
「記録は?」
「最低限だけ」
「本当に?」
「本当に」
ココはロックを見る。
「欲しかったわ」
「はい」
「でも、全部は持たない」
「それでいいと思います」
「いい、ではないわね。たぶん、悪くないだけ」
ロックは頷いた。
「それでも、今は十分です」
背後でバラライカが言った。
「十分ではない」
ココが振り返る。
バラライカは水上倉庫を見ていた。
「合唱長は逃げた。赤い合唱団も残っている。サフロノフは証人にすぎん。根はまだある」
ココは頷いた。
「ええ」
バラライカはロックへ視線を向けた。
「次は、装置そのものを探す」
ロックは聞き返した。
「装置そのもの?」
「今夜の倉庫は集約点だ。喉ではない」
ココが続ける。
「本当の喉は別にある」
ロックは嫌な予感を覚えた。
「どこに?」
ベニーが端末を見て、青ざめた顔で言った。
「……港じゃない。ロアナプラの内側です。市街地側に、短い反応が逃げています」
レヴィが煙を吐く。
「今度は街かよ」
ベニーは画面を拡大した。
「反応先は、古い劇場跡。昔、ロシア系の劇団や歌手が使っていた建物らしい」
ワイリが小さく言った。
「合唱には、舞台が必要ってことか」
誰も笑わなかった。
バラライカは夜の街を見た。
「劇場か」
その声は静かだった。
だが、そこには次の戦いの形がすでにあった。
赤い合唱は、水上倉庫で声を失った。
しかし、喉はまだ別の場所で息をしている。
ロアナプラの街の奥で、古い劇場が次の幕を開けようとしていた。