Guns & Garlands — 銃と花輪   作:たこ焼き 龍月

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第七章 ラグーン商会、赤い倉庫へ

 

 

 水上倉庫へ続く連絡橋は、夜の港に細く伸びていた。鉄板は古く、足を乗せるたびに鈍い音を返す。下では黒い水が揺れている。ロアナプラの海は、昼でも底が見えない。夜になればなおさらだ。落ちれば沈むというより、街そのものに飲まれるように見える。水面には港の灯りが千切れて浮かび、赤や黄色の光が油膜の上で歪んでいた。

 

 先頭を歩くのはバラライカだった。ボリスが半歩後ろにつき、ホテル・モスクワの兵たちが左右に展開する。その中にイリヤもいた。若い顔は硬い。だが足は止まっていない。命令が怖い。偽命令も怖い。だが、それよりも大尉の背中を見失うことを恐れているようだった。

 

 ラグーン商会はその後ろに続いた。ダッチは連絡橋の揺れを確かめながら、倉庫の出入口と水上の退路を見ている。レヴィは銃を下げたまま、退屈そうに見せていた。だが、その目はずっと動いている。誰がどこを見て、誰の指が硬くなり、誰が先に声を出すか。レヴィはそういうものを考えずに見る。だから速い。

 

 ベニーは端末を抱え、橋を渡りながら顔をしかめていた。

 

「嫌な感じしかしない」

 

 ロックが小声で聞く。

 

「信号ですか」

 

「信号も。配置も。こっちの端末が、わざと見える範囲の反応を拾わされてる感じがする。たぶん、本命は隠れてる」

 

 ワイリが楽しそうに横から覗き込む。

 

「見える罠と見えない罠。いいねえ」

 

「よくないです」

 

「でも、見える罠って親切だよ」

 

「その親切を踏むのが今の僕らなんですが」

 

 マオがぼやく。

 

「お前ら、橋の上でそういう話するなよ。下が海だぞ」

 

 HCLI側では、ココが静かに倉庫を見ていた。バルメは彼女の横にぴったりとつき、レームは周囲の影を見ている。マオはいつでも動ける位置、ワイリはベニーの近く。全員が自然に役割を取っている。それを見て、ホテル・モスクワの兵たちも警戒を強めた。味方ではない。だが、少なくとも今は同じ罠の中へ入っていく相手だ。

 

 連絡橋の中ほどで、倉庫のスピーカーから声が流れた。

 

『一列に並ぶ兵士たち。護衛。商人。交渉役。運び屋。よい配置だ』

 

 合唱長の声だった。

 

 レヴィが顔をしかめる。

 

「実況すんな。気持ち悪ぃ」

 

『レヴィ。あなたは命令では動かない。だが、仲間の危険には動く。それも一つの譜面だ』

 

「譜面じゃねえ。気分だ」

 

『気分も記録できる』

 

「じゃあこれも記録しとけ。くたばれ」

 

 バラライカが振り返らずに言った。

 

「挑発に乗るな」

 

 レヴィは舌打ちした。

 

「向こうが先に喋ってんだよ」

 

「なら、こちらは選んで喋れ」

 

 ロックはその言葉を聞いて、少しだけ息を整えた。選んで喋る。合唱長はすべてを勝手に名前に変える。介入、保護、拒絶、忠誠、怒り、恐怖。ならば、こちらは言葉を選ばなければならない。自分の声を、相手の楽譜にそのまま渡さないために。

 

 水上倉庫の扉は半分開いていた。

 

 中から赤い非常灯のような光が漏れている。倉庫内の照明ではない。仮設の照明だ。壁や床を赤く染め、置かれたコンテナの影を長く伸ばしている。その赤さは、血の色というより信号灯の色に近かった。注意、停止、危険。そのどれにも見える。

 

 バラライカは扉の前で止まった。

 

「ボリス」

 

「はい」

 

「正面は私が行く。左右を押さえろ。若い兵は中央から離すな。ラグーン商会は左、HCLIは右。ダッチ、退路を見る。ベニー、ワイリ、信号源を探せ」

 

 ワイリが片手を上げる。

 

「了解、大尉」

 

 バラライカは彼を一瞥した。

 

「余計なことはするな」

 

「みんなそれ言うね」

 

 ベニーが強く言った。

 

「言わせる行動をしてるんです」

 

 ダッチはロックへ短く言う。

 

「ロック、お前は真ん中にいろ」

 

「またですか」

 

「お前が真ん中にいないと、両側が撃ち始める」

 

 レヴィが笑う。

 

「便利だな」

 

 ロックは深く息を吐いた。

 

「その言葉、嫌いになってきました」

 

 ココが小さく言う。

 

「私も真ん中?」

 

 バラライカが答えた。

 

「お前は右だ。だが勝手に装置へ近づくな」

 

「わかってる」

 

「バルメ」

 

 バルメは鋭くバラライカを見る。

 

「何でしょう」

 

「お前はココ・ヘクマティアルを止めろ。敵からではなく、本人からだ」

 

 バルメの目が一瞬だけ揺れた。

 

 ココは何も言わなかった。

 

 ロックはその沈黙に、胸の奥が重くなるのを感じた。

 

     *

 

 倉庫内は広かった。水に浮かぶ古い艀を改造した施設だけあって、床はわずかに揺れている。両側には古いコンテナが並び、中央には広い空間があった。その奥に、仮設の機材群が見えた。旧病院跡や旧礼拝堂で見た装置よりも大きい。古い通信盤、録音機材、複数のスピーカー、端末、そして何本ものケーブル。それらが中央の台へ集められている。

 

 台の上には、椅子があった。

 

 その椅子に、一人の老人が座らされていた。

 

 ヴィクトル・サフロノフ。

 

 写真より痩せ、顔は青白い。だが、生きていた。腕と身体は拘束されているが、口は塞がれていない。彼の前には小型のマイクが置かれている。サフロノフはうつむいていたが、倉庫へ入ってきた者たちの足音に気づいたのか、ゆっくり顔を上げた。

 

 ボリスが低く言った。

 

「サフロノフ」

 

 老人の目がボリスを見た。

 

 次にバラライカを見た。

 

 その瞬間、彼の顔に浮かんだのは恐怖だけではなかった。恥、後悔、諦め、救いを求める弱さ。それらが一瞬で混ざり、すぐに崩れた。

 

「……大尉」

 

 声はかすれていた。

 

 バラライカは一歩も急がなかった。ゆっくり、中央へ進む。

 

 合唱長の声が倉庫の上部スピーカーから流れた。

 

『感動的な再会だ。記録係と大尉。売った者と、売られた声を持つ者』

 

 バラライカは答えない。

 

『サフロノフは多くを覚えている。どの符丁で誰が動いたか。どの命令で兵が死地へ向かったか。どの沈黙が恐怖で、どの沈黙が忠誠だったか。彼は紙を売ったのではない。記憶を売った』

 

 サフロノフが震える声で言った。

 

「違う……私は、そこまでは……」

 

『知らなかった。そう言いたいのだろう。だが、知らないふりを選んだことも反応だ』

 

 ロックは合唱長の声に歯を食いしばった。正しいように聞こえる言葉ほど危ない。相手の罪を言葉にしながら、その罪さえ自分の観測材料にしている。

 

 バラライカがようやく口を開いた。

 

「サフロノフ」

 

「……はい」

 

「お前は符丁を売った」

 

「はい」

 

「誰に」

 

 老人は唇を震わせた。

 

「最初は、記録収集家だと……歴史資料を集めていると。オルフェウス・リンクの男です。名前は……本名ではないと思います。エミールと名乗っていた」

 

 ボリスが小さく反応する。

 

 ベニーが端末に入力する。

 

 バラライカは続けた。

 

「合唱長とはいつ会った」

 

「顔は見ていません。声だけです。灰色の男を通じて、何度か質問されました」

 

「ミスター・グレイか」

 

「たぶん……はい。私は、彼らが符丁表だけを欲しがっていると思っていた。けれど、違った。彼らは、私に聞いた。あの命令を受けた時、兵はどれくらいで動いたか。誰が疑ったか。誰が報告したか。誰が命令を待たずに走ったか」

 

 バラライカの目が冷える。

 

「答えたのか」

 

「……答えました」

 

 ホテル・モスクワの兵たちの空気が変わった。

 

 ボリスがわずかに手を上げ、兵たちを制する。

 

 合唱長の声が楽しそうに響く。

 

『怒り。抑制。副官の制御。若い兵の嫌悪。よい音だ』

 

 イリヤが小さく息を吸った。

 

 ロックは彼を見た。イリヤは拳を握っていたが、動かない。記録されているとわかっていて、それでも自分の怒りを飲み込もうとしている。

 

 レヴィが低く言った。

 

「胸糞悪ぃな」

 

 バルメも同じように顔を硬くしている。ココはサフロノフではなく、機材を見ていた。目の中に、危うい光がある。ロックはそれに気づいた。

 

「ココ」

 

 ココは視線を動かさない。

 

「見てるだけ」

 

「今、その言葉は信用できません」

 

 ココはようやくロックを見た。

 

 バラライカが背中越しに言う。

 

「言ったはずだ。商人の目をするな」

 

 ココは唇を引き結んだ。

 

 合唱長の声が流れる。

 

『ココ・ヘクマティアル。あなたはよく響く。欲望と抑制が同時に鳴る。知りたい。壊したい。使いたい。止めたい。あなたの中にも合唱がある』

 

 バルメが声を荒げかけた。

 

「黙れ」

 

 ココが手を上げて止める。

 

「バルメ」

 

「ですが」

 

「止めて」

 

 ココの声は静かだった。だが、その静けさは危うい。怒りよりも、欲望よりも、もっと薄く張った氷のようだった。

 

 ロックは彼女の横へ行き、低く言った。

 

「ココ。今あなたが何を考えているか、合唱長に読ませないでください」

 

「どうやって?」

 

「自分で決めてください。見ている理由を」

 

 ココは目を伏せた。

 

「……壊すために見る」

 

「本当に?」

 

「本当に」

 

 ロックは頷いた。

 

「なら、そう覚えていてください」

 

 合唱長の声が、少しだけ楽しげに歪む。

 

『言語による再定義。ロック、あなたはやはり面白い』

 

 レヴィがスピーカーを睨む。

 

「おい、いい加減その分析口調やめろ。ぶっ壊すぞ」

 

『レヴィ。あなたは壊すことで自分の声を取り戻そうとする』

 

「違うね」

 

『何が違う』

 

「ムカつくから壊すだけだ」

 

 ワイリが横で小さく笑った。

 

「それも強い定義だね」

 

 ベニーが端末を見ながら言う。

 

「笑ってる場合じゃないです。装置、倉庫全体に繋がっています。サフロノフのマイクだけじゃない。こっちの通信、ホテル・モスクワの端末、HCLIの短距離通信、全部拾おうとしてる」

 

 ダッチが倉庫の側面を見た。

 

「出口は?」

 

「正面の連絡橋、奥の海側扉、右奥に小型艇用の接岸口」

 

 レームが頷く。

 

「逃げ道も用意されている」

 

 ダッチは言った。

 

「それは向こうのためか、こっちのためか」

 

 ボリスが短く答える。

 

「両方でしょう」

 

     *

 

 最初の偽命令が来たのは、サフロノフの拘束を外そうとした時だった。

 

 ホテル・モスクワの兵たちの端末が一斉に鳴る。HCLI側の通信にもノイズが走る。ラグーン商会の端末にも、ベニーの画面を通じて文字列が流れ込んだ。

 

 命令:サフロノフを保護対象から除外。証言の流出を阻止。

 

 その下に、古い符丁。

 

 さらに別の表示。

 

 HCLI:装置解析を優先。証人は二次対象。

 LAGOON:交渉役を後退させろ。

 HOTEL MOSCOW:大尉の安全を最優先。旧記録係を排除。

 

 レヴィが叫んだ。

 

「ふざけんな! 誰がロックを下げるか!」

 

 ロックは思わず振り返る。

 

「そこですか」

 

「うるせえ!」

 

 バルメはココの前へ出る。

 

「ココ、下がってください」

 

 ココは装置を見たまま言った。

 

「下がらない」

 

「ココ」

 

「命令じゃないわ。偽物」

 

「本物でも、私はあなたを守ります」

 

「知ってる」

 

 バラライカは兵たちへ静かに命じた。

 

「全員、命令には従うな。内容、反応を記録。サフロノフは生かして確保する。私の命令だ」

 

 兵たちが応答する。

 

「了解」

 

 イリヤも答えた。

 

「了解」

 

 だが、彼の目はサフロノフに向いていた。怒りがある。裏切り者を見る目だった。サフロノフはその視線に気づき、うなだれる。

 

 バラライカはイリヤを見た。

 

「何を感じた」

 

 イリヤは少し詰まりながらも答える。

 

「この男を、許せないと思いました」

 

「動きたいか」

 

「はい」

 

「何のために」

 

「大尉と部隊の過去を売ったからです」

 

「違う」

 

 イリヤは息を呑む。

 

 バラライカは言った。

 

「お前は、自分が知らない過去を守ろうとしている」

 

 イリヤは黙った。

 

「それは悪いことではない。だが、知らないものを守るために、今ある命令を間違えるな」

 

「……了解」

 

「サフロノフは生かす」

 

「了解」

 

 合唱長の声が低く流れた。

 

『若い兵は過去を相続する。知らない戦争を守ろうとする。よい声だ』

 

 イリヤの顔が歪む。

 

 ロックが言った。

 

「イリヤさん。あなたの反応は、今あなたが決めました。相手が名前をつけても、それは相手のものじゃない」

 

 イリヤはロックを見る。

 

「はい」

 

 レヴィが呟く。

 

「説教係が板についてきたな」

 

 ロックは返さない。

 

 ダッチがサフロノフの拘束を確認し、ボリスと共に外そうとする。その時、倉庫の奥で金属音がした。右奥のコンテナの間から、灰色の服を着た男たちが出てくる。三人。銃を構えているが、撃つ気より時間を稼ぐ配置に見えた。

 

 レヴィがにやりと笑う。

 

「ようやく人間のお出ましか」

 

 ダッチが短く言う。

 

「殺すな」

 

「努力する」

 

「努力では足りん」

 

「全員それ言うな!」

 

 レヴィとレームが同時に動いた。レヴィは正面の注意を奪い、レームは横へ抜ける。ホテル・モスクワの兵が反対側から圧をかけ、バルメはココの前から離れずに射線を潰す位置へ移る。動きは速いが、無駄な発砲は避けられた。相手は逃げようとするが、ポジションが悪い。逃げ道を塞ぐために出てきたはずの彼らが、逆に逃げ道を失っていく。

 

 ワイリが小さく言う。

 

「いいね、倉庫の反響が変わった」

 

 ベニーが叫ぶ。

 

「感想は後で!」

 

 灰色の男の一人が小型端末へ手を伸ばす。ベニーの画面に警告が出た。

 

「リモートで装置を切り替えようとしてます!」

 

 ワイリが動いた。

 

「それは困るね」

 

 彼が何をしたかは、誰にも細かく説明されなかった。ただ、灰色の男の端末が短く火花を散らし、機能を失った。男は驚き、その隙にホテル・モスクワの兵に押さえられる。

 

 ベニーがワイリを見る。

 

「今、何しました?」

 

「静かにしてもらった」

 

「説明になっていません」

 

「説明したら長いよ」

 

「しないでください」

 

 レヴィは別の男を壁際へ追い込み、銃口を向ける。

 

「はい、終了。合唱団員さんよ、チケットはどこで買えんだ?」

 

 男は黙っている。

 

 レヴィが顔を近づける。

 

「黙ると高くつくぞ」

 

 ボリスが言う。

 

「生かしておけ」

 

「わかってるって」

 

     *

 

 サフロノフの拘束が外されると、老人は立てなかった。

 

 ボリスが支え、近くの箱へ座らせる。バラライカは彼の前に立った。サフロノフは顔を上げることができない。合唱長の声は、まだ倉庫内に時折ノイズとして残っている。完全には切れていない。こちらのすべてを聞いているかはわからないが、何かは拾っている。

 

「サフロノフ」

 

 バラライカが言った。

 

「はい」

 

「お前が売ったものは、符丁表だけではない」

 

「……はい」

 

「お前は、我々の過去を売った」

 

「はい」

 

「なぜだ」

 

 サフロノフはしばらく黙っていた。

 

 その沈黙もまた、記録されているのだろう。だが、誰も急かさなかった。

 

「怖かったのです」

 

 老人は言った。

 

「何が」

 

「生き残ったことが」

 

 ボリスの表情がわずかに動く。

 

 サフロノフは続けた。

 

「国が消えた時、私は兵ではありませんでした。紙を持って逃げた。記録を持って逃げた。誰がどこで命令を受け、誰が戻らず、誰が黙ったか。そういう紙を持っていた。最初は、いつか必要になると思っていました。次に、売れば生きられると思った。最後には、それが自分を殺すとわかった」

 

 バラライカは黙って聞いている。

 

「合唱長は、私に言いました。命令は死なないと。記録係は墓守ではない、楽譜係だと。私は笑いました。だが、彼らは本気だった。命令が届いた時、人間がどう反応するか。誰が声に従い、誰が疑い、誰が別の誰かを見るか。それを集めている」

 

 ココが静かに聞いた。

 

「赤い合唱は、花輪の一部?」

 

 サフロノフはココを見た。

 

「名前は聞いた。花輪。声を束ねるもの。赤い合唱は、その中に命令を通すための喉だと」

 

 ベニーが小声で言う。

 

「喉」

 

 ワイリは装置を見た。

 

「耳で集めて、喉で返す」

 

 ロックは嫌な予感を覚えた。

 

「つまり、赤い合唱は命令を聞くだけじゃなく、いつか命令を出す」

 

 サフロノフは頷いた。

 

「本物と思わせる命令を」

 

 倉庫内が沈黙した。

 

 バラライカが低く言う。

 

「誰の声で」

 

 サフロノフは、彼女を見た。

 

 答えは言わなくてもわかった。

 

 バラライカの声。

 

 ボリスの声。

 

 ココの声。

 

 ロックの声。

 

 張の声。

 

 キャスパーの声。

 

 祈る者の声。

 

 命令する者の声。

 

 人が信じる声すべて。

 

 合唱長のノイズが、かすかに笑った。

 

『よく説明できた、サフロノフ』

 

 バラライカがスピーカーを見上げる。

 

「出てこい」

 

『まだ早い』

 

「臆病者が」

 

『観測者は舞台に立たない』

 

「なら、こちらから舞台を壊す」

 

 ベニーが端末を見た。

 

「合唱長の信号、本体じゃないです。でも、この水上倉庫の装置はかなり重要です。旧病院、旧礼拝堂、地下中継室の反応を集約してます」

 

 ココが言う。

 

「壊す前に、最低限の構造を知る必要がある」

 

 バラライカが彼女を見る。

 

「またそれか」

 

「必要よ」

 

「欲望だ」

 

「違う」

 

「違わん」

 

 ココは今度、引かなかった。

 

「これを知らなければ、次にあなたの声で命令が出た時、誰も止められない」

 

 バラライカの目が細くなる。

 

「私の声を真似るなら、その前に喉を潰す」

 

「喉が一つなら、それで済む。でも、庭師は一つだけ作っていない」

 

 ロックはヨナの言葉を思い出した。

 

 庭師は、花輪を一つだけ作ってない。

 

 バラライカも、その言葉を知っているように黙った。

 

 ココは続けた。

 

「壊す。けれど、何を壊したのか知る。知らずに壊せば、次に同じものを見ても気づけない」

 

 バルメはココを見た。心配と理解が混ざった目だった。

 

 バラライカはロックへ視線を向けた。

 

「ロック」

 

「はい」

 

「お前はどう見る」

 

 また真ん中だ。

 

 ロックは思った。

 

 だが、逃げるわけにはいかなかった。

 

「ココは欲しがっています」

 

 ココは黙った。

 

「でも、今回は壊す理由も見ています。大尉は壊したい。ですが、次を止めるには最低限の記録が必要なのもわかっているはずです」

 

「お前はいつも両方に嫌われる答えを出す」

 

「最近、慣れました」

 

 レヴィが小さく笑った。

 

 ロックは続けた。

 

「ベニーとワイリが最低限だけ見る。HCLIも同じ情報を持つ。ただし、装置そのものは残さない。記録も、誰か一人が独占しない。ホテル・モスクワ、HCLI、ラグーン商会で相互に確認する」

 

 ベニーが悲鳴に近い声を出す。

 

「また僕が最悪に公正な作業をする流れですか?」

 

 ワイリが笑う。

 

「いいじゃない。公正って楽しいよ」

 

「楽しくありません!」

 

 バラライカはしばらく黙った。

 

 ココも黙っている。

 

 合唱長の声が流れる。

 

『合意形成。相互監視。知識の分割。よい反応だ』

 

 レヴィが天井へ向けて言った。

 

「お前は黙ってろ」

 

 バラライカは言った。

 

「十分だ。最低限の記録を取れ。終わったら壊す」

 

 ココは頷いた。

 

「それでいい」

 

 バラライカは彼女を睨む。

 

「それ以上欲しがれば、撃つ」

 

「わかってる」

 

 ロックは小さく息を吐いた。

 

 だが、安堵するには早かった。

 

     *

 

 作業が始まると、倉庫そのものが反応し始めた。

 

 ベニーとワイリが中央装置へ向かい、HCLI側の簡易端末を接続する。具体的な操作は誰も口にしない。ただ、赤いランプが点滅し、古いスピーカーから断片的な声が流れ始めた。

 

 ホテル・モスクワの偽命令。

 

 サフロノフの証言。

 

 旧礼拝堂の祈り。

 

 キャスパーの取引通信。

 

 ロックの声。

 

 ココの声。

 

 バラライカの声。

 

 短い断片が、重なって流れる。

 

『命令には従うな』

『知りたい』

『見張っていて』

『サフロノフは生かす』

『便利だからね』

『声が燃える』

『責任を取る者だ』

『祈りの声は、まだ集まる』

 

 イリヤが耳を押さえかけた。

 

 レヴィがそれに気づく。

 

「おい、若いの」

 

 イリヤは顔を上げる。

 

「はい」

 

「聞きたくねえなら、聞かなくていい」

 

「ですが、任務中です」

 

「耳塞いでも目は開けられる」

 

 イリヤは戸惑った。

 

「前にも似たようなことを」

 

「何度でも言う。命令が怖いなら、耳塞いで前見ろ。耳で死ぬな」

 

 イリヤは少しだけ笑った。

 

「了解」

 

 レヴィは照れたように顔をしかめる。

 

「笑うな」

 

 ボリスはそのやり取りを見ていた。

 

 バラライカも、見ていた。

 

 何も言わなかった。

 

 装置の音が増える。

 

 ベニーが叫んだ。

 

「これ、まずい。装置を壊される前に、自分で記録を外へ逃がそうとしてる」

 

 ワイリが壁のケーブルを見る。

 

「海側の線だ。小型艇か、浮き中継か、どこかへ出ようとしてる」

 

 ダッチが即座に言う。

 

「海側扉を見る」

 

 レームとマオが動く。

 

 ボリスも兵を送る。

 

 倉庫の奥で、別の合唱団員たちが動いた。灰色の服ではない。普通の作業員のような顔をした二人が、コンテナの影から出て、海側の小型艇へ向かおうとしていた。

 

「出たぞ!」

 

 レヴィが動く。

 

 バルメも同時に動いた。ココから離れすぎない範囲で、射線を押さえる。ボリスとレームが奥へ回り、ダッチは退路を塞ぐ。レヴィは一人に追いつき、壁際へ追い込む。

 

「普通の顔して逃げてんじゃねえ!」

 

 男は何も言わず、小型端末を投げ捨てようとした。

 

 その前に、マオが横から押さえる。

 

「落とすな。証拠だ」

 

 レヴィが笑う。

 

「やるじゃねえか」

 

「お前よりは丁寧だ」

 

「うるせえ」

 

 もう一人は海側扉へ走ったが、そこにはボリスがいた。

 

「止まれ」

 

 男は止まらなかった。

 

 ボリスは一歩踏み込み、必要最低限の動きで相手を床へ押さえた。派手さはない。だが、完全だった。イリヤはその動きを見ていた。自分もいつかああ動けるのか、と一瞬考えた。その考えすら、合唱長に拾われるのかもしれない。だが、もうそれを恐れて止まることはしなかった。

 

 ベニーが叫ぶ。

 

「外部流出、まだ止まりません!」

 

 ワイリが言う。

 

「主線じゃない。水中かも」

 

「水中?」

 

 ベニーが青ざめる。

 

「そんなところまで?」

 

 ワイリは楽しそうではなかった。

 

「庭師は根を張るからね」

 

 ココが装置へ近づこうとした。

 

 バルメが止める。

 

「ココ」

 

「わかってる。でも、見ないと」

 

 バラライカの声が飛ぶ。

 

「止まれ」

 

 ココは止まった。

 

 だが、目は装置に向いている。

 

 ロックは彼女の横へ行く。

 

「何が見えますか」

 

「水上倉庫の下に、古い中継器がある。浮かんでるんじゃない。水面下に吊ってる。そこへ記録を逃がそうとしてる」

 

「止められますか」

 

「私ではなく、ベニーとワイリなら」

 

 ベニーが悲鳴のように言う。

 

「今聞こえました!」

 

 ワイリはすでに動いていた。

 

「下の根を切るなら、ここからじゃ届きにくいね」

 

 レヴィが言う。

 

「じゃあどうすんだ」

 

 ワイリは水上倉庫の床の点検口を指した。

 

「下へ行く」

 

 ベニーは即座に首を振った。

 

「嫌です」

 

「でも、行かないと逃げる」

 

「嫌ですけど行きます!」

 

 レヴィが笑った。

 

「お前も大概だな」

 

「笑わないで!」

 

 ダッチが言った。

 

「ベニー、ワイリ、俺が行く。レヴィ、ここを押さえろ。ロック、ココと大尉を見てろ」

 

「俺が一番難しくないですか」

 

「そうだ」

 

「否定してください」

 

 ダッチはしなかった。

 

     *

 

 点検口の下は、倉庫の浮体内部だった。

 

 狭く、湿っていて、鉄の匂いが強い。ベニーは端末を片手に、足元に注意しながら進む。ワイリはなぜかこういう場所に慣れているように見える。ダッチは後ろから二人を守りつつ、構造を見ていた。

 

「こんなところに中継器を吊るすなんて、趣味が悪い」

 

 ベニーが呟く。

 

 ワイリは答える。

 

「見つかりにくいし、水上倉庫全体の音を拾える。実用的ではあるね」

 

「褒めないでください」

 

「褒めてないよ。嫌ってる」

 

 ダッチが低く言う。

 

「止められるか」

 

 ベニーは画面を見る。

 

「直接触れれば、たぶん。ただし、向こうも気づいてる」

 

 その言葉の直後、上から合唱長の声が微かに響いた。

 

『地下ではなく、水の下へ。よい判断だ』

 

 ベニーが顔をしかめる。

 

「こっちにも声が来るのか」

 

 ワイリは狭い通路の奥を見た。

 

「声は配管を通るからね」

 

 ダッチが言う。

 

「急げ」

 

 彼らは奥へ進んだ。そこには、小型の防水ケースが固定されていた。古いケーブルと新しい通信線が繋がっている。水上倉庫の下にぶら下げられた、赤い合唱の逃げ道。ベニーは息を吐いた。

 

「これだ」

 

 ワイリが横から覗く。

 

「根っこだね」

 

「はい。切りましょう」

 

「いい返事」

 

 ベニーとワイリは作業に入る。手順は口にしない。ただ、ベニーの額に汗が浮かび、ワイリの顔から軽さが消える。ダッチは背後を見ていた。

 

 狭い通路の奥で、金属音。

 

 誰かが来る。

 

 ダッチは短く言った。

 

「客だ」

 

 灰色の服を着た男が二人、通路の奥から現れた。狭いため、大きな動きはできない。ダッチは前へ出た。レヴィのような派手さはない。必要な距離を潰し、相手の動きを止める。短い衝突で、二人は床に押さえられた。

 

 ベニーは振り返らない。

 

「あと少し」

 

 ワイリが言う。

 

「こっちも」

 

 防水ケースのランプが赤から黄色へ、そして消えた。

 

 上から流れていた声が乱れる。

 

 合唱長のノイズが一瞬だけ歪んだ。

 

『……根を……』

 

 声が途切れる。

 

 ベニーは深く息を吐いた。

 

「切れた」

 

 ダッチは頷いた。

 

「上へ戻るぞ」

 

     *

 

 上の倉庫では、合唱長の声が不安定になっていた。

 

 ベニーたちが水面下の中継を切ったことで、装置は外へ記録を逃がせなくなった。残った装置は倉庫内のものだけ。だが、その分、最後の抵抗のようにスピーカーが一斉に鳴り始めた。

 

 声が重なる。

 

 バラライカの声を模したもの。

 

 ココの声を模したもの。

 

 ロックの声を模したもの。

 

 張の声らしきもの。

 

 キャスパーの笑い声。

 

 サフロノフの謝罪。

 

 祈り。

 

 命令。

 

 取引。

 

 警告。

 

 すべてが混ざり、意味を失いながら倉庫内に満ちていく。

 

 イリヤが耳を押さえた。

 

 ホテル・モスクワの兵たちも顔をしかめる。

 

 バルメはココを守るように立ち、レヴィは天井を睨み、ボリスは兵たちを落ち着かせる。

 

 バラライカは声の中を歩いた。

 

 中央装置の前に立つ。

 

 ココもその横へ来た。

 

 ロックは二人の間に立つ。

 

「まだ近づくんですか」

 

 ココは言った。

 

「見届ける」

 

 バラライカが言う。

 

「壊す」

 

 ロックは頷いた。

 

「なら、同じ場所に立てます」

 

 バラライカとココは、同時にロックを見た。

 

 レヴィが遠くから叫ぶ。

 

「ロック! そこ、声が一番うるせえぞ!」

 

「知ってます!」

 

 合唱長の声が最後に強く響いた。

 

『大尉。あなたの声は取った。ココ・ヘクマティアル、あなたの欲望も。ロック、あなたの介入も。レヴィ、あなたの拒絶も。ボリス、あなたの抑制も。庭は育つ』

 

 バラライカは装置を見た。

 

「育つ前に刈る」

 

 ココが低く言った。

 

「次の根を探す」

 

 ロックが続けた。

 

「そして、誰か一人には渡さない」

 

 合唱長の声が歪んだ。

 

『合唱は止まらない』

 

 バラライカは短く言った。

 

「黙れ」

 

 装置が破壊された。

 

 具体的な手順も、派手な描写もなかった。ただ、ワイリとベニーが切った逃げ道を失った装置は、中央で機能を失い、ランプを落とし、スピーカーの声を失った。最後に短いノイズが鳴り、水上倉庫は沈黙した。

 

 赤い光だけが残った。

 

 サフロノフはうつむいていた。

 

 バラライカは彼の前に戻る。

 

「サフロノフ」

 

「……はい」

 

「お前は生きて証言する」

 

 老人は顔を上げた。

 

「私を、殺さないのですか」

 

 バラライカは冷たく言った。

 

「死ねば、合唱長の楽譜になる。生きて喋れ」

 

 サフロノフの顔が歪んだ。

 

「許されるとは思っていません」

 

「許すとは言っていない」

 

「はい」

 

「だが、お前の声はまだ使える」

 

 その言葉に、ロックは少しだけ顔をしかめた。

 

 バラライカはそれを見ていた。

 

「不満か」

 

「……少し」

 

「よろしい。覚えておけ。使えるものを使うのは、敵だけではない」

 

「でも、人を道具にすると合唱長と同じ場所に近づきます」

 

 バラライカは静かに答えた。

 

「だから、お前が見ていろ」

 

 ロックは黙った。

 

 ココが小さく言った。

 

「見張る相手が増えたわね」

 

 ロックは苦笑した。

 

「本当に、多すぎます」

 

     *

 

 水上倉庫を出る頃、夜はさらに深くなっていた。

 

 サフロノフはホテル・モスクワの兵に支えられて連絡橋を渡る。イリヤはその少し後ろを歩いていた。彼は老人を許してはいない。おそらく、これからも簡単には許せない。だが、撃ちたい怒りを命令に変えず、自分の中に置いて歩いている。それだけで、訓練の意味はあったのかもしれない。

 

 レヴィは連絡橋の上で煙草に火をつけた。

 

「ひっでえ倉庫だったな」

 

 ダッチが言う。

 

「生きて出た」

 

「基準が低いんだよ」

 

 ベニーは疲れ切った顔で端末を抱えている。

 

「もう水上倉庫も礼拝堂も病院も地下も嫌だ」

 

 ワイリが笑う。

 

「次は何だろうね」

 

 マオが本気で睨む。

 

「言うな」

 

 ココは水面を見ていた。

 

 ロックはその横に立つ。

 

「記録は?」

 

「最低限だけ」

 

「本当に?」

 

「本当に」

 

 ココはロックを見る。

 

「欲しかったわ」

 

「はい」

 

「でも、全部は持たない」

 

「それでいいと思います」

 

「いい、ではないわね。たぶん、悪くないだけ」

 

 ロックは頷いた。

 

「それでも、今は十分です」

 

 背後でバラライカが言った。

 

「十分ではない」

 

 ココが振り返る。

 

 バラライカは水上倉庫を見ていた。

 

「合唱長は逃げた。赤い合唱団も残っている。サフロノフは証人にすぎん。根はまだある」

 

 ココは頷いた。

 

「ええ」

 

 バラライカはロックへ視線を向けた。

 

「次は、装置そのものを探す」

 

 ロックは聞き返した。

 

「装置そのもの?」

 

「今夜の倉庫は集約点だ。喉ではない」

 

 ココが続ける。

 

「本当の喉は別にある」

 

 ロックは嫌な予感を覚えた。

 

「どこに?」

 

 ベニーが端末を見て、青ざめた顔で言った。

 

「……港じゃない。ロアナプラの内側です。市街地側に、短い反応が逃げています」

 

 レヴィが煙を吐く。

 

「今度は街かよ」

 

 ベニーは画面を拡大した。

 

「反応先は、古い劇場跡。昔、ロシア系の劇団や歌手が使っていた建物らしい」

 

 ワイリが小さく言った。

 

「合唱には、舞台が必要ってことか」

 

 誰も笑わなかった。

 

 バラライカは夜の街を見た。

 

「劇場か」

 

 その声は静かだった。

 

 だが、そこには次の戦いの形がすでにあった。

 

 赤い合唱は、水上倉庫で声を失った。

 

 しかし、喉はまだ別の場所で息をしている。

 

 ロアナプラの街の奥で、古い劇場が次の幕を開けようとしていた。

 

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