Guns & Garlands — 銃と花輪 作:たこ焼き 龍月
ロアナプラには、劇場跡がある。誰もそんなものを必要としていないような街にも、かつては歌や芝居や拍手があった。港に流れ着いた者たちが、故郷の言葉で歌い、知らない国の酒を飲み、明日死ぬかもしれないことを笑い飛ばした場所。舞台の上では嘘が許された。むしろ、嘘を見に人が集まった。だがロアナプラでは、嘘は舞台の外にも溢れている。だから劇場は廃れた。金を払ってまで嘘を見る必要がなくなったのだ。
古い劇場は、市街地の奥、港から少し離れた区画に残っていた。表通りから一本外れた場所。看板は落ち、入口のガラスは割れ、外壁には古いポスターの跡がこびりついている。かつてロシア系の劇団や歌手が使っていたという話がある。ホテル・モスクワが来るより前から、ここには東欧の声が流れていた。歌、祈り、酔った叫び、政治の愚痴、帰れない者たちの笑い声。そういうものが、埃の中にまだ残っているような建物だった。
水上倉庫から逃げた短い反応は、そこへ向かっていた。
ベニーがその位置を特定した時、誰も驚かなかった。驚くには、ここまでの流れが出来すぎていた。命令の次に祈り。祈りの次に劇場。合唱長が本当の喉を隠すなら、声が集まる場所を選ぶ。劇場ほどふさわしい場所はなかった。
ラグーン商会の車が、劇場跡の近くで止まった。
ダッチはエンジンを切り、しばらく外を見ていた。
「静かすぎるな」
レヴィが窓から劇場を見上げる。
「古い劇場に夜中来て、静かすぎるとか言うなよ。雰囲気出すぎだろ」
ベニーは端末を見ていた。
「信号は出ています。でも弱い。いや、弱く見せてる。さっきの水上倉庫と違って、こっちは隠れる気がある」
「本命だからか」
ロックが聞く。
「たぶん。水上倉庫は集約点。ここは……再生側かもしれない」
「再生側?」
「集めた声を、命令として出し直す場所」
車内が沈黙した。
レヴィが低く言った。
「喉、ってやつか」
「うん」
ベニーは嫌そうに頷いた。
「耳で集めて、喉で返す。赤い合唱が本当に命令を作れるなら、ここが中枢に近い」
ロックは劇場を見た。割れた入口の奥に、暗いロビーが見える。そこには、昔誰かが拍手をした気配があるように思えた。そして今、その拍手は合唱長のものになろうとしている。
少し遅れて、ホテル・モスクワの車列が到着した。
バラライカが降りる。ボリス、イリヤ、数名の兵。水上倉庫を越えた後だからか、若い兵たちの表情は以前より硬いが、崩れてはいない。自分たちが観測されていることを知った上で、なお前へ進む顔だった。
さらにHCLIも来た。
ココは車から降り、劇場を見た瞬間に小さく息を吐いた。
「舞台ね」
バルメはすぐ横に立つ。
「ココ。中へ入る前に、もう一度確認します」
「欲しがるな、でしょう?」
「はい」
ココは少しだけ笑った。
「今日はみんなに言われる日ね」
バラライカが近づく。
「まだ足りん」
ココは彼女を見る。
「大尉」
「ここが喉なら、壊す」
「壊す前に見る」
「また同じことを言うか」
「同じ理由だから」
バラライカの視線が冷える。
ロックは二人の間に立ちそうになったが、今回はすぐには動かなかった。まだ、言葉を置くには早い。二人とも、それをわかっていた。ココは欲しがっている。バラライカは消したがっている。どちらも危険で、どちらも必要だった。
張からロックの端末へ通信が入った。
『ロック』
「張さん」
『劇場に着いたようだね』
「はい。そちらからも見えていますか」
『この街で、見えない場所は少ない。ただ、劇場の中は古い。壁が厚く、回線も妙だ。中へ入れば、こちらの目は減る』
「三合会は?」
『外周だけ押さえる。大尉の戦争に踏み込みすぎると、こちらの靴まで赤くなる』
「十分です」
『ロック』
「はい」
『声に気をつけなさい。この街では、誰が言ったかより、誰が信じたかの方が問題になることがある』
通信は切れた。
ロックは端末をしまった。
レヴィが横から言う。
「張は何だって?」
「声に気をつけろ、と」
「全員同じこと言ってんな」
ダッチが低く言った。
「それだけ厄介ってことだ」
*
劇場の入口は、半分壊れていた。
ロビーに入ると、埃と古い木の匂いがした。壁には色褪せたポスターが貼られている。ロシア語らしき文字、古い歌手の写真、劇団名、日付。どれも年月に削られて読みづらい。床には割れたシャンデリアの欠片が残っていた。天井は高く、音がよく響く。小さな足音でさえ、どこか遠くから返ってくる。
レヴィが顔をしかめた。
「嫌な反響だな」
ワイリが楽しそうに言う。
「劇場だからね。音を綺麗に返すようにできてる」
「綺麗じゃねえよ。気持ち悪いんだよ」
ベニーは端末を見ながら言った。
「反応が反響してる。信号も音も、建物内で跳ね返ってる。どこが本当の発信源かわかりにくい」
マオが天井を見上げる。
「敵はいるのか?」
レームが答える。
「いると考えるべきだ」
ダッチはロビーの左右を見た。
「出口は正面、裏口、舞台袖、地下搬入口か」
ボリスが頷く。
「劇場図面は古く、信用できません。ホテル・モスクワの部隊で外周を押さえます」
バラライカが短く命じる。
「内部は少数で行く。大人数で入れば、合唱長に聴かせる声が増えるだけだ」
ココが言った。
「同意するわ」
バラライカは彼女を見る。
「同意されると不快だな」
「私も少し」
レヴィが小さく笑う。
「仲良くなれそうじゃねえか」
二人の視線が同時にレヴィへ向いた。
「冗談だよ」
結局、内部へ進むのは、バラライカ、ボリス、イリヤ、ロック、レヴィ、ベニー、ココ、バルメ、ワイリ、ダッチ、レーム。マオとホテル・モスクワの兵は外周と裏口を押さえることになった。
ロビー奥の扉を開けると、客席が広がっていた。
赤い座席が並んでいる。多くは破れ、埃をかぶり、いくつかは倒れていた。だが、中央通路だけは掃かれている。誰かが最近通ったのだ。舞台には古い緞帳が半分だけ降りていた。色はくすんだ赤。そこに仮設のケーブルが何本も伸びている。まるで、舞台そのものが巨大な喉になっているようだった。
ベニーの端末が鳴る。
「出た。舞台奥です」
ワイリが目を細める。
「いや、舞台だけじゃない。客席にも何かある」
ベニーが確認する。
「……各座席の下に、小型の反射器みたいなものが置かれてる。音声を拾うというより、音の位置をわからなくするためかな」
レヴィが言う。
「つまり、どこから喋ってるかわかんねえってことか」
「はい」
「気に入らねえな」
その時、劇場内のスピーカーが鳴った。
最初に流れたのは拍手だった。
古い録音のような拍手。ざらつき、歪み、途切れながらも、劇場全体を満たす。誰もいない客席から、見えない観客が拍手しているようだった。
そして、合唱長の声。
『ようこそ、舞台へ』
バラライカは舞台を見据えたまま答えた。
「貴様は舞台に立たんのか」
『合唱長は指揮をする。歌うのはあなた方だ』
レヴィが吐き捨てる。
「またそれか」
『レヴィ、あなたの拒絶はよく響く。だが今夜の主役はあなたではない』
スピーカーの声が変わった。
今度は、バラライカの声だった。
いや、正確にはバラライカの声を真似たもの。
『全員、配置につけ。命令を待て』
ホテル・モスクワの兵たちがわずかに反応した。
イリヤも一瞬だけ身体を硬くする。
だが、ボリスがすぐに言った。
「偽音声。反応を記録」
イリヤは端末に入力する。
「了解」
本物のバラライカは何も言わなかった。
偽の声が続く。
『ボリス、HCLIを排除しろ。ココ・ヘクマティアルを確保。ラグーン商会は後退』
バルメが鋭く構える。
レヴィも舌打ちする。
バラライカはようやく口を開いた。
「くだらん」
合唱長の声が戻る。
『声色だけでは足りないか。では、何が足りない? 間か。癖か。沈黙か。命令の重さか』
ベニーが端末を見る。
「今の反応も取られてる。偽声に対して、誰がどれくらい遅れたか見てる」
ロックはイリヤの方を見た。
「大丈夫ですか」
イリヤは頷く。
「一瞬、反応しました。でも、違いました」
「何が違った?」
バラライカが問う。
イリヤは答えた。
「声は似ていました。でも、命令に責任がありませんでした」
バラライカは短く言う。
「よろしい」
合唱長の声が低く笑う。
『若い兵の判断。成長。美しい』
イリヤの顔が歪む。
ロックは言った。
「あなたが名前をつけても、それは彼の判断です」
『ロック。あなたはいつも所有権を取り戻そうとする。声を持ち主へ返そうとする。興味深い』
「興味を持たないでください」
『それはできない』
ココが舞台を見た。
「合唱長。あなたはそこにいるの?」
『いる、と言えば来る。いない、と言えば探す。どちらも歌になる』
「なら黙っていて」
『それはあなたにはできないことだ、ココ・ヘクマティアル』
今度はココの声がスピーカーから流れた。
『知りたい。壊したい。使いたい。止めたい。私は武器が嫌い。だから世界中の武器を私のものにしたい』
ロックの顔が強張った。
ココの過去の言葉。似ている。完全ではない。だが、意味を歪ませるには十分だった。
バルメの怒りが空気を切る。
「黙れ」
偽ココの声が続く。
『赤い合唱があれば、命令を止められる。命令を作れる。戦争を閉じられる。欲しい。欲しい。欲しい』
ココの顔から表情が消えた。
ロックは彼女の横に立つ。
「ココ」
「わかってる」
「今、何を考えていますか」
「怒ってる」
「欲しくは?」
ココは一瞬だけ黙った。
「欲しいと思う部分もある」
バルメが彼女を見る。
「ココ」
「でも、これは私じゃない」
ココはスピーカーを見上げた。
「私の声を真似ても、私の責任までは真似できない」
バラライカが横目でココを見る。
ココは続けた。
「私が欲しがるなら、私がその責任を持つ。あなたの偽物には、それがない」
合唱長の声が少しだけ歪んだ。
『責任。大尉の言葉を借りたか』
ココは言った。
「借りたんじゃない。必要だったから使ったの」
ロックは思わず息を止めた。
バラライカの表情は変わらない。だが、わずかに空気が変わった。敵に勝手に使われる声と、自分で選んで使う言葉は違う。その境界を、ココは今、自分で引いた。
レヴィが小声で言う。
「やるじゃねえか、白いお嬢様」
バルメは少しだけ誇らしげに見えた。
*
舞台へ向かう通路の途中で、劇場の照明が一斉に落ちた。
完全な暗闇ではない。赤い非常灯だけが残り、客席と舞台を不気味に照らす。天井のスピーカーから、複数の声が流れ始めた。
バラライカの声。
ボリスの声。
ココの声。
ロックの声。
レヴィの声。
張の声。
キャスパーの声。
サフロノフの声。
どれも本物に近いが、どこか薄い。声色は似ているのに、重さが足りない。だが、混乱させるには十分だった。
『ロック、下がれ』
『ココを守れ』
『命令だ、撃て』
『取引は成立した』
『祈れ』
『従え』
『止めろ』
『進め』
声が重なり、意味が崩れ、また別の意味を作る。
イリヤが耳を押さえかける。
ボリスが言う。
「耳を塞いでも構わん。目を開けろ」
イリヤはレヴィの言葉を思い出したように、耳から手を離さず、前を見た。
レヴィがにやりと笑う。
「使ってんじゃねえか」
ボリスは答えない。
ダッチが短く言う。
「舞台袖に動き」
右側の舞台袖から、男たちが出てきた。合唱団員。灰色の服ではない。劇場のスタッフのような黒い服を着ている。手には武器があるが、撃ち合うためというより時間を稼ぐための配置だ。
レヴィが動く。
バルメも動く。
ホテル・モスクワの兵たちが通路を押さえ、レームが舞台袖へ回る。ダッチはロックとベニーを客席側の遮蔽物へ誘導する。戦闘は短く、鋭かった。赤い照明の中で、声と足音と金属音が混ざる。レヴィは文句を言いながらも、撃ちすぎない。バルメはココから離れすぎず、相手の動きを切る。ボリスは兵たちの配置を微調整し、バラライカは一歩ずつ舞台へ進む。
合唱長の声が流れる。
『戦闘反応。命令下の兵士。命令外の暴力。護衛対象への執着。よい、実によい』
レヴィが叫ぶ。
「実況やめろっつってんだろ!」
彼女は舞台袖の男を壁際へ追い込み、短く制圧する。
ベニーは端末を見ながら言う。
「舞台奥に中枢。けど、反応が二重です。舞台上の装置と、地下の音響室。どっちかが本命」
ワイリが言う。
「劇場なら音響室だろうね」
バラライカが短く命じる。
「二手に分かれる。舞台は私が行く。音響室はベニー、ワイリ、ダッチ。ロックは」
少し間が空く。
レヴィが言う。
「真ん中だろ?」
バラライカはレヴィを一瞥した。
「その通りだ」
ロックは諦めたように頷く。
「はい」
ココが言う。
「私は舞台へ」
バラライカは即座に返す。
「駄目だ」
「見る必要がある」
「欲しがる必要ではない」
「同じじゃない」
「今は同じに見える」
二人の間に火花が散る。
合唱長の声が楽しそうに揺れる。
『対立。知識と破壊。欲望と侮辱。よい二重唱だ』
ロックが強く言った。
「黙ってください」
スピーカーが少しだけノイズを返す。
ロックは二人を見る。
「舞台へ行くのは、バラライカさん、ココ、バルメ、ボリス、レヴィ。俺も行きます。ベニーたちは音響室へ。どちらか一方が本命でも、もう一方を止められるようにする」
バラライカはロックを見る。
「また両方を取るか」
「どちらか片方に任せる方が危険です」
ココは小さく笑った。
「便利ね」
「言わないでください」
バラライカは少しだけ沈黙し、頷いた。
「行くぞ」
*
音響室へ向かったベニーたちは、狭い階段を下りていた。
ダッチが先頭、ベニーが中央、ワイリが後ろ。途中でマオとレームが合流し、背後を押さえる。音響室は舞台下にあった。古いミキサー、配線盤、録音機、音響制御装置。それらに新しい端末が接続されている。劇場全体のスピーカー、客席下の反射器、舞台奥の仮設装置。そのすべてがここで繋がっていた。
ベニーは顔をしかめた。
「やっぱり、ここが制御室です」
ワイリは古い機材を見て言う。
「すごいね。昔の音響設備をほとんどそのまま使ってる。声を綺麗に返すための場所を、偽声を返す場所にしてる」
ベニーは端末を接続しながら言った。
「感心しないで」
「感心と嫌悪は両立するよ」
ダッチが入口を見張る。
「止められるか」
「止めます。ただ、こっちを切ると舞台側に負荷が行くかもしれません」
「舞台側にはロックがいる」
ベニーが一瞬止まる。
「それ、安心材料ですか?」
ダッチは答えない。
「作業しろ」
「はい」
その時、音響室の古いスピーカーから声が流れた。
ベニーの声だった。
『逃げたい。怖い。自分は撃てない。端末の前なら役に立てる。だから端末を手放せない』
ベニーの手が止まった。
ワイリが彼を見る。
「ベニー」
ベニーは歯を食いしばる。
「偽物です」
『本当に?』
合唱長の声が重なる。
『あなたは銃を持たない。だから声を持つ。だから線を切る。だが、線を切る時、あなたも命令している。止まれ、黙れ、繋がるな、と』
ベニーは震える息を吐いた。
「うるさいな」
ダッチが言う。
「ベニー」
「大丈夫です」
「本当か」
「本当じゃないけど、手は動きます」
ワイリが少し笑った。
「それで十分」
ベニーは端末へ向き直る。
「僕は撃てません。でも、これは止めます」
合唱長の声が囁く。
『技術者の決意。よい音だ』
ワイリが配線を見ながら言う。
「音痴だね、君」
合唱長の声が一瞬だけ乱れる。
ワイリは続けた。
「人の声を拾うのは上手いけど、間がわかってない。だから薄いんだよ」
ダッチが低く笑った。
「全員、言うようになったな」
ベニーは作業を進めた。
劇場全体の声が、一段揺らぐ。
*
舞台側では、バラライカとココが並んでいた。
正確には、並んでいるように見えるだけで、互いにいつでも反応できる距離を取っている。バルメはココの横。ボリスはバラライカの後ろ。レヴィは少し前方で、舞台袖の影を見ている。ロックはまた、その中間にいた。
舞台中央には、赤い幕の裏に装置があった。
水上倉庫のものとは違う。こちらは、もっと小さい。だが、密度が違った。古い劇場の音響設備と接続され、複数の音声記録が保存されている。外見だけなら、ただの録音・再生装置にも見える。だが、ベニーが言ったように、これは喉だ。集めた声を加工し、命令として返すための中枢。
ココはそれを見て、完全に黙った。
ロックは彼女の顔を見た。
危険だった。
目が輝いているわけではない。むしろ表情は消えている。だが、その沈黙が危険だった。彼女は今、装置を見ているのではない。可能性を見ている。どれだけ危険かを理解し、どれだけ使えるかも理解してしまっている。
バラライカもそれを見抜いた。
「ココ・ヘクマティアル」
ココは答えない。
「欲しいか」
長い沈黙。
スピーカーから、偽ココの声が流れる。
『欲しい。欲しい。欲しい』
ココは静かに言った。
「黙って」
偽声が続く。
『これがあれば、戦争を止められる。命令を奪える。軍隊を止められる。国を止められる。声を閉じられる』
バルメが怒りを抑えている。
ロックはココへ言った。
「ココ」
「欲しいわ」
その言葉に、空気が止まった。
バラライカの目が氷のように冷える。
バルメが息を呑む。
レヴィが小さく呟く。
「言いやがった」
ココは続けた。
「危険だとわかってる。壊すべきだともわかってる。でも、欲しい。これが何をできるか、私はわかってしまう」
バラライカが一歩前に出る。
「なら撃つ」
バルメが即座に構える。
「させません」
ボリスも動く。
レヴィが叫ぶ。
「おいおい、今ここで始めんな!」
ロックが二人の間に飛び込む。
「待ってください!」
バラライカはロックを見る。
「退け」
「退きません」
「今の言葉を聞いただろう」
「聞きました」
「なら退け。欲しがる者は、いずれ使う」
ココは否定しなかった。
ロックは振り返る。
「ココ。使いますか」
ココは沈黙する。
ロックはもう一度言う。
「使いますか」
ココは唇を噛んだ。
「……今の私には、使いたいと思う部分がある」
バラライカの指が動く。
ロックは強く言った。
「なら、持たないでください」
ココは顔を上げる。
「何?」
「欲しいなら、持たないでください。知りたいなら、知る量を制限してください。使いたいと思うなら、使えない形で残してください」
合唱長の声が響く。
『自己制限。監視。共有。興味深い』
ロックは天井を睨む。
「黙ってろ」
そして、ココへ向き直る。
「あなたがこれを欲しがること自体は、俺には止められない。でも、持たせないことはできます。バラライカさんが壊したがることも止められない。でも、何も知らずに壊すことは止めます」
バラライカが低く言う。
「また同じ答えか」
「はい」
「甘い」
「そうかもしれません」
「危険だ」
「わかっています」
「それでも?」
「それでも、誰か一人に渡せば終わりです」
ココはロックを見ていた。
バルメも、ボリスも、レヴィも黙っている。
ロックはココへ言った。
「言ってください。これは欲しい。でも、自分一人では持たない、と」
ココは長く沈黙した。
その沈黙を、合唱長が拾おうとしているのがわかる。
偽ココの声がささやく。
『欲しい』
ココは目を閉じた。
そして、言った。
「欲しい」
バラライカの目が鋭くなる。
ココは続けた。
「でも、私一人では持たない。持てば、使いたくなる。だから、最低限の記録を分ける。装置は壊す」
バルメが息を吐いた。
ロックも、ようやく少しだけ息をした。
バラライカはまだ銃を下ろさない。
「誓えるか」
ココはバラライカを見た。
「あなたには誓わない」
空気がまた硬くなる。
ココは続ける。
「ロックに見張らせる。バルメにも。私の部隊にも。あなたにも。欲しがる私を、全員で疑えばいい」
バラライカは黙った。
長い沈黙。
そして、銃をわずかに下げた。
「よろしい」
ロックは力が抜けそうになった。
レヴィが言う。
「お前、ほんと寿命縮めてるぞ」
「自覚あります」
合唱長の声が歪む。
『合意。自己監視。相互不信。実に美しい合唱だ』
バラライカが舞台装置を見た。
「ベニー」
通信越しにベニーが答える。
『はい、音響室側はほぼ押さえました。舞台側の記録は今なら最低限だけ抜けます。ただし時間は短いです』
「やれ」
ココが言う。
「HCLI側にも同じ断片を」
バラライカは睨む。
「同じものだ。増やすな」
ベニーが悲鳴に近い声を出す。
『また最悪に公正な作業ですね!?』
ワイリの声が入る。
『いい経験だよ』
『よくありません!』
ロックは小さく笑いそうになったが、舞台装置が光を強めたため、すぐに表情を戻した。
*
作業が始まると、舞台の装置は最後の抵抗を始めた。
偽声が一斉に流れる。
今度は命令ではない。
記憶だった。
バラライカの過去を思わせる声。ボリスの迷い。サフロノフの謝罪。ココの欲望。ロックの言葉。レヴィの怒り。ベニーの恐れ。バルメの忠誠。ダッチの沈黙。
劇場全体が、それぞれの内側から声を引き出そうとしていた。
ロックの声が流れる。
『撃つ前に話せば、何か変わると思っている。自分だけはまだ戻れると思っている』
ロックは息を詰まらせた。
レヴィが即座に言った。
「聞くな、ロック」
ロックは苦笑した。
「聞こえてます」
「じゃあ無視しろ」
「それが難しい」
「難しくてもやれ」
その言い方が、妙に優しかった。
ロックは頷いた。
「はい」
レヴィの偽声も流れる。
『壊せ。撃て。考えるな。考えたら戻れなくなる』
レヴィは舌打ちした。
「うるせえな。俺は考えてから撃ってんだよ、ちょっとは」
ダッチの通信が入る。
『ちょっとか』
「黙れ、ダッチ!」
緊張の中で、ほんの少しだけ空気が緩む。
その緩みすら、合唱長は拾う。
『緊張緩和。仲間意識。よい音だ』
ワイリの声が通信に乗る。
『だから君、音痴だって』
その直後、劇場のスピーカーが大きく乱れた。
ベニーが叫ぶ。
『今です! 舞台側、主線を落とせます!』
バラライカが命じる。
「落とせ」
ココが続ける。
「記録は最低限だけ」
ロックは言った。
「全員で確認」
舞台装置のランプが揺れる。
赤い光が白くなり、また赤へ戻る。
合唱長の声が最後に響く。
『ココ・ヘクマティアル。あなたはいつか使う』
ココは答えた。
「使いたくなる私を、私は疑う」
『大尉。あなたの兵は、いつか偽のあなたに従う』
バラライカは答えた。
「その時は、本物の私が殺す」
ロックは思わず顔をしかめた。
バラライカは続けた。
「だがその前に、兵自身が疑う」
イリヤがその言葉を聞き、強く頷いた。
合唱長の声が少し歪む。
『ロック。あなたは全員を止められない』
ロックは言った。
「全員は無理です」
合唱長が笑う。
『なら』
「でも、今ここで一人ずつなら止めます」
沈黙。
それは勝利ではない。だが、合唱長が期待した絶望ではなかった。
ベニーとワイリの作業が終わる。
舞台装置の声が途切れた。
最後に、古い劇場のスピーカーから拍手が流れた。
今度は録音ではない。
合唱長の拍手だった。
ゆっくりと、乾いた拍手が三回。
『幕はまだ下りない』
その言葉を最後に、装置は沈黙した。
赤い緞帳が、風もないのにゆっくり揺れた。
*
劇場を出た時、夜はまだ終わっていなかった。
外周を押さえていた三合会の者たちが、張からの短い伝言をロックへ渡した。
声は外へ逃げたか。
ロックはベニーを見た。
ベニーは疲れ切った顔で答える。
「主線は落としました。でも、最後の拍手の直前に、ごく短い信号が外へ出ています。内容は不明。量は少ない。でも、ゼロじゃない」
ロックは伝言の裏に書き足した。
少しだけ。次を探します。
張へ返すように頼む。
バラライカは劇場を振り返っていた。
ボリスが横に立つ。
「大尉」
「合唱長は逃げた」
「はい」
「だが、喉は潰した」
「完全ではありませんが」
「完全な勝利など、この街にはない」
ボリスは頷いた。
ココは少し離れた場所で、バルメと話していた。
ロックが近づくと、ココは振り返る。
「見張っていた?」
「はい」
「怖かった?」
「かなり」
「私も」
ロックは少し驚いた。
ココは劇場を見た。
「欲しいと思った自分が怖かった」
「それを言えるなら、まだ大丈夫です」
「大丈夫じゃないわ」
ココは小さく笑った。
「でも、大丈夫じゃないと知っている間は、まだ戻れるかもしれない」
ロックは頷いた。
「見張ります」
「ええ」
バラライカが遠くから言った。
「ロック」
「はい」
「白い商人に伝えろ。オルフェウス・リンクの買い手名簿を出せ、と」
「キャスパーが素直に出すでしょうか」
「出さなければ、港を閉じる」
レヴィが笑った。
「それ聞いたら、白い兄貴も少しは青くなるな」
ココは言った。
「兄さんは青くならないわ。値段を考えるだけ」
ダッチが静かに言う。
「なら、その値段を高くしてやれ」
ベニーが端末を見ながら、弱々しく言った。
「請求書も高くしていいですか」
レヴィが即答する。
「もちろんだ」
ロックは夜の劇場を見上げた。
赤い合唱の喉は壊れた。
だが、合唱長は拍手を残した。
幕はまだ下りない。
それは勝利の後味ではなく、次の幕の予告だった。