Guns & Garlands — 銃と花輪   作:たこ焼き 龍月

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第八章 ココとバラライカ

 

 

 ロアナプラには、劇場跡がある。誰もそんなものを必要としていないような街にも、かつては歌や芝居や拍手があった。港に流れ着いた者たちが、故郷の言葉で歌い、知らない国の酒を飲み、明日死ぬかもしれないことを笑い飛ばした場所。舞台の上では嘘が許された。むしろ、嘘を見に人が集まった。だがロアナプラでは、嘘は舞台の外にも溢れている。だから劇場は廃れた。金を払ってまで嘘を見る必要がなくなったのだ。

 

 古い劇場は、市街地の奥、港から少し離れた区画に残っていた。表通りから一本外れた場所。看板は落ち、入口のガラスは割れ、外壁には古いポスターの跡がこびりついている。かつてロシア系の劇団や歌手が使っていたという話がある。ホテル・モスクワが来るより前から、ここには東欧の声が流れていた。歌、祈り、酔った叫び、政治の愚痴、帰れない者たちの笑い声。そういうものが、埃の中にまだ残っているような建物だった。

 

 水上倉庫から逃げた短い反応は、そこへ向かっていた。

 

 ベニーがその位置を特定した時、誰も驚かなかった。驚くには、ここまでの流れが出来すぎていた。命令の次に祈り。祈りの次に劇場。合唱長が本当の喉を隠すなら、声が集まる場所を選ぶ。劇場ほどふさわしい場所はなかった。

 

 ラグーン商会の車が、劇場跡の近くで止まった。

 

 ダッチはエンジンを切り、しばらく外を見ていた。

 

「静かすぎるな」

 

 レヴィが窓から劇場を見上げる。

 

「古い劇場に夜中来て、静かすぎるとか言うなよ。雰囲気出すぎだろ」

 

 ベニーは端末を見ていた。

 

「信号は出ています。でも弱い。いや、弱く見せてる。さっきの水上倉庫と違って、こっちは隠れる気がある」

 

「本命だからか」

 

 ロックが聞く。

 

「たぶん。水上倉庫は集約点。ここは……再生側かもしれない」

 

「再生側?」

 

「集めた声を、命令として出し直す場所」

 

 車内が沈黙した。

 

 レヴィが低く言った。

 

「喉、ってやつか」

 

「うん」

 

 ベニーは嫌そうに頷いた。

 

「耳で集めて、喉で返す。赤い合唱が本当に命令を作れるなら、ここが中枢に近い」

 

 ロックは劇場を見た。割れた入口の奥に、暗いロビーが見える。そこには、昔誰かが拍手をした気配があるように思えた。そして今、その拍手は合唱長のものになろうとしている。

 

 少し遅れて、ホテル・モスクワの車列が到着した。

 

 バラライカが降りる。ボリス、イリヤ、数名の兵。水上倉庫を越えた後だからか、若い兵たちの表情は以前より硬いが、崩れてはいない。自分たちが観測されていることを知った上で、なお前へ進む顔だった。

 

 さらにHCLIも来た。

 

 ココは車から降り、劇場を見た瞬間に小さく息を吐いた。

 

「舞台ね」

 

 バルメはすぐ横に立つ。

 

「ココ。中へ入る前に、もう一度確認します」

 

「欲しがるな、でしょう?」

 

「はい」

 

 ココは少しだけ笑った。

 

「今日はみんなに言われる日ね」

 

 バラライカが近づく。

 

「まだ足りん」

 

 ココは彼女を見る。

 

「大尉」

 

「ここが喉なら、壊す」

 

「壊す前に見る」

 

「また同じことを言うか」

 

「同じ理由だから」

 

 バラライカの視線が冷える。

 

 ロックは二人の間に立ちそうになったが、今回はすぐには動かなかった。まだ、言葉を置くには早い。二人とも、それをわかっていた。ココは欲しがっている。バラライカは消したがっている。どちらも危険で、どちらも必要だった。

 

 張からロックの端末へ通信が入った。

 

『ロック』

 

「張さん」

 

『劇場に着いたようだね』

 

「はい。そちらからも見えていますか」

 

『この街で、見えない場所は少ない。ただ、劇場の中は古い。壁が厚く、回線も妙だ。中へ入れば、こちらの目は減る』

 

「三合会は?」

 

『外周だけ押さえる。大尉の戦争に踏み込みすぎると、こちらの靴まで赤くなる』

 

「十分です」

 

『ロック』

 

「はい」

 

『声に気をつけなさい。この街では、誰が言ったかより、誰が信じたかの方が問題になることがある』

 

 通信は切れた。

 

 ロックは端末をしまった。

 

 レヴィが横から言う。

 

「張は何だって?」

 

「声に気をつけろ、と」

 

「全員同じこと言ってんな」

 

 ダッチが低く言った。

 

「それだけ厄介ってことだ」

 

     *

 

 劇場の入口は、半分壊れていた。

 

 ロビーに入ると、埃と古い木の匂いがした。壁には色褪せたポスターが貼られている。ロシア語らしき文字、古い歌手の写真、劇団名、日付。どれも年月に削られて読みづらい。床には割れたシャンデリアの欠片が残っていた。天井は高く、音がよく響く。小さな足音でさえ、どこか遠くから返ってくる。

 

 レヴィが顔をしかめた。

 

「嫌な反響だな」

 

 ワイリが楽しそうに言う。

 

「劇場だからね。音を綺麗に返すようにできてる」

 

「綺麗じゃねえよ。気持ち悪いんだよ」

 

 ベニーは端末を見ながら言った。

 

「反応が反響してる。信号も音も、建物内で跳ね返ってる。どこが本当の発信源かわかりにくい」

 

 マオが天井を見上げる。

 

「敵はいるのか?」

 

 レームが答える。

 

「いると考えるべきだ」

 

 ダッチはロビーの左右を見た。

 

「出口は正面、裏口、舞台袖、地下搬入口か」

 

 ボリスが頷く。

 

「劇場図面は古く、信用できません。ホテル・モスクワの部隊で外周を押さえます」

 

 バラライカが短く命じる。

 

「内部は少数で行く。大人数で入れば、合唱長に聴かせる声が増えるだけだ」

 

 ココが言った。

 

「同意するわ」

 

 バラライカは彼女を見る。

 

「同意されると不快だな」

 

「私も少し」

 

 レヴィが小さく笑う。

 

「仲良くなれそうじゃねえか」

 

 二人の視線が同時にレヴィへ向いた。

 

「冗談だよ」

 

 結局、内部へ進むのは、バラライカ、ボリス、イリヤ、ロック、レヴィ、ベニー、ココ、バルメ、ワイリ、ダッチ、レーム。マオとホテル・モスクワの兵は外周と裏口を押さえることになった。

 

 ロビー奥の扉を開けると、客席が広がっていた。

 

 赤い座席が並んでいる。多くは破れ、埃をかぶり、いくつかは倒れていた。だが、中央通路だけは掃かれている。誰かが最近通ったのだ。舞台には古い緞帳が半分だけ降りていた。色はくすんだ赤。そこに仮設のケーブルが何本も伸びている。まるで、舞台そのものが巨大な喉になっているようだった。

 

 ベニーの端末が鳴る。

 

「出た。舞台奥です」

 

 ワイリが目を細める。

 

「いや、舞台だけじゃない。客席にも何かある」

 

 ベニーが確認する。

 

「……各座席の下に、小型の反射器みたいなものが置かれてる。音声を拾うというより、音の位置をわからなくするためかな」

 

 レヴィが言う。

 

「つまり、どこから喋ってるかわかんねえってことか」

 

「はい」

 

「気に入らねえな」

 

 その時、劇場内のスピーカーが鳴った。

 

 最初に流れたのは拍手だった。

 

 古い録音のような拍手。ざらつき、歪み、途切れながらも、劇場全体を満たす。誰もいない客席から、見えない観客が拍手しているようだった。

 

 そして、合唱長の声。

 

『ようこそ、舞台へ』

 

 バラライカは舞台を見据えたまま答えた。

 

「貴様は舞台に立たんのか」

 

『合唱長は指揮をする。歌うのはあなた方だ』

 

 レヴィが吐き捨てる。

 

「またそれか」

 

『レヴィ、あなたの拒絶はよく響く。だが今夜の主役はあなたではない』

 

 スピーカーの声が変わった。

 

 今度は、バラライカの声だった。

 

 いや、正確にはバラライカの声を真似たもの。

 

『全員、配置につけ。命令を待て』

 

 ホテル・モスクワの兵たちがわずかに反応した。

 

 イリヤも一瞬だけ身体を硬くする。

 

 だが、ボリスがすぐに言った。

 

「偽音声。反応を記録」

 

 イリヤは端末に入力する。

 

「了解」

 

 本物のバラライカは何も言わなかった。

 

 偽の声が続く。

 

『ボリス、HCLIを排除しろ。ココ・ヘクマティアルを確保。ラグーン商会は後退』

 

 バルメが鋭く構える。

 

 レヴィも舌打ちする。

 

 バラライカはようやく口を開いた。

 

「くだらん」

 

 合唱長の声が戻る。

 

『声色だけでは足りないか。では、何が足りない? 間か。癖か。沈黙か。命令の重さか』

 

 ベニーが端末を見る。

 

「今の反応も取られてる。偽声に対して、誰がどれくらい遅れたか見てる」

 

 ロックはイリヤの方を見た。

 

「大丈夫ですか」

 

 イリヤは頷く。

 

「一瞬、反応しました。でも、違いました」

 

「何が違った?」

 

 バラライカが問う。

 

 イリヤは答えた。

 

「声は似ていました。でも、命令に責任がありませんでした」

 

 バラライカは短く言う。

 

「よろしい」

 

 合唱長の声が低く笑う。

 

『若い兵の判断。成長。美しい』

 

 イリヤの顔が歪む。

 

 ロックは言った。

 

「あなたが名前をつけても、それは彼の判断です」

 

『ロック。あなたはいつも所有権を取り戻そうとする。声を持ち主へ返そうとする。興味深い』

 

「興味を持たないでください」

 

『それはできない』

 

 ココが舞台を見た。

 

「合唱長。あなたはそこにいるの?」

 

『いる、と言えば来る。いない、と言えば探す。どちらも歌になる』

 

「なら黙っていて」

 

『それはあなたにはできないことだ、ココ・ヘクマティアル』

 

 今度はココの声がスピーカーから流れた。

 

『知りたい。壊したい。使いたい。止めたい。私は武器が嫌い。だから世界中の武器を私のものにしたい』

 

 ロックの顔が強張った。

 

 ココの過去の言葉。似ている。完全ではない。だが、意味を歪ませるには十分だった。

 

 バルメの怒りが空気を切る。

 

「黙れ」

 

 偽ココの声が続く。

 

『赤い合唱があれば、命令を止められる。命令を作れる。戦争を閉じられる。欲しい。欲しい。欲しい』

 

 ココの顔から表情が消えた。

 

 ロックは彼女の横に立つ。

 

「ココ」

 

「わかってる」

 

「今、何を考えていますか」

 

「怒ってる」

 

「欲しくは?」

 

 ココは一瞬だけ黙った。

 

「欲しいと思う部分もある」

 

 バルメが彼女を見る。

 

「ココ」

 

「でも、これは私じゃない」

 

 ココはスピーカーを見上げた。

 

「私の声を真似ても、私の責任までは真似できない」

 

 バラライカが横目でココを見る。

 

 ココは続けた。

 

「私が欲しがるなら、私がその責任を持つ。あなたの偽物には、それがない」

 

 合唱長の声が少しだけ歪んだ。

 

『責任。大尉の言葉を借りたか』

 

 ココは言った。

 

「借りたんじゃない。必要だったから使ったの」

 

 ロックは思わず息を止めた。

 

 バラライカの表情は変わらない。だが、わずかに空気が変わった。敵に勝手に使われる声と、自分で選んで使う言葉は違う。その境界を、ココは今、自分で引いた。

 

 レヴィが小声で言う。

 

「やるじゃねえか、白いお嬢様」

 

 バルメは少しだけ誇らしげに見えた。

 

     *

 

 舞台へ向かう通路の途中で、劇場の照明が一斉に落ちた。

 

 完全な暗闇ではない。赤い非常灯だけが残り、客席と舞台を不気味に照らす。天井のスピーカーから、複数の声が流れ始めた。

 

 バラライカの声。

 

 ボリスの声。

 

 ココの声。

 

 ロックの声。

 

 レヴィの声。

 

 張の声。

 

 キャスパーの声。

 

 サフロノフの声。

 

 どれも本物に近いが、どこか薄い。声色は似ているのに、重さが足りない。だが、混乱させるには十分だった。

 

『ロック、下がれ』

『ココを守れ』

『命令だ、撃て』

『取引は成立した』

『祈れ』

『従え』

『止めろ』

『進め』

 

 声が重なり、意味が崩れ、また別の意味を作る。

 

 イリヤが耳を押さえかける。

 

 ボリスが言う。

 

「耳を塞いでも構わん。目を開けろ」

 

 イリヤはレヴィの言葉を思い出したように、耳から手を離さず、前を見た。

 

 レヴィがにやりと笑う。

 

「使ってんじゃねえか」

 

 ボリスは答えない。

 

 ダッチが短く言う。

 

「舞台袖に動き」

 

 右側の舞台袖から、男たちが出てきた。合唱団員。灰色の服ではない。劇場のスタッフのような黒い服を着ている。手には武器があるが、撃ち合うためというより時間を稼ぐための配置だ。

 

 レヴィが動く。

 

 バルメも動く。

 

 ホテル・モスクワの兵たちが通路を押さえ、レームが舞台袖へ回る。ダッチはロックとベニーを客席側の遮蔽物へ誘導する。戦闘は短く、鋭かった。赤い照明の中で、声と足音と金属音が混ざる。レヴィは文句を言いながらも、撃ちすぎない。バルメはココから離れすぎず、相手の動きを切る。ボリスは兵たちの配置を微調整し、バラライカは一歩ずつ舞台へ進む。

 

 合唱長の声が流れる。

 

『戦闘反応。命令下の兵士。命令外の暴力。護衛対象への執着。よい、実によい』

 

 レヴィが叫ぶ。

 

「実況やめろっつってんだろ!」

 

 彼女は舞台袖の男を壁際へ追い込み、短く制圧する。

 

 ベニーは端末を見ながら言う。

 

「舞台奥に中枢。けど、反応が二重です。舞台上の装置と、地下の音響室。どっちかが本命」

 

 ワイリが言う。

 

「劇場なら音響室だろうね」

 

 バラライカが短く命じる。

 

「二手に分かれる。舞台は私が行く。音響室はベニー、ワイリ、ダッチ。ロックは」

 

 少し間が空く。

 

 レヴィが言う。

 

「真ん中だろ?」

 

 バラライカはレヴィを一瞥した。

 

「その通りだ」

 

 ロックは諦めたように頷く。

 

「はい」

 

 ココが言う。

 

「私は舞台へ」

 

 バラライカは即座に返す。

 

「駄目だ」

 

「見る必要がある」

 

「欲しがる必要ではない」

 

「同じじゃない」

 

「今は同じに見える」

 

 二人の間に火花が散る。

 

 合唱長の声が楽しそうに揺れる。

 

『対立。知識と破壊。欲望と侮辱。よい二重唱だ』

 

 ロックが強く言った。

 

「黙ってください」

 

 スピーカーが少しだけノイズを返す。

 

 ロックは二人を見る。

 

「舞台へ行くのは、バラライカさん、ココ、バルメ、ボリス、レヴィ。俺も行きます。ベニーたちは音響室へ。どちらか一方が本命でも、もう一方を止められるようにする」

 

 バラライカはロックを見る。

 

「また両方を取るか」

 

「どちらか片方に任せる方が危険です」

 

 ココは小さく笑った。

 

「便利ね」

 

「言わないでください」

 

 バラライカは少しだけ沈黙し、頷いた。

 

「行くぞ」

 

     *

 

 音響室へ向かったベニーたちは、狭い階段を下りていた。

 

 ダッチが先頭、ベニーが中央、ワイリが後ろ。途中でマオとレームが合流し、背後を押さえる。音響室は舞台下にあった。古いミキサー、配線盤、録音機、音響制御装置。それらに新しい端末が接続されている。劇場全体のスピーカー、客席下の反射器、舞台奥の仮設装置。そのすべてがここで繋がっていた。

 

 ベニーは顔をしかめた。

 

「やっぱり、ここが制御室です」

 

 ワイリは古い機材を見て言う。

 

「すごいね。昔の音響設備をほとんどそのまま使ってる。声を綺麗に返すための場所を、偽声を返す場所にしてる」

 

 ベニーは端末を接続しながら言った。

 

「感心しないで」

 

「感心と嫌悪は両立するよ」

 

 ダッチが入口を見張る。

 

「止められるか」

 

「止めます。ただ、こっちを切ると舞台側に負荷が行くかもしれません」

 

「舞台側にはロックがいる」

 

 ベニーが一瞬止まる。

 

「それ、安心材料ですか?」

 

 ダッチは答えない。

 

「作業しろ」

 

「はい」

 

 その時、音響室の古いスピーカーから声が流れた。

 

 ベニーの声だった。

 

『逃げたい。怖い。自分は撃てない。端末の前なら役に立てる。だから端末を手放せない』

 

 ベニーの手が止まった。

 

 ワイリが彼を見る。

 

「ベニー」

 

 ベニーは歯を食いしばる。

 

「偽物です」

 

『本当に?』

 

 合唱長の声が重なる。

 

『あなたは銃を持たない。だから声を持つ。だから線を切る。だが、線を切る時、あなたも命令している。止まれ、黙れ、繋がるな、と』

 

 ベニーは震える息を吐いた。

 

「うるさいな」

 

 ダッチが言う。

 

「ベニー」

 

「大丈夫です」

 

「本当か」

 

「本当じゃないけど、手は動きます」

 

 ワイリが少し笑った。

 

「それで十分」

 

 ベニーは端末へ向き直る。

 

「僕は撃てません。でも、これは止めます」

 

 合唱長の声が囁く。

 

『技術者の決意。よい音だ』

 

 ワイリが配線を見ながら言う。

 

「音痴だね、君」

 

 合唱長の声が一瞬だけ乱れる。

 

 ワイリは続けた。

 

「人の声を拾うのは上手いけど、間がわかってない。だから薄いんだよ」

 

 ダッチが低く笑った。

 

「全員、言うようになったな」

 

 ベニーは作業を進めた。

 

 劇場全体の声が、一段揺らぐ。

 

     *

 

 舞台側では、バラライカとココが並んでいた。

 

 正確には、並んでいるように見えるだけで、互いにいつでも反応できる距離を取っている。バルメはココの横。ボリスはバラライカの後ろ。レヴィは少し前方で、舞台袖の影を見ている。ロックはまた、その中間にいた。

 

 舞台中央には、赤い幕の裏に装置があった。

 

 水上倉庫のものとは違う。こちらは、もっと小さい。だが、密度が違った。古い劇場の音響設備と接続され、複数の音声記録が保存されている。外見だけなら、ただの録音・再生装置にも見える。だが、ベニーが言ったように、これは喉だ。集めた声を加工し、命令として返すための中枢。

 

 ココはそれを見て、完全に黙った。

 

 ロックは彼女の顔を見た。

 

 危険だった。

 

 目が輝いているわけではない。むしろ表情は消えている。だが、その沈黙が危険だった。彼女は今、装置を見ているのではない。可能性を見ている。どれだけ危険かを理解し、どれだけ使えるかも理解してしまっている。

 

 バラライカもそれを見抜いた。

 

「ココ・ヘクマティアル」

 

 ココは答えない。

 

「欲しいか」

 

 長い沈黙。

 

 スピーカーから、偽ココの声が流れる。

 

『欲しい。欲しい。欲しい』

 

 ココは静かに言った。

 

「黙って」

 

 偽声が続く。

 

『これがあれば、戦争を止められる。命令を奪える。軍隊を止められる。国を止められる。声を閉じられる』

 

 バルメが怒りを抑えている。

 

 ロックはココへ言った。

 

「ココ」

 

「欲しいわ」

 

 その言葉に、空気が止まった。

 

 バラライカの目が氷のように冷える。

 

 バルメが息を呑む。

 

 レヴィが小さく呟く。

 

「言いやがった」

 

 ココは続けた。

 

「危険だとわかってる。壊すべきだともわかってる。でも、欲しい。これが何をできるか、私はわかってしまう」

 

 バラライカが一歩前に出る。

 

「なら撃つ」

 

 バルメが即座に構える。

 

「させません」

 

 ボリスも動く。

 

 レヴィが叫ぶ。

 

「おいおい、今ここで始めんな!」

 

 ロックが二人の間に飛び込む。

 

「待ってください!」

 

 バラライカはロックを見る。

 

「退け」

 

「退きません」

 

「今の言葉を聞いただろう」

 

「聞きました」

 

「なら退け。欲しがる者は、いずれ使う」

 

 ココは否定しなかった。

 

 ロックは振り返る。

 

「ココ。使いますか」

 

 ココは沈黙する。

 

 ロックはもう一度言う。

 

「使いますか」

 

 ココは唇を噛んだ。

 

「……今の私には、使いたいと思う部分がある」

 

 バラライカの指が動く。

 

 ロックは強く言った。

 

「なら、持たないでください」

 

 ココは顔を上げる。

 

「何?」

 

「欲しいなら、持たないでください。知りたいなら、知る量を制限してください。使いたいと思うなら、使えない形で残してください」

 

 合唱長の声が響く。

 

『自己制限。監視。共有。興味深い』

 

 ロックは天井を睨む。

 

「黙ってろ」

 

 そして、ココへ向き直る。

 

「あなたがこれを欲しがること自体は、俺には止められない。でも、持たせないことはできます。バラライカさんが壊したがることも止められない。でも、何も知らずに壊すことは止めます」

 

 バラライカが低く言う。

 

「また同じ答えか」

 

「はい」

 

「甘い」

 

「そうかもしれません」

 

「危険だ」

 

「わかっています」

 

「それでも?」

 

「それでも、誰か一人に渡せば終わりです」

 

 ココはロックを見ていた。

 

 バルメも、ボリスも、レヴィも黙っている。

 

 ロックはココへ言った。

 

「言ってください。これは欲しい。でも、自分一人では持たない、と」

 

 ココは長く沈黙した。

 

 その沈黙を、合唱長が拾おうとしているのがわかる。

 

 偽ココの声がささやく。

 

『欲しい』

 

 ココは目を閉じた。

 

 そして、言った。

 

「欲しい」

 

 バラライカの目が鋭くなる。

 

 ココは続けた。

 

「でも、私一人では持たない。持てば、使いたくなる。だから、最低限の記録を分ける。装置は壊す」

 

 バルメが息を吐いた。

 

 ロックも、ようやく少しだけ息をした。

 

 バラライカはまだ銃を下ろさない。

 

「誓えるか」

 

 ココはバラライカを見た。

 

「あなたには誓わない」

 

 空気がまた硬くなる。

 

 ココは続ける。

 

「ロックに見張らせる。バルメにも。私の部隊にも。あなたにも。欲しがる私を、全員で疑えばいい」

 

 バラライカは黙った。

 

 長い沈黙。

 

 そして、銃をわずかに下げた。

 

「よろしい」

 

 ロックは力が抜けそうになった。

 

 レヴィが言う。

 

「お前、ほんと寿命縮めてるぞ」

 

「自覚あります」

 

 合唱長の声が歪む。

 

『合意。自己監視。相互不信。実に美しい合唱だ』

 

 バラライカが舞台装置を見た。

 

「ベニー」

 

 通信越しにベニーが答える。

 

『はい、音響室側はほぼ押さえました。舞台側の記録は今なら最低限だけ抜けます。ただし時間は短いです』

 

「やれ」

 

 ココが言う。

 

「HCLI側にも同じ断片を」

 

 バラライカは睨む。

 

「同じものだ。増やすな」

 

 ベニーが悲鳴に近い声を出す。

 

『また最悪に公正な作業ですね!?』

 

 ワイリの声が入る。

 

『いい経験だよ』

 

『よくありません!』

 

 ロックは小さく笑いそうになったが、舞台装置が光を強めたため、すぐに表情を戻した。

 

     *

 

 作業が始まると、舞台の装置は最後の抵抗を始めた。

 

 偽声が一斉に流れる。

 

 今度は命令ではない。

 

 記憶だった。

 

 バラライカの過去を思わせる声。ボリスの迷い。サフロノフの謝罪。ココの欲望。ロックの言葉。レヴィの怒り。ベニーの恐れ。バルメの忠誠。ダッチの沈黙。

 

 劇場全体が、それぞれの内側から声を引き出そうとしていた。

 

 ロックの声が流れる。

 

『撃つ前に話せば、何か変わると思っている。自分だけはまだ戻れると思っている』

 

 ロックは息を詰まらせた。

 

 レヴィが即座に言った。

 

「聞くな、ロック」

 

 ロックは苦笑した。

 

「聞こえてます」

 

「じゃあ無視しろ」

 

「それが難しい」

 

「難しくてもやれ」

 

 その言い方が、妙に優しかった。

 

 ロックは頷いた。

 

「はい」

 

 レヴィの偽声も流れる。

 

『壊せ。撃て。考えるな。考えたら戻れなくなる』

 

 レヴィは舌打ちした。

 

「うるせえな。俺は考えてから撃ってんだよ、ちょっとは」

 

 ダッチの通信が入る。

 

『ちょっとか』

 

「黙れ、ダッチ!」

 

 緊張の中で、ほんの少しだけ空気が緩む。

 

 その緩みすら、合唱長は拾う。

 

『緊張緩和。仲間意識。よい音だ』

 

 ワイリの声が通信に乗る。

 

『だから君、音痴だって』

 

 その直後、劇場のスピーカーが大きく乱れた。

 

 ベニーが叫ぶ。

 

『今です! 舞台側、主線を落とせます!』

 

 バラライカが命じる。

 

「落とせ」

 

 ココが続ける。

 

「記録は最低限だけ」

 

 ロックは言った。

 

「全員で確認」

 

 舞台装置のランプが揺れる。

 

 赤い光が白くなり、また赤へ戻る。

 

 合唱長の声が最後に響く。

 

『ココ・ヘクマティアル。あなたはいつか使う』

 

 ココは答えた。

 

「使いたくなる私を、私は疑う」

 

『大尉。あなたの兵は、いつか偽のあなたに従う』

 

 バラライカは答えた。

 

「その時は、本物の私が殺す」

 

 ロックは思わず顔をしかめた。

 

 バラライカは続けた。

 

「だがその前に、兵自身が疑う」

 

 イリヤがその言葉を聞き、強く頷いた。

 

 合唱長の声が少し歪む。

 

『ロック。あなたは全員を止められない』

 

 ロックは言った。

 

「全員は無理です」

 

 合唱長が笑う。

 

『なら』

 

「でも、今ここで一人ずつなら止めます」

 

 沈黙。

 

 それは勝利ではない。だが、合唱長が期待した絶望ではなかった。

 

 ベニーとワイリの作業が終わる。

 

 舞台装置の声が途切れた。

 

 最後に、古い劇場のスピーカーから拍手が流れた。

 

 今度は録音ではない。

 

 合唱長の拍手だった。

 

 ゆっくりと、乾いた拍手が三回。

 

『幕はまだ下りない』

 

 その言葉を最後に、装置は沈黙した。

 

 赤い緞帳が、風もないのにゆっくり揺れた。

 

     *

 

 劇場を出た時、夜はまだ終わっていなかった。

 

 外周を押さえていた三合会の者たちが、張からの短い伝言をロックへ渡した。

 

 声は外へ逃げたか。

 

 ロックはベニーを見た。

 

 ベニーは疲れ切った顔で答える。

 

「主線は落としました。でも、最後の拍手の直前に、ごく短い信号が外へ出ています。内容は不明。量は少ない。でも、ゼロじゃない」

 

 ロックは伝言の裏に書き足した。

 

 少しだけ。次を探します。

 

 張へ返すように頼む。

 

 バラライカは劇場を振り返っていた。

 

 ボリスが横に立つ。

 

「大尉」

 

「合唱長は逃げた」

 

「はい」

 

「だが、喉は潰した」

 

「完全ではありませんが」

 

「完全な勝利など、この街にはない」

 

 ボリスは頷いた。

 

 ココは少し離れた場所で、バルメと話していた。

 

 ロックが近づくと、ココは振り返る。

 

「見張っていた?」

 

「はい」

 

「怖かった?」

 

「かなり」

 

「私も」

 

 ロックは少し驚いた。

 

 ココは劇場を見た。

 

「欲しいと思った自分が怖かった」

 

「それを言えるなら、まだ大丈夫です」

 

「大丈夫じゃないわ」

 

 ココは小さく笑った。

 

「でも、大丈夫じゃないと知っている間は、まだ戻れるかもしれない」

 

 ロックは頷いた。

 

「見張ります」

 

「ええ」

 

 バラライカが遠くから言った。

 

「ロック」

 

「はい」

 

「白い商人に伝えろ。オルフェウス・リンクの買い手名簿を出せ、と」

 

「キャスパーが素直に出すでしょうか」

 

「出さなければ、港を閉じる」

 

 レヴィが笑った。

 

「それ聞いたら、白い兄貴も少しは青くなるな」

 

 ココは言った。

 

「兄さんは青くならないわ。値段を考えるだけ」

 

 ダッチが静かに言う。

 

「なら、その値段を高くしてやれ」

 

 ベニーが端末を見ながら、弱々しく言った。

 

「請求書も高くしていいですか」

 

 レヴィが即答する。

 

「もちろんだ」

 

 ロックは夜の劇場を見上げた。

 

 赤い合唱の喉は壊れた。

 

 だが、合唱長は拍手を残した。

 

 幕はまだ下りない。

 

 それは勝利の後味ではなく、次の幕の予告だった。

 

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