Guns & Garlands — 銃と花輪   作:たこ焼き 龍月

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みんな大好き、マージナル・オペレーションも参戦


外伝 First Margin ー声が線になる場所ー  序章:声が線になる

 

 

 新田良太は、声を出す前に地図を見た。

 それは、もう癖だった。端末の画面に映るキャンプの簡易地図。川沿いの細い道。雨で崩れかけた斜面。配給所の影。学校テントの裏。診療所の白い天幕。古い倉庫。子どもたちの寝泊まりする区画。水場。桟橋。見張りの位置。風向き。昨日ぬかるんだ場所。朝になると人が集まりやすい場所。夕方になると不安が溜まりやすい場所。

 画面の上では、すべてが線と点になる。

 第一分隊、第二分隊、第三分隊。

 小さな丸。薄い色分け。名前の頭文字。状態を示す短い印。移動予定を示す細い線。

 それだけ見れば、キャンプは整理された場所に見える。どの子がどこにいて、どこへ動かせば安全か、どこを避ければ混乱が減るか、どの道を使えば最短か。画面の上では、すべてが扱えるものに見える。

 けれど、新田は知っている。

 子どもは記号ではない。

 点ではない。

 線でもない。

 走れば息を切らす。転べば泣く。怖ければ動けなくなる。友達が遅れれば振り返る。知らない大人の声には従わないくせに、知っている子が走れば危険な方へでもついていく。腹が減れば怒る。眠ければ判断を間違える。大人が思っているより賢く、大人が思っているより簡単に傷つく。

 だから、新田は地図を見る。

 そして、地図を信じすぎないようにしている。

 東南アジア辺境の避難民キャンプは、朝から湿った熱に包まれていた。夜の雨がまだ地面に残り、踏まれた土は黒く光っている。学校テントの屋根からは水滴が落ち、配給所の前には少しずつ列ができ始めていた。診療所の周りでは咳をする音が聞こえ、川沿いでは水を汲む子どもたちが小さな声で言い合いをしている。

 ここは街ではない。

 だが、街より複雑だった。

 国も、村も、家も、家族も、言葉も、信じるものも、怖がるものも、ここでは一つに混ざっている。誰が誰を信じているのか。誰が誰を避けているのか。どの道なら安心するのか。どの声なら立ち止まるのか。地図に描けないものばかりが、ここでは生きるかどうかを分ける。

 新田は画面を拡大した。

 第一分隊の一部は川沿いの桟橋近く。第二分隊は学校テントの裏。第三分隊は配給所の横。ジブリールは診療所と水場の間。オマルは古い倉庫の前。ソフィアは配給所側を見ている。

 いつも通りに見える。

 だから、嫌な感じがした。

 いつも通りに見える時ほど、何かが隠れている。

 新田は第一分隊の位置を見た。北側の道へ動かすか。いや、まだ早い。配給所の列が伸びる前に、学校テントの裏へ少し寄せる方がいい。川沿いは足場が悪い。北側の道は見通しがいいが、子どもたちが不安がる。診療所の影を通れば、少し遠回りだが落ち着いて動ける。

 声を出す前に、頭の中で線を引く。

 第一分隊を少し右へ。

 第二分隊はまだ動かさない。

 ジブリールには水場の子どもを見てもらう。

 オマルには古い倉庫側を押さえてもらう。

 ソフィアは配給所の列が崩れないように。

 新田は息を吸った。

 通信を開こうとした。

 その直前、端末の画面が一瞬だけ暗くなった。

 次の瞬間、地図に赤い線が現れた。

 新田は動きを止めた。

 赤い線は、第一分隊から北側の道へ伸びている。青い線は、第二分隊から学校テントの裏へ。黄色い点が配給所の影へ移動する。まるで、数分後に新田が出すつもりだった指示を、誰かが先に画面へ描いたようだった。

 違う。

 似ているのではない。

 これは、新田の線だ。

 彼がまだ声にしていない命令だった。

 隣にいたジブリールが、端末を覗き込んだ。彼女はすぐには喋らなかった。小さな眉が寄る。画面を見る。新田を見る。もう一度、画面を見る。

 

「アラタ」

 

 ジブリールの声は低かった。

 

「これ、誰が作ったの?」

 

 新田は答えなかった。答えられなかった。

 

「アラタの線に似てる」

 

「似てるんじゃない」

 

 新田は画面を見たまま言った。

 

「僕がまだ声にしていない命令だ」

 

 ジブリールの表情が硬くなる。

 

「じゃあ、誰かがアラタの頭の中を見たの?」

 

「違う」

 

 新田は即座に否定した。頭の中を読まれたわけではない。そんな非現実的なことではない。もっと現実的で、もっと嫌なことだ。

 

「僕の癖を読まれてる」

 

「癖?」

 

「僕が、どの子をどこへ動かすか。どの道を避けるか。どのタイミングで分けるか。誰に誰を見させるか」

 

 新田は画面を指した。

 

「これは、僕の判断の地図だ」

 

 ジブリールは黙った。

 その時、キャンプ中央の放送塔から、やわらかいノイズが流れた。

 ジジ、と乾いた音。

 配給所の列が少しだけ静かになる。水場にいた子どもたちが顔を上げる。学校テントの中にいた子どもたちが、布の隙間から外を見る。

 放送塔は、数日前に新しく整備されたものだった。教育放送、避難連絡、配給の案内、診療所からの呼び出し。そういうものに使うための設備。子どもたちが聞き慣れるように、短い合図音と、優しい声で始まるよう設定されている。

 その放送塔から、新田良太の声が流れた。

 

『第一分隊は、北側の道へ。第二分隊は、学校テントの裏へ。大丈夫。アラタの指示です』

 

 新田は息を止めた。

 声は似ていた。

 いや、かなり似ていた。

 声色だけなら、子どもたちが間違えてもおかしくない。発音の癖も、間の取り方も、普段の新田の短い指示に寄せている。しかも、命令内容はめちゃくちゃではなかった。むしろ合理的だった。地図上だけで見れば、成立している。

 だからこそ、最悪だった。

 間違った声が、間違っていない命令を出している。

 子どもたちは、一瞬だけ動きかけた。

 第一分隊の数人が北側を向く。第二分隊の小さな子が学校テントの裏へ行こうとする。配給所近くの子が、隣の子の袖を引く。

 ジブリールが叫んだ。

 

「止まって!」

 

 その声で、近くの子どもたちは反応した。だが、遠くの分隊には届かない。

 新田は端末を握り直し、深く息を吸った。焦ってはいけない。大声で怒鳴れば、子どもたちは怖がる。強い命令を重ねれば、偽の声と本物の声が混ざる。敵が欲しいのは、おそらくそこだ。どの声に反応するか。どの声が上書きするか。どの声で子どもたちが動くか。

 声と声の勝負にしてはいけない。

 偽の声が「アラタの指示です」と言った以上、本物の新田が「僕が本物だ」と言っても、子どもたちは声の似ている方を比べることになる。そうなれば、次にもっと精巧な偽物が来た時、必ず崩れる。

 新田は通信を開いた。

 

「全分隊、停止」

 

 自分の声が、各分隊の小さな受信機へ届く。

 

「今の放送には従わない」

 

 子どもたちの動きが止まる。

 だが、まだ足りない。

 新田は続けた。

 

「第一分隊、隣の子を見る」

 

 少し間を置く。

 

「一人で動かない」

 

 また間を置く。

 

「第二分隊、今いる場所で二人組を作る」

 

 子どもたちが互いを見る。誰かが名前を呼ぶ。小さな手が隣の服を掴む。

 新田は、遠くの学校テントの方を見た。

 

「ジブリール、学校テント側」

 

「うん!」

 

 ジブリールは走った。

 けれど、彼女の走り方はいつもと違っていた。まっすぐ行かない。途中で水場の方を見て、動きかけた小さな子の肩を押さえる。それから学校テントへ向かう。

 新田はその動きも見た。

 地図にはない動きだった。

 オマルの声が通信に入る。

 

『古い倉庫側、停止確認。数名が北へ動きかけたが戻した』

 

「ありがとう。無理に集めないで。その場で確認させて」

 

『了解』

 

 ソフィアの声も入る。

 

『配給所側、ざわついてる。偽放送だと説明してるけど、小さい子は不安がってる』

 

「列を崩さないで。今は安心させるより、動かさないことを優先」

 

『それ、だいぶ冷たい言い方だけど』

 

「あとで謝る」

 

『了解』

 

 新田は放送塔を見上げた。

 再びノイズ。

 また偽の声が流れる。

 

『怖がらなくていい。アラタです。第一分隊は北側へ。そこが安全です』

 

 今度は、先ほどより少し優しい声だった。

 新田は奥歯を噛んだ。

 敵は修正している。

 最初の放送で子どもたちが動きかけた。ジブリールが止めた。新田が確認手順を出した。すると、次の声は「怖がらなくていい」と言った。

 声を流す。

 動きを見る。

 動かなければ、声を変える。

 声が線を生み、線が次の声を変える。

 新田は胸の奥が冷えるのを感じた。

 これはただの偽放送ではない。

 地図と声が繋がっている。

 キャンプの端末に、新しい線が走る。先ほどの赤い線が薄く消え、代わりに学校テント裏から診療所横へ向かう曲線が出る。ジブリールの動きに合わせ、子どもたちの移動予測が変わっていく。

 新田は思った。

 見ている。

 誰かが、子どもたちの動きを見ている。

 ただ監視しているのではない。

 動きを読んで、次の声を変えている。

 First Voice。最初に信じる声。

 Margin Map。声を聞いた後の移動予測。

 その二つが、今ここで繋がっている。

 

「ジブリール」

 

「聞いてる」

 

「子どもたちに言って。僕の声でも、確認なしに動かない」

 

 短い沈黙。

 

「それ、言っていいの?」

 

「いい」

 

「アラタの声も疑うの?」

 

 新田は一瞬、言葉に詰まった。

 その一瞬さえ、誰かに見られている気がした。

 彼は答えた。

 

「疑っていい」

 

 ジブリールは静かに息を呑んだ。

 

「わかった」

 

 彼女は学校テントの前に立ち、子どもたちへ向かって言った。

 

「聞いて。アラタの声でも、すぐに走らない」

 

 子どもたちが彼女を見る。

 

「声が聞こえたら、隣の子を見る。二人で確認する。近くの大人に聞く。一人で走らない」

 

 小さな子が不安そうに聞いた。

 

「でも、アラタの声だったよ」

 

 ジブリールはその子の前にしゃがんだ。

 

「似てた。でも、変だった」

 

「何が?」

 

 ジブリールは少し考えた。

 

「本当のアラタは、私たちに考えさせる」

 

 新田は通信越しに、その言葉を聞いた。

 胸の奥が、少しだけ痛んだ。

 考えさせる。

 そうでありたいと思ってきた。だが、本当にそうできていたのかはわからない。彼は子どもたちへ命令してきた。動かしてきた。止めてきた。分けてきた。地図の上に線を引き、そこへ声を流してきた。

 それは保護だった。

 そう信じている。

 だが、敵はそこを突いてくる。

 声で動かしているのは事実だ。

 地図で配置しているのも事実だ。

 守るための声と、支配するための声は、どこで分かれるのか。

 新田は、その境界線を自分が完全に説明できないことを知っていた。

 

     *

 

 放送塔の制御小屋は、キャンプ中央から少し離れた場所にあった。新田はオマルと合流し、ジブリールを学校テント側に残して制御小屋へ向かった。走る必要はない。走れば周りが不安になる。だが、急がなければならない。その矛盾を、彼は歩幅だけで処理した。

 オマルは無言で周囲を見ている。

 

「外部からか」

 

 新田が聞くと、オマルは短く答えた。

 

「可能性が高い。制御小屋の鍵は壊されていない。中の担当者も異常に気づいていなかった」

 

「内部に触らずに流した?」

 

「そう見える」

 

「厄介だね」

 

「いつも通りだ」

 

 新田は苦笑しなかった。

 制御小屋の前には、担当者の男が立っていた。顔色が悪い。彼は新田を見るなり、早口で言った。

 

「私は何もしていません。通常放送の予定もありませんでした。機材は朝に確認して、その時は正常で」

 

「責めていません」

 

 新田はそう言ったが、男はまだ怯えている。

 

「誰か入った形跡は?」

 

「ありません。少なくとも、私は見ていません」

 

 オマルが制御盤を見る。

 新田も中へ入った。

 設備は新しい。まだ埃も少ない。教育支援団体が持ち込んだものだと聞いていた。学校テント用の教材放送、配給案内、緊急連絡を兼ねる。善意の設備。子どもたちが日常の中で聞く声を、少しでも安定させるためのもの。

 その善意の声が、偽の新田の声を流した。

 新田は制御盤の横に貼られた納入書を見る。複数の団体名、複数の業者名、輸送経路。そこに見覚えのない白い荷札が混ざっている。

 オマルが低く言った。

 

「援助物資の一部として入ったものだ」

 

「どこ経由?」

 

「表向きは教育支援団体。だが、輸送名義が複雑だ」

 

 新田は端末を開く。

 納入履歴を確認する。通信機材、発電機、スピーカー、測量補助装置、学校用教材端末。いくつかの会社名が並ぶ。聞いたことのない名前ばかりだ。その中の一つに、白い船の印があった。

 HCLI関連の輸送補助名義。

 さらに、別の欄にラグーン商会。

 もう一つ、キャスパー・ヘクマティアルの関係会社。

 新田は目を閉じた。

 すぐに怒るべき場面かもしれない。だが、怒っても子どもたちは守れない。まず、何が持ち込まれたのかを知らなければならない。

 

「HCLI」

 

 オマルが横から見る。

 

「武器商人か」

 

「そうだね」

 

「関係しているのか」

 

「表向きは、ただの物流かもしれない」

 

「表向きは、か」

 

「うん」

 

 新田はもう一つの名義を見た。

 

「ラグーン商会」

 

「運び屋か」

 

「たぶん」

 

「信用できるのか」

 

 新田は少し考えた。

 

「信用はしない」

 

 それから、端末の画面を見た。

 

「でも、利用する」

 

 オマルは短く頷いた。

 制御盤の隅に、小さな異物が取りつけられていた。外見上は補助部品に見える。だが、納入書の型番とは一致しない。新田は手を伸ばしかけて、止めた。

 触らない方がいい。

 こういう時、何も知らない人間が触れば、取り返しがつかないことになる。

 専門家が必要だ。

 そして、この件に関わっている者たちの中には、専門家がいる。嫌になるほど。

 

「連絡する」

 

 新田は言った。

 

「HCLIに?」

 

「それと、荷を運んだ連中にも」

 

「キャスパーは?」

 

「もちろん」

 

 オマルの表情は変わらない。

 

「来ると思うか」

 

「来るよ」

 

「なぜ」

 

「自分の荷に値札以上のものが混ざっていたら、商人は確認しに来る」

 

「責任を取るためか」

 

「損をしないためだと思う」

 

「どちらでもいい」

 

「うん。子どもたちを守る役に立つなら、どちらでもいい」

 

 新田はそう言いながら、自分の声が少し冷たいことに気づいた。

 利用する。

 役に立つなら。

 それは、敵とどこが違うのか。

 彼は自分の胸の中に浮かんだ疑問を、今は飲み込んだ。疑問は後で見る。今は動く。

 

     *

 

 キャンプのざわめきは、まだ完全には収まっていなかった。

 偽放送は二回で止まった。だが、一度流れた声は、流れなかったことにはならない。子どもたちは互いに話している。今のはアラタだったのか。違うのか。なぜ似ていたのか。どうして疑っていいと言ったのか。

 疑うことを教えるのは、簡単ではない。

 子どもたちに「信じていい」と言う方が楽だ。自分の声を聞けと言う方が速い。命令して、動かして、守る。その方が効率はいい。

 だが、それでは駄目だ。

 敵は、新田の声を真似た。ならば、新田の声だけを絶対にしてはいけない。彼が「僕を信じろ」と言えば、子どもたちは次の偽物にも引っかかる。だから彼は、自分の声を疑えと言わなければならなかった。

 それは、ひどく寂しいことだった。

 ジブリールが戻ってきた。

 

「みんな、止まったよ」

 

「ありがとう」

 

「でも、怖がってる」

 

「うん」

 

「アラタの声も疑うって言ったら、もっと怖がった」

 

「うん」

 

「よかったの?」

 

 新田はすぐには答えられなかった。

 ジブリールは新田を見上げている。彼女は、ただ答えを待っているのではない。自分でも考えている。彼女は、もうただ命令を聞く子どもではない。ずっと前からそうだったのかもしれない。新田が、そう見ないようにしていただけで。

 

「よかったかは、わからない」

 

 新田は言った。

 

「でも、必要だったと思う」

 

「寂しいね」

 

「うん」

 

 ジブリールは少しだけ黙った。

 

「じゃあ、疑ってから信じる」

 

 新田は彼女を見た。

 

「それでいいの?」

 

「うん。アラタの声を全部疑うのは嫌。でも、何も考えないで信じるのも嫌」

 

 彼女は放送塔を見た。

 

「さっきの声、似てた。でも、違った」

 

「何が違った?」

 

「急がせた」

 

 新田は黙った。

 

「本当のアラタも急がせるけど、急がせたあとに、考える場所を残す。さっきの声は、走れって言ってるみたいだった」

 

 新田は息を吐いた。

 それは、彼自身よりも正確な分析かもしれなかった。

 

「ジブリール」

 

「何?」

 

「その違いを、みんなに教えてほしい」

 

「私が?」

 

「うん」

 

「アラタが言った方がいいんじゃない?」

 

「僕の声が狙われてる」

 

 ジブリールは少しだけ目を伏せる。

 

「そっか」

 

「だから、君の声が必要だ」

 

 ジブリールは驚いたように新田を見た。

 

「私の声?」

 

「うん。僕じゃない声で、みんなに伝えてほしい」

 

 ジブリールはしばらく黙っていた。

 それから、小さく頷いた。

 

「わかった」

 

 その瞬間、端末が鳴った。

 新田は画面を見る。

 発信元不明。

 短い文字列だけが表示されている。

 

**FIRST MARGIN / SUBJECT RESPONSE UPDATED**

 

 反応更新。

 新田は端末を握る指に力を込めた。

 やはり見ている。

 偽放送を止めたことも。ジブリールが動いたことも。新田が自分の声を疑えと言ったことも。すべて、見られている。

 続いて、もう一行が表示された。

 

**NITTA RYOTA / VOICE-MAP LINK: HIGH VALUE**

 

 新田良太。

 声と地図の接続。

 高価値。

 ジブリールが画面を見る。

 

「アラタのこと?」

 

「うん」

 

「狙われてる?」

 

「たぶん」

 

「どうするの?」

 

 新田は放送塔を見た。

 その奥に、学校テントがある。配給所がある。川沿いの道がある。古い倉庫がある。子どもたちがいる。地図の上では点にしかならないものが、現実には全部ここにある。

 

「地図を変える」

 

「どうやって?」

 

「僕だけが線を引かないようにする」

 

 ジブリールは首を傾げる。

 新田は言った。

 

「みんなで、線を疑う」

 

     *

 

 その日の昼、キャンプでは小さな確認訓練が行われた。

 訓練と呼ぶには、あまりにも静かなものだった。走らせない。叫ばせない。番号順に整列させない。子どもたちを二人組にし、放送が聞こえたら、まず隣を見る。名前を呼ぶ。聞こえた内容を一度口にする。近くの大人に確認する。それだけだ。

 効率は悪い。

 新田が一言で命じれば、もっと早い。

 分隊ごとに動かせば、もっと綺麗だ。

 地図上に線を引けば、もっと管理しやすい。

 だが、その綺麗さが狙われた。

 だから、わざと綺麗にしない。

 第一分隊の子どもが、隣の子に言う。

 

「今、北って聞こえた?」

 

「聞こえた。でも、ジブリールに聞く」

 

 別の子が言う。

 

「アラタの声だったら?」

 

 ジブリールが答える。

 

「アラタの声でも、変だと思ったら聞く」

 

「怒られない?」

 

「怒られない」

 

 子どもは少しだけ安心したように頷いた。

 新田は少し離れた場所でそれを見ていた。

 オマルが隣に立つ。

 

「面倒な手順だ」

 

「うん」

 

「だが、効くかもしれない」

 

「効率は悪い」

 

「生き残る手順は、だいたい効率が悪い」

 

 新田は少しだけ笑った。

 

「そうだね」

 

 オマルはキャンプの外側へ視線を向ける。

 

「さっきの外部信号、追えるか」

 

「少しだけ。放送塔から直接じゃない。どこかの中継を噛ませてる。たぶん、援助物資の中に混ぜられた機材がある」

 

「HCLIとラグーン商会」

 

「それとキャスパー」

 

「厄介な名前ばかりだ」

 

「うん」

 

 新田は端末を閉じた。

 

「でも、向こうも厄介だと思っているはずだよ」

 

「何を」

 

「子どもたちが、すぐには動かなくなったこと」

 

 オマルは少しだけ頷いた。

 キャンプ中央では、子どもたちがぎこちなく二人組の確認を繰り返していた。

 それは、強い隊列ではない。

 美しい分隊移動でもない。

 地図に描けば、乱れて見えるだろう。

 だが、乱れているからこそ、読みにくい。

 新田は思った。

 これが余白だ。

 子どもたちが、声と地図の間に作る小さな余白。

 庭師が欲しがっているもの。

 そして、庭師に渡してはいけないもの。

 

     *

 

 夕方、川沿いの桟橋に小型艇が近づいてきた。

 キャンプ側の見張りが先に気づき、新田へ連絡を入れる。船体には見覚えのない印がある。だが、積荷リストにある船の一つと一致する。

 ラグーン商会。

 その後ろに、別の船影。

 HCLI。

 さらに、少し離れた川の向こうで、白い船の一部が見えた。

 キャスパーの荷だ。

 新田は桟橋へ向かった。ジブリールもついてくる。オマルが少し後ろ。ソフィアはキャンプ内に残り、子どもたちの様子を見る。

 小型艇から、最初に降りたのは大柄な男だった。落ち着いた目で周囲を見る。ダッチ。次に、銃を下げた女。レヴィ。彼女はキャンプを見るなり、露骨に顔をしかめた。

 

「うわ。ガキだらけじゃねえか」

 

 ロックがその後ろから降りる。

 

「言い方」

 

「事実だろ」

 

「もう少し別の言い方があるでしょう」

 

「避難民キャンプに来て、感想を選んでる余裕があるかよ」

 

 ベニーが端末を抱えて降りてきた。彼は放送塔を見上げ、すでに嫌そうな顔をしている。

 

「またスピーカーですか……」

 

 次にHCLIの一行が降りる。ココ、バルメ、レーム、マオ、ワイリ。

 ココはキャンプ全体を一瞥し、すぐに新田を見た。

 新田も彼女を見た。

 数秒、互いに何も言わなかった。

 ココは穏やかに微笑んだ。

 

「新田良太?」

 

「そうです」

 

「ココ・ヘクマティアル」

 

「知っています」

 

「なら話が早いわ」

 

「早いかどうかは、話の内容によります」

 

 レヴィが小さく笑う。

 

「いいねえ。白いお嬢様に噛みつくタイプか」

 

 バルメがレヴィを睨む。

 ダッチが短く言った。

 

「ここで始めるな」

 

 ロックは新田へ歩み寄った。

 

「ラグーン商会のロックです。荷の件で来ました」

 

「運んだんですか」

 

「一部は」

 

「知らなかった?」

 

 ロックは言葉を選んだ。

 

「知らなかった、では済まないと思っています」

 

 新田はロックを見た。

 ロックの目は、逃げていなかった。

 それで信用するわけではない。

 だが、話す価値はあると思った。

 ジブリールがロックを見上げる。

 

「あなたが、ロック?」

 

「はい」

 

「ココを止める人?」

 

 ロックは一瞬、目を細めた。

 

「止めたい人です」

 

 ジブリールは少しだけ首を傾げた。

 

「それじゃ足りない」

 

 ロックは黙った。

 ココが横で少しだけ笑った。

 

「言われてるわね」

 

 ロックは小さく息を吐いた。

 

「最近、よく言われます」

 

 新田はココを見た。

 

「あなたは、この装置に興味がありますね」

 

 ココは隠さなかった。

 

「あるわ」

 

「子どもたちを動かす仕組みに?」

 

「子どもたちを守る仕組みに」

 

「同じものに見えます」

 

 ココの笑みが、少しだけ薄くなった。

 

「違いは大きいわ」

 

 新田は静かに言った。

 

「子どもたちにとっては、もっと大きいです」

 

 ココは黙った。

 ロックは、その沈黙を見た。

 この外伝の盤面が、今ここで始まったのだと感じた。

 声で人を動かす者。

 地図で人を守る者。

 声と地図を欲しがる者。

 それを運んでしまった者。

 止めたい者。

 そして、どこかで見ている庭師。

 桟橋の古いスピーカーが、短くノイズを出した。

 全員が同時にそちらを見る。

 スピーカーから、柔らかい声が流れた。

 

『歓迎します。観測対象が揃いました』

 

 新田の表情が消えた。

 ココの目が細くなる。

 ベニーが端末を握り直す。

 レヴィが低く言った。

 

「最悪の挨拶だな」

 

 声は続けた。

 

『First Margin、第二段階を開始します』

 

 そして、地図上に新しい線が引かれた。

 ラグーン商会。

 HCLI。

 アラタ陣営。

 その全員の位置が、キャンプの地図に重ねられていく。

 新田は端末を見た。

 赤い線、青い線、黄色い点。

 そこに、まだ誰も動いていないはずの未来が描かれていた。

 ジブリールが小さく言う。

 

「アラタ」

 

「うん」

 

「また、線が出た」

 

 新田は画面を睨んだ。

 

「今度は、僕たちだけじゃない」

 

 ロックが端末を覗き込む。

 

「これは……俺たちの動きも?」

 

 ベニーが青ざめた顔で頷いた。

 

「たぶん。ラグーン商会、HCLI、アラタ陣営。全員の予測経路です」

 

 ココは静かに言った。

 

「声と地図が、私たちまで飲み込んだ」

 

 新田は彼女を見た。

 

「飲み込ませません」

 

 ココは少しだけ笑った。

 

「どうやって?」

 

 新田は地図を閉じた。

 全員が彼を見る。

 彼は子どもたちの方を見た。ジブリールがいる。オマルがいる。ソフィアがいる。ラグーン商会がいる。HCLIがいる。信用できる者も、信用できない者も、必要な者も、危険な者もいる。

 敵は全員を線にした。

 なら、その線を信じないところから始めるしかない。

 

「まず、地図通りに動かない」

 

 新田は言った。

 

「それから、声を一つにしない」

 

 レヴィが口の端を上げる。

 

「いいねえ。地図に喧嘩売るってわけか」

 

 ジブリールは新田の横で、静かに頷いた。

 

「隣を見るんだよね」

 

「うん」

 

 新田は答えた。

 

「隣を見て、声を疑う。線を疑う」

 

 桟橋のスピーカーから、かすかな笑い声のようなノイズが漏れた。

 それは合唱長の声とは違う。

 先生のように柔らかく、地図係のように冷たい声だった。

 

『よい余白です』

 

 新田は端末を握りしめた。

 そして、静かに言った。

 

「余白は、あなたに渡さない」

 

 

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