Guns & Garlands — 銃と花輪   作:たこ焼き 龍月

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第五章 先生と地図係

 

 廃測量学校へ向かう前に、新田良太はもう一度だけキャンプの中心へ戻った。

 

 理由は単純だった。

 子どもたちを置いていく前に、子どもたちの顔を見る必要があった。地図の点ではなく、名前のある顔として。声を聞けば動いてしまう子。動けなくなる子。誰かを助けに戻る子。疑うことを覚えたばかりの子。

 地図に描けないものを、目で確認しておく必要があった。

 キャンプ中央の放送塔は、夕方の光を受けて鈍く光っていた。朝、その塔から偽のアラタの声が流れた。第一分隊は北側へ。第二分隊は学校テントの裏へ。大丈夫。アラタの指示です。

 

 あの声はもう流れていない。

 だが、流れた事実は消えない。

 子どもたちは、放送塔を見る目を変えていた。

 それが新田にはわかった。

 放送塔は、これまで「知らせてくれるもの」だった。配給の時間、診療所からの呼び出し、学校テントの開始、避難訓練の合図。子どもたちにとって、放送塔は安心の一部だった。大人がいて、声があって、何かを教えてくれる場所だった。

 

 だが、今は違う。

 子どもたちは、放送塔を少し疑っている。

 それは必要なことだった。

 そして、少し悲しいことだった。

 

「アラタ」

 

 ジブリールが横に立った。

 

「みんな、まだ怖がってる」

「うん」

「でも、さっきよりは落ち着いてる」

「うん」

「疑うの、疲れるね」

 

 新田は少しだけ彼女を見る。

 

「疲れる」

「アラタは、いつも疲れてる?」

「たぶん」

「たぶん?」

「慣れると、自分でわからなくなる」

 

 ジブリールは眉を寄せた。

 

「それ、よくない」

「そうだね」

「疑うのも、休むのも、二人でやる?」

 

 新田は言葉を失った。

 ジブリールは、さっき自分が子どもたちに教えた言葉を、少し変えて返してきた。声も、地図も、二人で疑う。なら、疲れも二人で見る。

 新田は苦笑に近い息を吐いた。

 

「考えておく」

「考えるだけ?」

「実行する」

「うん」

 

 ジブリールは頷いた。

 その横で、レヴィが腕を組んで立っていた。さっきから子どもたちに怖がられないよう、わざと少し横を向いている。あまりにも不自然な姿勢だった。

 ジブリールがそれを見て言う。

 

「レヴィ、もう少し普通でいい」

「あ? 横向けって言ったのお前だろ」

「怖い顔をしないでって言った」

「元からだ」

「じゃあ、普通でいい」

「お前の普通がわかんねえよ」

 

 レヴィは舌打ちしたが、姿勢を戻した。

 近くの子どもが少しだけ後ずさった。

 レヴィは顔をしかめる。

 

「ほら見ろ」

 

 ジブリールが言った。

 

「でも、さっきより怖くない」

「どこがだよ」

「少し慣れた」

「慣れんな」

 

 新田はそのやり取りを聞きながら、端末を確認した。

 

 第一分隊は落ち着きつつある。第二分隊も、二人組確認を維持している。第三分隊は配給所の匂いに引っ張られながらも、ソフィアがうまく抑えている。

 オマルが配給所側から戻ってきた。

 

「動きは落ち着いた」

「ありがとう」

「ただ、子どもたちは放送塔を見ている」

「うん」

「見ないようにさせるか」

「いや。見ていい。見て、すぐには信じない方がいい」

 

 オマルは頷いた。

 

「わかった」

 

 その時、ロックが近づいてきた。

 彼の後ろにはココ、バルメ、ワイリ。少し離れてキャスパーとチェキータ。ダッチは倉庫側で荷の確認を続け、ベニーは端末を抱えてワイリと通信している。

 ロックの表情は硬い。

 

「アラタさん」

「何か出ましたか」

「キャスパーの名簿から、教育支援団体の現地アドバイザーが浮かびました」

 

 新田は目を細めた。

 

「名前は?」

 

 ロックは端末を見た。

 

「表向きの名前は、エリアス・グラント。教育放送と避難計画のアドバイザー。国籍も経歴も綺麗すぎます」

 

 キャスパーが近づきながら言う。

 

「綺麗すぎる書類は、汚れた書類より高くつく」

 

 レヴィがすぐに返す。

 

「お前の書類か?」

「今回は違う、と言いたいところだけどね」

 

 チェキータが冷たく言う。

 

「ボス」

「わかってる。僕の荷の周辺にいた」

 

 ロックが続ける。

 

「この人物は、数日前にキャンプへ入っています。学校テントの導線、避難訓練、放送塔の運用、分隊ごとの集合場所について助言した記録があります」

 

 新田は一瞬、表情を消した。

 

「分隊ごとの集合場所?」

「はい」

「誰が許可した?」

 

 オマルが答えた。

 

「教育支援団体の一員として入った。表向きは、避難民キャンプでの安全な誘導計画の助言だ。実際、いくつかの提案は有効だった」

「有効だった?」

「水場への導線整理。診療所前の混雑回避。学校テント裏の通路確保」

 

 新田は黙った。

 

 それらは確かに有効だった。実際、ここ数日は子どもたちの動きが少し整理されていた。配給所前の混乱も減っていた。新田も、その変化を悪いものとは見ていなかった。

 だが、今ならわかる。

 それは善意の改善であると同時に、観測のための整備でもあった。

 

 人の流れを整える。

 すると、読みやすくなる。

 逃げ道を綺麗にする。

 すると、地図に描きやすくなる。

 優しい声で安心させる。

 すると、その声を真似しやすくなる。

 

「その人は今どこに?」

 

 新田が聞いた。

 ロックは端末を確認する。

 

「キャンプ内の記録上では、午前中に学校テント周辺で確認されています。その後、姿が消えています」

 

 ワイリが言った。

 

「消えたというより、見える場所から引いたんだろうね」

 

 ココが続ける。

 

「教図係」

 

 新田は彼女を見る。

 

「そう見ますか」

「ええ。先生と地図係。教育支援と避難計画。声と線の両方に触れる立場」

 

 キャスパーが白い箱の方を見ながら言った。

 

「表向きは、最高に綺麗な役職だ。子どもを守る先生。避難路を作る専門家」

 

 レヴィが吐き捨てる。

 

「で、実際はガキの動きを地図にしてる変態野郎か」

 

 新田は低く言った。

 

「その言い方は好きではありませんが、怒りは同じです」

 

 レヴィは少しだけ黙った。

 

「……そりゃどうも」

 

 ジブリールがロックの端末を覗き込んだ。

 

「この人、見たことある」

 

 新田がすぐに彼女を見る。

 

「いつ?」

「昨日。学校テントの前で、小さい子に話してた。優しい声だった」

「何を話していた?」

「避難訓練の話。放送が聞こえたら、先生の言うことを聞いてねって」

 

 空気が冷えた。

 新田は聞いた。

 

「先生?」

「うん。その人、自分で言った。先生って呼んでいいよって」

 

 ココが静かに言った。

 

「First Voice」

 

 ロックも続ける。

 

「最初に信じる声」

 

 新田は奥歯を噛んだ。

 子どもたちにとって、「先生」は特別な言葉だ。親ではない。指揮官でもない。兵士でもない。叱ることもあるが、教える人。危ない時に、正しいことを言ってくれるはずの人。

 

 庭師は、そこを選んだ。

 命令ではなく、先生の声。

 恐怖ではなく、安心。

 戦場ではなく、学校テント。

 それが、怒りをさらに冷たくした。

 

「ジブリール」

「うん」

「その人の声を覚えている?」

「少し」

「偽の声と似ていた?」

 

 ジブリールは少し考えた。

 

「偽のアラタの声とは違う。でも、二回目の優しい声に似てた」

 

 新田は頷いた。

 

「わかった」

 

 ソフィアから通信が入る。

 

『アラタ、学校テントの裏で妙な紙を見つけた。避難訓練図みたいだけど、うちのものじゃない』

 

「今行く」

 

     *

 

 学校テントの裏は、昼の熱をまだ残していた。

 

 地面には足跡が多い。子どもたちが何度も通る場所で、布の影ができるため、怖がる子も少ない。新田は以前からこの場所を一時集合場所に使っていた。安全ではない。だが、子どもたちが落ち着きやすい場所だった。

 ソフィアが地面に広げた紙を押さえていた。

 

 古いキャンプ地図に、手書きの線が引かれている。北側の道、学校テント裏、診療所の影、配給所、水場、放送塔。線は綺麗だった。綺麗すぎた。

 そこには、分隊ごとの動きが想定されていた。

 第一分隊。第二分隊。第三分隊。

 さらに、矢印の横には小さな注記がある。

 

 「声による誘導時、反応良好」

 「北側経路、心理抵抗あり」

 「学校テント裏、安心反応」

 「ジブリール周辺、追従反応高」

 

 新田は膝をつき、その紙を見た。

 ジブリールも横から覗く。

 彼女の顔が硬くなった。

 

「私の名前がある」

 

 新田は静かに言った。

 

「見るな」

「見る」

 

 ジブリールの声は強かった。

 

「私のことだから」

 

 新田は反論しかけて、やめた。

 隠せば守れるとは限らない。

 見せることで傷つくこともある。

 

 だが、自分の名前が敵の地図に書かれている。その事実を、彼女から取り上げることはできない。

 

「近づきすぎない」

「うん」

 

 ロックが紙を見て言った。

 

「これは、今朝の後に作ったものではありませんね」

 

 ベニーが端末で撮影しながら頷く。

 

「前から観測していた。今朝の偽放送は、既にある仮説のテストだったんでしょう」

 

 ワイリが紙の隅を指す。

 

「ここ。First Margin の古い記号がある。手書きだけど、タグと一致する」

 

 ココが注記を読む。

 

「声による誘導時、反応良好」

 

 その声は低かった。

 ロックは彼女を見た。

 

「ココ」

「わかってる」

「見ないでほしいとは言いません。でも、覚えすぎないでください」

「無理ね」

「ココ」

「見たら覚える」

 

 ココは紙から目を離した。

 

「だから危ない。私も、これも」

 

 新田は彼女を見た。

 今の言葉に嘘はない。

 だが、嘘がないことと、安心できることは違う。

 ソフィアが言った。

 

「この紙、学校テントの教材箱の下にあった。子どもたちが見つける前でよかった」

 

 新田は頷いた。

 

「ありがとう」

 

 ソフィアは肩をすくめる。

 

「礼より、あの先生を探して」

「探す」

 

 その時、放送塔から短いノイズが流れた。

 

 全員が顔を上げる。

 子どもたちも反応するが、すぐには動かない。二人組で顔を見合わせる。近くの大人を探す。

 新田はそれを視界の端で確認した。

 

 今は動いていない。

 まだ、持ちこたえている。

 放送塔から、落ち着いた声が流れた。

 

『皆さん、怖がらないでください』

 

 アラタの声ではない。

 先ほどの「先生」の声に近い。

 柔らかく、丁寧で、少しだけ湿度のある声。

 

『声を疑うことは、悪いことではありません』

 

 新田は眉をひそめた。

 敵は、こちらの言葉を利用し始めている。

 

『ただし、疑いすぎると、動けなくなります』

 

 子どもたちがざわつく。

 ジブリールがすぐに声を張る。

 

「隣を見る!」

 

 子どもたちは止まる。

 だが、声は続く。

 

『正しい声と、正しい地図が必要です』

 

 新田は放送塔を見る。

 

『子どもたちには、安全な道が必要です』

 

 ココの表情がわずかに変わった。

 ロックはそれを見逃さない。

 敵はココにも話している。

 子どもを守るための仕組み。安全な道。正しい声。

 ココが欲しがる言葉だ。

 

『新田良太。あなたは、それを知っている』

 

 新田は通信を開かなかった。

 声に声で返せば、敵は反応を見る。

 だが、黙っていても反応は見られる。

 何を選んでも見られるなら、見せるものを選ぶしかない。

 

 新田はジブリールへ小さく言った。

 

「子どもたちに、今は座るように」

 

 ジブリールは頷き、学校テント側へ走る。

 放送に対して走って集まらせるのではない。

 その場で座らせる。

 動きの線を消す。

 子どもたちは少しずつ座った。

 地図の上で、点が止まる。

 線にならない。

 放送塔の声が、わずかに間を置いた。

 

『よい判断です』

 

 新田は答えなかった。

 

『あなたは、子どもたちをよく見ている』

 

 答えない。

 

『誰が走るか。誰が泣くか。誰が誰の声で止まるか。誰が誰を追うか』

 

 新田の手がわずかに握られる。

 

『それは保護ですか』

 

 短い間。

 

『それとも、配置ですか』

 

 レヴィが低く言った。

 

「喋らせといていいのか」

 

 ロックが小声で答える。

 

「今は、子どもたちを動かさない方がいい」

 

 声は続く。

 

『子どもたちには、正しい声と正しい地図が必要です』

 

 新田はようやく口を開いた。

 通信ではなく、放送塔に向けて。

 声量は大きくない。だが、周囲の大人には届く。

 

「正しいかどうかを、誰が決めるんですか」

 

 放送塔の声が、少しだけ笑った。

 

『生き残った者です』

 

 新田の目が冷たくなる。

 ジブリールが彼を見る。

 オマルも、ロックも、ココも、誰もすぐには言葉を出さない。

 

「生き残れなかった子どもは、間違っていたんですか」

 

 新田は言った。

 声はすぐには答えなかった。

 

「間違った道を選んだから、死んだ。間違った声を信じたから、死んだ。あなたはそう言いたいんですか」

『あなたは極端に解釈する』

「あなたが、極端な地図を描いている」

 

 放送塔から、低いノイズが流れた。

 ベニーが端末を見る。

 

「反応が強くなった」

 

 ワイリが言う。

 

「怒りを見てる」

 

 新田は聞こえていた。

 怒りを見られている。

 怒りで動けば、地図に描かれる。

 だが、怒らないことはできなかった。

 問題は、怒りで走らないことだ。

 

 新田は深く息を吸った。

 

「あなたは、誰ですか」

 

 放送塔の声が答えた。

 

『先生、と呼ばれています』

 

 ジブリールが少しだけ顔を歪める。

 

『地図を作る仕事もしています』

 

 短い笑い。

 

『ですから、教図係とでも呼んでください』

 

 ココが低く言った。

 

「Instructor-Cartographer」

 

 教図係。

 先生と地図係。

 声と線の現場担当。

 

『新田良太。あなたに会いたい』

「僕は会いたくありません」

『でも、来るでしょう』

「なぜ」

『子どもたちを教材にされたままでは、あなたは止まれない』

 

 新田は黙った。

 

『廃測量学校へ来てください』

 

 放送塔の声は優しかった。

 

『声が線になるところを、お見せします』

 

 放送は切れた。

 余韻のノイズだけが、数秒残った。

 子どもたちは座ったまま、周囲を見ている。誰も走っていない。誰も一人で動いていない。

 

 だが、恐怖は増えていた。

 

 今の声は優しかった。

 優しい声が、自分たちを教材にしている。

 それを子どもたちは完全には理解していないかもしれない。だが、何かを感じている。

 新田はそれが嫌だった。

 子どもたちが、また一つ疑うものを増やされたことが。

 

     *

 

 放送が切れたあと、しばらく誰も大きな声を出さなかった。

 最初に動いたのはジブリールだった。

 彼女は座っている子どもたちのところへ行き、一人ずつ声をかける。大丈夫、ではない。大丈夫という言葉は、今は軽すぎる。彼女は別の言葉を選んだ。

 

「今は座ってる。走ってない。隣にいる。それでいい」

 

 新田はその言葉を聞き、胸の奥が詰まるのを感じた。

 大丈夫ではない。

 でも、今は座っている。

 隣にいる。

 

 それでいい。

 ジブリールは、本当に必要な声を選んでいる。

 だからこそ、敵は彼女を記録する。

 それが腹立たしかった。

 

 レヴィが新田の横に来た。

 

「おい」

「何ですか」

「さっきの先生野郎、ムカつくな」

「同感です」

 

「撃っていいか」

「まだ姿が見えていません」

「見えたら?」

「子どもたちの近くでは駄目です」

「じゃあ遠くなら?」

 

 新田は少しだけ彼女を見た。

 

「必要なら」

 

 レヴィは口の端を上げた。

 

「思ったより話がわかるな」

「僕は暴力が嫌いなわけではありません」

「へえ?」

「子どもたちを守れない暴力が嫌いです」

 

 レヴィは少し黙った。

 

「……なるほどな」

 

 ロックが近づいてくる。

 

「アラタさん」

「はい」

「今の声、ココにも向けられていました」

「わかっています」

「正しい声と正しい地図。安全な道。多くを助ける仕組み。ココが反応する言葉です」

 

 新田はココを見る。

 ココは少し離れた場所で、放送塔を見上げていた。

 バルメがその横に立つ。ココは何かを考えている。危険なほど静かに。

 

「あなたは止められますか」

 

 新田が聞いた。

 

 ロックはすぐには答えない。

 だが、逃げもしなかった。

 

「止めたいです」

「足りません」

「はい」

「でも、聞き飽きても言います」

「それでいいです」

 

 新田はロックを見る。

 

「僕も言います。あなたが止めるだけでは足りない。僕も、ジブリールも、バルメさんも、たぶんキャスパーも、全員で疑う必要があります」

「キャスパーも?」

 

 ロックが少し意外そうに聞いた。

 新田はキャスパーを見る。

 キャスパーは白い船の方を見ている。珍しく軽口を言っていない。

 

「彼は商人です。値段を見る。だから、価値が高すぎるものの危険もわかるはずです」

「それを止める理由にできると?」

「できなければ、彼も敵の線です」

 

 ロックは頷いた。

 

「伝えます」

 

     *

 

 ココは放送塔を見上げていた。

 バルメが低く言う。

 

「ココ」

「わかってる」

「まだ何も言っていません」

「言われる前に答えたの」

 

 バルメは黙った。

 彼女はココが何を見ているか、完全にはわからない。だが、危険なものを見ている時のココの横顔は知っている。目が遠くなる。世界の仕組みを一段上から見ようとする。そこに人の顔が残っているかどうか、バルメには時々不安になる。

 

「正しい声と正しい地図」

 

 ココは呟いた。

 

「嫌な言葉ね」

「ですが、あなたは反応しました」

「ええ」

「欲しいですか」

 

 ココは少し笑った。

 

「バルメまで聞くのね」

「必要です」

「欲しいと思う部分はある」

 

 バルメの表情は変わらない。

 

「なら、持たないでください」

 

 ココはバルメを見た。

 少し驚いたような顔だった。

 ロックの言葉。

 新田の警告。

 それをバルメが言う。

 

「あなたも?」

「はい」

「私を疑うの?」

「守るためです」

 

 ココはしばらく黙った。

 そして、ゆっくりと頷いた。

 

「そうね。疑って」

 

 バルメは答えた。

 

「はい」

 

 そこへロックが来た。

 

「ココ」

「今度は何?」

「持たないでください」

 

 ココは少しだけ笑った。

 

「三人目」

「何人でも必要です」

「本当に、嫌になるほど見張られているわね」

「嫌になってください」

「それは難しいわ。少し嬉しいもの」

「それはそれで危ないです」

 

 ココは小さく笑った。

 だが、すぐに表情を戻す。

 

「教図係は、アラタだけを見ていない。私たち全員を見ている」

「はい」

「私が欲しがるところも」

「はい」

「あなたが止めようとするところも」

「はい」

「キャスパーが責任と商売の間で迷うところも」

「はい」

「レヴィが怒るところも」

「はい」

「全部、地図になる」

 

 ロックは頷いた。

 

「だから、見せるものを選びます」

「赤い合唱の時と同じね」

「ええ。でも今回は、子どもたちがいます」

 

 ココは放送塔を見た。

 

「だから、より悪い」

「はい」

 

     *

 

 キャスパーは白い船の近くで、アランから追加の報告を受けていた。

 

 教育支援団体の現地アドバイザー、エリアス・グラント。偽名の可能性が高い。複数の難民支援案件に関わっていた記録があるが、そのいくつかは現在追跡不能。学校放送設備、避難訓練、キャンプ導線改善、測量支援。

 どれも表向きは善意の仕事だ。

 そして、そのすべてがFirst Marginの下準備に見える。

 

「ボス」

 

 アランが言う。

 

「この人物は、最初から荷と現地運用の両方に触れる位置にいました」

「つまり、僕の荷は入口か」

「はい。ですが、入口は一つではありません。教育支援団体、測量会社、医療支援、放送設備。複数の善意が束ねられています」

 

 キャスパーは苦く笑った。

 

「花輪みたいだね」

 

 アランは答えなかった。

 ポーが白い船の影から言った。

 

「白い糸で編んだ輪だ」

 

 キャスパーは振り返る。

 

「詩的だね」

「白い糸は、汚れると目立つ」

 

 チェキータが言う。

 

「ボス。今回は目立ってるわよ」

「わかってる」

「なら、どうするの?」

「名簿を出す」

「全部?」

「出せるだけ」

 

 チェキータの目が冷たくなる。

 

「ボス」

「わかった。全部に近いだけ」

「また曖昧」

「商人だからね」

「今日は、その言い訳は安いわ」

 

 キャスパーは溜息をついた。

 

「本当に味方が厳しい」

「味方だから厳しいの」

 

 キャスパーは少しだけ笑った。

 そして、端末を開く。

 

「アラン。関連名簿をロックと新田へ回せ。HCLIにも。出し惜しみは最低限」

「最低限?」

 

 チェキータが睨む。

 キャスパーは言い直した。

 

「出し惜しみなしで」

 

 アランは頷いた。

 

「了解しました」

 

 キャスパーは白い船を見た。

 

 自分の船。自分の荷。自分の商売。

 そこに庭師が糸を通した。

 腹立たしい。

 だが、腹を立てるだけなら簡単だ。

 キャスパーは商人だ。

 商人なら、損失を計算する。

 そして、今回は計算に入れていなかったものがある。

 子どもの声。

 逃げ道。

 それを商品にされることの、気分の悪さ。

 キャスパーは小さく呟いた。

 

「これは、割に合わないな」

 

 ポーが答えた。

 

「値段がつかないからだ」

 

     *

 

 夕方の光がキャンプの布屋根を赤く染める頃、新田たちは廃測量学校へ向かう準備を整えた。

 

 同行者は絞られた。

 アラタ陣営からは新田、ジブリール、オマル。

 ラグーン商会からはロック、レヴィ、ダッチ、ベニー。

 HCLIからはココ、バルメ、ワイリ、レーム、マオ。

 キャスパーはチェキータとアランを連れて同行する。ポーは白い船に残ると言った。だが、彼が何も見ていないとは誰も思わなかった。

 出発前、新田は子どもたちの前に立った。

 

 今度は放送を使わない。

 直接、声を届ける。

 それでも、彼は自分の声が絶対にならないように、少し間を置いた。

 

「僕たちは、少し離れた場所へ行く」

 

 子どもたちは彼を見る。

 

「声が聞こえても、すぐには動かない。地図に線が出ても、一人で走らない」

 

 彼はジブリールを見る。

 ジブリールが頷く。

 

「隣を見る。二人で確認する。近くの大人に聞く」

 

 子どもたちは小さく頷く。

 新田は続ける。

 

「僕の声でも、疑っていい」

 

 何人かの子どもが不安そうな顔をする。

 それでも、新田は言う。

 

「疑うのは、嫌いになることじゃない。生きて帰るために、確かめることだ」

 

 ジブリールが付け加える。

 

「疑ってから信じる」

 

 それで、何人かの子どもが少しだけ安心したように見えた。

 新田はその顔を覚える。

 地図ではなく、顔として。

 点ではなく、名前として。

 そして振り返った。

 廃測量学校へ向かう道が、夕暮れの中に伸びている。

 地図の上では一本の線。

 だが、彼らはその通りには歩かない。

 オマルが言う。

 

「行こう」

 

 新田は頷いた。

 

「行きましょう」

 

 ロックが隣へ来る。

 

「アラタさん」

「はい」

「教図係は、あなたの怒りも見ています」

「わかっています」

「大丈夫ですか」

 

 新田は少しだけ考えた。

 

「大丈夫ではありません」

 

 ロックは驚いたように彼を見る。

 新田は続けた。

 

「でも、隣を見ます」

 

 ロックは一瞬黙り、それから頷いた。

 

「俺も、そうします」

 

 少し離れて、ココがそれを聞いていた。

 彼女は何も言わない。

 ただ、ロックと新田を見ている。

 それもまた、教図係に見られているのだろう。

 それでも構わない。

 見られているなら、見せるものを選ぶだけだ。

 

 廃測量学校の方角から、短い放送ノイズが流れた。

 古いスピーカーが、どこかで息をしたような音。

 そして、先生の声が遠くから届く。

 

『お待ちしています』

 

 新田は足を止めなかった。

 ジブリールも止まらない。

 レヴィが銃に手を添える。

 ダッチは黙って歩く。

 ベニーは嫌そうに端末を抱え、ワイリは測量塔の影を見上げる。

 キャスパーは白い服の裾を汚しながら進む。

 ココは、静かに前を見る。

 ロックは、その横顔を見張る。

 

 声が線になる場所へ。

 先生と地図係が待つ場所へ。

 彼らは、地図に描かれた道から少しずれて歩き始めた。

 

 

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