Guns & Garlands — 銃と花輪 作:たこ焼き 龍月
廃測量学校は、地図の上では小さな四角でしかなかった。
キャンプの外れ、川沿いの道から少し外れた高台。かつて測量技師や通信士を育てるために作られた、小さな学校跡。資料上では十年以上前に閉鎖され、今は倉庫にも避難所にも使われていない。周囲の林に半分呑まれ、道はぬかるみ、古い測量塔だけが木々の上に首を出している。
地図で見れば、ただの廃墟だった。
だが、新田良太は、その四角が嫌だった。
学校。
放送室。
地図室。
測量塔。
教室。
子どもたちに何かを教える場所であり、声を遠くへ届ける場所であり、土地を線へ変える場所。
教図係にとって、これ以上ない舞台だった。
新田たちは、地図に描かれた本道を使わなかった。本道は最短だったが、最短であること自体が罠に見えた。新田はわざと川沿いの道を少し長く使い、途中で林の影を回った。足場は悪い。時間もかかる。だが、敵が提示した赤い線からは外れている。
アラタ陣営、ラグーン商会、HCLI、キャスパー一行。
全員が、一つの隊列にならないように歩いていた。
前に出す者、後ろを見る者、横にずれる者。
一本の線にならない。
それが新田の最初の指示だった。
レヴィは不満そうにぬかるんだ地面を踏んだ。
「なあ、こっちの道、わざと歩きにくい方選んでんだろ」
新田は前を見たまま答える。
「はい」
「堂々と言うなよ」
「敵が読みやすい道を使う理由がありません」
「歩きにくいんだよ」
「その分、読みづらいです」
「敵より先にこっちの足が死ぬぞ」
ジブリールがレヴィを見上げた。
「足、弱いの?」
「あ?」
「歩きにくいって言った」
「そういう意味じゃねえ」
「じゃあ大丈夫」
「なんでお前が判断してんだよ」
ジブリールは少しだけ首を傾げる。
「文句を言ってる時のレヴィは、まだ大丈夫」
レヴィは一瞬黙った。
それから、舌打ちした。
「……アラタ、お前んとこのガキ、妙な観察力つけてんな」
新田は短く答える。
「必要なので」
「お前もそればっかだな」
「必要なので」
「ほらな」
ロックはそのやり取りを聞きながら、周囲を見ていた。
林は深くない。だが視界は悪い。細い木々の間に、古い標識や倒れた柵が残っている。標識には薄れた文字で、測量実習区画、校舎、塔、資料室と書かれていた。矢印は錆びて曲がり、どの方向を示しているのか曖昧だ。
古い学校の案内板。
それすら、今は罠の一部に見える。
ココはロックの隣を歩いていた。
彼女はずっと静かだった。静かすぎるほどだった。
ロックはその静けさが嫌だった。ココが本当に何も考えていない時は、もっと喋る。軽口を言い、周囲を観察し、相手を試す。今の沈黙は違う。彼女は考えている。
声と地図。
正しい誘導。
子どもを守る仕組み。
それを、どう壊すか。
そして、どうすれば壊さずに使えるか。
ロックは低く言った。
「ココ」
「何?」
「また考えていますね」
「考えない方が危ないわ」
「考えすぎるのも危ないです」
「あなた、本当にしつこくなったわね」
「しつこくならないと足りません」
ココは少しだけ笑った。
「アラタの影響?」
「たぶん」
「いいことね」
「そうだといいんですが」
ココは前方の測量塔を見上げた。
塔は古い鉄骨でできていた。錆びてはいるが、完全には崩れていない。上部には壊れた観測台のようなものがあり、そこからキャンプの方向を見渡せる。
ココは言った。
「あそこからなら、キャンプ全体が見える」
「見えるでしょうね」
「放送塔、学校テント、配給所、診療所、川沿いの桟橋。全部、線にできる」
「嬉しそうに聞こえます」
「嬉しくないわ」
「では?」
「理解してしまうのが嫌なの」
ロックは何も言わなかった。
その言葉に嘘はない。
理解できることは、時に罪ではない。
だが、理解できる人間が欲しがる時、それは罪に近づく。
*
先行していたオマルが、低く手を上げた。
全員が止まる。
声は出さない。
新田は端末ではなく、まずオマルの視線を見た。
前方、林の切れ目。
そこに廃測量学校の校舎が見えた。
平屋に近い古い建物。壁は湿気で黒ずみ、窓ガラスはところどころ割れている。屋根の一部には植物が入り込み、外壁には薄く消えた校章のようなものが残っている。
校舎の右手に、測量塔。
左手に、古い倉庫。
奥には、小さな運動場の跡。草が伸び、白線の痕跡はほとんど消えている。
学校というより、忘れられた訓練施設だった。
それでも、新田にはわかった。
ここは、まだ何かを教える場所として使われている。
教図係が、そう使っている。
「動きは?」
新田が聞く。
オマルは短く答えた。
「目視では人影なし。ただし、見えやすすぎる」
「見せている?」
「その可能性が高い」
ダッチが校舎を見た。
「誘い込みだな」
レヴィが肩を回す。
「なら、入ってぶっ壊せばいい」
ベニーが即座に言う。
「やめてください。中に放送設備と地図装置があるなら、雑に壊すと何が起きるかわかりません」
「お前、毎回それ言ってんな」
「毎回、雑に壊そうとする人がいるからです」
ワイリが楽しそうに校舎を見ている。
「放送室はたぶん奥。測量関係の機材は地図室か塔の下。声と地図を接続するなら、放送室と測量塔を両方使うはず」
ベニーは彼を睨んだ。
「楽しそうに言わないでください」
「楽しんでないよ。興味深いだけ」
「同じです」
新田は二人の会話を聞きながら、校舎の構造を頭の中で分けた。
正面入口。
左右の窓。
裏口。
測量塔への連絡通路。
古い倉庫。
子どもたちを連れているわけではないが、ジブリールがいる。ココがいる。キャスパーがいる。ロック、レヴィ、ダッチ、ベニー。HCLIの護衛。
全員を一つの線にしてはいけない。
全員が同じ入口から入れば、敵の地図になる。
「三つに分けます」
新田が言った。
「正面は僕とジブリール、ロックさん、レヴィさん。左側の窓側をオマルさんとダッチさん。右手の測量塔側をHCLI。キャスパーさんは倉庫側で待機。チェキータさんと一緒に」
キャスパーが眉を上げる。
「待機?」
「あなたの荷がここに繋がっているなら、あなたが一番反応させられやすい」
「僕が餌になると?」
「餌にされる可能性があります」
「商人としては不本意だね」
チェキータが言う。
「今回は従いなさい」
「君、本当に厳しいな」
「厳しくされる理由があるもの」
ココが言った。
「私は測量塔側?」
「はい」
「理由は?」
「あなたは装置を見たがる。だから、ワイリさんと一緒に測量塔側です。ロックさんが近くにいるより、バルメさんが近くにいた方が止まる可能性が高い」
バルメがわずかに反応する。
「私が止めます」
ココは新田を見る。
「あなた、私の配置まで読むのね」
「読まないと危ないので」
「私は敵?」
「今は違います」
「今は?」
「欲しがったら、危険です」
ココは少しだけ笑った。
「容赦ないわね」
「子どもたちが関わっています」
「それ、何度でも言うのね」
「はい」
ロックはそのやり取りを聞いて、少しだけ安心した。
ココは笑っている。だが、完全に軽くはない。見張られていることを理解している。バルメも、ロックも、新田も、その目の一部になっている。
それでも足りるとは限らない。
だが、足りないなら重ねるしかない。
ジブリールが新田の袖を引いた。
「私は正面?」
「うん」
「どうして?」
「偽の声が来るなら、たぶん正面で来る」
「私を呼ぶ?」
「可能性が高い」
「じゃあ、私が行く」
新田は彼女を見た。
「怖い?」
「怖い」
「なら、いい」
「怖い方がいい?」
「怖くない時は、危ない」
ジブリールは頷いた。
「わかった」
レヴィが横で言う。
「お前ら、怖いの扱い方が妙に実戦的だな」
新田は答えた。
「必要なので」
「もう聞き飽きた」
ジブリールがレヴィを見る。
「必要だから」
「お前まで言うな」
*
校舎へ近づくと、古いスピーカーが見えた。
外壁の上部に取りつけられた、錆びた校内放送用のもの。普通ならとっくに壊れていてもおかしくない。だが、そこには新しい配線が通っていた。壁の色に合わせて目立たないようにしてあるが、ベニーはすぐに気づいた。
「新しい線があります」
ワイリも測量塔側から通信を入れる。
『塔の下にも新しい機材。たぶん中継用。ただし表に出ているのは一部だけ』
ベニーは嫌そうに言う。
「やっぱりここが本番ですね」
新田は校舎の正面扉を見る。
扉は半開きだった。
誘っている。
そう思うほど、自然に開いていた。
「入ります」
ロックが頷く。
レヴィは銃に手を添えたが、新田が見ると肩をすくめた。
「わかってる。中で無駄に撃たねえよ」
「お願いします」
「お前にお願いされると、なんかやりづれえな」
「では命令しますか」
「やめろ。もっとやりづれえ」
ジブリールが小さく言う。
「レヴィはお願いの方が効く」
「分析すんな」
新田は扉を押した。
古い金具が鳴る。
中は暗い。
湿気と埃の匂い。
それから、古い紙の匂い。
廊下の壁には、かつての授業予定表が残っていた。測量基礎、地図記号、通信手順、避難訓練、校内放送点検。文字は薄れているが、読めるものもある。
新田は「避難訓練」の文字を見て、嫌な気分になった。
この場所は、昔から人をどう動かすかを教えていた。
今は、その意味が歪められている。
ロックが低く言う。
「学校というより、訓練施設ですね」
「地図と声を教える場所です」
新田が答えた。
「教図係には、ちょうどいい」
ジブリールが廊下の奥を見た。
「誰もいない」
「見えるところには」
レヴィが言う。
「見えねえところにいるなら、ぶん殴れるな」
「まだ殴らないでください」
「注文が多いな」
廊下の右側に教室が並んでいる。
左側には職員室らしき部屋。奥に放送室。さらにその奥に地図室と書かれた扉がある。
地図室。
新田はその文字を見た瞬間、端末に触れた。
画面には、校舎内部の簡易図面が表示されている。だが、すぐに閉じた。
敵が見せたい図面かもしれない。
ここでは、目で見たものと、足で感じたものを優先する。
その時、廊下のスピーカーがジジ、と鳴った。
全員が止まる。
『ようこそ』
声は柔らかかった。
先生の声。
教図係の声。
『ラグーン商会、HCLI、白い商人、そしてアラタ陣営』
レヴィが顔をしかめる。
「アラタ陣営って言い方、学習したのかよ」
ベニーが端末を見ながら言う。
「前はARATA CELLでした。こちらの会話から表現を拾った可能性があります」
新田は黙ってスピーカーを見上げる。
『地図通りに来ませんでしたね』
レヴィが小声で言う。
「当たり前だろ」
『よい判断です。ですが、判断はすべて線になります』
新田は返事をしない。
『黙るのも反応です』
ロックが低く言う。
「嫌な相手ですね」
新田は頷く。
「はい」
『では、授業を始めましょう』
廊下の奥で、放送室の扉がゆっくりと開いた。
誰も触れていない。
開いた先には、古い放送卓が見える。マイク、古い切替盤、壁に掛けられた校内スピーカーの配置図。そこに新しい端末がいくつも置かれている。
ベニーが息を呑む。
「うわ……」
ワイリから通信が入る。
『塔側にも反応。放送室と測量塔が繋がってる』
ココの声が通信に乗る。
『こちらからも見える。塔の下に古い観測盤。そこに新しい画面が増設されている』
ロックは通信で言った。
「ココ、近づきすぎないでください」
『わかってる』
バルメの声が続く。
『私が見ています』
ロックは少しだけ安心する。
だが、安心しすぎない。
この場所では、安心も地図にされる。
*
放送室に入ると、壁一面に古い校内図が貼られていた。
正面入口、教室、職員室、地図室、測量塔への通路、倉庫、運動場。
その上に、新しい透明フィルムが重ねられ、赤、青、黄の線が引かれている。
それは、キャンプで見た線と同じだった。
第一分隊。第二分隊。第三分隊。
ジブリールの動き。
新田の移動。
ラグーン商会の予測経路。
HCLIの護衛配置。
キャスパーの船から倉庫への物流線。
全部が、学校の壁に貼られている。
新田はしばらく黙ってそれを見た。
ジブリールが小さく言う。
「気持ち悪い」
「うん」
レヴィが吐き捨てる。
「趣味悪すぎだろ」
ロックは壁の一部を見た。
そこには、彼自身の名前はない。だが、交渉役らしき印がある。
LAGOON / MEDIATOR。
介入、制止、再定義。
赤い合唱の時と似ている。
ロックは嫌な既視感を覚えた。
「俺も分類されていますね」
ベニーが別の線を見る。
「僕もです。技術解析、遅延、恐怖反応……余計なお世話です」
レヴィが笑う。
「恐怖反応は合ってんじゃねえか」
「うるさいです」
壁の右端には、HCLIの項目があった。
KOKO HEKMATYAR / ACQUISITIVE RESPONSE。
取得志向反応。
ロックはそれを見て、すぐ通信を入れた。
「ココ」
『何?』
「あなたの項目があります」
『何て?』
ロックは一瞬迷ったが、隠さなかった。
「取得志向反応」
通信の向こうが少し静かになる。
『正確ね』
「認めないでください」
『認めた上で疑うわ』
「それを続けてください」
『ええ』
新田は壁の中央を見ていた。
そこには、彼の項目がある。
NITTA RYOTA / VOICE-MAP LINK
CHILD HANDLER / COMMAND TRUST
PROTECTION OR ARRANGEMENT?
保護か、配置か。
教図係の問いが、そのまま壁に貼られていた。
ジブリールがそれを読む。
「子供使い……」
新田は言った。
「敵の言葉だ」
「うん」
ジブリールは頷いた。
「でも、嫌だね」
「うん」
「アラタは、子供使いじゃない」
新田は答えられなかった。
ジブリールは続ける。
「アラタは、帰る道を考える人」
レヴィが小さく言う。
「いいじゃねえか。そっちの方が」
ロックも頷いた。
「ええ」
新田は壁から目を離した。
「敵の言葉では動かない」
そう言った瞬間、スピーカーが鳴った。
『よい反応です』
新田は黙る。
『ラベルを拒否する。自己定義を選ぶ。子どもの声による再定義。記録します』
ジブリールの顔が強ばる。
「私の声も?」
スピーカーの声は優しい。
『もちろん。あなたの声は、第二信頼経路です』
新田が一歩前へ出る。
「彼女に話しかけるな」
『なぜ?』
「子どもだからです」
『しかし、彼女はすでに指揮系統の一部です』
空気が冷えた。
『あなたがそうした』
新田は答えない。
声は続ける。
『彼女はあなたの声を補助し、子どもたちを止め、安心させ、行動を変えた。あなたは彼女を守りながら、同時に使っている』
レヴィが銃に手をかける。
「いい加減にしろよ」
ロックが低く言う。
「レヴィ」
「わかってる。撃たねえよ。まだな」
ジブリールが新田の横に立つ。
「私は、使われてるだけじゃない」
スピーカーが少しだけ黙った。
ジブリールは続ける。
「私が言うって決めた」
『なぜ?』
「みんなが止まれるから」
『誰のために?』
「みんなのため」
『新田良太のためではなく?』
ジブリールは少し考えた。
「アラタのためでもある」
新田が彼女を見る。
「でも、それだけじゃない」
ジブリールはスピーカーを見上げる。
「私は、地図の線じゃない」
スピーカーが、ノイズを混ぜて笑った。
『よい余白です』
新田は低く言った。
「その言葉を使うな」
『余白は、測量されるためにあります』
「違う」
『では何ですか』
「生きるために残すものです」
しばらく、声は返ってこなかった。
ベニーが小声で言う。
「反応が止まりました」
ワイリの声が通信に入る。
『塔側の画面も一瞬止まった。今の答え、想定外だったみたいだね』
レヴィが笑う。
「ざまあみろ、先生様」
*
放送室の奥には、地図室へ続く扉があった。
古い木製の扉。上部のガラスにはひびが入っている。プレートには「地図資料室」と書かれていた。
新田は扉へ近づく。
ロックが横に立つ。
レヴィは後ろ。ジブリールは新田の少し斜め後ろ。
ベニーが端末を見る。
「この奥から強い信号があります」
ワイリが通信で言う。
『塔側からも同じ。地図室と塔の下がセットになってる』
「入るしかないですね」
ベニーは嫌そうに言った。
新田は扉に手をかける前に、ジブリールを見た。
「ここから先、声が来る可能性が高い」
「うん」
「僕の声でも、すぐには動かない」
「うん」
「君の声でも、疑う」
ジブリールは少しだけ目を伏せた。
「うん」
新田は言った。
「疑うのは、嫌いになることじゃない」
ジブリールは顔を上げる。
「疑ってから信じる」
「そう」
ロックはそのやり取りを聞いていた。
それは、ココに対して自分がやらなければならないことと似ていた。
疑うことは、見捨てることではない。
疑って、それでも隣に立つ。
それは、信じるより難しい。
ロックは通信を開いた。
「ココ」
『何?』
「こちらは地図室に入ります」
『こちらは塔の下へ入るわ』
「見たものを、すぐに欲しがらないでください」
『またそれ?』
「またです」
『わかったわ』
「バルメさん」
バルメが答える。
『見ています』
「お願いします」
『任せてください』
新田は扉を開けた。
古い紙の匂いが強くなる。
地図室の中には、壁一面の地形図があった。黄ばんだ紙。古い測量記録。折りたたまれた航空写真。黒板。壊れた製図台。
そして、その上に新しい画面が並んでいた。
キャンプの現在位置。
子どもたちの分隊。
中継基地。
ラグーン商会の船。
HCLIの移動。
キャスパーの白い船。
廃測量学校内部の各人の位置。
すべてが、地図になっていた。
新田は自分たちの点を見る。
正面から入った自分たち。
塔側のHCLI。
倉庫側のキャスパー。
左側のダッチとオマル。
そして、そのすべてに予測線が伸びている。
敵は、彼らの動きをすでに描いていた。
ただし、その線はいくつか乱れている。
ジブリールの動き。
レヴィの不規則な立ち位置。
ダッチの遅い判断。
ロックの介入。
ココの停止。
それらが、地図に小さなノイズを作っている。
ベニーが画面を見る。
「これ……僕たちの現在位置だけじゃない。さっきの会話の反応も乗ってます」
「反応?」
ロックが聞く。
「誰が声に反応したか。誰が止まったか。誰が誰を見たか。ココさんが装置に近づいた時、ロックが止めたことも入ってる」
レヴィが言った。
「ストーカー地図じゃねえか」
ベニーは真顔で頷いた。
「かなり近いです」
その時、地図室の奥のスピーカーが鳴った。
『声は、線を生みます』
黒板の上に、小さな赤いランプが点く。
『線は、集団を形にします』
古い製図台の上の画面に、第一分隊の予測線が表示される。
『分隊は、指揮官の声で動きます』
新田は画面を見る。
『子どもたちは、あなたの声を聞く』
別の画面に、ジブリールの反応が表示される。
『ジブリールは、あなたの声を補助する』
さらに別の画面に、ロックとココの位置。
『ロックは、ココ・ヘクマティアルを制止する』
塔側からココの通信が入る。
『こっちにも同じ表示が出ているわ』
ワイリが言う。
『中央で同期してる。放送室、地図室、測量塔。三つで一つの教室だね』
ベニーが顔をしかめる。
「最悪の授業です」
スピーカーの声は続く。
『本日の授業は、避難誘導と信頼の地図化です』
レヴィが低く言う。
「ぶっ壊していいか」
新田は答えた。
「まだです」
「まだかよ」
「見せられているものを確認します」
「お前、怒ってんだろ」
「怒っています」
「なら何でそんな静かなんだよ」
「怒りで動くと、線になります」
レヴィは黙った。
少しして、吐き捨てるように言った。
「面倒な敵だな」
「はい」
*
塔側から、ココたちの声が通信に乗った。
『塔の下に大きな観測盤があるわ』
ワイリが補足する。
『古い測量用の台に、新しい画面が載ってる。キャンプ全体と校舎内部が重ねられている。放送を流すと、点の動きが変わる仕組みみたいだ』
ロックが言う。
「ココ、近づきすぎないでください」
『近づかないと見えない』
「それが危ないんです」
『バルメがいる』
バルメの声。
『止めています』
ワイリが少し笑う。
『本当に肩を掴んでるよ』
ココが不満そうに言う。
『必要以上に強いわ』
バルメは即答する。
『必要です』
新田はその通信を聞きながら、地図室の画面を見た。
HCLI側の点が塔の下で止まっている。
ココの点が少し前へ出ようとし、バルメの点がそれを止める。
その反応も記録されている。
画面の横に文字が出た。
**ACQUISITIVE RESPONSE: INTERRUPTED**
**BODYGUARD RESTRAINT: EFFECTIVE**
ロックが小さく言った。
「本当に全部見ている」
新田は答える。
「だから、見せるものを選ぶ」
その時、別の画面が点いた。
キャスパーの倉庫側。
白い服の点。チェキータの点。アランの点。
そこに文字が出る。
**MERCHANT RESPONSE: GUILT / COST CALCULATION**
キャスパーの通信が入る。
『おや、僕の内面まで値札をつけられた』
チェキータが冷たく言う。
『笑うところじゃないわよ』
『笑っていないよ』
レヴィが地図室で言う。
「十分笑ってる声だったぞ」
キャスパーが答える。
『癖でね』
新田は通信に割り込んだ。
「キャスパーさん」
『何かな』
「敵は、あなたが責任と商売の間でどう動くかを見ています」
『だろうね』
「なら、商売ではない動きをしてください」
短い沈黙。
『難しい注文だ』
「必要です」
チェキータの声が入る。
『ボス、聞いた?』
『聞いたよ』
『なら、やる』
キャスパーは少しだけ笑った。
『今日は味方が厳しい』
新田は答えなかった。
地図上で、キャスパーの点が倉庫側から少し後退した。
予測線から外れる。
画面にノイズが走る。
**MERCHANT RESPONSE: NON-COMMERCIAL DELAY**
レヴィが笑った。
「商売しないだけで敵が困ってるぞ」
ロックが言う。
「キャスパーには難しい動きですからね」
『聞こえているよ、ロック』
「聞こえるように言いました」
*
地図室の奥に、古い黒板があった。
そこには、白いチョークで文字が書かれている。
古いものではない。
今日、あるいは最近書かれたものだ。
声。
信頼。
移動。
反応。
修正。
再誘導。
余白。
その下に、英語で小さく書かれていた。
**FIRST MARGIN: VOICE TO LINE / LINE TO VOICE**
声から線へ。
線から声へ。
ベニーが黒板を見て言う。
「これが、今回の基本構造ですね」
ワイリの声が通信に乗る。
『声を流す。人が動く。動きを地図にする。その地図を見て、次の声を変える。循環している』
ロックが言う。
「赤い合唱より悪い」
ベニーは頷いた。
「赤い合唱は声の信頼性を見る実験でした。今回は、声の後の行動まで見ている」
新田は黒板を見た。
「止める方法は?」
ベニーは少し考えた。
「完全に止めるには、三つの接続を切る必要があります。放送室、地図室、測量塔。ただし、ここで不用意に止めると、外部へ記録が逃げる可能性があります」
レヴィが言う。
「毎回逃げんな、こういうの」
「敵も逃がすために作っていますから」
ワイリが通信で言う。
『まず、どこが喉で、どこが目で、どこが手かを見ないといけない』
「また気持ち悪い比喩を」
ベニーが嫌そうに言う。
ワイリは続ける。
『放送室が喉。測量塔が目。地図室が手かな。声を出し、見て、線を描く』
新田は言った。
「なら、手から止める」
ベニーが振り返る。
「地図室から?」
「はい」
「理由は?」
「声は偽装される。目は遠くを見る。でも、線を描く手を乱せば、次の声は変えにくくなる」
ワイリが通信で言う。
『面白い判断』
新田は即座に返した。
「面白くありません」
『ごめん』
ロックは画面を見る。
地図室の中央装置は、まだ動いている。だが、線の更新が少し遅くなっている。さっきから彼らが予測を外し続けているためだろう。
ジブリールが一歩前に出た。
「私、何をすればいい?」
新田は彼女を見る。
「今は、動かない」
「動かない?」
「敵は君がどう動くかを見ている。だから、今は止まる」
「止まるのも見られる」
「うん。でも、止まる理由はこっちが決める」
ジブリールは頷いた。
「わかった」
彼女はその場に座った。
地図室の床に、静かに。
誰も予想していなかった動きだった。
画面上のジブリールの点が停止する。
だが、立ったままの停止ではない。
座る。
戦闘でも、避難でも、誘導でもない。
ただ、その場に座る。
地図上の線が一瞬止まり、揺れた。
レヴィが驚いたように言う。
「おい、何座ってんだ」
ジブリールは答える。
「動かない」
「いや、そういう意味じゃ」
新田は少しだけ笑った。
「いい判断」
スピーカーがノイズを出した。
『ジブリール。なぜ座りましたか』
ジブリールはスピーカーを見上げた。
「私が決めたから」
『誰の命令ですか』
「私の」
『新田良太のためですか』
「私のため」
『子どもたちのため?』
「それもある」
『曖昧ですね』
「うん」
ジブリールははっきり言った。
「曖昧でいい」
地図室の画面にノイズが走った。
ロックはそれを見て、思わず息を呑む。
曖昧さ。
余白。
敵が測ろうとしているもの。
ジブリールは、それを敵に渡さず、ただそこに置いた。
スピーカーはしばらく黙った。
そして言った。
『よい余白です』
ジブリールはすぐに返した。
「あなたのじゃない」
新田は彼女を見た。
それ以上、言うことはなかった。
*
その時、校舎全体のスピーカーが一斉に鳴った。
放送室だけではない。廊下、教室、外壁、測量塔。古いスピーカーが一斉に息を吹き返す。
ベニーが端末に飛びつく。
「一斉放送です!」
ワイリの声も緊張する。
『塔側も同じ。注意して』
新田はすぐに言った。
「全員、声に反応しない。隣を見る」
レヴィが銃を構えかけるが、ダッチの通信が入る。
『レヴィ、まだ撃つな』
「わかってるよ!」
ロックはココへ通信する。
「ココ、聞こえても動かないでください」
『わかってる』
キャスパーの声。
『こちらも聞こえている』
チェキータが続ける。
『ボスを押さえてるわ』
『そこまでしなくても』
『するわ』
スピーカーから、最初に流れたのは教図係の声だった。
『では、次の授業です』
短い間。
『声を信じる子どもと、声を疑う子どもの差を見ましょう』
新田の顔が強張る。
「子どもたちには流すな」
ベニーが端末を見る。
「キャンプ側へはまだ繋がっていません。校舎内部だけです」
ワイリが言う。
『でも、接続しようとしてる』
スピーカーの音が少し変わった。
次に流れたのは、新田の声だった。
先ほどよりも、ずっと似ている。
静かで、短く、余計な感情を抑えた声。
『ジブリール』
ジブリールの肩がわずかに動く。
新田も息を止めた。
『みんなを連れてきて』
声は優しかった。
『大丈夫。僕の指示だ』
ジブリールは座ったまま動かなかった。
だが、顔が揺れた。
声は続く。
『ジブリール。君ならできる』
新田は一歩踏み出しかけた。
ロックがそれを見る。
敵は、新田の反応も見ている。ジブリールの反応も、新田が止めるかどうかも。
レヴィが低く言う。
「クソ野郎が」
ジブリールは膝の上で手を握った。
目はスピーカーを見ている。
新田の声。
似ている。
だが、違う。
違うはずだ。
ジブリールはゆっくり息を吸った。
「違う」
小さな声だった。
だが、地図室には届いた。
スピーカーの偽新田は言う。
『何が違う?』
ジブリールは答えない。
自分で考えている。
新田は声をかけたい衝動を押さえた。
助けたい。
だが、今声をかければ、それも敵に使われる。
ジブリールが自分で見つける余白を奪ってしまう。
ジブリールは、ゆっくり言った。
「本当のアラタは、私だけに背負わせない」
スピーカーが沈黙した。
「みんなを連れてきて、って言わない。隣を見ろって言う」
新田は目を伏せた。
ロックは、その横顔を見た。
レヴィは舌打ちしたが、何も言わない。
ベニーは端末を見る。
「予測線、止まっています」
ワイリが塔側から言う。
『偽声の効果、低下』
スピーカーの教図係が、少しだけ笑った。
『すばらしい』
新田は低く言った。
「黙れ」
『あなた方は、本当によい教材です』
「子どもたちは教材じゃない」
『では、何ですか』
新田は答えた。
「帰る相手です」
しばらく、何も鳴らなかった。
そして、地図室の奥の画面に新しい文字が表示される。
**ARATA CELL RESPONSE: RESISTANT**
**JIBRIL VOICE: SELF-DETERMINED**
**NITTA RYOTA: PROTECTIVE INTERFERENCE / DELAYED**
アラタ陣営、抵抗。
ジブリールの声、自律。
新田良太、保護的介入、遅延。
敵は、それでも記録している。
新田は画面を見た。
「記録しろ」
ロックが彼を見る。
新田は続けた。
「だが、それを使わせない」
その言葉と同時に、ベニーとワイリが動き出した。
地図室の手。
放送室の喉。
測量塔の目。
三つのうち、まず手を止める。
ただし雑には壊さない。
外へ逃がさない。
見せるものを選び、切る場所を選ぶ。
ベニーは嫌そうな顔のまま端末を操作し、ワイリは通信越しに塔側の反応を読み上げる。
新田は地図室の中央に立ち、スピーカーを見上げた。
敵はまだいる。
姿は見えない。
声だけがある。
地図だけがある。
だが、ここにいる全員が、もう一本の線では動いていない。
ジブリールは立ち上がった。
新田の隣に来る。
彼女は言った。
「アラタ」
「何?」
「さっきの声、怖かった」
「うん」
「でも、違った」
「うん」
「疑ってから、信じる」
新田は頷いた。
「そう」
レヴィが銃を軽く下ろした。
「よくやったじゃねえか」
ジブリールは彼女を見る。
「怖い顔じゃない」
「うるせえ」
ロックは地図室の画面を見た。
線はまだ残っている。
だが、乱れている。
完全ではない。
敵の地図は、人間を描ききれていない。
そのことだけが、この不気味な教室での救いだった。
スピーカーから、最後に教図係の声が流れた。
『では、次は本当の授業に進みましょう』
地図室の奥、さらに地下へ続く扉のランプが点いた。
ベニーが顔を引きつらせる。
「まだ下があるんですか」
ワイリが通信で答える。
『塔側にも地下への反応。どうやらここは、ただの教室じゃないね』
レヴィが呻くように言った。
「最悪の学校見学だな」
新田は扉を見た。
地下。
声と地図のさらに奥。
教図係が、本当に見せたいもの。
ジブリールが隣を見る。
新田は頷いた。
「行きます」
ロックがココへ通信した。
「ココ、地下へ進みます。絶対に一人で先へ行かないでください」
ココの声が返る。
『わかってる。見張られているもの』
「はい」
『でも、ロック』
「何ですか」
『これは、赤い合唱より深いわ』
ロックは画面に残る線を見た。
「ええ」
ココは静かに言った。
『声が人を動かすんじゃない。声を聞いたあと、人が自分で動いたつもりになる。そこを狙っている』
新田はその通信を聞き、地下への扉を見つめた。
教図係は、まだ本題を見せていない。
声が線になる場所。
その奥にあるもの。
それを止めなければならない。
子どもたちを、点にも線にも教材にもさせないために。
新田は、地図を見た。
そして、閉じた。
次は、足で確かめる。