Guns & Garlands — 銃と花輪   作:たこ焼き 龍月

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第七章 アラタの声

 

 地下へ続く扉は、学校の中にあるものとは思えないほど重かった。

 

 古い地図室の奥、壁に貼られた測量図の陰に隠れるように作られた扉。鉄製で、表面には薄い錆が浮いている。だが、蝶番と鍵の部分だけは新しい。誰かがここを使っている。古い学校を廃墟のまま残しながら、その奥だけを生きた施設として動かしている。

 新田良太は、扉の前で一度立ち止まった。

 

 地図は見た。

 声も聞いた。

 第一分隊は予測され、ジブリールの声も記録された。教図係は、子どもたちの反応を教材と呼んだ。

 ここから先にあるのは、たぶんそれ以上のものだ。

 声が線になる場所。

 線を見て、次の声を作る場所。

 子どもたちの逃げ道を、誰かの授業に変える場所。

 新田はそれを想像し、腹の底に冷たい怒りが沈むのを感じた。怒りはある。だが、その怒りで動けば敵の地図になる。

 

 だから、彼はまず隣を見た。

 

 ジブリールがいる。

 ロックがいる。

 レヴィがいる。

 ベニーが端末を抱えて嫌そうな顔をしている。

 通信の向こうにはココ、バルメ、ワイリ。

 別経路にダッチとオマル。

 倉庫側にキャスパーとチェキータ。

 誰も一人ではない。

 それを確認してから、新田は扉に手をかけた。

 

「入ります」

 

 ロックが頷いた。

 

「はい」

 

 レヴィが小さく笑う。

 

「今さらノックはいらねえよな」

 

 ベニーが慌てて言った。

 

「いきなり撃つのもいりませんからね」

「撃たねえって何回言わせんだよ」

「何回でも言います」

 

 ジブリールがレヴィを見る。

 

「撃たない方がいい」

「お前まで言うな」

「必要だから」

 

 レヴィは舌打ちした。

 

「その言い方、アラタに似てきたな」

 

 新田は扉を押した。

 重い音を立てて、地下への階段が現れる。湿った空気が下から上がってきた。古い紙、金属、埃、そして機械が熱を持った時の匂い。学校の匂いではない。

 地下は、教室ではなく装置の場所だった。

 階段の壁には、古い標語が残っている。

 「正確な測量は、正確な未来を作る」

 文字は薄れ、半分ほど剥がれていた。

 その下に、新しい黒い文字が小さく書き足されている。

 

 **正確な声は、正確な行動を作る。**

 

 新田は立ち止まった。

 ジブリールがその文字を読む。

 

「正確な声……」

 

 レヴィが顔をしかめる。

 

「気持ち悪ィ」

 

 ロックは低く言った。

 

「教図係の思想ですね」

 

 新田は答えた。

 

「思想というより、欲望です」

「欲望?」

「人がどう動くかを、正確にしたい」

 

 新田は階段の下を見た。

 

「でも、人間は正確じゃない」

 

 ジブリールが小さく頷いた。

 

「だから、人間」

 

 新田は彼女を見た。

 

「うん」

 

 地下の廊下へ降りると、古い学校の空気は完全に消えた。

 

 白い簡易照明。壁に這う新しい配線。古い測量器具を利用した台座。壁面に取りつけられた複数のモニター。校舎の上階とは違い、ここは明らかに整備されている。

 その中心に、大きな地図があった。

 紙ではない。

 複数の画面を繋げた、大きな表示盤。

 そこに、キャンプ全体の地図が映っている。

 

 放送塔。

 学校テント。

 配給所。

 診療所。

 水場。

 古い倉庫。

 川沿いの桟橋。

 そして、小さな点。

 子どもたちの位置。

 

 新田は息を止めた。

 点の数は多い。すべてが正確ではないだろう。だが、十分に多い。十分に嫌な精度だった。

 画面上で、第一分隊の点が小さく揺れている。第二分隊は学校テント近くで止まっている。第三分隊は配給所の横に散っている。

 ジブリールが画面を見て、顔を強張らせた。

 

「みんながいる」

「見すぎるな」

 

 新田は言った。

 

「でも、見える」

「うん」

「見えるの、嫌だね」

「うん」

 

 ベニーが端末を確認する。

 

「リアルタイムではないです。少し遅れている。キャンプ側の先行搬入機材から取った反応を、断続的に更新している感じです」

 

 ロックが聞く。

 

「止められますか」

「止めたいです」

 

 レヴィが横から言う。

 

「弱えんだよ、その言い方」

 

 ベニーは言い直した。

 

「止めます。ただし、雑に止めると外部へ記録が逃げるかもしれません」

 

 レヴィがうんざりしたように言う。

 

「またそれかよ」

「何回でも言います」

 

 ワイリの声が通信に入る。

 

『塔側からも地下へ降りた。こっちにも同じ地図がある。どうやら地下全体が一つの装置だね』

 

 ココの声が続く。

 

『こちらに声の生成系らしきものがあるわ』

 

 ロックが即座に言った。

 

「ココ、近づかないでください」

『近づかないと見えない』

「見えなくていいものもあります」

『ロック』

「はい」

『見えないまま壊すと、次に同じものが出た時に止められない』

 

 ロックは返事に詰まった。

 ココの言うことは正しい。

 正しいから危険だ。

 

 バルメの声が入る。

 

『私が距離を管理します』

 

 ロックは息を吐いた。

 

「お願いします」

 

 新田は通信を聞きながら、表示盤の中央を見ていた。

 そこに、自分の名前がある。

 

 **NITTA RYOTA / PRIMARY VOICE**

 **JIBRIL / SECONDARY TRUST VECTOR**

 **ARATA CELL / CHILD RESPONSE GROUP**

 

 一次声。

 二次信頼経路。

 アラタ陣営。

 子どもの反応集団。

 敵の言葉は、いつも人間を機能へ変える。

 新田は、その一行を見て思った。

 自分も、似たようなことをしてきたのではないか。

 第一分隊。第二分隊。第三分隊。

 子どもたちに役割を与え、位置を与え、動く道を決めた。

 それは守るためだった。

 だが、敵の表示と、どこで違うのか。

 違うと信じている。

 だが、その違いを言葉にし続けなければ、いつか曖昧になる。

 新田は画面から目を離した。

 

 その時、地下のスピーカーが鳴った。

 

『ようこそ、実習室へ』

 

 教図係の声だった。

 落ち着いていて、柔らかく、よく通る声。

 戦場の声ではない。

 学校の声だ。

 だから、余計に不快だった。

 

『上階は教室です。ここは実習室です』

 

 レヴィが低く言う。

 

「どこまでも学校ごっこかよ」

 

 声は続く。

 

『声は、人を動かします。地図は、人の動きを記録します。しかし、それだけでは不十分です』

 

 表示盤に、一本の線が走る。

 第一分隊から、北側の道へ。

 それは今朝、偽のアラタの声が出した線だった。

 

『人は、一度声を疑うと、同じ声に対する反応を変える』

 

 次に、線が消え、別の線が出る。

 学校テント裏へ。

 その線も途中で乱れる。

 

『では、疑うことを覚えた子どもに、どの声なら届くのか』

 

 ジブリールの肩がわずかに動いた。

 

『それが本日の実習です』

 

 新田は静かに言った。

 

「子どもたちは実習対象じゃない」

『では、何ですか』

「帰る相手です」

『その答えは記録済みです』

「なら何度でも記録しろ」

 

 声が少しだけ笑った。

 

『よい抵抗です』

 

 新田は黙った。

 

 相手は褒めることで反応を引き出す。怒らせ、黙らせ、誇らせ、迷わせる。すべてを線にする。

 だから、新田は隣を見た。

 ジブリールがいる。

 彼女は怖がっている。だが、逃げていない。

 

 その顔を見て、新田は少しだけ呼吸を整えた。

 

     *

 

 地下実習室の奥には、ガラスで仕切られた小部屋があった。

 

 その中に、古い録音機材と新しい端末が並んでいる。壁には、声紋のような波形が表示されていた。新田の声。ジブリールの声。ソフィアの声。オマルの声。さらに、いくつかの子どもの声。

 新田は顔を強張らせた。

 子どもの声まで記録されている。

 ベニーが端末を見ながら言う。

 

「全部が完全な音声ではありません。断片です。放送塔や通信機から拾った短い声を繋いでいる」

 

 ロックが問う。

 

「使えるんですか」

 

 ベニーは嫌そうに頷く。

 

「短い誘導なら。名前を呼ぶ、止まれ、来て、待って。そういうものなら十分に危険です」

 

 レヴィが低く呟く。

 

「クソが」

 

 ジブリールはガラスの向こうを見ていた。

 

「私の声もある?」

 

 ベニーは答えに迷った。

 だが、新田が言った。

 

「ある」

 

 ジブリールは小さく息を吸った。

 

「そっか」

「見なくていい」

「見る」

 

 新田は彼女を見る。

 ジブリールは震えていない。だが、硬い。

 彼女は言った。

 

「私の声だから」

 

 新田は頷いた。

 

「近づきすぎない」

「うん」

 

 教図係の声が流れる。

 

『声は所有できません』

 

 ジブリールがスピーカーを見る。

 

『声は聞かれた瞬間、聞いた者のものにもなります』

 

 レヴィが吐き捨てる。

 

「泥棒の理屈だな」

『レヴィ。あなたは拒絶の声です』

 

 レヴィが顔を上げる。

 

『あなたは命令では動きません。しかし、危険に対して反応する。特に、子どもを点や線として扱う言葉に強く反応する』

「おい」

 

 レヴィが銃に手をかける。

 

『怒りは速い線です』

 

 ダッチの通信が入った。

 

『レヴィ、止まれ』

 

「わかってるよ!」

 

 レヴィは手を止めた。

 だが、顔は怒っている。

 

『よい抑制です。ダッチの声が有効』

 

 ダッチが短く言う。

 

『俺の声まで教材にするな』

 

 教図係は笑う。

 

『全ての声は教材になり得ます』

 

 その言葉に、新田の怒りがまた沈んだ。

 

 すべての声。

 それはつまり、ジブリールの声も、子どもたちの声も、ロックの声も、ココの声も、レヴィの怒鳴り声も、キャスパーの軽口も、すべて材料として見るということだ。

 敵は悪意だけでやっているのではない。

 それが、さらに気持ち悪かった。

 教図係は、本当に「学んでいる」のだ。

 人間を、教材として。

 

 ココの通信が入る。

 

『こちらの装置にも、声の分類が出ているわ』

 

 ロックがすぐに言う。

 

「読まなくていいです」

『読まなくても見える』

「ココ」

『私の声もある。交渉声、命令声、誘惑声、抑制不能時の反応予測』

 

 ロックは顔をしかめた。

 

「抑制不能?」

 

 バルメの声が入る。

 

『ロック、こちらで止めています』

 

 ココの声は静かだった。

 

『心配しないで。気分が悪いだけ』

 

 新田は通信越しに言った。

 

「気分が悪いなら、それを覚えておいてください」

『どういう意味?』

「欲しくなった時に、その気分の悪さを思い出す」

 

 通信の向こうで、少し間が空いた。

 

『ええ。覚えておくわ』

 

 ロックは新田を見た。

 今の言葉は、ココに届いた。

 それが十分かはわからない。

 だが、届いた。

 

     *

 

 実習室の中央には、古い教卓のような台があった。

 その上に、マイクが一本置かれている。新しいものではない。古びた学校用のマイク。だが、その周囲には新しい端末が接続されている。

 黒板には、白い文字が書かれていた。

 

 **PRIMARY VOICE TEST**

 **ARATA MODEL**

 

 一次声実験。

 アラタモデル。

 新田はその文字を見た瞬間、背筋が冷えた。

 レヴィが言う。

 

「お前の偽物作る気満々じゃねえか」

 

 ベニーが端末を確認する。

 

「もう作っています。今朝のより精度が上がっているはずです」

 

 ジブリールが新田の袖を掴んだ。

 新田は彼女を見た。

 

「大丈夫とは言わない」

「うん」

「怖いなら、隣を見る」

「見てる」

「一人で聞かない」

「うん」

 

 ロックが低く言った。

 

「来ます」

 

 スピーカーが一度、沈黙した。

 その沈黙が、かえって不自然だった。

 そして、声が流れた。

 新田良太の声だった。

 

『ジブリール』

 

 ジブリールの指に力が入る。

 新田自身も、一瞬だけ身体の奥が固まった。

 似ている。

 今朝のものより、ずっと似ている。

 声色だけではない。短い間、抑えた温度、急がせすぎない言い方。

 それは、新田が子どもたちへ使う声に近かった。

 

『聞いて』

 

 偽の新田は言った。

 

『今から、みんなを連れてきて』

 

 ジブリールは動かない。

 だが、顔が揺れる。

 偽の声は続く。

 

『第一分隊と第二分隊を合わせる。学校テントの裏へ。そこが安全だ』

 

 新田は息を止めた。

 命令内容は、今この瞬間だけなら悪くない。学校テント裏は、確かに子どもたちが落ち着きやすい。

 偽声は、明らかな嘘を言っていない。

 そこが危険だった。

 

『ジブリール。君ならできる』

 

 ジブリールの表情が歪む。

 新田は声を出しそうになった。

 止めたい。

 今すぐ「違う」と言いたい。

 だが、彼が言えば、声と声の勝負になる。偽の新田と本物の新田。ジブリールは、どちらを信じるかを選ばされる。

 それは、敵の実験そのものだ。

 新田は奥歯を噛み、黙った。

 ジブリールが、自分で見つける余白を奪ってはいけない。

 

 偽の声は優しかった。

 

『大丈夫。僕の声を聞いて』

 

 ジブリールは、小さく首を横に振った。

 

「違う」

 

 偽の声が問う。

 

『何が違う?』

 

 ジブリールはすぐには答えられない。

 地図室の画面に、彼女の点が揺れる。

 心拍や感情を直接読んでいるわけではないだろう。だが、動きの乱れ、反応の遅れ、視線の向き、声への反応は拾われている。

 ジブリールは教材にされている。

 新田は怒りで手を握った。

 だが、まだ動かない。

 ジブリールは、ゆっくり息を吸った。

 

「本当のアラタは」

 

 声が少し震える。

 

「私だけに背負わせない」

 

 スピーカーが黙った。

 

「みんなを連れてきて、って言わない」

 

 ジブリールは顔を上げた。

 

「隣を見ろって言う」

 

 新田は目を伏せた。

 ロックも黙った。

 レヴィは何も言わず、ただスピーカーを睨んでいる。

 ベニーは端末を見ながら小さく言った。

 

「偽声への反応、低下しています」

 

 ワイリの声が通信に乗る。

 

『塔側でも同じ。ジブリールが自分で切った』

 

 教図係の声が戻る。

 

『すばらしい判断です、ジブリール』

 

 ジブリールは即座に言った。

 

「褒めないで」

 

 教図係は少し笑う。

 

『なぜ?』

「あなたに褒められたくない」

『嫌悪による拒絶。よい反応です』

 

 レヴィが我慢しきれずに言う。

 

「一回黙れよ」

 

 教図係は楽しげだった。

 

『怒り。拒絶。保護反応。レヴィ、あなたの線は読みやすい』

「上等だ」

 

 ダッチの通信が入る。

 

『レヴィ』

「わかってる。撃たねえ」

 

 教図係が言う。

 

『ダッチの声による抑制。有効』

 

 ダッチは短く答えた。

 

『俺を使うな』

『使われることを拒否する声。それもまた教材です』

 

 新田が一歩前へ出た。

 今度は、あえて声を出す。

 偽の声と競うためではない。

 自分の声を取り戻すためでもない。

 ただ、敵に言葉を渡しすぎない形で、必要なことだけを言う。

 

「ジブリール」

 

 ジブリールが新田を見る。

 

「隣を見る」

 

 彼女は頷いた。

 新田はそれ以上言わない。

 ジブリールはロックを見る。レヴィを見る。ベニーを見る。新田を見る。

 一人では聞いていない。

 その確認だけで十分だった。

 

 教図係が言う。

 

『新田良太。あなたは、介入を遅らせた』

「はい」

『なぜですか』

「彼女が、自分で疑う必要があった」

『保護者として苦痛だったでしょう』

 

 新田は答えない。

 答えれば、そこも記録される。

 だが、答えないことも記録される。

 なら、見せる沈黙を選ぶ。

 

 教図係は続ける。

 

『あなたは、子どもたちに自由を与えているつもりですか』

 

 新田は静かに言った。

 

「つもりではありません」

『では?』

「練習しています」

『何を?』

「僕の声がなくても、止まる練習を」

 

 教図係は黙った。

 画面に一瞬ノイズが走る。

 ベニーがそれを見逃さない。

 

「今の、効いています」

 

 ロックが聞く。

 

「効いている?」

「敵の想定が乱れた。アラタさんが、自分の声の価値を下げる方向に動いているからです」

 

 ワイリが通信で言う。

 

『普通、指揮官は自分の声の権威を保つ。アラタは逆をやってる。だからモデルが揺れる』

 

 ココの声が静かに入る。

 

『自分の声がなくても止まれる子どもを作っている』

 

 新田は通信へ答えた。

 

「作っているんじゃありません」

 

 ココは少し黙る。

 

『育てている?』

「それも違う」

『では?』

「一緒に覚えている」

 

 その言葉に、通信の向こうが静かになった。

 ココも、ロックも、ジブリールも、誰もすぐには返さなかった。

 教図係の声だけが、柔らかく入る。

 

『よい言葉です』

 

 新田は即座に言った。

 

「あなたのものではない」

 

 ジブリールも続けた。

 

「私たちの言葉」

 

 画面にまたノイズが走った。

 敵はまだ記録している。

 だが、記録できても、所有はできない。

 その違いを、新田は今ようやく少しだけ掴んだ。

 

     *

 

 地下実習室の照明が、一段暗くなった。

 

 中央の表示盤に、キャンプの地図が大きく映る。

 その上に、複数の声の選択肢が並んだ。

 新田の声。

 ジブリールの声。

 ソフィアの声。

 知らない先生の声。

 配給案内の声。

 警告音。

 短い合図。

 そして、子どもの声。

 ベニーが顔を青くした。

 

「まずい」

 

 ロックが聞く。

 

「何ですか」

「キャンプ側への接続を試みています。まだ完全には繋がっていませんが、ここから偽声を流そうとしている」

 

 新田は即座に言った。

 

「止める」

 

 ワイリが通信で言う。

 

『塔側からも止める。ただ、ここで慌てると記録が逃げる』

 

 レヴィが苛立って言う。

 

「また逃げる話かよ!」

 

 ベニーは叫び返した。

 

「逃がしたら次のキャンプで使われるんです!」

 

 その言葉で、レヴィは黙った。

 次のキャンプ。

 次の子どもたち。

 次のアラタではない誰か。

 それを思えば、ここで雑に壊せない理由は明らかだった。

 

 新田はベニーを見る。

 

「何が必要ですか」

「時間です」

「どれくらい」

「少し」

「作ります」

 

 ロックが頷く。

 

「俺も」

 

 レヴィが銃を下ろしたまま言う。

 

「じゃあ、俺は邪魔する奴を止める」

 

 ジブリールが言う。

 

「私は?」

 

 新田は彼女を見る。

 

「声を聞く」

「聞くの?」

「うん。でも一人で聞かない」

 

 ジブリールは頷いた。

 

「隣を見る」

「そう」

 

 教図係の声が流れる。

 

『では、最終確認です』

 

 表示盤の上で、新田の偽声が選択される。

 

『第一分隊は、学校テントへ』

 

 次にジブリールの偽声。

 

『みんな、アラタが呼んでる』

 

 ジブリールの顔が強ばる。

 自分の声だ。

 似ている。

 短い言葉なら、間違える子もいるかもしれない。

 新田は彼女の肩に手を置きかけて、止めた。

 代わりに言った。

 

「隣を見る」

 

 ジブリールはロックを見た。

 ロックは頷いた。

 

「一人で聞かない」

 

 レヴィが言う。

 

「ムカつく声なら、耳塞いで前見ろ」

 

 ジブリールは頷く。

 

「うん」

 

 偽ジブリールの声が続く。

 

『大丈夫。こっちへ来て』

 

 ジブリールは小さく言った。

 

「違う」

 

 新田が聞く。

 

「何が違う?」

「私は、大丈夫ってすぐ言わない」

 

 ロックが静かに頷く。

 

「さっきも言っていましたね。大丈夫ではなく、今は座っている、隣にいる、それでいい」

 

 ジブリールは頷いた。

 

「うん。だから違う」

 

 偽の声は、少しずつ効果を失っていく。

 画面上の線が乱れる。

 ベニーとワイリが動く。

 放送室の喉、地図室の手、測量塔の目。その接続のうち、地図室側の線が少しずつ鈍る。

 詳しい手順は新田にはわからない。

 わからなくていい。

 今必要なのは、時間を作ることだ。

 

 教図係の声が、少しだけ硬くなった。

 

『興味深い。自己声の拒絶。第二信頼経路の自己分離』

 

 レヴィが言う。

 

「人の言葉で喋れ」

 

 教図係は答えない。

 代わりに、別の声が流れた。

 新田の声。

 今までで一番似ている声。

 

『ジブリール』

 

 ジブリールの目が揺れる。

 

『僕を信じて』

 

 新田は息を止めた。

 それは、彼が絶対に言わないようにしている言葉だった。

 信じて。

 命令するより、たぶん強い。

 子どもたちにとって、それは命令ではなく願いになる。

 願われたら、応えたくなる。

 だから危険だった。

 偽の新田は続ける。

 

『僕を信じて、みんなを連れてきて』

 

 ジブリールは震えた。

 レヴィが一歩動きかける。

 ロックが止める。

 新田は声を出さない。

 出したい。

 今すぐ否定したい。

 それは僕じゃない。

 信じなくていい。

 でも、言ってしまえば、ジブリールの判断を奪う。

 だから、彼は隣にいるだけにした。

 ジブリールは目を閉じた。

 短い沈黙。

 長い沈黙に感じた。

 そして、彼女は目を開けた。

 

「本当のアラタは」

 

 声は小さい。

 

「信じろって言わない」

 

 新田は目を伏せた。

 

「信じる前に、見ろって言う」

 

 ジブリールは言葉を続ける。

 

「隣を見ろって言う」

 

 偽の声が止まる。

 

「だから、違う」

 

 画面が大きく乱れた。

 ベニーが叫ぶ。

 

「今です!」

 

 ワイリの声が通信に重なる。

 

『塔側、合わせる!』

 

 装置の音が低くなる。

 地図上の線が一瞬、すべて白く飛んだ。

 放送室の喉はまだ残っている。測量塔の目も完全には閉じていない。だが、地図室の手は止まった。

 線が描けなくなる。

 声は流れても、次の線へ繋がらない。

 教図係の循環が、一時的に切れた。

 

 地下のスピーカーが歪む。

 

『……よい、余白です』

 

 新田は静かに言った。

 

「余白は、あなたに渡さない」

 

 ジブリールも言った。

 

「私の声も、渡さない」

 

 レヴィがようやく息を吐く。

 

「よし。今のは教育にいい方のやつだ」

 

 ジブリールが彼女を見る。

 

「褒めた?」

「うるせえ」

 

 ロックはベニーへ駆け寄る。

 

「止まりましたか」

「地図室側は。一時的です。まだ放送室と測量塔が残っています」

 

 ワイリが通信で言う。

 

『でも、大きいよ。声と線の循環が切れた。次の声は精度が落ちる』

 

 ココの声が入る。

 

『こちらでも確認した。地図が白く飛んだわ』

 

 ロックはすぐに言う。

 

「ココ、見すぎないでください」

『わかってる。……でも、今のは見事だった』

 

 新田は通信へ言った。

 

「子どもを評価しないでください」

 

 ココは少し黙った。

 

『ごめんなさい』

 

 その謝罪は、軽くなかった。

 新田はそれ以上言わなかった。

 

     *

 

 地図室の手を止めたことで、地下実習室の雰囲気が変わった。

 表示盤の線は消えていない。だが、更新が止まっている。未来を描く線ではなく、残された過去の線になった。

 それだけで、空気が少し軽くなった。

 だが、教図係はまだいる。

 声も、目も、残っている。

 地下の奥で、別の扉が開いた。

 今度は自動ではなく、重い鍵が外れるような音だった。

 ベニーが顔を上げる。

 

「さらに奥?」

 

 レヴィが呆れたように言う。

 

「地下のさらに奥って、どんだけ趣味悪い学校だよ」

 

 ワイリの通信が入る。

 

『塔側からも反応が移動した。たぶん、放送室の中枢が奥にある』

 

 ココが言う。

 

『ここからが、ココの欲しがるものよ』

 

 ロックがすぐに反応した。

 

「自分で言わないでください」

『言っておいた方がいいでしょう』

 

 新田は通信を聞き、少しだけ頷いた。

 

「言えるなら、まだ止まれます」

 

 ココは短く答えた。

 

『ええ』

 

 新田はジブリールを見た。

 

「行ける?」

「行く」

「怖い?」

「怖い」

「なら、隣を見る」

「うん」

 

 ジブリールは新田ではなく、レヴィを見た。

 レヴィは驚いたように眉を上げる。

 

「なんで俺を見る」

「隣にいるから」

「……そりゃそうか」

 

 レヴィは少しだけ目を逸らした。

 

「なら、勝手に離れんなよ」

「うん」

 

 ロックはその様子を見て、小さく息を吐いた。

 

 ジブリールは、偽のアラタの声を疑った。

 自分の偽声も疑った。

 新田は、自分の声の権威を下げることで敵のモデルを乱した。

 その結果、教図係の地図は一部止まった。

 だが、ここからが本題だ。

 ココが欲しがるもの。

 声と地図を、救助や避難誘導として成立させる中枢。

 それは、壊すだけでは済まない誘惑を持つ。

 ロックはココへの通信を開いたまま言った。

 

「ココ」

『何?』

「次に見たものを、面白いと思ったら言ってください」

『なぜ?』

「止める準備をします」

 

 通信の向こうで、ココが少し笑った。

 

『わかったわ』

 

 新田は奥の扉を見た。

 

 教図係は、まだ最後の授業を残している。

 偽のアラタの声は破られた。

 だが、それは一つの声にすぎない。

 次は、仕組みそのものが来る。

 声を作り、線を描き、次の声を変える。

 その循環を、誰が持つのか。

 誰が止めるのか。

 誰が欲しがるのか。

 新田は地図を見た。

 線は消えている。

 だからこそ、足で進むしかない。

 

「行きましょう」

 

 彼は言った。

 そして、偽の声が届かないようにではなく、偽の声が届いても止まれるように、隣を確認してから歩き出した。

 

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