Guns & Garlands — 銃と花輪   作:たこ焼き 龍月

47 / 49
第九章 地図にない分隊

 

 教図係の地図は、美しかった。

 

 それが、新田良太には何より腹立たしかった。

 地下実演室の中央に浮かぶ廃測量学校の立体図。校舎、地図室、放送室、測量塔、地下通路、倉庫、外の林、川沿いの道。そこにいる全員が、点として表示されている。新田。ジブリール。ロック。レヴィ。ベニー。ココ。バルメ。ワイリ。ダッチ。オマル。キャスパー。チェキータ。

 そして、その点から線が伸びていた。

 

 怒りの線。

 制止の線。

 保護の線。

 欲望の線。

 逃走の線。

 介入の線。

 

 声を聞いた時、誰が誰を見るか。誰が誰を止めるか。誰がどの方向へ走り出すか。誰が装置へ近づくか。誰がそれを止めるか。誰が怒りで前へ出るか。誰が遅れて支えるか。

 まるで、彼らがもうすでに動いた後の記録のようだった。

 だが、それは未来だった。

 

 まだ起きていない行動。

 まだ選ばれていない道。

 教図係は、それを描いたつもりでいる。

 新田は画面を見つめた。

 美しい地図ほど、人間を忘れる。

 ダッチの言葉が頭に残っている。

 この地図は、本当に美しかった。

 だからこそ、人間がいなかった。

 

『すべて、描けました』

 

 教図係の声は、静かで、誇らしげだった。

 先生が、出来のよい答案を前にした時のような声。

 その柔らかさが、地下実演室の空気をさらに冷やしている。

 レヴィが低く笑った。

 

「自信満々じゃねえか」

 

 ベニーが端末を見ながら言う。

 

「実際、かなり読まれています。僕たちがどう動くか、かなりの精度で予測されてる」

「嫌な実況すんな」

「僕も嫌です」

 

 ワイリの通信が入る。

 

『塔側の画面も同じ。全員の行動予測が出てる。ココの線も、ロックの線も、バルメの線も』

 

 ロックはココを見た。

 

 中央地図には、ココから装置へ向かう薄い線がある。

 それを遮るロックの線。

 さらに、ココの肩を掴むバルメの線。

 その三本が重なっていた。

 教図係は、ココが欲しがることも、ロックが止めることも、バルメが抑えることも読んでいる。

 ロックは息を整えた。

 見張るだけでは足りない。

 だが、見張ることをやめるわけにはいかない。

 

「ココ」

 

 彼は低く言った。

 

「見ています」

 

 ココは答えた。

 

「見られているわね」

「はい」

「私が欲しがる線まで」

「はい」

「なら、その通りに動かなければいい」

 

 ロックは少しだけ眉を動かした。

 

「できますか」

「一人では難しい」

 

 ココはロックを見た。

 

「だから、見張って」

「はい」

 

 バルメも横で答える。

 

「止めます」

 

 ココは頷いた。

 

「お願い」

 

 そのやり取りを、教図係の地図はすぐに拾った。

 ココの線が一度薄くなり、別の線が浮かぶ。

 装置へ向かう線ではない。

 立ち止まる線。

 だが、その横に新しい注記が出る。

 

 **SELF-RESTRAINT / OBSERVED**

 

 自制。観測済み。

 新田はそれを見て、静かに言った。

 

「自制まで線にする」

 

 教図係の声が答える。

 

『当然です。人は止まる時も、理由を持ちます』

「理由があるからといって、あなたのものにはならない」

『所有ではありません。観測です』

「教材にする時点で同じです」

 

 教図係は笑った。

 

『あなたは、言葉の所有に敏感ですね』

「子どもたちの声を盗まれましたから」

『盗んでいません。記録しただけです』

「泥棒はよくそう言います」

 

 レヴィが横で口の端を上げた。

 

「いい返しだ」

 

 ジブリールは中央地図を見ていた。

 そこには、彼女の線もある。

 

 新田のそばから離れ、泣いている子どもを探しに戻る線。

 偽の声に一瞬反応する線。

 レヴィの後ろへ下がる線。

 そして、子どもたちの声へ向かう線。

 ジブリールは唇を結んだ。

 

「私の線もある」

 

 新田は言った。

 

「見るなとは言わない」

「うん」

「でも、全部じゃない」

「うん」

「君は線じゃない」

 

 ジブリールは頷いた。

 

「知ってる」

 

 少し間を置いて、彼女は言った。

 

「でも、見えると、引っ張られる」

 

 新田はその言葉に息を止めた。

 

 地図は、未来を示すだけではない。

 見た者を、その未来へ引っ張る。

 自分はこう動くのかもしれない。

 なら、そうしなければならないのかもしれない。

 それもまた、地図の力だった。

 

 ロックが静かに言う。

 

「予測を見せること自体が、誘導になる」

 

 ココが頷く。

 

「ええ。未来を見せて、その未来に近づける。占いと命令の間みたいなものね」

 

 レヴィが顔をしかめる。

 

「余計ムカつくな」

 

 ダッチの通信が入る。

 

『未来を見せられても、足元を見ることだ』

 

 オマルも続ける。

 

『今いる場所を忘れるな』

 

 新田は頷いた。

 

「はい」

 

 彼は中央地図を閉じようとした。

 しかし、教図係の声がそれを止めるように響いた。

 

『では、最後の実験を始めます』

 

 表示盤が切り替わる。

 キャンプ側の地図が拡大された。

 放送塔。学校テント。配給所。診療所。水場。古い倉庫。

 子どもたちの点が、少しずつ動いている。

 それはリアルタイムではない。数秒、あるいは十数秒の遅れがある。

 だが、十分だった。

 十分に、嫌だった。

 

 ベニーが叫ぶ。

 

「キャンプ側への接続が戻りかけています!」

 

 ワイリの声も重なる。

 

『さっき切った循環を、別経路で繋ぎ直してる。完全じゃないけど、短い偽放送なら流せるかもしれない』

 

 新田の表情が消える。

 

「止められますか」

 

 ベニーは端末を叩くように操作する。

 

「止めます。でも、今すぐ全部は無理です。時間をください」

 

 レヴィが言う。

 

「また時間か」

「はい。また時間です」

 

 ロックは中央地図を見る。

 

「その時間を作るために、敵は僕たちを動かそうとしている」

 

 ココが言う。

 

「ええ。全員を自分の線へ乗せれば、ベニーとワイリの作業を止められる」

 

 新田は地図を見た。

 

 教図係の線では、まずジブリールが反応する。

 それを見て新田が前へ出る。

 レヴィが怒りで動く。

 ロックはココを止めるために一瞬遅れる。

 ココは装置へ近づく。

 ベニーはその混乱で作業を止める。

 キャスパーは外部経路を見に動き、チェキータが追う。

 ダッチとオマルは退路を守るために位置を変える。

 全員が、少しずつ敵の地図へ乗せられる。

 美しい。

 そして最悪だった。

 

『第一分隊、北へ』

 

 地下のスピーカーから、新田の声が流れた。

 偽の新田。

 だが、今までよりさらに短く、さらに実用的だった。

 

『第二分隊、学校裏へ』

 

 別のスピーカーから、ジブリールの声に似た声。

 

『みんな、アラタが呼んでる』

 

 さらに、先生の声。

 

『大丈夫です。正しい地図に従ってください』

 

 ベニーが顔を青くする。

 

「キャンプ側にも一部流れました!」

 

 新田は通信を開いた。

 

「ソフィア、聞こえる?」

『聞こえる! 偽放送が断続的に入ってる。子どもたちが反応しかけてる』

「全員を集めないで」

『了解』

「二人組確認。近くの大人。動くなら短く。一本の線にしない」

『わかった』

 

 教図係の声が地下で笑う。

 

『新田良太。あなたは、また指示を出す』

「必要です」

『その必要が、線になる』

「わかっています」

『では、どうしますか』

 

 新田は地図を見た。

 

 もし彼が細かく指示を出せば、教図係はそれを読む。

 誰をどこへ。誰に誰を見させるか。どの道を使うか。どの声を重ねるか。

 すべてが線になる。

 だが、指示しなければ、子どもたちは偽の声に揺れる。

 助ければ見られる。

 見せなければ助からない。

 その選択を、教図係は楽しんでいる。

 新田は、ゆっくり息を吸った。

 

「全分隊」

 

 通信に声を乗せる。

 キャンプへ届くように。

 しかし、いつもの指揮声ではない。

 命令ではなく、確認の声。

 

「近くの二人で組め」

 

 教図係の地図に線が走る。

 分隊ごとの集合線を予測している。

 だが、新田は続けた。

 

「第一分隊、第二分隊、第三分隊という名前を今だけ忘れろ」

 

 地図の線が揺れた。

 

「近くにいる子を見ろ。名前を呼べ」

 

 ソフィアの通信が入る。

 

『分隊単位、崩します』

「うん。崩していい」

 

 教図係の声が少し低くなる。

 

『分隊を崩すのですか』

 

 新田は答えた。

 

「一時的に」

『あなたの指揮系統が乱れます』

「乱します」

 

 地図上の第一分隊の線が消え始める。

 

 代わりに、小さな点同士が結ばれる。

 分隊ではない。

 二人組。三人組。近くにいる者同士。

 敵の地図が、それを追おうとする。

 だが、線が多すぎる。細かすぎる。目的地が一つではない。

 

 新田は続けた。

 

「一人が聞いた声を、もう一人が確かめろ」

 

 ジブリールが隣で呟く。

 

「声も二人で疑う」

 

 新田は頷き、通信へ言った。

 

「地図の線ではなく、隣の子の顔を見ろ」

 

 キャンプ側から、子どもたちの声が小さく入る。

 誰かが誰かの名前を呼んでいる。

 泣きそうな声もある。

 だが、走る足音は少ない。

 ソフィアが言う。

 

『止まってる。何人か動いたけど、近くの子が止めた』

 

 オマルの通信が入る。

 

『こちらからも確認。第一分隊というまとまりは崩れた。だが、混乱ではない』

 

 新田は言った。

 

「そのまま。集めない。整えすぎない」

 

 教図係の声に、初めてわずかな硬さが混じった。

 

『整えなければ、効率が落ちます』

「はい」

『危険です』

「はい」

『それでも?』

「あなたの線になるよりはいい」

 

 レヴィが地下で笑った。

 

「いいねえ。地図に喧嘩売ってる」

 

 ベニーが端末を見ながら叫ぶ。

 

「敵の予測精度、落ちています!」

 

 ワイリも通信で言う。

 

『分隊単位のモデルが崩れた。小さな判断が多すぎる。声から線への変換が詰まってる』

 

 ココが中央地図を見つめた。

 

「美しくない」

 

 新田は言った。

 

「はい」

「でも、生きてる」

「はい」

 

 ココは静かに息を吐いた。

 

「これは、持ち帰れないわね」

 

 ロックがすぐに聞く。

 

「本当に?」

 

 ココは苦く笑った。

 

「ええ。持ち帰った瞬間、壊れる。これは装置じゃなくて関係だから」

 

 ロックはその言葉を聞き、ほんの少しだけ肩の力を抜いた。

 ココが理解した。

 この地図にない分隊は、装置化しにくい。

 効率的に売れない。

 標準化できない。

 

 だからこそ、守れる。

 

     *

 

 しかし、教図係は止まらなかった。

 

 地下のスピーカーが一斉に鳴る。

 今度は、複数の声が重なった。

 新田の声。

 ジブリールの声。

 先生の声。

 配給案内の声。

 短い警告音。

 それらが断片的に混ざり、キャンプ側へ届こうとする。

 

『第一分隊、北へ』

『みんな、こっち』

『大丈夫です』

『アラタの指示です』

『ジブリール、泣いている子を連れてきて』

 

 ジブリールの顔が硬くなる。

 

 最後の声は、彼女を狙っていた。

 泣いている子。

 ジブリールは戻る。

 予定外に戻る。

 それを教図係はもう知っている。

 地図には、ジブリールが泣いている子を探しに戻る線が描かれていた。

 敵は、彼女の優しさまで線にした。

 

 ジブリールは地図を見た。

 

「私、戻ることになってる」

 

 新田は言った。

 

「戻らなくていい」

 

 ジブリールは少しだけ首を横に振った。

 

「でも、泣いてる子がいるかもしれない」

「敵はそれを読んでいる」

「うん」

「だから」

「だから、考える」

 

 ジブリールは目を閉じた。

 短い沈黙。

 そして、彼女は通信を開いた。

 

「ソフィア」

『聞こえる』

「泣いてる子、誰?」

『ミナの近くで、小さい子が泣いてる。でもジブリールが行かなくても、ミナがそばにいる』

 

 ジブリールは新田を見た。

 

「私じゃなくてもいい」

「うん」

「でも、声は出せる」

 

 新田は頷いた。

 

「出して」

 

 ジブリールは通信へ言った。

 

「ミナ。近くの子と一緒にいて。動かなくていい。泣いててもいい。隣にいて」

 

 キャンプ側から、少し間があった。

 そして、ソフィアの声。

 

『止まった。泣いてる子も座った。ミナが手を握ってる』

 

 地図上のジブリールの予測線が、大きく乱れた。

 

 彼女は戻らなかった。

 だが、助けなかったわけではない。

 戻る線を、声の線に変えた。

 しかも、命令ではない。

 誰かに背負わせすぎない声。

 近くの子が近くの子を助ける声。

 教図係の地図が、また揺れた。

 

 レヴィが言った。

 

「やるじゃねえか」

 

 ジブリールはレヴィを見る。

 

「戻らなかった」

「戻らなくても助けたんだろ」

「うん」

「なら上出来だ」

 

 ジブリールは少しだけ笑った。

 

「怖い顔じゃない」

「うるせえ」

 

 新田はその横顔を見て、胸の奥の痛みを少しだけ飲み込んだ。

 ジブリールが、自分以外の方法で助けることを選んだ。

 それは成長だ。

 

 同時に、彼女にそんな成長を強いる世界への怒りでもある。

 

     *

 

 ベニーとワイリの作業は、ようやく中枢へ届き始めていた。

 

 声と地図の循環は乱れ、キャンプ側への接続も不安定になっている。

 しかし、教図係は最後の手を残していた。

 中央地図の下部に、赤い表示が出る。

 

 **EMERGENCY CONSOLIDATION VOICE**

 

 緊急統合音声。

 ベニーが顔を青くした。

 

「まずい。全部の断片を混ぜて、短い強制誘導みたいな声を作る気です」

 

 レヴィが言う。

 

「強制?」

「心理的な意味です。命令、安心、警告、名前呼びを一気に重ねる。子どもたちが混乱して、一番聞き慣れた声へ寄ってしまう可能性がある」

 

 新田が聞く。

 

「止めるには?」

「あと少し」

「少しが多いですね」

「僕もそう思います!」

 

 ワイリの声が通信に入る。

 

『塔側からも押さえてる。でも、放送室がまだ生きてる。誰かが直接、放送室の切り替えを物理的に止めないと間に合わないかも』

 

 ダッチの通信。

 

『放送室には俺が近い』

 

 オマルが続く。

 

『私もいる』

 

 新田は地図を見た。

 放送室への線は、敵にも描かれている。

 ダッチが行けば、教図係はそれを読んでいる。

 オマルが行けば、それも読まれている。

 だが、二人が同時に、予測通りに動かなければどうか。

 

「ダッチさん」

『聞いている』

「地図の線では、あなたは正面から放送室へ入る」

『そうだな』

「行かないでください」

 

 レヴィが驚く。

 

「おい、じゃあ誰が行くんだよ」

 

 新田は続ける。

 

「オマルさん」

『何をする』

「ダッチさんの線を見せてください」

『囮か』

「はい。ただし、危険なら引いてください」

 

 ダッチが短く笑ったような声を出した。

 

『囮役は嫌いじゃない』

 

 オマルが言う。

 

『なら、私は裏へ回る』

「いいえ」

 

 新田は言った。

 

「裏へ回ると読まれています」

 

 オマルは少し黙る。

 

『では?』

「一度、戻る」

『戻る?』

「放送室から離れてください」

 

 地下地図の線が揺れた。

 

 オマルの予測線が放送室へ向かっていたのに、実際の点が離れる。

 ダッチの点は、あえて見える位置へ少し出る。

 教図係の地図は、ダッチを主対応と見た。

 その瞬間、レヴィが動いた。

 ただし、前へではない。

 彼女は新田の横から少しずれ、廊下側の別通路へ向かう。

 地図には、レヴィが怒りで前へ出る線があった。

 だが、今の彼女は怒りを前へ出していない。

 横へずれた。

 

「おい」

 

 新田が言う。

 

「どこへ?」

「ムカつくから、地図通りに歩かねえ」

「子どもたちの近くでは撃たないでください」

「わかってるよ」

 

 レヴィは振り返らない。

 

「放送室の脇道、さっき見えた。ベニー、間違ってたら怒るぞ」

 

 ベニーが慌てて端末を見る。

 

「脇道あります! でも古い保守通路で、狭いです!」

「狭い方がいい。地図野郎が俺を正面から来ると思ってんなら、横から行く」

 

 ダッチの通信が入る。

 

『いい判断だ』

 

 レヴィは鼻で笑う。

 

「褒めんな、調子狂う」

 

 ジブリールが小さく言った。

 

「レヴィも地図に喧嘩売ってる」

「お前は座ってろ」

 

 レヴィは保守通路へ消えた。

 地図上のレヴィの線が大きく乱れる。

 怒りで突っ込む線ではなく、怒りを抑えた横移動。

 教図係の予測が遅れる。

 その遅れが、ベニーとワイリに時間を作った。

 

 教図係の声が、少しだけ硬くなった。

 

『予測外の経路です』

 

 ロックが言う。

 

「ロアナプラでは、予定通りにいかないのが普通です」

『非効率ですね』

「ええ」

 

 ロックは続けた。

 

「でも、生きています」

 

     *

 

 その時、ココが一歩動いた。

 

 中央装置の右側。

 そこに、小さな記録ユニットらしきものがある。

 地図上にも、それが表示されていた。

 教図係の予測線では、ココはそれへ手を伸ばす。

 ロックが止める。

 バルメが肩を掴む。

 何度も見た線だった。

 だが、今度のココは、その線を見た上で動いた。

 

「ココ」

 

 ロックが言う。

 

「わかってる」

「なら、なぜ」

「線を外すため」

 

 ココは記録ユニットの前で止まった。

 

 手は伸ばさない。

 ただ、膝をつき、その前に座った。

 ジブリールがさっき地図室で座ったように。

 取得する線でも、逃げる線でも、破壊する線でもない。

 ただ、装置の前に座る。

 ロックは一瞬、呆気に取られた。

 バルメも目を見開く。

 中央地図のココの線が乱れる。

 

 教図係の声が問う。

 

『なぜ取得しないのですか』

 

 ココは答えた。

 

「欲しいから」

『矛盾しています』

「そうよ」

『欲しいなら、取得する』

「欲しいから、持たない。持てば使う。使えば、正しいと言い訳する」

 

 ココは記録ユニットを見つめたまま言った。

 

「だから、ここに座る。手を伸ばさないところに、私の余白を置く」

 

 ロックは静かに息を吐いた。

 ココが、自分の欲望を消したわけではない。

 だが、それに従わない動きを選んだ。

 見張られることを受け入れ、自分の線を外した。

 その行動は、教図係の美しい地図にまた傷をつけた。

 

 ジブリールが小さく言う。

 

「ココも座った」

 

 新田は答えた。

 

「うん」

「座るの、効くね」

「いつも効くわけじゃない」

「でも、今は効いた」

「うん」

 

 ロックはココのそばに立った。

 

「そのままで」

「ええ」

 

 バルメも隣に立つ。

 

「手を伸ばしたら止めます」

「お願い」

 

 教図係は沈黙した。

 中央地図の線は、さらに乱れていた。

 

     *

 

 レヴィが放送室の保守通路へ回ったことで、緊急統合音声の準備は遅れた。

 

 だが、完全には止まらない。

 スピーカーから、複数の声が混ざった不自然な音が漏れ始める。

 新田の声。

 ジブリールの声。

 先生の声。

 配給案内。

 警告音。

 子どもたちが反応しやすい断片。

 それが混ざり、ひとつの「優しい命令」になろうとしている。

 

 ベニーが叫ぶ。

 

「あと少し!」

 

 ワイリが続ける。

 

『塔側、押さえる! 放送室、今!』

 

 レヴィの通信が荒く入る。

 

『見えたぞ、切り替え盤』

 

 ベニーが即座に言う。

 

「壊さないでください! 止めるだけ! 右側じゃなくて、中央の古い方を固定してください!」

 

 レヴィが怒鳴る。

 

『専門用語で言うな!』

「言ってません!」

 

 ダッチの声が入る。

 

『レヴィ、落ち着け。見えているものを言え』

『古い箱。赤いランプ。レバーが三つ』

 

 ベニーがすぐに答える。

 

「真ん中を戻して、押さえる。強く引かないでください」

『注文が多い!』

 

 それでも、レヴィは従った。

 地下に響いていた混合音が、一瞬途切れる。

 ワイリが叫ぶ。

 

『今!』

 

 ベニーが端末を操作する。

 中央地図の声と線の循環が、ついに切れた。

 表示盤にノイズが走り、複数の予測線が白く飛ぶ。

 キャンプ側への接続が途切れる。

 放送塔の表示が消える。

 子どもたちの点は、地図上に残っているが、そこから伸びる未来線が消えた。

 

 ベニーが息を吐いた。

 

「止まりました……少なくとも、今は」

 

 レヴィの通信が入る。

 

『壊してねえぞ』

 

 ベニーは即座に言った。

 

「ありがとうございます!」

『気持ち悪いな、礼言われると』

 

 ジブリールが笑った。

 

「レヴィ、上手」

『うるせえ』

 

 ダッチが通信で言う。

 

『よくやった』

『だから褒めんな!』

 

 地下実演室に、初めて小さな笑いが起きた。

 すぐに消える。

 まだ終わっていない。

 教図係がいる。

 Nursery へのリンクも、完全には消えていない。

 

 中央画面が暗転し、次に白い文字が浮かんだ。

 

 **FIRST MARGIN FIELD TEST: FAILED / PARTIAL SUCCESS**

 **ARATA CELL: RESISTANT**

 **LAGOON: UNPREDICTABLE**

 **HCLI: ACQUISITIVE / RESTRAINED**

 **CASPER: COMMERCIAL LINE DISRUPTED**

 **NURSERY LINK: PRESERVED**

 

 部分成功。

 Nurseryリンク、保持。

 新田はその最後の一行を見た。

 

「逃げた」

 

 ベニーが頷く。

 

「一部は外へ出ています。全部ではありませんが、教図係は最初からここで全部を守るつもりはなかったのかもしれません」

 

 ワイリも言う。

 

『反応を取れればいい。赤い合唱の時と同じだね』

 

 ロックは低く言った。

 

「失敗しても、観測できれば成功」

 

 ココは座ったまま、画面を見ている。

 

「庭師らしいわ」

 

 新田はスピーカーを見上げた。

 

「教図係」

 

 しばらく返事はなかった。

 そして、ノイズ混じりの声が返る。

 

『はい』

「子どもたちは教材じゃない」

『その反応も記録しました』

「記録しても、わからないものがあります」

『何でしょう』

 

 新田はジブリールを見る。

 ジブリールはレヴィを見る。

 ロックはココを見る。

 ココはロックとバルメを見る。

 ベニーはワイリと通信を繋いだまま。

 キャスパーはチェキータに見張られている。

 ダッチとオマルは、別の位置から全体を見ている。

 誰も一本の線になっていない。

 

「隣を見る理由です」

 

 新田は言った。

 教図係は少し黙った。

 

『それも、いずれ測れます』

「測れません」

『なぜ?』

「毎回変わるからです」

 

 ジブリールが続けた。

 

「私たちが変えるから」

 

 ロックも言う。

 

「見張る相手も、見張られる相手も変わる」

 

 ココが静かに言った。

 

「欲望も変わるわ。消えないけど、止まり方は変えられる」

 

 レヴィが言う。

 

「怒りもな」

 

 キャスパーの通信。

 

『損切りもね』

 

 チェキータが即座に言う。

 

『それはちょっと違う』

『厳しいな』

 

 教図係の声が、最後に柔らかく響いた。

 

『よい余白でした』

 

 新田は答えた。

 

「あなたには渡さない」

『もう一部は、いただきました』

 

 中央画面の奥で、細い線が一つだけ点る。

 Nursery Link。

 それはすぐに消えた。

 教図係の声も消える。

 

 地下実演室に、機械の低い残響だけが残った。

 

     *

 

 地上へ戻る頃には、外は夜に近かった。

 

 廃測量学校の窓には、夕暮れの最後の色が残っている。

 キャンプ側との通信は回復し、ソフィアから報告が入っていた。

 子どもたちは無事。

 何人かは泣いた。何人かは怒った。何人かは放送塔を怖がった。

 だが、誰も一人で走らなかった。

 それだけで、今日は十分だった。

 十分と思うしかなかった。

 

 レヴィが保守通路から戻ってきた。服に埃がついている。

 

「二度と学校の裏道なんか通らねえ」

 

 ベニーが言う。

 

「助かりました」

「だから礼言うな」

 

 ジブリールが近づく。

 

「レヴィ」

「あ?」

「ありがとう」

 

 レヴィは固まった。

 それから顔を逸らす。

 

「……ついでだ」

「ついででも、ありがとう」

「うるせえ」

 

 新田はその様子を見て、少しだけ笑った。

 笑えることが、まだ残っている。

 それは地図に描けない。

 

 ココは中央装置の記録ユニットを持ち帰らなかった。

 彼女は最後まで座ったままだった。

 立ち上がった時、ロックが隣にいた。バルメもいた。

 ココは二人に言った。

 

「持たなかったわ」

 

 ロックは頷いた。

 

「はい」

「褒めてくれる?」

「褒めると危ない気がします」

 

 バルメが真顔で言う。

 

「よく我慢しました」

 

 ココは少し笑った。

 

「バルメの方が優しい」

 

 ロックは言う。

 

「俺も同じ意味で思っています」

「なら、そう言って」

「よく我慢しました」

 

 ココは満足そうに頷いた。

 

「ありがとう」

 

 新田が近づいた。

 

「ココさん」

「何?」

「次に欲しくなったら、今日のことを思い出してください」

「ええ」

「座ったことも」

「ええ」

「手を伸ばさなかったことも」

 

 ココは少しだけ真面目な顔になった。

 

「覚えておくわ」

「覚えている人ほど危ない」

 

 ココは苦笑した。

 

「最後まで厳しいわね」

「必要なので」

 

 ロックが横で言う。

 

「俺も言い続けます」

 

 ココは二人を見て、肩をすくめた。

 

「見張りが多い人生ね」

 

 ジブリールが言った。

 

「一人で走らないため」

 

 ココは彼女を見る。

 そして、静かに頷いた。

 

「そうね」

 

     *

 

 廃測量学校の外で、キャスパーが待っていた。

 

 チェキータとアランが横にいる。

 白い服は少し汚れている。

 ロアナプラでも、戦場でも、キャスパーは白いまま立っていることが多かった。

 だが、今日はその白に泥がついている。

 レヴィがそれを見て言った。

 

「お、善意の白が汚れてんぞ」

 

 キャスパーは肩をすくめる。

 

「たまにはいいだろう」

「似合わねえよ」

「残念だ」

 

 新田はキャスパーの前に立った。

 

「教図係は逃げました」

「だろうね」

「Nursery へのリンクも一部残った」

「だろうね」

「あなたの名簿が必要です」

 

 キャスパーは頷いた。

 

「渡すよ」

 

 レヴィが睨む。

 

「半分とか言うなよ」

「今回は半分以上」

 

 チェキータが即座に言う。

 

「ボス」

 

 キャスパーは苦く笑った。

 

「冗談だよ。出せるだけ出す」

 

 新田は見つめる。

 

「出せるだけ、では足りません」

「本当に君たちはそれが好きだね」

「必要なので」

 

 キャスパーは少し黙り、それから端末をアランへ渡した。

 

「関連名簿、輸送経路、教育支援団体、測量会社、放送設備業者、資金の流れ。全部、ロックと新田へ。HCLIにも。ただし、使える形で装置を再現できる情報は抜く」

 

 ベニーが言う。

 

「そこは賛成です」

 

 ワイリも通信で同意する。

 

『構造の危険性は残して、実用にはしない。難しいけど、やるしかないね』

 

 キャスパーは新田を見る。

 

「これで足りるかな」

「まだわかりません」

「厳しい」

「でも、必要です」

 

 キャスパーは小さく笑った。

 

「君の声も、ずいぶん強いね」

 

 新田は答えた。

 

「強くなりすぎないようにします」

「なぜ?」

「真似された時に困る」

 

 キャスパーは何も言わなかった。

 それから、少しだけ真面目な顔で頷く。

 

「なるほど」

 

     *

 

 キャンプへ戻る道で、新田は地図を見なかった。

 

 正確には、何度か見ようとして、やめた。

 地図は必要だ。

 道を失わないために。

 危険を避けるために。

 だが、今は少しだけ足で歩きたかった。

 ジブリールが隣にいる。

 レヴィが少し前を歩き、何か文句を言っている。

 ロックはココの近くにいる。

 ココはいつもより静かだ。

 ベニーは端末を抱えたまま、もう二度と地図を見たくないという顔をしている。

 ダッチは黙って周囲を見ている。

 キャスパーはチェキータに何かを言われ、珍しく反論していない。

 みんな、地図に描ける。

 だが、今この瞬間の距離や沈黙や疲れは、地図には描ききれない。

 新田は、それを少しだけ救いだと思った。

 

 ジブリールが言った。

 

「アラタ」

「何?」

「今日は、地図に勝った?」

 

 新田は少し考えた。

 

「勝ってはいない」

「じゃあ、負けた?」

「それも違う」

「じゃあ?」

 

 新田は夜の道を見た。

 

「今日は、地図にならずに済んだ」

 

 ジブリールは少し考え、それから頷いた。

 

「それでいい」

「うん」

 

 遠くにキャンプの灯りが見えた。

 

 小さく、揺れている。

 放送塔は沈黙していた。

 子どもたちの声が、夜の中でかすかに聞こえる。

 本物の声。

 まだ誰かの装置に完全には奪われていない声。

 新田はそれを聞き、静かに息を吐いた。

 教図係は逃げた。

 Nursery は残った。

 First Margin は完全には壊れていない。

 

 それでも、今夜だけは、子どもたちは一人で走らなかった。

 それが、地図にない分隊の最初の勝利だった。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。