Guns & Garlands — 銃と花輪   作:たこ焼き 龍月

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第十章 白い商人の余白

 

 廃測量学校は、夜になると学校ではなくなった。

 昼の名残が消え、校舎の輪郭は黒い箱のように沈み、測量塔だけが月の薄い光を受けて細く立っている。教室。地図室。放送室。実習室。そこに残っていた「先生」の気配は、もう優しいものではなかった。

 机と椅子のある場所。

 黒板のある場所。

 声を届ける場所。

 地図を広げる場所。

 本来なら、何かを学ぶための場所だった。

 だが、そこに残っていたのは、人をどう動かすかを測った痕跡だった。

 新田良太は、校舎の外でその建物を見上げていた。

 内部の装置は、ベニーとワイリによって一部が無力化された。実演室の中枢は停止し、放送室と地図室の接続も切られた。測量塔からキャンプ側へ伸びていた観測線も、少なくとも今夜は機能しない。

 だが、完全ではない。

 教図係は逃げた。

 Nursery へのリンクは、一部残った。

 そして、もっと嫌なことに、敵は失敗したわけではなかった。

 観測した。

 アラタ陣営がどう動くか。

 ジブリールが偽のアラタの声にどう反応するか。

 ココ・ヘクマティアルが装置を欲しがり、それでも手を伸ばさなかったこと。

 ロックが見張ること。

 レヴィが怒りを横へずらしたこと。

 キャスパーが自分の商流を切ったこと。

 すべてが、どこかへ持ち去られた可能性がある。

 止めた。

 しかし、見られた。

 勝ったとは言えない。

 負けたとも言えない。

 ただ、今夜だけは、子どもたちが一本の線にならなかった。

 その事実だけが、かろうじて地面に残っている。

 

 ダッチが横に来た。

 

「まだ見てるのか」

 

 新田は測量塔から目を離さずに答えた。

 

「はい」

 

「何が見える」

 

「嫌な学校です」

 

「だろうな」

 

 ダッチは煙草を出しかけて、少し離れた場所にジブリールがいるのを見て、箱へ戻した。

 

「壊せば終わり、という顔じゃないな」

 

「終わっていません」

 

「そうだな」

 

 ダッチは校舎を見た。

 

「こういう場所は、壊しても残る。建物じゃなく、やり方がな」

 

「やり方」

 

「ああ。地図を作る奴は、一枚燃やしても別の紙に描く。声を使う奴は、一つのスピーカーを壊しても別の口を探す」

 

 新田は静かに頷いた。

 

「だから、子どもたちに疑わせるしかない」

 

「それはつらいな」

 

「はい」

 

「だが、必要か」

 

「はい」

 

 ダッチは少しだけ口元を緩めた。

 

「なら、続けるしかない」

 

 新田は答えなかった。

 その答えは、もう何度も自分の中で出している。

 続けるしかない。

 ただ、その「しかない」を子どもたちに背負わせていることが、重かった。

 

     *

 

 廃測量学校の外れにある古い倉庫では、キャスパー・ヘクマティアルが白い箱を前に立っていた。

 彼の白い服は、もう完全には白くなかった。袖に泥がつき、裾には乾いた土が残っている。いつもなら軽口の一つでも言うところだが、今夜のキャスパーは少し口数が少なかった。

 倉庫内には、彼の荷が並べられている。

 測量機材。

 教育放送設備。

 発電機。

 医療用冷却装置。

 教材端末。

 どれも、必要な物資だった。

 そして、そのいくつかは庭師に触られていた。

 善意の顔をした箱。

 支援の名前を貼られた罠。

 キャスパーは、その白い箱の一つを軽く叩いた。

 

「白い箱ほど、汚れると目立つね」

 

 チェキータが横で腕を組む。

 

「詩人になるには遅いわよ」

 

「商人の反省としては?」

 

「反省にしては軽い」

 

「厳しいな」

 

「今日はずっと厳しいつもり」

 

 キャスパーは苦笑した。

 

「知ってる」

 

 アランが端末を持って近づいてきた。

 

「ボス。関連名簿、抽出できました」

 

「どれくらい?」

 

「多いです」

 

「多い、はいい言葉じゃないね」

 

「はい」

 

 アランは端末を簡易テーブルに置いた。

 画面には、複数の団体名と会社名が並んでいる。

 教育支援団体。

 避難計画アドバイザー。

 放送設備納入会社。

 測量機材の中古業者。

 医療支援団体。

 物流仲介会社。

 さらに、資金の流れ。

 国境をまたぐ寄付金。

 小口に分けられた支払い。

 別名義の倉庫。

 船積み記録。

 港湾通過許可。

 そのどれもが、単体では白く見える。

 しかし、線で繋ぐと庭師の形に近づいていく。

 

「気持ち悪いくらい綺麗だ」

 

 キャスパーは言った。

 

 チェキータが画面を覗く。

 

「綺麗?」

 

「綺麗に隠してある。善意の団体、教育支援、避難計画、医療物流。全部、誰かが必要としているものだ」

 

「だから止めにくい」

 

「そう。全部止めれば、本当に困る人間が出る。全部流せば、罠も一緒に入る」

 

 キャスパーは指で画面をなぞった。

 

「いい罠だよ」

 

 チェキータの目が冷える。

 

「褒めてる?」

 

「商人としてはね」

 

「ボス」

 

「人間としては、吐き気がする」

 

 チェキータは少しだけ黙った。

 キャスパーがそういう言い方をするのは珍しかった。

 彼は続けた。

 

「善意を買い、善意を混ぜ、善意を運ばせる。誰も完全には悪者じゃない。だから責任が薄まる。薄まった責任の中に、罠を入れる」

 

 アランが頷く。

 

「今回の荷も、その構造です」

 

「僕はそれを運んだ」

 

 キャスパーの声は軽くなかった。

 

 チェキータが言った。

 

「運んだわね」

 

「止められたと思う?」

 

「もっと早く疑えた」

 

「だろうね」

 

「もっと早く出せた」

 

「だろうね」

 

「でも、全部を止めれば、キャンプは困った」

 

「だろうね」

 

「だから、次はもっと早く開ける」

 

 キャスパーは彼女を見る。

 

「君は本当に厳しい」

 

「ボスが逃げようとするから」

 

「逃げてるかな」

 

「軽口の中に逃げる」

 

 キャスパーは苦笑した。

 

「君は本当に僕をよく見ている」

 

「仕事だから」

 

「猟犬?」

 

「給料のいい猟犬よ」

 

 その言葉に、キャスパーは少しだけ笑った。

 いつものような軽い笑いではなかった。

 疲れた笑いだった。

 

     *

 

 ロックが倉庫へ入ってきた。

 その後ろに新田、ココ、バルメ、ベニー、ワイリ。少し遅れてレヴィ。ジブリールは新田の横にいる。

 キャスパーは全員を見ると、軽く両手を上げた。

 

「裁判の時間かな」

 

 レヴィが即座に言う。

 

「そうだな。被告、前へ」

 

「手厳しい」

 

 チェキータが言う。

 

「だいたい合ってるわ」

 

 キャスパーは肩をすくめ、端末をロックの前へ置いた。

 

「関連名簿だ」

 

 ロックは端末を見た。

 

「全部ですか」

 

 キャスパーは一瞬、いつもの言い方をしようとした。

 半分以上。

 出せるだけ。

 現時点で。

 だが、横からチェキータの視線が刺さる。

 正面では新田が見ている。

 ジブリールも見ている。

 彼は小さく息を吐いた。

 

「僕が持っている全部だ」

 

 レヴィが眉を上げる。

 

「言い切ったな」

 

「言い切ったよ」

 

「明日になって、実はもう少しありましたとか言うなよ」

 

「その時は、僕が今日より高くつく」

 

「意味わかんねえよ」

 

 ロックは端末の内容を確認した。

 ベニーも横から覗き込み、ワイリと一緒に情報を整理する。

 一覧の中には、昨日見た教図係の偽名もあった。

 エリアス・グラント。

 教育放送・避難計画アドバイザー。

 その周囲に、似た肩書きがいくつも並んでいる。

 学校安全導線コンサルタント。

 避難所音声管理補助員。

 人道物流調整官。

 児童支援放送プランナー。

 市場安全誘導アドバイザー。

 港湾労働者教育支援員。

 きれいな名前ばかりだった。

 きれいすぎた。

 

 新田は画面を見て言った。

 

「この人たちは、全員が敵ですか」

 

 キャスパーは首を横に振る。

 

「違う」

 

「本物もいる」

 

「いる。むしろ本物が多いかもしれない」

 

「その中に庭師が混ざる」

 

「そうだ」

 

 キャスパーは表情を薄くする。

 

「本物の善意が多いほど、庭師は隠れやすい」

 

 ココが画面を見ながら言った。

 

「Nursery」

 

 ベニーが頷く。

 

「苗床。声が最初に信じられる場所を作る計画ですね」

 

 ワイリが続ける。

 

「First Margin は、その声を聞いた後、人がどこへ動くかを読む補助層。声を育てる場所と、声で動いた後の線を繋ぐ」

 

 ロックが低く言う。

 

「声を育てる。声で動かす。動きを地図にする。地図を見て、次の声を変える」

 

 ジブリールが小さく言った。

 

「庭師の畑」

 

 レヴィが顔をしかめる。

 

「ガキに言わせんな、そんな気持ち悪い言葉」

 

 ジブリールはレヴィを見る。

 

「気持ち悪いから、言った」

 

 レヴィは言い返せなかった。

 新田は名簿を見る。

 

「これは、キャンプだけの話ではありませんね」

 

 キャスパーは頷く。

 

「学校、避難所、放送局、市場、港、軍事基地跡、選挙集会、災害現場。人が声を待つ場所なら、どこでも使える」

 

 ココが言った。

 

「街そのもの」

 

 ロックは彼女を見る。

 

「ヨナの言葉ですか」

 

「まだ聞いていない。でも、そうなるわ」

 

 ココは画面に並んだ名簿を見つめる。

 

「学校だけなら、学校を疑えばいい。放送塔だけなら、放送塔を疑えばいい。でも街そのものが苗床なら、人は日常の声を疑わなければならなくなる」

 

 新田は顔を曇らせた。

 

「それは、子どもたちには重すぎる」

 

 ココは静かに答える。

 

「大人にも重いわ」

 

 ロックは名簿を見ながら言った。

 

「では、どうしますか」

 

 キャスパーが答える。

 

「線を切る」

 

 レヴィが彼を見る。

 

「お前が言うと、商売の話に聞こえるな」

 

「商売の話でもある。資金、物流、紹介状、認可、寄付金、輸送保険。そういう線を切る」

 

 新田が言った。

 

「全部切れば、本物の支援まで止まる」

 

「だから、切り方を選ぶ」

 

 キャスパーは真面目な顔で言った。

 

「僕がやるべきことだ」

 

 チェキータが横で言う。

 

「珍しく正しい」

 

「珍しくは余計だね」

 

「余計じゃないわ」

 

 ベニーは端末を操作しながら言う。

 

「技術的な情報は、実用できない形で記録します。危険性だけ共有する。再現可能な情報は残さない」

 

 ワイリが頷く。

 

「でも、次に似たものが出た時に気づけるようにする」

 

 ロックはココを見る。

 

「HCLIは?」

 

 ココは少し黙った。

 そして、はっきり言った。

 

「使える形では持たない。危険性の記録だけ、分割して持つ。私一人では開けない形にする」

 

 新田がすぐに言う。

 

「欲しくなりますか」

 

 ココは彼を見る。

 

「なるでしょうね」

 

 ロックの表情が少し硬くなる。

 

 ココは続けた。

 

「だから、今言う。欲しくなる。だから、一人では持たない」

 

 ジブリールが頷く。

 

「欲しくなったら、隣を見る」

 

 ココは彼女を見て、小さく笑う。

 

「ええ」

 

 バルメが言った。

 

「私が止めます」

 

 ロックも続ける。

 

「俺も」

 

 新田も言う。

 

「僕も疑います」

 

 レヴィが腕を組む。

 

「俺は怒鳴る」

 

 ジブリールが言った。

 

「大きい声で」

 

「余計な説明すんな」

 

 ココは苦笑した。

 

「本当に見張りが多いわね」

 

 ロックが答える。

 

「それでも足りないかもしれません」

 

「ええ」

 

 ココは封印された記録ユニットを見た。

 

「でも、足りないまま、一人で走らない」

 

     *

 

 キャスパーが出した名簿には、もう一つの情報が含まれていた。

 教図係の移動経路。

 完全ではない。

 だが、彼が廃測量学校へ入る前に通った場所、接触した可能性のある団体、使った輸送名義がいくつか残っていた。

 その中に、一つだけ異様な項目があった。

 

 **C.L. / Field Liaison**

 

 ロックがその文字を見た瞬間、表情を変えた。

 

「C.L.」

 

 ココも反応する。

 

「Conductor Liaison」

 

 新田が聞く。

 

「指揮者の連絡役?」

 

 ロックは頷いた。

 

「赤い合唱の後に出た名前です。合唱長の上にいる、あるいは別の役割を持つ存在。声を集めるのが合唱長なら、声を選ぶのが指揮者」

 

 ワイリが言う。

 

「教図係は、声と線を繋いだ。なら、その情報を指揮者へ渡すのかもしれない」

 

 新田は低く言った。

 

「声を選ぶために」

 

 ベニーは端末を見て、顔をしかめる。

 

「この C.L. は、複数の場所に出ています。学校、港、放送局、市場、避難所」

 

 キャスパーが頷く。

 

「単独の人物か、役職名かはわからない。連絡役、接続係、あるいは指揮者の代理」

 

 ロックは画面を見つめた。

 

「教図係は、切られた線を持って逃げた」

 

 ココが続ける。

 

「その線を、指揮者が選ぶ」

 

 新田はキャンプの方向を見た。

 

「次は、もっと普通の声で来るかもしれません」

 

 ロックが新田を見る。

 

「なぜそう思いますか」

 

「先生の声は、もう子どもたちが疑い始めました。僕の声も、ジブリールの声も」

 

 新田は続けた。

 

「なら次は、もっと疑いにくい声です。日常の声。配給の案内。市場の呼び声。港の合図。誰かが誰かを呼ぶ声」

 

 ココが静かに言った。

 

「街そのもの」

 

 倉庫内が静かになった。

 ロアナプラ。

 港。

 市場。

 裏路地。

 教会。

 バー。

 電話。

 無線。

 街の声。

 それらが苗床になる。

 新田のキャンプだけではない。

 HCLIだけでもない。

 ラグーン商会だけでもない。

 声を聞いて人が動く場所すべてが、庭師の畑になる。

 

 レヴィが低く言った。

 

「気に入らねえな」

 

 ダッチが倉庫の入口から言う。

 

「気に入る要素がない」

 

 レヴィはダッチを見る。

 

「戻ってたのか」

 

「ああ」

 

「放送室は?」

 

「止めた。だが、逃げたものはある」

 

 新田は頷いた。

 

「はい」

 

 ダッチは名簿を見た。

 

「次は街か」

 

 ロックは答えた。

 

「おそらく」

 

 ダッチは短く言った。

 

「ロアナプラ向きじゃないな」

 

 ココが少しだけ笑う。

 

「疑い深すぎるから?」

 

「それもある。だが、街の声が多すぎる」

 

 ダッチは続けた。

 

「誰の声が正しいかなんて、誰も最初から信じちゃいない」

 

 ロックは頷いた。

 

「それでも、庭師はやるでしょう」

 

「だろうな」

 

 レヴィが言う。

 

「なら、声が聞こえたら撃てばいい」

 

 ベニーが即座に言う。

 

「やめてください。問題が増えます」

 

「冗談だよ」

 

「冗談に聞こえません」

 

「半分冗談だ」

 

「半分が怖いんです」

 

 ジブリールがレヴィを見る。

 

「声を撃っても、止まらない」

 

 レヴィは少し黙った。

 

「……そうだな」

 

「隣を見る方がいい」

 

「ガキに諭される日が来るとはな」

 

「ジブリール」

 

「はいはい、ジブリール」

 

     *

 

 名簿の整理が終わる頃、夜はさらに深くなっていた。

 中継基地の倉庫には、疲れた沈黙が落ちている。

 誰も完全には勝っていない。

 誰も完全には負けていない。

 ただ、それぞれが昨日より少し多く疑うものを持った。

 キャスパーは端末をロックへ渡した。

 

「これはコピーだ。原本は複数に分ける。HCLI、ラグーン商会、アラタ陣営、それから僕の側で分散する」

 

 新田が聞く。

 

「あなたの側にも残すんですか」

 

「残す」

 

 レヴィがすぐに言う。

 

「おい」

 

 キャスパーは両手を上げた。

 

「使うためじゃない。僕の商流を切るためだ。僕がどこを通したか、僕が知らなければ止められない」

 

 チェキータが言う。

 

「今回は本当」

 

 レヴィは彼女を見る。

 

「お前が言うなら、半分くらい信用する」

 

「半分?」

 

「キャスパーよりは高い」

 

「妥当ね」

 

 キャスパーは苦笑した。

 

「味方が減っていく」

 

 新田は端末を受け取った。

 

「この名簿は、子どもたちには見せません」

 

「当然だ」

 

「でも、子どもたちの訓練には使います」

 

 キャスパーが少し眉を上げる。

 

「どう使う」

 

「どの声でも、すぐには信じない。どの地図でも、一人では動かない。その練習に」

 

「名簿そのものではなく、考え方を?」

 

「はい」

 

 キャスパーは少しだけ頷いた。

 

「それが、一番高くつくかもしれないね」

 

「値段の話ですか」

 

「いや」

 

 キャスパーは珍しく、すぐに続けた。

 

「時間の話だ」

 

 新田は静かに頷いた。

 

「時間はかかります」

 

「効率が悪い」

 

「はい」

 

「でも、線になりにくい」

 

「はい」

 

 キャスパーは小さく笑った。

 

「商売にならないな」

 

「なら、ちょうどいい」

 

 レヴィが言った。

 

「やっとわかってきたじゃねえか、白い兄貴」

 

 キャスパーは肩をすくめた。

 

「学びの多い学校だったよ」

 

「最悪の感想だな」

 

「同感だ」

 

     *

 

 ジブリールは、倉庫の外で空を見ていた。

 星は少ない。湿気が多く、雲が薄く流れている。

 新田が隣に来る。

 

「疲れた?」

 

「うん」

 

「休む?」

 

「もう少し」

 

 二人はしばらく黙っていた。

 遠くで川の音がする。

 中継基地の灯り。

 倉庫の中の声。

 誰かが端末を叩く音。

 レヴィの文句。

 ベニーの嫌そうな声。

 キャスパーの軽い声と、チェキータの厳しい声。

 ココとロックの低い会話。

 全部、本物の声だった。

 だが、本物の声だからといって、何も疑わなくていいわけではない。

 それが今日、変わってしまったことだった。

 

「アラタ」

 

「何?」

 

「教図係、私の声も持っていった?」

 

「少しは」

 

「また使う?」

 

「可能性はある」

 

 ジブリールは唇を結んだ。

 

「じゃあ、みんなに言う。私の声でも、疑っていいって」

 

「うん」

 

「寂しいね」

 

「うん」

 

「でも、私の声を嫌いにならなくていい?」

 

 新田は彼女を見る。

 

「いい」

 

「アラタの声も?」

 

「うん」

 

「疑うのと、嫌いになるのは違う」

 

「そう」

 

 ジブリールは少しだけ安心したように息を吐いた。

 

「よかった」

 

 新田は空を見た。

 

「僕も、君たちを信じる前に見る」

 

「疑う?」

 

「うん」

 

「でも、嫌いじゃない?」

 

「嫌いじゃない」

 

 ジブリールは頷いた。

 

「じゃあ、いい」

 

 それは小さな会話だった。

 だが、新田には、第九章のどんな指揮より大事なものに思えた。

 声を疑う。

 地図を疑う。

 それでも、相手を嫌いにならない。

 その細い線だけは、教図係に渡したくなかった。

 

     *

 

 倉庫の中に戻ると、ココが封印ユニットを見ていた。

 ロックが隣にいる。

 バルメもいる。

 新田は少し離れた場所からそれを見た。

 ココは気づき、彼へ視線を向ける。

 

「見ていた?」

 

「はい」

 

「疑っていた?」

 

「はい」

 

 ココは少し笑った。

 

「正直ね」

 

「必要なので」

 

「その言葉、便利すぎるわ」

 

「便利ではありません」

 

「ええ。痛い言葉ね」

 

 ココは封印ユニットへ目を戻した。

 

「これは、たしかに人を助けられる」

 

「はい」

 

「だから、私はまだ欲しい」

 

「はい」

 

「でも、持たない」

 

「はい」

 

「持たないことを、何度も言う必要がある」

 

「はい」

 

 ココはロックを見た。

 

「あなた、これから大変ね」

 

「今までも大変でした」

 

「もっとよ」

 

「覚悟します」

 

 バルメが言った。

 

「私もいます」

 

 ココは頷いた。

 

「ええ」

 

 新田は言った。

 

「ジブリールも言います」

 

 ココは少しだけ驚き、それから微笑む。

 

「強い見張りね」

 

「はい」

 

「レヴィも?」

 

 倉庫の向こうからレヴィが言う。

 

「聞こえてんぞ」

 

 ココは笑った。

 

「頼りにしてるわ」

 

「やめろ。気色悪い」

 

 ロックが小さく笑った。

 

 その空気は、ほんの一瞬だけ軽かった。

 だが、それでよかった。

 重い話ばかりでは、人は動けなくなる。

 軽さもまた、地図に描きにくい余白だった。

 

     *

 

 夜明け前、キャスパーの白い船が出航準備に入った。

 すべての荷は再確認され、一部はキャンプへ残され、一部は無力化され、一部は持ち帰られる。

 キャスパーは桟橋で新田と向き合った。

 

「新田良太」

 

「はい」

 

「今回は、君にかなり高くついた」

 

「請求されるんですか」

 

「まさか」

 

 キャスパーは笑った。

 

「こちらが払う側だ」

 

 レヴィが横から言う。

 

「お、金か?」

 

「君には払わない」

 

「ケチくせえな」

 

「ラグーン商会への支払いは別にあるよ。ダッチに話してある」

 

 ダッチが船の上から言う。

 

「聞いている」

 

 新田はキャスパーを見る。

 

「あなたは、また同じような荷を運びますか」

 

 キャスパーは少し黙った。

 

「運ぶかもしれない」

 

 レヴィが眉を上げる。

 

「おい」

 

 キャスパーは続ける。

 

「必要な荷ならね。ただし、今度は開ける。疑う。急ぎの善意ほど、疑う」

 

 新田は頷いた。

 

「それで足りますか」

 

「足りないだろうね」

 

「なら」

 

「続けるよ」

 

 キャスパーは少しだけ笑った。

 

「君たちの言葉は感染するね」

 

「声ですから」

 

「なるほど」

 

 キャスパーはジブリールを見た。

 

「ジブリール」

 

 ジブリールは新田の横から彼を見る。

 

「何?」

 

「僕の声も疑っていい」

 

 ジブリールは少し考えた。

 

「もう疑ってる」

 

 レヴィが吹き出した。

 

 キャスパーは一瞬黙り、それから笑った。

 

「それはいい」

 

 チェキータも少しだけ笑った。

 

「いい教育ね」

 

 新田は訂正しようとして、やめた。

 教育。

 その言葉に、まだ少し棘がある。

 だが、今のチェキータの声には教図係のような冷たさはなかった。

 言葉は、誰がどう使うかで変わる。

 だから疑う。

 だから、すぐに捨てない。

 

     *

 

 キャスパーの船が離れていく。

 ラグーン商会とHCLIも、それぞれの出発準備を始めている。

 第十章の終わりは、勝利の場面ではなかった。

 後始末の場面だった。

 名簿は分けられた。

 記録は封印された。

 装置は無力化された。

 だが、教図係は逃げた。

 Nursery は残った。

 C.L. の名は、まだ線の先にある。

 街そのものが苗床になる可能性も残っている。

 何も終わっていない。

 それでも、終わらせられたものもある。

 このキャンプで、子どもたちが一本の線になること。

 ココが一人で装置を持つこと。

 キャスパーが白い荷を白いまま流すこと。

 ロックが一人で見張ろうとすること。

 新田が自分の声だけで全員を動かそうとすること。

 それらは、少なくとも今夜、一度止まった。

 

 新田は桟橋で端末を開いた。

 地図が出る。

 キャンプ。

 中継基地。

 廃測量学校。

 川。

 船。

 そして、小さな点。

 その点を、彼はしばらく見た。

 地図は必要だ。

 だが、地図だけでは足りない。

 声は必要だ。

 だが、声だけでは足りない。

 隣を見る。

 名前を呼ぶ。

 疑ってから信じる。

 それは効率の悪い手順だった。

 だが、その効率の悪さだけが、庭師の美しい地図に残った傷だった。

 

 ジブリールが隣に来る。

 

「アラタ」

 

「何?」

 

「次は、街?」

 

 新田は少し黙った。

 

「たぶん」

 

「街は広いね」

 

「うん」

 

「子どもたちより、もっと多い」

 

「うん」

 

「声も、もっと多い」

 

「うん」

 

 ジブリールは川を見た。

 

「じゃあ、もっと隣を見ないと」

 

 新田は彼女を見る。

 それは簡単な答えだった。

 そして、たぶん一番難しい答えだった。

 

「そうだね」

 

 ジブリールは頷いた。

 

「まず、今いる隣から」

 

 新田は少しだけ笑った。

 

「うん」

 

 夜が薄くなり、空が白み始める。

 第十章は終わる。

 だが、声は終わらない。

 地図も終わらない。

 庭師は、まだどこかで声を植えている。

 指揮者は、どの声を使うか選んでいる。

 白い商人は、自分の物流線を切るために名簿を開いた。

 ココは、欲しいものの前で座ることを覚えた。

 ロックは、見張るだけでは足りないと知りながら、それでも見張ると決めた。

 ジブリールは、自分の声でも疑っていいと言った。

 新田良太は、声を出す前に地図を見た。

 そして、地図を見る前に、隣を見た。

 

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